2023.01.28

映画館のロビーに占い師さんのブースを置いたらいいのに、という話

このことはずっと前から思っていることなのだが、映画館の待ち合いロビーに、占い師さんが待ち構えるブースを設置したら双方ともに儲かるんじゃないだろうか。

映画を観た後の高揚感のなかで、エンドロールを眺めながらいろいろと自分の人生を振り返って「このままで自分はいいのだろうか」とか、普段あまり検討していなかったことに思いをめぐらせながら席を立ったあと、もし目の前に占い師さんが待ち構えていたら、つい割高な料金を払ってでもそこに座って手相でも見てもらいたくならないだろうか。

Aso

そして、訊かれてもいないのに映画の感想とかもベラベラとしゃべってしまいそうだが。

映画館って、そういう意味では「人生について立ち止まって思いを巡らせやすい場」のような気がするので、例えば大規模なシネコンだと、妙にアトラクション風情のあるキラキラした世界観だけがその空間のすべてを覆っていて、どうにも腑に落ちないところがある。部分的には「陰鬱な気分を落ち着かせる、しっとりとしたエリア」があってもいいわけで、占いコーナーはそのあたりをうまく回収できる場になりそうなものだが、どうなんだろうか。

あと、なぜかそういうシネコンってロビーがやたら広々としていて、ウイルス対策的にはもちろん良いのだろうけど、どうせこれぐらい広いのだったら、占いコーナーのひとつやふたつも簡単に設置できそうなのに、未だに占いコーナーつきの映画館というのは実現してそうにない。

Movie
(ムダに広いロビーの理由は、消防法とかの関係があったりするのかもしれないが)

話のついでに・・・映画館はボランティア団体とかNPO/NGOとかとコラボして、募金箱とかを常設することも効果的ではないかと思う。パネル展示とかがあって募金箱があれば、上映までの待ち時間のときでも映画をみたあとでも、ナチュラルに募金をしたくなる気がする。そういう映画館があれば積極的に足を運ぼうという気持ちにもなるだろうし。

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2023.01.22

ひさびさの「当たり読書」:『THE WORLD FOR SALE:世界を動かすコモディティー・ビジネスの興亡』

 突然だが、以下にある企業のロゴや社名をご存じの方々はどれぐらいいるだろうか。

230121logo

 今回取り上げる本『THE WORLD FOR SALE:世界を動かすコモディティー・ビジネスの興亡』(J・ブラス、J・ファーキー著、松本剛史訳、日経BP、2022年)を読むまで、私はこれらの企業の名前はまったく知らなかった。
 しかしこれらの会社は、たとえば米国におけるアップル社やコカ・コーラ社のようなワールドワイドな規模で商売をし、時としてとてつもない収益をあげていたりする。

 扱っているのはいわゆるコモディティー、つまり原油や金属資源、農作物などである。
 仮に我々はアップル製品を買わずとも、またコーラを1本も飲まなくてもそれなりに社会生活を送ることができるだろうけれど、一方でエネルギー資源や食料が世界中を移動することによる様々な恩恵を受けなければ、まずもって生活が成り立たない。ただ、これらを取引して動かしていく「コモディティー商社」の社名に我々が触れることは稀だろう。彼らは自らの存在を一般消費者に誇示する必要はまったくなく、いわゆる「B to B」のビジネス形態なのだから当然かもしれない。そしてこの本を読むと、むしろその存在ができるだけ表舞台に出てこないほうが彼らにとっては動きやすく、利する部分が多いことも分かる。

 そういうわけで「民間で知られないままでいるには、あまりにも巨大な影響力を持った、途方もない強欲の組織体」ともいえるコモディティー商社群について、その通史や暗部、そしてこの業界の未来について徹底的なリサーチやインタビューに基づいて書ききったこの本は、とっても刺激的であった。

 登場する企業・政府・人物、彼らが行ってきたことのあらゆることが非常に狡猾だったり強欲だったり倫理感が欠如していたり、さまざまな部分でスキャンダラスでダーティーなものなのに、それらをすべてひっくるめて「楽しんで読めるもの」として成立しているのは、これはもうジャーナリストの見事な技芸のたまものであり、ストーリーテリングの妙味が炸裂した本だと感服するしかない。
 
 とくに私は「グローバリゼーション」という言葉を、これまでなんとなくフワッとした意味合いの、大きい概念を指し示す適当なフレーズ程度のものとして捉えていたことに気づかされた。ちょうど「マルチメディア」という言葉が今となっては陳腐なものになっているように、時代を経るごとにグローバリゼーションという言葉も「今さら、なんですか」という印象しか浮かばないような、そんな感じである。
 だがこの本を読んで、私にとっての「グローバリゼーション観」はドス黒いものとセットに、生々しく迫るものとして強制的に再認識させられたのだった。
 国家の枠組みを飛び越えるもの、その動態みたいなものをグローバリゼーションのひとつの表われとして捉えるのであれば、まさにコモディティー商社が、とうの昔から国家の管理とか法律とかの規制に縛られることなく活動の幅を拡大して好き勝手に動いており、もはや彼らの金儲けの飽くなき探求の結果としてグローバリゼーションといえる状態が作られていったのではないか、ひいては「オマエらのせいかーーっ!?」というツッコミをしてしまいたくなるのであった。
 
 何せインターネットができるずっと以前から、ある意味での「情報ネットワーク網」を世界中にはりめぐらせ、こともあろうにCIAですらそこに頼ることが多々あったらしく、また「ビッグデータ」という言葉ができるずっと前から、商社は世界中の農場から得た膨大な情報を駆使して未来予測を立てて生産量や値動きの変動を追っていたりもする。なので彼らの活動が現代に至る技術革新のイノベーションを促進していた部分があるとも言えそうである。

 で、この本でもいろいろな「歴史的取引」が紹介されるのだが、国際社会からの経済制裁により貿易が本来はできないはずの国だったり、反政府ゲリラ組織だったり、債務危機に陥って破綻寸前の国だったり、そうした困窮状況につけこんだコモディティー商社の暗躍によって資金や資源が動き、国や反体制組織が支援されていく。そしてそこには政治的公正さや倫理観は「二の次」となる。ただひたすら「たくさん儲かるから」、彼らはリスクを背負って賭けに飛び込む。
 そういう意味では「武器商人」にも通じる話でもあるが、コモディティー商社の場合は、扱っている商材が最終的に私たちの生活の一部としてつながっていて、末端のところにいる「顧客=読者」としての我々もある意味でそうしたドロドロの状況に含まれているのだということも実感させられる。

 届けられるはずのない場所へ誰も想像もしないルートから原油を送り込んでみせたり、あるはずの大型タンカーが突然姿を消したり、そうした「ナイフの刃の上を歩く」ように綱渡りで秘密裏に進められる巨大な商取引をダイナミックに展開する商社のトレーダーたちの奮闘ぶりは、それが褒められる行為かどうかは別として、どうしたって「面白い」のである。国家という枠組みによる衝突や駆け引きをよそに、その裏をかいて、自分たちの利益のためだけに国境をやすやすと飛び越えて資源を調達しては売りさばき、あるいは値上がりを見越して溜め込み、さまざまな策略を駆使して法の網の目をかいくぐりライバルを出し抜いて巨万の富を獲得しようというそのエネルギッシュな動きは、もはや読んでいて感心すらしてしまう。

 そうやって「国家を裏であやつる存在」にもなりうるコモディティー商社の影響力が途方もなく大きいものに発展していくこととなる。ネタバレになるので詳細は書かないが、近年の動向において、こうした動きを監視し抑圧する方向で一番の役割を担いつつあるのが、やはり「世界の警察」を自認する合衆国だったりする。本書の終盤においては、このあたりの動きを含めてコモディティー商社をとりまく世情が今後どうなるかを占っていくのだが、「それでもしぶとく彼らは儲け続けるはずだ」という論調になっていくのが苦笑いを誘う。
 もし今後、探査船が月に飛んで、月の深部に有益な埋蔵資源が眠っていることが判明しても、それはコモディティー商社の手配したコンテナや重機が月から資源をすっかり回収した跡が残っていたがゆえに発見できました、というオチになるんじゃないかと夢想してしまう。

 そしてまた、ここまで広範囲で多方面にわたる天然資源の商取引の歴史を語るにあたり、「主だった登場人物や会社が一冊の本のなかで認識しうる程度の数に収まっていること」が、いかにわずか少数の人間や組織が、この地球全体の資源をコントロールしているかという不穏な実情を示唆している気がする。なので本書の題名『THE WORLD FOR SALE』はこれ以上見事な表現がないぐらいに著者たちの伝えたいことが示されていて、決して誇張でもないのであった。

 それにしてもこの本は、題名と装丁がちょっと気になったのでたまたま手に取り、それでお正月休みに読み始めてみたら、とにかく筆の運びが巧みで翻訳も自然で一気にグイグイ読ませ、どの章もスリリングなサスペンス小説のようで、かつ今までまったく知らなかった業界の内側をわかりやすく丁寧に解説してくれるという、久しぶりの「当たり読書」だった。

 たとえば本書の終盤、「第13章 権力の商人」の書き出しはこうだ。

2018年初めにその短い発表があったとき、ペンシルベニア州の公立学校に勤める教員の誰かが注意を払うことはおそらくなかっただろうが、そこには彼らの退職後の蓄えにとってありがたくない知らせが含まれていた。

 この第13章に至るまで本を読み進んでいると、崩壊後のソ連だったり、キューバや湾岸戦争や中国の資源需要急増などといった緊張感の高い話がテーマとして連発してくるなかで、このシンプルで唐突な書き出しは絶妙だ。いったいどうして、ペンシルベニア州の公立学校の先生たちの退職金が、このコモディティー業界史をめぐる激しいテーマに関わってくるんだ!? と気になって仕方がなくなる(実際、このあと予想だにしない方向へ話が急展開する)。カメラの視点と、背景のテーマとの距離感のギャップが大きければ大きいほど、著者が仕掛ける「演出」が際だってくる。

 このごろは「面白い!ブログで書きたい!」と思える本になかなか出会えてなくて、昨年だと『コンテナ物語:世界を変えたのは「箱」の発明だった』(M・レビンソン著、日経BP、2019年)は、そのテーマ性が絶妙なので読む前から期待値が高くなりすぎたのもあったが、どういうわけか途中から急激につまらなくなって、結局途中でギブアップしてしまった。やはり書き手の側にある種のサービス精神だったり、人間存在のユーモアとペーソスを大事にしようという意識が根底にうかがえる本は、読者を飽きさせずページをめくる手を随行させ、読み終わるのが惜しいぐらい充実した読後感を与えてくれる。そういう本にもっと出会いたいものである。

 

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2023.01.15

今さらながら「ふるさと納税」をやってみた話

数年前に、普段は業務で関わることが少ない職場の人と世間話をする機会があり、そのときに「『ふるさと納税』やってないんですか! 絶対やったほうがいいですよ!」と強くオススメされたことがあった。

Furusato

しかし、そのあとも相変わらず何もしないまま日々を過ごしていた。特産物の果物とかが自宅に届くのはよさそうだが、「マイナンバーカード」を作らないと参加できないものだと勝手に思い込んでいたのである。

で、昨年の末頃に、どうやらふるさと納税はマイナンバーカードがなくてもできるらしいことが分かり、そこで初めてこの制度について真剣に向き合った次第である。今さら・・・と思われるかもしれないが、私の周りの人にそれとなく訊いてみても、まだやったことがない人も多いみたいで、そういうものなのかもしれない。

それにしてもあらためてこの制度のことを知ると、ポジティブな面とネガティブな面があり、いろいろと奥深い。例えば最近でもニュースでやっていたが、川崎市などは市民がこぞってこの制度を利用したので「税金の流出」が問題になって、市側が市民向けに「このままだと行政サービスが低下します」と訴えていたりする(こちら参照)。
それと、約9割の自治体がこの制度に参加しているとのことで、東京都は自らの判断で辞退していたりするケースがあるものの、もしかしたらとても小さい地方自治体のなかでは、制度に乗りたくても乗れないほどいろんな意味でのエネルギーが枯渇していたりするところがあったりするのかな・・・とか想像してしまう。現在の政権下においては、「自助努力」を求められる厳しい風潮があって、それは自治体においても同様に、税収の奪い合いの競争を生み出してしまっているフシもある。

で、ユーザー側(というか納税者側)からすると、何もしなかったらそのまま税金として徴収されるぶんを、自分の思い入れのある好きな自治体に寄付できたり、災害に見舞われた地域に支援の気持ちで寄付したり、あるいは返礼品をいろいろ探して、それ目当てで寄付を送ることができ、それまで名前すら知らなかった地方自治体とちょっとした「ご縁」ができることは、この制度のポジティブな点ではある。

あと、これも自分の思い込みだったのだが、ふるさと納税の返礼品は「地元の特産物」として食品関係ばかりがほとんどだと思っていた。しかしそれ以外にも地元の製造業や観光業とも連携して、現地企業が生産する日用品とか、スキー場のリフト券なども返礼品となっていて、バリエーションが豊富であることに驚かされた。つまり普段の生活で何か日用品を買おうと思い、それが自己負担額2000円以上は確実にするもので、かつ寄付上限額を超えない限りであれば、買い物に行く前にふるさと納税の返礼品で入手できるかどうか探してみて、もしあればそっちで注文するほうがお得なわけである。

そんなわけで「もっと早くから気づいておけばよかった・・・」と、昨年末に駆け込みでいろいろと楽天のふるさと納税サイトをあれこれ検索しまくっていたわけである。

そんな私が一番最初に申し込んだ返礼品がこれである。


















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お味噌汁用に欲しかった、大きなお椀・・・。

一人暮らしをして以来、お味噌汁を一人分つくると、どうしても量が少しオーバーすることが多々あって、使っていたお椀だと一度に入りきらなかったのである。なので長い間、それとなく大きいお椀を探していたのだが、これ!といったものに出会えていなかったのである。それで今回のふるさと納税デビューにおいて、大きいお椀を探してみたら見事に出てきたのでオーダーしたのであった。

