遠藤保仁の引退にあたって
今日、遠藤保仁が引退を発表した。
何か書かねばならないと思った。なので、下書きもなくザッとブログを書いている。
ただでさえ、小野と高原の勇退に感傷的になっていたところへ、このニュースである。
この突然の引退宣言というのも、なんだか最後まで遠藤らしいなと感じてしまう。タイミングをずらし、誰にも予想できない動きを、飄々と。
私はずっと、ひょっとしたら遠藤保仁は、しれっとキング・カズの記録を塗り替えることを狙っているんじゃないかと常々思っていた。だからあと10年ちかくは、いつもの「のらりくらり」とした感じで、サッカー選手として現役を続けていくのではないかと勝手に想像していた。
それに、遠藤はそのキャリアのなかで大きなケガと無縁の、まさに鉄人級のサッカー選手だったという印象があった。とはいえ今回あらためてウィキペディアで彼の長いキャリアを読み返してみると、ところどころでケガや病気の記述があり、なぜかそういう印象とは無縁の人物だと勝手に思っていたことに気づかされた。
遠藤が京都パープルサンガにいた頃、学生だった私はたまにサンガタウンに行って練習を見学していたのだが、若かりし遠藤がファンの求めに応じて気さくにサインをしていた姿を思い出す。私はその頃、サンガの選手からサインをもらうことにはこだわりがなく「いつでもサインはもらえるだろうから」とか思っていたのだろう、結局なんだかんだ遠藤のサインをもらいそこねたまま、25年ちかく経ってしまった。
あの頃、城陽のサンガタウンにいくと遠藤のほかに、カズがいて、松井大輔がいて、パク・チソンがいた。でもその後、それぞれがあのようなスケール感でサッカー選手としてのキャリアを歩んでいくなんてまったく想像していなかったわけで。
そんなわけで、私が近距離で観ていた時期の遠藤保仁は、横浜フリューゲルスでの切ない物語が記憶に新しく、そしてトルシエ監督率いるワールドユース日本代表での活躍から、その後の五輪代表への期待感をただよわせていた、まさに「これから」の時期だった。それでも、あそこまで長く代表キャップ数を重ねるような選手になるなんて、誰も予想していなかったはずだ。
同時代に中田英寿や稲本潤一などと代表でポジションを争う形になったことは遠藤にとって良かったのか悪かったのかはなんとも言えないが、中田を筆頭に海外クラブで活躍することが日本代表メンバーにおいてだんだんと当たり前になっていくという、その過渡期のなかで、ひたすらJリーグを代表する選手として(ときにJ2リーグも闘い)実績を積み重ねて、代表チームの軸として長く活躍したことは、すなわち国際レベルの経験値が毎節のJリーグへ還元されていったとも言えるわけで、そのことは日本サッカー界における多大な功績のひとつだったと思える。
引退と同時に、古巣のガンバ大阪でのコーチ就任が発表され、ふたたびパナソニック・スタジアムで彼の姿が観られるのかもしれないと思うと、私のような単なるミーハーなサッカーファンでもスタジアムや練習場に足を運びたくなるというものである(そういう意味でも、ガンバとしては非常に良い『補強』を行ったと言えるのではないか)。選手じゃない立場になったときの遠藤保仁は、果たしてどんなコーチングをするのか。あの独特のなんともいえないリズム感をただよわせるレジェンドの言動に、若い選手たちはついていけるのか(笑)(←不思議ちゃんな雰囲気の遠藤も私と同じAB型なので、そういう部分で昔から勝手に親近感を抱いている)
こうして自分自身の年齢や過ぎ去った時間を思いつつ、「あの選手とあの選手が、今度は監督として対決するのか」という妄想を、少しずつ楽しみにして生きていくことにもなるのだろうと、あらためて今夜は「ヤット」のことを思いながら、感傷にひたるわけである。
そしてこんな同じ日に、フランツ・ベッケンバウアー氏の訃報にも接することとなった。心からご冥福をお祈りする。
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