2026.02.01

ただひたすらに、驚きをもって読んだ本:『コードブレイカー:エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史』

 戦時下のアメリカのある都市に、両親が共働きの家庭があった。家族で食卓を囲みつつ、母親も父親も、その日の職場であった出来事については何も語ろうとせず、お互いそれぞれの仕事についてはなんだかとても多大なプレッシャーを抱えているようなのだが、そのことで親どうしが言葉を交わすことは決してない。
 しかしその実、二人がともに関わっている仕事は、自分たちが暮らすこの国の命運を明日にでも左右させかねない役割を担わされているものだった。そんな状況にあることを、彼らの子どもたちは察知していたかどうか・・・

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 今回のブログで取り上げるのは2025年に読んだ本でダントツに面白かった本で、ジェイソン・ファゴン著、小野木明恵訳『コードブレイカー:エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史』(みすず書房、2024年)である。
 
 私は読んだすぐ直後に、本のなかに挟まっていた「読者カード」のハガキに感想と賞賛をびっちり書いて出版社に送ったほどであり、驚きとスリリングさが最後まで持続していった怒濤の読書体験だった。
 
 まず急いで付け加えるが、「驚きとスリリングさ」というのは自分自身が単に「そんなことも知らないのか」っていうレベルの歴史オンチなまま歳を重ねたせいでもあるのを先にお断りしておく。無知ゆえに些細なことにまで「そうなのか!」となってしまいがちではあるが、それにしてもこの本は、厳密な資料収集と分析に基づくれっきとした歴史書でもありつつ、その一方でジャーナリストとしての著者による書きっぷりによって、エンターテインメント小説のようにも読めてしまう。この絶妙なバランス感が、最後まで飽きさせずに読み通すことを可能にしている。

 もともとアメリカにおける暗号解読の歴史においては、ウィリアム・フリードマンという人物が筆頭にあげられ、「国家安全保障庁:NSA」(近年におけるエドワード・スノーデンの存在によって、自分のような一般人でもその名を強く認識するようになった組織だが)の生みの親のような位置づけで語られているとのこと。
 で、本書はそのウイリアムの妻であるエリザベスを主人公として取り上げている。エリザベスもまた共に暗号解読の手法を産みだし、そしてこの夫妻が育てた後輩たちとともに、驚異的な働きによって世界大戦のなかで暗号解読を成し遂げたのだった。しかし歴史のアヤというか、そこにはジェンダーの問題もあったのだろうけれども、近年にいたるまでエリザベスの存在にスポットライトがあたることはなく、この著者による綿密な調査により、機密解除によって公開された資料や、残された書簡、インタビューなどを通じてこのエリザベスのたどった数奇な半生が示されることになったのである。

「著者まえがき」ではこのように述べられている。
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エリザベスとウィリアムのフリードマン夫妻は30年間にわたり、子ども二人を育てながら、二つの大戦時にやりとりされた何千もの通信文を解読し、密輸ネットワークや、ギャング、組織犯罪、外国の軍隊、ファシズムについて秘密のほころびを探り当てて突破した。二人はまた、暗号学(クリプトロジー)なる新たな技術を考案し、暗号作成の手法を一変させた。夫妻の慧眼から得られた成果は今日でも、巨大な政府機関から、インターネット上の個人のごく小さな活動に至るありとあらゆることの根底に潜んでいる。しかも夫妻は、数学の素養がほぼないにもかかわらず、これをやってのけたのだった。二人の生活を構成する基本単位は、方程式ではなく言葉だった。二人は心底、言葉を愛していた。言葉を練り上げ、引きちぎり、ひっくり返して格子やマス目や細長い紙片に並べ、白いメモ用紙に何行にもわたり書き連ねた。
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 たしかに暗号というと複雑な数理的処理が求められる印象が強いのだが、この本そのものも、ほとんど数学的な話が出てくることなく、限りなく平易な言葉で暗号解読のプロセスが示されているのが実にありがたい。

 大学を出たが将来に展望が見いだせない23歳のエリザベスは仕事を求めてシカゴを訪れるも、そこでも芳しい成果は得られなかった。失意のうちに故郷へ帰る前に、せっかくだから記念にと、当地の図書館でシェイクスピアの稀覯本を観てみようとなったことがきっかけとなり、とある大富豪の関わる風変わりな研究所にたどり着いて職を得ることになるというミステリー風味満載のエピソードには「マジで!?」となる。そしてそこで彼女はウィリアムと出会うことになるわけだが、そこから二人で暗号解読という未踏の作業に取り組んでいくことになる数奇なプロセスの端々にも「そんなことってあるわけ!?」と何度もつぶやいてしまいたくなる。

 結果的にエリザベスは沿岸警備隊に所属しながら、禁酒法時代には密輸船による暗号交信を解読する役割を担いつつ、やがてその能力や経験が軍事部門にも活用されることとなり、陽の当たらないオフィスで、弟子たちとともに敵国の軍事暗号文の解読を一手に引き受けていく。

 暗号解読ときくと、まずもってナチス・ドイツの暗号「エニグマ」の解読ということで、コンピューターの父と呼ばれるイギリスのアラン・チューリングを描いた名作映画『イミテーション・ゲーム』のことを思い出すが、同時期にアメリカ側でも、このフリードマン夫妻による解読が成功していたことが分かる。

 本書で取り上げられる主要なエピソードのひとつとして、ナチスが南米に傀儡政権を作ることをもくろみ、アルゼンチンに武器を輸出する計画のすべてが、エリザベスの手によって完全に解読されていたことが紹介されている。
 暗号解読で重要なことは「暗号が解読できていることをいかに敵に悟られないようにするか」という点であり(映画『イミテーション・ゲーム』でもその問題については観る者に深い葛藤を突きつける切ないエピソードを通して描かれている)、なのでナチスによるアルゼンチンとの交渉も、その進行過程は逐一エリザベスによってすべて筒抜けとなっていたが、そのことを気づかせないようにしながら敵国の狙いを阻止するためにどのように動くのかは、非常にギリギリのところの判断が必要となる。

 結果的にわずかなほころび(というか、ドジな人)を突いて、水際で武器の輸出入計画を阻止できたのだが(その作戦に関与したイギリス軍のやり方がちょっと失笑してしまうほどの強引さだったにせよ)、当然ながら初めて知りえる舞台裏の秘史に「マジで!?」をここでも連発しつつ、ヒトラーの野心を打ち砕くひとりのアメリカの母親、という緊張感あふれる構図は読んでいてひたすらハラハラする。
 
 と同時に、アメリカにとってのもうひとつの敵であった日本軍の暗号通信も、やはりエリザベスの解読によってその作戦計画や行き交う情報はことごとく読み切られており、その影響で多大な戦死者があったことも日本人の読者としては直面させられるわけである。

 そしてエリザベスもウィリアムも、第二次大戦期にはそれぞれが別々の暗号解読に従事していたわけだが、極秘の機密情報を扱う以上、たとえ夫婦間であってもお互いが知り得た話を伝えたり相談しあうことはタブーであった。さらにウィリアムのほうは激務によって心身ともに衰弱していき、その原因は容易に想像できても、それ以上のところでどうにも力になれずに見守るだけしかできない苦渋のエリザベスもまた、自身の任務を抱えながらの過酷な日々を過ごしていた。

 先に引用した「著者まえがき」にあったように、エリザベスとウィリアム、そして子どもたちとのあいだにおける「言葉を愛する心」は残された手紙の端々から伝わってきて、そしてそうした個人としての「言葉をめぐる好奇心や探求心」が、巨大で醜い政治的軋轢や敵意に満ちた戦時下において、歪んだ思惑の際をすり抜けて急所を突いていく。その目的や役割は当然ながらポジティブなものではないが、一人の好奇心旺盛な女性が人生を賭して取り組んだその驚くべき粘り強い仕事を、この本は冷静な筆致のなかに深い敬愛の念を込めて讃えている。

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2026.01.02

津村記久子と大神神社とキング・クリムゾン

2026onenga

今年もよろしくおねがいします。

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初詣は今年も奈良県桜井市に出向き、大神神社へ行った。
自分はずっと奈良県で生まれ育ったが、昔は大神神社のことは何も知らず、その存在を意識して行くようになったのは京都で一人暮らしをしてからだった。わりとパワースポット的なものに興味があり、その流れで行ってみて、たしかに良い空気感のある場所だなぁと感じたのがきっかけである。

そこから毎年正月にはここで祈祷をしてもらうようになり、それなりに平穏無事に楽しく生きているので、いつもいつもありがとうございます~というノリで今年も新年早々大神神社に行ってきたのである。

で、京都からだとそれなりに小旅行といえる距離感で、長く電車にゆられることになる。なので車内では本を読むわけだが、今回持ってきたのは津村記久子が2012年に発表した小説『ウエストウイング』の文庫本だった。

この本を選んだのは「津村記久子でまだ読んでいない作品はどれだろうか」とふと思い立って、大晦日に書店に行って検索機で調べ、手ごろな文庫版で在庫があったのがこの本だけだったという次第であり、正月に読もうと思って買っておいたわけである。

そうして、奈良へ向かう電車のなかで何の気なしにこの文庫本を読み始めて、75ページの最後のところにさしかかると、こんな一文があった。

「二つ年下の彼女とは、初詣にどこへ行くかという話をした。彼女の夫の実家が奈良なので、毎年大神神社に行くのだそうだ」

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「ふおぉ~、偶然ぐーぜん! 津村センセイ、いま僕は、その大神神社に向かってるって~!」

ということで、この軽いシンクロニシティ的な偶然にちょっと驚いて、なんだか新年早々いいことありそうだなと思った。

で、

津村作品ではしばしば、唐突に説明抜きにサブカルチャーの固有名詞が文章のなかに出てくることがあり、分からない人にはなんのこっちゃ、となりかねないワードが効果的に差し挟まれることがある。

それで、さきほどの偶然の余韻をすこし引きずりながら、さらに読み進めて、そのあとすぐの99ページ目。

物語の進行上、ここでは、ある「顔」をめぐっての描写説明が入るのだが、そのなかで

「その顔が『クリムゾン・キングの宮殿』のジャケットに似ているのではないか、」

といった具合で、キング・クリムゾンのファーストアルバムである『クリムゾン・キングの宮殿』というワードがこのページだけで4回登場する。


実は私はこの本を読みながら、電車のなかでずっと聴いていたのが、キング・クリムゾンの曲だけを集めた自作プレイリストだったりする(笑)

Kyuden
「どひゃー!」

そのプレイリストは惜しくも『宮殿』に関わる曲は入っていなくて、昨年11月ぐらいに思い立ってサブスクで検索して集めた、クリムゾンのライヴの定番である『トーキング・ドラム』と『太陽と戦慄パート2』の2曲が連続して演奏される、さまざまな年代のライヴ音源だけを集めたもので、ひたすらこの数週間はこのプレイリストをループで延々と聴き続けることが多かったのである(自分のなかで、この曲にはある種のセラピー的な効能があるんじゃないかとすら思っていて、聴き飽きない)。

そんな状況で、この小説を読みながら、「えええええクリムゾンってー!!」と、ひとりでまさに「戦慄」を覚えていた。

そんな正月でした。
ほんと、いいこと起こってほしい。シンクロニシティ大歓迎。

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2025.12.30

着ぐるみの中の人になってみた

 このあいだ職場で実施するイベントに際して同僚から私に電話があり「着ぐるみに入ってもらうことはできないでしょうか」という突然の打診を受けたので「やりたいです。ぜひやらせてください」と即答した。

「きっとタテーシならやってくれるだろう」という見込みは、ものの見事にその通り、的中である。まぁ、来年で49歳だけどな。

 で、その際に着ぐるみの概要について簡単な説明をうけたのだが、何やらちょっと不穏な気配を感じたので電話を切ったあとすぐ自分でも調べてみた。(この件をブログに書くにあたってはあらゆる具体的な名称は今回すべて伏せさせていただきます)それは某都道府県の違法薬物対策キャンペーンの一環として公募採用されたキャラクターで、パッとみたらとても可愛い男の子なのだが、よくみたら頭の上に、注射器、大麻、ドクロ、薬品のビン、怪しい錠剤が乗っているという、なかなかアッパーなデザインのキャラクターであり、妙な着ぐるみを二つ返事で引き受けてしまった・・・と頭をかかえた。

 

 

Kigurumi

▲自分で模写してみた。

 実際、このキャラの発表当時はネット界隈でもちょっと話題になったようで、「防止するどころか自分自身がヤバいのでは」と揶揄されたりもしていたようだ。よく調べると、設定としては「薬物におぼれた友人を救うべく立ち上がった男の子」ということらしい。まぁ、そりゃそうするしかないよな。

 今回のイベントにおける位置づけとしては、会場にいくつかあるブースのなかで、違法薬物の蔓延防止キャンペーンにかかる展示発表が行われており、それのPRという目的でこの着ぐるみを借りられることになったようだ。そして役所の担当者などは当日来ることがないと聞き、そこは正直なところホッとした。つまり自分の動きは自由裁量がきくことになり、休みたいときに休めそうである。加えて「受け持っている展示会場の入り口から少し外に出て、建物周辺にいるイベント来場者に向けて展示会場そのもののアピールを行い、会場に立ち寄ってもらうように呼び込むこと」もこの担当部署の上司からは期待されているようだったので、ブースを離れてのんびりと自由に動き回って来場者と触れあえそうだった。

 本番の2日前にその着ぐるみは職場に到着した。担当部署の上司自らがクルマで役所に出向いて着ぐるみを借りてきたらしく、でかい風呂敷に包まれた頭と胴体とクツは、上司のセダン車で一度に運ばれたことが信じがたいボリュームだった。そこまでして持ち込まれた着ぐるみを、私が着て「やっぱり動けませんでした~」となったらどうしようかとさらに不安がつのり、恐る恐るその部署のスタッフの力を借りてまずは装着してみたわけだ。

 最初に頭部をかぶったとき、丸くて暗い空間のなかで、自分の呼吸する音だけが静かに聞こえるだけだったので、私は映画『2001年宇宙の旅』のクライマックスの場面を思った。BGMを流すことなく、HALの淡々とした機械音声と、人間であるボーマン船長の息づかいの音だけが延々と続き、ほかに誰もいない静寂の宇宙空間における途方もない絶望的なまでの孤独感をスタンリー・キューブリック監督は巧みに表現していたが、あの名作シーンも着ぐるみの中も、「非日常感」という意味では共通している(強引)。

 視界については、着ぐるみのオデコのあたりに書かれている文字「薬物乱用防止」の背景部分が細かい網目状になっていて、そこからかろうじて外が見えるようになっていた。そして人形の目玉にあたるところは自分の胸下あたりに位置し、その目玉は自動車の窓とかに貼るスモークスクリーンのようになっていた。そのため外側からは黒い目玉にみえるが、内側からはサングラスをかけたときのように外が見られるようになっていて、それで足下の様子が確認できるようになっていた。よくできている。

Shikai

▲外の世界を認識するための網の目

 しばらくその暗闇の孤独感を味わったのち、着替えに使っていた小部屋からノソノソとドアをくぐりぬけて事務室の面々に会おうとしたら、頭がうまく通らずドアに頭をゴツンとぶつけながらジタバタしてしまう。目の前の格子ごしにうっすら見える同僚たちがひとしきり指をさしてクスクス笑う状況を自分も楽しむ余裕があった。ひとまずは自分の太りぎみの体が着ぐるみに無事にフィットしたことに安心した。

 こうしてイベント当日を迎える。11月初旬のいい天気の日だった。

 この日ひたすら着ぐるみをかぶり続けていた私の感想は、「暑い」「怖い」「でも楽しい」、これに尽きた。

 まず、とにかく暑かった。たしかに11月にしては天気がよすぎて気温が高めだったのもある。着ぐるみというのは、たしかに文字通り「ヌイグルミ」なのであり、そこに己の肉体が同化していく装置なのだということを改めて思い知った。何もしなくても汗が流れ続け、この日だけはメガネではなく使い捨てコンタクトレンズを装着しておいたのは大正解だった。自分のかいた汗や、吐く息のせいで湿度は上昇し、着ぐるみの目にあたる部分のスモークスクリーンが内側から結露し、足下を確認するはずの視界が水滴だらけでよく見えなくなっていった。

 これを翌日返却するにあたり、私の汗の染み込み具合はどうなんだろうか、次に使う人はどういうニオイに見舞われるのかと不安になるレベルで一日中ずっと汗をかきまくったのである。

 自分が受け持っている会場の室内にいるよりも、屋外にいたほうが冷たい空気が体内に少しだけ流れてきていくぶん過ごしやすいことが分かってきた。なのでほとんどの時間は玄関先エリアの日陰部分を選びながら「ここには何かがあるよ~みんな来てね~」といったアクションをし続けることにした。そしてそうなると、今度は建物の周辺エリアを散策していた子どもたちがこちらをめがけて四方八方から寄ってくるという状況になっていく。

 何が怖いかって、こういう子どもたちであった。
 特に「親がどこかに行っていて、単独でこっちに突っ込んでくる男の子」が、とっても怖い。
 このことはある程度事前に予想できたことであるが、親の監督下にない状態の子どもにとって、着ぐるみは非日常の意味をはき違えることが一方的に許される存在対象と化すのである。

 何せ、この着ぐるみの胸の部分には「NO DRUGS」というメッセージがプリントされていた。この言葉こそが、この日の私が同一化している寡黙なキャラクターが全世界の人々に伝えたいことのすべてなのである。
 しかし今こうして汗まみれの狭い視野のなかで私が受けている激しい振動や感触を通して、抱きついてきたり手や足を振り回しているのであろうと推測される子どもたちには、このメッセージの意味を理解してもらえそうな気配はない。もし親が近くにいる場合なら「これはこういう意味なんだよ」という解説が入ることを期待できるのだが、単独で突進してくる幼い子どものなかで「英語が読めてその意味が理解できる子ども」がいればそれなりに驚くべきことであるし、そこからさらに「ドラッグという英単語が広義では薬品のことであるとふまえつつ、この文脈では違法薬物を指していることも的確に理解している子ども」がいれば、そっちのほうがさらに驚いてしまうとともに、ちょっと心配にすらなるだろう。

 いずれにせよ、そんな子どもたちに喫緊に伝えたかったのは、ノー・ドラッグの前に、まずはノー・バイオレンスのほうだ。

 無尽蔵のスタミナを誇って延々と迫り来る子どもたちからは頭部のパーツを外されないように気を付けつつ、彼らからは「なんかしゃべれ」という圧をかけられ続け、こちらは無言の身振り手振りでごまかし、それでも食い下がってくる子たちには、いっそのこと自分から頭を外し、汗だくのオッサンによる怒号を飛ばしてしまうという、ある種の一線を越えたい誘惑に何度もかられたが、そこはなんとか耐えた。

 執拗に着ぐるみを取り囲んでいると、なかには鋭い観察眼を持った子どももいる。この着ぐるみは私の体の大きさではすこし窮屈だったため、胴体と腕のパーツのあいだに、私自身の体がどうしても少し露出してしまう箇所があるらしかった(中にいるとそれがどういう様子なのかが見えない)。たまたま黒い長袖シャツを着ていたから目立たなかったが、すかさずそのスキマを見つけてしまった子どもは、なんともいえない気持ちになっていたように思う。モノゴトの裏側、オトナの事情をかいま見てしまった瞬間であり、なんともリアクションしにくい部分を、この私の生身の腕から感じ取って「一気に冷める」ようであった。