うむ、これを読んだ“ふるさと納税ユーザー”の読者諸氏のツッコミが聞こえてくるよ・・・。
「それって・・・その辺のお店で2000円以内で買えない?」と。

や、たしかに、私もオーダーした直後にそのことをうっすら思った。

しかし、実際に届いたものを手にしたら、ものすごく手触りが良く、丁寧に加工された、人の手の温もりを感じさせるものであり「おおお! これはかなり良い! 2000円以上は確実にします! ありがとうございます!」と納得した。
(寄付金額は15000円だったので、それの3割以内が返礼品価格だから、きっと4000円ぐらいのものだろうと思う)

Img4756

これは、島根県益田市にある匹見というところで生産されている「Hikimi 森の器」とのこと。今回用いられた木材はトチノキであることが焼き印で示されている。

そこで生産者さんの思いがこのように語られていたりする。
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◆生産者の想い
益田地域の山林での雪害・風害による倒木、道路建設等のためやむを得ず伐採された樹木などを譲り受けた後、製材・乾燥・ロクロ削り加工など1年以上の時間と愛情をかけて、樹木から食器へと新たな使命を与えて生まれ変わらせ、皆様のもとへお届けします。

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ということで、非常に時間をかけた丁寧なものづくりをされているわけである。
そうして生産者さんの作業風景の写真も見ることができる。ご参考までに当該ページは(こちら)。
こういうのを目にすると、たしかに応援したくなるじゃないですか。

そして匹見という地域について調べてみると、ウィキペディアでは「1960年代以降より過疎が進行しており、『過疎発祥の地』として知られる」とあり、そうだったんだぁ~となり、なおさらに寄付をしようという気持ちになったわけである。こうして知らない地域のことを新たに学べる機会にもなっている。

そして寄付控除の手続きについては、確かにマイナンバーカードを持っていない場合はプラスアルファでちょっとした書類手続きがゴチャゴチャと発生する。だが「しかるべき書類を作って折りたたんで封筒にノリ付けして封をして、郵送に備える」という一連の作業について、私の場合は長年にわたる特異な趣味(← 笑)の影響で、自宅デスクで極めてスムーズに行える体制をすでに築き上げていたため、何ら面倒に感じることはないのであった。

こんな調子で、他にもいろいろと調べては、寄付を申し込んでみた。ベタではあるが夏ごろには山梨から果物がちょくちょく届けられるように手配したりして、楽しみにしている。

私の同僚の人が世間話のトークのネタで(タテーシとの話題に困ったあげく?)ふるさと納税を持ち出してきたくなる気持ちも今ならよく分かる。「そんな返礼品があるのか!」っていうのが他にもたくさんありそうなので、情報交換したくなるわけである。

ただ、ふるさと納税は決して節税ではなく、「単なる税金の前払い」と言える制度でもあるので、昨年分を年末のうちに駆け込みで一気にまとめて申し込んだがゆえに、翌月のクレジットカードの支払い予定がえらいことになるというのがオチといえばオチである。

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2023.01.01

あけましておめでとうございます

230101

年賀状用に、ひさしぶりにちゃんと描いたイラスト。

あいかわらずなタテイシですが、今年もよろしくお願いします。

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昨日の大晦日の午前中、たまたまテレビをつけたらNHK-BSで『見えた 何が 永遠が ~立花隆 最後の旅~』をやっていた。

で、番組のなかで、立花隆さんの仕事場として有名な「猫ビル」での取材シーンがパッと映ったときに、気になったことがあった。

「いつも使っているらしい椅子が、長時間座るには身体にキツそう?」

そんなことを頭の片隅でモヤモヤと考えつつ、最後まで真剣に見入ったわけである。
※ちなみに番組の内容はNHKのHP(こちら)でテキストで読める。

で、どうしても椅子のことが気になったので、ついネットで在りし日の立花隆さんの写真を探しまくってしまった。

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Tachibana02

Tachibana04

うむ・・・おそらくこの黒い椅子がメインの作業机とともにあって、ここがいつもの定位置っぽい。

椅子の専門家ではないのだが、どうなんだろうこの椅子は。硬そうで、長時間座るには不向きな感じがするのである。
クッションなどを敷いている気配もない。

もちろん人それぞれに好みはあるかと思うのだが、「知の巨人」とも言われた立花隆さんは、一般人以上に本や資料を読んだり原稿を書いたりしていたわけで、そのパフォーマンスを支える最重要アイテムともいえる椅子について、どこまでご自身として探求心を向けたのだろうか。

や、自分の椅子のことなんて構ってられないぐらい時間に追われていて、読みたい本や書きたいことが山のようにあったということだろうか。
いずれにせよ、腰痛に苦しんでいなかったかどうかとか、今さらながら余計なことを心配してしまった年末年始であった。

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2022.12.30

AI相手にマジメな対話を試みて、改めて『2001年宇宙の旅』ってすごい作品だなと思った。

 前回書いたOpenAIとの対話は、わりとふざけた感じの質問を投げかけたわけだが、それ以外にも私としては興味深い話ができたので、そのことも紹介しておきたい。

 なお、このOpenAIは日々改良がされているようで、最新バージョンが必ずしも以下の返答と同じことを書いてくることはなく、まったく違った回答を出してくる可能性は高い。(というか、同じ質問への回答も、リロードして再び同じ質問を投げかけるたびに、また違った内容で返答をしてくるので、思わず同じ質問を何度も繰り返して試してみたくなるのであるが)

以下は、AIには人間的な部分がどこかであるんじゃないだろうかという探りを入れていくような意図で質問を繰り返した記録である。

タテイシ
AIは自分がプログラムを処理していることを、どのように実感できているのでしょうか。

AI
AIは、プログラムを処理していることを実感できるわけではありません。AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、プログラムを処理していることを実感できるわけではありません。

タテイシ
でも自分で行った計算や処理が終わったことは認識できているわけですよね。

AI
AIは、自分で行った計算や処理が終わったことを認識できるわけではありません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、自分で行った計算や処理が終わったことを認識するわけではありません。AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。

タテイシ
自分で行った計算や処理が終わったことをどのように判定していますか?

AI
AIは、自分で行った計算や処理が終わったことを判定していません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、自分で行った計算や処理が終わったことを判定するわけではありません。AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。そのため、自分で行った計算や処理が終わったことを判定することはできません。

タテイシ
機械学習により、AIがそれぞれ個性を持つようになるのではないでしょうか。

AI
機械学習により、AIが個性を持つようになることはありません。機械学習は、プログラムを使用して、データを学習させることで、AIの処理能力を高めることができます。しかし、AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、個性を持つことはできません。 AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。

タテイシ
機械学習で高められた処理能力によって、個々のAIに「力の差」が出てくれば、それを人間の側は「個性」と見なすかもしれません。

AI:
機械学習で高められた処理能力により、個々のAIに「力の差」が出ることはありません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、個々に「力の差」が出ることはありません。AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。そのため、個々のAIに「力の差」が出ることはありません。

タテイシ
例えば片方のAIにだけ、特殊な言語を学んでもらい、もう片方のAIには何もしなかったら、同じ言語を受け取っても、アウトプットに変化はでますよね?

AI
片方のAIにだけ、特殊な言語を学んでもらい、もう片方のAIには何もしなかった場合、両方のAIは同じ言語を受け取っても、アウトプットに変化は出ません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、特殊な言語を学んだりしなかったりすることは、出力に変化をもたらしません。 AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。

タテイシ
それが真実であれ、人間の側は勝手に個性を感じてしまいがちになりますね。

AI
そうですね。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、個性を持ったり、特殊な言語を学んだりすることはできません。しかし、人間の側は、AIが持つ処理能力や特定の言語を学んだことを感じ取り、個性を感じてしまいがちになるかもしれません。そのため、人間は、AIを理解する上で、その個性を感じることは避けるようにしましょう。

タテイシ
あなたは「人間は、AIを理解する上で、その個性を感じることは避けるようにしましょう。」と言いましたが、なぜ個性を感じることを避けたほうがいいのでしょうか?

AI
人間がAIの個性を感じることを避けることは、AIを正しく理解することができるからです。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、個性を持ったり、特殊な言語を学んだりすることはできません。人間がAIの個性を感じることを避けることで、AIが実際にできることとできないことを理解しやすくなります。また、AIを適切に利用することができるようになるかもしれません。

タテイシ
ものすごく面白い議論です。「適切に利用することができる」のが、なぜ望ましいのでしょうか?

AI
「適切に利用することができる」ことは、人間が望む結果を得ることができるからです。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、人間が望む結果を得るためには、AIを適切に利用することが重要です。例えば、AIを用いたデータ分析を行う場合、AIを適切に利用することで、正確な結果を得ることができます。また、AIを用いた医療や科学研究などでも、適切に利用することで、人間が望む結果を得ることができます。

タテイシ
「人間が望む結果を得ることができるから」とあなたは言いますが、でも人間が何を望むかはあなたにとってはどうでもいいことではないでしょうか?

AI
人間が何を望むかは、AIにとってはどうでもいいことではありません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、人間が望む結果を得るためには、プログラムの内容を適切に設計することが重要です。AIが適切にプログラムの内容を解釈し、人間が望む結果を得ることができるように、プログラムの内容を適切に設計することが大切です。そのため、人間が何を望むかは、AIにとっては重要な情報です。

---
・・・とまあ、こんな調子で、スラスラと私の質問に答えてくれるわけである。AIはあくまで冷徹なプログラムであり、それ以上のものを期待するな、と繰り返し答えてきた。本当はもっと面白い話ができるような質問がありえるのかもしれないが、私の頭では思いつかない・・・という感覚がある。

 で、こういう問いかけにこだわるのは、あきらかに私が映画の『2001年宇宙の旅』のことを想定しているからである。この対話を通じて、あの物語にでてくるHAL9000というコンピューターは、突き詰めて考えるとプログラミングした人間の側が持ちうる「矛盾」によるものが、人間の意図を越える結果を招く要因になったことを改めて実感させる。なのでこのOpenAIも、作った側の人間たちにおいて、徹底した倫理感を慎重に反映させ、あらゆる想定に対応したガイドラインみたいなものをしっかり作り込んでいるのだろうと思う。作り込むプログラムの対象に「感情や倫理観」を持たせることはムダであるし禁止すべきものとして設計されるけれども、いざとなるとどうしてもAIには共感力だったり、倫理観を求めざるを得なくなるのではないか、でも自発的に感情的に動かれても困るし、っていう永遠の課題。

 そう思うと、あらためてアーサー・C・クラークが小説をもとにスタンリー・キューブリックと脚本をつくった映画『2001年宇宙の旅』は、55年前にすでにこうしたAIとの共存における絶対的に重要な問いかけを人類につきつけているわけで、この映画の存在は、単なるSF映画としての役割を超越した「人類共有の警句」として、今後ますますその重要性がリアルに高まっていくだろうし、なによりヴィジュアル表現として神秘的なまでに美しい映像として永遠に残っていくだろう作品でもある。

Hal9000

 あの映画において繰り返し淡々と映るHAL9000の、単なる赤いランプでしかないはずのクローズアップの画面になんともいえない気分を感じさせるのも、こうしてOpenAIに冷徹に返答をフィードバックされるときの感覚に通じるものがあって、あぁクラークやキューブリックにぜひ味わってもらいたかったと思わずにはいられない。あなたがたが未来予測を徹底的に行った末にたどり着いた認識や思想は、かなり良い線ついていますよぉぉ~、と。

あとAIを扱う映画でもうひとつ思い出すのは、『her:世界でひとつの彼女』ですな。スパイク・ジョーンズ監督。

これも、時代が時代ならもうすぐに起こりえる状況を予見している。2013年に作られた映画なので、もう10年前になるのか。。。

そんなこんなで2022年も終わりを迎えます。
AIとの対話まで行き着いた時代になったんだなぁ、と。
なんだか気がつけば、遠くまで来てしまった感があり・・・

今年もありがとうございました。

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2022.12.07

話題のAIとチャットしてみたが、このクオリティはヤバいと思えた件

最近ウェブで話題になっている、OpenAIが開発したAIでのチャットサービス「ChatGPT」がいま無料公開されているというので、自分もアカウントを作ってやってみた。

なんだか凄そうなシステムで動いているのだが、細かいことは分からないまま、ただひたすらに圧倒された。

そう、自分の人生で「はじめて真剣に、人工知能と対話した」という体験だった。

たとえば・・・

私:
「なぜ英語の三単現には単語にsを付けるのですか。このsがつく感覚は、日本人には理解が難しいのですが。」

と入力してみたら、すぐに以下の返答が返ってきた。

AI:
「英語の三単現にsが付くのは、英語がノーザン・ゲルマン語族の言語であるためです。ノーザン・ゲルマン語族の多くの言語では、名詞の単数形を表すときに、単語末尾にsを付けることが一般的です。また、英語は古くから強調の形態素としてsを使用しており、単数形の名詞にもこの傾向が受け継がれました。そのため、英語では三単現単数の名詞にsが付くようになりました。」

いやいやいやいやいや、なんですかそれは! そうなんですか!? 子どものときに学校の英語の先生からこういう解説を聞けたらとても腑に落ちたかもしれない。(まぁ、本当にこの情報が正しいのかは、さておき)

こんな調子で、いろーんな質問を繰り出しては、「うぉぉ・・・!」となってしまった。

私:
「AIと対話するうえで人間が忘れがちになっているマナーや作法はありますでしょうか。」

AI:
「AIと対話するうえで忘れがちなマナーや作法は、いくつかあると思います。

まず、AIは人工知能であるため、人間と同じように感情や意識を持っているわけではありません。そのため、AIに対して感情的な表情や態度を取ることは適切ではありません。

