歴史/history

2022年3月12日

いまチェルシーのファンとして言いたいこと

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 ロシアのウクライナ侵攻に伴い「オリガルヒ」と呼ばれる大富豪の資産について英国政府は資産凍結や渡航禁止措置の制裁を取ることになり、チェルシーFCのオーナーもその対象となった。日本の片隅にいる私はただでさえ年度末でクソ忙しい日常のなかで、はやく収まってほしいと願う戦争のニュースとともにまったくクラブの状況が追い切れていないなかで、焦燥感を覚えつつ今、この文章を書いている。状況は刻々と変わるだろうから、このブログで正確な情報を提供することは難しいことを前提でおつき合いいただきたい。

 自分の知る限り、まず最初にアブラモビッチがチェルシーの所有権を手放して、他の管理団体に運営権を渡すと発表したのだけれども、今回の政府の制裁により、自由にクラブを売却できなくなって、かつチケットやグッズ販売、選手契約とかの営業的な活動ができなくなる、とのこと。さすがに試合はできるように政府から「特別ライセンス」が付与されて、チームとしての活動はできるものの、そもそも「商売」の部分が取り上げられたらクラブは今後どうなるんだ、というのが現時点での話(合ってる?)。

 ところでちょっと話がそれるが最初のアブラモビッチの発表のときのニュースであらためて知ったのだが、クラブ側がアブラモビッチにたいして莫大な負債があって、その返済もチャラにしますみたいな意向が報じられていた。でもこれって会計上では世の中で普通にあることなんだろうか。クラブは利子をつけてオーナーにお金を返しつつ、オーナーは自分の利益をクラブに再投資し続けていたり、さらにお金をクラブに貸し付けているわけで、そもそもこういうお金の流れってセーフなんだろうかとフト思ったり。会計的なことにまったく疎いので詳しい人に教えてもらいたいのだが。

 で、そもそもアブラモビッチ氏がどういう経緯で大富豪になっていったかとかの話を引いてきて、もともとがダーティーなお金で成り上がり、そういうお金でチェルシーというクラブが強くなっていったのだから、チェルシーファンは自らのアイデンティティに苦しんでいるだろうみたいな論評もネットでみた。これについては「はぁ、そうですか」としか言えない。もし仮にアブラモビッチに買収されたあとの2003年以降のすべてのタイトルが「無価値」なものにされたりトロフィーが没収されたとしても、サッカーの現場において存在した、幾多のリアルな出来事は不変であり、「勝ったり負けたりの楽しさや記憶」までを奪われる筋合いはまったくない。2012年のCL準決勝でバルセロナ相手に決めたトーレスのゴールを思い起こすたび、あの無人のゴールへ転がっていくボールの軌跡には70億円相当に見合う価値があったのだと腑に落ち、たとえあれがダーティーなカネであろうが、あのときの強烈な快楽の共有、そして腹の底からの
「ざまぁーーみろ!!」
の背徳的なまでの爆発的な感情の吐露、それはサポーターたちにとって永遠のものなのである。
 
 さて2003年にアブラモビッチがチェルシーを買収した際に、アーセナルのベンゲル監督が「彼らは宝くじに当たったようなものだ」とコメントしたことを覚えているだろうか。当時私はなぜかその発言が印象に残っていて、その頃からはじまるチェルシーの豪華な補強の数々を目にするたびに、ベンゲルの言葉を繰り返し思い起こすこととなった。なるほど、そうか、これは宝くじに大当たりしたようなものなのだという認識は、そのあともずっとあった。

 なので私が以前このブログで「あなたがチェルシーのサポーターにならないほうがいい10の理由」という記事(こちら)を書いたとき、

このあたりのスリリングさは今後も続いてくだろうし、ある日突然、アブラモビッチがチームから手を引いて大混乱に陥って、崖から一気に転がり落ちていく危険性もあるわけで、そういう日がくることを・・・実は心のどこかで「怖いものみたさ」で期待してしまう自分もいたりする。

このように書いたのは、私のなかでずっと「いまは宝くじに当たって散財している状態」としてチェルシーを応援してきたことに由来している。そう、いつかは宝くじの当選金も尽きてしまう日がくるだろう、そういう思いがずっとあった。

 ただし、(1)このような事態がきっかけとなってクラブの経営危機が起こるとは想像していなかったことと、(2)よりによってこのタイミングかよ、というのが私の今の気分である。まず(2)については、つい先月このクラブは世界最高峰の栄誉に浴したばかりであり、どうせ世界中のサッカーファンやマスコミからはすぐに忘れられるだろうから大声で言っておくが、現時点では「地球上で最も優れたサッカークラブはチェルシーFCです」と断言してもこの1年ぐらいはまったく差し支えない状態なのである。そんなクラブがたった一ヶ月そこらの間にグッズ売場までもが閉鎖させられるような仕打ちを受けているのであり、この圧倒的な落差を劇的なまでに仕立て上げられるストーリーが、将来このクラブの歴史を振り返るときに繰り返し語られるのかと思うと正直ゲンナリする。

