2024.10.03

ノートの端にある日付の記入欄が空白のままであることが無性に好きである、というよくわからない話など

本を読んでいて、思わぬところで、子ども時代からずっと自分のなかに持っていた、なんともいえない恍惚感をともなう、密かな「こだわり」のことを図らずも思い出すこととなった。

それは何かというと、ノートのページの上部にあらかじめ薄く印刷されている、「日付を書く欄」のことなのである。

青白く、限りなく薄いインクで印刷されている「Date / / 」といった、あの部分である。

あの部分が、「何も書かれていないままの状態」であることを、私はとっても好んでいたのである。その状態そのものが、なぜか子どものころから無性に、大好きなのであった。今でも好きだ。

Date

このあいだ『限りある時間の使い方』(オリバー・バークマン著、高橋璃子訳、かんき出版、2022年)を読んでいたら、こんな一節があった。

哲学者のアンリ・ベルクソンが『時間と自由』という本のなかで書いたこととして紹介されていたのだが、我々は優柔不断な状態を好むということで、「われわれが思いのままにする未来が、ひとしくほほえましく、ひとしく実現可能な、さまざまの形のもとに、同時にわれわれに対して現れるからである」

その記述を読んだとき、なぜ子どもの頃から自分はあのノートの端っこにある「DATE / / 」の空疎な印刷がたまらなく好きだったのかについて、決定的な答えが図らずも説明されている気がして、ゾワゾワッとした。

そうなのだ。
私はこの「何も書かれていない日付欄」に、「ひとしくほほえましく、ひとしく実現可能な」さまざまな「未来の一日」を感じていたかったのである。きっと。

なので子どもの時から、このノートの端っこにある「Date」の部分をひたすらボーッと眺めるひとときを、何らかの意志をもって「好んでいた」わけだが、まぁ子どものときってそういう妙なところへの途方もない嗜好って、わりとあったりする。今になってようやく、この本によって「うっ、そういうことか・・・!」となっている。

でもそういう「将来へのありもしない、謎めいた“郷愁”」ともいえそうな、「あったかもしれない未来の人生への、無条件の途方もない憧憬」みたいなものを「優柔不断ぎみにひきずる感覚」は、結局のところオトナになった今でも未だにずっと、どこかで求めている。それがやっかいなところでもある。

(今回のこのネタ、果たして伝わるのかどうか、もはや分からないのだが、気にしないでおく)

ちなみにこの本、ほかにも

「僕たちが気晴らしに屈するのは、自分の有限性に直面するのを避けるためだ」

なんていうことをサラッと言ってて、ものすごくグサグサと刺さる。

それとか「宇宙的無意味療法」というのが本書に出てくるが、これは大昔から私が提唱している「天文学セラピー」(こちらの過去記事)と同じことを言っている。日々の不安や心配事は宇宙から見ればまったくどうでもいいことのように思えてくる、というやつだ。

そんなわけで最近折に触れてページをめくってこの本を再読して、気になったところはメモっている。

話は変わって宇宙といえば、『宇宙する頭脳:物理学者は世界をどう眺めているのか?』(須藤靖・著、朝日新書、2024年)も最近読んだ本ではなかなか楽しかった。著者の若々しい文体と、脚注がやたら面白いという、そういう意味でも印象深い本だったが、ガチガチ文系の私でもぐいぐいと宇宙論にひきこまれていく。
「この宇宙において地球が誕生したという事実は、その後地球で生物が誕生しようとしまいと変わることのない断固たる事実である。仮に生物、そして人類が誕生しなくとも、この地球は実在しているのだ(ただし、それを確認してくれる知性はいない)」

「我々人類が存在するおかげで、この宇宙(さらにはマルチバース?)の実存が確認されている事実は確かだ。その意味において、我々はこの宇宙の実存証明に関して信じがたいほど重要な貢献をしている」

なんていう話は、長年「かゆいなー、でも、かけないなー」と思っていた脳味噌の隅っこを気持ちよくガリガリとかいてくれるような爽快感すらあった。こういう話をもっと子どもの時に授業で聴きたかったし考えたかった。

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それと、もうすっかり10月になってしまったが、8月にひさしぶりに「Harukana Show」のラジオで2回連続で話をさせてもらい・・・
「No. 698, Aug. 9, 2024, 冷茶。Pink Floyd『狂気』発売50周年記念イベントと四角錐 with Tateishi」こちら
「No. 699, Aug.16, 2024, KYOTOGRAPHIE 2024でボランティア、アートでつなぐ with Tateishi」こちら

ということで、本当に久しぶりにグラフィティの話をしたり、相変わらずなピンク・フロイドへの偏愛を語り、そして今年のマイブームとなった京都国際写真展ボランティアのことを語らせていただいた。
あと以前から注目しているWisely Brothersの曲を選ばせていただいた。イリノイ州のアーバナの街角で、コミュニティラジオで彼女らの音楽が流れたのだと思うと、ほっこりする。

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2024.08.17

ラヴェル「ボレロ」とドリフ大爆笑

あまり普段からクラシック音楽を聴くわけではないが、「ボレロ」は昔から一番好きな曲かもしれない。

この夏に映画『ボレロ:永遠の旋律』公式サイトはこちら)が公開されることを知り、それとなくモーリス・ラヴェルとその代表曲「ボレロ」について改めて調べてみると、この曲は1928年に発表されていて、ラヴェル自身は第一次世界大戦時に従軍経験があり、いわゆる戦間期を生きた人ということで、「この曲って、そんな最近に作られてたんですか!?」となり、そういうことを今までまったく知らずに「ボレロはいいな」となっていたことを強く反省し、ラヴェルさん申し訳ありませんでしたという気持ちでさっそくこの映画を観に行ったわけである。

Bolero

私にとって「ボレロ」の最大の魅力を挙げるとすると、これは「人間の一生」を感じさせる楽曲だからである。なぜそれを確信させるかというと、この曲の特徴である「規則的なリズム、パターン化されたフレーズの繰り返し」というのが「人工的」だからである。人工的というのが、ひるがえって「人の手によるもの」を強く意識させるというのが興味深いところであり、この曲は「大自然の雄大さを表現してみました」とかいうのではなく、徹底的に「人間そのもの」を追求した音楽なのだとずっと感じていた。

で、この映画の冒頭ではラヴェルがダンサーのイダ・ルビンシュタインを伴って工場を訪れるところから始まり、絶え間ない機械の作動音のなかから生じる「音楽」を感じてほしいとラヴェルがイダに力説しようとする。映画のパンフレットのなかでも、ラヴェル本人がこの「ボレロ」を工場の機械からインスピレーションを得て作ったと発言していたことが書いてあり、あぁやはりこの曲は自分がそれとなく感じ取っていたとおり「人工的なコンセプト」で生まれたのだと改めて認識できたのは個人的な収穫だった。

そんな「ボレロ」という曲は、さまざまな楽器がそれぞれ同じフレーズを順番に演奏していき、それらがだんだんと厚みを増して最後にひとつの荘厳なサウンドへ昇華していくさまが、まるで人生のその時々の出会いや出来事が積み重なっていくかのように感じられる。つまり生涯の終焉に向かっていくなかで「人生で起こったことはすべて意味があったのだ」というような想いに至る、ある意味での「調和」として結実していくような、そういうイメージを強く喚起させるところが魅惑的である。

でも今回の映画を観るまでまったく知らなかったのだが、この曲はイダが踊るためのダンス曲として依頼を受けて作曲に取りかかったもので、つまりは締め切りに追われてなんとかギリギリのところで生み出された仕事なのだった。

「人生の調和」とか言っている場合ではないほどに、プレッシャーのなかで極限まで追いつめられてインスピレーションを得るべく苦闘した末に生み出された曲「ボレロ」は、結果として誰しもが認める傑作となり、歴史に残る名曲へとなっていくのだが、しかし実はその影でラヴェル本人はこの曲を憎むようになってしまう・・・という知られざる秘話がこの映画の見どころの一つになるわけであるが、「創作した本人でも計り得ない強大なパワーを持つに至った芸術作品」というのは、得てして作り手である本人をも飲み込んでしまう、そういう底知れぬ危険なまでの魅力があるわけだ。

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ところで、この「ボレロ」という曲について個人的にずっと不満に思ってきた点が一つだけあって、それは曲の終わりかたについてである。

静かな雰囲気から始まり、打楽器のリズムだけは通底音として規則正しく続いていき、だんだんとクライマックスに向けて盛り上がっていく展開の曲にあって、どうも終わりかたが性急な感じがして、せっかくここまで積み重ねてきた聴き手の高揚感のやり場が、なんだか急にあっけなくストンと奪われるような、そういう感覚が拭えないのだ。

で、これを書くと熱心なファンから物を投げつけられそうだが、私はそんな「ボレロ」の「急な終わりかた」に、どうしても昔の「ドリフ大爆笑」のコントをなんとなく連想してしまうのだ。コントのオチがついて、いかりや長介がカメラ目線で「ダメだこりゃ」とつぶやいて「♪チャララ~ン、テンテケテン!」といった感じで終わっていく、あのシメのBGMっぽさを想起してしまうのである。
すまん、ラヴェル。

そういうフトドキ者がこの映画を観ているもんだから、劇中でラヴェルがこの「ボレロ」の曲の構成について説明をするシーンでは、つい手にチカラを込めて見入ったわけである。そこでは「最後に激しく爆発して、人生のように終わる」というようなセリフが述べられていた。映画なので実際にラヴェルがそう言ったかどうかはもちろん定かではないものの、このセリフを私は「なるほど、人生か・・・」と襟を正す気分で受け止めた(あ、ウソ、Tシャツ姿で観てました)。

映画を通して考えてみると、この「人生のように終わる」というのは、ラヴェル自身のライフヒストリーを思うと共感できるような気がした。やはり彼にとって戦争体験の影響を免れることはなかっただろうし、ラヴェルは体格的に恵まれていなかったことから、本人としては不本意ながら救護班や物資の運搬役として兵役についていて、それゆえにたくさんの兵士たちの生死の境に立ち会いながら極限状況を渡り歩く役目を担っていたことがうかがえよう。そしてさらには最愛の母を戦争期のまっただ中に失い、そこからしばらくは音楽活動もできなかったほどに衝撃を受けたわけで、突然に大事なものが失われていくという彼の死生観やトラウマみたいなものが少なからず戦後の作曲活動のなかに反映されていったとしても不思議ではない。

その一方で野暮な見方をしてしまうと、「ボレロ」の作曲というものが締め切りのある仕事だったということで、依頼を受けたダンスの時間枠という「商業的な制約」も強く意識されていたために、理論上は延々と続けることができる感動的な旋律であっても「ハイ、時間がきました! ここでダンスは終わり! 仕事完了!」というノリで曲を締めくくった、という可能性もある。本当はこっちのほうが実情に近いのでは・・・と思えてきて、私はそんなラヴェルさんの肩をたたいて労いの言葉をかけてあげたい気分にもなったわけである。

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2024.08.08

キノコ雲に誇りを持っている街で生きること:映画『リッチランド』

 以前、長崎を訪れて原爆資料館を見終わったあとに「展示物の数が少なくて、こじんまりしていた」という印象が残った。しかし後々になって、それはつまり「残せるものが存在しないぐらいの破壊力であったのでは」と気づき、思わぬ距離感からの恐ろしさが追随してくるような気持ちになった。

明日8月9日は長崎に原爆が落とされた日であるが、来年はついに戦後80年ということで、私たちも遠くに来てしまった感がある。

そんななか、いまドキュメンタリー映画『リッチランド』が上映されている。

Richland

アメリカのワシントン州の南部にあるリッチランドという街は、郊外のどこにでもありそうなおだやかな町なのだが、ここは戦時中にマンハッタン計画を極秘に進めるべく、さまざまな地理的条件から見出され、核燃料の生産拠点として戦略的にテコ入れが図られた街なのであった。