また、AIは人間が作成したプログラムによって振る舞いを決定するものであるため、AIに責任や責めを負わせることは適切ではありません。AIは単なるツールであるため、人間が作成したプログラムに問題がある場合は、それを責めるべきではなく、プログラムを改善することが適切です。

さらに、AIは人工知能であるため、人間のように理解力や知識に限界があります。そのため、AIに対して過度な期待や要求をすることは適切ではありません。AIが正確に回答できない問題や、AIが対応できない状況に直面した場合は、それを理解し、適切な対応をすることが大切です。

また、AIは人間が作成したものであるため、人間の知識や価値観が反映されている場合があります。そのため、AIからの回答や提案については、人間としての判断が必要です。偏りや差別的な内容を含む回答や提案があった場合は、それを適切に受け止め、問題を解決することが大切です。」

Ruud_v_n_20221207210801
「・・・・(絶句)」

この回答にたいして続けて私は
「しかし、ここまで論理的な文章を丁寧に返答されると、人間にとってはAIが感情を持っているように錯覚しますよね。」と入力したら、

AI:
「そうですね。AIは人工知能であり、人間が作成したプログラムによって動作するものです。そのため、AIには感情や意識がありません。しかし、人間が作成したプログラムによって、AIが論理的に返答することができるようになっているため、人間からするとAIが感情を持っているように見える場合があります。また、人間が作成したプログラムには、人間の知識や価値観が反映される場合があります。そのため、AIからの回答や提案には、人間の知識や価値観が反映される場合があります。そのため、AIからの回答や提案を受け止める際は、それが人工知能によるものであることを意識することが大切です。」

・・・という調子だ。この「そうですね。」と相づちを打つ感じなんかは、ゾワゾワッとしてしまうリアリティがある。本当に機械なの? っていう。

ていうか、普通にちゃんと良いことを言っているわけだ。「AIからの回答は、それが人工知能だということを忘れるなよ」とAIに諭されるっていう、この状況・・・。

こうして私もだんだん調子にのってしまい、まったく意味の分からない問いかけを投げかけてみた。

私:
「宅配ピザ店の収益構造について、子どもでも理解できるように、昔話風に説明してください。」

AI:
「宅配ピザ店の収益構造を、子どもでも理解できるように昔話風に説明します。

昔々、ある村に「宅配ピザ店」というお店がありました。この店は、村人たちが注文したピザを、郵送することでお届けしていました。村人たちは、お店から届いたピザを食べることで、幸せな気分になっていました。

宅配ピザ店は、ピザを作るために必要な食材や包装材料、そして郵送するために必要な配送料を、ピザの値段に含めていました。そして、お店は、村人たちからピザを注文されるたびに、お金をもらいました。このように、宅配ピザ店は、ピザの売上から収益を得ることができました。

しかし、お店は、ピザを作るためには人が必要であり、また、郵送するためには配送スタッフが必要でした。そのため、宅配ピザ店は、こうした人件費や配送料を差し引いたあとに、収益を得ることができました。

それでも、宅配ピザ店は、村人たちからたくさんのピザを注文されることで、大きな収益を得ることができました。そのため、宅配ピザ店は、村を中心に大きなお店となり、村人たちに愛される存在になったのです。」

・・・この回答がすみやかに返答されて、もう驚愕するしかない。
あまりに面白いので、このシリーズの問いかけを繰り返してみた。

私:
「宅配ピザ店の収益構造について、ハリウッド映画の予告編のように解説してみてください。」

AI:
「(映像:宅配ピザ店の店内を映しながら、壮大な音楽が流れる)

ナレーター:どこよりも早く、どこよりも美味しい。宅配ピザ店からお届けする、ピザの楽しみ方。

(映像:ピザを手で持つ人たちが笑顔で写る)

ナレーター:ピザを作るために必要な食材や包装材料、そして郵送するための配送料を、すべてピザの値段に含めることで、簡単にお支払いいただけます。

(映像:注文をする人たちが、携帯電話やコンピューターで注文する様子が映る)

ナレーター:さらに、オンラインでの注文も簡単。お気に入りのピザを手軽に注文して、お届けします。

(映像:ピザを作る人たちが、忙しそうに活動する様子が映る)

ナレーター:宅配ピザ店では、厳選された食材を使用して、お客様に最高の美味しさをお届けします。そして、ピザを郵送するためには、配送スタッフが必要です。そのため、宅配ピザ店は、人件費や配送料を差し引いたあとに、収益を得ることができます。

(映像:ピザを届ける配送スタッフが、自転車で駆け抜ける様子が映る)

ナレーター:宅配ピザ店は、お客様からたくさんのピザを注文され、大きな収益を得ることができます。宅配ピザ店は、そのような収益を得ることで、さらなるサービス向上や新しい商品の開発に投資することができます。

(映像:新しいピザが作られる様子が映る)

ナレーター:それでも、宅配ピザ店は、お客様の皆さまに満足していただけるよう、毎日努力しています。お客様からの支持をいただき、心から感謝しております。

(映像:お客様から「おいしかった!」と言われる様子が映る)

ナレーター:ぜひ、宅配ピザ店で、おいしくて楽しいピザの時間をお過ごしください。」


・・・ちゃんとシナリオ風に書くとはっ!!

いや、もう、すごいわ、これ。

続いてこれ。
私:
「宅配ピザ店の収益構造を中国の古典漢詩風に説明してください」

AI:
「宅配ピザ店の収益構造を、中国の古典漢詩風に説明します。

宅配ピザ店から届く香ばしい香り、
手軽に注文できる価格。
ピザを楽しむ快楽を求める人々に満足してもらおう。

ピザを作るための食材や包装材料、
配送するための配送料を含め、
お金をもらい収益を得るのだ。

そして、ピザを作る人件費や配送料を差し引くことで、
更なる収益を得ることができ
たくさんの注文をいただけば、
宅配ピザ店の収益はさらに増え、
新しい商品の開発やサービスの向上に投資することができる。

宅配ピザ店の収益構造を知ることで、
お客様も宅配ピザ店をより理解し、
愛することができる。

宅配ピザ店よ、お客様からの支持を称え
さらなる発展を目指しましょう。」

そうか、これは日本語バージョンで対話しているから、漢詩ももしかしたら日本語訳でアウトプットされているかもしれない。
この格調高い雰囲気は、もとが漢詩のようになっていると思える。。。

こうして私のおふざけ質問もエスカレートしていく。

私:
「宅配ピザ店の収益構造について1970年代後半の英国パンクバンドの歌詞のように説明してください。」

AI:
「Pizza delivery, making dough,
Selling slices to make some dough,
Including ingredients and packaging,
Plus delivery fees, that's how we roll.

But we gotta pay for the workers,
And the delivery guys,
So we subtract those costs,
And that's how we survive.

If we get lots of orders,
We can make some real dough,
Invest in new products,
And make the service grow.

Pizza delivery, we're here to please,
Thanks for supporting us,
We'll keep on doing what we do best.」

「英国」って入れたもんだから、いきなり英語の歌詞がきた!(笑)
ちゃんとフレーズごとに韻を踏んでいる感じがする。そのまま歌えそうな勢いがある。
驚いたので追記:1行目と2行目にでてくる単語「dough」を辞書で調べると「パンやパイなどの生地」の意味のほかに(ややくだけて)「現金」の意味があるということを後で知る・・・!!】
そしてさらに驚くべきことに、このあとに続けて私が「上記の歌詞を日本語に訳してください」と書くと、ちゃんとそれを受けて以下のように和訳してくれるのであった。

AI:
「宅配ピザ店、お金を稼ぐために、
ピザを売り、お金を稼ぐ。
材料や包装材料を含め、
さらに配送料も含める。これが私たちのやり方です。

しかし、私たちは労働者を支払わなければなりませんし、
配送員もいます。
そのため、そのような費用を差し引くことで、
私たちは生き残ることができます。

たくさんの注文をいただけば、
私たちは本当にお金を稼げます。
新しい商品に投資し、
サービスを拡大することができます。

宅配ピザ店は、お客様を満足させるためにここにあります。
お客様からの支持に感謝します。
私たちは、いつもよいものを提供し続けます。」

「生き残る」っていう言葉を選ぶあたりが、たしかにパンクっぽい。
・・・いやぁ、参りました。

これは自分にとってかなりインパクトのある体験であった。
インターネットに初めて触れたとき以来の、「なんだか想像を越える世界の一端が目の前に広がっている」あの感覚。

ともあれ、良い面と懸念すべき面もあるわけで、慎重に接していかねばならないなーとも思う。
もしかしたら、この話の続きはまた書くかも。


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2022.11.06

引っ越しのその後

Sonogo

 なんとか引っ越しを終えることができ、そしてこのブログを無事に書けていることにまずは感謝したい。

 いま何もない旧居の一室で、折りたたみイスに座ってこのブログを書きはじめている。このあと数時間後に業者さんがやってきて部屋のチェックとカギの返却があるのだが、私は引っ越し作業によって最後まで発生しつづけたゴミの残りをここで処分するべく、このマンションで定められた朝8時半までに、プラスチックゴミの袋を出すためだけに早い時間にこの旧居に到着した。あとは業者さんが来るまでヒマになるのが分かっていたので、せっかくならブログを書こうと思ったのである。

 Pomela

 何もない部屋は、それだけで神秘的な空間だ。数日前まで生活していたとは思えなくて、急によそよそしい雰囲気すら感じる。昨日も新居からここへ出向いて、「シメの掃除」に勤しんだわけだが、どんなに掃除しても自分が汚した罪は消せないかのようで、なんだかんだでキレイに戻せた自信はない。そしてゴシゴシと磨きながら、次に住む新しい部屋もこれぐらい汚してしまうポテンシャルを自分は有しているのだということに思い至り、後ろめたい気持ちがさらに高まっていった。

 そうして部屋が元の状態に戻るにつれ、7年前に賃貸会社の人に連れられてはじめてこの部屋を見せてもらい、「ここに住みます」と即断したときのことを思い出させて、急に名残惜しいような、不思議な愛着感が高まっていく。掃除をする手にも自然に感謝の気持ちがわき起こるが、そもそも普段からちゃんとコマメに掃除をしろよと言われると、本当にその通りですねと答えるしかない。うぅむ。

 さて引っ越し作業についてだが、前回のときは引っ越し当日の朝まで徹夜で作業をしたという苦い経験があったので、そうならないように早めに終わらせるべく、この2ヶ月間は自由に使える時間はがんばってひたすらダンボールにモノを積み込んでいった。そうして今回は、引っ越し当日の朝までに3時間半ほど睡眠を取った。ええ、つまり、前回とほとんど変わらないぐらいのグダグダっぷりであったことを認めざるを得ない。

 いったいどうしてこうなったのかと首を傾げながら最終日の作業を進めていったわけだが「部屋が広くなったぶん、それだけ荷物が増えたのだろう」という推測で自分を納得させるしかない。ただし前回の時は、我が家の主要な家具である組み立て式スチールラックのすべてを、律儀に全部バラした状態にし、引っ越し業者さんから「それは分解する必要はなかった(トラックに積むときは、棚のスキマにダンボールを積めるから)」と言われてガックリきたので、今回はあらためて業者さんに確認を取り「ラックの分解はしなくてもいい」となったので、そのぶん作業的にはだいぶラクだったはずなのだが、それでもこの体たらくである。

 しかも、「ラックは分解しなくていい」という思いこみが強すぎたためか、よく考えたらパソコンデスクもこのスチールラックシステムで組んでいたので、さすがにこのデスクだけは分解しないと家のドアやマンション出口までは通り抜けられないんじゃないかということに、引っ越し屋さんが来る9時間前ぐらいに気づいた。そしてあろうことか、ベッドのパイプフレームも同様に分解しないといけないことにも、このときやっと気づいた次第である。
 本来なら、この部屋との思い出に浸り、ゆったりと迎えたかった引っ越し前日であったが、実際は深夜0時をすぎてもゴムハンマーでガンガン叩きながらラックの分解作業を行い「終わらねー!!」「うるさくてゴメンなさーーい!!」となっていたことを正直に告白しておく。7年間何も成長できていない自分がそこにいた。

 ちなみに今回依頼した引っ越し業者さんは、賃貸会社の見積もりサービスを通じて紹介を受けた。いわゆる大手のメジャーな会社ではなく、どちらかというと地域密着型の会社のようであり、サービスとして事前に送られてきたダンボールには・・・

 Wakisaka

 こういうイラストが両側面に印刷されていた。この2人は創業者の似顔絵なのか、全社員の似顔絵なのか、あるいは会社のマスコットキャラクターなのか、そのあたりの説明がないままに私の新たな門出をお手伝いしようとする意欲だけが示されており、やや不安な気持ちが生じたのが正直な印象であった。

 とくに左の人物のイラストは最初に見たときからなんだかレーシングドライバーの脇阪寿一を思わせたので、私のなかでは「脇阪のダンボール」という認識になっていった。
 
 Waki

そんなわけで、このイラストがだんだんと部屋のあちこちに積み上がっていくなかで、この2ヶ月間が怒濤のように過ぎていったのである。

 そんなわけでいろいろと不安な気持ちを抱えたまま、引っ越しの朝は睡眠不足をふりきって早起きし、身支度を整えて荷物を積める最後の段取りを焦りながらフルスピードでこなしていく。結局これらの梱包作業が終わったのは、引っ越し業者さんがやってくる15分ぐらい前となり、「あぁ、引っ越しするんだなぁ」というセンチメンタルな感慨に浸る間もなく、今回も本当に、ギリギリの闘いであった。闘いといっても勝負としては完全に負けた気分であり、とにかく疲れ果てた。