 そして(1)については、これは国際情勢を把握していないとなんともいえない複雑な事態であり、何かを言うことに難しさを覚えるが、それでも今チェルシーのサポーターである自分として感じていること、特に英国政府に対して言いたいのは、オーナーが制裁を受けてクラブ経営が縮小を余儀なくされたり破綻したりプレミアリーグから強制的に降格させられようが、そして我々の愛するクラブが「ダーティーなマネー」に満ちていたことを痛感させられようが、それを踏まえても今、最も目を向けて優先してほしいことは、ウクライナとロシアの民間人が無用な殺戮や刑罰に巻き込まれないようにすること、人道的支援を拡充すること、環境汚染の拡大を防ぐこと、そこに向けての政治的な働きかけを全力で追求することだ。

 私にとってサッカークラブの消滅危機は二の次だ。そして付け加えるなら、クラブは消滅できない。何があろうとも、サッカークラブの本質は壊滅させられた焦土のなかにおいても必ず芽吹いて空をめざすようになると思っている。そして当然ながらウクライナにもロシアにもチェルシーのファンがいるだろう。サッカーには、政治的指導者が固執する古くさい国民国家の枠組みなどでは到底乗り越えることができないスケールの連帯と多様性と力強さがある。そして、その気になれば国境を越えてチャントを見事に合唱できる。

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2021年8月12日

世界屈指のパンク系サッカークラブ、ザンクト・パウリ:スタジアムめぐり旅2014・ふりかえり(その10)

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 ハンブルグには、HSVというブンデスリーガの歴史を体現する伝統的なビッグクラブがあるとともに、ザンクト・パウリというユニークな雰囲気を放つサッカークラブがあるわけで、この旅で必ず訪れたかった憧れのチームでもある。

 HSVのスタジアムがあった郊外の大きな公園エリアから、再びハンブルグ中心街に戻ってきて歓楽街レーパーバーンへ向かう。「世界で最も罪深い1マイル」と呼ばれ、ブレイク前のビートルズが方々の店をライヴで回って修行をしていたことでも知られるこの界隈がザンクト・パウリのホームタウンであり、この立地の時点で同クラブの存在感が際だってくる。

 例えると東京だと新宿歌舞伎町、大阪キタのエリアだと北新地とか東通り商店街の付近にザンクト・パウリのスタジアムがあるようなもので、そこからだとHSVが7kmほど離れた先、つまり駒沢オリンピック公園とか鶴見緑地にあるような、そういう距離感である。つまりザンクト・パウリは大都市中心部における歓楽街近くにサッカー専用スタジアムを構えるも、歴史的にはあまり1部リーグには定着できないが、多くの熱いサポーターから支持を集めて世界的にも知名度を誇っているという異色のクラブである。
 
 ただ、私がこの罪深い1マイルでやったことといえば大衆食堂でカツレツをいただいたことぐらいである。せっかく海辺に来たのになぜカツレツなのか。
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 ▲あとで調べたらシュニッツェルという、ドイツ・オーストリア圏でポピュラーなカツレツ料理。

 ちなみにこのレーパーバーンに、ザンクト・パウリのグッズショップが展開されていて、週末は夜23時まで営業しているとドアに書いてあった。大して強豪クラブでもない(失礼)チームのショップが繁華街の大通りでわざわざ(客層に合わせて?)夜遅くまでまで店を開けていることにちょっと驚かされる。深夜にブラブラする客が地元サッカーチームのグッズをどれだけ必要としているのか、そして遅い時間まで店を開けることのコストが回収できているのかどうかも心配になってくる。でもきっと、ここで店を続けることは、コミュニティに強烈に結びついているクラブとしてのあり方を「表現」することなのかもしれない。

 そういう雰囲気は平日のスタジアムに行ってもそれとなく感じられたのである。

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 ▲ついにたどり着いた、ミラントア・スタジアム。名前の響きがいい。

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 ▲なぜか巨大なイカリがそこかしこに置いてあって、港町ハンブルグ感を演出。

 社会問題に積極的にコミットしていくクラブの姿勢が、あちこちに貼られたポスターでうかがえる。
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 ▲おそらく翻訳する限り、青少年への啓発運動か何か。

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 ▲反差別、反ファシズム。

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 ▲これはサポーターの貼ったステッカーか、難民への連帯。

 ただしハードコアな雰囲気のパンクなフットボールクラブでありつつ、子どもたちにもどんどん来てちょうだい、ということで、
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 子ども向けスタンドが確保されている様子。

 そして感じ入ったのはスタジアムの壁面に、サポーターの写真をおおきく掲げていたことだった。

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 こういうのは、なかなかステキな演出だと思う。本人たちも記念になるし。

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 ▲それにしても、わざと放置しているのか自然発生なのか、やたらグラフィティで落書きされたりステッカー貼られまくりの事務所近辺。

 そしてスタジアムの裏手から入るミュージアムが開館されていた。雰囲気的に、ボランティアさんたちで運営されているような感じだった。
 
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 館内はすべてドイツ語オンリーで説明が書かれていて、正直内容は分からなかったけれども、クラブの歴史についての資料展示が充実していた。

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 ▲この図がとてもいい雰囲気でポストカードにしてほしかったぐらい。

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 ▲子どもたち向けのコーナーもあったり。

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 ▲来場者の記念撮影コーナー。

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 ▲ここぞという昔のワンシーンを展示するにあたり、この写真を選ぶセンス。これこそまさに、っていう。

