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2019年8月

2019年8月22日

いわゆる「ランパード案件」について

 一年は早いもので、昨年のいまごろはサッリ監督のチェルシーについての展望を書いていた・・・というか話の主題は、サッリ監督が「チャーリー・ザ・ツナ」に似ていることを世界に向かって叫びたいだけのものだったわけだが。


 そうして月日が流れ、7月にプレシーズンで来日して川崎フロンターレやバルセロナと試合をしたチェルシーFCの監督席には、サッリではなく、フランク・ランパードが座っていた。そんなことになるとは一年前に想像もできなかったし、昨シーズンは2部のダービー・カウンティで結果を残していて、どちらかといえばもともとの出身クラブであるウエストハムあたりで今後は若手育成などを経験して大きく育っていく監督になるのかなぁーなんていう程度で、横目で彼の動向を追っていたぐらいだ。

 正直にいえば、私はもうちょっとサッリ監督のチェルシーが観てみたかったのである。

 一緒にナポリから連れてきた愛弟子ジョルジーニョありきの戦術で、どこかでジョルジーニョが故障などして使えなくなった場合に、果たしてどういうやりくりを戦術家サッリは見せてくれるのかを私はずっと密かに期待していたのだ。あるいはリュディガーやダビド・ルイスが揃って長期不在になったときにセンターバックからのボール供給という重要業務を誰がどうするのか、その状況において、伸び悩むクリステンセン君あたりが逆境をはねのけてどこまでチェルシー守備陣の救世主になれるのかなど、そういう(ネガティブ要因から生じる、総じてドタバタ感が満載の)物語を観てみたかったのである。

それがどうだ、ジョルジーニョはシーズン通してフル稼働していて、なぜかセンターバックもサイドもそれなりに元気でシーズンを終え、新加入GKケパもまるで5年ぐらい前からそこにいたかのような存在感だ。
 つまりのところ「固定しすぎたスタメンが、シーズン中盤から当然のごとく疲弊していって調子を落としまくって、かろうじて4位でフィニッシュ」という、実に予定調和的でフツーな感じの結末になったわけだ。そりゃあCL出場権に滑り込んだということは大成功の部類に入るシーズンではあったんだろうけど、本当にそれでいいのかチェルシーよ。
 私はひたすら「豪華絢爛さの陰で、卑屈でネガティブな雰囲気から立ち上る、モヤモヤがぬぐえないサッカー戦闘集団」としてのチェルシーを応援したいという想いを捨てきれずにいるので、まるで地方の公立高校で部員が最低人数しかそろってないけど甲子園を健気に目指して地方大会ベスト8あたりで惜しくも敗退した野球部のような、涙ぐましいさわやかな「やりきった感」のある少数精鋭チームというのはなんだか違和感があるのだ。

そんなわけで、オフにアザールが抜けて、移籍ルール違反のごたごたで補強禁止処分が下り、プリシッチがかろうじてルール範囲内で新規獲得選手となり、ほとんど変わらないメンバーで新シーズンを迎えることになったが、ここでこそサッリ監督2年目の「必死のやりくり」を見せて欲しかったのである。何せサッリは元銀行員という異色の経歴の持ち主だから、バランスの悪い条件下における「絶妙な帳尻合わせ」をピッチ上で見せてくれたはずなのである。それが面白くないわけがないだろう。なので、ここでランパードを監督に迎えることがどれだけハンデになっていることか、首脳陣は考えたことがあるのだろうか。

ついでにいうと、サッリの後釜に「レジェンドOB」を迎えるのであれば、なぜランパードではなく、サッリの副官だったジャンフランコ・ゾラを真っ先に指名しなかったのか。どうしてサッリ退任とともにゾラもチームを離れなきゃならなかったのか。「ゾラ信徒」としてはそこも解せないわけである。

というわけで、ここまで読んでくれた方は、「タテイシはランパードを評価していない」と思う向きもあるだろう。

うむ、そこは、とても難しいところであるが、「否定はできない」と述べておく。

実を言うと、私はフランク・ランパードについて、どうしても「表現しにくい何か」を抱えている。ずっと。
とても評価しにくく、何らかの言葉で言い表すことが難しい存在の選手である。

あまりに多くの貢献を果たしたスーパーな選手であることは認めつつ、とはいえ、チェルシーのファンとして彼の監督就任を手放しで喜べるかというと、そうでもない。
私はこの「ランパード案件」がずっとひっかかっていた。どうしても素直にスーパー・フランキーを讃えられない。