長崎に落とされた原子爆弾「ファットマン」のプルトニウムはこの街で作られたとのこと。

「日本に原爆を落としたことで戦争を早期に終わらせた」というアメリカ人の主張はよくあるわけだが、そこからやがて冷戦期に突入すると、結局は当初の思惑以上に、この核燃料産出エリアの重要性は高まっていき、戦後もどんどんと街は発展していく。

ちなみに「リッチランド」という地名は、この土地に町を作ることを決めた際に、当時の州議会議員の名前にちなんでつけられたとのことだが、どうしたって原子力産業の名の下において金銭的な豊かさを享受する「リッチ」に由来したんじゃないかと曲解したくなるような、なんともいえない「皮肉」を感じてしまう。

本作の映画監督、アイリーン・ルスティックのまなざしは、それでもかなりフラットな視点を維持しようと努めている。原爆をつくり、そしてコミュニティへの環境汚染が懸念されつつも、それでも「街の発展、家族の豊かな生活」もまた、リアルに重要なことであり、一方の意見に簡単に寄りかからない粘り強さをもってカメラを回し続けたのだろうとうかがえた。

そうしてこの映画では、この街の平和そうな暮らしの様相を捉えながらいくつかの論点や課題をじわじわと提示していくのだが、私が一番感じ入ったのは地元のリッチランド高校のことである。この高校の校章は見事にキノコ雲そのもののイラストであり、アメフト部の愛称は「ボマーズ」という、私の感覚から言えば直球すぎてどこまでも痛々しいわけであるが、それだけ街の人々はキノコ雲に誇りを感じており、街の基幹産業へのリスペクトを再生産させてきたわけである。

映画の途中で、そんなリッチランド高校に通う生徒達の一部がカメラの前で思い思いに語り合うシーンがあった。もちろん、このドキュメンタリー映画に出ることを承諾したような生徒たちであることを差し引いて彼らの言葉を聞くべきなのだが、そんな彼らは素直にこの校章の超絶なダサさをどうにかしたいと思っており、そして自分たちのその思いをつきつめていくと、それがアメリカという国や、それを取り巻くさまざまな国際政治の根幹の部分にまで及ぶことを鮮やかなまでに思い至らせてくれる。

そうして、きっとこの彼らたちがなんとか自分の考えを大事にしようと苦心しつつも、教室に戻るとその信念はマジョリティに圧倒されてしまうのであろうこともどこかで感じさせたりもする。それゆえに、私はこの彼らの実直なディスカッションのシーンが強く心に響いて、残った。こういう若者たちが終わりのない議論の境界線上で踏みとどまってくれている限り、希望は全然捨てなくていいのである、とあらためて力強く思えたのであった。

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2024.07.29

N先生のこと

Hydrangea


 自分にとって「恩師」と呼ぶには表現が追いつかない、N先生が逝去された。

 何からどう書けばいいのかわからないところからはじまり、この文章はこの一ヶ月半、少しずつ書きながら、行きつ戻りつして書き進めている。でもずっと、私のこのブログをN先生は読んでくださっていたので、前に進むためにも、ここに文章を残していく。
 
 「恩師」と呼びにくいのは、私にはそう表現できる資格がないと思っているからである。「恩師」というと、勉強や学問を学び修めるために師事したという感覚があるのだが、私にとっては、そうしたあり方とは異なる関わり合いをさせてもらい、知的刺激に満ちた時間とともに、人生における「大きな学び」を、さまざまな機会を通して(そして、数え切れないほどのお茶とお菓子とともに)たくさん享受させていただいた。そして結局はそのお返しをちゃんとできないままだったという感覚がいま、すごく残っている。

 私にとってN先生は、「好奇心を大事にして、ものを考えて、文章を書く」ということについて、ただただ、大いなる存在であった。それは先生自身が、研究者としてたくさんの文章を書いていく立場でありつつも、「研究のための言葉」をできる限り避け、「読んでもらうための文章」を書き続けようとしていた姿を通して思い起こされる。私がずっとブログやその他の書き物を続けてきた、その視界のむこうにはいつもN先生からのリアクションがあるかもしれないという予感があり、そしてしばしば、実際にN先生からの感想がいただけたことは自分にとっての宝物となっている。

 そしてN先生の言葉を借りるなら「学際領域の“きわ”」を渡り歩いて多彩な学問領域から紡ぎ出された数々の著作は、どのような論題であっても、そのまなざしの底ではつねに「殺すな、生きよ」の信念に貫かれた「怒り」に類するような思索のもとでこの世界を、政治や歴史を、生活を捉えていた。しかし、そうして激しい熱情を抱えつつ冷徹に「届く言葉」を紡いで仕事を続けていったと同時に、N先生が異才の人だったのは、その朗らかで謙虚な人柄で、周囲の私たちにいつも温かく接してくださり、好奇心旺盛でチャーミングな方だったと誰からも記憶される、その「振り幅の大きさ」にあったと思う。

 目の前の人々や生活をまず大切にし、励まし、美を愉しみ、笑いを分かち合う。それと同時に、油断すると生活のなかで見えにくくさせられる「政治的なるもの」への徹底した批判精神を失わず、疑いや問いかけをやめず、探索と対話を粘り強く続け、「闘う人」としての矜持をたずさえること。そしてそのために「思索と言葉」を磨き上げて他者に届けること。そうした営みの両立は、私からすれば「パンク精神の体現」以外の何ものでもなかった(実際に本人にも一度だけそのことを伝えた気もするが、記憶に自信がない)。

 先生との出会いを振り返ると、それは大学一年生の頃で、共通教養科目としての「文学論」を受講したことにはじまる。N先生はそのころすでに、「近現代文学に描かれた住まい」というテーマで新聞連載を続けていて、その仕事をやがて書籍にまとめつつあった時期にあたる。当時、臨床心理学科というところにいて心理学を学び始めていた私は、自分のいた学科とは異なる文化人類学科に所属していたN先生が、どうしていろんな小説の「住まい」に注目した授業をしているのか、その真意がよくわかっておらず、その面白さに気づくのは本当にだいぶ後になってからだった。

 講義が進んでいき、この科目ではやがて、受講生それぞれがキャラクターを創作し、「集団創作によるひとつの物語」としてさまざまな居住空間をテーマにしたオムニバス小説を作るという展開になっていった。期末レポート課題では、その合作小説を読んだ感想を書くということになり、そのためには受講生が個々に書いた作品を学期末までにひとつにまとめる作業が必要になる。

 そこで講義も残りわずかとなったあたりで、N先生は受講生に向かって、誰かこの編集作業をやってみませんかと募った。

 手を挙げたのは、私だけだった。

 こうして数日後、私はN先生の研究室を訪れることになった。私の手には、ワープロ専用機の入った大きなキャリングケースがあった。このワープロ(カシオG-98)こそ、私が高校3年生のときに遊びで始めたフリーペーパーを作るために使い込んでいたもので、「編集作業をやってみないか」というN先生の呼びかけに私が反応したのは、この頃の自分にとっては新しい趣味の延長線上に「編集」があったからである。

 こうして私は使い慣れたワープロをN先生の研究室に持ち込んで、受講生の作品を冊子にまとめた。オムニバス小説ということもあり、各学生の作った話をつなぐ役割として私は「英国BBCのジャーナリスト」という(趣味まるだしの)設定のキャラを考案し、その記者の目を通してさまざまな日本の住まいを探訪するという構成の物語を無事に作り終えた。

 そして、この作業がきっかけとなり、N先生からはそのあともいろんな用事の手伝いを頼まれるようになっていった。やがて私は学部を卒業し、そのまま大学院に進んだりやめたり、別の大学院に行ったりするのだが、その間もずっと定期的にN先生の研究室で仕事を手伝わせてもらっていた。やがて母校でスタッフとして働くようになり、業務としても先生の仕事を支える立場にもなり、また先生が定年退職したあとも、ときおりご自宅にうかがい、パソコンのメンテナンスをさせてもらったりした。

 学部生の頃は、何度もN先生の研究室を訪れておきながらも、自分とは違う専攻の先生であるということで、そこに並んでいた本棚の本たちには特別な注意を払うこともなかった。しかしだんだんと、自分もそれなりに歳を重ねて学びを深めつつ、N先生とのたくさんのおしゃべりを経ていくなかで、N先生が何に問題意識を持ち、そして何と闘っているかというようなことが自分なりに少しずつ掴めるようになると、その「本棚の意味」が自分にさまざまなことを投げかけてくるように意識されていった。世界は自分が思っている以上に広く、そして考え続けるべきテーマはたくさんあることを、これ以上なく恵まれた環境のなかで学ばせてもらったといえる。私はやがて心理学から逸れて社会学を専攻するようになっていった。

 そんな私にたいしてN先生からは「あなたは『書く人』なんだから、書き続けなさい」と励まされたことがあり、そして私が友人以外ではじめて自作のフリーペーパーを渡したのもN先生であり、そこからN先生の研究室の前に配布用のフリーペーパーを設置させてもらい、知らない人にも読んでもらえるものを作るきっかけを与えてくれたりした。こうしてN先生はずっと、私の書いた文章を読んでくださっていた。そのことがずっと自分にとっての絶対的な心の支えになっている。

 かつて先生は、困難な状況下におかれた時期に、ある人からのアドバイスで「手作りで、片手間に、優雅に」というスローガンで仲間たちと協働していったことについて語ってくれたことがあった。どんなに大変なときでも「自分の手で」「優雅」に至るその意志の持ちようが、N先生の独特の生き様と思想を育んできたのだろうかとも想像していた。そうしてその言葉は自分自身にとっても事あるごとに想起される「智慧」となり、できるかぎり自分も優雅でありたいと願いつつも、しかし今はただ、余裕のない日々のなかで見渡す限りの地平を眺めているような気持ちで、静かに言葉を並べている。自分は結局「何も」書けていないままであり、全力を尽くして書いたといえるような文章を、ついぞN先生には読んでもらうことが叶わなくなってしまい、その事実とともに、人生をいかに生きるかという宿題だけが、残された。

 ただ確かに言えることは、19歳のときの私がフリーペーパーづくりを趣味にしていたことで、あのときのN先生の呼びかけに応じることができたことは、本当に人生で大きな、幸運に満ちたターニングポイントだったのだ。この一ヶ月半にわたり、折に触れてこれらの文章を書いたり消したりしつづけてきた自分は、N先生が旅立っていった寂しさとともに、かつての自分が得ていた幸運の大きさをあらためて認識することとなった。この幸運を得た者の「宿題」として、そしてたくさんの時間を共に過ごしてくださったN先生への感謝を示し続けることとして、書き続けること、があるのかもしれない。手作りで、片手間に、優雅に。

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2024.06.07

新作ZINEをつくった(ある意味で)

ひきつづき、KYOTOGRAPHIEの話である。
(うん、『ロス』は続いている)

京都芸術センター会場ではジェームス・モリソンによる「子どもたちの眠る場所」という展示が行われていた。

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世界中のさまざまな境遇にある子どもたちを訪ね、写真家はすべての子どもたちの姿をできるだけ同じ条件でポートレート写真に収める(つまり、そこには「すべての子どもは平等である」という意味合いが込められているとのこと)。そして彼らの「寝室」を、これもできるだけ同じ角度から撮影し、そうしたプロジェクトから今回の展示においてセレクトされた世界の子どもたちの写真が並べて置かれている。

訪れた鑑賞者は、大量消費社会のなかで豊かに暮らす子どもの寝室の写真を目にしたかと思えば、その裏側に歩を進めると、過酷で悲惨な状況下で粗末な寝台をとらえた写真や、そこで毎日眠る彼らがどういう暮らしをして、どんな夢を持っているかといった説明文を読み、さまざまな社会背景や家族関係のありかたに直面し、その子どもたちの身の上を案じることになる。

写真家自身はただ淡々と、子どもたちの姿と寝室の写真を並べ、彼らの生活の様子を完結に書き添えて提示しているだけである。ただし、次々と並ぶ作品を観て歩く我々はそれらを淡々と受け止めるわけにはいかず、さまざまな感情が静かに沸き起こってくる、そういう展示だった(あえて導線を定めず、作品の間を自由に行ったり来たりできる設定にしているのも効果的だった)。