 しっかりと展示内容を追っていければ、この小さなクラブがいかにして地域に根付いて、そこからいろいろな社会運動へのアクティビズムと連動していき、独自のアイデンティティを築いていくようになったかが分かったのかもしれない。
 試合のあるときに再訪したら、その雰囲気をさらに味わえるのだろうし、それは将来に向けてのお楽しみに取っておきたい。
 
 で、スタジアム併設のショップに入る。
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 ▲期待を裏切らないクールな店内。そして公式エンブレムよりも頻発するおなじみのドクロマーク。

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 ▲見せ方がかっこいい。

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 ▲かわいいけど、ドクロマーク。徹底。

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 ▲試着室の中。バンドのライヴポスターを貼るっていう、これはやはりこのクラブだからこそな感じがする。

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 ▲そしてここで私はユニフォーム買いました。この当時のデザインがスポンサーロゴを含めて超絶かっこよかったので。

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 ▲なぜかドクロマーク入り、しゃもじ?までグッズに。

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このように、他にもグッズが売られていたわけだけど、8割ぐらいドクロマーク入りだった。
・・・で、私、正直なところあまりドクロマークが好みではないので(爆)、そのおかげで買い物欲がほどよくセーブされました(笑)。

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▲ちなみにこちらが、レーパーバーンのほうにあるグッズショップ店内の写真。スタジアムからそんなに遠くない距離に、同じようなクールなお店を二つ持っていることになる。

宮市亮がこのクラブに加入するのが、当時の旅から一年後のことで、日本人としては2人目になる。残念ながらケガの影響などで満足に出場し続けられたとは言いがたいが、かなり長くこのクラブにお世話になっていたということは、それなりに居心地がよいクラブだったのだろうか。
ともあれ、今度来るときはぜひ試合を観てみたいと強く願っている。

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ハンブルグはそれでなくても観光地としても魅力的であり、わずかな時間だったが港周辺の雰囲気を堪能させてもらう。

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▲そして最後に、意地でも魚を食べようと、港を眺めつつサンドイッチにかぶりつく。

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2021年5月23日

ブラウンシュヴァイク・ドイツサッカーの故郷:スタジアムめぐり旅2014・ふりかえり(その7)

私のこれまでの人生において、映画館で観ていてもっともボロ泣きした作品が、2012年に観た『コッホ先生と僕らの革命』である。

これはドイツにはじめてフットボールというスポーツを紹介しようと奮闘したイギリス帰りの教師と、その教え子たちをめぐる映画なのだが、「この人たちのおかげで、やがてドイツのサッカーが隆盛し、それをお手本にして日本のサッカーも発展していったのだ」と思って観ているうちに、最後のクライマックスのときは(そこまで感動するシーンではないはずなのだが)先人たちへの感謝の念とかがわき起こり、涙がドバドバと止まらず鼻水ズルズル状態になってしまったわけだ。(当時このブログで書いた同作品についての記事は→こちらへ

※でも改めてウィキペディアで調べると、歴史的には実はこのときコッホ先生が紹介したのはサッカーではなくラグビーのルールだったという説もあったりで、私の涙の行方も肩すかしな気分になったりもするが・・・

で、この歴史の舞台となったのが、ブラウンシュヴァイクであり、同地のサッカークラブ、アイントラハト・ブラウンシュヴァイクは当時1部リーグから降格してこの夏から2部で再挑戦するという状況だった。

映画を観て間もない時期だったこともあり、この「ドイツサッカーの心の故郷」とも言えるブラウンシュヴァイクは、今回の旅では必ず訪れておきたい街だった(本当はもっと事前にがっつり調査をして、ゆかりの場所とかを特定していくこともできたはずなのだが、それは次回の課題ということで・・・)。

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ホテルの前。

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▲日本のビジネスホテルであれどこであれ、自分が泊まったホテルの部屋に飾ってあるアート作品はかならず写真に収めるのだが、このときのクリムトの絵は、旅情をかきたてられてグッときた。

駅からホテルまでの界隈は、それなりに普通の街だなーと思っていたのだが、さすがにドイツはだいたいどこも旧市街のゾーンでその歴史的味わいをこれでもかと見せつけてくる。
今でも思い返すに、このブラウンシュヴァイクは普通に観光でゆっくり再訪したいぐらい、とても独特の味わいが充ち満ちていた。

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▲微妙なバランス感覚で成り立っていた建物。

あと、最初この建物の前を通ったときに、どうしてたくさんの人が出入りしているんだろうと思ったのだが、
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入口に近づくと、実はこれはショッピングモールだった。中は普通にモールだった。この旅で初めて出くわした「巨大なモール」だったので、しばらく歩き回った。なぜか店内で一枚も写真を撮っていないので、おそらく当日すごくテンションが高ぶっていたと思われる。

そんなわけで、旧市街地の雰囲気がとてもよかった印象しかないブラウンシュヴァイクであった。

で、翌朝は中心部から少し離れた場所にあるスタジアムにバスで出かけた。

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スタジアム前は集合住宅が並んでいたが、このカラーリングがまた良い。

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陸上競技場併設型の、のっぺりした感じのスタジアムだった。

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ちょうど学校の遠足みたいなノリの子どもたちと同じタイミングでファンショップへ入店。

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で、ここでも良い感じのTシャツがいくつかあったのだが、私はこの旅でザンクト・パウリFCのショップでおそらく大量のグッズを買うことが予想されたので、「あまりムダにモノを買わない」と自制していたのだが、それも今思うと「我慢せずにたくさん買って途中で郵送で送っておけばよかったんじゃないか」と思ったり。
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こういうマイナー系クラブのシャツに限って、なかなか見応えのあるデザインだったりする。

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エナジードリンクのデザインも可愛らしい。

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そしてこの頃から徐々に気になってきたのが、この「洗面台の排水口のフタ」である。どこのクラブでも公式グッズになっていたのだが、最初私はこのグッズの使い方が分からず、こうして(わざわざ)洗面台とセットに展示してあったのを初めてみて、ようやく意味が理解できたのであった。この部分についてはドイツ国内はどこも規格が一緒なのだろうか?

