教育/Education

2014年6月 1日

夜の公園で、未来のネイマールとボールを蹴った話

友人達が、近所の公園でボールを蹴りましょうと誘ってくれた。

こうして何気なくボールが蹴れる機会を(まったく普段サッカーをしていない人でも)作っていけるようにしたい、というのはかねてから考えていたことであり、二つ返事でオッケーした。

普段めったに運動をすることがない生活を送っているオトナ4人が夜の公園に集まり、本当に単純に「恐る恐るボールを蹴ってみて遊ぶだけ」という、なんともヘナチョコな状況を繰り広げていた。ちなみにボールは、この日はじめて封をあけた新品のものだった。

あらためて簡単なパス回しをしていても、日頃サッカーを「観る」うえでも非常に得るものがあった。いかにトラップが難しいか、いかにグラウンダーでくるボールをダイレクトで蹴るのが難しいか、そして何より、90分走り続けたうえで、最後まできっちりボールを蹴ることのできるプロ選手の体力がいかにすごいか、ということをワールドカップ前にあらためて肌感覚で体験できる機会となったのはよかった。

そうやってすぐに息のあがったオトナたちがダラダラと公園のすみっこで休んでいると、同じ公園でボールを蹴っていた中学生の2人に声をかけられ、試合をしましょうと言われた。
普通に生活していて、子どもたちから一緒に遊ぼうと言われることなんてありえないのだが、サッカーボールを持っているだけで、こういう状況が成立する。突然のことにオトナたちのほうがドギマギしていたように思う(笑)。

こうして、オトナ4人対中学生2人の即席試合がはじまった。

そしてこの中学生のNくんがむちゃくちゃ上手な子で、「ネイマールが好き」と言うだけあって、雰囲気もネイマールっぽい感じで、我々は試合をしているというよりも、その見事な足技とスピードに翻弄されながら、ただひたすら「スゲー!!」と関心するばかりであった。

そうしているうちに、たぶんいつも中学生の子たちとこの公園で遊んでいるのであろう地元の小学生ぐらいの子どもたちが、どこからともなく5人ほど加勢に駆けつけてきて、それがなんだか可笑しくて笑えてきた。昭和のマンガみたいな展開。

で、そこで話し合いの末、この素人オトナチームへNくんに加わってもらい、それで試合をすることに。

オトナたち、ひたすらNくんの名前を連呼して彼にボールを集めていく。
メッシやネイマールなど、一人で突破できる選手を味方にすることの気持ちを味わう。もう、ひたすら彼に頼る頼る(笑)

相手の子どもたちも、ガチでサッカーをプレーしている子たちのようで、バルサだったりレアルだったりのユニフォームを着て、背番号をみるとネイマールだったりクリスチアーノ・ロナウドだったりの名前が入っているので、僕らも「ロナウド!」とか呼んであげると、子どもたちもよりいっそうテンション高く真剣なまなざしでボールを追いかけていくのが印象的だった。

そして私はいつのまにか「ヘタクソなジダン」と呼ばれ・・・(笑)

試合が終わって(我々が負けた)、すっかり遅くなったので子どもたちを急いで帰らせる。
つい私は子どもたちに「年を取ったら体が動かなくなるから、今のうちに思いっきりサッカーを楽しんで!」と肩を叩いて声をかけていた。

「おれたち、オトナを相手に勝ったんやでー!」と家族や友人に自慢してくれたら嬉しい。

ネイマールなNくんは、よく聞けば京都のクラブチーム、ASラランジャに所属してプレーをしているとのこと。そりゃあガチで上手なわけだ。それでも自分のプレーぶりを鼻にかける雰囲気もなく、謙虚で礼儀正しい少年であり、我々オトナたちはすっかりNくんのファンになっていたので、自転車に乗って帰っていくNくんに向かって、私は衝動的に(例のマラソンの応援のように)彼の名前をコールして送り出した(←近所迷惑な話 笑)。

我々オトナ4人は、Nくんにとって最初のサポーター集団になったのかもしれない(笑)