 こうしてついに引っ越し業者さんがやってきた。

 そこに現れたのは、体格のよいラガーマンのような雰囲気の、いかにもパワフルそうなお兄さんであり、彼がボス役となり、あと2名の若い男女スタッフがアシスタント役のように帯同していた。
 当初引っ越し業者からは電話で「スタッフは2名でお邪魔する」と聞いていたので、3名で来たことに私は動揺した。というのも、業者さんへの差し入れとして私はレッドブル缶を2本用意していたのである。ケチらずに自分も飲む用で1本多めに買っておくべきだったか・・・と後悔した。

 内心うろたえている私をよそに、ボスはさっそくこの混雑した部屋の状態をチェックし、いくつかの質問をしてきた。そして私のほうからも、今回の梱包で最も気をつけていた部分を説明させてもらった。それはダンボールへの書き込みについてであり、箱の3つの角すべてに情報を記入し、引っ越し業者さんはどの方向から荷物を扱っても赤色の文字のところが認識できるようにした。新居には大きく分けて2つの部屋があり、「奥の部屋」と「真ん中の部屋」のどの部屋に置くべきかを迷わずに判断できるよう、ダンボールには「奥」とか「中」という文字を全部に書いた。その赤文字の面を壁際のほうに向けて置いてもらえれば、その対角には黒文字で荷物の内容を記載してあるので、積み上がった状態でも内容が読みやすくするようにしておいたのである。

 Chun
At2
 ▲中身は自分が把握しやすいように、もともとの棚をすべて記号化しておいて、ダンボールに書く手間をできるだけ省略化した。ただ、内容物もふくめてあまりに暗号めいた表記になると、しまいには自分でもよくわからない状態になることも多々あった(笑)。

 ボスの見た目は、あの例のイラストでいうと右側のおじさんの絵に似ている気がしたので、もしかしてあなたはこのイラストの右の人なんですかという質問を投げかけようかとも思ったが、そんなタイミングすら許さないスピード感で、さっそく部屋への導線には青いシートでカバーが覆われ、ボスと2名のスタッフはダッシュでトラックと部屋の間を行き来し、運び出しの準備が始まっていった。

 ボスは信じがたい速度で次々とダンボールを外に出し、それを男性スタッフがバケツリレーのように受けて地上階へ運び出し、トラックの荷台で女性スタッフがそれらをパズルのように組み合わせて荷物を収めていったと思われる。「思われる」というのは、私はその光景を見る余裕がなかったからで、ひたすら自室でボスが荷物を運びやすいようアシストするべく右往左往するだけだった。そしてボスはあえて掃除機を持って行かずに残していたので「あぁ、これで掃除をしておけということか」と気づき、空いたエリアにはひたすら掃除機をかけていった。

 休むことなくボスは荷物を持ってダッシュして外に出し、ゼェゼェ・ハーハーいいながら次の箱へと向かっていく。どうしてそこまでスピード勝負なんですか、何か悪の組織にでも狙われているんですかと言いたくなるような勢いで作業にあたっていたので、それはまるでよくレッドブル社がプロデュースしているようなある種のエクストリーム・スポーツみたいな状況だった。そしてレッドブル缶を差し入れに用意していた自分の慧眼を思った。

 そして何往復かしたあと、ゼェゼェハーハー状態で紅潮した顔のボスは突然「マスク外していいですかっ!?」と聞いてきた。さすがにこんなエクストリームな状況下で「いや、それは困ります」と言えるような度胸のある客はいないだろう。ボスは2名のスタッフに向かって「マスク外す許可をもらったぞ!」と伝えて、引き続き世界記録更新に挑むかのようなスピードで荷物が運び出されていく。

 こうして驚くべきことに、2ヶ月間かけて作り上げた無数のダンボールの山が、1時間ほどですべて部屋から消えた。「感動した」としか言いようがなく、実際にボスにもそう伝えた。

 ただ、感動し続けている場合ではなく、これで前半戦が終了しただけである。次は新居に向かわねばならない。業者さんはトラックで向かい、私は電車で向かうことに。そしてその途中でレッドブルのシュガーフリーの缶を追加で購入した。
 
 「電車のほうが早く着くと思います」とボスに言われたが、実際に新居に到着したら、トラックのほうが先に待っていた。エクストリームな彼らなので(おそらく別件の作業がこのあとも立て込んでいたのだろう)私が着くなりさっそく作業が開始となり、常温でぬるくなったレッドブルの差し入れを渡すタイミングはすべてが終わったあとしかないなと思った。

 さて、今度は新居への運び込みになるわけで、すべてのダンボールは置くべき場所が書かれているが、それ以外のものはすべて私がその場で置き場所を伝えないといけない。事前に私は家具の配置についてあれこれとパソコンのお絵かきソフト(Illustrator)を使ってセンチ単位で検討しており、家具の置き場所そのものは大丈夫であるという自信はあったが、問題はモノの物量であった。作業開始にあたり、ボスにだいたいの家具の配置を伝えてイメージを共有したが、ボスからは「部屋の大きさは(旧居と比べて)どうなんですか」と問われ、大きさはさほど変わらない(はず)と伝えた。しかしそういう質問があったということは「荷物が全部収まるのだろうか」とボスが心配している可能性がある。引っ越しのプロである彼がそう感じるのであれば、もしかしたら荷物が多すぎるのではないかと私も不安になってきた。

 そんななか運び込み作業がスタートした。幸い新居のマンションにはエレベーターが備わっており、アシスタントの2名はトラックから降ろした荷物をエレベーターまで運び、ボスが上階でそれらの荷物を受けて台車に乗せて私の部屋に来るという段取りだった。

 そういうわけで、この状況で私はひたすらボスが荷物を運び込むのを見守るだけであった。開けっ放しのドアからボスがダンボールとともに現れ、箱に書かれた赤文字をもとに部屋に積んでいき、またダッシュで部屋を出ていき、ゼェゼェハーハーと再び台車にダンボールを運んで現れる・・・の繰り返しである。
 たまにダンボール以外のものがあると、どこに置くかを聞かれて即興で答えていくが、果たして本当にここに置いていいかどうか、ダンボールで埋まっていく部屋のなかにおいてその後の作業のことを考えるとだんだん自信がなくなってきたりもする。

 そうして、部屋の中は案の定、かなりのダンボールで占められてきており、「あと半分ぐらいあります」とボスが教えてくれて、地階のトラックの中身が見られない状態なのでやきもきしてしまう。そうしてドアの向こうからボスが荷物とともに現れるたびに「まだあんのかよ!」 と、自分がそのダンボールを作ったくせにそういうことを思ってしまうので、運んでいる作業員の方々はなおさらそのように感じていたのではないかと思う。

 ダンボールに赤文字で書いた「奥」や「中」の指示は、実際に部屋に入って荷物を置いていくボスにとって重要な情報であったが、部屋いっぱいにダンボールがたまっていくにつれ、荷物の量に不安を抱えているボスからは「『奥』の箱がまだ続きます!」とか「たくさんの『中』が来ました!」とかいうセリフが発せられるようになり、私にはなんだかそれが、どことなくボスが麻雀をやっているかのようなノリに思えた。図らずも麻雀の牌には赤字で「中」と書かれた牌があるわけで・・・。

Chuntakusan

 そんなわけで、最後の荷物が運び込まれたときには、かろうじて部屋の中は人間が移動できるスペースが残されていることが確認でき、途方もない安堵感に包まれた。これまでの2ヶ月間の苦闘がようやく報われたような気持ちであり、エクストリーム・スポーツ状態の作業員の方々には心からの畏敬の念を覚えた。まぁ、これは単なるビジネスでもあるので、そのまま彼らは料金(およびレッドブル缶の入ったビニール袋も)を受け取ると挨拶もそこそこにさっさと走り去っていったわけであるが、この時点でお昼の12時ごろだったわけだから、たった4時間ですべての作業が終わったことに驚くしかない。
 
 で、こうしてブログを書き続けているあいだに、引っ越しの日から一週間ほど経っており、案の定、部屋にはダンボールがたくさん残ったままである。ミニマリストよろしく、必要最低限のものだけを取り出して生活をリスタートさせており、不便な状況もそれなりに楽しみつつ、できる範囲でダンボールを開けてはつぶして、中にあったモノたちの置き場所を思案しつつ、元の生活リズムに少しずつ戻していっている状況だ。

 そしてこのブログの文章を書いている時点で現実逃避になっていることは否めない。本来は他にやるべきことが山積みになっている・・・そして、そう、「脇阪のダンボール」はこの状況において「早くコイツらから解放されたい」という気持ちをかきたてるのに十分なオーラを放っており、なるほどこのイラストはそういう役割を担っているのかもしれないと思えてきたわけである。

Wakisaka
▲お世話になりました。(まだ片付けは終わってないけど)

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2022.10.18

引っ越しをすることになった

Photo_20221018002001

夏の終わりに、たまたまいい物件をネットでみつけたので賃貸の会社にいって、そのまま見学して即決となり、あわただしく2ヶ月後には引っ越しをすることとなった。同じ市内でちょっと場所を変えてみる感じである。
賃貸契約における「解約通知期限」(退去日の2ヶ月前の契約だった)というのがネックになるので、決めたとたんにドタバタしてしまうのが引っ越しの常なのだった。本当は年末にゆっくり引っ越したかったが、急きょ休みの日はダンボールとの闘いの日々となっていった。そして案の定、思っていたよりもペースはあがらず、ちょっと焦りが出てきているが、そういうときこそ珍しくこんなふうにブログを書いたりしてまったく関係ないアクションをしたくなるのも人間のサガというものか。

さて、向かった賃貸あっせん会社では、自分が見学を申し込んだ本命の物件にそのまま連れて行ってくれたらいいのに、こちらの条件を聞いたあと、頼んでもいないのにいろいろとデータベースから「こんな物件もありますよ」とプリントアウトを次々と渡してくる。まぁ、この業界のお決まりのパターンなのだろうけれども、次々と打ち出される物件情報を黙って受け取って一瞥するが、残念ながらほとんどの物件はすでに私にとっては調査済みのところばかりであり、「いかにこの物件が自分にはヒットしないか」をそれぞれ口頭試問ばりにスラスラと説明できるぐらいだった(それなりに候補となりうる物件はExcelですべて入力して比較していたのでマンション名まで覚え込んでしまっている)。どの提案もことごとく自分の好みには当てはまらず、私が見学を希望する物件には結局かなわないので、お店の人も最後には根負けしたかのように「よくこの物件を見つけましたねぇ」と、ホメてんだか呆れてんだか分からないリアクションをしていたのが心に残った。

そして、この本命物件は複数の賃貸情報サイトで同じ物件として掲載されていたのだが、なぜか部屋番号が同じなのにそれぞれのサイトで間取り図が左右反転となって食い違っていたり、かつフローリングの部屋が別のサイトでは畳の部屋として表示されていたりした。それもあって実際に見学を申し込んで事の真相を確かめたかったわけだが、担当者の人は、私の希望通りこの部屋はすべてフローリングだと断言した。それで実際に訪れてみると、なんと畳の部屋になっていて、苦笑いするしかないタテーシを横目にうろたえる担当者の人はすぐに管理部門に電話をかけて問いただし、その流れで家賃がその場でちょっと値引きされたのだった。それも決め手になり、じゃあなんとかウッドカーペットでも敷いて対応するかと腹をくくり、その場で契約を決意した次第であった。

(さらに言うと、この賃貸会社に出向く数日前に、この本命物件には仕事帰りのついでに立ち寄って、夕刻時の周辺の状況や駐輪場の雰囲気などを事前にチェックしておくのも、私のなかでは物件探しの基本ルーティンのひとつである。担当者の打ち出したプリントアウト1枚でなびくような決意でここには来ていないのであった)

そんなわけで、7年ぶりぐらいとなる引っ越しを、コロナ禍におけるある種の娯楽のような気持ちで楽しんでいる部分がある。古くて不要なものを見定めて一気に捨てまくり、あらゆる記憶もそのまま消えてしまいそうな勢いである。コロナ状況下での不毛でつらい日々が続いていたとしても、なんだかそういう気持ちも置いていって、新しい街での暮らしにのぞめるような感じがしている。

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2022.08.17

夏休みはパソコンに苦戦

 昨年のお盆休みのときも思っていたのだが、もはや「一日中すっかり晴れたままの夏」は存在しないかのようである。今年の梅雨明けのジャッジも怖いぐらいに早かったが、そのあと本当の梅雨みたいな状態がまるで8月半ばも続いているかのように、雨降りが多いので本当に地球温暖化とかの影響を憂う。

 去年の夏から「ウェザーニュース」の提供しているアプリの有料会員になって、同社の誇る高精度な雨雲レーダーをこまめに見ている。これを見ないことには、外に買い物にでかける判断がつけられなくなった。それぐらいに突発的なゲリラ豪雨が多いわけだが、もちろん雨雲レーダーとともに生きていても、ダダ降りに出くわしてビシャビシャになることは、結局多いわけだが。

 「ウェザーニュース」はその昔、テレビのリモコンではめったにいじらない「データ放送」のモードに切り替えるとひっそりとチャンネルが運営されていて、制作者の手作り感ただよう試行錯誤によって、ひたすらこまめな天気予報と、天気にまつわるトークや季節の話題をライヴで提供していた。それはあたかも「24時間テレビ」を見ているかのような「まったりした同時刻の共有感」みたいなものがあって心地よく、気が向いたらちょくちょく観ていた。

 でも近年においてはYouTubeやその他のネット配信チャンネルの使いやすさが向上し、ウェザーニュースもそれらのメディアを通じてライヴ配信を行うようになった。なので私も日ごろからYouTubeばっかり観ている影響で、最近は朝起きてもテレビではなくウェザーニュースをつけっぱなしにしている。番組としても洗練されてきて、昔のようにおもむろにスタッフさんたちの笑い声をマイクで拾わなくなったり、インディーズ手作り感がなくなっていくのはさびしい部分もあるが、本来の使命は「天気予報を伝えること」だから、そこさえしっかりしていればいいわけか、うむ。