もっと下調べをしていけば、「ここがドイツサッカー発祥の地です」みたいなものを示す史料に触れることができたのかもしれないが、少なくともこのスタジアムの周りにはそういう雰囲気はなかった。それはまた今度訪れるときに備えての宿題ということで、このあと私はブレーメンに向かった。

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▲ 一人だとカフェに入るのも勇気がいるが、この街の「居心地のよさ」がそうさせたのか、ちょっと休憩がてらにカフェラテを頼んでみたり。するとカップの形のとおり両手で持たないと飲めないぐらいの分量で(FAカップかよ!)、日本で飲む3杯分ぐらいあって、うろたえる。

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2020年4月21日

本当にどうでもいい話かもしれないのだが

こんにちは。

ひきつづき先の見えない生活が続いていて、張り合いのない日々ではあるが、そんななかコネタを。

最近DAZNでは過去のプレミアリーグの名勝負などが随時配信されていて、そのなかで1994-95シーズンにおけるブラックバーン・ローヴァーズの優勝決定の試合があった。

いまは2部リーグにいるが、トップ・ディビジョンがプレミアリーグとして新設された1992-93シーズンから、2004-05シーズンにチェルシーが優勝するまでの間は、「マンチェスターUとアーセナル以外でプレミアを制した唯一のクラブ」として特異なポジションを誇っていたわけで、近年のレスターほどではないにせよ、この優勝はなかなかレアなものと言える。

この時代のことはまったく知識に乏しく、ブラックバーンにはアラン・シアラーがいて活躍したことぐらいしか知らなくて、映像をみていると元チェルシーのグレアム・ルソーもこのときの優勝メンバーだったことを今回はじめて知った(つまりその後のルソーがチェルシーに長く在籍していたあいだは、チームのなかで数少ないプレミアリーグ優勝経験者だったことになる)。

 

で、そんな昔の試合映像をダラダラと眺めていると、思いもがけない発見があった。

 

ブラックバーン・ローヴァーズFCといえば、このエンブレムである。

Blackburn

そう、バラである。

設立が1875年とのことでイングランドでも古いほうになる。調べたらエンブレムもいろいろな変遷があったようだが、チームの位置するランカスター地方を代表する花が赤いバラとのこと。イングランドのクラブは紋章風のエンブレムが多いので、こういうビジュアル直球型のデザインはやや珍しいとも言える。ちなみに下に書いてあるラテン語は「技術と労働」という意味。ArtとLabourか。


そして、

この奇跡の1994-95シーズンにおいて、ブラックバーンのゴールマウスを守っていたキーパーというのが・・・



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「フラワーズ」さん、なのである。

 

すごい、と思う。

 

見事なオチだ。

・・・すごくないですか?

Flowers

「フラワーーズ!!」

 

     ( し つ こ い ? )

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やー、素直に感動しましたよ、ワタシは。

そういうことってあるんですね、と。

外出自粛のなか、ひとりで家にこもりつつも、こういうネタは大事にしていきたいのである。

 

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2020年3月20日

こういうときに備える意味でも、Jリーグの「歴史」を共有できる機会を創出できないだろうか

 コロナウイルスの関連で世界中のサッカーも影響を受け、Jリーグの第2節以降やルヴァン杯も延期になっている。

 こういう事態に備えておくという意味でも、株式会社Jリーグ(今年からいろいろ関連企業が再編されたのでこの呼び方で間違っていないはず)は、多様な世代のファンに、たまには過去を振り返る時間を提供すべく、それぞれのクラブにとっての歴史を語り継いでもらえるような仕掛けを積極的に展開していくことも自らの使命として検討してほしいと常々思っている。
 たとえば過去の試合映像のデータを、何らかの手段でファンが気軽に共有できる仕組みがあればと妄想する。そうでなくてもDAZNというパートナーがいる今であれば、過去の試合をふりかえるような番組づくりのために投資することもできよう。そうやってコンテンツさえ届けば、あとは個々のサポーターがそれぞれに創意工夫でもって有効活用していく。
 
