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2022年3月12日

いまチェルシーのファンとして言いたいこと

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 ロシアのウクライナ侵攻に伴い「オリガルヒ」と呼ばれる大富豪の資産について英国政府は資産凍結や渡航禁止措置の制裁を取ることになり、チェルシーFCのオーナーもその対象となった。日本の片隅にいる私はただでさえ年度末でクソ忙しい日常のなかで、はやく収まってほしいと願う戦争のニュースとともにまったくクラブの状況が追い切れていないなかで、焦燥感を覚えつつ今、この文章を書いている。状況は刻々と変わるだろうから、このブログで正確な情報を提供することは難しいことを前提でおつき合いいただきたい。

 自分の知る限り、まず最初にアブラモビッチがチェルシーの所有権を手放して、他の管理団体に運営権を渡すと発表したのだけれども、今回の政府の制裁により、自由にクラブを売却できなくなって、かつチケットやグッズ販売、選手契約とかの営業的な活動ができなくなる、とのこと。さすがに試合はできるように政府から「特別ライセンス」が付与されて、チームとしての活動はできるものの、そもそも「商売」の部分が取り上げられたらクラブは今後どうなるんだ、というのが現時点での話(合ってる?)。

 ところでちょっと話がそれるが最初のアブラモビッチの発表のときのニュースであらためて知ったのだが、クラブ側がアブラモビッチにたいして莫大な負債があって、その返済もチャラにしますみたいな意向が報じられていた。でもこれって会計上では世の中で普通にあることなんだろうか。クラブは利子をつけてオーナーにお金を返しつつ、オーナーは自分の利益をクラブに再投資し続けていたり、さらにお金をクラブに貸し付けているわけで、そもそもこういうお金の流れってセーフなんだろうかとフト思ったり。会計的なことにまったく疎いので詳しい人に教えてもらいたいのだが。

 で、そもそもアブラモビッチ氏がどういう経緯で大富豪になっていったかとかの話を引いてきて、もともとがダーティーなお金で成り上がり、そういうお金でチェルシーというクラブが強くなっていったのだから、チェルシーファンは自らのアイデンティティに苦しんでいるだろうみたいな論評もネットでみた。これについては「はぁ、そうですか」としか言えない。もし仮にアブラモビッチに買収されたあとの2003年以降のすべてのタイトルが「無価値」なものにされたりトロフィーが没収されたとしても、サッカーの現場において存在した、幾多のリアルな出来事は不変であり、「勝ったり負けたりの楽しさや記憶」までを奪われる筋合いはまったくない。2012年のCL準決勝でバルセロナ相手に決めたトーレスのゴールを思い起こすたび、あの無人のゴールへ転がっていくボールの軌跡には70億円相当に見合う価値があったのだと腑に落ち、たとえあれがダーティーなカネであろうが、あのときの強烈な快楽の共有、そして腹の底からの
「ざまぁーーみろ!!」
の背徳的なまでの爆発的な感情の吐露、それはサポーターたちにとって永遠のものなのである。
 
 さて2003年にアブラモビッチがチェルシーを買収した際に、アーセナルのベンゲル監督が「彼らは宝くじに当たったようなものだ」とコメントしたことを覚えているだろうか。当時私はなぜかその発言が印象に残っていて、その頃からはじまるチェルシーの豪華な補強の数々を目にするたびに、ベンゲルの言葉を繰り返し思い起こすこととなった。なるほど、そうか、これは宝くじに大当たりしたようなものなのだという認識は、そのあともずっとあった。

 なので私が以前このブログで「あなたがチェルシーのサポーターにならないほうがいい10の理由」という記事(こちら)を書いたとき、

このあたりのスリリングさは今後も続いてくだろうし、ある日突然、アブラモビッチがチームから手を引いて大混乱に陥って、崖から一気に転がり落ちていく危険性もあるわけで、そういう日がくることを・・・実は心のどこかで「怖いものみたさ」で期待してしまう自分もいたりする。

このように書いたのは、私のなかでずっと「いまは宝くじに当たって散財している状態」としてチェルシーを応援してきたことに由来している。そう、いつかは宝くじの当選金も尽きてしまう日がくるだろう、そういう思いがずっとあった。