そして会場である京都芸術センターも、かつては小学校として使われており、そういう意味でも子どもに関する展示をここで行うことには意味があったと感じる。

その意義に呼応するように、この「子どもたちの眠る場所」とは別に、同じ敷地にある別の建物で「KG+」と銘打ったKYOTOGRAPHIEのサテライト・イベントの一環として、子ども写真コンクール展「しあわせのみなもと」の展示も行われていた。そこでは日本の子どもたちが応募した写真のなかから選ばれた作品を、和室の大広間で鑑賞することができた。

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私はボランティア・スタッフとしてこの京都芸術センター会場では一日だけ入らせてもらったのだが、その日に割り当てられたシフトのうち、最初のコマと最後のコマの計2回、この「しあわせのみなもと」の子ども写真展フロアを担当した。1コマが50分くらいで、スタッフの数の関係上、このエリアは1人きりで担当することになっていた。

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で、この子ども写真展の部屋の脇には、さまざまな紙や文房具類が置かれたスペースが用意されており、ちょっとした工作を楽しめるようになっていた。
スタッフはこの工作スペースのところに座りつつ、来場者が来たら畳の部屋の前で靴をぬいでもらうよう案内したり、人数をカウントしたりするのが主な仕事だった。
その傍らで、この工作スペースにもお客さんがやってきた場合はその応対もすることになっていて、ここでは「A4紙でミニブックをつくってみよう」という解説書が置いてあり、主にそういう趣旨で工作を楽しんでもらうようになっていた。

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そんなわけで、朝一番のシフトでこの場所を担当することになった私としては、この「ミニブックをつくってみよう」の解説書をみて、「お客さんが来た時に、このミニブックの作り方を教えられるようになっておかねば」と思い、さっそくA4用紙の束から1枚の紙を手に取ったのだが、このときすでに心の片隅で「自分も何か描くしかないよな、こうなると」という気持ちでいた。

もう、そりゃあね、
描かずにはいられませんよね、何か。
紙を折ってミニブックの形を作って、
空白のまま放置するなんて、
できませんよね。

ましてや朝一番の開場直後だったので、お客さんはそんなにやって来ない時間帯だった。
使える時間は50分ぐらいで、そのなかで紙を折り、ペンを取り、書き上げたのが以下である。









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「即興ZINE」を久しぶりに作ったわけで、ある意味で「新作」となった。
限定1部だけど。

ちなみに、すでにこの工作コーナーには、同様のミニブックの「サンプル」がいくつか置いてあった。いろんな色紙を切って貼り付けたり、何かの写真を切り取ってコラージュのように貼っていたりする作品などが置いてあり、私の「ZINE」もそのなかに混ぜて置いておいた。


こうして時間が過ぎていき、夕方の閉館前、最後のコマで再び私はこのフロアの担当となった。

どうせなら作りますよね、もうひとつ。
ええ、せっかくですし。

で、この時間帯になるとお客さんもわりと多く、隙を見て少しずつZINEを作るという状況だった。
そしてこの工作コーナーにも親子連れが留まり、2組ほど時間をかけて娘さんがミニブックを作り、それをお母さんが見守っていたり、一緒になって作ったりしてくれていた。

こういうとき、子どもにとってはスタッフのオッサンにずっと作業を見守られるのもウザいかと思うので、私も自分の作品づくりに勤しみつつ、ときおり他の来場者に対応しながら、工作を続ける子どもたちやお母さんにたまに声をかけたりした。お互いが黙々と各自の作業をして、ちょこちょこと会話するぐらいの、そういうスタンスがちょうどいいんじゃないかと思った。

こうして閉館時間がまもなくやってくるという緊張感もあったなか、私が描いたZINEがこれである。








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そしてこの作品ができあがる頃には、工作コーナーに残りつづけていた娘さんとお母さんとも、お互いの作品を見せ合うこととなる。さぞかし変なオッサンだと思われたことだろう。でも最後にお母さんは、娘さんと私が作品を手にして並ぶ写真を撮って帰った(笑)。

そういう思い出と共にこの日のボランティアが終了した。

最後にスタッフ全員で終礼のミーティングを行ったが、私が作った2つの作品のことは黙っていた。
でも数日後、あの会場の担当だったサブリーダーさんと別のところで再会したとき、私があのZINEの作者であることを認識してくれていて、そしてあの作品が「スタッフみんなのお気に入り」になっているということを教えてもらい、久しぶりに味わう種類の達成感があった。

あともう一つ印象的だったのが、写真祭が開幕した直後に誉田屋源平衛の会場――中国の2人組・Birdheadの展示が行われ、ここもなかなかの会場だった――でスタッフに入ったときに一緒だった高校生の男の子がいて、そのときはお互い半日だけの業務だったのもあり会話もあまりできないまま解散したのだが、会期の最終日に再び誉田屋でのシフトに入ったときにたまたまその高校生くんとも再会し、ボランティア同士の会話の鉄板ネタとして「このほかに、どこの会場のスタッフに入ったか」という話になったわけだが、彼は京都芸術センターの担当になったときに私の作ったZINEを目にし、すぐにその作者が「このまえ誉田屋で一緒にボランティアをしたあの人だ」ということを認識したとのこと。ほとんど会話していなかったこのオッサンのことを、あのZINEを手にしただけで思い至ってくれたということに、なんだかグッとくるものがあった。

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2024.05.20

KYOTOGRAPHIEのボランティアが終わってロスになっている、っていう話

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 まさか、こんなにも「ロス」な気分になるとは一ヶ月前には想像もしていなかった。そして私の暮らす街について、ちょっと違った気分で眺めていた日々でもあった。

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 4月中旬から開催されていた京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」(以下KG)が先日閉幕し、私は主にゴールデンウィークを中心とした祝日・休日にボランティアスタッフとして携わったわけだが、この一ヶ月間は「イベントの合間に本業の仕事をこなす」という感覚だった。すまん本業。何せ京都市街のあちこちにある13会場(加えてそれらのメイン会場の他に、『KG+』という関連展示が数え切れないほど存在する)が舞台となっているわけで、すべての会場で事故なく滞りなく日々の会期が無事に過ぎていくことをボランティアの端くれである自分も祈るような気持ちでいたのである。



 つまり、楽しかったのだ。とっても。



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 結果的に私は13会場のうち6会場で、のべ8日間活動を行った。
 スタッフとして求められた役割はいたってシンプルで、入場の際のチケットチェックや、展示会場の監視、巡回、案内誘導である。それ以外のややこしい作業は、その会場ごとに配置されているリーダー役の有給スタッフが行っていた。

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 このリーダーさんたちの存在も興味深く、それぞれがいろいろなバックボーンを持ってこの役割に挑戦し、そしてキャリアの分岐点を迎えているのであろう若い人が多かった。とはいえ実際には、その日のスタートからあわただしくなるリーダーからゆっくり話を聞いたりする機会はそんなにはないので、ふとしたタイミングで交わす会話のなかで、その一端を伺い知る程度にはならざるを得ないのだが、自分が担当することになった会場に愛着を寄せつつ、よりよい展示空間を作っていこうとする真摯さには熱いものを感じた(なのでいつもの本業にも伝播していくような前向きなエネルギーをいただいた気がする。。。すぐに消えそうだけど)。

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 そうして私は今回はじめてボランティアスタッフとしてお客さんを迎え入れる側になったわけだが、この役割が長時間にわたってもまったく苦にはならず、いつもあっという間に時間が過ぎていく感覚があった。そしてこのことについてよく考えてみると、「一定の目的をもって集まった大勢の老若男女が、自分の目の前を次々と通り過ぎるのを見守る」というこの状況は、「市民マラソンでの沿道応援」の趣味と構造がまったく同じであることに気づき、そこは苦笑いするしかなかった。冬はマラソン大会でサッカーユニフォーム姿のランナーを探し続け、そこに加えて5月の連休は写真展の会場で無言のうちにいろいろな人々が通り過ぎゆくのを見守るというのが新たなルーティンになりそうな。

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 前回のこのブログ記事で書いたとおり、個人的にこのイベント最大の推し会場は「京都新聞社ビルの地下、印刷工場跡地」である。そして私はここで2回、スタッフとしてシフトを割り当てていただいた(最初は1回だけの予定だったが、無理やり都合をつけてもう1日追加で入らせてもらった)。そもそもKGのボランティアに申し込んだ動機が「この会場でスタッフ側として携われたら楽しいだろうな」という思いがあったからなのだが、その狙い通り、いや想像以上に、この会場はやはり特別な場所だった。

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 今年の京都新聞社会場の展示はヴィヴィアン・サッセンの回顧展ということで、現代の写真業界もファッション業界にも疎い私は彼女のことをそれまでまったく知らなかったのだが、色彩の強弱が印象的な写真作品が、この印刷工場の無機質でダークな空間のなかで放つ存在感のコントラストが見事だった(そしてアンビエント・テクノっぽいBGMが鳴り続け、それもまた雰囲気づくりとして最高に合っていた)。

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 およそ写真展の入り口とは思えない通用口(でもマンチェスターの伝説的クラブ、ハシエンダって結局こういうことだよな? と思った)を出入りし、足下にはかつて大量の新聞紙が運ばれたのであろうレールなどがそのまま残っており(穴が深すぎてスマホを落としたら二度と取れなさそう)、背の高い人がアタマをぶつけまくりそうなところに配管パイプが張り巡らされ、導線もはっきりしない会場の作り方ゆえに出口を求めてさまよい続けるお客さんなどの動きを常に注視して見守る必要があったのでスリリングなのである。

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 さらに最も気をつけていたのが、プロジェクションで作品が照らされた展示場所のさらに奥にも空間が続いていて、幻惑をもよおすシチュエーションゆえにか、プロジェクターが置いてある舞台を乗り越えてまでその暗黒の世界の果てへ進んでいこうとする客がたまにいるので、そんな彼らを現実世界へ呼び戻さないといけないことだった(私が体験した限りでは、不思議とそういう動きを見せるのはほとんどが女性客だった。そして私は決まりの悪そうなお客さんにむかって毎回『お気持ちは、よく分かります』と言い添えた)。

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 そして本会場ではサッセンがキュレーションに協力した、Diorが主催した若手作家支援の関連展示も併設されていた。工場跡地からその地点へ誘導し、見終わって戻ってきた客を出口へ案内するという業務もあった。で、このポジションではDiorの洗練されたクールな写真展示とともに「ふつうに京都新聞社で働いている社員さん」が導線のすぐ脇をウロウロしたり、新聞社の清掃担当のスタッフがふつうに我々の傍らで作業をするというリアリティかつ混沌とした状況もしばしば発生し、刺激的で飽きがこなかった。

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 また、閉館したあとにリーダーさんの計らいで、お客さんには通らせないバックヤードをスタッフみんなで歩かせてもらったことがあった。誰もいなくて真っ暗で、サッセンの展示だけが煌々と光り続けている空間をゆっくり味わっているとき、ふと、このメンバーでこの時間をともにすることはもう二度とないんだろうな、ということを思うと胸に迫るものがあった。

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 うん、他にも書きたいことがいろいろとある気がするのだが、ひとまずは会期のあと個人的・仕事的にもバタバタが続いているので、「終わった! ロスだ!! なんなんだこの感情は!!」という気持ちとともに、まずはこの書きっぱなしの文章のままでアップさせてもらう。自分と写真との向き合いかたもなんとなく変化していった感じもあって、アートを楽しむというシンプルな行為をたくさんのお客さんやスタッフさんたちと共有できたことのテンションの高ぶりに、いまはボーッとのぼせあがっている状況なのかもしれない。

 ということで、落ち着いたらまたこのことを書くかもしれない。

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2024.04.21

気がつけばこのブログを書きつづけて20年が経っていた

このブログをパソコンでご覧の方々は、記事の右側のメニューをずっと下にスクロールすると「ココログ」のアイコンがあり、その下に「2004/02/10」という数字を確認することができるはずだ。