 イングランドで特徴的なのは、試合当日にあちこちで販売されるマッチデープログラムに必ずといっていいほど大昔の試合やレジェンド選手の記事が混ざっている。イギリス人は「統計記録好き」と言われているが、それゆえになおさら過去からさかのぼる記録へのこだわりが顔を見せるのか、やはり100年以上もサッカーをやり続けているとネタには困らないわけである。どこのクラブでもプログラムは一冊の分量がとても多くて、よく毎試合こんなに書くことがあるよなと感心するが、その記述の分厚さが歴史的な記憶を語り継ぐためのツールとなっていて(そしてサポーターは家でそれらを保管しているわけで)、こうして次の世代へと過去の名勝負は伝承されていき、絶対に負けられないライバルへの執念もひきつがれていく。
 しかしJリーグだってよく考えたらもう27年、四半世紀以上もやっているのだ。地域づくりという観点で始まったJリーグは、人々の「空間的つながり」を拡げていくことに成功していったわけだが、それに加えて、これからは過去から未来という「時間的なつながり」を構築していくことが求められる段階になっているのではないかと思う。記憶に埋もれた名勝負・ファインプレーの数々を掘り起こす作業は、今のような「忍耐が求められるとき」にこそ、当時の映像を囲んでじっくりと共有できれば愉しいはずだ。

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2019年3月18日

『フットボール批評』23号「川口能活とポーツマス」を読んで、久しぶりにあの街のことを想う

 最新号の『フットボール批評』23号に、「川口能活とポーツマス:かつての友人たちから親愛なるヨシへ」という6ページの記事が載っている。昨シーズンをもって引退した川口が以前在籍していた、ポーツマスFCにゆかりのある人物を訪ね、当時の川口との思い出をたどっていくという、小川由紀子氏によるこのレポートに私は感銘を受け、これだけでも今回の『批評』は買う価値があると思った。

 2001年から始まる川口能活のイングランド挑戦を振り返るときに私がまず思い出すのは、川口が渡英した直後にスカパーが当時2部のポーツマス戦の生中継を敢行したことだ。翌年のW杯を控えて日本代表のゴールキーパーが初めて欧州に挑戦するということで話題性は高く、2部チャンピオンシップリーグの試合が生中継で観られることそのものにまずは興奮したわけであるが、実際にフタを開けてみると、こともあろうに川口はスタメン出場ではなかった。「主役不在の試合」を当時の実況・コメンタリーがどのように苦慮しつつ進行していたのか、そこまではさすがに記憶がないのだが、イングランドの港町で繰り広げられる、まったく馴染みのない選手たちによるフットボールが展開される様子を眺めながら、歴史や伝統といったなんともいえないものに阻まれたかのような「壁の高さ」を感じた記憶だけは残っている。

 そのあとのポーツマスの印象としては、プレミアリーグに昇格してシャカ・ヒスロップというゴールキーパーが登場するやスタメンを張り続け、ついぞ川口はイングランドで輝きを放ったとは言いがたいわけである。

 それが、今回の『批評』の記事を読むと、川口のポーツマスでの日々が不遇だったとされる「歴史的認識」を違う角度から改めさせてくれたのである。
 細かいことは実際の記事をぜひ手に取って読んでもらいたいのだが、確かに川口個人としては活躍を残せたとは言いがたかった日々ではあるものの、スタッフたちや地元サポーターにとって、川口能活と過ごした日々がいかに素晴らしかったかということが、この記事を通して伝わってくるのである。アジアから来たキーパーにたいしてどれだけポーツマスの人々から愛情が注がれていたのか、その「記録や数字だけでは測れない何か」を今に至るまで残し続けていることに胸が打たれたのである。

 そもそも振り返れば川口というキーパーは、体格のハンデをものともしない「神がかったセービング」で強いインパクトを残し続けた選手である。そう思うと、記録や数字を越えた何かを彼は体現しつづけていて、そのひとつにポーツマスでの日々があったのかもしれないと思わせる。

 そして何より、このイングランド南部の港町については個人的にも感慨深い思い出があるがゆえに、なおさらに今回の記事であらためてポーツマスという街のことを繰り返し想起している。

 それはすでに川口も退団したあとの2009年12月のことで、プレミアリーグで奮闘していたポーツマスFCのホームゲームを観に行く機会があったのである。

 たどりついたスタジアム「フラットン・パーク」は、海からの潮風に絶えず吹きさらしにされてきたような、ある種、期待を裏切らない寂れ感があった。よけいな飾りたてもなく、あらゆる設備が必要最小限で済まされていて、時間の流れとともに少しずつ綻びながらたたずんでいる感じに、この国の人々の「アンティークを尊ぶ価値観」が表れているようにも思え、このスタジアムもまたそのひとつだと感じた。

Portsmouth

 晴れた日で、私が座っていた場所はコーナーフラッグ寄りでピッチの対角線上に位置していた。ポーツマスにはカヌやクラニチャルらが在籍していて、対戦相手のリバプールにはジェラードやトーレスがいた時代である。当然ながら試合の具体的な中身については記憶の彼方にあるのだが、特筆すべきは、この試合を2ー0で制したのはポーツマスの側だったことだ。そして2点目を決めた選手【記録ではフレデリック・ピケオンヌだった】が、コーナーフラッグのところへ走り込んできて、駆け寄るサポーターたちと歓喜の抱擁をしていた。
 このシーンだけが強く記憶に残っているのは、その後ホテルのテレビで繰り返しこの大金星となる得点を叩き込んだ喜びの場面がニュース映像として流れていて、「まさに自分の目の前の数メートル先で起こっていたこと」だったからだ。コーナーフラッグのすぐ近く、階段状の通路側に座っていた私も、やろうと思えば階段を降りて、あの抱擁の輪に加わることができたのである。それなのに私は動けなかった。もちろん、海外からの観光客としての一般的な振る舞いとしては正しかったのだろう。しかし、こういうときにこそ規範を少し逸脱して、心からワクワクするほうへ動けるようにもなりたいと、いまでもあのシーンを思い返すとちょっとした後悔の気持ちがわいてくる。