 そんな子どもたちの中には、親に促されても決して私に近寄ろうとしない子もいた。そりゃそうだろう、笑顔なんだけど頭に注射器やドクロをつけたキャラクターなので、「行っていいかどうか」の判断がつきにくい。逆にそういう子のほうが例えばオトナになって海外旅行とかでもトラブルに遭わない可能性が高い気がするので、親御さんには「あなたの子育てはうまくいっている」と声をかけてあげたかったがもちろん黙っておいた。でもこうなると自分もプロ意識がムダに刺激され、どうにかして「自分は怖くない、かわいいキャラなんだよ~」ということを必死にジェスチャーで示したくなる。どうやったら子どもに親しんでもらえるパフォーマンスを繰り出せるかというのは、普段の私が1ミリも考えないことでもあったので、これはこれで良い経験になったと思う。

 そうかと思えば、老若男女いろいろな人が私のところへ近寄ってきては、口々に「かわいい」と言ってくれたりするので照れてしまうし、女子学生たちからは次々とセルフィーを一緒に撮ってもらえたりするし、ある女の子からは「だいすき」とまで言ってもらえたりもした。私からはまったく何も喋っていないのに、初対面で「だいすき」である。こうなると、着ぐるみの暗い頭部から見える世界を眺めながら、今までの人生で自分が女子に好かれようと必死に試みてきた数々の努力や苦労はいったい何だったんだろうかと、ふと我に返ってしまいそうにもなる。

 そんな私の苦闘ぶりを、忙しいなか折に触れて様子を見に来ていたらしい担当部署の上司は「例年になく展示会場にたくさんの人をひきよせて、子どもたちが楽しそうに着ぐるみと触れあっている!」と認識していたようで、私のところにやってきては健闘を称えつつ、あまりに私が多くの時間を屋外で子どもたちと過ごしていることを心配もしてくれていた。長いあいだ外にいるのは着ぐるみの内部にひたすら冷気を取り入れたいがための「命を守る行動」の一環であったが、そのことは黙っておいた。
 結局はその担当部署の上司がいつになくうれしそうにしていたので自分としても、この着ぐるみ体験はやってよかったし楽しいものに感じられたわけである。

 あと普段から私はよくJリーグの試合会場でもマスコットに熱視線を送るファンの一人でもあるが、特に夏場の試合などでも黙々と求められるアクションを繰り出し続けているマスコット着ぐるみの労苦を思わずにはいられなかった。いつだってフレンドリーに我々ファンへ手を振ってくれているが、きっとその中は汗だくでむちゃくちゃ苦しいはずだ・・・と思った。

 ちなみに、会場内に設けた自分専用の控え室で休憩をとるとき、必ず現場担当の学生スタッフさんに声をかけて一緒についてきてもらい、控え室のなかで着ぐるみの頭部を外してもらう手助けをしてもらっていた。そして学生スタッフさんの担当シフトの関係上、休憩のたびにいつも異なる学生さんたちが私を手伝うことになった。なので可愛い着ぐるみの頭部を外したら「バンダナを巻いた汗だくの疲弊したオッサン」が現れるという状況だったので、そのとき学生さんが浮かべるビミョーな表情を私はいつも楽しみにしていたりもした。

 こうして着ぐるみ係をやりきった私はその日の「業務」を心から楽しんだわけだが、職場からの帰り、電車に乗るべく駅を歩いていて、向こうから子連れの家族を見かけると、つい反射的に手を振りかけてしまい、慌ててごまかした。

 これはもしかしたら「着ぐるみの中の人あるある」なのかもしれない。 (了)

Ashi

▲また、このクツに足をつっこむ日がくることを楽しみにしている

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・・・というわけで、今回も長文の記事となりましたが、今年もこのブログを読んでいただきありがとうございます。
読んだ本の話とか書きたいことがいろいろあるのですが、それはまた追々、少しずつ書いていければと思います。

2025年もいろいろなことがあり、ショックだったり考えさせられることがあったり、ただひたすら楽しかったりグッとくるシーンもあったりですが、とにかく前へと進むしかないですね・・・

この「前へと進む」という意識付けについては最近強く思うところがあって、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の最後の一文が、

「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも」 (村上春樹訳)
となって物語が終わっていくわけですが、この原文
「So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.」
が、どうして英語ネイティブの人にとっては美しい名文だと感じられるのかを、つい最近ChatGPTさんに尋ねてみたら、「うぉぉ!!そうなのか!?」という発見が炸裂しまくって、それ以来この文章がマイブームになってるところです。

「舟」って、車とかと違って必ずしも自分が制御したとおりに精緻には動いてくれなくて、それでも自分を乗せて何らかの流れには乗って進んでいくわけで、それはまさに生活に似ているところがあるなと、つくづく思う次第です。

そんなわけでこのブログ恒例の「今年よく聴いた一曲」で締めくくります。
羊文学『あいまいでいいよ』

 

 

いい流れがたくさん、きますように。

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2025.10.12

なぞかけ配達員さん

 職場で自分がいる部署に、たまに来る配達員のおじさんがいる。少年がそのまま歳をとった感じで年齢が判別しにくく、目がギラギラしている。陽に焼けて色黒くやせ細っていて、やつれた感じがうかがえるところに運送業の大変さを思わせるが、いつもどこかしら「昨晩は深酒しちゃいましてね」と言いたげな雰囲気でフラリとやってくる。

 このおじさんは荷物を配達して普通に帰って行けばいいものの、しばしば「つぶやき」が付け加わってくるのであった。例えば受領書と控えの伝票が2枚セットになっているものを、1枚はがして持ち帰るにあたり、そのおじさんは「これがぁ~! いっつも、ウマくできないんですよねぇぇ~何年このシゴトしてんだかねぇぇぇ~」と自虐的にわめきながら、実際にぜんぜん薄紙がめくれずに苦闘していたりする。

 こういう「可愛げのあるボヤキ」が、状況を問わずついつい口にでちゃうタイプのようで、俳優でいえば『北の国から』の田中邦衛を彷彿とさせるような昭和感をふんだんに放っている。おそらく仲間から麻雀に誘われたら、弱いくせにいつもホイホイ張り切って参加するものの、案の定たくさん負けまくって、その「ボヤき節」が皆からの笑いを誘うような、そういう姿を想像させてしまう人の良さがある。令和の時代において、もはやこういうおじさんは絶滅危惧種のような気もしてくる。

 その日も配達員のおじさんは我々のところへやってきて、同僚のTさんが応対した。最近この部署に異動してきたTさんはすぐれたコミュニケーション能力を持っているため、このおじさんともすぐに仲良くなり、近頃はもっぱらTさんが配達員さんの相手をして、しばらく談笑するまでになっていた。

 デスクの配置上、いつも私は彼らの談笑には背を向ける位置で仕事をしているのだが、この日は配達員のおじさんが突然Tさんに「なぞかけ」を出題してきたもんだから、それを背中ごしに耳にした我々もすかさず仕事の手を止めて振り返り、おじさんに向き合うこととなった。

「夏バテとかけて、宇宙に出ちゃったと説く。そのココロは?」

と、おじさん。

お、おう・・・。

ううむ、さっぱり分からない・・・。
同僚たちも首をひねる。

おじさん、ドヤ顔で甲高い声をあげて、


「こたえ、『くうき』がない!」


ああぁぁああぁぁあぁ~!!
なるほどおおぉぉおおぉ!!
「食う気」ね、はいはいはい!!

そもそも「なぞかけ」と真剣に向き合うことになるのは、少なくとも21世紀に入ってからは初めてのことだと思えるので、こうした「トンチを効かせていく感覚」が異様に新鮮だったりする。

我々のリアクションをみて興に乗ってきたおじさん、得意顔で第二問。

「大雨とかけて、鍋料理と説く。そのココロは?」

ううぅ、これも分からない。
雨? 鍋? なんじゃそりゃ。
またしても、みんな答えが出せない・・・。


「こたえ、あとはゾウスイ!」


うおぉうおああおあああぁぁぁぁ~!!
くっそおおおお!!! 
面白いやないかい!!

ここまでくると、我々のほうから「師匠、もう1問ください!」というノリになっていた。

つづけて第三問。

「次も大統領選挙に出たがるトランプとかけて、人の来ない神社と説く。そのココロは?」

これはすぐ分かった! 
私もドヤ顔で即答。

「再選(賽銭)がない!」「正解!」


第四問。
「カルメンとかけて、危ない電話と説く。そのココロは?」


「・・・オレオレ!?」「正解!」


もはやここまでくると「なぞかけ的思考」のコツがつかめてきたようで、嬉しくなった。

こうしてひとしきり盛り上がり、私の悪い癖というか、書き手としてのサガというか、「これはブログのネタになる」と思ってしまうと、ついこのおじさんにインタビューっぽく尋ねてしまうわけで(仕事に戻れよ)、どうしてなぞかけに興味を持つようになったのかを聞くと、「配達中のクルマのなかでいつも聴いてるラジオ番組でなぞかけのコーナーがあり、自分もよく投稿している」とのこと。

ラジオを聴きながらハンドルを握る手でパン! と膝を打ち「ハッハー! ウメぇこと言いやがるなぁぁぁ~!!」とか唸っているおじさんの姿が容易に想像できてしまう。

今思うと、あの日に出してくれた問題もおじさんの「自信作」だったかもしれない。そのことを聞きそびれていた。

しかしそれをあらためて訊く機会が今後はなさそうである。なぜなら、この日おじさんは帰り際にこう言ったのである。


「実は今日で私はこのエリアの担当を外れますので、
みなさま、ごきげんよう!!」


さんざん「なぞかけ」を出して、名前も知らないままのおじさんは我々の前から去っていった。

なんだかコメディ映画のワンシーンのようであった。
なぞかけ配達員さんに幸あれ。

251012nazokake

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2025.08.25

コカコーラ社のCoke ONアプリを作った人たちが読んだら手を叩いて高笑いするだろうから心底腹立たしいが、悔しまぎれにブログのネタにさせてもらう

 これまでも私は、外出先で飲み物を買いたい場合は極力スーパーやドラッグストアで買うようにしており、そして職場へは水筒に白湯を入れて持参し、できるだけ自販機で飲み物を買わないようにして無駄な出費を抑えるように努めてきた。

 そんな慎ましやかな(=ケチくさい)私のスタンスが、最近になってコカコーラ社のCoke ON(コーク・オン)のアプリをスマホに入れたことによって崩されつつある。

 だいぶ以前からこのアプリが存在していることは街で見かける自販機で知っていて、小銭がなくても電子決済で飲み物が購入できるんだろうなぁ、という程度の認識でいた。
 そんな私だが、遅ればせながら最近はいろんなお店の専用アプリをスマホに入れて会員登録し、少しでもお得に買い物をしようという流れに乗っかるようになり、このコーク・オンのアプリにしても、今年の春頃に「これから暑い時期になれば、外出先でやむなく自販機でお茶やお水を買う機会が多くなるだろうし」という軽い気持ちでアプリをダウンロードしてみたのだが・・・さすがに天下のコカコーラ社と言わざるを得ない、まさにマーケティング学の英知を極めた凶悪的なまでの戦略に、すっかり丸め込まれてしまったのである。

Cokeon

 今回も長文になるこのブログ記事を律儀に最後まで読もうとしてくださる方々のなかで、このコーク・オンのアプリにはまったく興味関心のない方々にまず説明しておきたいことがある。普通にお金を入れて自販機から購入する場合と違って、このアプリを使って購入したらどういうメリットがあるのかという点であり、それは「スタンプ」にある。アプリで購入するとスタンプがもらえて、これが15個たまると好きな飲み物が1本無料でもらえるのだ。昔からいろんな業種のリアルなお店で行われている「お得意さまスタンプカード方式」を、コカコーラ社はスマホ時代に商機を見出し自販機での買い物にまで適用して、ユーザーを囲い込もうという所業である。

 そしてこのスタンプを集めるうえでは「条件達成でスタンプが2つもらえる!」というようなお約束通りの「キャンペーン」がいつも行われていて、そしてスマホの万歩計機能と連動させて、目標の歩数を一週間で歩ききったらスタンプがもらえたりする。もともと普段からせっせと歩いておこうと意識的にがんばっている自分としてはもっと早くからこのアプリを導入しておけばよかったとすら思ってしまう。

ちなみにこのコカコーラ社のスマホ対応自販機でアプリから飲み物を買うときは、「スマホを悪用したハッキング行為によって自販機から飲み物をくすねているような疑似体験」を思わせるので、なんだかこの行為自体が楽しく思えてもくる。

そうこうしているうちに、ある日気がつけば自分でも予想以上に早いタイミングでスタンプが15個たまり、アプリには「交換チケット」なるものが表示された。あらためて自販機にスマホを接続させて、恐る恐るそのチケットを利用してみると、選んだ商品がゴトンと受け取り口に落ちてきた。冷静に考えると結果的にはそこまでお得でもないのだが、「自販機からタダで飲み物をもらう」というこのサイクルを一度体験すると「よし、またスタンプをためよう」という気持ちに傾いてしまったのである。

で、ここからこのアプリのネタはさらに展開していくのですよ。
これまでは「前フリ」の説明なのですよ。
恐ろしいマーケターたちの謀略は、ここからが本番なのですよ。

先に述べた「ウォーキングの歩数によってスタンプがもらえる」というのはアプリのなかの「チャレンジ」というカテゴリーによるもので、他にもさまざまな「チャレンジ」が用意されている。

で、そのなかで「チーム」という表示があったので何気なく開いてみた。
するとそこには「コーク・オンを利用するお友達、仲間同士でチームを作って、一緒に協力しあったり、競い合ったりしてチャレンジ達成を目指しましょう」とある。

複数人で協力すればスタンプがさらに集まりやすくなるメリットに突き動かされたのと、「チームを作る」という行為自体に面白味があったので、すかさず自分でチームを作ってみた。チーム名はこのブログのタイトルでもある「HOWE_GTR」にした。

Teamhowegtr

しかし、ここからが問題だった。
身の回りに、このアプリを使っているという人がなかなか見つからないのである。

チームを創設した直後にたまたま次姉に会う機会があったので、コーク・オンのことを尋ねてみたら「何それ?」という素っ気ない反応で、その後も会う人会う人にその話題をふってみるも、往々にして似たような反応をされてしまうのであった。コカコーラ社の公式サイトでは「6500万ダウンロード突破」と景気良く書いてあって、それは日本の人口の半分近い数字だが、私の体感ではまったく信じがたいのである。

そして話題をふってしまった以上、ここで私は自らが実践するコーク・オンアプリの利用やスタンプ収集についてクドクドと説明をしてしまうのである。つまりこれは、我々ユーザーがコカコーラ社の営業活動に率先して荷担していることに等しい。私はそうやってこの数ヶ月、周りの人たちにコーク・オンアプリの宣伝活動を行ってしまっているのであった。

先日もたまたま職場で後輩にドリンクをおごるという流れになったとき、哀れな後輩は私から嬉々としてコーク・オンについての営業じみたトークを聞かされ、当然のようにコカコーラの自販機の前に連れて行かれて「この中から飲みたいものを選んでほしい」と頼まれるハメになり、しまいには「アプリを登録して、タテーシが作ったチームに入らないか」と勧誘されるのである。もはやこれは「アプリ・ハラスメント」と糾弾されても仕方のない事態である。そのうえ私のやっていることは、なんだかマルチ商法の勧誘みたいにも思えてくる。実際、このアプリではお友達が登録すれば紹介した自分にもメリットとなってスタンプがたくさん手に入る仕組みになっている。非道だ。

ちなみに、終始その後輩はアプリにはまったく興味がわかない様子であった。そういうものである。

しかしそもそも、この歳になって「オレのチームに入らないか」と人を誘うシチュエーションっていうのも、なんなんだろうなとは思う。

このような状況において、「あの人ならば」と思った人物がいて、それが同僚のタスク氏である。思えば以前の記事(こちら)でも紹介したように、スマホに疎い私にスターバックスでモバイルオーダーの利用方法を目の前で実演してくれた人でもあり、そんな彼ならばきっとコーク・オンのアプリだって使っているんじゃないだろうかと踏んで、探りを入れてみたら案の定ビンゴだった。ここぞとばかりに私は自分のチームを立ち上げたことを説明し、メンバーに加わってもらえることになった。(『誰もみんなアプリを使っていない』とタスク氏にボヤいたら、『スタバのモバイルオーダー知らなかった人がなんか言ってる・・・』と返された)

ちなみにチームは最大8人まで組めることになるのだが、ひとまずタスク氏と私の2名体制で「チーム・チャレンジ」に臨むこととなった。

さて「チーム・チャレンジ」は主に2つの種目があり、ひとつは「100本チャレンジ」である。チームで購入した合計本数が100本になるたびにスタンプがもらえるとのことで、これは2人で達成するにはだいぶ先のことになるだろう。どんなけ買うねん。

そしてもうひとつが「BINGOチャレンジ」である。
これは毎月ごとにビンゴカードが提示されて、マスごとにコカコーラ社のさまざまな商品が並んでいる。つまりチームの誰かがこの中の商品を自販機で買えばマスが埋まっていき、ビンゴの要領でタテ、ヨコ、ナナメをそろえていく。その成果に応じてスタンプが手に入るという仕組みである。

Cokeonchallenge

ここまで読んでくれた方ならすぐに察しがつくとおり、これによって「普段だったら買わないような商品まで選んでしまう」という、マーケティング戦略における類を見ない巧妙な策略により、カモの我々は踊らされていることになる。

はっきり言わせてもらう。これ考えた連中、天才だし、悪魔だ。

前もって「お互いに無理はしないように」と言い合ってはいても、この「仲間の購買行動がスマホで分かってしまう」という状況が、今までに味わったことのない集団力学における機微をもたらすのである。数日後にビンゴカードをみたら、チームメイトが果敢にもいろいろな飲料を購入していたことが手元のスマホで確認できてしまい、その意欲的な購買行動に賛辞を送ると、タスク氏からは「代わりに缶コーヒーと『いろはす』飲んでおいてください!」とメッセージが返ってきて、「よし分かった! それなら自分は缶コーヒーを買うとするか!」と前のめりになってしまう・・・いや、水飲めよ! また太るぞ! と、本来なら見舞われる必要がなかったはずの葛藤のなかで自販機に舞い戻ってしまうのである。これが鬼畜マーケティングといわずになんといおう。

さらにですよ。

チーム名が表示されている近くに王冠のマークがついていて、そこをクリックすると「今月のチーム内でもっとも購入本数が多い人」「今月もっともたくさんの種類の商品を買った人」「今月もっともいろんな場所の自販機で商品を買った人」という部門に分かれた「マンスリーランキング」が表示されてチーム内での競争が盛大に煽られ、各部門のトップにはスタンプがボーナスでもらえる可能性が出てくるのである。
私なんかは「うむ、自販機バリエーション部門でトップを狙おう」と思ってしまうと、街を歩いていてもムダにコカコーラ社の自販機の存在を意識してしまうことになり、完全に会社の思うツボなのである。