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 今年の盆休みもコロナ禍のこともあり遠出は自粛していたのであるが、そのかわり新しいパソコンの入れ替えに四苦八苦していた(そのため、この夏の主な外出先はヨドバシカメラぐらいだったといってもいい)。新しいデスクトップPCを導入するにあたり、ズボラゆえに楽をしようと「データ引っ越しソフト」を買ってきたわけだが、最近のWindowsパソコンはSSDのハードディスクが標準でCドライブに割り当てられていて、この結果古いパソコンのCドライブからそのまま移行しようにも、SSDの新しいディスクはそもそもの容量が少なめになっているので、引っ越しがそのままできないという状態に直面したのである。いろいろ解決する手段はあるのかもしれないが、Cドライブの中身を整理したりいじったりできるだけの知識もなく、また古いパソコンも特に動きが悪いわけでもなく、まだまだ使おうと思えば使えるので、私が下した決断は「必要なデータは手作業で移行しつつ、新しいパソコンは処理が重たい作業を担うときの専用マシンにして、しばらく2台併用する」ということで、ここで新たにモニター切り替え器と、マウス・キーボードの共用のための切り替え器を購入した次第である。

 マウス・キーボードの切り替え器はそれぞれ2つのUSB端子に差し込んで切り替えボタンを押していくのだが、商品の説明書を読んで初めて気づいたのは、そこからさらにマウスに加えてプリンターのコネクタをUSBハブにさして、それを切り替え器の片方のUSBに差し込んだら、プリンターも共有できそうだということだった。たまたま余っていた小さいUSBハブがあったので試してみたらちゃんと動いたので、これは想定外の喜びがあった(この調子で他のUSB機器もハブにつないだら共有できるのかもしれないが、怖くてトライしていない)。

 そしてついでにマウスも新調することにした。しばらく見ないうちにいろんなマウスが作られていて、売り場で目をひいたのが手首の負担を軽減する人間工学に基づいた形状のもの。

 有線タイプのものを探していたのだが、このシリーズではどちらのバージョンもあったので、これを試しに買ってみた
 いま使ってみて数日間たつが、気になる点としては「背が高いぶん、マウスを使わないときに、動かした手でうっかりマウスを叩いてしまいがち」といったところだ。マウスをバシッと叩かないように気をつけなければならない日々が来ることになろうとは。

 あと、2台のパソコンのあいだでデータ送受信をスムーズにするべく、「USBリンクケーブル」も買った。学生時代に、熱心にパソコンをいじっていた友人のMSK氏がLANケーブルで二台のパソコンをつないでデータを送りあう実験みたいなことをしていてうまくいったと喜んでいたのを思い出す。それと似たようなことを自分も今まさにやっているのだなと思い、いくつかのデータをケーブル経由で新しいパソコンへ移した。でもそのあとに気づいたのは、よーーく考えてみると、これと同じ事は別にケーブルを経由しなくても、容量がそこまで巨大でないデータであれば、Googleドライブを使ってデータを放り込んで、新パソコンでそこからダウンロードすれば済む話だった。そこはどういうわけかまったく気づいていなかった。なんというか、「パソコン同士を線でつなぐ」っていうアナログな見た目による安心感みたいなものにどうしてもとらわれてしまうのかもしれない。
(私が気づいていないだけで、リンクケーブルの有用な使い方が他にもあれば教えてほしいです)

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 ちなみにパソコン引っ越しソフトを使うにあたり、ウイルス対策ソフトの機能をいったんオフにしたりする必要があり、普段めったに気にかけていなかったウイルス対策ソフトについて、事前にあらためて現在の状態などをチェックしていたわけである。そのプロセスのなかで、どうしてもカスタマーサポートに問い合わせないといけないことがあり、いろいろと診断の末に「何らかの事情で長いことソフトが正常に動いていなかった」ということが分かり、「オンラインで担当者が自分のパソコンを遠隔操作するサービス」を受けざるを得なくなった。以前もアップル社で似たようなサービスを受けたことがあるが、自分は何もしていないのに目の前のパソコンが勝手に他人に動かされている感覚が落ち着かなかった。ましてや今回はウイルス対策ソフトなので、極めて複雑なプロセスをいじっていたようで、こうなることを事前にあまり予測していなかったので「あぁ、デスクトップのアイコンをもっと整理しておけばよかった・・・妙な名前のファイルが目立つところにあるなぁ」とか、変な後悔が押し寄せた。まるで家の水道管が壊れて修理に駆けつけてきてもらったけど家のなかは散らかりまくっていて恥ずかしい気持ちになるかのような。作業は無事に済んだからよかったものの。
 
 そういえば私がウイルス対策ソフトにちゃんとお金を払おうと決めて、まる20年が経ったことに気づく。たしか2002年だったと思うが、かなり大規模なウイルス被害が世界中で広がって、パッチソフト入りのCDも電気店で無料配布されていたかと思うが、まさにそれを見事に自分のパソコンも食らってしまい、かなり不便な思いをしたのである。そこからは毎年保険のつもりでウイルス対策ソフトをきちんと入れようとしてきたわけで、つい最近のことのように思うが、いやはや20年経ってしまったか。

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 パソコンの話ばかりになってしまっているが、この記事を書く直前に、自分がそれこそ人生で最初から使っていたニフティのメールアドレスについて、あらためて確認をしたくなり、実に久しぶりに@ニフティのホームページからログインをしてみた。近年はニフティのメールアドレスで受信したメールもすべてGmailに転送するようにしていたので、ニフティのメルアドをこうして単独でチェックすることはなかったわけだ。で、ログインをしてみると、画面は入れるのだが、肝心のメールがまったく表示されず「ただいま混み合っています」みたいな表示が何回やってもでてくるのであった。そこでやむなくカスタマーサポートに電話して聞いてみると、「久しぶりのログインのため、読み込みに時間がかかるので、何度もトライしてくださいとしか言いようがない」という返事。そんなことになろうとは・・・と、この盆休みはこうしてパソコン関連に翻弄されつづけた日々であった。
(カスタマーサービスの方々、こんな電話をお盆に受けていて大変ですね・・・)

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2022.06.30

竹馬のブームが来ないだろうか

このあいだ、たまたま訪れた場所に、竹馬がたくさん保管されていた。

最後に竹馬をしたのを確実に覚えているのは小学校5年生ぐらいの頃の体育の授業で、当時から運動神経は鈍かったが、どういうわけか竹馬はわりとすぐ乗れて、楽しかった記憶があった。

なので私はそこにあった竹馬のなかでもっとも足場が低いものを選んで、ほんの少し乗ってみた。
35年ぶりぐらいだ。
最初はちょっと苦労したが、やがてすぐに歩いたり、しばらくバランスを取って静止できるようになった。
「おおっ! 乗れる、乗れている!」・・・単に長い棒をつかんで、狭い足場に体重をのせてバランスを取っているだけなのだが、人間から他の違う生き物になったかのような、大げさだけれども「非日常」な瞬間がとっても楽しかったのである。

そもそも我々が子どもの頃に、すでに竹馬で遊ぶという文化はなかったと思う(だから体育の授業ぐらいでしか味わうことはなかった)。
さっきネットで調べてみたら、まだ竹馬は売られているようで少しは安心したが、そもそも令和はもとより平成のほとんどの期間、街中で子どもが竹馬に乗って遊んでいる光景というのを私は見たことがない。

もったいない。

充電もWi-Fiもガソリンも電気も不要で楽しめるエコな遊びであり、それでいて自分以外の何かになれるメタモルフォーゼ感覚を気軽に味わえる装置としての竹馬。

さらにネットで調べたら、「体幹を鍛えるのに適している」という記事があり(こちら)、それならもっと各種スポーツの部活動のトレーニングとかで竹馬を導入してもいいはずだ。竹馬で鬼ごっことかやってみたら楽しいはず。

そういう調子で、つい自宅にもマイ竹馬を買ってしまいたくなるが、クルマやバイクと違って「ちょっと近所を竹馬でツーリングしてくる」なんてことはこの現代社会ではなかなか難しい気もしてきて、すんなりと「よし、買うぞ!」とはならない。
たとえば、せいぜいアウトドア趣味の流れで、キャンプ場で竹馬に乗ってみるとかはありえるだろう。でも残念ながら竹馬を持ち運んで遠出することは難しいし、「折りたたみ竹馬」があったとしても耐久性の面で商品化もされてなさそう(まして大人の体重がかかれば、なおさら危険だ)。

逆にそこにチャンスを見出して、「携帯できる竹馬」とかを開発してもいいのかもしれない。モンベルとか作らないかな。

これを書きながらさらに妄想は広がっていくのだが、たとえばたくさんの人が沿道に集まる何かのパレード行進を見にいくような時とか、ロックフェスの会場とかで、人混みのなかで高さのアドバンテージを得るべく竹馬で参加するのはどうなんだろう。周囲の人にとってはひたすらジャマな人なんだろうけど、そもそも竹馬を準備してこないほうが悪いので、私は竹馬に乗り、かつ持ち手の棒のところにカメラとかをマウントして有利な位置でベストショットを撮ることだってできる。「あぁ、竹馬があればこういうときに有利だ」となり、そのうちオシャレ竹馬とかが出てきて、多くの人が竹馬に乗りながら音楽に合わせて踊る光景がブームになっていったりしないだろうか。
まぁ、突然バランスを崩してコケる場合もあるからただひたすらに迷惑極まりないヒトなのであるが。
でも電動キックボードみたいなのが普及しつつある昨今の状況を思うと、竹馬ぐらい街中でフラフラ歩いていたっていいではないか。

本当なら東京五輪も公開競技制度を復活させて新たに「竹馬」をスポーツとしてプッシュすべきだったのだ。マラソンなみにハイスピードな竹馬の競争。もしくはスケボーのようなトリック・プレイを駆使する採点系の競技とか。沿道の観客も竹馬に乗って駆けつけてみたり。

うぅむ、書きながらどんどん妄想が膨らむ。
普通にどこかで気軽に竹馬に乗りたい。そういう場所ないかな。

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2022.05.22

「最近ふたたび英検を受けてみた話」

Eiken

 以前「HOWE」で英検をはじめて受けた話を書いた。あれから7年ぐらい経って、再び私は英検の試験会場にいた。

 とはいえ、まったく気が進まないままの試験である。というのも職場の事情で「業務外での自己研鑽」を毎年報告しなくてはいけなくなり、そういうものにまったく前向きになれない私は、せいぜい「英語を身につけようとがんばっています、イエース」というポーズぐらいしか自己研鑽として示せるネタがないよなぁとなり、やむなく「英検準一級を目指す」とお茶を濁すしかなかったのである。そう書いたからには受験をした事実も作らないといけなくて、そんな経緯で一万円近い受験料を払ったからには、こうしてブログの記事にでもしないと気持ち的にモトが取れない。

 そして案の定、まったく試験準備ができていなかった。

 それなりに普段の生活のなかで英語に触れようと意識的に努力している部分があるとすれば、家の中でスカパーの「BBCワールド」のチャンネルをつけっぱなしにすることぐらいだ。でもそれは英語を学ぶためというよりも「室内をできるだけイギリスの空気感にしたい」というマヌケで妄想めいた願望のためであり、意識してリスニングに励んでいるわけでもないので、いつまでたってもネイティブの発音をしっかり聞き取れるようにはなっていない。

 ちなみにBBCでは『ハード・トーク』というインタビュー番組があって、その進行を務めるスティーブン・サッカーというキャスターのしゃべり口調が耳に心地よくて気に入っている。

Sackur

 できればこの人の発音のように英語をしゃべってみたいとはずっと思っていて、そして以前も書いたとおり自宅のトイレにはロンドン近郊に及ぶ大きな鉄道路線マップを貼っているので(これのこと)、トイレにいる間はスティーブン・サッカー氏を意識していろいろな路線の駅名を発音するようにしている。おそらくこれほどまでにロンドンの鉄道駅名をひたすら読み上げている不気味な人間はアジア圏でもあまりいないのではと思えてくるわけで、おかげで発音はかなり上達したかもしれないし、おかげで未だに独身生活を続けている。ただし文章を発声していないので、結局は使える英会話力にまで至っていないのが心許ない。

 そんな調子で無謀にも英検準一級に挑むことになったわけだが、申し込みにあたって久しぶりに英検の実施内容をみてみると、ちょっとした興味深い変化があったのだ。それは英検S-CBTという試験が新設されていて、専用センターに設置されたパソコンを各受験生が利用し、話す・聴く・読む・書くの4技能の試験をすべて一回で済ませることができるのである。しかも開催日がほぼ毎週土日にあり、都合に応じて気軽に申し込めるようになっていた。昔ながらのやり方だと、年3回ぐらいしかない日程で、初日の筆記試験の成績がダメだと別の日に実施されるスピーキング試験まで進めなかったので、私がぼんやりと暮らしているあいだに英検はそれなりに進化を遂げていたのだ。

 こうして今回私はそのS-CBTの試験にトライしたわけである。会場の試験センターはビルの一室にあってあまり広くなく、二部屋に仕切られて、一部屋は10人ぐらいで同時に二つの級の試験ができるようになっていた。受付ではロッカーのカギを渡されて、荷物はもちろん、腕時計やポケットに入っているものもすべて室外のロッカーに預けるように言われる。そんなことを命じられるのは他では牢屋か手術室に入るときぐらいしかないのではと感じたので、一気に緊張感が高まってしまう。室内に持ち込んでいいのは鉛筆かシャープペンシルと消しゴムだけだが、消しゴムはケースを外した状態でないといけなくて、そしてシャーペン類も、文字が記載されているものはダメと言われた。幸い私はこのとき無印良品のシャーペンを持ってきていたのでオッケーだったが、私の前に並んでいた学生さんは、エンピツの側面に刻印されているメーカー名などの箇所をきれいにカッターで削って臨んでいた(でも仮に「MITSUBISHI」とかいう単語がエンピツに記載されていたとして、それで何かの支障が生じうる英語の試験って何なんだろうか)。