 そしてまたこの試合の勝利の意味を自分としては大事に受け止めていたいのである。というのも、このシーズンにポーツマスは7勝7分け24敗で最下位となり、あえなくプレミアリーグから降格することになるわけで、この12月19日に挙げたリバプールからの勝利というのは、当時の記録からすると、これ以後に強豪クラブに金星を挙げることができなかったという意味では、ポーツマスFCが成し得た国内トップリーグでの、現時点では最後の「輝いた瞬間」だったとも言えるのだ。

 そして試合後の高揚感あふれるスタジアムの雰囲気よりもはっきり覚えているのは、ポーツマスの中央駅近くに戻り、ショッピングモールで、ポーツマスFCのグッズを身につけた人々に向かって、家族連れなどが声をかけると、すかさずサポーターからも「2ー0で勝ったぜ!!」みたいな雰囲気で大声を返し合っていた光景だった。その日の夕刻、こうしてポーツマスの街のあちこちで、おらがクラブの奮闘ぶりがたくさんの人々に共有されていて、このエリアで船舶していた帆船を照らす夕日の印象とともに、心感じ入るハートフルな雰囲気に満ちていたのであった。

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 その後ポーツマスは破産問題における勝ち点剥奪のペナルティの影響もありディビジョンを落とし続け、一時期はサポーターがトラストを組織して市民オーナー制度でクラブが運営されるというドラマチックな出来事も経験し、4部リーグまで落ちていた時期もあるが、今シーズンは3部リーグの首位争いをしており、ふたたび上を目指すことのできるベクトルが整ってきているのであれば喜ばしい。そして今もなおスタジアムはあの「味のあるボロさ加減」を保っているのであろうかと想像する。

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2018年8月26日

“なでしこフィーバー”の完結と、あたらしい歴史への闘い

 興奮から一日たって。

 まず大枠の話。
 2011年のワールドカップ優勝を小学生のころに見ていたであろう世代が、Uー20女子ワールドカップを制覇した。ここにひとつの「なでしこフィーバー」の完結を見た思いがする。今回の決勝戦でのフジテレビNEXTの中継解説は野田朱美氏だったが、何度も「ここからが本当の勝負」というようなことを言っていて、それはU-20代表の彼女たちだけでなく、「すべてのカテゴリーでW杯を制覇してしまった後の日本女子サッカー界」にたいする気持ちでもあったのだろうと自分は受け止めた。一連の「フィーバー」はここで完結したのだから、後はいったい何を目標に、どういう方向性でこの業界を活性化させていかねばならないのか。言うまでもなく、男子サッカー界はそういう意味での「完結感」はまだ味わっていないのである。あのW杯を優勝しないことにはたどり着けないわけだから。
 なので来年の女子W杯フランス大会は、新たな歴史をどういうふうに紡いでいくのかの難しい第一歩となるのだと思う。誰しもが、この「強豪国」の立場になったあとの状況について、まったくの未知なのである。

 試合のこと。

 グループステージからずっと、キーパーのスタンボー華はパンチングが多くてキャッチングが不得手かと思えるプレーぶりが続いていたので、序盤からスペインもそのあたりを狙っていた気がする。スタンボーに弾かせてコーナーキックを奪い、そこからセットプレーの高さでいくつか決定的なチャンスを作っていた展開にはヒヤヒヤさせられた。もちろん、この試合でスタンボーはいくつかファインセーブを見せてはいたが、終始キーパーは今回のチームでウィークポイントだった。でもそれは女子サッカー全体においてもこの難しいポジションで人材が豊富な国は存在していないと思うので、「どっこいどっこい」の話なのだろうけど(そう思うと日本と対戦したときのパラグアイ代表のキーパーが神がかっていたのですごく印象的だった)。

 それでも前半終わり頃に宮澤のスーパーゴールが決まり、いい流れで後半につなげることができた。ずっとポゼッションで圧倒しているはずなのに、なぜかリードを許してしまっていることに戸惑いの色を隠せないスペイン。そこへ宝田、長野がゴラッソを立て続けに決め、W杯の決勝という舞台にも関わらず、このあと時間稼ぎをするわけでもなくさらに4点目を狙うべく前線から鬼神のプレスで走りまくっていた彼女たちの姿には末恐ろしいものを感じさせた。この感覚は男子W杯では未だに体験したことのない味わいであり、つくづくこの試合が地上波で全国放送されなかったことの損失を思う。どんなに気持ちのいいサッカーだったか。手を抜かず、お互いの技術力の高さを信じ合ってひたむきに走りきり、すべてが良い距離感でパスワークが行われ、深い信頼関係にある監督が苦しい時間帯に鼓舞し続ける・・・これが「自分たちの、日本のサッカー」なのだった。グループステージのパラグアイ戦以降、もうこのチームは崩れないという自信すら漂わせていたわけで、そりゃあ優勝するわな、とすら思わせた。日本サッカー史上類を見ない「超攻撃的チーム」がそこにあった。