さらには、この暑い夏の時期、実際に炎天下を歩かなければならないような状況下で、「み、水を買おう・・・」と街中で自販機を探しても、そこにコカコーラ社ではない別会社の自販機しかなかったら「次を探そう・・・」となってしまうわけである。いや、すぐに買えよ、水を! と、ヘタをすると生命の危機にかかわりかねない事態に自らを追い込んでしまっている(そういうこともあり、最近はライバル社も同様のアプリ制度を導入したので、そっちのアプリも念のため入れてしまうという事態に陥っている)。

こうして個人的にこの夏でもっともホットな話題といっていい(他にないんかい)コーク・オンアプリをめぐる「チーム・HOWE_GTR」での闘いの日々を今回このブログで書きつづったわけだが、この記事を準備しているあいだも一向にチームメンバーが増える様子のないまま、我々2人は黙々と自販機に向き合っている次第である。

もし万が一、何らかの巡り合わせがきっかけで、狡猾なコカコーラ社のマーケティング担当者がこの記事を見つけて読んで大笑いした場合はだな・・・ええっと・・・そうですね、連絡ください、取材させてください(笑)

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2025.06.24

読売ジャイアンツのファンでもない私が「松井秀喜が巨人時代に東京ドームで打ったすべてのホームラン映像記録」を最後まで必死に見入った理由

ぼんやりと「次のブログ記事には、松井秀喜のことを書いてみようかな」と思っていた。そんな矢先、長嶋茂雄が6月3日に亡くなった。

テレビのニュース番組では、長嶋茂雄の告別式における松井秀喜の弔辞が放送されていた。原稿を読み上げるのではなく、まっすぐ長嶋茂雄の遺影を見つめたまま、絶妙なユーモアを交えつつ深い敬愛と尊敬の情に満ちた想いを語りあげた松井秀喜の姿には強い印象を受けた。翌日、私は弔辞の全文をネットでみつけて保存した。そういえば松井は読書家であることが知られているが、言葉を持っている人なのだと改めて認識した。

私は特に巨人ファンでもないのだが、在りし日の長嶋茂雄の明るくお茶目なキャラクターに追悼の思いを馳せつつ、そして忘れがたい弔辞を述べていた松井秀喜にもリスペクトを示しつつ、今回の記事を予定通り「明るくお茶目に」書いていく。

ちょっと前に、スカパーの日テレ・ジータスというチャンネルで「松井秀喜が巨人在籍時に東京ドームで打ったすべてのホームランの中継映像をダイジェストで次々と流す」という、記録映像のようなプログラムが放送されたのである。

たまたま番組が始まるタイミングにテレビの前にいた私は、ちょっとしたストレス解消みたいなものを期待するノリで、「ゴジラ松井」のデビュー当時のホームランシーンをいくつか見届けて、しばらくしたら適当に他のチャンネルに変えるつもりだった。

しかし、ホームランを打ちまくる松井秀喜の打席を次々と見ていくうちに、私はあることが気になってきてしょうがなくなり、結果的にその番組を最後まで食い入るように観続けたのであった。

それは、テレビに映るバックネット裏の席にいるお客さんたちの存在である。

次々とホームランを打つシーンだけがダイジェストに流れていくということは、すなわち視聴者である私は「神の視点」を得ていて、この対戦相手のピッチャーが投げる次の一球を松井が必ず打ってホームランにすることが分かっている。

Matsui1

そして、松井の打席を見つめるバックネット席のお客さんたちが、彼の描く豪快なフルスイングのすぐ直後に「ウワッ!」と一斉に沸き立つ様子が中継カメラに一瞬だけ捉えられる。このことに気づいた当初はその光景に微笑ましさを覚え、それぞれのシーンにおけるバックネット裏の状況に注目するようになってしまった。

で、そうしているうちに、さらに気になってしまうことが出てきたのだ。

松井秀喜がバットを振ってボールを打つという、まさにその瞬間に、

「隣の人の顔を見てしゃべっている客」

「ビールの売り子さんに気を取られているオジさん」


「まったく関係ない方向を見ている子ども」


「座席を移動する他の客のせいで、視界が遮られてしまった人」


そういう客が、まぁまぁいるのである。

中継テレビに映るような範囲のバックネット裏の座席は当然ながら特等席であり、調べてみると一般では販売されないような、いわゆるスポンサー枠みたいなもので、ここにもし座れるとしたら、かなり貴重な機会なのだろう。

そしてプロ野球の年間試合数をおおむね140試合として、本拠地である東京ドームでの試合がその半分の70試合ぐらいとして考えてみる。もし松井がシーズンで50本もの本塁打を記録するシーズンを送ったとしてその半分の25本を東京ドームで打つと仮定すれば、「東京ドームで松井がホームランを打つ可能性」は2.8試合に1回ぐらいになる。10試合連続で東京ドームに行っても2試合か3試合ぐらいしか観られないであろう松井のホームランを、しかもバックネット裏の特等席から観ることができたのなら、それはファンとして極上の体験だったといえるだろうし、特にファンでもない私だって、そんな機会があればものすごく観てみたかった。

なのに、だ!!

せっかくの、その機会に!!

松井が打つ瞬間をこともあろうに、見逃してしまった人たちが、いる!!

そんなお客さんたちが現場で味わったであろう心境を想像すると、なんともいえない気分になる。
松井のホームランの瞬間を犠牲にしてまで買ったビールは、そのあとどんな味がしただろうか(いや、まぁ、普通にウマイ!って思ったかもしれないんだろうけど)。
そして、他の客が自分の座る前を横切っているという刹那のタイミングで、よりによって松井がホームランを放ち、周囲が一斉に歓喜の声でわき上がるというのは、お互いにとって残念すぎるではないか。点が入ったことを喜びつつも、心中すごく気まずい空気が流れたはずだ。

というわけで、私の性格の悪さゆえに、そこから先は松井秀喜のバッティングに注目するのではなく「バックネット裏の、ちょっと哀れな人々」を瞬時に探しまくることに没頭していったわけである。

Matsui2

今となっては、あの番組を途中からでも録画して保存しておけばよかったと悔やんでいるのだが、今回の記事を書くにあたってちょっとYouTubeを調べたら、当時のプログラムを拝借しているとおぼしき動画が散見されるので、気になる方は自己責任で検索して観ていただければと思う。

もちろん、普通に純粋な気持ちで松井秀喜が次々とホームランを打ちまくる様子を観ているだけでも爽快感が得られるわけだが、バックネット裏の様子に集中して観るのも、梅雨時で外出できないときのヒマつぶしにはうってつけかもしれない。「あぁー! もったいない!」という気持ちしかわき起こらない、性格のねじれた不健康な遊びかもしれないが。

それでも今回あらためて動画を観ていると、ホームランを打ったあとにベンチに戻る松井を最初に出迎えるのは、当時の監督だった長嶋茂雄の朗らかな笑みであり、ひねくれた動機でこの「歴史のワンシーン」を観ている私のこともきっと長嶋さんだったら笑って許してくれるんじゃないかとも思う。ミスター、どうか安らかに。


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2025.06.02

2025KYOTOGRAPHIE:印刷工場跡地で過ごした日々のこと

 京都国際写真祭・KYOTOGRAPHIE(以下KG)が終幕し、昨年と同様にさっそくの「ロス」を味わっている。この一ヶ月のあいだ、休日を中心に11回ボランティアスタッフとして参加し、空いた時間にも他の会場の展示を観に行ったり、今年から行われた「KG+アカデミー」という講座のひとつであった「9枚から始める写真史(講師:タカザワケンジ氏)」を受講してみたり、関連音楽イベントKYOTOPHONIEで来日したパティ・スミスのパフォーマンスを鑑賞したりなど、忘れがたい濃密な日々が怒濤のスピードで過ぎていった。

 鑑賞者の立場から思ったことは前回の記事で書いたが(こちら)、写真祭がもう終わってしまう!という感情に駆られて自分の印象をあのタイミングで記しておいたことは、それはそれでよかった気がする。別れを惜しむ間もなく、すべての作品たちは「現場」からすみやかに取り払われて、すっかり日々は元通りとなり、祭りは過去のことになった。

 ありがたいことに私は会期の最終日において、京都新聞ビル会場にボランティアの担当を割り当ててもらったので、あの大好きな印刷工場跡地における展示会場の最後の瞬間に立ち会うことができた。ただし感傷にふける間もなく、最後のお客さんを送り出した鉄のドアの閉まる音が響くやいなや、撤収の作業開始を待ち構えていた関係者は粛々と動き出す。場所を借りるというのはそういうことなのだ。この空間で長い時間を一緒に過ごした会場担当リーダーの方々へも、あらためてじっくりと謝意を伝えることもままならず、ボランティアとしての我々はその場からすみやかに立ち去るしかなかったわけだが、あのときの気持ちをずっと抱えたままだからこそ、いまこのブログ記事をじっくり丁寧に書きたい理由になっている(なので、はい、今回も長文です、あしからず)。

 私は全11日間のボランティア活動日のうち、5日間もこの京都新聞ビルで過ごすことができた。活動日のシフト希望を出すにあたっては柔軟に要望を聞いてくれるのをいいことに「可能なかぎりたくさん京都新聞ビルの会場にあててほしい」というリクエストをダメモトでさせてもらい、そんなワガママを十分に汲んでくださったKGボランティア担当マネージャーのMさんには感謝しかない。

 今年の京都新聞ビル会場を舞台に展示されたのはフランスの写真家JRの作品であった。例によって私は、今回の写真祭での展示が決まるまでJR氏のことやその活動については何も知らなかった。
 もちろん、そういったアート方面の知識が乏しくてもボランティアスタッフを務めることにはまったく問題ないのだが、ときどきお客さんから質問を受けたり、その場で感想を自分に向かって述べてくれることもあったりするので(よほど誰かに何かを語りたい気持ちがわいてきたのだろうと思うと嬉しく感じる)、せっかくならば担当する会場の作品やアーティストについては自分ができる範囲で理解を深めておきたい気持ちがある。

 で、たまたまJRについては今回の展示に連動して『顔たち、ところどころ』という2017年制作の映画がUPLINK京都で期間特別上映されていたので、すかさず観に行った。これは当時33歳のJRと、87歳の映画監督アニエス・ヴァルダがコンビを組んでフランスの地方を旅し、そこで出会った人々やコミュニティを題材に、独自の手法で大きな壁画作品を作っていく過程を追った映像記録である。<本作のすてきな予告編はこちら

 二人が乗り込むのはJRのつくった不思議なクルマで、内部はスタジオになっておりそこでポートレイトを撮影し、やたら大きな紙に印刷された写真が出てくるという楽しげな装置を備えている。
 そうして人々の大きな顔たちを、廃れつつある住宅地であったり、職場であったり、さまざまな屋外の壁や建造物に大きく貼り出す。その壮観な光景をみるにつけ、「でかい」というだけで、それらは動物的な本能に訴えかけてくるのか、なんだか特別な面白みが感じられてくる。そして作品の当事者たちも、その場所や人々との結びつきをあらためて確認しあい、できあがった作品やその風景そのものからエンパワメントされていくような感じがあった。

 つまり「技術によってサイズの大きい写真を作品としてつくる」ことと「いかに作品を展示する『場』の力を活用するか」ということが、JRの作品としての妙味でありツボであると思った。
(そのほかにも、この映画全編を通してJRとヴァルダの間に流れるチャーミングな空気感もとても印象的で、ほのぼのとさせる)

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 今回のKYOTOGRAPHIEにおいて、JRはJR京都駅の烏丸口の壁面スペースを使って「クロニクル」シリーズの京都編を制作した。約500人もの様々な人のポートレイトを撮影し、コラージュし、ひとつの絵巻物のように構成することで、京都という街のありようを捉える試みである。この巨大な作品を構成する一人一人の姿であったり過去に世界中で手がけたプロジェクトの紹介展示を京都新聞ビル会場で行うことにより、「場」のもつエネルギーを取り入れたJRの作品を、駅と新聞工場跡地の2つの空間で味わえるようになっていた。

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 京都新聞ビル会場ではまず最初の展示エリアでJRの過去の作品や今回の「クロニクル京都」をめぐる展示を自由に観てもらい、そこから15分ごとの完全入れ替え制でオープンするビデオルームに進み、JRのインタビューおよび本プロジェクトに関わるメイキング映画を観てもらう。

Zone1

 そしてここから目玉の展示ともいえる印刷工場跡地にお客さんは案内される。真っ暗な状況で、目隠しになっていたシャッターがお客さんの目の前で開かれるとこの巨大空間の全貌が現れ、そこにはクロニクルの被写体から選ばれた10人の巨大化されたポートレイトがそびえ立っており、その中を通っていくという流れとなる。

 スタッフとしてこの「巨人ゾーン」のスタート部分を担当するときは、暗闇のなかペンライトを使って、ビデオルームから出てくる来場者の集団を所定の場所に誘導する。やがて担当のサブ・リーダーさんが注意事項を説明する(でも、ずっと真っ暗なのでお互いの顔は見えない)。説明を終えたリーダーさんがアコーディオンカーテンのようなシャッターの中央部分に近づくので、自分もその動きに応じてシャッターのハンドルに手をかけておく。そこからタイミングを合わせて真ん中から左右に分かれてガラガラと音を響かせながら体重をかけて重たいシャッターを開けていく。それぞれの表情は暗闇の中で見えにくいものの、大きな工場跡地で薄暗がりのなかに並ぶ巨人たちを目にしたお客さんたちが「うわぁ~」と反応する様子をダイレクトに感じられるのが毎回楽しかった。

Zone2
【 ▲ この写真は、通常の展示のときには設定されない照明の明るさのときに撮ったので、いつもはもっと暗かった】

 シャッターが開いたら、自動化された照明が順番に巨人を照らし、収録された本人の語りが所定のタイミングで流れる。彼らのメッセージはもはや何十回と繰り返し聞いているので全部のセリフを暗唱できそうなぐらいであるが、特に広島の被爆体験から生きのびた方の語りは何度聞いても心を揺さぶる。たまたま自分も3月に広島に行ったばかりなので、夕刻に原爆ドームのまわりを歩いたときの情景がそのままつながってくる。

 10人全員のメッセージが流れ終えたら、奥に控えるスタッフは鉄のドアを開けて、そこに屋外からの光が一気に差し込むことで出口があることを示し、それとなく退場をうながす。この「出口ドア担当」のときは、巨人のダイナミックな展示を見終えた直後のお客さんのひとりひとりの表情と出会えるのが楽しく、ここが新聞社の印刷工場跡地であることを認識していないお客さんになると、この異質な空間に圧倒されてやや興奮気味にこの場所について質問してきたりするので、こちらも嬉々として説明する。

 こうしてその場にいた来場者が全員退室したらまたシャッターも出口もすべて閉じて、暗闇のなかで10人の巨人とともに、次のビデオ上映が終了するタイミングを待ちつづける・・・という流れだ。まるで「お祭り」というものは最初から存在していなかったかのような、暗くて巨大な印刷工場跡地でたたずむ、あのひとときの静けさが忘れられない。外の世界は陽光まぶしい5月のゴールデンウィークだったりするが、鉄のドアをはさんで時間が止まったかのような暗い工場跡地で過ごすというのは、それ自体もある種のアート的な体験だった気がする。

Dark

 そんなわけで、この京都新聞ビル会場を担当するスタッフは一般的な写真展においてはなかなか求められないであろう心構えのもとで動いていた。ガチの工場跡地ゆえに出口の鉄製ドアはかなりチカラをこめてガツンと閉めないといけないし(でも出口に戻ってこようとするお客さんも稀にいたりするのですごく気をつけていた)、暗闇で迷ったりコケたり、仮設の手すりを越えて工場の地下ゾーンに落下する客がいないように気をつけるとか、ここは工事現場かよと思えるような注意喚起がシロウトの我々にもフツーに必要とされており、今年も期待通りに京都新聞ビル会場は本写真祭のなかでも屈指のデンジャラス・ゾーンと化し、毎日がスリリングな現場だったのは間違いない。

 それは同時に、お客さんの側にもある種の「負担」を強いる展示会場でもあったということだ。入り口で事前に注意事項を説明することを必須としていたので多少の緊張感を与えざるを得ないし、とくにビデオルームに入ってからは演出の都合上、決められた時間ごとに集団で一緒に動いてもらうという段取りになるので、そうした「定まった流れ」に乗りたくないと訴えるお客さんだって往々にして出てくるし、それは日本人だけでなく様々な国からの人々だったりもする。そういう来場者の事情やニーズとも柔軟に向かい合わねばならないのがこの会場特有の難しさであり、「見ず知らずの外国人からちょっと文句を言われる」というのは日頃の生活ではなかなか直面しないシチュエーションであるがゆえに、しまいには面白味すら感じていたので、やりがいのある部分でもあった。

Track

 そんななか、最後まで無事に展示をやりきれたのは、この京都新聞ビル会場を運営したリーダー陣の、(我々の伺いしれない部分もたくさんあったであろう)日々の奮闘あってのことだったと思う。現場監督としての「ベニュー・リーダー」と、その脇を固める「サブ・リーダー」は各会場ごとに設定されており、今年も私は多種多様なリーダーさんたちとの関わりに感じ入るものがあった。

 とくに今年の京都新聞ビル会場は、ベニュー・リーダーが2名体制となり、そのうちの一人であるSさんは昨年も同じ京都新聞ビルのリーダーを務めていたことが大きかった。そのことを知った当初は「おおっ!? 今年も京都新聞会場でリーダーやるんか!」となり、がぜん楽しみが増した。つまりは、そういう人なのである。私より2回りほども若い人であるが、特にモチベーターとしての才覚がバツグンで、下は中学生から上はご高齢の方々にいたる我々ボランティアスタッフの多種多様な面々とSさんは日々丁寧に向き合い、それぞれに参加意欲をかきたてて仲間意識をスムーズに構築し、「この人のもとで一緒に働けてうれしい」という気持ちにさせてくれる。つまりは「理想の上司像」を感じさせる人物であり、今年も相変わらず無尽蔵の愛嬌と野性的な瞬発力でもって、この特殊な京都新聞ビル会場をめぐる多様な局面の数々にも軽やかに立ち向かっていた。

 そしてもう一人のベニュー・リーダーがYくんであった。フランス人のお父さんを持ち関西弁と英語も話すマルチリンガルで、それゆえいろんな国からのお客さんが来場するにあたってはフル回転で対応し続けていた。いつも飄々としたムードで会場を歩き回り、そしてしばしば上手な言い回しで我々ボランティアスタッフにも「こういうふうにしてほしい」と要望を伝えることで写真展会場としてのクオリティを損なうことがないよう常に現場での心配りを怠らず、そうしてスタッフ間のつながりが緩慢な状態にならぬよう、ほどよい緊張感を保つうえでもYくんはキーパーソンであったように思う。ちなみに彼は子どもの頃からフランス屈指のサッカークラブ、オリンピック・マルセイユの熱狂的なサポーターだということが分かり、彼の深いサッカー愛が垣間見えたのも個人的にとてもうれしかった。

 そんなわけでこの2人のベニュー・リーダーの組み合わせはお互いの持ち味を活かし合えるような、とても良いコンビだった。あるとき、私は会場入り口のチケット確認係の担当としてそこにいて、たまたま客足が止まって落ち着いた時間がしばらく続き、Sさんはおもむろに入り口の軒先のほうにまで進み出て、何かを待って遠くを見ているかのように無言で一人じっと立っていた。そこへYくんも隣にやってきてSさんの肩をガシッと組み、まるで二人が担う大きな責任への役割を互いに労り合うような感じで、同じ方向を見たまま彼らはしばらく話し込んでいた。ビルの隙間から差しこむ太陽の光が遠くに立つ二人の後ろ姿を際だたせていて、それが実にクールで詩的だった。つい自分はスマホでその様子を撮影したくなったが、ここは控えておいて目に焼き付けておこうと決めた。あの場にいられたことに感謝したくなるような、今年のKGを思い返すうえで自分だけの宝物のようなシーンだった。