それはこのブログを開設した日付であり、つまりこの「H O W E * G T R ブログ」は2月で20周年をひっそりと迎えていたのである。

そして作者はつい先日そのことにようやく気づいて、思わず一人で声を出して笑ってしまった。
「笑う」といってもそれは「苦笑い」に近いものがあり、そして「20年も経ってしまった」という事実に直面すると、自分のこれまでの歩みを短絡的に振り返ってしまうことで生じるなんともいえない情けなさとか後悔みたいな気持ちが圧倒的に上回り、「めでたいなー」っていう気分はあんまり、起こらない。

本来は、自分が作ったフリーペーパー「HOWE」の副読本みたいな形で始まった「HOWE*GTR」という別のペーパーがあり、それは完全に趣味オンリーの話を書き散らすためのものとして位置づけていたのであるが、2004年当時にブログサービスが開始されるにあたり、自分もその流れに乗っかって、フリーペーパー「HOWE*GTR」の延長線上のような気持ちで作ってみた・・・というきっかけでこのブログが始まっていった。

それがやがて30代になり40代になり、忙しさにかまけてフリーペーパーやZINEといった印刷物での表現をサボっていくようになり、ブログというのは気が向いたときに言いたいことや書きたいことを安価に手軽に表現する場として重宝し、そうしてこの2月で20年が経っていった。

最近ではブログをやるというと、すぐに「マネタイズがどうの」っていう話になってくるのだが、こちらはそういう時代の流れに乗っかっているわけではなく、せいぜいAmazonのアフィリエイトを置いたりしている程度だが、最近では自分自身がAmazonという会社そのものに嫌悪感を抱いているので積極的にアフィリエイトを設定する気にもならず、なおさら「何のためのブログなのか」と問われると、答えにくい(昔、Tシャツのシルクスクリーン印刷を解説した本ブログの記事がやたらGoogleの検索上位にあがっていた時期は、毎月数千円の収益が続いていたことがありました)。

でもフリーペーパーやZINE作りにせよ、このブログにせよ、「終了しました」と宣言しなければ、今でも「続いている」という状態になるわけで、結果的にそれはそれでよかったかもしれない。解散宣言をしないまま長期活動停止状態のロックバンドと同じである。そういう気持ちでずっとブログを書いてきている。

なので、自分のパソコンのブラウザに残っている「ブックマーク」のリストをたどり、かつて自分が気に入ってアドレスを保存していたさまざまな個人ブログのお気に入りを訪れても、そのほとんどが閉鎖しているか、別のブログサービスに移っているか、移ったとしてもその先では更新が昔に止まったままだったりして、寂しさを感じさせる。や、そのままブログを放置しておいていいんじゃないか、閉じなくてもいいんじゃないか、気が向いたときに少しでも書いたらいいんじゃないか・・・「あ、いまだと別のSNSのほうが便利なのか、そうかそうか・・・」とかいうことを悶々と考えてしまう。

それはまるで、大きなロックフェスの会場で、ブログの登場とともに一人でずっと最前列で盛り上がっていたつもりが、ふと我に返って後ろを振り返るとお客さんがほとんどいない状態になっていたかのような、そういう心象風景を思わせる。

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そんなわけで、何に向かって書き続けているのかもよく分からず、こんな気まぐれなブログをずっと読んでくれている方々(の存在を信じている)にはひたすら感謝。ありがとうございます。

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2024.04.06

京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」がはじまるよ(ボランティアで参加します)

今年も京都市街のさまざまな場所を舞台に、4月13日~5月12日の会期で京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」が行われます。
で、今回は初めてボランティアのサポートスタッフとして、(少しだけですが)参加させてもらうことになりました。

公式サイトは(こちら)へ。

以前、観客として京都新聞社ビルの地下会場での展示を訪れたとき、「京都の地下にこんな空間があるのか!」と、写真を観賞するだけでなくそれをとりまく不思議な空間の強いインパクトにも感じ入るものがあって、また行ってみたいなー・・・あ、スタッフで体験したらもっと面白いんじゃないかと思ってボランティアに申し込んでみたら、数日あるシフトのうちこの京都新聞ビル地下会場にも1日だけ割り当てをいただけて、それがかなり楽しみ。

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他にもなかなか味のある会場で展開されていますので、京都にお越しの際はぜひ。

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2024.03.26

ホームベーカリーを手に入れて、食パンを作りまくっている

ひさしぶりにラジオ「Harukana Show」でお話をさせていただきました。
このブログで報告するよりも先に、今回のラジオでは私にとって最近の大きなトピックスである「ホームベーカリーを手に入れて食パンを作りまくっている話」をさせてもらいました。
どうしてそういうことになったのか、詳細はぜひラジオを聞いてやってください。ポッドキャストの記事は(こちら)。
(次週は、ZINEについても語っています)

ポッドキャストの記事のために描いたイラストをここでもアップさせていただきます。

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ちなみにホームベーカリーについていた説明書には、推奨される材料として、イーストについては「サフ」というフランスのメーカーのドライイーストが定番品のように紹介されていたもんだから、そういうのを売っているのは近所だと成城石井ぐらいだろうと思って行ったら確かに売ってあって、それを迷わず買ってきたわけですよ。それが(これ)なんですが、初心者だから何も分からなくて、500グラム入りのを買ったわけですが、家に帰って説明書をよく読むと毎回2.5グラムぐらいしか使わないらしく、おかげでどんなにパンを作りまくってもイーストはなかなか減らないんですな(笑)。しかもパンを焼く人のブログをみていると生き物のように扱わないといけないとか書いてあって、毎回冷蔵庫で丁寧に保存しているものの、たぶん保存可能期間内には使い切れないであろうとハナから諦めつつあるのだけれど、果たして。

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2024.03.02

往復書簡「言葉になりそこねてからのZINE」

同じ大学でかつて学んだ人たちが自主的につながりをゆるく保ちつつ、学びや対話の場をバーチャルに設けていて、ときどきやりとりがあったりする。「井戸端人類学F2キッチン」と呼ばれているそのつながりにお声がけをいただき、ZINEについての往復書簡を書かせてもらうことになった。その第一回目の自分のテキストが公開されている→(こちら)。

「言葉になりそこねてからのZINE」というタイトルは、この企画を進めるにあたって最初に行われたオンラインでの打ち合わせの場で即興的に私が考えて提案し、文通相手となる「壺さん」も気に入ってくれたようなので、それに決まった。ZINEやフリーペーパーを作るうえでは、言いたいことが出てきても、それをすぐにはストレートに出し得ない、なんらかの停滞感だったりモヤモヤを抱え込み続けるプロセスを経て、ようやく文字にしていくようなプロセスがあるような気がしている。そしてそれとともに現在の私というのが、ZINE的なるものを作る欲動に欠けており、「つくりそこねている」ということへの自省みたいなものもあって、こんなタイトルが降ってきたのかもしれない。

そんなわけで、自分にとってはリハビリに近い感覚で、久しぶりにZINEについて考えて書いてみた。まだ第一回目なので今後どのような話になっていくかは分からないけれども、よければご一読を。

ちなみにこの初回の話題で取り上げた『Notes from Underground』という本について、装丁が初版本のほうがカッコ良かったというのは、こういうことなのであった。

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結果的に英語力がないのでこの本もロクに読み通していなかったが、この本の装丁が放つ雑多でパンクな雰囲気こそ、当時の自分にとってZINEという言葉が誘う世界への探求心をかきたてる要因のひとつであったのは間違いなかった。

で、数年後にこの本は「増補版」として再版されているのだが、そのときの装丁がこれである。








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いや、もう、いったいどうしちゃったんですかと言いたくなる。
著者は何も言わなかったのだろうか。これでゴーサイン出してよかったのか。
もし初版からこの装丁だったら、私はこんなにもZINEについて向き合っていなかったかもしれないとすら思う。

装丁って大事、ほんと。

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2024.02.04

突然、バーガーキングが流行ってきている気がする

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正月休みのとき、だいぶ前に録画したままだったヒストリーチャンネルのドキュメンタリー番組、「ザ・フード~アメリカやみつきスナック」の「30億個のハンバーガー」編を観たのである。

この番組ではマクドナルドの誕生から発展までを主軸に話が展開していったのだが、最初期にマクドナルド兄弟が「スピーディー・システム」として、ファストフードの「原典」ともいえる効率的な作業を志向した厨房の設計レイアウトを考案し、それを商品化して講習会を開いたという逸話が興味深かった。というのもその現場には、のちにマクドナルドのフランチャイズ権を得て世界企業に押し上げたレイ・クロックだけでなく、タコベルの創業者だったり、バーガー・キングの創業者も参加していたとのことで、特にバーガーキングとはその後マクドナルドにとっての最大のライバルとなって、「バーガー戦争」ともいえる展開をみせていくわけである。そんな運命を担う人々が、ひとつの場所に集ってファストフード宗教の原典を共有していたという、これが歴史のアヤというものか。

で、この番組を観ながら「よく考えたら、自分はバーガーキングには一度も行ったことがないな・・・」ということに思い至った。

そもそもバーガーキングは日本において、マクドナルドほどに店舗がない。
調べたら京都市内だと3店舗しかない(しかもそのうちの1店舗は京都競馬場の中にある)。
思った以上にバーガーキングは身近に存在していないのである。

そうなると、どうしても気になって食べてみたくなるわけで、ふらっと寺町通りにある店舗まで行ってみた。

寺町京極店は、ランチタイムの時間帯を外してもさすが正月休みだけあって店内は満席だった。席の確保はあきらめて、でもハンバーガーを食べるのはあきらめたくなかったので、テイクアウトして鴨川で食べようと決めた。

初めてだったので直接店員さんに話してオーダーをした。タッチパネルの端末が複数台あったが、なんだか気後れして最初はひとまず店員さんに頼んだほうが無難な気がした。
で、人生はじめてのバーガーキングでは、何を頼んだか正確には覚えていない。こうしてブログの記事にすることなんて想定もしていなかったので、記憶があいまいなのであった。たぶんオーソドックスなタイプの「ワッパー」だったとは思う。件の番組でも、創業当時から「ワッパー」の名称でボリューム感のあるサイズで展開していて、それに対抗するべくマクドナルドが新商品として考案したのが「ビッグマック」だったというエピソードが紹介されていた。

というわけで「おお、自分もあのワッパーを食べるぞ、ワッパ~ワッパ~」という気持ちでそのまま河原町通りを抜けて鴨川ぞいに降り、どこか座れる場所がないかを探し歩いた。

歩きながら、袋の中をまさぐってストローを取り出し、紙袋に入ったままの状態でコーラを飲もうと思い、指でフタの穴を確かめてストローを差そうとしたが、これがなぜか入らない。歩きながらで、しかも袋のなかに入れて運んでいるので、よくわからないのである。

あきらめて袋の中のコーラをよくみると、お持ち帰り用の仕様なのか、ご丁寧にプラスチックのフタは2枚重ねられており、その上からしっかりテープで止められていた。ただし2枚のフタの穴の位置まではそろっていなかったので、そりゃあストローが入らないわけだ。おかげでフタは2枚とも変な力が加わった影響でボコボコしてゆるんでしまい、もはやフタ無しでコーラを飲むしかなかった。

そうしてようやく座れそうな場所をみつけたが、ちょっとした道標みたいな石だったのでお尻を乗せることしかできず、買ってきた商品を置くスペースはない。しかたなく袋を持ったまま、ハタからみると「寒いなか2つの紙袋に顔を突っ込んでハンバーガーとポテトを口に運び、コーラをやたら慎重に飲む人」になっていた。天気だけは良かった。

多くの皆さんはすでにバーガーキングを食べたことがあるかもしれないので、とくにあらためて私のほうから細かい論評はしないが、マクドナルドが鉄板で肉を焼くのにたいして、バーガーキングは直火焼きグリルで肉を調理することをウリにしてきたのをあのドキュメンタリー番組によって知ったので、「たしかに肉の味わいは違っていて、モスバーガーに近い」という印象である。