 ただし、(1)このような事態がきっかけとなってクラブの経営危機が起こるとは想像していなかったことと、(2)よりによってこのタイミングかよ、というのが私の今の気分である。まず(2)については、つい先月このクラブは世界最高峰の栄誉に浴したばかりであり、どうせ世界中のサッカーファンやマスコミからはすぐに忘れられるだろうから大声で言っておくが、現時点では「地球上で最も優れたサッカークラブはチェルシーFCです」と断言してもこの1年ぐらいはまったく差し支えない状態なのである。そんなクラブがたった一ヶ月そこらの間にグッズ売場までもが閉鎖させられるような仕打ちを受けているのであり、この圧倒的な落差を劇的なまでに仕立て上げられるストーリーが、将来このクラブの歴史を振り返るときに繰り返し語られるのかと思うと正直ゲンナリする。

 そして(1)については、これは国際情勢を把握していないとなんともいえない複雑な事態であり、何かを言うことに難しさを覚えるが、それでも今チェルシーのサポーターである自分として感じていること、特に英国政府に対して言いたいのは、オーナーが制裁を受けてクラブ経営が縮小を余儀なくされたり破綻したりプレミアリーグから強制的に降格させられようが、そして我々の愛するクラブが「ダーティーなマネー」に満ちていたことを痛感させられようが、それを踏まえても今、最も目を向けて優先してほしいことは、ウクライナとロシアの民間人が無用な殺戮や刑罰に巻き込まれないようにすること、人道的支援を拡充すること、環境汚染の拡大を防ぐこと、そこに向けての政治的な働きかけを全力で追求することだ。

 私にとってサッカークラブの消滅危機は二の次だ。そして付け加えるなら、クラブは消滅できない。何があろうとも、サッカークラブの本質は壊滅させられた焦土のなかにおいても必ず芽吹いて空をめざすようになると思っている。そして当然ながらウクライナにもロシアにもチェルシーのファンがいるだろう。サッカーには、政治的指導者が固執する古くさい国民国家の枠組みなどでは到底乗り越えることができないスケールの連帯と多様性と力強さがある。そして、その気になれば国境を越えてチャントを見事に合唱できる。

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2021年5月30日

CHAMPION AGAIN!!

おおおおおおめでとうございますブルーズ各位!!

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9年前に初優勝したとき、「もう数十年は来ないだろうなぁ、もしかしたら人生で二度とないかもなぁ」と勝手に思っていたチェルシー・フットボール・クラブの2回目の欧州チャンピオンズリーグ制覇に、なんかもう、謝りたい気分!!イエス!!(笑)

急にDAZNからWOWOWにCLの放送権移ったりして、気持ち的にも「まぁいいか」って全戦スルーしていたので、よけいに!!

でもですね、今日はさすがに決勝は観ようとWOWOWに申し込んで、キックオフ1時間前からスタンバイしていたにもかかわらず、ハヴェルツが決勝点を決めたときは寝ていたので、「タテーシが起きてライヴ観戦しているとチェルシー点が入らない記録」は継続しています。すなわち今季のCL決勝に進めたのも、ひとえに私が「まったく観ていなかったから」ということが要因のひとつとなっていたわけであります。ええ、そういうの慣れてるんで。

それにしても1-0でギリギリの試合だったけれども、しっかり守れていたので後半途中からはなんだか負ける気がしなかった・・・まぁ、デブライネの気の毒なケガがあったのでよけいにシティの怖さが失われていたのもあり。あとアグエロがもし先発スタートだったらそっちのほうが怖かった気もする。

BBCワールドつけたら、スタンフォード・ブリッジ周辺の様子をレポートしていた。
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「大きな混乱はなかった」とのこと。しかしいずれにせよ、人混み溢れまくりな様子なので、みなさん感染防止は気をつけてもらいたいですねぇ~(現地組も同様。無理もないが)。そういえばトロフィー授与のときメダルを一人一人かけてお立ち台に移動する流れで、監督も選手もみんな、置いてあるトロフィーの同じようなところチューしまくっていて、そこがやたら気になってしまう世情のなかでの欧州制覇でありました。

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2020年8月30日

ねこじしさん企画「Jユニランナー 勝手にオンラインマラソン2020」

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 それなりに覚悟はしていたが、今シーズンの主要なマラソン大会は軒並み中止が発表された。沿道でのサッカーユニフォーム応援企画もしばらくできなくなる。

 そもそもこの応援企画は、どんな見地から判断しても、どうしたって「飛沫をとばしまくっている密な集団(しかもタオマフも旗もメガホンも振り回す)」と見なされるわけで、今後もし状況が変わってマラソン大会が通常通りに行われたとしても、応援企画の実施者としては、何らかの対応を検討しないといけないのではないかと、かなり悩み困っている。これが「アフター・コロナの世界」における問題なのかと、ここにきて痛感している。