 本当なら1点を返された直後に、流れを変える意味でも、FWからの守備を活性化させるべくすぐに村岡真実を投入してほしかった・・・そうして疲弊したスペインにトドメを刺す華麗なマタドール役と化す村岡を期待していたのだが、実際に投入されたのは残り数分のところであった。しかし最後の最後で歴史的なピッチ上に村岡が立てたことには、オルカ鴨川を応援するすべての人々、およびなでしこ2部リーグでがんばっている多くの選手・関係者が感銘を受けたはずだ。

 さらに言うと、表彰式でキャプテンの南がワールドカップを掲げるシーン、および大会名の書かれたバナーを前にして全員で記念写真を撮るときの村岡真実のポジショニングはどれも申し分なく、猛者たちの中でもしっかり彼女らしい才覚(?)を見せていたことを個人的には高く評価したい(笑)。

20180825

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2018年7月16日

無事には終わらなかったワールドカップは、それでもやはり素敵な祭典なのだと思う

 ワールドカップが終わった。決勝の後の表彰式のときに、「このロシア大会が無事に終わってよかった」という印象をそのままツイッターにも書いてしまったのだが、試合途中で乱入した観客が、実は反プーチン政権を訴え続けている、かのプッシー・ライオットのメンバーだったことを知ったあとにおいては、「これは無事に終わったことにならない」ということを認めざるを得ない。最後の最後で大きなモヤモヤが残っていった。

ある意味で 「このサッカーの祭典がどういうものの基盤のうえで成立しているかということに想像をめぐらすように」ということにも気づかせたプッシー・ライオットのその後がどうなるかについての心配も当然ながら、彼女たちの計画が実行されるに至ったうえで、それを防げなかったシステムや関係者への影響、それにかこつけてますます何らかの力がかかってくることも想像される(仮に乱入したのが表彰式の最中であれば、彼女たちはプーチンにかなり近づけたかもしれないわけで)。
 多くはあまり大きくは報じないだろうけど、「楽しかったですね」で終わりかけた大会が、多くのハードル(オフサイド・ライン)をかいくぐって裏を取られて得点を決められたような感じになった。
 彼女たちの抱えるリスクのひとつが、ロシアと関係のないフランスとクロアチアの方面からも非難を受けることでもあったし(特にピッチ内に政治を持ち込むことの悲劇を体験してきたクロアチアにとってはなおさら)、それを引き受けてでも計画を実行しないといけなかった実状について、あらためて思い至らせる。

 以下はそれをいったん脇に置いて、純粋にサッカーについて書いておく。

 今回は全試合が地上波で放送されたこともあり、たくさんの人が楽しみやすい大会だったとも思う。不思議なほどスコアレスドローの試合もほとんどなく、これはいろいろ意見が分かれるところだが、大会公式球の「キーパー泣かせな」仕様によるところも大きいのかもしれない。もちろんそれは主催者側の狙いでもあったのだろう。

 そして私がもっとも印象的だったベストゲームを選ぶとなると、準々決勝のロシア対クロアチアの激闘になる。ツイッターでもさんざん賞賛したのだがあらためて書くと、開催国として「どこまでいけるか?」という期待に満ちたスタジアムの雰囲気のなかで、不利と思われていたロシアが見事な先制点を挙げたところから、一気に試合の流れはドラマチックになっていき、クロアチアのキーパー、スバシッチ(試合中に亡くなった旧友のことをシャツに印刷してプレーを続けている)が足を負傷するあたりのアヤが最後の最後のPK戦への複線となっていくあたりや、奇跡の同点弾を決めたがPK戦でゴールを外したロシア代表のマリオ・フェルナンデスが実はブラジル出身の帰化選手で、よく調べると彼のキャリアにも紆余曲折があったり・・・など、両チームの選手たちが試合展開やあらゆる局面においてそれぞれにキャラが立っていくシーンがあちこちに含まれていて、ピッチにいる全員にスポットライトがあたる感じが普段の試合以上に多かった印象があり、まるでひとつの壮大な映画を観ているかのようだった。見終わったあとにも残る余韻にかきたてられるものがあったので、再放送でフルで見直したほどだ。

 その他のコネタでは、決勝戦直前に国際映像で流れたオープニングムービーのなかに、現地ではしゃぐサポーターをムービー用に整列させて映していて「あっ!」となった。そこにはメキシコからやってきたサポーターたちで、一人だけ奥さんに反対されてロシアに行けない仲間のために、その人の等身大パネルを持ってロシアまでバスの旅を敢行するというネタでじわじわ有名になった「等身大パネルのハビエルさん」がいたのである。ほんの一瞬のことだったが、まさか決勝の直前で出てくるとは!と、ジワッとくるものがあった。こうしてちゃんと公式的にハビエルさんネタがフォローされていたことが分かり、「よかったなぁハビエルさん!」と妙な連帯感(お面ネタをやっているからか 笑)を覚えた次第である。
 そもそもハビエルさんの等身大パネルを持ち込んだ人々も、5人組でバスでメキシコからロシアまで旅しようぜなんていう企画を実行しちゃうわけで、なんというか、みんな大いに人生をサッカーがらみで遊び倒しているわけで・・・

 こういう人々の営みを観たり知ったりすることで、あらためて言いたいことがあるとすれば、「ここまでみんなが感情的になったりバカになったりできるワールドカップという時空間は、やはり貴重なんじゃないか」ということに尽きるわけだ。