普段そこまでサッカーを観ない友人は、こうしてラランジャというクラブチームのことをはじめて知り、Nくんの行く末も応援したくなる気持ちになっていた。これこそがJリーグのいう「百年構想」の芽生えみたいなものかもしれない。地元のチームで育つ子どもたちが大きな舞台へ挑戦していくプロセスをみんなで見守っていける環境づくりがJリーグの目指すところであり、そのワクワク感や面白さをリアリティをもって実感することができた出来事だった。

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2012年9月25日

映画館でマジ泣きしながら観た『コッホ先生と僕らの革命』に、日本のサッカーファンとして心からの「ありがとう」を伝えたい

Kakumei

ドイツにおけるサッカーの創始期を描く、史実に基づく映画である。
1874年。イギリス帰りのコッホ先生が、サッカーボールを手にドイツに戻り、名門校で英語を教えることになる。

規律と服従を重んじるドイツ式教育のなかにあって、「自主性」と「フェアプレー精神」と「仲間を大切にする気持ち」を育みたいと思い、コッホ先生はイギリス留学中に出会ったあたらしいスポーツ、サッカーを通した授業を取り入れる。

ただしサッカーは国民教育的観点(またブルジョワ的価値観)からみると「野蛮」なものであり、従来の体育教育にはそぐわないものとして、同僚の教師や教育後援会の圧力によりコッホ先生とサッカーは排斥されようとする。

そうして学校ではサッカーが「禁止」となり、こっそりやっていた校外でのサッカーもバレて禁じられていく。しかし最終的に、国からの「視察」というイベントが契機となって、サッカーというスポーツが教育現場で活用できるかどうかという判断がされることになり、生徒たちの知恵と努力で試合にこぎつけるところが物語のクライマックスであるわけだ。

この、勇気ある先生と子供たちの存在があったからこそ、ドイツでサッカーというスポーツがはじまったのだという想いで映画をみると、もう映画の序盤から私は『探偵ナイトスクープ』における西田敏行みたいな状態になっていた・・・最初にコッホ先生が学校にサッカーボールと荷物をかかえて現れるシーンから・・・この一個のボールから、その後の100年後の状況を想うと、もう、涙腺がグワ~~っと。「早すぎ!」っていう(笑)。

そしてなにより、サッカーを通して培われていくフェアプレーの精神や、親や先生に服従するだけでない、ひとりひとりが自主的に考え行動する「フットボール的精神性」が、普段の生活の中でも活かされるのであるというメッセージがこの生徒たちの変容や成長を通して描かれているのであり・・・もう映画の中盤あたりからスイマセン、いい年こいて、たまらず涙と鼻水が流れたままで・・・(笑)

コッホ先生が公園で生徒たちに「想像してみてほしい、あらゆる街にサッカーチームができて、みんなが試合を楽しみにするような世界を」と呼びかける、そのシーンが印象的で・・・(この、この状況がですよ、仮にフィクションであったとして、そんなセリフが当時語られていなかったとしても)このコッホ先生の想いが実を結び、サッカーの魅力に感化された生徒たちを始まりとして、やがてドイツにサッカー文化をもたらし、そこからあらゆる地域における総合的スポーツクラブの伝統を生み・・・そしてクラマーさんが日本にやってきてこの国のサッカーの近代化に尽力した縁で、そのドイツの状況を現地で目の当たりにした日本の先人たちの「感動」が、その後の20世紀末の日本にJリーグを生み出す「原動力」へとつながっていった歴史を想うと・・・この今のJリーグの姿を、コッホ先生や「サッカーって、なんだそれ?」って最初は不思議そうな目をしていたあの生徒たちに見せてあげたい・・・「すべては君たちの勇気のおかげやぞ!」・・・と思うと、もうダメです、涙が止まらなかった。

このときのコッホ先生の想いが、そのまま100年を越えて、まさに僕らの日常にまで届いていること。サッカーを愛する我々が今まさに生きている世界をも含めて捉えうる壮大なストーリーの「原点」に、あらためて最大級の「ありがとう」を伝えたくなる映画である。

なお、全国で公開中だが上映されている映画館が限られており、そして非常に残念なことに「京都シネマ」ではパンフレットが売り切れだったので買えず、再入荷もないとのこと。なので私の知り合いのかたで、もし映画館でこの作品のパンフレットみつけた方はぜひ僕のぶんも買っておいてほしいですマジで!!