そして鴨川ぞいで食事をするという状況においては、かつてトビに2回連続してパンを奪われたというマヌケで苦々しい思い出がアタマにこびりついていたので、手元の袋に顔をつっこんでモグモグしては、顔をあげてキョロキョロと上空を警戒する。自分のほうが鳥みたいだ。
なので人生で初めてのバーガーキングは、「あまり食べた気がしない」という結果に終わったのである。コーラの入っていた紙袋はベシャベシャになっていた。

その日から一週間ぐらいしか経っていなかったと思うのだが、今度は仕事帰りに京都駅前ヨドバシカメラの1階に入っているバーガーキングに行ってみた(頻繁にヨドバシカメラに来ているのに、なぜ今までバーガーキングを利用しなかったのかが不思議でならない)。

 このときすでに私は事前にバーガーキングの公式アプリをスマホにインストールしていた。無料のアプリなのにやたらお得なクーポンが表示されるので、それでアボカド入りのワッパーを注文しようと決めていた。で、今度はがんばって端末機を操作してオーダーを試みるも、やたら操作につまづいてしまった。そしてこのときもスタッフは多忙を極めており、次々と番号札が呼ばれては待ち構える客がカウンターにやってきて、ごったがえしていた。

 おそらくマクドナルドの場合だと私のように端末機を前にモタモタしている客がいたらスタッフが声をかけてフォローするかもしれないが、そのあたりバーガーキングはほったらかしのままで、私もそのほうが気分的にありがたいのだが、単純にスタッフはそこまで気を回す余裕がないだけかもしれない。そしてどうやら私以外の客もこの端末機に苦労していて、物によっては故障しているような気配であった。そんなドライな状況だったので「なんだか外国っぽいな」と感じた。

この日の店内では、かろうじて座席を確保できたので、あらためて落ち着いてワッパーを食すことができた。ただ、この時点でもブログに書くネタにすることまでは意識しておらず、単純に「ちょっとした秘かなマイブーム」というノリでそのまま食べておしまい、である。

で、状況が変わってきたのはこの直後ぐらいだった。

マクドナルドが値上げをするというニュースが報じられ、ツイッター(X)では「バーガーキングのほうはアプリの割引クーポンが充実しているのでマクドナルドに行くよりも良い」とかいう話が一気に広まり、にわかに「バーガーキングのブーム」が沸き起こっているような雰囲気を感じたのである。よりによって私がはじめてバーガーキングのアプリで割引クーポンを使った直後だっただけに、この流れにはインパクトを覚えた。

ほどなく、これまた仕事帰りにヨドバシカメラで買い物をするついでに3回目のバーガーキングに向かった。そしてこのときはスマホのアプリから「モバイルオーダー」を試してみたくなったのである。というのもその数日前に仕事で同僚のタスク氏とともに新幹線に乗って出張する機会があり、タスク氏がスターバックスのコーヒーをごちそうしてくれるというので、彼は京都駅に向かう道すがらスタバのアプリからモバイルオーダーを利用したのである。いざ京都駅に着いて新幹線乗り場のコンコースにあるスタバの店に出向くと、ものの数秒で我々のコーヒーが店員さんからタスク氏に手渡され、その様子を見て「なるほど、これがモバイルオーダーというものか・・・」と、世情に疎い私は感銘を受けたわけである。

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そんなわけで、ヨドバシカメラの店内を歩いている途中、わざとらしく頃合いを見計らってスマホからバーガーキングのアプリを立ち上げて、ワッパーのセットを注文してみた。ただしこの場合はクレジットカードの登録が必要となり、ヨドバシの店内で突然立ち止まって財布からカードを取り出して番号を確認するという挙動不審の客となってしまったのは反省点である。

そして買い物のあとに頃合いを見計らってバーガーキングに向かい、呼び出し番号の掲示板をみると相当なオーダーが詰まっており、私の番号はまだまだ先だということが分かった。店内は混雑しており、「やはりバーガーキングはブームなのかもしれない」と思えてきた。

そしてこのときは寒気が強かった時期で、店の外に設置してあるテーブル席はさすがに空いていたので、そこに留まってレジの様子を眺め、自分の番号が表示されるのを待ってみた。

いちよ「テイクアウト」でオーダーしていたので、商品を受け取ったら帰宅するつもりだったが、なんだか冷めたハンバーガーを食べるぐらいなら、寒くてもこの空いている外の席で今すぐ食べてしまおうという気になり、風が吹きすさぶなかでワッパーをいただいた。で、図らずもこの状況に身を置いていると「やはりここは外国っぽい」と改めて思わせた。つまり海外旅行のときは「とにかく食事を済ませることを優先し、それ以外の不便な状況は受け入れてやり過ごすモード」になりがちだと思うわけだが、それに通じるものを感じたわけである。ましてや京都駅前なので、スーツケースを持った外国人観光客が大勢うろうろしていて、なおさら異国感がある。

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そんなわけで今年は年明けから「ドライ感があってなんとなく海外旅行っぽさが味わえる」というバーガーキングに注目をしてきたわけだが、こんなキャンペーンが始まることを先日知った。

「バーガーキングをふやそう」(リンク
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つまり新規出店を検討するうえでのコストを抑えるべく、お客さんに空き店舗を探してもらうという逆転の発想である。これは作戦として興味深いし、今後他の業界でも追随するやり方かもしれない。

おかげでこのごろは、出歩くときに「空き店舗」になっている場所をなんとなく探してしまう。

そんなわけでバーガーキングの日本法人、今後も「何かを仕掛けてくる」ニオイがプンプンただよってきている。
そしてそんなマーケティング戦略にすっかりカモにされている自分が非常にくやしいが。

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2024.01.06

2024年正月:不安と憤りと川魚と所ジョージ

「よいお年をお迎えください」と言っていたそばから、いざ正月を迎えると激しい地震に見舞われ、北陸にいる友人たちは無事で何よりだったが落ち着かない日々が続いている。被災された方々にはお見舞い申し上げるとともに、すみやかに日常が取り戻せますように・・・とお祈りするしかない。

しかしそれにしても今回は政府の対応の遅さや、相変わらず神経を逆撫でする首相の言動などが過去にも増して目に余る。それでも暴動は起こらず投票率も低くて国民は政治に無関心でいてくれる状況を維持して改憲できると政権は踏んでいるわけだが、どうも近年の動きが「わざと批判を生む&開き直る&その状況に慣れさせる」という方向性にシフトしているようで、そこの「不可解なまでにわざとらしく醸成させた陰湿な不快感の押しつけ」をあちこちの分野にしれっと浸透させていきたがる狙いは何なんだろうかと、年明けから考え込んでしまう(例えば大阪万博のあのマスコットキャラクターにも同じ臭いを感じている)。

不安と憤りばかりの正月になってしまうが、負けじと普通に2024年最初のブログ記事を書く。

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年末に、あるお店で川魚の料理をいただいた。
塩焼きにされていて、身をほぐすのにちょっと手間取るやつである。

こういうときにいつも思い出すことがある。
学生時代、遠方に住む友人を訪ねて旅行し、そこで友人のご両親に地元の居酒屋に連れて行ってもらい、たくさんごちそうになった。
そこでたまたまサンマの塩焼きをいただいたのだが、そのときの私のサンマの食べっぷりを、友人のお父さんがいたくホメてくれたのである。

確かに私は以前からサンマを綺麗に骨だけ残して食べることにこだわりを持つようになっていたのだが、それを改めて人生の先輩から賞賛されると「そうか、これは自分の取り柄なのか」と新鮮な気持ちになったとともに「単に食い意地が張っているだけなのかもしれないが・・・」という照れくささが、当時の記憶としてある。

そんなわけで「私は魚を綺麗に食べる人なのだ」という妙な自負があり、そこで今回の川魚と向き合いながら気づいたのは「もはや魚を食べることはアートなのかもしれない」ということだった。

「魚そのものをじっくり味わえよ」とひとりでツッコミを入れたくなるほどに、小さい骨だらけの中からいかに身をはぎとりつつ、できるかぎり元の骨格を残すかという課題に没頭していたわけだが、この作業は無心に何らかの創作物を作りあげる時間に似ていると思えてきたわけである。小さい子供が魚を食べるのを嫌がるのは無理もない。なぜなら技芸としてのアートを求められるからである。すべての子供が図画工作を好きなわけじゃない。

意地になって苦闘しつつ、なぜこんなことに時間と手間をかけているのかと自問しながら、アートへの希求だけではない、もうひとつの想いが浮かんできた。
それは「自分なんぞに食べられてしまう運命となったこの魚に、少しでも恩返しできることがあるとすれば、綺麗に食べることしかない」ということだ。これはおそらく、小さい魚は「一匹全体をまるごと自分だけがいただく」という状況だからかもしれない。サーモンの切り身を食べるときには、あまりそういうことに思い至らない。鶏肉や牛肉も同様に。
本来なら食事をいただく基本姿勢として常々そうした意識は大事なのだが、ついぞオトナになるにつれ忘れがちになっていることにも気づかされた。ありがとう魚。

そうしてできあがったアート作品は誰かに鑑賞してもらいたいという欲も出てくる。そしてこの場合、おそらく地上で唯一の鑑賞者は、私が店を出たあとに食器を片づけにくる店員さんであろう。でもわざわざその店員さんも、この皿に残された「骨格標本かよ!」と言いたくなるような「作品」の存在に気づいてくれない可能性のほうが高い。
それでも、うまくいけばもしかしたら「こんなに綺麗に食べてもらえましたよ」と、厨房にいる料理人にも共有してくれるかもしれない。店員さんよ、インスタにあげたっていいんだぞ。

「そう、目指すべきは人に見せたくなるぐらい美しく食べ尽くされた魚なのだ」と自分に言い聞かせると、より丁寧な箸づかいを心がけ、慎重に作業を進めていく意欲が高まるというものである。

仕上げには、お皿に添えられていた大きい笹の葉っぱを、わざわざ魚の下に敷いて、骨の白い造形が緑色の背景に映えて見えるように工夫してみた。しかし今になってこの文章を書きながら冷静に振り返ると、さすがにやりすぎだったかもしれない。

こういう行為に走りたくなる遠因をたどると、小さい頃にテレビで観た所ジョージに行き当たる。
何気ないトークのなかで、所さんは「レストランの食事が美味しかったら、自分の皿にソースとかで『うまい』って書き残してお店を出る」というようなことを話していて、なぜかそのことがずっとアタマに残っているのである。子供心に「自分もそういうオトナになりたい」と思ったんだろう。そして実際にはどうなんだろう。

・・・そんなことを思い出したので、雑誌『世田谷ベース』のバックナンバーで「所さんのお悩み相談室」の特集号が手元にあったはずだと書棚を探し、パラパラとめくってみると、こんな所ジョージの言葉に出会った。

「歳を取りたくないっつっても取るんだから。自分がやがてなるものをマイナスに思ったらダメ。自分がやがてなるものはプラスに思わなきゃ」

なるほど・・・ということで、引き続きできるだけ楽しく歳を重ねていけるようにしたいと改めて思わされる新年であった。

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2023.12.25

意志決定理論「エフェクチュエーション」とは、DIY精神のことなんじゃないか & 今年もありがとうございました

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『エフェクチュエーション:優れた起業家が実践する「5つの原則」』(吉田満梨・中村龍太著、ダイヤモンド社 2023年)という本を読んでみた。

そんな結論になることを予想して読んだわけじゃないのだが、私なりにこの本で言われていることを強引にまとめると、結局のところエフェクチュエーション(Effectuation)とされる思考様式は、私がずーーっとこだわっている、Do it Yourself、DIY精神そのものじゃないかということだった。