 このあいだ仕事の関係で、簡易なフェイスシールドを装着して行う業務を体験した。マラソンシーズンの冬場だと暖かくていいのかもしれないし、シールドにステッカーを貼ったりして自由にデコレーションできたら、それはそれでアリなのかもしれない。ただ、だからといってこちらから飛沫をガンガン飛ばしていいわけでもない。それに当然、装着側の発声は聞き取りにくくなるし、マスクをしていたとすれば、さらに声が届きにくい気がする。本当に、どうしたらいいものか・・・と途方に暮れている。

 

 そして誰よりももどかしい思いをしているのは主役であるランナーさんたちであろう。
 そんななか、毎度おなじみセレッソ大阪サポランナーのねこじしさんは、「Jユニランナー 勝手にオンラインマラソン2020」(11月21日~23日)という企画を立ち上げておられる(こちらをチェック!)。サッカー好きランナーのための夢のような大会が、ここにきて実現することになった。まさに私がリバプールFCの名文句をもじって提唱(?)している「You'll never RUN alone」の気持ちにさせてくれる素敵な企画だと思う(←そういうオマエも走れよ!っていうツッコミはさておき 笑)

 ともあれ、Jリーグおよびサッカー関係者がこの厳しい状況下でもなんとか試合を続けるべく奮闘しているのと同様、Jサポランナーさんたちの、向かい風に負けじと一歩一歩を積み重ねて前に進もうという姿勢や熱意に、勇気づけられる想いでいる。私も何かのカタチでこの企画で走るランナーさんを応援できたらいいなぁ、と。

 
まったく話が変わりますが、追記・・・チームのグッズとして考えるとプラ板で作れる簡易フェイスシールドがコストも安そうだし、デコレーションのために既存のステッカー系商品も売り上げが増加しそうだからいいんじゃないかと思ったりしている(あと、「シールドだったら板状だから選手からそこにサインを書いてもらいやすいメリットもある!」とも一瞬思ったが、そもそもシールドを必要とする社会状況下だとファンサで選手と接触できないのでムリか~!残念!となったり)。

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2020年6月27日

『フットボール批評』28号「無観客劇場への覚悟はあるか」

今日からJリーグが再開される。なんとかここまで、こぎつけた。

そんななか『フットボール批評』最新の28号、特集は「無観客劇場への覚悟はあるか」。今回も非常に読み応えがあったので、いくつかコメント。

 まず冒頭のJリーグ村井チェアマンのインタビュー。コロナ禍で個人的にも毎日の仕事生活に疲弊しつつある状況で読んでいるからか、この記事において村井チェアマンの発言に触れると、素直に「この人、すごい有能!!」と平伏したくなった。思考と決断と実行のスピードの早さ、そしてサッカー業界の外からやってきたがゆえに、変なところでの考慮をせず、ひたすらJリーグ理念を判断基準として動こうとしているところに我々ファンは一定の信頼感を寄せることができるわけだ。
 「新型コロナウイルスの本質的な意味は『分断』にある」という村井氏の意見は、広く社会全般に共有されてほしい問題提起ではないだろうか。

 新連載「汚点:横浜フリューゲルスは、なぜ消滅しなければならなかったのか」。これまでもサッカー産業の暗部に切り込んできた田崎健太氏による原稿なので、今後の展開がすごく楽しみ。まさに『批評』だからこそこういうテーマは正面切って掲載していく意義がある。確かに言われてみたら当時はクラブの消滅についていろいろと考えるところはあったけれども、そもそも横浜フリューゲルスというクラブの成り立ちについて思い及んだことはなかったなぁ、と。そこでこの連載では、クラブの出発点が1964年東京五輪の時期に結成されたサッカー少年団だった、というところから歴史語りが始まっていき、思わぬ人物の関わりが明らかにされ、続きが早く読みたい・・・!となる(おそらくやがては単行本化されるとは思うので期待したい)。
 そして何より、コロナ禍における経済的損失が不可避となってきたサッカー界およびスポーツ界にとって、第二のフリューゲルスを生み出さないようにするためにはどうするか、という裏のテーマも図らずも背負うことになっていくと思うので、なおさら雑誌としても大事にしていってほしい連載。