 そしてサブ・リーダーと呼ばれるスタッフさんたちも交代で毎日3~4人ぐらいのシフトで現場を担当し、必要に応じてほかの会場のサポートに入ったりすることもあったようだ。このサブ・リーダーさんたちもそれぞれに個性的な方々でじっくり話を聞いてみたかったのだが、何せこの現場で我々が共有していた最大の関心事は、「次々とやってくる来場者を人数制限の範囲内で適度なタイミングをはかりビデオルームに案内し続け、次のゾーンに送り出してシャッターを開けて巨人たちに『うわ~!』となって会ってもらい、工場跡地の暗いキャットウォークの足場をたどって出口の鉄トビラにたどり着いてもらったあとは、できれば建物の外に設置されている物販ブースのテントにも行ってもらうというオペレーションを円滑に回し続けること」にあったので、それ以外のテーマで雑談をしている余裕は少なかった。それでも別の日にKG主催のパーティーイベントで他のボランティア・スタッフさんらとともにお話をうかがい、あらためてそれぞれの興味深いキャリアの個人史やKGへの想いを聞かせていただけたのは貴重な時間だった。

Backyard2
【 ▲ 毎回、閉館後にはSさんがサービス精神を発揮して「バックヤード・ツアー」を開いてくれて、ボランティア・スタッフに展示物やこの建物の裏側を紹介してくれた。特別な時間。】

 こうして「いろんな経歴を持った多様な人たちが集まって、長い人生のほんのひとときを一緒に働く」というこのKGの状況というのは、JRの「クロニクル京都」の作品が醸し出す雰囲気とどこかで通じ合う気がしてきた。この市井の人々の集合体が、まさに写真祭をつくっていく多くのスタッフ・関係者の姿に重なってくるように思えてきて、そして自分もまたその一人として作品のなかに紛れ込ませてもらっているような感覚だ。

 そのことは、京都新聞ビル会場でJR作品の被写体に囲まれて過ごした最後の最後の日になってようやく芽生えてきたところがあり、これは「KGという大きなイベントが始まって、終わっていく」という感慨をシンボリックに描いた、ある種の「記念写真」のようにも感じられ、私は最終日の業務の休憩時間に物販のテントブースに出向きこの「クロニクル京都」の特製トートバッグを思いきって買わせていただいた(現場では残り1つとなっていたこの貴重なバッグを快く私に売ってくれたサブ・リーダーのTさんに感謝。ちなみにボランティアスタッフとして規定の参加回数に達すると、特典としてグッズが割引で買えるのであった)。

Tote

で、今回のこの「クロニクル京都」の展示についてどこかのメディア記事で取り上げられたときに「この作品に写っている約500人の中にあなたの知っている人が登場しているかも」といったことが書いてあったのを読んで、私は直感的に「さすがにそんなことはないだろうなー」と思っていたのだが、結果的に私も直接知っている人が被写体として入っていたのだった。

それはベニュー・リーダーのSさんだった。2回目に京都新聞ビル会場を担当したとき、たくさんの被写体が並べられている展示をあらためてじっくり見ていて「あれ、これってもしかして・・・?」と、ようやく気づいた次第である。本人に訊ねたら、気づくのが遅い!と言われてしまった。聞けばJR氏がこの作品制作のために京都で撮影をしていた時期にアシスタントとしても関わっていたとのこと。

一通り見ているつもりでも、なかなか気づかないものだなぁ~と、ぼんやり思っていた。

しかも、それだけに留まらなかった。

それは会期が終了する直前のことであった。
私がいない日に同僚のmizuix氏がこの京都新聞ビル会場を訪れて、その感想を送ってくれたのだが、「Sが写っていたのに気づいていたか?」ときた。

Sくんは、かつて我々とともにSUPERCARのコピーバンド「ワルシャワ・ドロップ&ロマンティック」を組んだ人物であった。

Warsaw
【 ▲ 当時つくった手作りバンドTシャツ。なつかしい】

しかもしかも、ビデオルームで上映されていたメイキング映画のエンドロールの部分で、彼がJRに撮影されている様子も映っていたことを(1回しかそれを観ていないはずの)mizuix氏はちゃんと認識していた。例によって私はこのビデオ上映だって、何回も何回も繰り返しエンドロールを観ているにもかかわらず・・・そこに自分のよく知っている人が映っていたことに、mizuix氏から言われるまで、まっっったく、ちぃぃぃっとも、気づいていなかった。

いったい自分はなにを見ていたのだろうか・・・とアタマを抱えるしかない。
「見ているようで、見えていない」
これは写真に限らず、日々の生活全般においても言えることかもしれない。
JRの作品は、最後の最後まで私を揺さぶってきたのであった。

そんなふうにしてこの一ヶ月が終わっていった。あの大きな印刷工場跡地に戻ってこられる日がくるのかは、今は分からない。そして京都新聞ビルだけでなく、ボランティアで携わったさまざまな展示会場で出会った人々と、同じ場所で同じように過ごすことはもうないのかもしれない。それでもまた来年、KGのそこかしこの会場で「ひさしぶりーー!?」と言えるような状況があればいいなと、それこそ「顔たち、ところどころ」というフレーズがかもしだす雰囲気を想いながら、その日を待ちわびている。

Building

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そして最後にお知らせとして・・・おなじみイリノイ州アーバナ・シャンペンで展開するコミュニティラジオ「Harukana Show」では、数週にわたってKGをめぐるあれこれについて取り上げていただき、自分もメールやトークで参加させていただいた。このブログに書ききれていないエピソードなども少し話しているので、よければぜひ。(ポッドキャストのページはこちら。No.735~No.740です)

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2025.05.06

京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」の印象をざっくりと。

京都国際写真祭KYOTOGRAPHIE(以下KG)もあとちょっとで閉幕! ゴールデンウィークの混雑のなか京都をウロウロしたくない人もまだ会期としては5月11日まで残っているので、観にいけるチャンスはまだある!
・・・ということで、今回の記事は、ボランティアスタッフとして立ち入ったり、スキマ時間でお客として訪れたりした範囲でタテーシが書けるレビューを、ダァーッと殴り書きのように記す。誰かにとって何かの参考になれば幸い。

八竹庵
ここについては前回の記事で取り上げているけれども、ひとつ書き忘れていたのは土田ヒロミによる「リトルボーイ」は今回の写真祭における最重要作品となり、終戦80年を経たことへの大切な、とっても大切なメッセージがこめられている。今回のメインテーマ「HUMANITY」はこの作品ですべて語り尽くしているのでは。
この展示だけはメディアに載る広報物でも非公開の設定になっており、実物はこの八竹庵会場の一番奥の倉で、暗がりのなか、静かにあなたを待っている。

京都市美術館別館

今回のKGで予想以上に自分に刺さったのがこのグラシエラ・イトゥルビデの展示。実際SNSで検索してもここは大絶賛の様子。KGは毎年、取り上げる写真家や展示内容のコンセプトのバランスを考慮して、一人の作家のこういうガッツリした展示を最低でも1箇所は設定しているように思われる。実際この会場がもっとも作品の展示点数が多いそうで、見応え度という意味でもダントツに推せるのがこのメキシコ出身の写真家の回顧展であった。

2504291
▲この入り口のキーヴィジュアルの時点で、これはタダものではない作品たちが待ちかまえていることを示していた。

Kyoubi-3
▲イトゥルビデさんは鳥をモチーフにいくつかの写真を撮影してきたとのことだが、特にこの作品は、今年のKGのメイン会場で観たすべての写真のなかでも個人的ベストとして推したい。動物を被写体に入れる場合は、往々にして運を味方につける必要があるにせよ、「それにしても!」ですよ。ものすごくないですか、これ。

Kyoubi-1
▲Diorから依頼されたという作品も少し展示されていた。こういう依頼仕事でも写真家の強い個性がどうしたって滲み出るものがあるようで、写真というものが、その瞬間を永遠のなかに閉じこめる装置であるということを改めて思い至らせてくれるような「神秘的な静けさ」みたいなものが、張りつめた緊張感とともにプリントされているような感じが忘れられないのである。いったい何がどうしてこういうふうになるんでしょうねぇ、と。

Kyoubi-2

この他にもいくつか「うおぉああ~」と感じた写真があるのだが、ともかくこれらは現地でぜひ観てほしいと願う。

TIME’S
三条通り高瀬川ぞいに80年代からある安藤忠雄設計のTIME’Sがすっからかんになって久しいが、このKGの時期だけはあたかも以前からずっとそうであったかのように全部が写真館みたいになって、あちこち歩き回れる状態になっていて、それだけでもここに来る価値があり、そこへきてマーティン・パーの展示「Small World」だ。世界の観光客の行動を皮肉とユーモアで切り取った作品群で、ただひたすら笑える。そう、笑えるのだが、同時にそれは今まさに写真展に押し掛けている自分自身もある部分で観光客と同じようなもので、その笑いが直接自分自身へ返ってくることにも思い至る、という部分もある。

Times-1
▲このラマほんとに好き。

Times-2
▲ピサの斜塔にまだ行ったことがないが、自分もぜひこのような写真を撮りたいと固く決意した(笑)。

ちなみにパー氏はイギリス人(さすがMr.ビーンを生んだ国だけある)。そんなパー氏が春の桜咲き誇る京都に滞在し、いろいろな観光スポットで撮影した写真が延々リピートされる映像コーナーも、苦笑いをひとりこらえつつ楽しませてもらった。大混雑のなか、観光を楽しめているように思えないいくつもの疲弊した表情だったり、なんとか自分なりに観光を意味のあるものに奮闘すべく必死になっている姿だったり・・・ある種、そこを強調してチョイスしているんだろうけど、パー氏のブラックな皮肉を込めた視点を通して、「観光地に人が集まるってどういうことなんだろうか」と改めて問わずにはいられない。そして映像の後ろで流れるユルいBGMも、より哀愁を誘う。
(そして同会場では吉田多麻希「土を継ぐ」の展示があるのだが、私があまりにパー氏の作品に時間をかけすぎて、こちらのほうの開館時間を逃してしまい、観ていないのであった・・・)

嶋臺(しまだい)ギャラリー
 同じように「皮肉」っぽさが効果的に炸裂している展示として、リー・シェルマン&オマー・ヴィクター・ディオプの「Being There」がある。この展示は何の予備知識もないまま進んでいくと、古き良きアメリカのほのぼのとした写真がレトロな調度品やインテリアとともに次々と並んでいるという、ただそれだけの作品なのだけれど、展示の最後に流れている映像を観て、「そういうことだったの!?」と驚いてしまうという仕掛け(なので、もういちど前に戻って見返したくなるお客さんも多数)。

Shimadai-2

Shimadai-1

ちなみにこの会場ではもうひとつ無料の企画として、長年京都で発行されている英文雑誌『KYOTO JOURNAL』のこれまでの歩みを振り返る特別プログラムも併催されており、タイミングがあえば創始者のジョンさんが温和な笑顔で来場者を迎えてくれる。

京都文化博物館 別館
 KGは写真作品を展示する場所そのものの個性との相互作用を楽しむというコンセプトを志向しているけれども、この京都文化博物館の別館はまさにその強烈な存在感をもって来場者を迎え入れ、古くは日本銀行京都支店として人が行き交っていたであろう歴史ある格式高い空気感が今もそこかしこに漂い、そんな空間で作品が楽しめる。

Bunpaku-2

Bunpaku-1

今回はインドのプシュパマラ・Nの展示ということで、森村泰昌のように自分自身をさまざまな役柄に変身させて、根強い因習やジェンダー規範などへの問題提起を試みた作品群が展示されている。2階では彼女のインタビュー映像作品が視聴でき、インドのカースト制や民族誌的な知識がないと難解な内容であるのは否めないが、ずっと撮影用のメイクをしてもらいながらしゃべり続けたり、被った冠の衣装が対話の途中でズレてくるのがどうしても気になってしまう様子だったりを観ているうちに、プシュパマラさんへの親しみがわいてきたりする。

ASPHODEL
 「自分自身の身体を作品にする」という意味では、こちらのレティシア・キイ「LOVE & JUSTICE」もストレートに迫ってくる。コートジボワールで生まれ育ち、髪の毛はまっすぐでなければならないという俗習にみまわれていたところを、かつての植民地以前のアフリカ人女性たちの髪型の多様性を知ることで「自然な私」を受け入れ、そこから表現活動を通して女性へのエンパワメントへとつながっていく。それにしても自分の髪でここまで作り込むか!?と驚かされる。
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そしてこの力強い展示が、祇園という特殊な場所のまっただ中を選んで設営されているということもポイントである。
(これとは別に、京都滞在時に撮影した作品たちが出町枡形商店街で展示されているのだが、私はまだ観ておらず)

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東本願寺 大玄関
京都に住んでいると、なかなか具体的な用事がない限り、こうした「ザ・名所」には立ち入らないわけで、今回のKGでこの場所が会場になったおかげで、おそらく初めてじゃないかと思う訪問となったのが東本願寺だ。

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このイーモン・ドイル「K」は、作者の急逝した兄、そして兄にあてて母親が書いた手紙がモチーフとなり、追悼としての作品が捧げられている。有料会場にしては展示の規模が小さく感じるのだが、この「大玄関」が普段は非公開となっている希少な場所ということで、そこでアイルランド由来の音楽とともに、その場を流れる風を味わってみたりした。

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両足院
逆に「ここは無料でいいの!?」となったのが建仁寺のなかにある両足院、エリック・ポワトヴァン。ここは庭園とともに日本家屋の佇まいにとけ込む絵画のような繊細な写真作品を堪能できる。襖絵のような大きなプリントが、余白の美とともに存在感を放っている。時間帯によって日の傾き具合で少しずつ色彩がうつろう世界。

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ちなみに庭園のなかをサンダルで歩いて茶室の窓からのぞく作品は、「だから何?」と思うかもしれないので、近くにいるスタッフに作品の意味を訊ねることをお勧めする(スタッフは自分からは話しかけないし、ましてやお寺の会場なので、静寂をできるだけ保とうとしている)。

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堀川御池ギャラリー

同じく無料会場でがっつり展示が楽しめる場所として紹介したい。これはメイン・プログラムではないが「KG+SELECT」という関連イベントとして、審査員から選ばれた国内外10組のアーティストの作品を集めて展示し、ここで審査のうえ選出された1組には、翌年のKGのメイン・プログラムとして開催権が与えられるというもの。

私がとくに見入ったのがウルグアイのフェデリコ・エストル。まず説明文でノックアウトされた。「ラパスやエル・アルト近郊には、毎日3000人の靴磨き職人が客を求めて街に繰り出している。彼らを特徴づけているのは、周囲に気づかれないようにつけているスキーマスクだ。近所では、彼らが靴磨きの仕事をしていることは誰も知らない。」とはじまり、「え!? どういうこと!?」となる。続きはこの以下の画像からぜひ読んでみてほしい。
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こういう社会があり、こういう人がいて、そしてそれをアートのチカラで変調させる可能性があるということを知らせてくれる展示であり、「うむ・・・ぜひ来年のKGのメインプログラムになってほしい・・・もっとこの人の作品について知りたいわ・・・」と思っていたら、よくよく調べるとすでに今年のKG+セレクトのアワードで受賞決定していたことを知る。おおっ、来年さっそく超楽しみな展示がこれで確定!!

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それともうひとつ、香港の何兆南(サウス・ホー・シウナム)による「Work naming has yet to succeed」も印象的だった。香港における2019年の民主化デモにおいて街のあちこちに書かれたメッセージが消去され、その「痕跡」を捉えた写真群が展示されている。「壁の言葉が消されたあと」の光景ではあるものの、実は消えきっていないという、その曖昧な領域が可視化されている。説明文を読まずにさっさと通過して「単なる街の風景写真」だと認識して去っていくカップルのお客さんがいて、「あぁっ、そうじゃないんです! 説明文を読んで!」となってしまった歯がゆさも思い出として残っている。

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ギャラリー素形
で、その昨年のKG+で展示された作家のうち、アワードを獲得して今年のメインプログラム開催に至ったのが台湾の劉星佑(リュウ・セイユウ)の「父と母と私」という展示。昨年のKG+で観た、「父親にウェディングドレス、母親にスーツ」を着させて撮影した作品群がインパクト大で、その圧巻の「両親シリーズ」の発展系ともいえる内容が今回じっくりとメインプログラムとして鑑賞できるわけで「フシギなご両親との久しぶりの再会」のような感覚で展示会場を歩いた。

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性別役割の固定概念を問いかけるシリーズから、さらには父親が兵役をつとめた土地に赴いて制作した作品など、家族の歴史をたどっていくことでそのメッセージ性がより社会的なものへと昇華していく感じがあったが、それにしても映像で展示された、ご両親の「足踏みダンス」みたいなナゾの動きが延々と展開していく作品が絶妙にジワジワきて、目が離せなくなった。表現行為の原動力には作者にとってのシリアスで切実な想いがあるのだろうけれど、それをファニーなタッチで「作品」にしていくことで、観る者の心情にグッと入り込んで、不思議な角度から共感を呼び起こすような、そういう作品たちであった。

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・・・と、ここまで書いても、まだ「誉田屋」の石川真生「くろちく万蔵ビル」の甲斐啓二郎の展示について書ききれていない! そしてタテーシにとって最重要な「京都新聞ビル・印刷工場跡」のJRの展示についても、今回はあえて触れずにこの記事をアップしようと思う。なぜなら「京都新聞ビルはマストだから」。ここを行かずしてKGは始まらないし終わらない。すでにSNSではたくさん写真が拡散しているけれども、最後のネタバレについてはまだこのブログでは書きたくないので、そういうのも含めてぜひこれはマジで京都新聞ビルの展示「Printing the Chronicles of Kyoto」は多くの方々に味わってほしい。

本当ならもっと洗練された記事にしたかったけれども、もう連休も終わってしまうので、エイヤッとこの記事を公開させていただきます。

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▲JR京都駅の壁面にJRの「クロニクル京都」の壁画が会期終了後もしばらくは展示されているとのこと!