まず本書では、従来の組織がとりがちなアプローチとして「コーゼーション(因果論)」が紹介される。市場調査・マーケティング分析などによって利益の見込みを立て、それに向けて事業計画が練られ、実行にあたっての資源を確保し、目標に向かって突き進む。「まぁ、どこでも普通はそうするよな」とも思える合理的で一般的な物事の進め方だとは思うが、このスタンスでは不確実性の高い現実世界において想定外の出来事や使える資源に制限がでてきたりすると、とたんに行き詰まるわけである(そしてまた事業計画をめぐる会議や下準備が繰り返される・・・と)。

そこでエフェクチュエーション(実効理論)という考え方になるのだが、これは卓越した起業家たちの意志決定プロセスを分析した学術研究をもとに編み出されたとのことで、次の5点の思考様式を特徴としている。

「手中の鳥の原則」
「許容可能な損失の原則」
「レモネードの原則」
「クレイジーキルトの原則」
「飛行機のパイロットの原則」

・・・と言われても「なんのこっちゃ」と言いたくなる名前がつけられているわけだが、本書の戦略としてこうして各原則につけられたユニークなネーミングが読み手の好奇心をさらに刺激するという意味で、マーケティング的にはうまくいっている気がする。そして表紙の装丁のポップなデザインも効果的で、書店で見かけたらつい手に取ってしまう策略に私もひっかかったわけだ。

で、今回のブログ記事を書くにあたって初めて知ったのだが、これらの原則については、実は本書を刊行したダイヤモンド社のホームページで、著者自身がものすごく詳しく解説しているのであった(こちら)。はっきりいってこのサイトの記事を通読すれば、本書の主要なエッセンスはタダ同然ですべて吸収できると思えるので「お金返して!」とさえ言いたくなる(笑)。
ちなみに本のほうでは、これらの原則の解説のあと、残り3分の1ぐらいのページ量を使ってひとつの事例が紹介されているのだが、これがあまりにも特殊事例すぎて、なんだか自分としてはあまりピンとこないのであった。

ともあれ、私がDIY精神として重視している考え方と、このエフェクチュエーションが通じていると思うのは「手持ちの材料や条件を創意工夫して活用し、どのような状況にも柔軟に対応できるように備える」ということである(なので、必要に応じて昔ながらのコーゼーション的にいってもいいわけだし、状況に応じてエフェクチュエーションに切り替えて対応していく、というスタンスが推奨される)。

たとえば実際にDIY的なものづくりでは、あらかじめ設計図は作るだろうけれども、いざ作り出すと想定通りにはいかなかったりもする。そこで「設計図が悪い」と、作業を止めて振り出しに戻るというよりも、ひとまずアドリブやアレンジを加えて、使えるものを駆使してとりあえず完成までこぎつけてみることもできるわけだ。そうすることで、当初は思いもしなかった新たな魅力や愛着を覚えることもあるだろうし、それらの一連の体験をふまえて今後はより望ましい活動に結びつけられるかもしれない。

そんなわけで、古くて新しいDIYスピリットの発想や志向といったものは、硬直した組織を改善するうえでも使える思想なんだということを、図らずも再確認させてもらった気がする。


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さて2023年の本ブログも最後の記事になりまして、少ない本数ながら今年も読んでいただきありがとうございました。

個人の目からみても、そして世界のあちこちからの目を通しても、いろいろと落ち着かない日々が続いているのですが、自分の周りの平穏をまず祈るような気持ちで日々を生きて、そして時間を削りながらも書き続けていくしかないのだなと、あらためて思う日々であります。

「今年のシメの一曲」は、ラブ・サイケデリコの『All the best to you』を選びます。このあいだ彼らのライヴを観てきたのですが、今年リリースされたこの新曲も披露されて、デビューして25年以上経ってもまったくサビつかない「デリコ節」に熱いものを感じたのでした。

この曲のミュージック・ビデオは市井の人々のさまざまな表情や街の何気ない風景が続くだけなのに、なんだか少しだけ勇気づけられるような、そんな感じがわき起こる不思議な作品です。

それではみなさま、よい年末年始を。

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2023.10.23

学生時代に読んだ本のなかで(ある意味で)最もショックを受けた本のこと

勤めている大学の図書課の企画で、すべての事務部署の職員スタッフが一人一冊の本ないし映画をオススメしてポップを描くという試みが行われた。

学生さんに勧めたい本ということで考えると、いろいろ迷うところがあった。
しかし最終的には「まぁ、学生さんはそもそもこんなコーナーに注意を向けることもなかろう」と思えてきて、気楽なノリで「自分が学生時代に読んだ本のなかで何が最も衝撃的だったか」をふりかえり、こんなポップをザザザッと描いてみた。

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(ひさしぶりにちゃんとイラストらしきものを描いた気がする)


紹介した本は、これ。


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これは図書館に所蔵があったので、古い本だがそのまんまの状態で展示されている。

この本がどういう内容のものかを説明するのはとても難しいのだが、「マジメな心理学の学術研究論文集という化けの皮をかぶった、パロディお笑い本」である。
いかにもありそうな心理学の論文がつらつらとページを埋めているのだが、どれもこれも「それっぽい感じ」で、よく読むと完全にボケ倒したノリの、人をおちょくるパロディのオンパレード。

つまり、ある意味では危険な本でもある。「研究者のさじ加減ひとつで、どんなデタラメなことを書いても、研究論文にするとそれらしく思えてきて、パロディをパロディだとは認識されなくなるポイントがあるかもしれない」ということを警告するかのような内容でもあるからだ。

若い頃の私はわりと真剣に心理学の勉強をしていたもんだから、この本にはおおいに動揺させられた。心理学だけに限らず、広く「学術研究」というものになんとなく幻想を抱きがちな若い人にとっては、よい意味でカウンターパンチを喰らわしてくれるような、そういう意義がある本だと思っている。

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2023.08.14

国会図書館のデジタルアーカイブ検索で遊んでみたら、父親の卒業制作までたどり着いた話

国立国会図書館デジタルコレクションというページ(こちら)では、所蔵しているデジタルコンテンツを次々とテキスト化しているようで、それらを検索可能な状態で提供している。
基本的にはものすごく古い時代の書物あたりがメインになっているが、たとえば自分の祖父母とかご先祖の名前を入れてみると、いろいろと楽しめるはずである。

私の場合、祖母の名前ではヒットしなかったが、祖父と思われる人物は数件ヒットしたのである(同じ漢字を途中まで含む、似た名前の別人もヒットするわけだが)。両方の祖父ともに特に有名人というわけではないのだが、長い人生においては、たとえば公的機関が出すような文書だったり、地域における公共性の高いちょっとした読み物みたいなものには、ときに名前ぐらいは載ったりすることもあるだろう。

そしてそういう非常に細かい情報たちが、こうしてネットで探し出せることに「すげぇぇぇ」となる。ここは世代的な問題だろうが、未だにインターネットにたいしては、そういう気持ちになってしまう。すげぇよ。

で、一般ユーザーの場合は、「この文書に、この検索キーワードがヒットした」というレベルまでしか分からないので、当該のページそのものをネットで閲覧することはできない。本当にデータが欲しい場合は別途、手続きが必要になる。

私の場合は「これは」と思う資料について古本サイトで検索すると、実物で入手できるものがあったので、ちょっとした記念に2つほど発注してみた。
ひとつは父方の祖父についてのもので、地域の郷土史家らしき人々が戦後に編纂した重厚な本だった。地元の産業界の詳細な紹介をしているコーナーに関係者の名前が細かく列挙されており、電力会社に勤めていた祖父の名前を見つけることができた。
もうひとつは母方の祖父についてのもので、実は某地方の旧制高校の出身だったようで(私の母もその認識はなかった)、その高校の同窓会が編纂した書物の中に主だった卒業生たちの進路先や活躍ぶりが分野ごとにずらっと紹介されており、絶対にこれは本人だと分かる内容で書き残されていた。

そんなわけで「恐るべし国会図書館」、思わぬタイムカプセルを見つけた感じであるが、さらに踏み込んで父親の名前を入力すると、似たような名前の検索結果がたくさん出てくるなかで、誠文堂新光社が発行している、広告関係やデザイン関連を扱った雑誌『アイデア』の1961年6月号に、父の名前がありそうだということが分かったのである。
私の父は多摩美術大学の図案科、つまり今でいうところのグラフィックデザイン学科で学んでいたのである。おそらくその関係ではないかと思われた。

すかさずこれも古本市場で調べたのだが、あいにく雑誌の現物を入手できそうなアテがなかった。
そこで次に調べたのは、国立情報学研究所のCiNiiによる全国の大学図書館の蔵書検索である(こちら)。そうすると『アイデア』の当該号を所蔵しているいくつかの大学のなかで、自宅に近い某大学図書館が学外一般者も資料閲覧やコピーが可能だということが分かったので、とある日の午後に訪れてみた。

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たまに「休みの日には何をしているか」と人から訊かれることがあり、いつも答えに苦しんで「いろいろやってます」と返すのだが、こういうことが「いろいろ」の中にあるんだろうなと、誰もいない静かな書庫を歩き回りながら思った。「父親の名前が載った古い雑誌をみるために、よく知らない大学図書館の書庫の中でウロウロする」という、ただそれだけの休日。

もちろん図書館なので、きっちり整理されている資料群から、目的のものを探し当てるのにまったく時間はかからなかった。

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(▲黒表紙に製本されて「アイデア」とだけ書かれて並んでいる状況がなんだかポップ感があって、よい。)

こうして1961年6月号の『アイデア』と対面することができた。

そこで分かったのは、この号では前年度の主な美術系大学のデザイン関係の卒業制作展のなかから、いくつかの作品を紹介するという趣旨の特集記事があり、そこに父の卒業制作が掲載されていたということであった。

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「え、ということは、他の美術大学も含めていくつもある卒業制作のなかからピックアップして選出されたということ!? すごいやん!?」と、素直に父親を褒め称えたい気持ちになった。
誰もいない書庫で。



そこで見つけたのがこれだった。










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タイトルは『日本の民謡』




Torres

お、おう・・・・。


たしかに味のある作品といえば味があるが、当時のこの美大生の試みがうまくいっているのかどうかはよく分からない。でもまぁ、こうして雑誌に選ばれているのだから、きっと良い作品なのだろうと自分に言い聞かせながら、この特集コーナーまるごとをコピー機にかけさせてもらい、あらためて実家に行って父親にこのコピーを手渡してみた。

なんとなくの予想通り、父の反応はたいして盛り上がるわけではなく薄いリアクションであった。
この卒業制作はレコードジャケットを作るという課題だったとのことで、たしかに他のページに掲載されている学生の作品も、そんな感じで正方形にオシャレなデザインを配置しており、当時はモダンジャズが流行っていたようで、ジャズのレコードっぽいのがたくさん掲載されていた。

そんななかであえて「日本の民謡」を押し出したあたり、さすが「ビートルズは嫌いだった」と言い張る偏屈な若者だった当時の父親の気概を匂わせる(正確にはビートルズは大学卒業後に流行っていたわけだが)。

私がこのコピーを持ってきたことで、父にとっては自分の作品のことよりも、あちこちのページに記載されている同級生の名前にひとつずつ懐かしさを覚えていたようで、それはそれでコピーしておいてよかったと思った。

父は卒業後に某家電メーカーの宣伝部に進むことになるのだが、この雑誌が出たのはまさに社会人一年目の慌ただしいときのことだったようで、こともあろうに私が今回見つけるまで「こんな雑誌に載っていたことは知らなかった」とのこと。つまりあれか、遠く山口県の故郷から芸大にまで通わせてくれた両親にも雑誌に載ったことなんて伝えてなかったのかこの息子は。

あと、ついでに書くと、私自身もたしかにイラストや絵を描くのは得意なほうだが、子どものときから振り返るに、父から絵の描き方を具体的に教えてもらった記憶はない。
さらに、私はやがて仕事上のなりゆきで、自分でチラシ制作のためにデザインやグラフィックソフトを独学で習得して、趣味においても仕事においても我流でデザイン作業がそれなりにできる人になったのだが、よくよく考えたら父のほうは学生時代にみっちりデザインを専門に学んでいたというのに、そういう会話をほとんどしたことがなく、これは我々の間における「皮肉な謎」のひとつである。