 最近の『批評』の連載ですごく楽しみになっているのが「世界サッカー狂図鑑」。さまざまな国の市井のサッカーファンをじっくりと取材し、文章とイラストで親しみやすく紹介してくれる。今回はマレーシアのジョホールバル出身のサポーターさんで、イスラム教徒としての生活様式と、サッカーを熱くサポートしていく日々がどのようにリンクしていくかが興味深い。そして今回は「番外編」として、この国で芝を作る日本人の奮闘ぶりもレポートされている。こちらも「すげぇぇー!!」となる。サッカーというスポーツの及ぶ世界の広さをあらためて実感。

 今号では、以前別冊で出た「フットボール戦術批評」のエッセンスが「ミニ版」として収録されていて、あえてサッカーが観られないなかでこういうガチな戦術論を載せてきたこと自体が面白い。そして期待以上に前のめりになる記事ばかりだった。ひとつはシメオネ監督のアトレティコがリバプールとのCL戦で見せた「ゲーゲンプレッシング2.0」といえる組織的ボール奪取の理論の話。
 もうひとつはベガルタ仙台を指揮していた渡邉前監督と岩政大樹氏の対談「ポジショナルプレー実践論」。これは指導者目線で語られたがゆえに、「いかに選手に分かってもらうか」というベクトルが、そのまま読み手である我々素人にたいする「いかに読者に分かってもらうか」という方向性に一致していくので、記事の中で岩政氏がひとりで熱く盛り上がっていくポイントと、読み手の私のほうもシンクロして「そういうことですかー!! なるほどーー!」となった出色の対談。
 ちなみに普通こういう対談形式の記事は「聞き役の合いの手」が省かれることが多い。しかしこの記事では

「岩政:はい」

「岩政:あーー」

っていう、やたら挿入される岩政氏のこの短いリアクションが誌面で再現されていると、読んでいるこちらのリズムにも同調してくるので、このスタンスはわりと悪くないと個人的には思っている。

 そしてこちらも印象に残った記事としては、元Jリーガー井筒陸也氏とサガン鳥栖・小林祐三の対談。もともと音楽活動などサッカー選手以外の顔も積極的に見せていた“パンゾー”選手だったが、その発信力ゆえにいろんな言葉を持っている選手だということが改めて分かってすごく刺激的。コロナ禍におけるJリーガーは何を考えるべきか、という井筒氏の問いかけに対して小林祐三は、

「一回、絶望したらいいんじゃないと思うけど。
そこで絶望できるというのも、一つの指針になるなと思っていて。
でも、僕は絶望できなかった」

 刺さるフレーズである。
 ほかにも「フットボールにたいして盲目的にならないようにする、ほどよい脱力感」というテーマも興味深く、「子供のときからサッカーしかやってませんでした」というのが、日本の部活動のありかたなども含めて果たしてどうなんだろうかという教育文化的な側面にも通じるものがある。 やー、小林祐三に連載記事書いてもらえないだろうか(笑)。つまり、こういう『批評』のようなメディアこそが「語れるJリーガーを見いだしていく」という機能を果たしていくのではないかと思っていて、普段だとなかなか話せないことも、『批評』のような場だったら、心の内を自分のリアルな言葉で紡いでもらえるのではないかと、そういうことを改めて期待させた号だった。

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2020年6月 7日

<続報>30%のキャパ制限で観客を入れて再開したサッカーのブルガリア・リーグの様子 → やっぱりいろいろ難しそう

先日の記事を書いた手前、実際に試合をやったらどうなったかを自分なりに追ってみた。

日本ではどこまで報じられているのか分からないのだが、ロイターの記事が各国ニュースサイトで配信されているよう。

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 トップ画像で使われているのは、レフスキ・ソフィア×ルドゴレツの上位対決となった試合の様子。よくみるとダンボールのサポーターがいる! ということで、ツイッターで調べてみると

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先日話題になったドイツのボルシアMGで実施した企画にインスパイアされたとのこと。15ユーロで写真を送ったらダンボール加工してもらえるようで、上位対決だからこそ実施する企画なのかもしれない。

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結果がこのように。リアル人間サポも、このなかで観ている状態の心境たるやいかに。

で、ロイターの記事で追加で紹介されている写真も興味深くて、

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この写真からは「どうやってダンボールを固定しているか」の内情が少しだけ伺えるわけで、

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座席の縁のところにテープっぽいもので固定しているようで、まぁこうするしかないよな、と。「酔っ払って試合見れていないサポ」みたいな状態が容易に発生しそうだが(笑)