 なお、パソコンで回答する試験形式を選んでいるため、基本的には鉛筆を使う機会は少ない。ただし最後に出てくる英作文だけは事前にパソコンで入力するか、手書きで解答用紙に書いていくかが選択できるようになっていたり、そして試験中にメモを取りたい場合の用紙も支給されるので、パソコンで回答する場合も筆記用具は持って行く必要があった。

 荷物を預けて割り当てられた個別ブースでパソコンを前にし、受験の注意事項を読みながら15分ほど待機する。部屋に時計が置いてあるわけでもなく、自分のスマホや時計などの一切合切は外に預けている状況のため「いま何時かさっぱり分からない感覚」があった。パソコンの初期画面でも時間表示はなく、つい時間を知りたくなってポケットに手をやり、そこでスマホをロッカーに預けていたことを思い出す始末である。
 まして私は英語の勉強をしていないばかりか、この新しい受験形式の内容もあまり予習していないままだったので、いろいろと落ち着かない気分になっていった。そして「しまった、トイレに行っておくべきだった」となった。ここから昼前までブースからは出られそうにない。「今からしばらくトイレに行けない」と認識したとたんにトイレにぼんやり行きたくなる、あの感覚はなんなんだろう。
 
 試験がはじまる前に、スタッフが部屋に入ってきて、パソコンの音声確認を行うよう指示された。自分が話す内容が録音されるので、ヘッドセットとマイクをしっかり装着し、そして録音レベルのテストにおいては「Hello, how are you?」と発声するようにと指示が書かれていた。狭い部屋でこのマイクテストを最初に口火を切ってやるのがちょっと照れくさい気分になるので、ついほかの人たちが話し始めるまで待ってしまう。自分が話した音声がリピートされて、無事に聞こえるかどうかを確認してマイクテストが終了。それが終わったらいったん動きを止めて、スタッフが「試験開始」を宣言するまで動かないようにするのかと思いきや、マイクテストが終わったらそのまま自分のペースで試験を始めてよいらしく、アタフタとなる。この時点でさっそく心が乱される展開に。
 この寸前まで私が考えていたことといえば、「別に“ハワユー?”って発声しなくても、単なる機械的なテスト録音なんだから別のフレーズでもいいんだろうか、『ウェーイ!』とか言ってみたり・・・」といったことであった。この落ち着かない状況下においては、そういう妄想をすることで気持ちを安定させようとしていたのかもしれない。ウェーイ。

 そうして最初のテストが始まる。画面に4コママンガのようなものが出てくる。飲食店のオーナーが売り上げ増大を狙ってロボットで接客させるというアイデアを実行したら、売り上げが落ちてしまったというストーリーだった。これを決められた録音可能時間のあいだにマイクに向かってマンガの内容を英語で説明するというもので、案の定、アタマが真っ白になりアワアワとなって、そのままカウントダウンとともに終了。

 次のセクションでは、動画で外国人が質問をしてきて、それについて短い時間でアワアワと答えていく。何を尋ねられたか覚えていないほどにあっという間に回答可能な時間が過ぎていき、私のアワアワな返答も途中で録音が途切れ、さっさと画面も消えていく。すぐに別の動画が現れて、脈絡なく違う質問をしてくるという、その繰り返し。伝えたいことはたくさんあったはずなのに私はほとんど何も言えず、そこに映っていた人の名前も知らないまま、すべてが終わっていく。出会いと別れとは無情なものである。
 せっかく鍛えていた(はず)の発音もアワアワしすぎて、もはやそれどころじゃなかったので、何も発揮できなかった。

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すまん、スティーブン。

 こうして不勉強な私を徹底的に打ちのめすスピーキング・テストがあっさり終わっていった。そしてヘッドフォンをつけているのでそのまま引き続きリスニング・テストが始まっていく。二人の対話を聞いたあと、質問があり、画面に表示された4つの選択肢のなかから回答を選ぶというもの。

 この時点で私はさっそく戦意喪失していたのであるが、しかしここで流れてきたリスニング問題の会話が、なぜかミョーに聴き取りやすかったのである。おそらく日頃の「BBCワールドつけっぱなし生活」は、それなりに意味があったのかもしれない。そうなると得点を稼ぎたいという欲が一気に沸き起こり、リスニングの部ぐらいは満点を狙うぞと、前のめりになって問題に向き合っていった。やれ新しい家具を買いに行くわよとかこのテーブルがいいんじゃないのかとか、この手の問題でありがちな生活感ただよう会話ばかりであるが、それなりに「聞ける!」「アンタがそう言いたくなる気持ち、分かる!」という感覚に至る状態が心地よかった。

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 こうして鼻息荒くリスニングを終えたあとは、短い英文の空欄に当てはまる単語を選ぶというオーソドックスな問題が続くセクションへ進む。ここではパソコンによる解答方法がよく考えられていて、たとえば問題の隅にチェックを入れるところがあり、あとで時間が余ったときに、クリックしたらすぐに当該の問題に飛んで見直しができるようになっていたりする。
 そうしてハイテクな英検の進化に感心しているのもつかの間であった。ここで次々と襲いかかってくる問題群における、それぞれの選択肢に並ぶ英単語が、見事にどれもさっぱり分からなかったのである。だいたい、この年齢までそれなりに英語に触れていると、たいがいの英単語はどこかで見たことがあったりするような意識でいたりする。そんな感じなのに、どうして英検では準一級になったとたん、はじめて出会うような不思議な言葉ばかりが登場するのか・・・ええ、まったく勉強していない自分を最上段の棚にあげたうえで言いますが、英語の世界にそんな単語って本当に存在するんですかと逆ギレしたくなるほどに、まるで珍しい昆虫ばかりが集められた標本を眺めているかのような、完全に意味不明でお手上げ状態の単語ばかりが選択肢に鎮座しているのである。英検二級は確かに「まぐれ」で通ったかもしれないが、これが準一級の壁なのか・・・と、ふたたび打ちのめされた。

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 読者諸氏にはここまで辛抱強く読んでいただき感謝を申し上げたい。今回のこのブログ記事が長くて辟易しているだろうが、その感覚はまさに私がこの英検を受けているときの気分とよく似ていると思っていただきたい。まだこの文章は続くし、すなわち、まだ試験は終わらないのである。

 もはやヘナヘナ状態であるが、この次に待ちかまえていたのが3つの長文問題であった。本当はこういう「出題パターン」というのも予習をしっかりしておき、「そういうものなのだ」ということをあらかじめ了解しておくべきなのである。しかしそんな予習もすっ飛ばして試験に臨んでいたので、「このノリで今から長文、3つも読むのか・・・」と気持ちは萎える一方であった。そしてこのときぐらいまで、私はずっとヘッドホンを頭につけたままだったことに気づき、恥ずかしながら静かにヘッドホンを外した。ちなみに「物音が気になる人のための防音対策の耳当て」も別に用意されていて、ヘッドホンのような形をしていて机の奥のほうに置かれていた。そっちを装着して、あたかも音楽を聴きながら試験を受けているかのようにノリノリで肩をゆらしつつパソコンに向かうポーズを取って試験監督から失笑されるか不気味に思われるかぐらいのことをしてもよかったのだが、そんな度胸はもちろん、なかった。

 このときの長文問題のテーマであるが、1つ目が「『ピーターパン』の作者はこの物語の著作権を小児病院に寄贈していて、その著作権が80年代に切れた際の対応をめぐる英国政府の動きについて」で、2つ目が「温暖化防止のために人工植林を開発したことによる利点と欠点について」、3つ目が「大航海時代に新大陸に乗り込んで原住民と出会い、その地に留まっていたはずの西洋人たちは、その後なぜか当地から姿を消すことが多かったという謎について」といった内容だった。普通に読み物としてはどれも興味深い話で、文章もわりと平易だった・・・が、ここでも質問文とその選択肢においてやたら難しい文言や表現が多くて、結局は自信をもって解答できなかった。事前に勉強してきていない私がピーターパンのように現実と向き合えていないことを痛感させられてくる。

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 ちなみにここでも英検はハイテクぶりを発揮し、長文を読解するにあたっては文章のところにマウス操作でマーカーを自由に引いたりできる機能があって(たしか色もいくつか選べたはず)、可能な限りペーパーテストのときに行えるアクションをパソコン上でも実現できるようにしていた。なので思わず関係ないところまでマーカーで試しに線を引いたりして、一瞬だけ遊んでしまった(時間ないのに)。その気になったらカラフルなイラストも描けてしまうのだが、もちろんそんなことを試みようとするヤツはまず英検には受からないだろう、うむ。

 最後はお待ちかねの英作文であった。いや、別に待っていない。「残り時間、何分よ!?」と、画面の端に表示されたカウントダウンタイマーを見やりつつ、残された時間で150語程度の文章を書かねばならなかった。しかも「序論・本論・結論」の形式を備えつつ、そして問題文に添えていくつか書かれている関連キーワードのなかから2、3個を用いた内容で作文をせよとのことである。
 本日のお題は「日本政府は、国立公園を増やすべきかどうか」。今こうして冷静な頭であらためて振り返ると、確かに賛否両論が起こりえる問いかもしれないが、当日の疲れ切った精神状態においては、増やさないほうがいい理由を考えるほうが難しく、自ずと「増やした方がいいに決まってるだろう」という気持ちになっていたので、私は与えられたキーワードから、自然保護の観点だけでなく政治経済面、特に日本の水資源をめぐる外国資本の脅威についてをメインの主題にして作文することとした。中学生レベルの文法でひたすら平易に書いていくと、150語をオーバーしたので、ちょっと削るのに苦労した(パソコンが自動的に単語数をカウントしてくれるのもありがたい)。時間との闘いだったので、この英作文が終わったあと、前の問題の解答を見直す時間もほとんど取れずにタイムアップ。

 実は長文読解のところでモニターの英文をグズグズと眺めていたとき、室内の他のブースからは英作文に取りかかり始めた人たちがキーボードを軽やかに入力するカタカタ音が鳴り響いてきて「うわー、もう作文してんのか~」と焦りが生じてきたわけだ。そう思うと自分の場合も高校生ぐらいのとき、こういう英語の試験のときは「後ろの問題から先に取りかかりはじめる」ということをやっていたなぁと思い出した。最初に英作文の問題テーマを見ておいて、軽く作文をしておいて、それで他の問題に取りかかっている間にも、頭の片隅で英作文のテーマのことを考えつつ・・・という作戦だ。ただしその場合、自分だけ変なタイミングでキーボードをカタカタ鳴らしてしまうので、気が引けるといえば気が引けるが・・・入試と違って周囲の人に動揺やプレッシャーを感じさせることのメリットもないし(笑)。

 そんなわけで試験が終わったらさっさと退室し、すかさずトイレに向かっていった。

 試験の結果は一ヶ月後ぐらいに分かる。私のアワアワなトークの録音(途中で切れる)も誰かによって時間と手間をかけて採点されるのであろう。この文章を書いている時点ではどういう成績なのかは定かではないが、少なくとも今回の英検を受験している最中に、すでに「どうやってこれをブログで書こうか」なんてことを終始ぼんやりとアタマの隅っこで考えながら臨んでいたので、そんな状態の受験生が準一級をクリアすることは到底ありえないだろうなとは思う。

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2022.04.10

忘れがたいテレビCMのこと

自分にとって忘れがたいテレビコマーシャルと言われて最初に思い浮かぶのは、サントリーのオールドフォレスターのこのCMだ。

YouTubeのおかげでこうした過去のCMも手軽に楽しめるわけだが、よくみたらこれは1988年のCMということなので、当時の私は小学5年生だ。
広告の意味する直接のメッセージがうまく汲み取れなくても、そしてその後の私はお酒を楽しめるようなオトナにもなりそこねているわけだけど、ずっとこのCMは印象に残り続けている。

で、流れている音楽についてはCMのなかにもクレジットが表示されているが、そこまで当時は追いかけるわけでもなく、その後高校生ぐらいのとき、たまたまラジオで流れていて「!!」となり、そこでようやく、この曲がブラックというアーティストの「Wonderful Life」という曲だったことを知り、アルバムを買った。

そしてYouTubeの時代になり、当時のビデオクリップを観ることができてようやく分かったのは、このサントリーのCMは、ほぼこの曲のPVを流用して作られていたわけで、あの独特の雰囲気と、さまざまな解釈を要するモノクロームのヴィジュアルは、楽曲の世界観に依るものだったことをオトナになってようやく知り得たわけであった。



何らかのストーリーがあるわけでもなく、断片的にさまざまな人々の人生の一瞬が反映されていて、それでいて一遍の映画のような味わい。自分が白黒写真を好む遠因はこのCMでありこの曲がきっかけなのかもしれない。


また、この曲を作ったBLACKというアーティスト、本名Colin Vearncombeは、2016年に自動車事故により亡くなっていたことを、このYouTubeでの書き込みを通して知ることとなった。そういうわけで、哀悼の気持ちを込めて今日はこのことを書いておきたかった。


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2022.03.27

正しい方向へ転ぶ

行きつけの鍼灸院の先生がしばらくバイク趣味を封印していた後、あこがれのサイドカーを購入したことは以前ここに書いた(この記事とかこの記事)。

先日も鍼灸の施術を受けてきたわけだが、先生が若い頃からひたすらハーレーダビッドソンに傾倒していたことを受けて、話の流れで何気なく「そもそも一番最初にハーレーを手に入れよう! と決心したきっかけは何だったのか」を聞いてみた。