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・・・と、以上までの文章を書いたところで、しばらく「寝かせて」おいた。ブログの下書きとして置いておいて、これからどう書こうかとぼんやりと考えつつ、あぁそろそろプレミアも開幕だなぁとノンキに構えていたら、すんでのところでまさかのダビド・ルイス、アーセナル移籍の報道。

これで私にとってはっきりしたのは、「やはりランパードとは分かり合えない気がする」ということだ。まぁ、別に私がランパードと友人になるかどうかが問われているわけではないのだが・・・

ダビド・ルイスと新監督とのあいだに何があったのかについて、もはや私はその報道を追いかける気にもなれないのでよく分かっていない。「能力以上に、キャラ立ち具合」で私はチェルシーの選手を評価してきたので、そういう意味ではダビド・ルイスこそが現在のチェルシーFCをひっぱっていた選手だったから、この移籍にはかなりの失望感を覚えている。そもそもゴール前のフリーキックの場面で「呼ばれてもないのに、自分が宇宙一のフリーキッカーであると言わんばかりにやたら蹴りたがる感を出すこと」で相手GKへのムダな揺さぶりをかけていたあの役割をこれから誰が担うんだよ、ランパードが代わりに蹴るのかよ。

そんなわけで、開幕からさっそく私は新監督にたいして厳しい目を向けてしまうこととなった。チャーリー・ザ・ツナに似ているわけでもなく、どうしたって「レジェンドの香り」しか出てこない精悍な若大将について、このモヤモヤ感を抱えたままシーズンを送ることが今年のテーマになりそうだ。

まぁ、でも、結局な、
DAZNに変わったらプレミアリーグをかつてのような愉しい気持ちで鑑賞することも難しくなっていくんだろうよ。結局そこかもしれない。ブツブツ途切れすぎなんだよネット映像配信は!ほんとに、もう。

 

・・・と、結局いろいろなところに八つ当たりをしている夏の日々なのである。

 

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2019年8月 4日

#ファンの責任マラソン があるので #ファンの責任労働 というのもアリではないだろうか

今年の4月ごろ、あるサガン鳥栖のサポーターが、低迷するチーム状況にたいする自虐ネタ(?)として、Twitter上で「#ファンの責任マラソン」というハッシュタグを投じた。

おそらくそのサポーターも普段はランニングを趣味にしておられるのであろう。いわゆる部活動における「罰走」のようなノリで、愛するクラブが試合に負けたことの「責任」を取って自分が走る(走らされる)という状況を「ファンの責任」として位置づけたわけである。

やがてこのハッシュタグは、「Jリーグ×ランニング」の趣味を持つ多くの「Jサポランナー/Jユニランナー」の人々の琴線に触れ、じわじわと共有されるようになっていった(ように思う)。

もちろん、彼らの多くはもともと普段から自主的に走っているであろう人たちであるが、そうした日々のランニングのなかで、「応援しているチームが負けたときは、責任をとって“罰走”する」という、自虐的なファンタジーをある種のネタとして楽しむことができるわけだ。

このハッシュタグを追っていると、ほかにも「この機会に自分も走ってみようかな」というサポーターのつぶやきだったり、「全国のJサポランナーさんたちとつながれるような気がして楽しい」というコメントが見受けられたりもする。ちょっとした自虐ネタでつながる悲喜こもごもな日々。ふがいないチーム状況を憂う状況から転じて視点をちょっと変えてみると、サッカーファンとしてほんの少し日々の生活を楽しめるコツが、こうして新たに生まれていくのである。

そこで私は思うのだが、この「罰走」としてのマラソンを「労働」に置き換えてみても面白いのではないだろうか。つまり「チームが負けた責任の一部を負ってサポーターが労働に励む」というニュアンスで捉える「#ファンの責任労働」である。まぁ、チームが勝とうが負けようが、日々の労働をがんばるのは社会人として本来当然のこととはいえ、そんなに簡単に毎日がんばることなんてできない。だからこそ、そこの「がんばり」を、愛するクラブの成績にリンクさせてしまえば、苦しい労役のなかでも少しは笑顔になれるエネルギーが得られるのではないだろうか。「このあいだの試合、負けやがってー!」と、苦笑いをかみしめつつ。

「・・・言われなくても、しょっちゅうやってるわ!」っていうツッコミもあちこちから飛んできそうだが(笑)

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