あと同じ試合でのゴール裏(立ち見席)での熱いウルトラス集団とおぼしき写真もあって、

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ラジオ体操みたいな状態だが、それなりにソーシャル・ディスタンスを意識しつつ、人数を多く見せようという意図も感じられるポーズ。

ただ、別の写真を見て気づいたのは、

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腕を伸ばすのはいいんだが、手と手をつなぎ合わせている人がけっこういて、ウイルス感染防止の観点から言えばあまりよろしくないかと・・・。

さてロイターの記事をGoogle翻訳でかけて読んでみると、

「ソフィア:ブルガリアのリーグは、スタジアムで許可されたファンによる新しいコロナウイルスのパンデミックによるほぼ3か月の休憩の後、金曜日(6月5日)に再開しましたが、それらの多くは、スタンドの3席ごとに占有するという規則に違反しました。」

ということで、先日の記事で書いたように、客席のキャパの30%に留め、客1人につき座席2席を空けて座ってもらうことを条件としてリーグが再開されたわけだが、「やっぱり違反は多かったかぁ~」という結果に。

記事のつづき。

しかしテレビの映像では、少なくとも数十人のファンが、スローテンポの遭遇で2位のロコモティフ・プロヴディフが弾力のあるエタル・ヴェリコ・タルノヴォを2-0で破ったプロブディフの南部の都市、クラレフの前でルールを守らなかったことを示しました。

(中略)

スポーツ省は最後のホイッスルの後に発表された声明で、試合はファンが座席ルールを守って進んだと述べ、スタジアムのアナウンサーがすべての観客に距離を保つように求めたと付け加えた。

「そうだよな、テレビ映像とかで観たら一発で分かるよなぁ」ということで、気になったのでこのロコモティフ・プロヴディフというチームの公式サイトから、その日のエタル・ヴェリコ・タルノヴォとのマッチレポートを見てみた。

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トップ画像だと背景の座席はガラガラだし、

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「お偉いさんゾーン」も、「30%ルール」を守っていると言えそうな状態ではあるのだけど。

でもいくつかの写真をみると、

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まぁ、やっぱりこうなるよねぇ、と。

「密です!」って都知事が怒り出しそうだけど。

もし同じ条件がJリーグに適用されたとしたら、日本社会の雰囲気的には多くの客は遵守するのだろうけれど、収益の問題とか考え出すとホントに難しい。

ちなみに、このロコモティフ・プロヴディフの公式サイトの背景画像が、写真とペインティングをうまくミックスしていてアーティスティックな感じが良かった。

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あらためて思うに、(発煙筒はともかくとしても)こういう「密で熱い空間」を世界中のスポーツの現場が再び取り戻すことのできる日をひたすら祈りたい。

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2020年6月 4日

ブルガリアのサッカーリーグは一定の条件下で観客を入れて再開とのこと

 まだあまり話題になってなさそうなので、このブログで書いておきたい。

 ブルガリアでは6月5日からサッカーリーグの1部・2部で、観客を入れた試合を行うとのことで、

(1)スタジアムのキャパシティの30%を上限とする

(2)観客は少なくとも席を2つ空けて使用する

という条件が課せられるとのこと。ちなみに6月3日時点でのブルガリア国内の新型コロナウイルス感染者は2,560名ということで、人口を調べたら約700万人で、(日本の検査数と感染者数の実態はどうにも信頼できないので比較しにくいが)わりとブルガリアの感染率って高いかもしれないが。

 ともあれ、3万人のスタジアムだと9000人を上限として実施することになる。「席を2つ空ける」という条件であれば一人の客につき座席を3席使うから、この30%という数字になるわけか、なるほど。

 こういう試合のチケットの値段というのも気になる。「価格変動制」を最近導入しているJリーグでは、もしこういう形になったらどういう値段設定になるのだろうか。というのも、どうしたってこういう事態になると、おのずと「プラチナチケット」みたいな扱いになるわけで。決して喜ばしい事態ではないが「自分はあのときあの試合を観ていた」というのはひとつのプレミアムになる。

 あと、自由席と指定席の区分けもどうなるのかというポイントも気になる。おそらく「後になって感染経路をたどれるように」といった行政指導とかで、全席が指定席になることも予想される。