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2025.04.13

KYOTOGRAPHIE2025がはじまりましたよー

4月12日から5月11日にかけて、今年も京都市街のあちらこちらを舞台に展開される京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」がはじまった。そして開幕して2日目を経てさっそくこのブログを書いている。

去年に引き続きボランティアスタッフとして登録し、土日祝日をメインに参加する予定ではあるが、、、、、、じつは開幕初日はどうしてもJリーグのセレッソ大阪×鹿島アントラーズの試合が観たかったのでそっちを優先した。ちなみにどうしてその試合に行きたかったかというと、鹿島の安西幸輝に関して昨シーズンの終わりに「乱闘騒ぎをよそに一人カメラ目線で水を飲む」というネタが話題になり、私はあのときの安西の姿に「ふしぎな励まし」をもらったような気がして、深く共鳴したくなる「ネガティブさへの向き合い方」を考えさせてくれる感じがあったのだった。そうして安西幸輝のおかげでこの年末年始から今日にいたる日々の暮らしを乗り切れてきた感じがあり、「安西よ、どうもありがとう」のノリで鹿島の試合が観たくなったからである。なお鹿島は残念な結果に終わったものの試合はYahoo!ニュースでネタにされるぐらいレアな展開となったので(こちら)、今回の試合は観に行ってよかったと思う。

で、話を戻すとその試合にいく前の午前中は少し時間があったので、一般客としてKYOTOGRAPHIEを楽しませていただいた。インフォメーションセンターとして無料で入れる八竹庵(旧川崎家住宅)に出向いたのだが、さすがに初日の朝だけあってたくさんのお客さんでごった返しており、ボランティアスタッフの立場からすれば「初日から遊んでてすいません~」みたいな気分にもなる。この旧川崎家住宅の内部そのものも建物として見事なもので、ウネウネとゆるやかに波打つガラスごしに眺める庭の様子なんかも、ここでしか味わえない。

そしてこの会場では展示も行われており、パレスチナ系アメリカ人写真家アダム・ルハナによる作品がこれも無料で観賞できる(こちら)。いわゆる戦争状態の環境下についての写真というよりは、日常を暮らすありのままの様子をとらえることを目指した作品群であり、「何があっても日々を淡々と送ること」がそのなかに大きな抵抗の力をふくんでいる、ということが示されているかのようである。

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▲この少女の後ろ姿の写真は、透明のアクリル板みたいなものにプリントがされていて独特の存在感を放ち、窓越しの日本の風景と、遠いパレスチナの空と砂漠とが視界に入る演出が印象的だった。

インフォメーションセンターだけあって物販や、過去のカタログや写真集の展示販売なども充実しており、今年のプログラム全体を楽しもうという方はそれぞれの展示会場のメイン作家の写真集でそれとなく「予習」もできるので、スタートは八竹庵に足を運ぶのがおすすめである。

で、翌日は一日ずっとボランティアとして、大好きな京都新聞社ビルの会場にいた。たまたまとはいえこの現場から今年のスタッフ業務をスタートさせることができて嬉しいし、一年ぶりにこの場所に戻ってこられて、やはりこの会場は特別だなと実感している。今年はフランス人写真家JRによる「クロニクル京都」というプロジェクトに関する展示会場となっており、JR京都駅ビル(同じ名前のJRが並ぶとややこしいのであるが)の壁にその「クロニクル京都2024」として巨大なメイン作品がドカンと展示されている。

まだ今年のイベントは始まったばかりであり、そして立場上あまりたくさんのことをここに書くこと(および場内写真をアップすること)は控えるが、とにかく言いたいことは
「今年の京都新聞社ビル会場もぜったい来たほうがいいぞ!!」
ということである。もう、これは本当に。

日ごろそこまで馴染みのない世界のことや、普段あまり考えることのない物事に向き合うきっかけとしてのKYOTOGRAPHIEの写真祭、ぜひぜひお越し下さい、と同時に、スタッフとして参加してみるともっと楽しいですよ、と。

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2025.02.09

映画『ドリーミン・ワイルド:名もなき家族のうた』を観て、音楽環境の時代的変遷を実感したり不変の家族愛に心うたれつつ、どうしても映画に没頭できずにひとりツッコミを入れ続けたりしたこと

「実話に基づく映画」が好きだ。
たぶん、自分の立っている世界とどこかで地続きであるという実感をもって観ることができるからかもしれない。

さて今回観た映画『ドリーミン・ワイルド:名もなき映画のうた』(公式サイトはこちら)は、米国ワシントン州の田舎で、広い農場で暮らすエマーソン一家の物語だ。父親は楽器を与えるだけでなく、音楽スタジオをDIYで建造して、2人の兄弟は農作業の手伝いの傍ら音楽づくりに没頭していく。兄のジョーがドラムを叩き、弟のドニーが歌いつつギターやその他の楽器の多くを手がけ、曲も次々とドニーが生み出していく。

そして1979年、ドニーが17歳のときにエマーソン兄弟は『Dreamin' Wild』というアルバムを自主制作で完成させ、レコードを大量にプレスするのである。
Dreaminwild

ただしそれは片田舎での話であり、そこから販路をもって広げていく術もなく、その作品が陽の目を見ることはなかった(たびたび、エマーソン家の地下室などに未開封のダンボールの山が置かれている様子がうかがえて、自分もZINEの冊子とか自作Tシャツの在庫などをダンボールにひたすら抱えているだけに、人ごとではない切なさに共鳴する)。

その後も才能溢れるドニーは音楽の道を捨てきれずに奮闘するも、「夢」は夢のまま年月が過ぎていく。ところが約30年の時を経て、あるコレクターが骨董品屋でこのレコードを発見し、その音楽性を賞賛すると、ネット時代ゆえの「バズり」が生じて、一気にこのアルバムおよびエマーソン兄弟の存在が再評価される事態となり、レコードの再発やメディアからの注目、それに伴うライブ演奏の機会がめぐってくるのだが、そんな急展開の状況においてドニーには無邪気に喜ぶことができない葛藤が押し寄せてくる・・・というストーリーだ。

そして今この「あらすじ」を書いていて気づくのは、これはあくまでも「ドニー側からみた書き方」であり、この映画を観た後の心情から振り返ると、例えば兄のジョーの視点だったり、または惜しみなくすべてを注いで彼らを信じ続けてくれた両親の側からの視点で捉え直して「あらすじ」を書いてみたくもなる。私が冒頭で「エマーソン一家の物語だ」と書いたのは、そういうことなのだ。これは音楽の映画であるだけでなく、まさに家族をめぐる映画だった。

映画の最初のほうで、何も状況を把握していないエマーソン家(田舎暮らしで、ネット社会で起こっている音楽業界のことなんかには無関心だったのだろう)を訪ねてきた音楽プロデューサーがいかにこの作品に注目が集まっているかを力説し、少しずつ事の重大さが認識されていくシーンなんかは、素朴な気持ちで観ているこちら側にとってもだんだんと微笑ましい気持ちがこみ上げてくる。

しかし事態はそんな単純な話ではなく、そこからドニー個人にとってはいわば「遅れてきた試練」のような展開になっていくわけだが、それをふまえて一歩引いて現実のところで考えてみると、「この映画を作る話そのもの」も、リアルな部分でエマーソン家にとってはある意味で「試練」みたいなものがあったのではないか、と想像してしまう。大昔に子どもたちが青年期特有の熱情で作った音楽作品の、予想だにしなかった再評価に関わる家族間の、どちらかというとあまり表だって言いにくい「過去」の話を、この映画を通してドキュメンタリー的に追体験させてしまう、このあたりは実際のエマーソン家のなかでどういう昇華のされかたがあったのだろうか。こうした「音楽の再発見による家族の夢の新たな展開」と「夢を追っていた家族の歴史の露呈」の二重構造が途中からうっすらと気になってきたのだが、最後にはそのあたりも映画作品としてうまく着地させていった、とも言える(これから観る人のために詳しくは書かないでおく)。

それにしても、この兄弟が残したアルバムをよくぞ発掘してくれた! とも言いたくなる。映画を観る前から「予習」としてサブスクだったりYouTubeで実際のエマーソン兄弟の演奏を聴いていたわけだが、この『Dreamin' Wild』収録曲の、とくにラストの「My Heart」なんかは、果てなく広がる大地の地平線から立ち上がってくるような気配から奏でられる繊細なフレーズに、何度も繰り返して聴きたくなる中毒性がある。当時10代だった彼らがこうした音風景を自分たちのハンドメイドで結晶化させていったことは、確かにひとつの奇跡的な味わいがある。


(でもなぜかこの曲は映画のなかでは使われなかった。エンドロール向きだと予測していたのだが)

で、ここからはかなり下世話な感想・・・。

この映画では私の超好きなズーイー・デシャネルが、ドニーの妻、ナンシーの役として出演している。
そのことは映画を観る前から理解していたはずなのだが、そのせいで、どうしても私はスクリーンに現れるのが「ドニーの妻のナンシー」ではなく「うわー!ズーイー!」という存在感で捉えてしまうがために、映画の世界のなかで
どれだけドニーが苦悩しようが、
いらだちを見せようが、
つい反射的に

「おいおい、ズーイー・デシャネルが奥さんなんやから、それ以上人生に何を望むねん!?」

・・・というような気持ちになってしまうわけである。

気を取り直して「いやいやいや、ここはドニーの煩悶にフォーカスして、共感しないと・・・」となるわけだが、どうしてもズーイー登場時には元通りになってしまいがちで、物語世界そのものへの没入がそのつどリセットされるような感じになってしまい、その点についてはもう本当に本当にエマーソンさんご一家の皆様には申し訳ないと頭をさげたくなるし、純粋な気持ちで映画を観続けられていなかったことを平謝りするしかない。

結論:それにしてもズーイーはあいかわらず超絶ステキ。

いやいやいや、違う。違うんです。
(この記事の冒頭で「実話に基づいた話は自分と地続きだ」とかなんとか書いたけど、ズーイーに関してはまったく地続きじゃないですね・・・はい。)

(無理やり話をかえて)
あ、子ども時代のドニーを演じた印象的な俳優ノア・ジュプさんは、なんと『フォード vs フェラーリ』に出てきたケン・マイルズの息子役でもあったとは! それは気づかなかったぁー!!(すっかり大人になって!) この映画も実際にあった話を基にした作品になるわけだが、実際に起こったとは思えないほどにあらゆる点でドラマチックなモータースポーツ史の1ページを完璧に描ききった傑作で、コロナ期の果てにどうしてもスクリーンで味わいたいと願い、恐る恐る映画館に行って観た作品という意味でも、自分にとっては印象深い映画なのであった。

(たぶんコロナのこともあって、この映画をほとんど客のいない映画館で観たことは表だってブログに書かないままだったと思われる。)

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2025.01.13

トンプソン氏の話の続きが気になる

今年最初の記事は、ちょっと真面目に英語学習について触れてみる。

とはいえ、まったく普段からなかなか英語を勉強することができておらず、ズタボロに終わった英検準一級もそのまま何もせず3年ちかく放置しており(こちら参照)、そのときのことをブログに書いた影響で今もBBCワールドでスティーブン・サッカー氏を見かけるたびに「すまん」という気持ちだけがくりかえし沸き起こるというボンクラな状態なのである。

で、Twitter(X)を先日みていたら、「覚えたい単語をいくつか列挙して、Chat GPTにショートストーリーを作らせる」というやり方が紹介されていた。面白い使い方だと思ったので、私も以下のような命令文を作ってみた。

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上記の単語を必ず使って英文の短い物語を作ってください。その物語は小説の書き出しのような雰囲気でお願いします。単語の登場する順番は問いません。物語には日本語訳をつけてください。上記以外の単語はできるだけ中学生~高校生レベルの単語を用いてください。日本語訳の文章につづけて、上記の単語の今回の意味と品詞、また英語の学習者が覚えた方が良いと考えられる別の意味や多義語があれば書き添えてください。
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私はスマホに入れている辞書アプリに、そのつど分からない英単語をそれなりにストックし続けてきたが、案の定まったく顧みられることなく数年間も放置されているリストがあった。なのでそのリストから単語をピックアップすればいいと思い、今回は「contempt、prejudice、ridiculous、ridicule、deliberate」の5つの単語でトライしてみた。ridiculous、ridiculeと似たような単語を一緒に入れるのは気が引けたが、まぁ適当に料理してくれるだろうと思ってそのまま入れた。

そうするとChat GPTは以下のような物語と、それに伴う英単語の解説を作成してくれた。
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物語 (英語)
Sophia stood at the edge of the crowded room, her face calm but her thoughts racing. The deliberate decision to attend the party had been a mistake, she realized now. Whispers of prejudice floated through the air, subtle but sharp, cutting like invisible knives. A man in the corner, with a smirk of contempt on his face, glanced her way. His words were meant to ridicule, though they were disguised in a polite tone. She knew how ridiculous it was to expect kindness in a place like this, but still, she had hoped. Taking a deep breath, she turned to leave, vowing not to let their small minds define her.

物語 (日本語訳)
ソフィアは混雑した部屋の隅に立ち、表情は平静を保ちながらも、頭の中は混乱していた。このパーティーに出席するという慎重な決断は間違いだったと、今になって気づいた。偏見の囁きが空気中に漂い、微妙だが鋭く、目に見えない刃物のように彼女を切りつける。部屋の隅にいる男は軽蔑の表情を浮かべながら彼女をちらりと見た。その言葉は嘲笑を込めたものだったが、礼儀正しい口調で覆い隠されていた。このような場所で親切を期待することがどれほど馬鹿げているか、彼女は分かっていたが、それでも希望を抱いていた。深呼吸をして、ソフィアは立ち去ることを決意した。彼らの狭い心が自分を定義することを許さないと心に誓いながら。

単語の解説

contempt
意味: 軽蔑、侮辱 (名詞)
他の意味: 法廷侮辱罪 (contempt of court)
覚えておくべき点: 非常に強い侮蔑の感情を指し、しばしば「心の中で完全に無視する」ニュアンスを持つ。

prejudice
意味: 偏見、先入観 (名詞)
他の意味: 不利、損害 (動詞として「〜に偏見を抱かせる」という意味もある)
覚えておくべき点: 法律や社会学でもよく使われる語。

ridiculous
意味: 馬鹿げた、おかしな (形容詞)
他の意味: 非常識な、不条理な
覚えておくべき点: 「笑いの種になるほど馬鹿げている」という強いニュアンスがある。

ridicule
意味: 嘲笑、冷やかし (名詞)、〜を嘲笑する (動詞)
他の意味: 軽視する、ばかにする
覚えておくべき点: 嘲笑の意味を持つが、「公然と人を傷つける目的のある行為」を指すことが多い。

deliberate
意味: 慎重な、故意の (形容詞)、熟考する (動詞)
他の意味: (動詞として) よく考える
覚えておくべき点: 「意図的に」または「よく考えられた」という2つの異なるニュアンスを持つ。
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 むぅ、さすがである。
 ソフィアの身の上に何が起こって、そのような冒頭シーンに至ったのかがたいそう気になってくる。何らかのスキャンダラスな事象に関与が疑われている立場のように思えてくるし、そこに出てきた男の「その言葉は嘲笑を込めたものだったが、礼儀正しい口調で覆い隠されていた」というのは、なんだか政治家にいそうなタイプに思える。企業犯罪の臭いがただようサスペンス小説の雰囲気でChat GPTは作ったのだろうか。
 
 で、ここで思いついて「同じ単語を使って、別の物語を作ってもらう」ということを試してみた。
 いくら頼んでもイヤとは言わないChat GPTなので、すんなりと別のストーリーを以下に生成してくれた(単語解説は省略)。

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物語 (英語)
The courtroom was silent, the weight of judgment hanging heavily in the air. Sarah sat at the defendant's table, her expression calm but her hands trembling beneath the desk. The prosecutor’s deliberate pause before his next words felt cruel, almost theatrical. “This act,” he began, his voice dripping with contempt, “was no accident. It was premeditated and cold-blooded.” Sarah glanced at the jury, their faces a mix of doubt and prejudice. The whispers from the audience behind her felt like ridicule, as if they had already decided she was guilty. She wanted to scream at how ridiculous the whole trial felt, but instead, she sat still, staring straight ahead, refusing to let the weight of their gazes break her.

物語 (日本語訳)
法廷は静まり返り、判決の重みが空気中に漂っていた。サラは被告席に座り、表情は冷静を装っていたが、机の下で手が震えていた。検察官の慎重に計算された沈黙は、残酷でほとんど演劇のように感じられた。「この行為は」と彼は軽蔑の色を帯びた声で話し始めた。「偶然ではありません。計画的で冷酷なものです。」サラは陪審員たちを見渡した。彼らの顔には疑念と偏見が混じっている。背後の観客から聞こえてくる囁き声は嘲笑のように聞こえ、彼女を既に有罪と決めつけているかのようだった。この裁判全体がどれほど馬鹿げているか叫びたくなったが、彼女はじっと前を見据え、視線の重みに屈することを拒んだ。
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サラ、いったい何をしでかしたんや。
この裁判自体が馬鹿げているということは、えん罪の濡れ衣を負わされているように伺えるが、かなり追い詰められた状況でもある。

選んだ単語のチョイスの影響か、こちらもなかなかにサスペンス風味の高い内容となっている。ソフィアやサラには彼女たちの今後のご多幸を祈るのみにとどめ、私はここで気分を変えてChat GPTの命令文に「ユーモア小説の雰囲気で」という追加のリクエストを添えてみることを思いついたので、もう1つ別の物語を作ってもらうことにした。

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物語(英語)
Mr. Thompson entered the coffee shop with the deliberate air of a man who believed he was the most important person in the room. His oversized scarf flapped dramatically behind him as if he were about to save the world—or perhaps just order a ridiculous latte. He scanned the menu with contempt, muttering, “Pumpkin spice? What kind of nonsense is that?” A teenager behind the counter raised an eyebrow, her face betraying both prejudice and boredom. “Sir, it’s our most popular drink,” she said flatly, but her tone dripped with subtle ridicule. “Popular doesn’t mean good,” Mr. Thompson snapped, crossing his arms. “I’ll take a black coffee, as it should be.” He was, of course, completely unaware that the machine was broken.