例えば私などは「教えたがり」なので、もし子どもがいたら、良くも悪くもそれなりに自分の得意技能についてあれこれと言ってしまいたくなるだろうと思う。しかし私の父はそういう干渉をまったく行わなかったことになるので、人からみたら「それが最高の教育なんです」とか言うかもしれないが、本当に何もなかった側からすると、ちょっとぐらいは何か教えておいてくれてもよかったんじゃないかと思う部分もある(笑)

皮肉ついでにさらにいうと、この1961年に父が『デザイン』にその名を刻んだ55年後に、今度は私が同じ雑誌(2016年7月号)に載ることになったわけである。野中モモさんとばるぼらさんのZINEについての連載で、フリーペーパーを紹介していただいたのであった。

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そして、このページにたまたま挙げてもらっていた『HOWE』の第20号「ベルギー、フランス、ハイタッチ」の表紙絵は、父親に頼んで描いてもらったモン・サン=ミシェルを載せていたわけで、図らずも父親は2回、自分の作品を『アイデア』に載せたことになるのであった。

(そんなことよりも、いいかげんフリペの新作を作れよというツッコミはさておき)

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2023.07.08

水たまりを越えていけ

いつも通勤で近道を利用するとき、とある中学校の敷地の横を歩いている。
そこは細い通路で、中学校の敷地側は低いコンクリートの上に金網のフェンスが続いている。そして向かい側は大きな用水路になっていて、そこも金網のフェンスで仕切られている。

このあいだ夜のうちに強く雨が降り続いた日があり、その翌朝のことであった。

天気は回復していたので、いつもの近道ルートを歩いていたが、ずっと降っていた雨の影響で、水たまりがあちこちにできていた。
しかもこの細い道の路面のアスファルト部分は近年になって工事か何かで新しくなった部分があるようで、そのせいか、歩いている道の先には、今まで見たことのないような規模の巨大な水たまりが発生しているらしいことが、路面の様子を見てうかがえた。

たいていは路面の凹凸を慎重に選んでいけば、水たまりのなかでもできるだけクツを濡らさずに足をついて渡っていける部分もあるものだが、この大きな水たまりにおいてはけっこうな深さもあるようで、まったくもって足場になりそうな部分がなく、まるで池のようになっていたわけである。
できれば革靴を濡らしたくないので、来た道を引き返したほうがいいかなと思いつつ、ひとまず水たまりの状態を確かめようと、そのまま進んでみた。

ちょうどその反対方面からは2人の男子中学生がこちらに向かって歩いてきて、その巨大な「池」を前に立ち尽くし、「どうしよう・・・」といった感じで迷っている様子だった。

Sonoichi

彼ら2人がどういう行動を取るのかは私にとっても参考になるので、問題の水たまりに向かって歩きながら、その動向を注視していた。

すると、その男子中学生2人は、水たまりの縁をしばらく右往左往しながらも、やがてそのまま普通に水たまりをジャブジャブと歩き進んでいったのである。
すべてをあきらめたかのように・・・。

ちょうど私が水たまりの縁にたどり着いた頃、「池」を渡りきった彼らとすれ違う感じになった。
おそらく彼らの運動靴は一気にグショグショに濡れていたことだろう。

そんな様子を見届けた私も「池」を前にいったん足をとめ、状況を見回して、決断した。


この場合、選ぶべき手段はこれじゃないのか?













Sononi

ええ、齢46になるオッサンは、中学校の敷地のとなりで朝からカニ歩きですよ。
体重も増えてるから、つかんだフェンスの金網もグワングワンとなって不安定でしたよ。

でもおかげさまで、革靴は無事に濡れずにすみましたよ。



・・・というわけで、私はこのことからいろいろ考え込んでしまったのである。
あの少年たちは、どうしてこの方法を思いつかなかったのか。

これは「外遊び経験の豊富さのちがい」というものによるかもしれないが、
それよりも、私はなんだかこれは「ゲーム的な対応力」の違いを感じた。行く先のルートに障害物があり、どうやってそれを乗り越えるかという課題について「昭和のゲーマー」としての私と、令和のゲーマー(であろう)と思える現代の中学生たちとの、実生活世界へのゲーム的な発想の持ち込み方みたいなものが、何か違うのかもしれない。

・・・と、そんなことをモヤモヤと考えていたのだが、でも真相はきっと、「公衆の面前では、はしたないことをやらない」という、イマドキ中学生のスマートな意識が、そうさせただけなのかもしれない。

あのときカニ歩きを終えた私は、後ろを振り返ることはしなかった。ひょっとしたらあの中学生たちは、フェンスにつかまったカニ歩きのオッサンの姿を振り返って目撃していたかもしれない。その場合は、「その手があったか」と思うよりも、「ああいう人にはならないようにしなくちゃ」と思ったかもしれない。


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2023.05.07

チャールズ国王戴冠式の個人的ツボ・まとめ

思えばエリザベス女王の国葬については繰り返し見たくなる映画のような素晴らしい葬儀で、いろいろと語りたいシーンがいくつもあったのだが、なんだか「人のお葬式」について書くのも気が引ける部分もあり、このブログでは書かずにいたままだった。
(でも結局、普段の生活でもこの話について誰かと語る機会もなかったので、気が向いたらブログでまた書くかもしれない)

そうして昨日はチャールズ3世の戴冠式が執り行われ、幸い日本では連休の真っ只中ということもありじっくりとBBCワールドの日本語通訳入りでその様子をライヴ中継で味わうことができた。そして一方ではサッカー・アジアチャンピオンズリーグ決勝が同時刻に行われていたもんだから、浦和レッズの試合の様子も気になるのでパソコンでDAZNの中継を流しっぱなしにしつつ・・・という状況だった。

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テレビで観ているうちに、なんだか自分も観光客気分で、スマホで画面を撮影したくなった(今回はほとんどがこのスマホの写真を使わせてもらいますが、当然ながら画像の質は悪いです)。

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バッキンガム宮殿からウェストミンスター寺院へ向かう行進から始まるのだが、馬車をひく馬たちが、青いカツラをつけられて、そして目にはフタになるような飾りをつけられていた。
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おそらく馬の性質上、そうすることで集中力が高まったりするのだろうけど、「見えにくくないのだろうか、それで自分の職務を全うすることはできるのだろうか」と、ぼんやりと不安にさせるあたり、「これは英国の誇るロックバンドであるロキシー・ミュージックのギタリスト、フィル・マンザネラが初期によくしていた変なメガネみたいなものなのだ」と思うようにした。
Manzanera
↑ この人。

そうしてウェストミンスター寺院には王室の面々がやってくる。

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ハリー王子は今回はひとりで出席。いろいろ微妙だもんねぇ。

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で、アン王女を見て最初は「なんでそんな格好なん?」と思って半笑いで写真を撮ったのだが、このことは後になっていかに自分が無知であったかを思い知らされることになる。

ちなみに報道写真から拝借。これがその格好。
Princessannecoronation
この帽子のまま戴冠式のあいだも列席していたので、ずっと気になっていたのである。

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そうこうしているうちに、国王夫妻を載せた馬車が国会議事堂の近くを通って寺院へ。

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本当にどうでもいいことばかり気になるのだが、いつもは観光客でごった返しているウェストミンスター寺院の入口にある、この画像の奥にみえる「お土産屋さん」、さすがに今日は閉めてるんだよなと確認。

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そしてさらにどうでもいいことなのだが、馬車を降りるときに国王夫妻を迎えていたこの人たちがそれぞれに持っている傘の種類がバラバラだったのが印象的だった。隊列や行進に関わるあらゆる物事がビシッと揃っていたなか、数少ない「間に合わせ感」が出ていたのがこれだったので、つい嬉しくなって写真に撮ってしまう。

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国王を待つ参列者。ハリーの「ぼっち感」が際立つので「がんばれ!」と言いたくなるし、その目の前にはアン王女の帽子。いろいろ気になる。手前の空席はこのあとウイリアム皇太子の家族が座る。

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そして来賓席のなかでは秋篠宮夫妻がいいポジションに座っていて目立っていた。

で、ここから大司教やさまざまな聖職者が入場してくる。

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「なんでこういう衣装なんでしょうねぇ?」と言いたくなる。いろいろ豪華だったり謎めいていたり。

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不鮮明で申し訳ないが、どう考えても「普通の長い棒」あるいは「釣り竿?」にしか見えないものを持って入場する人も。

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で、寺院に入場する直前の国王と、この儀式でずっとサポート役をつとめる2人の司教の様子が捉えられていて、とくに右側のメガネの司教がやたらフランクに喋っているようにうかがえたので、きっと「まぁ、気楽にいきましょ、気楽に」みたいなノリでリラックスさせようとしていたのかもしれない。

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こうして入場。後ろにいる少年のうち左は、孫にあたるジョージ王子が立派に侍者を務めていた。いつか彼もこの儀式をやらないといけないのだろうなぁ。

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そんなジョージ王子と新国王を見守るウイリアム皇太子の一家も勢揃い。
Charlotte
すっかり大きくなったシャーロット王女とルイ王子がこの日もすごくかわいらしくてネットではさっそくいろいろ記事になっている。
Princelouisandprincesscharlotte
特にこの写真におけるシャーロット王女の毅然とした立ち姿は、まんまエリザベス女王そのものやん!といった印象がある。

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そうして儀式が始まったのだが、驚いたのはオープニングを飾ったのはひとりの少年の侍者が、これから儀式が始まります的なスピーチを行ったことだ。すごい緊張感のなかで、ものすごい大役を務めていて、立派だった。

そうしてここから長々と儀式が進んでいったわけである。

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まぁ、当然といえば当然だが、それぞれが口にする言葉はカンニングペーパーを見ないことにはどうしようもないわけである。
カンペの背には紋章みたいなのがちゃんと印刷されているが、なんだかテレビのクイズ番組で使われるような問題カードにも見えてくる。

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常にカンペ。

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そして、建物の構造上、来賓席からは直接メインの舞台が見えないので、ウイリアム皇太子も身を乗り出さないと様子が分からない。

また、今回の戴冠式では、歴史上はじめて女性の司教が儀式に参加したり、新しい取り組みをいくつか導入していたようで、そのうちの一つが、ゴスペル歌手による「ハレルヤ」の合唱が行われたことだった。

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アカペラによる歌はとても美しかったが、個人的にはちょっと緊張感を覚えた。というのも
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みんなで輪になって歌っていたので、絵的にはちょっと落ち着かない状態に。

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あと、背後に映る参列者のみなさんの表情がなぜか一様に固すぎて、そこも緊張感をかもしだしていた。や、分かるよ、儀式が長ったらしいのは。

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引き続き儀式は粛々と進んでいき、これは聖なる油を身体に塗る儀式の最中に持ち込まれた囲い。中で何が行われているかは誰も分からないのである。

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「お着替えタイム」みたいな、これもまた絵的に落ち着かない時間。見方によっては「奇術師の脱出ショー」みたいな雰囲気すらある。

で、ここまでくると、あくまで自分の主観なのだが、チャールズ王やカミラ王妃も「面倒くさいなぁ」というオーラがでているように思われてきた。

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さんざん儀式に振り回されたあげく、途中できわめてラフな格好にさせられて、この上から特別な金色の衣を着せられたり。

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そしてそれぞれの貴重な宝物が、順番に新国王に手渡されるのであった。

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そして最後に王冠をかぶるのだが、このときは「強引に頭にねじこまれる」感じがあって、ちょっと気の毒なほどだった(笑)

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で、カミラ王妃にも王冠がねじこまれたのだが、この直後に何度も王冠と髪の隙間を手でいじったりして、「儀式とか本当に面倒くさいのよね」といわんばかりのカミラさんの庶民的なノリ、私は嫌いじゃないです。