 ブルガリアの話はこれ以上の情報はないのだが、やはり大声でチャントを歌うとかは制限されるのかもしれない。でも実際やってみたら、自然にみんな歌うかもしれないし、「逆に自分が率先して応援しなければモード」が発生して、キャパ30%の「プラチナチケット獲得者」であるサポーターたちは、力の限り応援しそうな予想もできる。いずれにせよ他の国ではまだ客を入れての試合は実施していないので、これはすごく各国関係者に注目されているのではないかと思う。

 

 ちなみに私が今日これを知ったのはたまたま外務省海外安全情報メールの一覧を見ていたことがきっかけなのだが、この在ブルガリア日本国大使館からのメールを読み込むと、このサッカーリーグ実施については「保健大臣令」によるものなのだが、かねてより基本的には「屋外及び屋内(スポーツ施設,クラブ等)における競技性のある大規模スポーツイベントの実施は許可されない」という方針だったので、普通に考えたらサッカーの試合だって開催できないはずなんだが、「これまでの保健大臣令を一部修正し」となって、「例外として」プロ・サッカーリーグの試合実施だけは許可されたとのこと。

うん、これって絶対・・・いろいろ恐ろしいエリアから圧力かかったんだろうなぁ、と想像できる・・・

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2020年3月20日

こういうときに備える意味でも、Jリーグの「歴史」を共有できる機会を創出できないだろうか

 コロナウイルスの関連で世界中のサッカーも影響を受け、Jリーグの第2節以降やルヴァン杯も延期になっている。

 こういう事態に備えておくという意味でも、株式会社Jリーグ(今年からいろいろ関連企業が再編されたのでこの呼び方で間違っていないはず)は、多様な世代のファンに、たまには過去を振り返る時間を提供すべく、それぞれのクラブにとっての歴史を語り継いでもらえるような仕掛けを積極的に展開していくことも自らの使命として検討してほしいと常々思っている。
 たとえば過去の試合映像のデータを、何らかの手段でファンが気軽に共有できる仕組みがあればと妄想する。そうでなくてもDAZNというパートナーがいる今であれば、過去の試合をふりかえるような番組づくりのために投資することもできよう。そうやってコンテンツさえ届けば、あとは個々のサポーターがそれぞれに創意工夫でもって有効活用していく。
 
 イングランドで特徴的なのは、試合当日にあちこちで販売されるマッチデープログラムに必ずといっていいほど大昔の試合やレジェンド選手の記事が混ざっている。イギリス人は「統計記録好き」と言われているが、それゆえになおさら過去からさかのぼる記録へのこだわりが顔を見せるのか、やはり100年以上もサッカーをやり続けているとネタには困らないわけである。どこのクラブでもプログラムは一冊の分量がとても多くて、よく毎試合こんなに書くことがあるよなと感心するが、その記述の分厚さが歴史的な記憶を語り継ぐためのツールとなっていて(そしてサポーターは家でそれらを保管しているわけで)、こうして次の世代へと過去の名勝負は伝承されていき、絶対に負けられないライバルへの執念もひきつがれていく。
 しかしJリーグだってよく考えたらもう27年、四半世紀以上もやっているのだ。地域づくりという観点で始まったJリーグは、人々の「空間的つながり」を拡げていくことに成功していったわけだが、それに加えて、これからは過去から未来という「時間的なつながり」を構築していくことが求められる段階になっているのではないかと思う。記憶に埋もれた名勝負・ファインプレーの数々を掘り起こす作業は、今のような「忍耐が求められるとき」にこそ、当時の映像を囲んでじっくりと共有できれば愉しいはずだ。

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2019年2月14日

比嘉さんの引退

まだまだ若いのだが、比嘉祐介選手・・・というかなぜかこの業界では一貫して「比嘉さん」と呼ばれているJリーガーなわけだが、このたび引退を発表した。
最後の所属先となった東京ヴェルディの公式サイトでメッセージが発表されているが、これは本当に自分自身の言葉で伝えたいという気持ちにあふれた文章となっていて、それがとても比嘉さんらしくて良い。
とくに最後の一文で、大の仲良し(すぎる)関係で有名な中村俊輔への言及がなされているのも、最後の最後まで比嘉さんワールドである。
しかも何がすごいって、よくよく考えると、
「ヴェルディの選手が引退するにあたって、最後の最後でマリノスのレジェンドへエールを送っている」ということなのである。この両クラブの歴史的関係を思うと、こういうことができるのはさすが比嘉さんである。比嘉さん以外にこんなことできない。
思えばロンドン五輪予選で全国区になっていき、惜しくも本選メンバーには選ばれなかったのだが、そのあと比嘉さんは本選メンバーを応援するDVD動画を自作して贈ったというエピソードに私も心を打たれたわけだが、こうして記憶に残るユニークな選手がピッチを離れるのはさびしいものである。でもどこかでまた比嘉さんはサッカーファンを魅了してくれると信じたい。