物語 (日本語訳)
トンプソン氏は、自分が部屋で最も重要な人物だと信じているかのような慎重な態度でカフェに入ってきた。彼の大きなマフラーは劇的に後ろでひらめき、まるで世界を救おうとしているかのようだった——あるいは、ただ馬鹿げたラテを注文しようとしているだけかもしれない。彼は軽蔑の表情でメニューを睨み、「パンプキンスパイス?なんて馬鹿げた飲み物だ」とつぶやいた。カウンターの向こうのティーンエイジャーは眉を上げ、偏見と退屈が入り混じった表情を浮かべた。「お客様、それが一番人気のドリンクですよ」と無感情に言ったが、その声には微妙な嘲笑が込められていた。「人気があるからって美味しいわけじゃないだろう」とトンプソン氏は腕を組みながら返した。「普通のブラックコーヒーをもらうよ、あるべき姿でね。」もちろん、彼はそのマシンが故障中であることを全く知らなかった。
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おおおっ、やればできるやん!
トンプソン氏、なんかイメージできる!『オースティン・パワーズ』みたいな。
不動産投資会社勤務の40代とかの設定。
いけ好かない感じがよく出ており、コーヒーマシンが故障中という状況が良い。

こういうちょっとした英文を繰り返し音読するのもいい勉強になるし、分かりにくいところをさらに追加で質問すれば、より理解が深まる。
例えば、
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上記の物語の文章のなかで2つ分かりにくい箇所がありました。ひとつは「her face betraying」と、「Mr. Thompson snapped, 」のところです。どちらも日本語訳には正確には反映されていないので、この部分のニュアンスを解説いただけますでしょうか。
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これについての回答が以下である。

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1. “her face betraying both prejudice and boredom”

解説
このフレーズでは、「betraying」という動詞が重要な役割を果たしています。ここでの「betraying」は「裏切る」ではなく、「隠そうとしていたものを無意識に表に出してしまう」というニュアンスです。つまり、「彼女の顔は、偏見と退屈を示してしまっていた(無意識にそれが表れてしまった)」という意味になります。

ニュアンス
「betraying」という言葉を使うことで、彼女が意識的には感情を隠そうとしていたけれど、表情にそれが漏れてしまった、という微妙なニュアンスを含ませています。言い換えれば、彼女は何も言葉にはしないけれど、その顔が本音を語ってしまった、ということです。

日本語に反映すると…
「彼女の顔には、偏見と退屈がにじみ出ていた」といった表現がより正確でしょう。

2. “Mr. Thompson snapped,”

解説
「snapped」は「パチンと音を立てる」という物理的な意味もありますが、ここでは「感情的に鋭く言い返す」という意味で使われています。この表現には、短気やイライラが含まれており、トンプソン氏が「カッとなって即座に言い返した」ことを表しています。

ニュアンス
「snapped」という言葉からは、トンプソン氏が冷静ではなく、少し感情的になって語気を荒げたことが伝わります。単に「言った」や「返事をした」とは異なり、「怒りや短気が込められた反応」を強調しています。

日本語に反映すると…
「トンプソン氏は怒り気味に言い放った」や「トンプソン氏は語気を荒げて返した」などの訳がニュアンスをより正確に伝えられます。

修正された日本語訳の例
元の訳文に反映すると、以下のような形になります。

「カウンターの向こうのティーンエイジャーは眉を上げ、偏見と退屈がにじみ出た表情を浮かべた。『人気があるからって美味しいわけじゃないだろう』とトンプソン氏は怒り気味に言い放ちながら腕を組んだ。」

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ということで、ここまでくると本当に「参りました」というしかない。

で、私としてはこのトンプソン氏の話の続きがどうしても気になってきたので、さらにリクエストしてみた。

すると、調子づいてきたのか、けっこうな長文が作成されたので、英文のほうは省略させていただく。

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続き (日本語訳)
ティーンエイジャーはため息をつき、もはや礼儀正しく振る舞う努力は完全に放棄して退屈そのものの声で言った。「実はですね、お客様、今日コーヒーマシンは壊れているんです。」彼女は明らかに、トンプソン氏の優越感を打ち砕く機会を楽しんでいるようだった。

「何だと?」トンプソン氏は再び驚きとともに語気を荒げた。「コーヒーのないコーヒーショップだと?それは…それは馬鹿げている!」彼は文明そのものに対する侮辱であるかのように腕を振り上げた。

「紅茶ならありますよ。」彼女は、今度はほんの少し楽しげな表情を見せながら答えた。「それか、パンプキンスパイスラテもあります。コーヒーマシンは使いませんから。」

トンプソン氏は固まった。表情は、恐怖と信じられない気持ちが入り混じっていた。「紅茶?」彼は呟いた。その言葉自体が毒であるかのように。しばらくの内なる葛藤の後、彼はうなり声を上げた。「仕方ない。パンプキンスパイスを頼む。だが…できるだけスパイスは控えめにしてくれ。」

ティーンエイジャーは飲み物を準備するために向きを変えた。その背後では、別のバリスタが笑いをこらえていた。トンプソン氏は隅のテーブルに座り、「社会の堕落」についてブツブツと呟いていた。ラテが運ばれてきたとき、それはホイップクリームが豪華に渦を描き、シナモンがふりかけられていた。彼はそれを個人的な侮辱のように睨みつけた。

「どうぞお楽しみください。」ティーンエイジャーはニヤリとしながら言った。トンプソン氏はカップを取り、しぶしぶ一口すすった…。そしてすぐに顔をしかめた。しかし、その後ほんの一瞬、しかめっ面が柔らいだ。

「馬鹿げている。」彼は再び呟いた。ただ、今度はその声には軽蔑が少し減っていて、ほんの少しだけ、何か認めるような響きが含まれていた。

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いやはや。

ちなみに原文の英語文では、「彼女は、今度はほんの少し楽しげな表情を見せながら答えた。」のところで「her face betraying the faintest hint of amusement now. 」とあり、この「the faintest hint(わずかな兆し)」というのが、ラストの文でトンプソン氏の様子を示す「ほんの少しだけ、何か認めるような響きが含まれていた。」の英文「just perhaps, the faintest hint of approval.」にも現れて呼応していることを発見して「うぉぉぉー!?」と思ったり。。。ちゃんと文学的な味わいの作文を生成できるようになっているのが不気味なぐらいである、Chat GPT。

そんなわけで、こういう作業を繰り返すことで、覚えたい英単語を印象的なものへと自分の記憶に定着させていくことができそうな気がする。

で、ついでにもうひとつ紹介すると、知りたい単語の発音をいかにネイティブが喋っているのか、それを知りたいときには有名なサイトだが「YouGlish」に頼っては、つい延々と見入ってしまう。

Youglish

単語単体、もしくは任意の組み合わせのフレーズを検索すると、あらゆる動画から実際の使用例の部分だけが抽出されて、それらの多様な事例を次々と再生してくれる。検索窓の下の「US/ UK / AUS」とかをクリックすれば、イギリス英語に限定した動画でヒットする。こんな夢のような仕組みがもっと昔にほしかった・・・
これは特に地名とか人名について、よく分からない読み方を調べるときにもすごーく役立つ。


そんなわけで、年初のはじめから「英語学習に使えるサイト」みたいな有益な記事を書いたわけだが、これから私に会った人は、「contempt、prejudice、ridiculous、ridicule、deliberate」の英単語の意味を私に尋ねても、きっとどれもまったく思い出せないだろうという自信がある。

結局のところは、ちゃんと気合いを込めて勉強し続けるしかないのである。

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2024.12.29

失われた12.28秒を求めて

Tower-1

 旅行で初めての街を訪れると、私はできるだけまず最初にそのエリアで一番高い展望台などにあがって街を見渡すようにしている。そのあと地上を散策しているとき、しばしば目に入る展望台のてっぺんを見ては「さっきまで自分はあそこにいたんだよな~」という、ちょっとした感慨を覚えるのが好きである。

 そういうこともあって、今住んでいるマンションのベランダから京都タワーの姿が目に入ると、旅行のときの気分に近いものを感じる。
 そして最近では京都タワーを仰ぐたびに、今年亡くなったN先生のことを思い出すようになった。先生の書いた戦後占領期の京都の本では冒頭に京都タワーのことが言及され、本の装丁にも京都タワーの写真が出てくる。

 そんなわけで、あらためて京都タワーの展望室に行っておきたいなという気持ちがぼんやりとあった。
 私は今までの人生で記憶する限り2回ぐらいしかあの展望室に行ったことがないはずで、その2回はどちらも実家の奈良に住んでいた頃だった。京都で一人暮らしをするようになって15年近くになるが、そのあいだ京都タワーの展望室には行っていない。

 なので先日、天気も良かったので買い物のついでに京都タワーにちょっと上ってみたのである。

 展望室にきて、真っ先に自分の住んでいるエリアを探した。ほどなく、いつもベランダから見ている距離感そのままに、自分の住むマンションのベランダが小さく確認できた。設置されている双眼鏡を使ってさらにズームアップを試みて、誰もいないベランダを嬉々として眺め続けた。あらかじめベランダには目印になりそうなサッカーユニフォームとかを掲げておけばよかったと少し後悔した。

 そうして一定の満足感をもって周辺部分も眺めて、そのあと他の方角の景色も一通り見ておこうと移動したら、展望フロアの一角でちょっとしたイベントが実施されていた。
 3名ほどのスタッフのお姉さんたちが来場者に声をかけて、ストップウォッチを手渡している。

 それは「京都タワー開業60周年記念 ストップウォッチ大会」という催しだった。

 地階で展望室のチケットを購入するときにもそのイベントのお知らせがチラッと目に入っていたのだが、子供向けのイベントだろうと思っていた。ところが実際には大人でも参加できるようで、そこに掲示されている説明文を読むと、

「京都タワーの開業記念日である12月28日になぞらえて、12.28秒を狙ってストップウォッチを止める」

という趣旨が書かれていた。もちろんストップウォッチの文字表示は見てはいけない。12.28秒ピッタリに押すことができれば開業60周年記念品の豪華詰め合わせがもらえて、ニアピン賞にも景品がでるとのこと。

「ゼロコンマ28秒まで合わせていく」
という点が、私の闘争心に火をつけた。モータースポーツの現場でもないと出会うことのないような、非日常な領域の闘いではないか。
何を隠そう、私はこの「時計を見ずに自分の感覚だけで時間を正確にカウントする」という行為に、絶対的な自信を持っているのだった。その種目であれば中嶋悟やアイルトン・セナとだって互角に渡り合えると思っている。

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▲この2人にも勝てるかもしれない種目。

 ことの始まりは中学生の頃、バスケットボール部に所属していたことにまでさかのぼる。バスケの公式大会では、各校からそれぞれ4名ほどの部員が「審判の補助役」を担当する決まりになっていた。運動能力面ではチームにまったく貢献できていなかった私は、その補助役を率先して引き受けて、そのための講習会にも参加し、大会のたびに審判をサポートする役割を担当していた(ついでにいうと、公式戦で一度も勝てなかった私の学年のチームは、毎試合後に全員が集められて血の気の多い顧問の先生から長々と説教を喰らっていたわけだが、試合に負けた場合、補助役の4人だけはすぐ直後の試合の審判を補佐する必要があるので、先生からも「オマエらは早く行け」と言われてその場を早々に離れることができたのも、私がこの役割を好んでいた理由のひとつだった)。

 その補助役4名はそれぞれ異なる用務を担っており、私の担当は「30秒ルールを成立させるために、攻守が入れ替わるごとに時間を計測し、30秒が近くなったら小さい旗を振る役目」であった(現在はルールが変わって24秒ルールになっている)。
 つまり常にストップウォッチを片手にカチカチと時間を計り続け、場合に応じて旗を振るという、それはあたかも当時からハマっていたモータースポーツの世界に極めて親近感のあるアクションだったこともあり、私はこの役割を楽しんでいた。

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▲そんな中学2年生の脳内イメージ。

 こうして、ひたすらストップウォッチを操作し続けることとなったこの役割の副産物として、私は1秒1秒の進み具合のリズム感を身につけ、ストップウォッチの動作する様子を思い浮かべつつ正確な時間を心の中で刻むという技術を体得するに至ったのである。

 これが「特技だ」ということを自覚したのはその数年後、大学で所属していたゼミの先生が企画した、心理学のグループワークをいろいろ体験するという合宿に参加したときのことだ。10人ぐらいのチームに分かれて隣の人と手をつなぎ輪を作って床に座り、目を閉じて決められた秒数がきたと判断したら立ち上がり、どこまで正確に所定の時間に近いところで全員が立ち上がれるかというワークが行われた。
 ここで私は自分の感覚を信じていつも自信満々に立ち上がり、他のメンバーもそれにつられて立ち上がる感じになっていったのだが、様子を見守っていた先生が驚くほどに、そのタイミングはことごとくバッチリだったのである。これが上手だからといって何も褒められはしないものの、「バスケ部での経験」の影響があったからだろうということを、このときはじめて意識したわけである。

 さらに今でも、職場の業務の関係上、年に数回ほど「電波時計をひたすら見つめる」という作業がどうしても発生するのだが、このときに私はおのずと自分の体に刻まれている「秒数の進むリズム」をあらためて確認・調整している。つまりこの種目においては、今も私は現役選手であり続けているのだった。

 ということで、35年近く前の話から振り返って、ここまでの文字数を費やしてまで説明する意味があるのかどうかは分からないが、とにかく私は「ストップウォッチで正確な時間を当てる」ことについては、それなりにプライドを持っている。他にもっとマシなことで誇るべきものを持っていたいものであるが、それはまぁ、仕方ないことである。

Niyari

 そんなわけで、京都タワーの展望室で「ストップウォッチ大会」のルール説明が書かれたボードを凝視していた私のところにおもむろにスタッフのお姉さんが近づいてきて、黒いストップウォッチを差し出してくれたので、つい受け取ってしまった。
 そして操作方法を説明してくれて、ほどなく近くに立っていた客のおじさんと一緒のターンで私はこの大会に参加することになり、すかさず別のスタッフのお姉さんの「用意、スタート!」の合図とともにストップウォッチを作動させるに至ったのである。


 この、ちょっと慌ただしい流れが、いけなかった。


 ふと、途中で

 「ええと、12秒とコンマ28なんだよね?」

 と考えてしまったのも、いけなかった。


 で、カチッと私が押したストップウォッチの表示をみると、














「10秒そこら」

 で止まっていた。


 ああおあおあおあおあーー!!


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 地上100m近い展望室において、私は地の底に崩れ落ちそうな気分であった。

No9

 振り返るに、まず私は決定的に大きなミスを犯していた。
 スタートと同時に、つい「1」からカウントしてしまったのである。ゼロから始めないといけないのに・・・子どもでもそんな初歩的なミスはやらかさない。
 でも、それだったらせめて「11秒28」を押しておきたかった。なのに、10秒台って・・・

 スタッフのお姉さんたちに囲まれた状況で、私は正常ではなかったのだろう。いったん場を離れて、呼吸を整えてから、予行演習をするべきであった。ルール説明のボードを外国語を読むかのように凝視したまま突っ立っていたのがダメだった。

 そして地上100mという状況下では、気圧の問題もあったかもしれない。いつもより違う意識状態にあった可能性がある。

 ・・・と、さまざまな敗因(言い訳)が頭をかけめぐり、ヨロヨロとその場を離れ、引き続き眼下に広がる鮮やかな晴天の京都市街をダラダラと眺めていたのだが、頭の中ではさきほどのストップウォッチのことでいっぱいになってしまい、景色を堪能しているとは言い難かった。

円形の展望室をそのあともグルグルと行ったりきたりしつつ、

 「頼むからもう一度トライさせてほしい」

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という気持ちも募っていったが、さすがにそればかりはオトナとしてどうかと思ったので、グッとこらえるしかなかった。展望室の手すりに寄りかかり、一人そんな葛藤に苦しむ47歳。

あきらめて帰り道の順路にしたがい下のフロアに進むと、これまでの京都タワーの歴史を振り返る展示が行われていた。「おぉ、N先生! これは見ごたえのある資料ですよねぇ!?」という気持ちになり、じっくりとひとつひとつの展示を丁寧に確認していったつもりではあったが、心のどこかでずっとストップウォッチ大会のことを引きずっていたことを正直に記しておく。

Tower-2

 こうして翌日からも、私の自宅のベランダからはいつも通り京都タワーの姿がうかがえるわけで、そしてどうしてもストップウォッチの悔しさが胸に去来し続けることとなり、そんな年末を過ごしているわけである。


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さて今年もこのブログを読んでいただき、感謝です。

毎年の恒例として「今年の一曲」を紹介して締めくくっていますが今年はピクシーズ。今年に限らずここ数年ずっとピクシーズには支えられている感じがします。おっさんロックファンは最後はピクシーズにたどり着く、みたいなことをとあるYouTube動画で誰かが語っていて、苦笑いするしかない。

PIXIES「Caribou」

繊細なイントロから、絶叫のボーカルまでの振幅の広さとともに、やはりこの曲はサンティアゴ氏の奏でるリードギターの旋律が圧巻で、「人生においても、こういうギターの音がいつまでもどこかで流れ続けていてほしい」と思って聴いてます。

振幅のはげしい昨今かもしれませんが、皆様おだやかな年末年始を。どうか。

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2024.12.14

取引先の営業さんが書店経営を妄想させてくれる件

私の職場にはいくつかの書店の営業担当の人が出入りするのだが、私は業務的に直接関わることはないため、普段そんなに話をする機会はない。

それが、ある日たまたま某大型書店の営業さんとしばし立ち話をするという状況になり、ふいに「これからの書店のありかたについて、何か思うところはありますか」という、唐突にデカいテーマの話題を振ってきたのである。

なので私も調子に乗って、思いつくままアイデアをダラダラと述べた。

例えば、書店の「有料ファンクラブ制度」はどうか。書店そのものに深くコミットしたい消費者はたくさんいると思うのだ。
そういうファンだったら、バックヤードの作業の一部とかをボランティアでもやってみたい人がわりといるんじゃないか(そんな悠長なことをやっている場合じゃない! と現場の書店員さんは思うだろうけど)。

ファンクラブ会員だったら、自分が買って読んだ本についてのレビューや的確なフィードバックを、出版社側にダイレクトに伝えることに前向きに取り組むだろうし、他の会員さんたちの感想文だって読んでみたくなる。
微力ながらも出版文化へのささやかな貢献を果たしたいというニーズは、読書好きならすごくあるはずなのだ。

あと私が力説したのは、最近ではスーパーマーケットに自動運転の掃除機マシンがウロウロし、ファミレスでは配膳ロボットが動き回っているような状況なので、そういう仕組みを応用し、週に一回でいいので、閉店後の大型書店のすべての棚の状況を画像化してスキャンできる仕組みをつくり、それらをネットで閲覧できるサービスはできないだろうか。別にこれは全店舗でやる必要はなく、最も売り場面積の大きい店舗の棚だけで充分である。
ただ、そこで知り得た情報をもとに、当該の本をその書店ではなく他のネット書店や古書店で発注してしまう客が多くなるかもしれないのだが、、、でもこうしたサービスは、忙しくて書店を回れない人や、とくに地方に住んでいる人にとってすごく有用だと思うわけである。リアル書店に足を運ぶ意義のかなりの部分が、そうした「最新の棚の状況を見ながらウロウロし、未知の本との出会いを求める」ところにあるからだ。

以上のような妄想めいたネタを語って聞かせて、営業さんも立場上「なるほどー」と話を合わせてくれて、そのときはそんな感じで話が終わった。


で、数日後にその営業担当さんが、私にピンポイントで話しかけて「こんな情報を持ってきました」とやってきた。

それは、トーハンによる書店開業パッケージ『HONYAL』(ホンヤル)がサービスを開始した、というリリースだった。

日本の書籍流通において、トーハンをはじめとする取次業はその独自の立ち位置でしばしば議論されることがあるが、このたびの新規サービスというのは、一言でいえば「小規模でも本が売れるようにハードルを低くしてサポートする」というものだ。

詳しくはウェブサイト(こちら)を見ていただくとして、要するに一般的な意味での書店が減少していくなか、個人書店だったり、あるいはカフェや美容院といった「書店じゃない業種」のところにも書籍の販路を一定のクオリティで増やしていくことで、「本と消費者の出会う場所を少しでも増やしていく」という狙いをもって展開していくようなのだ。

なるほど・・・と思ったが、

Inzaghitukkomi
いや、ちょっと待ってよ、なんでこのハナシ、僕のところに持ってきたん!?

つまり、僕にインディーズ書店をやれっていうことか!? 

「こいつは本屋をやりたがっているだろう」って思われてんのか!?