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2012年5月11日

フットボールクラッキ「ジュニア世代に求められる日本の育成環境とは!」

最近スカパーで放送されるようになったサッカー番組『フットボールクラッキ』が熱い。
「どうやったら、もっとサッカーをとりまく世界がよくなるか」という問題意識が徹底的に根底にあって、つまりは「容赦ない」。現状の地上波ではおそらく無理なのであるが、せっかくここまで有意義なコンテンツがあるのなら、こういうものこそ地上波でたくさんの人の目に触れて欲しい・・・と今回の「ジュニア世代に求められる日本の育成環境とは!」の回をみてよけいに思う。

今回は、育成年代のサッカーコーチとして最近注目されている池上正さんの指導方法や理念をめぐる内容がメインテーマ。

たまたま最近、池上さんの『サッカーで子どもの力をひきだす オトナのおきて10』という本を読んだのだが、これはサッカーのための本ではなく、正真正銘の「教育」の問題を扱っている本なのだと思えた。自分はいま子育てをしているわけではないのだが、子どもと向き合ううえでの「ちょっとしたこと」のなかに、いろいろな可能性を伸ばしたり、あるいはその可能性を潰えたりさせるものがたくさんあることを痛感させてくれる。サッカーは「たとえ話」に最適なツールなので、教育という枠組みで起こりえる大人と子どもの関係性は、そのままフィールドのうえのボールを通したやりとりに反映させて考えることがしやすい。サッカーの指導法をとおして、ひろく「子どもと大人の双方にとって、『成長』とは何か」ということまで考えさせてくれる本であった。

番組のなかでも、池上さんは「サッカーをうまくなるために、苦しいことに耐えてがんばらないといけない、と思われているけれども、それは絶対にない」と言い切っている。とくに年少児においては、技術よりもまずなにより「サッカーが楽しい」と思ってもらえることが大事なのである。楽しくなければその次につながらない。まずはそこが生命線となる。

そして「絶対に叱らない。褒める」というのも池上さんの重要なスタンスだ。
「ミスや失敗を見つけ、指摘するのは大人にとって一番簡単なこと」といい、そして「何よりミスをした本人がそのことを一番よく分かっているのだから、あえて大人がそこをさらに突いても、本人がヘコむだけ」と。そうではなく「チャレンジして失敗して、そこからいろいろな解決法なり突破口があること」をいかに「自分で考えられるように」指導者が子どもをエンパワメントしていけるか、が大事なのである。つまりは「問題解決への思考力、創造性」の育成にこそ指導者は注力すべきであって、そこをベースにして「さらにサッカーがうまくなりたい」というふうに大きくなっていく子どもにたいしてプレー技術や戦術を身につけさせる・・・というのが理想的ではないか、ということだ。

これって、もはやサッカーだけじゃない。もっとも根本的なところで、目指したい「教育」のあり方であろう。

ジェフ千葉のスタッフとしてオシム監督の薫陶を受けたこともある池上さんは現在、京都サンガの育成スタッフとなっているため、番組のなかでも京都の小学校へ訪問授業に出かけている様子が紹介されていた。そこでは小学生にたいしていきなり「サッカー」をおしつけるのではなく、まずは「コミュニケーション力を向上させる遊び」からはじまり、「仲間をつくり、仲間と協力して動くことの楽しさ」を味わえるようなプログラムで授業を進めていたのが印象的であった。授業のなかでたびたび起こる問題(最初に決めたルールを破る子がでてくるのをどうするか、集合の声を聞き入れてくれない子たちにどうしたらすぐ集合してもらえるようにするか)といったことを子どもたち自身が解決できるように粘り強く働きかけ、そうしてコミュニケーションを深めたうえで、そこでようやくボールをつかってサッカーのプレーを実践していくようにしていて、サッカーが好きでもない子どもでも一緒に楽しめるような内容を工夫していた。