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2018年7月30日

森保一が日本代表監督になることで困ること

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 ワールドカップが終わり、放送権の関係やらでNHKなどは総集編の特番を作ることもせず、せっかく盛り上がったのにお茶の間向けサッカーコンテンツは一気に消え去り、もう何事もなかったかのような雰囲気になって、Jリーグでは一通りイニエスタとトーレスの来日(と離日)騒動を経て、そして気づけば今日は7月30日で、みなさん一ヶ月前なんですよ、日本とポーランドが試合をやったのは・・・。このスピーディーな時間感覚にうろたえてしまいたくなる感じをよそに、結局ハリルホジッチ解任からのワールドカップの総括もあいまいなまま、日本サッカー協会はもともと五輪代表の監督だった森保一を次のA代表の監督も兼任させると発表した。

 この状況にたいする私の考えを一言で述べるとすれば、

「困った。」

 である。
 今日はその話をくどくどと述べていく。

 なぜ森保一が日本代表監督になると困るのか。
 それは、森保一が「とってもいい人」だからである。

 私個人の想い出を述べさせてもらえば、彼が広島の監督に就任した最初のシーズン、開幕前の宮崎キャンプで私がいろいろとJクラブの練習試合見学を楽しんでいたとき、たまたま森保氏に遭遇したのである。すかさず私はエルゴラッソ選手名鑑の森保監督の写真のところにサインをお願いすると、彼は快く引き受けてくれた。そして私が「がんばってください!」と述べつつ森保氏からペンと選手名鑑を受け取ってすぐカバンにしまおうとした、その数秒の間、なんと森保一は、右手を差し出して握手を待ってくれていたのである。

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この、数秒の「握手待ち」のあの瞬間に、私は「ヒャーー!!すいませんーー!!」という焦燥感のなかで森保一がどういう人物なのかを、ひたすら感じ取ったわけである。ひとつの握手のなかに、森保一の限りない「いい人オーラ」を見出さずにはいられなかった。

 そんなわけで私が書くまでもなく、森保一が「いい人」でありまくる理由はあちこちで述べられているだろうと思う。そういうわけで、森保一は日本サッカー界における国民的評価に照らしても「圧倒的にいい人」であり、それゆえに、私は彼が日本代表監督になることで、困ってしまうのである。

 なぜ困るのか。それは、「人格者にたいして、批判的な目で見ることが難しいから」である。私たちは、森保一の代表監督としての仕事に、ツッコミどころを見出しにくくなるのではないか、そういう危惧があるのである。

 考えてみたら、これまでワールドカップを闘った日本代表監督というのは、どこかしら「ツッコミ、文句、懐疑心」をもって評価対象とされてきた人たちなのである。98年フランス大会の岡田監督はカズを外して城を重用したことで「永遠のツッコミどころ」を背負っているし、02年のトルシエ監督はまず最初に「ヴェンゲルじゃねぇのかよ、誰だよコイツは」というスタートラインから始まった(さらに、やがてトルシエの通訳のほうが面白いじゃねぇかというツッコミも展開していく)。続く06年の「黄金の中盤」ジーコ体制では「戦術が見えねぇ!!」という当初の危惧のまま最後まで変わらずじまいだったし、10年南アフリカ大会では再び岡田監督になり、当時の大会前のヒドい言われようは今年の代表チームのありかたを想起させた。14年のザッケローニ監督も「結局クラブチームのほうが性に合ってたんじゃないの」ってことで、そこからアギーレ、ハリルホジッチと連綿と続く「この人で大丈夫なの?」っていう感じは、常に代表監督の存在感をある意味で照らし続ける指標でもあった。

 そこにきて日本サッカー界は、森保一という、おそらく今までにないぐらい品行方正で誰からも文句のつけようのないナイスガイをA代表の監督にしてしまった。これでは、「森保、アカンわー!!」というノリにはなりにくい。「森保一が選ぶのなら、間違いない」「森保一がそういう交代カードを切ったのだったら、それが正しいのだ」と、私はどうしても、今後の「森保ジャパン」の試合をみて、「あれがダメだ、こいつじゃダメだ」と言い切れる自信がない。
 しかも、森保一は2020年東京五輪のU-23代表監督として最初の大仕事に向き合うわけだが、これはつまり「森保が育てた若い代表選手を、次のワールドカップで開花させていく」という流れも暗に要請されているわけで、そうなると「いい人が愛情込めて育てた若い子たち」を、私は軽くバッサリと批評することに人道的なためらいすら覚えてしまうかもしれない。