なので、トーハンの新しい動向そのものより、この営業担当さんの動きのほうに軽く衝撃を受けたわけである。

そんなわけで、このごろの私はこの営業さんのなかで「実は本屋をやりたがっているかもしれない事務員」と見なされつつ、そして私は私でふとした拍子にキテレツな本屋を営む妄想にかられながら日々を過ごしている。

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2024.10.03

ノートの端にある日付の記入欄が空白のままであることが無性に好きである、というよくわからない話など

本を読んでいて、思わぬところで、子ども時代からずっと自分のなかに持っていた、なんともいえない恍惚感をともなう、密かな「こだわり」のことを図らずも思い出すこととなった。

それは何かというと、ノートのページの上部にあらかじめ薄く印刷されている、「日付を書く欄」のことなのである。

青白く、限りなく薄いインクで印刷されている「Date / / 」といった、あの部分である。

あの部分が、「何も書かれていないままの状態」であることを、私はとっても好んでいたのである。その状態そのものが、なぜか子どものころから無性に、大好きなのであった。今でも好きだ。

Date

このあいだ『限りある時間の使い方』(オリバー・バークマン著、高橋璃子訳、かんき出版、2022年)を読んでいたら、こんな一節があった。

哲学者のアンリ・ベルクソンが『時間と自由』という本のなかで書いたこととして紹介されていたのだが、我々は優柔不断な状態を好むということで、「われわれが思いのままにする未来が、ひとしくほほえましく、ひとしく実現可能な、さまざまの形のもとに、同時にわれわれに対して現れるからである」

その記述を読んだとき、なぜ子どもの頃から自分はあのノートの端っこにある「DATE / / 」の空疎な印刷がたまらなく好きだったのかについて、決定的な答えが図らずも説明されている気がして、ゾワゾワッとした。

そうなのだ。
私はこの「何も書かれていない日付欄」に、「ひとしくほほえましく、ひとしく実現可能な」さまざまな「未来の一日」を感じていたかったのである。きっと。

なので子どもの時から、このノートの端っこにある「Date」の部分をひたすらボーッと眺めるひとときを、何らかの意志をもって「好んでいた」わけだが、まぁ子どものときってそういう妙なところへの途方もない嗜好って、わりとあったりする。今になってようやく、この本によって「うっ、そういうことか・・・!」となっている。

でもそういう「将来へのありもしない、謎めいた“郷愁”」ともいえそうな、「あったかもしれない未来の人生への、無条件の途方もない憧憬」みたいなものを「優柔不断ぎみにひきずる感覚」は、結局のところオトナになった今でも未だにずっと、どこかで求めている。それがやっかいなところでもある。

(今回のこのネタ、果たして伝わるのかどうか、もはや分からないのだが、気にしないでおく)

ちなみにこの本、ほかにも

「僕たちが気晴らしに屈するのは、自分の有限性に直面するのを避けるためだ」

なんていうことをサラッと言ってて、ものすごくグサグサと刺さる。

それとか「宇宙的無意味療法」というのが本書に出てくるが、これは大昔から私が提唱している「天文学セラピー」(こちらの過去記事)と同じことを言っている。日々の不安や心配事は宇宙から見ればまったくどうでもいいことのように思えてくる、というやつだ。

そんなわけで最近折に触れてページをめくってこの本を再読して、気になったところはメモっている。

話は変わって宇宙といえば、『宇宙する頭脳:物理学者は世界をどう眺めているのか?』(須藤靖・著、朝日新書、2024年)も最近読んだ本ではなかなか楽しかった。著者の若々しい文体と、脚注がやたら面白いという、そういう意味でも印象深い本だったが、ガチガチ文系の私でもぐいぐいと宇宙論にひきこまれていく。
「この宇宙において地球が誕生したという事実は、その後地球で生物が誕生しようとしまいと変わることのない断固たる事実である。仮に生物、そして人類が誕生しなくとも、この地球は実在しているのだ(ただし、それを確認してくれる知性はいない)」

「我々人類が存在するおかげで、この宇宙(さらにはマルチバース?)の実存が確認されている事実は確かだ。その意味において、我々はこの宇宙の実存証明に関して信じがたいほど重要な貢献をしている」

なんていう話は、長年「かゆいなー、でも、かけないなー」と思っていた脳味噌の隅っこを気持ちよくガリガリとかいてくれるような爽快感すらあった。こういう話をもっと子どもの時に授業で聴きたかったし考えたかった。

ーーーーー
それと、もうすっかり10月になってしまったが、8月にひさしぶりに「Harukana Show」のラジオで2回連続で話をさせてもらい・・・
「No. 698, Aug. 9, 2024, 冷茶。Pink Floyd『狂気』発売50周年記念イベントと四角錐 with Tateishi」こちら
「No. 699, Aug.16, 2024, KYOTOGRAPHIE 2024でボランティア、アートでつなぐ with Tateishi」こちら

ということで、本当に久しぶりにグラフィティの話をしたり、相変わらずなピンク・フロイドへの偏愛を語り、そして今年のマイブームとなった京都国際写真展ボランティアのことを語らせていただいた。
あと以前から注目しているWisely Brothersの曲を選ばせていただいた。イリノイ州のアーバナの街角で、コミュニティラジオで彼女らの音楽が流れたのだと思うと、ほっこりする。

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2024.08.17

ラヴェル「ボレロ」とドリフ大爆笑

あまり普段からクラシック音楽を聴くわけではないが、「ボレロ」は昔から一番好きな曲かもしれない。

この夏に映画『ボレロ:永遠の旋律』公式サイトはこちら)が公開されることを知り、それとなくモーリス・ラヴェルとその代表曲「ボレロ」について改めて調べてみると、この曲は1928年に発表されていて、ラヴェル自身は第一次世界大戦時に従軍経験があり、いわゆる戦間期を生きた人ということで、「この曲って、そんな最近に作られてたんですか!?」となり、そういうことを今までまったく知らずに「ボレロはいいな」となっていたことを強く反省し、ラヴェルさん申し訳ありませんでしたという気持ちでさっそくこの映画を観に行ったわけである。

Bolero

私にとって「ボレロ」の最大の魅力を挙げるとすると、これは「人間の一生」を感じさせる楽曲だからである。なぜそれを確信させるかというと、この曲の特徴である「規則的なリズム、パターン化されたフレーズの繰り返し」というのが「人工的」だからである。人工的というのが、ひるがえって「人の手によるもの」を強く意識させるというのが興味深いところであり、この曲は「大自然の雄大さを表現してみました」とかいうのではなく、徹底的に「人間そのもの」を追求した音楽なのだとずっと感じていた。

で、この映画の冒頭ではラヴェルがダンサーのイダ・ルビンシュタインを伴って工場を訪れるところから始まり、絶え間ない機械の作動音のなかから生じる「音楽」を感じてほしいとラヴェルがイダに力説しようとする。映画のパンフレットのなかでも、ラヴェル本人がこの「ボレロ」を工場の機械からインスピレーションを得て作ったと発言していたことが書いてあり、あぁやはりこの曲は自分がそれとなく感じ取っていたとおり「人工的なコンセプト」で生まれたのだと改めて認識できたのは個人的な収穫だった。

そんな「ボレロ」という曲は、さまざまな楽器がそれぞれ同じフレーズを順番に演奏していき、それらがだんだんと厚みを増して最後にひとつの荘厳なサウンドへ昇華していくさまが、まるで人生のその時々の出会いや出来事が積み重なっていくかのように感じられる。つまり生涯の終焉に向かっていくなかで「人生で起こったことはすべて意味があったのだ」というような想いに至る、ある意味での「調和」として結実していくような、そういうイメージを強く喚起させるところが魅惑的である。

でも今回の映画を観るまでまったく知らなかったのだが、この曲はイダが踊るためのダンス曲として依頼を受けて作曲に取りかかったもので、つまりは締め切りに追われてなんとかギリギリのところで生み出された仕事なのだった。

「人生の調和」とか言っている場合ではないほどに、プレッシャーのなかで極限まで追いつめられてインスピレーションを得るべく苦闘した末に生み出された曲「ボレロ」は、結果として誰しもが認める傑作となり、歴史に残る名曲へとなっていくのだが、しかし実はその影でラヴェル本人はこの曲を憎むようになってしまう・・・という知られざる秘話がこの映画の見どころの一つになるわけであるが、「創作した本人でも計り得ない強大なパワーを持つに至った芸術作品」というのは、得てして作り手である本人をも飲み込んでしまう、そういう底知れぬ危険なまでの魅力があるわけだ。

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ところで、この「ボレロ」という曲について個人的にずっと不満に思ってきた点が一つだけあって、それは曲の終わりかたについてである。

静かな雰囲気から始まり、打楽器のリズムだけは通底音として規則正しく続いていき、だんだんとクライマックスに向けて盛り上がっていく展開の曲にあって、どうも終わりかたが性急な感じがして、せっかくここまで積み重ねてきた聴き手の高揚感のやり場が、なんだか急にあっけなくストンと奪われるような、そういう感覚が拭えないのだ。

で、これを書くと熱心なファンから物を投げつけられそうだが、私はそんな「ボレロ」の「急な終わりかた」に、どうしても昔の「ドリフ大爆笑」のコントをなんとなく連想してしまうのだ。コントのオチがついて、いかりや長介がカメラ目線で「ダメだこりゃ」とつぶやいて「♪チャララ~ン、テンテケテン!」といった感じで終わっていく、あのシメのBGMっぽさを想起してしまうのである。
すまん、ラヴェル。

そういうフトドキ者がこの映画を観ているもんだから、劇中でラヴェルがこの「ボレロ」の曲の構成について説明をするシーンでは、つい手にチカラを込めて見入ったわけである。そこでは「最後に激しく爆発して、人生のように終わる」というようなセリフが述べられていた。映画なので実際にラヴェルがそう言ったかどうかはもちろん定かではないものの、このセリフを私は「なるほど、人生か・・・」と襟を正す気分で受け止めた(あ、ウソ、Tシャツ姿で観てました)。

映画を通して考えてみると、この「人生のように終わる」というのは、ラヴェル自身のライフヒストリーを思うと共感できるような気がした。やはり彼にとって戦争体験の影響を免れることはなかっただろうし、ラヴェルは体格的に恵まれていなかったことから、本人としては不本意ながら救護班や物資の運搬役として兵役についていて、それゆえにたくさんの兵士たちの生死の境に立ち会いながら極限状況を渡り歩く役目を担っていたことがうかがえよう。そしてさらには最愛の母を戦争期のまっただ中に失い、そこからしばらくは音楽活動もできなかったほどに衝撃を受けたわけで、突然に大事なものが失われていくという彼の死生観やトラウマみたいなものが少なからず戦後の作曲活動のなかに反映されていったとしても不思議ではない。

その一方で野暮な見方をしてしまうと、「ボレロ」の作曲というものが締め切りのある仕事だったということで、依頼を受けたダンスの時間枠という「商業的な制約」も強く意識されていたために、理論上は延々と続けることができる感動的な旋律であっても「ハイ、時間がきました! ここでダンスは終わり! 仕事完了!」というノリで曲を締めくくった、という可能性もある。本当はこっちのほうが実情に近いのでは・・・と思えてきて、私はそんなラヴェルさんの肩をたたいて労いの言葉をかけてあげたい気分にもなったわけである。

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2024.08.08

キノコ雲に誇りを持っている街で生きること:映画『リッチランド』

 以前、長崎を訪れて原爆資料館を見終わったあとに「展示物の数が少なくて、こじんまりしていた」という印象が残った。しかし後々になって、それはつまり「残せるものが存在しないぐらいの破壊力であったのでは」と気づき、思わぬ距離感からの恐ろしさが追随してくるような気持ちになった。

明日8月9日は長崎に原爆が落とされた日であるが、来年はついに戦後80年ということで、私たちも遠くに来てしまった感がある。

そんななか、いまドキュメンタリー映画『リッチランド』が上映されている。

Richland

アメリカのワシントン州の南部にあるリッチランドという街は、郊外のどこにでもありそうなおだやかな町なのだが、ここは戦時中にマンハッタン計画を極秘に進めるべく、さまざまな地理的条件から見出され、核燃料の生産拠点として戦略的にテコ入れが図られた街なのであった。

長崎に落とされた原子爆弾「ファットマン」のプルトニウムはこの街で作られたとのこと。

「日本に原爆を落としたことで戦争を早期に終わらせた」というアメリカ人の主張はよくあるわけだが、そこからやがて冷戦期に突入すると、結局は当初の思惑以上に、この核燃料産出エリアの重要性は高まっていき、戦後もどんどんと街は発展していく。

ちなみに「リッチランド」という地名は、この土地に町を作ることを決めた際に、当時の州議会議員の名前にちなんでつけられたとのことだが、どうしたって原子力産業の名の下において金銭的な豊かさを享受する「リッチ」に由来したんじゃないかと曲解したくなるような、なんともいえない「皮肉」を感じてしまう。

本作の映画監督、アイリーン・ルスティックのまなざしは、それでもかなりフラットな視点を維持しようと努めている。原爆をつくり、そしてコミュニティへの環境汚染が懸念されつつも、それでも「街の発展、家族の豊かな生活」もまた、リアルに重要なことであり、一方の意見に簡単に寄りかからない粘り強さをもってカメラを回し続けたのだろうとうかがえた。

そうしてこの映画では、この街の平和そうな暮らしの様相を捉えながらいくつかの論点や課題をじわじわと提示していくのだが、私が一番感じ入ったのは地元のリッチランド高校のことである。この高校の校章は見事にキノコ雲そのもののイラストであり、アメフト部の愛称は「ボマーズ」という、私の感覚から言えば直球すぎてどこまでも痛々しいわけであるが、それだけ街の人々はキノコ雲に誇りを感じており、街の基幹産業へのリスペクトを再生産させてきたわけである。

映画の途中で、そんなリッチランド高校に通う生徒達の一部がカメラの前で思い思いに語り合うシーンがあった。もちろん、このドキュメンタリー映画に出ることを承諾したような生徒たちであることを差し引いて彼らの言葉を聞くべきなのだが、そんな彼らは素直にこの校章の超絶なダサさをどうにかしたいと思っており、そして自分たちのその思いをつきつめていくと、それがアメリカという国や、それを取り巻くさまざまな国際政治の根幹の部分にまで及ぶことを鮮やかなまでに思い至らせてくれる。

そうして、きっとこの彼らたちがなんとか自分の考えを大事にしようと苦心しつつも、教室に戻るとその信念はマジョリティに圧倒されてしまうのであろうこともどこかで感じさせたりもする。それゆえに、私はこの彼らの実直なディスカッションのシーンが強く心に響いて、残った。こういう若者たちが終わりのない議論の境界線上で踏みとどまってくれている限り、希望は全然捨てなくていいのである、とあらためて力強く思えたのであった。

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2024.07.29

N先生のこと

Hydrangea


 自分にとって「恩師」と呼ぶには表現が追いつかない、N先生が逝去された。

 何からどう書けばいいのかわからないところからはじまり、この文章はこの一ヶ月半、少しずつ書きながら、行きつ戻りつして書き進めている。でもずっと、私のこのブログをN先生は読んでくださっていたので、前に進むためにも、ここに文章を残していく。
 
 「恩師」と呼びにくいのは、私にはそう表現できる資格がないと思っているからである。「恩師」というと、勉強や学問を学び修めるために師事したという感覚があるのだが、私にとっては、そうしたあり方とは異なる関わり合いをさせてもらい、知的刺激に満ちた時間とともに、人生における「大きな学び」を、さまざまな機会を通して(そして、数え切れないほどのお茶とお菓子とともに)たくさん享受させていただいた。そして結局はそのお返しをちゃんとできないままだったという感覚がいま、すごく残っている。

 私にとってN先生は、「好奇心を大事にして、ものを考えて、文章を書く」ということについて、ただただ、大いなる存在であった。それは先生自身が、研究者としてたくさんの文章を書いていく立場でありつつも、「研究のための言葉」をできる限り避け、「読んでもらうための文章」を書き続けようとしていた姿を通して思い起こされる。私がずっとブログやその他の書き物を続けてきた、その視界のむこうにはいつもN先生からのリアクションがあるかもしれないという予感があり、そしてしばしば、実際にN先生からの感想がいただけたことは自分にとっての宝物となっている。

 そしてN先生の言葉を借りるなら「学際領域の“きわ”」を渡り歩いて多彩な学問領域から紡ぎ出された数々の著作は、どのような論題であっても、そのまなざしの底ではつねに「殺すな、生きよ」の信念に貫かれた「怒り」に類するような思索のもとでこの世界を、政治や歴史を、生活を捉えていた。しかし、そうして激しい熱情を抱えつつ冷徹に「届く言葉」を紡いで仕事を続けていったと同時に、N先生が異才の人だったのは、その朗らかで謙虚な人柄で、周囲の私たちにいつも温かく接してくださり、好奇心旺盛でチャーミングな方だったと誰からも記憶される、その「振り幅の大きさ」にあったと思う。

 目の前の人々や生活をまず大切にし、励まし、美を愉しみ、笑いを分かち合う。それと同時に、油断すると生活のなかで見えにくくさせられる「政治的なるもの」への徹底した批判精神を失わず、疑いや問いかけをやめず、探索と対話を粘り強く続け、「闘う人」としての矜持をたずさえること。そしてそのために「思索と言葉」を磨き上げて他者に届けること。そうした営みの両立は、私からすれば「パンク精神の体現」以外の何ものでもなかった(実際に本人にも一度だけそのことを伝えた気もするが、記憶に自信がない)。

 先生との出会いを振り返ると、それは大学一年生の頃で、共通教養科目としての「文学論」を受講したことにはじまる。N先生はそのころすでに、「近現代文学に描かれた住まい」というテーマで新聞連載を続けていて、その仕事をやがて書籍にまとめつつあった時期にあたる。当時、臨床心理学科というところにいて心理学を学び始めていた私は、自分のいた学科とは異なる文化人類学科に所属していたN先生が、どうしていろんな小説の「住まい」に注目した授業をしているのか、その真意がよくわかっておらず、その面白さに気づくのは本当にだいぶ後になってからだった。

 講義が進んでいき、この科目ではやがて、受講生それぞれがキャラクターを創作し、「集団創作によるひとつの物語」としてさまざまな居住空間をテーマにしたオムニバス小説を作るという展開になっていった。期末レポート課題では、その合作小説を読んだ感想を書くということになり、そのためには受講生が個々に書いた作品を学期末までにひとつにまとめる作業が必要になる。

 そこで講義も残りわずかとなったあたりで、N先生は受講生に向かって、誰かこの編集作業をやってみませんかと募った。

 手を挙げたのは、私だけだった。

 こうして数日後、私はN先生の研究室を訪れることになった。私の手には、ワープロ専用機の入った大きなキャリングケースがあった。このワープロ(カシオG-98)こそ、私が高校3年生のときに遊びで始めたフリーペーパーを作るために使い込んでいたもので、「編集作業をやってみないか」というN先生の呼びかけに私が反応したのは、この頃の自分にとっては新しい趣味の延長線上に「編集」があったからである。

 こうして私は使い慣れたワープロをN先生の研究室に持ち込んで、受講生の作品を冊子にまとめた。オムニバス小説ということもあり、各学生の作った話をつなぐ役割として私は「英国BBCのジャーナリスト」という(趣味まるだしの)設定のキャラを考案し、その記者の目を通してさまざまな日本の住まいを探訪するという構成の物語を無事に作り終えた。

 そして、この作業がきっかけとなり、N先生からはそのあともいろんな用事の手伝いを頼まれるようになっていった。やがて私は学部を卒業し、そのまま大学院に進んだりやめたり、別の大学院に行ったりするのだが、その間もずっと定期的にN先生の研究室で仕事を手伝わせてもらっていた。やがて母校でスタッフとして働くようになり、業務としても先生の仕事を支える立場にもなり、また先生が定年退職したあとも、ときおりご自宅にうかがい、パソコンのメンテナンスをさせてもらったりした。