ここで行われていることは、このブログを通して私が考え続けたいテーマそのものと同様、「サッカー」と「人生」とか「社会」とか「人間関係」とかが融合しているステキな営みなのである。もはや池上さんはあの子どもたちにサッカーを単純に教えているわけではないのだ。サッカーは単なる道具として、そこから「自分の頭で考え続けること、創造性を発揮すること、自分で自分を成長させること、失敗を恐れないこと、挑戦する意欲を持つこと」といった、人が社会のなかで生き続けるうえでたくさんの大切なことを共に考え学ぶことを目指している。そのうえでサッカーは、他のスポーツと比べて圧倒的にシンプルであり、道具も少なくて済み、プレイする場所にも制約を受けにくいという利点があるために、教育的ツールとしても(娯楽としても)重要な役割を担っていくと思うわけだ。

いずれにせよこの「教育としてのサッカー」については、何度も書き続けるテーマになるだろう。

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2012年3月27日

子どもの教育上良くないガンバ大阪の監督人事

セホーン監督は、そもそも呂比須ワグナーの監督招聘プランがJリーグから不許可になったから、「仕方なく」呼んできた監督なわけだ。
で、公式戦5連敗で監督を解任するのはしょうがないとしても、ヘッドコーチに据えていた呂比須までクビにするっていうのが、筋道としてどうにも腑に落ちない。それだと「西野監督を切ってまで呂比須を監督に」というそもそもの最初のアクション自体の意図は何だったんだと怒り出す人が続出してもしかたない。引き続きヘッドコーチを呂比須に担当させて、そのうえでチームを指揮してくれる監督を再び探す、っていうプランはありえないのか?

プロの世界のこととはいえ、私は常々、こうした「人事をめぐるあれこれ」について、「もうちょっと、子どものファンの目線も意識して行動してほしい」と思っている。
そりゃあ、プロは厳しい。社会も厳しい。それでもなお、プロスポーツの世界においては、次世代への教育的観点をかなぐり捨ててまで、勝ち負けと金の問題に執着するオトナの醜態をさらしまくってほしくないのである。ましてやサッカーなのである。もっともこの世で「教育的可能性を秘めたスポーツ」なのである。

なぜセホーンが解任されたら、呂比須まで一緒に解任されないといけないのか? ヘッドコーチとしての実力が足りなかったからか? ヘッドコーチの力量って5試合の結果で判断されるような要素がどこまで仕事としての範囲内でありえるのか? では、なぜ最初に呂比須を招こうとしたのか? その意図は? その責任は誰が取るべきなのか?
・・・といったことを、私はもし子どもに問われたとしても、今はなんとも答えようがない。

思い描いていた結果にならないと、このような「むちゃくちゃな判断」がまかり通るということを、子どもたちに学習してほしくないわけだ。
粘り強く、筋道を立てて試行錯誤していくような姿勢、それこそがそもそも「サッカー的な打開方法」ではなかったのか。

そう思うと、悔しいけどアーセナルFCのベンゲル監督への信頼感や、それを支えるサポーターの雰囲気といったものが輝いて見えてくる。たとえ目先の結果が伴わなくても、サポーターやフロント陣は、ベンゲルと同じ目線で、自分たちのクラブの若手選手がどんどん育っていく過程や彼らの未来への可能性を一緒に追求してワクワクしているのである。そしてそれこそまさに教育的でもある。

ちなみに、セホーンの後任として松波がヘッドコーチから昇格したことは、一方では興味深い雰囲気を漂わせている。
というのも、現役時代の後期の松波の姿は、後半途中から流れを変えるために投入されることが多い印象があって、まさに今の状況も同じように思えてくるからだ。ガンバ大阪史上有数の劣勢なる展開において、かつてと同じように、静かに寡黙に表舞台へと勝負していく松波の姿に注目だ。

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