 例えばこの、初出場だったパナマ代表の初戦の国歌斉唱を中継していたときのテレビのコメンタリーの動画などを観ると、何かを成し遂げることや、それを見守って応援し続けることの強い感情的な想いなど、こういうところに普遍的な何かを見いだしたくなる。そしてプッシー・ライオットのメンバーたちもそこは同じ価値観を共有していると思っている。試合乱入の是非はともかくとしても。
 そして大会そのものがたとえ危ういものの上に成り立っているとしても、ワールドカップは、少なくともグラウンドの上においては、フットボールがもたらしてくれるものに感謝したくなる4年に一度の機会でありつづけてほしい。

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2017年3月 9日

「奇跡を見逃したことを忘れないようにする」

CLの試合日程も最近は工夫されて、ベスト16でも1日に2試合だけやるような感じになっている。そうして今朝も、最初から観るのではなく、あくまでもいつも通り起きる時間帯にテレビをスカパーにあわせ、後半からの様子を、あたかもラジオをきくように、適当に眺めていた。どちらの試合を主にチェックするかについては、まだ点差がつまっているドルトムントとベンフィカのほうを選んだ。

たまにもうひとつの試合を見ていて、バルセロナが勢いよく得点をあげていて、しかしここにきて痛恨のアウェイゴールを許してしまい、その時点で私はチャンネルを戻したのだ。

もうひとつのほうも、気がつけばドルトムントが得点を重ねていて、そして残り20分ぐらいで香川が投入されていて、そちらのほうをずっとテレビでつけながら、歯を磨いたりしていた。

CLの放送終了後にはいつものように、過去のセリエAの名選手によるゴール集が流れていた記憶がある(この映像にでてくるジダンのプレーは、いつみても本当に華麗で見事だ)。
このとき、いつもはもうひとつの試合についてもハイライトを確認するのだが、なぜかこの朝はそのままテレビを消して家を出た。

それがこの今朝のすべてだった。

こうして、わずか紙一重のところ、テレビのチャンネルのひとつ裏側で、私は「奇跡」を見逃したのである。

サッカーの神様がいるとしたら、人類にいくつかの教訓を残すものと私は信じている。そう思える試合のひとつであろう。1999年のCL決勝のマンチェスターユナイテッドの大逆転劇に並ぶほどの。
しかも今回はその点差をはるかに上回る、文字通りの奇跡的な逆転劇、もはや奇跡という言葉でしか言い表せないのがくやしいほどの、とてつもない歴史的瞬間が、奇しくも1999年と同じカンプノウで起きていたのである。第一戦0-4から、ホームでアウェイゴール1点を奪われた状況での6-1のミラクル、二戦合計6-5。バルセロナ、勝ち上がり。あの0-4を受けたあとのルイスエンリケ監督退任表明から、いったいこの展開を誰が予期していたか。

というわけで、私はこのゲームを見逃したことをずっと悔しい気持ちで覚え続けることになる。昨年のレスターも奇跡だろうし、今回のことも、それはたしかにこの世に存在した奇跡であり、サッカーという物事の姿を借りてもたらされた奇跡なんだろうと思う。

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2016年12月28日

ニューカッスル・ユナイテッドはサッカークラブの名前だが、ニューカッスルの街が世界規模で知らぬ間に本当にユナイテッドになってる件

今日のネタはちょっとサッカーそのものからは距離のあるテーマだが、しかしおそらく日本のサッカーメディア関連では誰も発見していないネタのような気がするので書いてみたい。

Newcastleunited

ニューカッスルといえば、サッカーファンにとってはイングランド北部にあるサッカークラブを通してなじみのある都市名であろう。

このニューカッスルを「ニュー・キャッスル」と言い直して考えると、文字通りの意味として「新しい城」となるわけだが、このコンセプトの地名は、世界中にいくつか存在しているようなのである。

実際「新城」と書けば、日本にも愛知県に新城市(しんしろし)がある。つまりここは「日本のニュー・キャッスル」と言っていいわけだ。

で、先日私の上司のSさん(愛知県出身)が発見したネタがこれである。

「Newcastles of the World」

・・・つまり、「世界中の『新城』な地名のみなさん、仲良くやりましょう連盟」が存在していたのである!!

世界中の「ニュー・キャッスル」大集合・・・これこそまさに文字通りで「ニューキャッスルのユナイテッド状態」ではないか!!

ホームページは(こちら)である。

これをみると、ちゃんと日本の新城市も加盟していて、(ここ)を注意深く読むと、2年に一度は世界中のニューキャッスル関係者が集うカンファレンスが開かれているようで、2018年度の開催地が新城市に決まった模様。

世界中にどれだけ「ニュー・キャッスル」があるのかは、(こちら)のページをみると詳しく知ることができる。この連盟のコア・メンバーが16都市、その他把握している都市で70ちょっとあるようだ。

Newcastleutd

うむ、まぁ、

「ふーん、そうか・・・」で終わるネタなのかもしれない。

でもなんというか、サッカーファンとして馴染みのあるニューカッスルの地名が、その名前だけのつながりだけで、僕らの知らないところでこういう国際交流が継続的に続けられているということに、なんだかほっこり和むものを感じないだろうか。

いっそ新城市、いつかアラン・シアラーとか招いてサッカー教室とかやってほしいし、「日本で一番ニューカッスル・ユナイテッドを応援する街」を宣言してもいいのでは。

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