 学部生の頃は、何度もN先生の研究室を訪れておきながらも、自分とは違う専攻の先生であるということで、そこに並んでいた本棚の本たちには特別な注意を払うこともなかった。しかしだんだんと、自分もそれなりに歳を重ねて学びを深めつつ、N先生とのたくさんのおしゃべりを経ていくなかで、N先生が何に問題意識を持ち、そして何と闘っているかというようなことが自分なりに少しずつ掴めるようになると、その「本棚の意味」が自分にさまざまなことを投げかけてくるように意識されていった。世界は自分が思っている以上に広く、そして考え続けるべきテーマはたくさんあることを、これ以上なく恵まれた環境のなかで学ばせてもらったといえる。私はやがて心理学から逸れて社会学を専攻するようになっていった。

 そんな私にたいしてN先生からは「あなたは『書く人』なんだから、書き続けなさい」と励まされたことがあり、そして私が友人以外ではじめて自作のフリーペーパーを渡したのもN先生であり、そこからN先生の研究室の前に配布用のフリーペーパーを設置させてもらい、知らない人にも読んでもらえるものを作るきっかけを与えてくれたりした。こうしてN先生はずっと、私の書いた文章を読んでくださっていた。そのことがずっと自分にとっての絶対的な心の支えになっている。

 かつて先生は、困難な状況下におかれた時期に、ある人からのアドバイスで「手作りで、片手間に、優雅に」というスローガンで仲間たちと協働していったことについて語ってくれたことがあった。どんなに大変なときでも「自分の手で」「優雅」に至るその意志の持ちようが、N先生の独特の生き様と思想を育んできたのだろうかとも想像していた。そうしてその言葉は自分自身にとっても事あるごとに想起される「智慧」となり、できるかぎり自分も優雅でありたいと願いつつも、しかし今はただ、余裕のない日々のなかで見渡す限りの地平を眺めているような気持ちで、静かに言葉を並べている。自分は結局「何も」書けていないままであり、全力を尽くして書いたといえるような文章を、ついぞN先生には読んでもらうことが叶わなくなってしまい、その事実とともに、人生をいかに生きるかという宿題だけが、残された。

 ただ確かに言えることは、19歳のときの私がフリーペーパーづくりを趣味にしていたことで、あのときのN先生の呼びかけに応じることができたことは、本当に人生で大きな、幸運に満ちたターニングポイントだったのだ。この一ヶ月半にわたり、折に触れてこれらの文章を書いたり消したりしつづけてきた自分は、N先生が旅立っていった寂しさとともに、かつての自分が得ていた幸運の大きさをあらためて認識することとなった。この幸運を得た者の「宿題」として、そしてたくさんの時間を共に過ごしてくださったN先生への感謝を示し続けることとして、書き続けること、があるのかもしれない。手作りで、片手間に、優雅に。

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2024.06.07

新作ZINEをつくった(ある意味で)

ひきつづき、KYOTOGRAPHIEの話である。
(うん、『ロス』は続いている)

京都芸術センター会場ではジェームス・モリソンによる「子どもたちの眠る場所」という展示が行われていた。

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世界中のさまざまな境遇にある子どもたちを訪ね、写真家はすべての子どもたちの姿をできるだけ同じ条件でポートレート写真に収める(つまり、そこには「すべての子どもは平等である」という意味合いが込められているとのこと)。そして彼らの「寝室」を、これもできるだけ同じ角度から撮影し、そうしたプロジェクトから今回の展示においてセレクトされた世界の子どもたちの写真が並べて置かれている。

訪れた鑑賞者は、大量消費社会のなかで豊かに暮らす子どもの寝室の写真を目にしたかと思えば、その裏側に歩を進めると、過酷で悲惨な状況下で粗末な寝台をとらえた写真や、そこで毎日眠る彼らがどういう暮らしをして、どんな夢を持っているかといった説明文を読み、さまざまな社会背景や家族関係のありかたに直面し、その子どもたちの身の上を案じることになる。

写真家自身はただ淡々と、子どもたちの姿と寝室の写真を並べ、彼らの生活の様子を完結に書き添えて提示しているだけである。ただし、次々と並ぶ作品を観て歩く我々はそれらを淡々と受け止めるわけにはいかず、さまざまな感情が静かに沸き起こってくる、そういう展示だった(あえて導線を定めず、作品の間を自由に行ったり来たりできる設定にしているのも効果的だった)。

そして会場である京都芸術センターも、かつては小学校として使われており、そういう意味でも子どもに関する展示をここで行うことには意味があったと感じる。

その意義に呼応するように、この「子どもたちの眠る場所」とは別に、同じ敷地にある別の建物で「KG+」と銘打ったKYOTOGRAPHIEのサテライト・イベントの一環として、子ども写真コンクール展「しあわせのみなもと」の展示も行われていた。そこでは日本の子どもたちが応募した写真のなかから選ばれた作品を、和室の大広間で鑑賞することができた。

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私はボランティア・スタッフとしてこの京都芸術センター会場では一日だけ入らせてもらったのだが、その日に割り当てられたシフトのうち、最初のコマと最後のコマの計2回、この「しあわせのみなもと」の子ども写真展フロアを担当した。1コマが50分くらいで、スタッフの数の関係上、このエリアは1人きりで担当することになっていた。

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で、この子ども写真展の部屋の脇には、さまざまな紙や文房具類が置かれたスペースが用意されており、ちょっとした工作を楽しめるようになっていた。
スタッフはこの工作スペースのところに座りつつ、来場者が来たら畳の部屋の前で靴をぬいでもらうよう案内したり、人数をカウントしたりするのが主な仕事だった。
その傍らで、この工作スペースにもお客さんがやってきた場合はその応対もすることになっていて、ここでは「A4紙でミニブックをつくってみよう」という解説書が置いてあり、主にそういう趣旨で工作を楽しんでもらうようになっていた。

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そんなわけで、朝一番のシフトでこの場所を担当することになった私としては、この「ミニブックをつくってみよう」の解説書をみて、「お客さんが来た時に、このミニブックの作り方を教えられるようになっておかねば」と思い、さっそくA4用紙の束から1枚の紙を手に取ったのだが、このときすでに心の片隅で「自分も何か描くしかないよな、こうなると」という気持ちでいた。

もう、そりゃあね、
描かずにはいられませんよね、何か。
紙を折ってミニブックの形を作って、
空白のまま放置するなんて、
できませんよね。

ましてや朝一番の開場直後だったので、お客さんはそんなにやって来ない時間帯だった。
使える時間は50分ぐらいで、そのなかで紙を折り、ペンを取り、書き上げたのが以下である。









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「即興ZINE」を久しぶりに作ったわけで、ある意味で「新作」となった。
限定1部だけど。

ちなみに、すでにこの工作コーナーには、同様のミニブックの「サンプル」がいくつか置いてあった。いろんな色紙を切って貼り付けたり、何かの写真を切り取ってコラージュのように貼っていたりする作品などが置いてあり、私の「ZINE」もそのなかに混ぜて置いておいた。


こうして時間が過ぎていき、夕方の閉館前、最後のコマで再び私はこのフロアの担当となった。

どうせなら作りますよね、もうひとつ。
ええ、せっかくですし。

で、この時間帯になるとお客さんもわりと多く、隙を見て少しずつZINEを作るという状況だった。
そしてこの工作コーナーにも親子連れが留まり、2組ほど時間をかけて娘さんがミニブックを作り、それをお母さんが見守っていたり、一緒になって作ったりしてくれていた。

こういうとき、子どもにとってはスタッフのオッサンにずっと作業を見守られるのもウザいかと思うので、私も自分の作品づくりに勤しみつつ、ときおり他の来場者に対応しながら、工作を続ける子どもたちやお母さんにたまに声をかけたりした。お互いが黙々と各自の作業をして、ちょこちょこと会話するぐらいの、そういうスタンスがちょうどいいんじゃないかと思った。

こうして閉館時間がまもなくやってくるという緊張感もあったなか、私が描いたZINEがこれである。








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そしてこの作品ができあがる頃には、工作コーナーに残りつづけていた娘さんとお母さんとも、お互いの作品を見せ合うこととなる。さぞかし変なオッサンだと思われたことだろう。でも最後にお母さんは、娘さんと私が作品を手にして並ぶ写真を撮って帰った(笑)。

そういう思い出と共にこの日のボランティアが終了した。

最後にスタッフ全員で終礼のミーティングを行ったが、私が作った2つの作品のことは黙っていた。
でも数日後、あの会場の担当だったサブリーダーさんと別のところで再会したとき、私があのZINEの作者であることを認識してくれていて、そしてあの作品が「スタッフみんなのお気に入り」になっているということを教えてもらい、久しぶりに味わう種類の達成感があった。

あともう一つ印象的だったのが、写真祭が開幕した直後に誉田屋源平衛の会場――中国の2人組・Birdheadの展示が行われ、ここもなかなかの会場だった――でスタッフに入ったときに一緒だった高校生の男の子がいて、そのときはお互い半日だけの業務だったのもあり会話もあまりできないまま解散したのだが、会期の最終日に再び誉田屋でのシフトに入ったときにたまたまその高校生くんとも再会し、ボランティア同士の会話の鉄板ネタとして「このほかに、どこの会場のスタッフに入ったか」という話になったわけだが、彼は京都芸術センターの担当になったときに私の作ったZINEを目にし、すぐにその作者が「このまえ誉田屋で一緒にボランティアをしたあの人だ」ということを認識したとのこと。ほとんど会話していなかったこのオッサンのことを、あのZINEを手にしただけで思い至ってくれたということに、なんだかグッとくるものがあった。

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2024.05.20

KYOTOGRAPHIEのボランティアが終わってロスになっている、っていう話

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 まさか、こんなにも「ロス」な気分になるとは一ヶ月前には想像もしていなかった。そして私の暮らす街について、ちょっと違った気分で眺めていた日々でもあった。

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 4月中旬から開催されていた京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」(以下KG)が先日閉幕し、私は主にゴールデンウィークを中心とした祝日・休日にボランティアスタッフとして携わったわけだが、この一ヶ月間は「イベントの合間に本業の仕事をこなす」という感覚だった。すまん本業。何せ京都市街のあちこちにある13会場(加えてそれらのメイン会場の他に、『KG+』という関連展示が数え切れないほど存在する)が舞台となっているわけで、すべての会場で事故なく滞りなく日々の会期が無事に過ぎていくことをボランティアの端くれである自分も祈るような気持ちでいたのである。



 つまり、楽しかったのだ。とっても。



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 結果的に私は13会場のうち6会場で、のべ8日間活動を行った。
 スタッフとして求められた役割はいたってシンプルで、入場の際のチケットチェックや、展示会場の監視、巡回、案内誘導である。それ以外のややこしい作業は、その会場ごとに配置されているリーダー役の有給スタッフが行っていた。

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 このリーダーさんたちの存在も興味深く、それぞれがいろいろなバックボーンを持ってこの役割に挑戦し、そしてキャリアの分岐点を迎えているのであろう若い人が多かった。とはいえ実際には、その日のスタートからあわただしくなるリーダーからゆっくり話を聞いたりする機会はそんなにはないので、ふとしたタイミングで交わす会話のなかで、その一端を伺い知る程度にはならざるを得ないのだが、自分が担当することになった会場に愛着を寄せつつ、よりよい展示空間を作っていこうとする真摯さには熱いものを感じた(なのでいつもの本業にも伝播していくような前向きなエネルギーをいただいた気がする。。。すぐに消えそうだけど)。

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 そうして私は今回はじめてボランティアスタッフとしてお客さんを迎え入れる側になったわけだが、この役割が長時間にわたってもまったく苦にはならず、いつもあっという間に時間が過ぎていく感覚があった。そしてこのことについてよく考えてみると、「一定の目的をもって集まった大勢の老若男女が、自分の目の前を次々と通り過ぎるのを見守る」というこの状況は、「市民マラソンでの沿道応援」の趣味と構造がまったく同じであることに気づき、そこは苦笑いするしかなかった。冬はマラソン大会でサッカーユニフォーム姿のランナーを探し続け、そこに加えて5月の連休は写真展の会場で無言のうちにいろいろな人々が通り過ぎゆくのを見守るというのが新たなルーティンになりそうな。

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 前回のこのブログ記事で書いたとおり、個人的にこのイベント最大の推し会場は「京都新聞社ビルの地下、印刷工場跡地」である。そして私はここで2回、スタッフとしてシフトを割り当てていただいた(最初は1回だけの予定だったが、無理やり都合をつけてもう1日追加で入らせてもらった)。そもそもKGのボランティアに申し込んだ動機が「この会場でスタッフ側として携われたら楽しいだろうな」という思いがあったからなのだが、その狙い通り、いや想像以上に、この会場はやはり特別な場所だった。

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 今年の京都新聞社会場の展示はヴィヴィアン・サッセンの回顧展ということで、現代の写真業界もファッション業界にも疎い私は彼女のことをそれまでまったく知らなかったのだが、色彩の強弱が印象的な写真作品が、この印刷工場の無機質でダークな空間のなかで放つ存在感のコントラストが見事だった(そしてアンビエント・テクノっぽいBGMが鳴り続け、それもまた雰囲気づくりとして最高に合っていた)。

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 およそ写真展の入り口とは思えない通用口(でもマンチェスターの伝説的クラブ、ハシエンダって結局こういうことだよな? と思った)を出入りし、足下にはかつて大量の新聞紙が運ばれたのであろうレールなどがそのまま残っており(穴が深すぎてスマホを落としたら二度と取れなさそう)、背の高い人がアタマをぶつけまくりそうなところに配管パイプが張り巡らされ、導線もはっきりしない会場の作り方ゆえに出口を求めてさまよい続けるお客さんなどの動きを常に注視して見守る必要があったのでスリリングなのである。

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 さらに最も気をつけていたのが、プロジェクションで作品が照らされた展示場所のさらに奥にも空間が続いていて、幻惑をもよおすシチュエーションゆえにか、プロジェクターが置いてある舞台を乗り越えてまでその暗黒の世界の果てへ進んでいこうとする客がたまにいるので、そんな彼らを現実世界へ呼び戻さないといけないことだった(私が体験した限りでは、不思議とそういう動きを見せるのはほとんどが女性客だった。そして私は決まりの悪そうなお客さんにむかって毎回『お気持ちは、よく分かります』と言い添えた)。

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 そして本会場ではサッセンがキュレーションに協力した、Diorが主催した若手作家支援の関連展示も併設されていた。工場跡地からその地点へ誘導し、見終わって戻ってきた客を出口へ案内するという業務もあった。で、このポジションではDiorの洗練されたクールな写真展示とともに「ふつうに京都新聞社で働いている社員さん」が導線のすぐ脇をウロウロしたり、新聞社の清掃担当のスタッフがふつうに我々の傍らで作業をするというリアリティかつ混沌とした状況もしばしば発生し、刺激的で飽きがこなかった。

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 また、閉館したあとにリーダーさんの計らいで、お客さんには通らせないバックヤードをスタッフみんなで歩かせてもらったことがあった。誰もいなくて真っ暗で、サッセンの展示だけが煌々と光り続けている空間をゆっくり味わっているとき、ふと、このメンバーでこの時間をともにすることはもう二度とないんだろうな、ということを思うと胸に迫るものがあった。

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 うん、他にも書きたいことがいろいろとある気がするのだが、ひとまずは会期のあと個人的・仕事的にもバタバタが続いているので、「終わった! ロスだ!! なんなんだこの感情は!!」という気持ちとともに、まずはこの書きっぱなしの文章のままでアップさせてもらう。自分と写真との向き合いかたもなんとなく変化していった感じもあって、アートを楽しむというシンプルな行為をたくさんのお客さんやスタッフさんたちと共有できたことのテンションの高ぶりに、いまはボーッとのぼせあがっている状況なのかもしれない。

 ということで、落ち着いたらまたこのことを書くかもしれない。

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2024.04.21

気がつけばこのブログを書きつづけて20年が経っていた

このブログをパソコンでご覧の方々は、記事の右側のメニューをずっと下にスクロールすると「ココログ」のアイコンがあり、その下に「2004/02/10」という数字を確認することができるはずだ。

それはこのブログを開設した日付であり、つまりこの「H O W E * G T R ブログ」は2月で20周年をひっそりと迎えていたのである。

そして作者はつい先日そのことにようやく気づいて、思わず一人で声を出して笑ってしまった。
「笑う」といってもそれは「苦笑い」に近いものがあり、そして「20年も経ってしまった」という事実に直面すると、自分のこれまでの歩みを短絡的に振り返ってしまうことで生じるなんともいえない情けなさとか後悔みたいな気持ちが圧倒的に上回り、「めでたいなー」っていう気分はあんまり、起こらない。

本来は、自分が作ったフリーペーパー「HOWE」の副読本みたいな形で始まった「HOWE*GTR」という別のペーパーがあり、それは完全に趣味オンリーの話を書き散らすためのものとして位置づけていたのであるが、2004年当時にブログサービスが開始されるにあたり、自分もその流れに乗っかって、フリーペーパー「HOWE*GTR」の延長線上のような気持ちで作ってみた・・・というきっかけでこのブログが始まっていった。

それがやがて30代になり40代になり、忙しさにかまけてフリーペーパーやZINEといった印刷物での表現をサボっていくようになり、ブログというのは気が向いたときに言いたいことや書きたいことを安価に手軽に表現する場として重宝し、そうしてこの2月で20年が経っていった。

最近ではブログをやるというと、すぐに「マネタイズがどうの」っていう話になってくるのだが、こちらはそういう時代の流れに乗っかっているわけではなく、せいぜいAmazonのアフィリエイトを置いたりしている程度だが、最近では自分自身がAmazonという会社そのものに嫌悪感を抱いているので積極的にアフィリエイトを設定する気にもならず、なおさら「何のためのブログなのか」と問われると、答えにくい(昔、Tシャツのシルクスクリーン印刷を解説した本ブログの記事がやたらGoogleの検索上位にあがっていた時期は、毎月数千円の収益が続いていたことがありました)。

でもフリーペーパーやZINE作りにせよ、このブログにせよ、「終了しました」と宣言しなければ、今でも「続いている」という状態になるわけで、結果的にそれはそれでよかったかもしれない。解散宣言をしないまま長期活動停止状態のロックバンドと同じである。そういう気持ちでずっとブログを書いてきている。

なので、自分のパソコンのブラウザに残っている「ブックマーク」のリストをたどり、かつて自分が気に入ってアドレスを保存していたさまざまな個人ブログのお気に入りを訪れても、そのほとんどが閉鎖しているか、別のブログサービスに移っているか、移ったとしてもその先では更新が昔に止まったままだったりして、寂しさを感じさせる。や、そのままブログを放置しておいていいんじゃないか、閉じなくてもいいんじゃないか、気が向いたときに少しでも書いたらいいんじゃないか・・・「あ、いまだと別のSNSのほうが便利なのか、そうかそうか・・・」とかいうことを悶々と考えてしまう。

それはまるで、大きなロックフェスの会場で、ブログの登場とともに一人でずっと最前列で盛り上がっていたつもりが、ふと我に返って後ろを振り返るとお客さんがほとんどいない状態になっていたかのような、そういう心象風景を思わせる。

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そんなわけで、何に向かって書き続けているのかもよく分からず、こんな気まぐれなブログをずっと読んでくれている方々(の存在を信じている)にはひたすら感謝。ありがとうございます。

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