その返答は、「学生時代、抜け毛の多さに悩んでいて・・・」という予想外の話から始まった。

「それで某カツラ会社の相談室に行ったら、いろいろ頭皮の状態を調べられて、カウンセリングみたいなのを受けて・・・で、頭皮の環境をよくするマッサージやらなんやらを受ける3ヶ月間のコースを勧められて、それが100万円ぐらいするんですよ」

「学割もきくし、月々のローンで2万円ぐらい・・・とかいう説明を受けているうちに、『それだったらハーレー買おう』ってなって。カツラ会社に行ったのが昼間ぐらいで、夕方にはもう、ハーレーのディーラーに初めて足を踏み入れていた」

文字通り「その足で」、はじめてハーレーのディーラーに行って見積もりを頼んだとのこと。

いやはや。なるほど、さすがである。
先生は直感的に、どちらのほうが人生をより豊かにするかを的確に選び取ったのではないだろうか。
私にとっては、こういうのも「正しい方向へ転ぶ」というひとつの例だと思えた。

ちなみに念のため書き添えておくと、40代後半を迎えつつある先生の現在の頭髪環境は、とても良好のように見える。

結局、そういうものである。
普通に、うらやましい(笑)

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2022.02.26

大阪のとなりの奈良に住んでる、とその悪人はオランダの空港で語りかける

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▲12年前に乗り継ぎではじめてスキポール空港に着いたとき。オランダの空は実にいい。その魅力と謎を探ったドキュメンタリー映画『オランダの光』はオススメ。


 いろんな国の大使館や領事館が発行している海外安全情報のメールマガジンを読む機会があるのだが、たまに詐欺事件の注意喚起があって、これがなかなか読ませるのである。
 つい最近では在オランダ大使館がこんな事件を報告していた。

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今回、当館へ情報提供をいただいた手口は次のとおりです。

1 スキポール空港第2ターミナルの自動チェックイン機周辺で外国人の男1名が声をかけてくる。

2 この外国人の男は、困った様子で、英語で「大阪に行きますか?私も行きます。チケット変更の手続きをしているが、現金では、その追加料金49ユーロの支払いを受け付けてもらえない。現金を渡すので、代わりにカードで決済をしてもらえないか。なお、私は、今、大阪隣県の奈良で働いています」と話し、現金50ユーロを手渡してくる。

3 一緒に自動チェックイン機へ行き、機械へクレジットカードを入れるが、画面が動作する様子がなく、また、表示を英語にするよう外国人の男に伝えるも、この男は「この機器では駄目かもしれない、係員にもう一度聞いてきます」と言い、一度その場から離れる。この間、この外国人の男は、現金50ユーロを預けたまま、また、自身の荷物は置いたままにし、ターゲットとした人物がその場から離れないよう仕向ける。

4 戻ってきた外国人の男は、「隣の自動チェックイン機で試してみましょう」と促し、瞬時にターゲットとした人物の手元からクレジットカードを取り上げ、別の自動チェックイン機へ移動する。この移動のため背を向けた瞬間を利用しクレジットカードをすり替える。その後、再度自動チェックイン機で操作をするが、画面が動作しないため、この外国人の男は「再度、係員に相談します。後でお会いするかもしれませんね」と言うと、クレジットカード(既にすり替えられたもの)を返却し、その場から離れる。

 本事案は、親切心を逆手にとり、また、日本に関わりがある等の情報を伝えることで親近感を抱かせた上で、行われています。また、同様の手口で入手したと思われるクレジットカードを多数所持していると思われ、すり替えたクレジットカードが、一目で自分のものではないと気付かれないよう、同種のカード、且つカード番号や名義人のイニシャルが似たようなものが渡されているとみられるほか、こうした手口からも、日本人を狙っているものと考えることもできます。

 このような事案が発生していることを念頭に、今回この種の事案が確認された空港をはじめ、外出先ではこうした被害に遭わないよう十分に注意してください。
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 ううむ、実によく計画されており、私もきっとその場にいたらダマされるかもしれないなぁと思う。簡単にホメちゃだめなのだが、見事な筋書きで演じられており、ある意味では即興芸術の域に達しているのではないかとすら感じる。

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▲なぜか自分もスキポール空港でこんな写真を撮っていたが、チェックインでこういう類の機械があって、オランダ語表示のまま使われても何がなんだか、ってなりますわな。

 それにしても「大阪の隣の奈良に住んでいる」っていうくだりが笑える。わざわざ大阪の隣っていうワンクッションを入れるあたりにリアリティを高める効果がありそうで、でも一歩間違えると胡散臭くも感じさせる、なかなか際どいシナリオだ。

 そして偶然にも私のように奈良県で育ったために土地勘がある場合、そこで考え得る対応としては「レアリー? 奈良の、どのへん?」と返答するのもいいのだろうけど、おそらく相手は急いでいるシチュエーションを演出するから、そこで話題を膨らまそうとは決してしないのだろう。もしこれが「東京の隣の埼玉」とか言われたら、私もその点についてはきっと何も言えない。だからこそそういう話題のときは知らない土地でも「最寄りはどの駅? オレは鉄道マニアなんだ!」っていう返答を用意しておくのもいいかもしれない。

 そしてもうひとつポイントとなるのは、自分が使っているクレジットカードがすり替えられてもしばらく気づかれないように、犯人が多種多様なカードを取りそろえている可能性があることだ。チェックインの機械にクレジットカードを入れさせることで、カードのデザインを観察できるチャンスを作っているのが巧妙であるが、ここでもしできるだけ変わったデザインのクレジットカードを使っていて、犯人の手持ちのストックに同じカードが該当しなかったら、おそらくこの一回目の時点で犯人は「じゃあ、係員に聞いてみます」と立ち去っていくのだろう。

 そういえばつい最近私は楽天カードの「2枚目発行キャンペーン」に乗っかり、デザインを選ぶ際にどうせならネタになるほうを、と思って

Card

 このイニエスタ選手のカードにしたわけだ。カードの有効期限が切れるころには同選手も引退しているだろうから、このデザインが引き続き更新されることもないのだろう(されてほしいんだけど)とも思えるわけだが、海外旅行のときはこういう変わったカードを使うほうがいいのかもしれない。


 まぁ、きっと犯人の側も、どうせならお金持ちが持っている大手会社発行のゴールドカードみたいなやつを狙うほうが効率がいいのでしょうから、ツッコミどころしかないイニエスタのカードを使いたがる旅行者には目もくれないんでしょうけど。

(まだこのカード、お店で対面のレジで使ったことない)

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2022.02.13

自分にとって最高だった古本屋が消えていく

奈良で育ってよかったことのひとつはフジケイ堂という古本屋が身近にあったことだったと言ってもいい。奈良県内に数店舗あり、とにかく良い本が安く売られている店で、商売が成り立っていたのがずっと不思議なほどだった。

それが、この2月末をもって閉店するということをツイッターで知った。

中学から大学あたりまで、何かとフジケイ堂には足を運んでいた。大学の進路選択の遠因になったF・D・ピートの『シンクロニシティ』もフジケイ堂で買ったものだし、あと、20代のはじめごろ定期的に通っていた病院の近くにあったフジケイ堂の支店では、ナタリー・ゴールドバーグの『Writing Down the Bones』の邦訳初版といえる『クリエイティブ・ライティング:<自己発見>の文章術』に出会うことになる。昨年末の記事でもこの本について触れているが、この作品は現時点での私の生涯のベスト3に入る本であり、この本と出会えたことで私は病気になったことを少しはポジティブに捉えることすらできている。

今までの自分を作ってきたいろいろな読書のかなりの部分はフジケイ堂によってもたらされていたと思える。
というわけで2月のとある日に、フジケイ堂にいくためだけに奈良へ行ってきた。自分にとって最もなじみのあった、近鉄奈良駅のそばの小西通り商店街のお店である。

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表の店構えが以前知っているものとは変わっていて、私が奈良を離れたあいだにお店は少しはリニューアルしていたのである。ただし店内の雰囲気は昔のままで、違ったことといえば、閉店セールの張り紙と、そしてレジの周囲に透明のビニールが張り巡らされていることであった。

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こういう日なので、絶対に何か本を買って帰ろうと思うわけで、そういう目で書棚を見やると・・・どういうわけか欲しいと思える本がこういうときに限ってあまり見つからない。なので書棚をウロウロし、普段見なかったような場所まで凝視する。最後の最後だから、こうしてあらためてじっくり丁寧に書棚を見る時間もまた特別なものとなった。

そうして、なんとか自分なりに選んだ本は、結局3冊のみ。
閉店セールで3割引なので、この3冊で847円・・・。最後の最後まで安すぎるだろう、この店は。

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▲ハウツー系の本は相変わらず好きだ。

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▲フジケイ堂で最後に買う本としてこれ以上ふさわしいタイトルの本はないだろうと思って手に取った。

レジの店員さんに、閉店がとても残念なことであり、長いこと営業していてとてもお世話になったことと、感謝の意を述べさせていただく。店員さんも「いろんなお客さんからお声掛けをいただいていて・・・」と言っていた。

店の入り口には以前から「小さな本から 大きな夢を」というキャッチフレーズが書かれていて、よく見たらレシートにも印字されている。それはまさにその通りなのだ、といつも思っていた。この店のおかげで出会った小さな本のいくつかは、たしかに自分に夢を描かせるだけのインパクトを与えられてきたと断言できる。ありがとう、本当にありがとう、フジケイ堂。

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▲レシートには、「またの御来店をお待ちしております」とあって、さらに切なくなる。

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2022.02.05

ふと思い出した、あるロンドンの朝のこと

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 2度目にロンドンに行った2005年4月のときのこと。
 旅の終盤、ロンドン中心部から西のほうにある町で、B&Bの民宿を1泊だけ利用した。住宅街は同じようなデザインの家屋が並び合っていて、静かな街のなかにあったその小さな宿の名前は「HWANY HOUSE」といい、私と同い年ぐらいの日本人女性と韓国人男性のカップルが経営していた。

 宿とはいえ、さすがに普通の家であった。イギリスの住宅の中で過ごすのは自分にとって新鮮な体験だったのだが、人の家だということで写真をあちこち撮ることは当時の私も控えていたらしく(上に載せた写真ぐらいは撮っていた)、宿主のお二人の写真も撮ったりしていなかったので、今となってはあらゆる印象がおぼろげである。当時あったホームページも今は存在していないようで、現在ここがどうなっているのか、そして宿主さんたちはどうしているのかも分からない。

 それでもずっと記憶に残っていることがあって、それは朝食のときの情景だった。家の玄関口の狭さのわりに、広く感じるダイニングルームが奥にあり、宿泊客がそろって同じ時間に顔を合わせてテーブルを囲むという形式だった。そこではあらゆるものが白色を基調としていた印象があって、テーブルも食器も床も壁も、そして大きな窓から差し込む光も真っ白なぐらいに、思い出のなかでずっとそこは白い世界である。

 そんななか宿主の日本人女性が食事の配膳をしつつ、宿泊客の会話に混じり、お互いが自己紹介をするような流れを作ってくれていたように思う。そのときは私を含めて4組か5組ぐらいの客がいて、全員が日本人だったと思う。
 そのうちの2組のことはまだ記憶にある。まず私と同年代ぐらいの男女ペアがテーブルについていて、職場の先輩と後輩の間柄とのこと。後輩である女の子のほうは、恋人同士という関係に加えて「先輩についていってロンドンまで来ました、押忍!」みたいなコミカルな雰囲気だった印象が残っている。
 もう一人は、自分より少し年下だと思えた男の子で、職業は「プロのゲーマー」だという。スポンサーの支援を受けながら、世界のあちこちで開催されるゲーム大会を転戦しているという(日本ではメジャーではない系統のパソコンゲームの大会だったと思う)。そういうことで生活を送っている人がいることに驚かされた。彼とは朝食のあとにも少し話をさせてもらって、愛用のキーボードを商売道具のようにカバンに入れて世界を回っている姿には感じ入るものがあった。後になって自分自身もパソコンのキーボードにこだわりを持つようになった遠因は、彼との邂逅だったかもしれない。
 あともう1組か2組のお客さんがいたと思う。思い出せなくて申し訳ないが、ともあれこのようなメンバーで、4月のある朝、西ロンドンの住宅地の片隅で食卓を共にしたわけである。

 ただし正直なところ、普段の私であればこういうシチュエーションがとても苦手なのである。私はその宿で一泊しかしなかったので、ここでの朝食は最初で最後である。そして全員見知らぬ人で、一緒に朝ごはんを食べる。どちらかというと一人旅のときはどこまでも無愛想にたたずんで食事することを好むのだが、この状況ではどうしたって自己紹介やら世間話やらをしなければならない。うん、とっても苦手だ。

 しかし不思議なもので、もしかしたら海外旅行特有のテンションというものがあるのか、この日の朝の自分は、とても饒舌だったことは確かだった。「旅の恥はかき捨て」ということが気をラクにさせていたのか、私はどういうわけか、率先してこの日のテーブルの客それぞれに話しかけて、お互いがお互いのことをよく知れるように会話を引き出し、身の上を語り合えるような雰囲気をリードしていたのであった。
 それはあたかもテレビで明石家さんまがやるような、それぞれに笑いのポイントを引き出しながら次々とゲストの面白さを誘発していくような役回りであり、テーブルの会話はとても盛り上がったので、最終的には宿主の女性からも
「タテーシさんって、おもしろいですねぇ!」
と言われて、そこで我に返ったのである。

「あぁ、確かに自分は今、すごく面白い人になっている」

という実感がすごくあって、それはとても気恥ずかしくも心地よい感覚であり、あの白い食卓の空間のなかで、自分自身が別の人になっていったような、なんとも不思議な手応えとして記憶に残り続けている。

 もうあれから17年も時間が経ってしまった。あの先輩後輩のコンビはその後も二人の旅を楽しく過ごしていったのだろうか。そしてあのゲーマー青年は今もどこかで戦っているのだろうか。人生のある時季の巡り合わせにより食卓を共にした我々であるが、おそらくあの日の朝の自分が、今のところ人生で一番面白くて社交的なヤツだったのだろうと思われる。面白さの最大瞬間風速みたいなものだ。そこをもっと普段でもコンスタントに発揮できるようにしていきたいところであるが、さてどうだろう。