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紫色を基調とした衣装や王冠を身につけて退場。この姿をみてはじめて、あぁエリザベス女王の子どもだったんだなぁ、似ているなぁ、と実感。

こうして再び一行はバッキンガム宮殿に向かうわけであるが、最初よりもかなりパワーアップした隊列が待ち構えていた。

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で、ここで大変驚いたのは、国王の妹にあたるアン王女である。
彼女は馬術が得意とのことで、このとき国王夫妻の馬車を率いる騎馬隊の一員として、馬にまたがり行進していたのである。
Anne_

Anne
この緑色の円の位置でずっと馬に乗って併走。

いやはや、参りました。このような理由で、あのようなお召し物を身につけていたとは。
これって日本の皇室に例えたら、即位パレードで天皇陛下が乗るハイヤーに紀宮さんが白バイで併走するようなものではないか。カッコ良すぎる。

来賓席にいたあとに、馬にまたがって宮殿へ。
ネット上でも「アン王女かっこいい」の賞賛がいくつも起こっている様子。

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こうして、バッキンガム宮殿に戻って、多くの見物客へ挨拶。

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この一連のプロセスが5時間ぐらい。すっかり見入ってしまった。(その傍ら、浦和レッズが奮闘の末、アジア王者になっていた。おめでとうございます)

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最後にロンドンに行ったのが2017年で、そのときこの宮殿や、宮殿前のザ・マルの大通りについて想い出深い出来事があり(こちら)、自分にとっても特別な感情を抱く場所ではあるが、こうしてまた文字通りの新しい歴史が刻まれていったんだなぁと実感した。

<余談>
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▲このお面は売り物だと思われるのだが、いまだに世界的にはこうした「写真のお面」はそのクオリティが残念なままである。私の書いた「DIYお面の作り方」の記事を読んでもらいたいものである。

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2023.04.19

(ネタバレにならない程度に)『街とその不確かな壁』の読後感について書く

よく考えたら村上春樹の新作を発売日に買うということも、あと何回できるか分からないんだよなと思った。
ちょうど私にとって、自分が生まれる前の1972年とか1973年あたりに、洋楽ロックの世界ではキラ星のごとき名作アルバムが信じられないぐらい次々とリリースされていったという歴史に憧れを覚えるのと似たような感じのノリで、先週の発売日に書店に寄って『街とその不確かな壁』を手に入れてみて、さっき読み終わった。

自分の率直な感想としては・・・いま、こうしてブログでさっそく記事を書きたくなる程に、つまり誰かと語り合いたいぐらいの気分で、今回は充実した読後感がある。

私は決して村上作品の熱心な読者だとは思っていなくて(どちらかというと氏のエッセイのほうが好きだ)、あまり私の感想もアテにはならないのだが、少なくとも前回の『騎士団長殺し』よりかは、よっぽど良い、と言ってもいいだろうと(笑)。

その理由を考えてみると、今回の作品で描かれたさまざまな出来事や、それをとりまく光景や心象などは、なんというか、読者それぞれの「生」にダイレクトにつながっていくような普遍的な感覚がずっとあったからかもしれない。
別れを惜しむかのようにこの小説の最後のページを読み終わったあと、ここから先の展開が、読み手である自分自身の内なる部分で続いていくかのような、そういう話だった。
(それを言ったら、『騎士団長殺し』でも他の作品でも同じようなものではないかと言われても、まぁ、そうかもしれませんが・・・とは思うのだけど、なんだか『騎士団長殺し』だけはタイトルのせいかもしれないが、なんだかしっくりこない感じがずっとつきまとった作品だった)

それと、読み進めながらずっと思っていたのは、2009年に村上春樹が行ったいわゆる「エルサレム・スピーチ」のことだった。ここで村上春樹は「壁=システム(政治だったり軍事だったりの統治制度など)」と「卵=個々人やその魂」を比喩として用いて「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と述べたわけだが、今回の作品は表題にも「壁」という語があるように、そのままのメタファーが小説のなかで繰り返し重要なものとして登場している。

もっともこの作品は、デビュー直後の1980年に発表した作品の出来に満足がいっていないまま長らく気になっていて、それをコロナ禍の始まった2020年頃から書き直しを試み、そこから物語をさらに進めた末にできあがったとのことで、本書の「あとがき」では「要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。」と書いている。長らく自分のなかで沈殿しては浮かび上がってきたりする問題意識をつかんで離さないそのスタンスによって、「壁と卵」のメタファーが、その始まりから現在に至るまでずっと村上春樹のなかにあったのかもしれない。そう思うと、きわめてこの人は恐ろしいほど実直なんだろうと思う。

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2023.04.06

仕事でバナーを手に立ち続けて気づいたこと

 私は事務員として大学で働いているが、キャンパスの最寄りの駅から少し歩いたところに専用のスクールバス乗り場があり、4月ごろは新入生をはじめ多くの学生が利用するので最も混雑する。なのでいつもこの時期はバスの運行会社の人とともに、職員も交替で当番を決め、大学名の入った腕章を巻いてバス停付近の混雑対応にあたることになっている。

 このとき学生たちに求めることは、「狭い歩道に広がって歩かず、一般通行者のジャマにならないように気をつける」ということだ。

 とはいえ、一人で来る学生は往々にしてイヤホンを耳に差しておりこちらの声を聴くつもりはなく、私としても「だーかーらぁージャマになってるから歩道の端に寄れって言ってんだろおおぉーーがあぁーー!!」という旨のメッセージを(かなりソフトに変換して)大声で何十回と繰り返すのも、しんどい。

そのため、私はこの業務にあたるとき、いつも自主的に以下のようなバナーを作って立つようにしている。



Keepleft

このようなバナーを学生に見せて、道の左端を歩くように仕向けつつ「おはようございます」というフレーズを連呼するほうがお互いの精神衛生上にも良いだろうと思っている。

また、バナーを持って立ち続けることで、ここを通過する地域住民にも「当大学はこのバス停周辺における交通環境の安定化に最大限の努力を行っている」ということが視覚的にも伝わってくれたらいいなという、小賢しい目的も密かにある。
(そういうことを私が意識するようになったのは、学生時代に公共空間における落書き/グラフィティを消去しようとする地方自治体の動きを追っていた時期、調査に応じてくれた役所の担当者が「街中で目立つ落書きを我々が消そうとする作業そのものを、近隣住民に見てもらうのも防犯対策事業の目的のひとつ」とキッパリ言ったことによる知見に基づいている)

こうしたバナーを用意して待ち構えることは自分にとって普通のことだと思っているのだが、同僚である教職員の面々が学生にまじってスクールバス乗り場に向かうとき、こうしたバナーを手にしたタテーシの姿に出くわすと、人によってはどういうわけかクスクス笑いを誘うようで、なんだか可笑しさを感じさせるらしいのである。

私としてはこの現場においてできる限りの効果的な方策を熟慮した末にこの「バナーを見せる」という方法をあみだしたつもりである。そして多くの教職員が毎年私のバナーを見てきたはずなのだが、毎年この業務において事務局で作られる簡単なマニュアルにおいて、いまだに「バナーを持って立つ」という指示が書き加えられる様子はない。やはり「なぜか笑える感じ」が漂うからか、私としても自分からは積極的に「バナーを作って持った方がいいですよ」とは進言しにくいのである。

 なので毎年、私は無言のうちにバナーをプリントアウトし、折りたたんでカバンに忍ばせて、翌朝に朝日のあたるバス停につづく歩道へたどりついたら、同じく整理業務を担当する同僚やバス会社の人々と軽い打ち合わせをして持ち場について、ひとり静かにバナーを広げるのであった。


 そうして今年も桜の季節を迎え、つい先日も同じようにしていたわけだが、今回ここで初めて「大きな気づき」を得たのだった。


 ようやく、分かったのである。


 これは、私がこの10年あまりにわたって少しずつ親しんできた新しい趣味である「市民マラソン大会を沿道で応援する人」と、構造的にまったく同じことをしているのである。

走ってくるランナーにバナーを掲げて応援している沿道の客と、次々やってくる学生に声をかけながらバナーを見せてこちらの思いを伝えようとする私の姿は、やっていることが同じなのである。

 さらにいえば、別の趣味であるモータースポーツにおける「ピットウォールでサインボードを掲げるスタッフ」とも、やはり同じような構造なのである。

<イメージ画像 ↓ >
Pitboard

 だからこそ、このときの私はおそらく不気味なほどに満足げな雰囲気で歩道に立っているのだろうと思える。


 そりゃあ、まぁ、苦笑してしまうわな。

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2023.03.25

福井の書店「わおん書房」にて出会った『やりなおし世界文学』(津村記久子)で自分もやりなおしたくなった

出張で福井にいくことがあり、帰る前の空き時間に立ち寄れそうな本屋を探したら、「わおん書房」という小さい書店があったので行ってみた。

簡素なカフェスペースも備えていて、どの棚も「売りたい本しか置かないぞ」というこだわりが感じられるおしゃれな空間だった。

インディーズ系書店に来たからには絶対に何か本を買って帰ろうと、狭い店内を何往復もウロウロしていた私を見かねたのか、店員さんから「荷物をここに置いてもらっていいですよ」と声をかけていただいた。しかしよくみると私が肩からさげていた仕事用のカバン(着替えも入っていたからよけいにパンパン)が、店の中央に設置してある大きいテーブルに平積みされていた本たちを知らず知らずになぎ倒していたのでプヒャー! すいません! となった。

そうして気を取り直して、帰りの電車内で気楽に読めるようなコラム集みたいなものがちょうどいいだろうなとウロウロを繰り返し、装丁の良さも目をひいたので手にとったのが津村記久子の『やりなおし世界文学』(新潮社、2022年)だった。

Sekaibungaku

津村記久子さんと言えばサッカーのサポーターを題材にした小説があり、その存在を知ってはいたが、読んでいなかった。
なので、わおん書店のテーブル陳列を乱した申し訳なささに加えて津村記久子さんにも若干の申し訳なささを感じつつ、この本とともに帰路についたのであった。

でもこうした「実はまだ読んでません、すいません、テヘッ」というスタンスそのものが、この『やりなおし世界文学』のテーマともなっている。読書好きが高じてプロの作家となっても、なぜか読まずじまいで通り過ぎていった古今東西の名作文学たちについて、津村さんが「今まで読んでなくてすいません」の姿勢で一作ずつ向き合い、その感想を述べていくコラム集となっており、もともとは新潮社の『波』などに連載されていたものだ。

そしてこれが期待以上に面白かったのである。読み手としての津村さんの視点が絶妙で、ときに鋭く深く読み解いたかと思えば、下世話で小市民的なスタンスになったり、放埒な筆運びで世界文学の巨匠たちの仕事を語りまくる。

そもそも最初に登場するのがスコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』である。
「もういいかげん、ギャツビーのことを知る潮時が来たように感じたのだった。」
という書き出しで、あぁーこれを津村さんはそれまで読んでこなかったのかとまずは驚かされるわけだが、
「ギャツビーは、わたしには華麗な人には思えなかったけれども、人気がある理由は辛くなるほど理解できた。少なくとも、『華麗さ』と『男性用スキンケア用品の名前だから』という理由で避けている人であればあるほど、本書の切実さが刺さると思う。」
とあって、ネタバレをギリギリに回避しつつ、自分もこの本を読んでみたいと思わせる楽しげな文体が、「津村さんも面白いし、取り上げた名作文学たちも面白い(はず)」と感じさせるのであった。

あと、毎回のコラムに添えられるタイトルも秀逸なのが多い。アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』については「幼年期はべつに終わっていい」とか、サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』については「誰もがゴドーを待っている」とか、カフカ『城』に至っては「仕事がまったく進まない」とか、こういうノリで紹介されると、今まで読んでいなかった作品も中身ががぜん気になってくるのである。

普段利用するような大型書店だと、あまり「文学」のコーナーにいくことも少ないので、わおん書房のようなセレクトショップ的な本屋さんならではの出会い方でこういう本を知ることができたのはよかった。

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