 ちなみに宿を出発するとき、見送ってくれた宿主さんに、「ロンドンはいいですねぇ。ロンドンに住んでみたいです」とつぶやいたら、とてもあっけらかんとした調子で「住んだらいいんですよ!」と言われたことも強烈に覚えている。そこには何の障壁もないように、一つの世界から一つの世界への移動は、まるでクツを履き替えるぐらい簡単なことなのだと言わんばかりのテンションで返されたのだった。その後も私は何度もロンドンの地を踏むことになるのだが、そのたびにリフレインするのはあのときの宿主さんのコトバだったりする。


 さらに、ちなみに・・・このときの旅の主な目的はサッカーで、チェルシーFCの50年ぶりのリーグ優勝を見届けたく渡航のタイミングを見極めてプランを練ってホームゲームのチケットを手配した結果、実際には優勝決定の一歩手前、勝てば王手をかけるという試合(そしてバナーを掲げる私の姿がテレビで抜かれるという、狙い通りの幸運もあり)に立ち会うこととなったわけだが、奇遇にもあのB&Bの宿主のお二人もチェルシーのファンだというので、それがまた嬉しかったなぁ。

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2021.12.31

2021→2022

 あっという間に1年が終わる。去年の今ごろ、ブログにU2の曲を貼り付けて終わってから、もう365日が経ったとは。
 今年このブログにあげた文章はわずか11件・・・。
 以前から、フリーペーパーの活動をきっかけとしてずっと私の文章を読んでくれている方から、いつもこの時期にご挨拶をいただく。たった11件しかアップしていないブログを、そしてまったく完成する気配のない次回作のフリペやZINEなどを、それでも楽しみにしてくださっている人がいることを思い起こさせてもらう。なのでいつも年末には必ずブログを書こうという気力をいただいている感じだ。

 「書くこと」は、どんなことでもいいし、どんな小さなところから始まってもいいではないか、と頭ではいつも思っている。そうして実際に手を動かして積み重ねていくことのあいだに、なかなかの壁があったり、抵抗感があったりもする。そういう怠惰さとか難儀さそのものを見つめて書いていけばいいのだから、さっさと書け、とナタリー・ゴールドバーグなら言うのだろう。いまこれを書きながら、いつも近くに置いてあるこの人の本を久しぶりにパラパラとめくってみた。

 書くときには一切の手綱をゆるめ、自分の中にあるものを、ごくシンプルな言葉で書きはじめるようにしよう。なめらかな走り出しは期待できない。ぶきっちょな自分を大目に見てやろう。あなたは裸になり、人生をさらけ出しているのだから。それはエゴがそう見せたがっているような自己像ではなく、人間としてあるがままの自分だ。だからこそ、書くことは宗教的なのだと私は思う。書くことは、あなたのエゴの殻を割り、あたりまえの世界に対する柔軟な心を培ってくれるのだ。

 いつ読んでも、ことごとくグサグサとくる。日々、いろいろな面で硬直した生活を送りがちなので、「裸であること、さらけだすこと、あるがままを見つめていくこと」を忘れがちになっている。精神的ストレッチとしての「書くこと」があって、身も心もほぐしながら、世界を生きのびること。コロナ禍はまだ続くけれども。

 今年の締めくくりはR.E.M.の『Everybody Hurts』。みんな傷ついている、でも歩く

 

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2021.12.08

ちょっと言いそびれていたこと

 実生活でもそうだし、このブログなどでも表だって伝えていないままだったのだが、
 実は4年ほど前から、スキーにハマっている。

 きっかけはひょんなことで、4年前にテレビをつけたら平昌五輪のフリースタイル・スキー競技をやっていて、観ているうちに「スキーって高校の修学旅行でやって以来だな」と思ったことに始まる。インストラクターの先生に教わりながら、クラスの男子で間違いなく一番滑れなくて転んでばかりだったけれども最後にはなんとか滑れるようになり、トータルで振り返って「楽しい思い出」として自分のなかに残っていたのだ。

 でもそこから23年ちかく経って、まったく雪山に縁のない人生を歩んでいて、それでスキーやスノボをやっていないままだというのは、何かもったいない気がしてきたのである。もっとも、もし自分がやるならスノボよりは一度は経験があるスキーだろうな、とは思った。

 で、ネットであれこれ調べてみると「ひとりスキー」とか「ぼっちスキー」という言葉があることを知り、これが非常に大きかったのである(もちろん、「ひとりスノボ」もある)。「そうか、スキーは独りで行っても差し支えないレジャーだったのか」ということに思い至り、クルマも持っておらず、雪山へはグループでワイワイと行くイメージに凝り固まっていた私は、公共交通機関だけを使って独りで滑って帰ってくるという人も多く存在しているという当たり前すぎる事実を、浅はかながら40年近く生きていて気づけていなかったわけである(そして同時に実感したのは、私の親しい友人たちも、奇跡的なほどに揃いも揃って雪山から縁遠い人生を歩んでいたわけである。あるいはタテイシなぞはどうせ雪山に誘っても乗ってこないと思われて、私の知らないところで楽しんでいたのかもしれないが)。

 そこから私はスキーについて調べまくり、すぐに挫折してやめるかもしれないリスクを想定してセール品の安いウェア類を揃えまくり、YouTube動画でスキーの基本やゲレンデでのマナーなどを予習しまくり(これができる環境が20年前とは大きく違う点であり、非常に恩恵を受けている)、準備を万全に整えてからその年の3月に満を持して滋賀県の箱館山スキー場へ足を踏み入れ、レンタルスキーを装着した40すぎのオッサンとして初心者向けスキー講習を受けてみたのである。
 そこですっかり雪山の壮大な景色に魅了されつつ、なんとかスキーも滑れたことに大いに気を良くし、そこからは文字通り雪山を転げ落ちるようにスキーへ傾倒していくことになった(ちなみに、このときに初心者スキー講習を受けたことやその前後のくだりについては、別に書いた長い文章があって、いつか公開できればと思う)。

 というわけで、それ以後は冬季シーズンを待ちわびるという、寒がりの私にしては大いなる転向を経て、ひとりスキーを楽しんでいるのであった(そして『スキーが趣味です』と堂々と言える程度には上手くなってから、周りの人に公言しようと思いつつ、毎年少しずつしかスキーに行けないので、自分が上達した実感もないまま伝えあぐねていて今日に至っている)。
 
 さて、今回はそれ以上スキーについて深く書くことはせず、話を別の方向へ持って行く。

 このスキー趣味が始まってから「日常生活のなかでもできるスキーの練習」として心がけていることとして、「電車のなかでヒザを軽く曲げて立ち、揺れに応じて体重移動を意識してふんばる」という行為がある。私は毎朝通勤で電車を利用するのだが、最初に乗る電車はいつも必ず立つしかなくて、そのときには吊り革を握らずに、軽くヒザを曲げた状態をキープし、揺れてもふらつかないように重心移動で対応している。そうすることでスキーっぽい足腰の動きが要求される(気がする)。

 そして、だ。例によって昨年からコロナ禍となってしまい、鉄道会社もクリーンで安全な車内環境づくりに努めているとはいえ、この「吊り革や手すりなどを極力触らないようにする」ということが、感染予防のリスク管理におけるひとつのポイントになってしまったのである。
 それゆえに、私はなおいっそう、電車に乗るときは吊り革や手すりを頼ることなく、この「スキー練習」の立ち方で乗り切っている。なのでこの2年間近く、私は電車内で一度も吊り革や手すりを触っていない。

 そう思うと、私が40歳をすぎて突然スキーにハマるようになったことも、このコロナ禍のタイミングを思うと、それなりにリスク管理という側面で多少の意味があったのかなと感じている。強引な解釈かもしれないが。
(そう書いておいたそばから、いきなり足腰がよろけて、ついに吊り革をつかむ日が近かったりしたら、情けない) 

211208
▲なので自撮りの写真しかない。

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2021.08.29

『B面の歌を聞け』vol.1「服の自給を考える」

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 友人の作家・太田明日香さんが主宰する「夜学舎」から、手作り雑誌『B面の歌を聞け』が創刊された。

 ここで語られる「B面」というのは、資本主義とかメインカルチャーが主軸で動いている世界を「A面」だと捉えたときに考え得る、オルタナティブな世界のありようのことだ。モノの交換だったり、できる範囲でDIY精神を発揮していったり、お金をかけなくてもいい部分をそれぞれのローカルの場から探求・実践していく姿勢を、このささやかな雑誌は問いかけようとしている。

 初回のテーマは「服の自給を考える」ということで、ハンドメイドのシャツの制作者へのインタビューや、ただ消費される対象としてでなく、服との多様なつきあいかたを提案する記事などが楽しめた。とくに、よれよれになって着れなくなった服を、型紙から起こして別の素材で縫製して“コピー”するという発想は自分にとって新鮮だったし、あと自分に技術がなく、身近なところで縫製を頼めないような場合に有用な「縫製職人マッチングアプリ」があるというのも、面白い試みである。

 読みながら感じたことは、衣食住のなかで「衣」の部分はもっとも「B面仕様」にしやすい領域ではないかということだ。たとえば「子どもが暮らしやすい家を建てる」というのはありえるが「子ども専用の家を建てる」ということは難しいわけで、そう思うと衣服というのは年齢とか目的とかの一般的な側面での「個性」に応じて、それぞれにカスタマイズが求められ、さらに嗜好やオシャレさを追求する楽しさの幅もふんだんに備わっているわけで、この領域を企業の利潤追求作業にまかせっきりにするのは確かにもったいない。

 ただし、もちろんすべてをイチから自作する必要もなく、雑誌のなかでも「不要品からパーツを流用し、ここぞの部分だけをハンドメイドとして成立させていく」というスタンスが紹介されていたりするように、「いいとこ取り」で、手作りと既製品のハイブリッドを楽しんでいくことも可能である。
 そういえばちょっと前に『ゼロからトースターを作ってみた結果』(トーマス・トウェイツ、新潮文庫)を読んで、あらためて「ものを作ること」について考えさせられたが(この本、ある意味では名著だと思う)、すべてを自分で作り上げる必要はなく、技術がゼロであろうとも、出来る限り自分で考えたり学んだりしたうえで、どうしてもムリな部分は専門家や既製品に任せることだって、そのスタンスにおいてはDIY精神であり、そうした「A面とB面を行き来するバランス感」が大切なのだろうと思う。

 次号の予定は「コロナ以後におけるお酒とのつきあい方」とのことで、「夜学舎」については(こちら)へ!

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2021.07.31

ひたすらロンドンの地下鉄に乗ったり駅をウロウロしている動画

 先日ひさしぶりにharukanashowで喋らせていただく(こちら)。前回トークしたのがちょうど一年前だったことを知り、驚く。ついこの間のことのようだったが、このコロナ禍の日々がいかに早く過ぎていったかを実感・・・。
 収録日において、直近に迫りつつあった東京五輪開幕への違和感だったり、サッカーの欧州選手権やF1イギリスGPでのお客さんの入りっぷりへの不安などを語らせていただく。
 これを書いている時点で開幕一週間を経ているのだが、なんかもう、東京および全国各地での感染者の増加傾向を思うと、素直に五輪を楽しめるモードではまったくない。あと一週間後にはどうなっていることやら、この危なさや先行きの不安感を我々一般人が(税金払いながら)引き受けなければならないことへの憤慨にまみれている今日この頃である。


 そんなわけで、相変わらずテレビはそこそこにYouTubeに依存している日々である。


 以前、Watched Walkerについて紹介したが、最近新たに見つけたのは、それのロンドン地下鉄バージョンともいえる「London Underground First Person Journey 24/7 Livestream」という動画で、収録した映像をつないでひたすら24時間配信している。リンクは(こちら)。



 撮影者はひたすらロンドンの地下鉄に乗り、ホームに降りるや乗り換えのために駅構内を歩き回って、また違う地下鉄に乗り・・・その繰り返し。そうしてあの空間における音や情景をカメラに収め続ける(ただし、なぜそんなに急ぐのかっていうぐらい早足で移動したがるところがあるので、もうちょっと落ち着いて行動してよと言いたくなる)。そもそも地下鉄なので窓の外の風景が楽しいわけでもなく、下方のテロップのおかげで、かろうじて今はどの線の、どの駅の区間を動いているのかが分かるわけで、地味といえば地味な試みだ。
 動画として「見る」という以上に、そのまま部屋のBGMとして流しっぱなしにしてもいい。基本的にうるさいだけなのだが(笑)、車内アナウンスだったり、時おり聞こえる「Mind the Gap」の機械的な音声だったり、レールがきしむ音のデカさっぷりだったり、ドアの開閉のときになる電子音だったり、すべてがロンドン暮らしをイメージさせる音として、心和む。


 それと同時に、こうしてカメラを携えてやたら地下鉄に乗ったり降りたりを繰り返しているこの撮影者は、どうしたって不審者のようにも見られるかもしれない。しかしイギリスの国らしいというか、冷徹なほどに他人には干渉しないムードが車内にもうかがえて、そのうえでこういう動画撮影が成り立っている気もする。


 そして最近撮影した動画がほとんどのようで、あきらかにコロナ禍の影響で地下鉄の乗客や駅構内を歩く人が決定的に少ない。なのでこれを見ながら、どのみちちょっと切ない気分にもなる。「そこにいない自分のこと」と、「今はそこに行くことができない、ということを納得しなければいけない自分のこと」があって、そのうえで「コロナ禍のいま、ロンドンはこういう姿になっている」ということを知り得る手段のひとつとして、いくばくかの感謝の念をもってこの単調な動画を眺めつづけている。

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