 そういうわけで、私は困っている。 「いい人」である森保一が、いちばんボコボコに文句を浴びせたくなる代表チームの監督になってしまうことに。

 そもそも、たとえば代表の試合を観ながら腹が立ってきて「もりやすー!」と叫びたくなるような状況において、それをツイッターなどで文字に書き写したときに「森保ー!!」ってなっても、元々の名前が「森保一」なので、「森保ー!」も「森保一!」も同じ意味合いに捉えられて、「ー」に込めたネガティブな思いすらも、その名前ゆえに吸収されてしまうのである。これが「いい人の徳」なのかもしれない。そういうことすら思い至らせる、いい人・森保一新監督には、ひたすら困ってしまう可能性がある。

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2018年7月16日

無事には終わらなかったワールドカップは、それでもやはり素敵な祭典なのだと思う

 ワールドカップが終わった。決勝の後の表彰式のときに、「このロシア大会が無事に終わってよかった」という印象をそのままツイッターにも書いてしまったのだが、試合途中で乱入した観客が、実は反プーチン政権を訴え続けている、かのプッシー・ライオットのメンバーだったことを知ったあとにおいては、「これは無事に終わったことにならない」ということを認めざるを得ない。最後の最後で大きなモヤモヤが残っていった。

ある意味で 「このサッカーの祭典がどういうものの基盤のうえで成立しているかということに想像をめぐらすように」ということにも気づかせたプッシー・ライオットのその後がどうなるかについての心配も当然ながら、彼女たちの計画が実行されるに至ったうえで、それを防げなかったシステムや関係者への影響、それにかこつけてますます何らかの力がかかってくることも想像される(仮に乱入したのが表彰式の最中であれば、彼女たちはプーチンにかなり近づけたかもしれないわけで)。
 多くはあまり大きくは報じないだろうけど、「楽しかったですね」で終わりかけた大会が、多くのハードル(オフサイド・ライン)をかいくぐって裏を取られて得点を決められたような感じになった。
 彼女たちの抱えるリスクのひとつが、ロシアと関係のないフランスとクロアチアの方面からも非難を受けることでもあったし(特にピッチ内に政治を持ち込むことの悲劇を体験してきたクロアチアにとってはなおさら)、それを引き受けてでも計画を実行しないといけなかった実状について、あらためて思い至らせる。

 以下はそれをいったん脇に置いて、純粋にサッカーについて書いておく。

 今回は全試合が地上波で放送されたこともあり、たくさんの人が楽しみやすい大会だったとも思う。不思議なほどスコアレスドローの試合もほとんどなく、これはいろいろ意見が分かれるところだが、大会公式球の「キーパー泣かせな」仕様によるところも大きいのかもしれない。もちろんそれは主催者側の狙いでもあったのだろう。

 そして私がもっとも印象的だったベストゲームを選ぶとなると、準々決勝のロシア対クロアチアの激闘になる。ツイッターでもさんざん賞賛したのだがあらためて書くと、開催国として「どこまでいけるか?」という期待に満ちたスタジアムの雰囲気のなかで、不利と思われていたロシアが見事な先制点を挙げたところから、一気に試合の流れはドラマチックになっていき、クロアチアのキーパー、スバシッチ(試合中に亡くなった旧友のことをシャツに印刷してプレーを続けている)が足を負傷するあたりのアヤが最後の最後のPK戦への複線となっていくあたりや、奇跡の同点弾を決めたがPK戦でゴールを外したロシア代表のマリオ・フェルナンデスが実はブラジル出身の帰化選手で、よく調べると彼のキャリアにも紆余曲折があったり・・・など、両チームの選手たちが試合展開やあらゆる局面においてそれぞれにキャラが立っていくシーンがあちこちに含まれていて、ピッチにいる全員にスポットライトがあたる感じが普段の試合以上に多かった印象があり、まるでひとつの壮大な映画を観ているかのようだった。見終わったあとにも残る余韻にかきたてられるものがあったので、再放送でフルで見直したほどだ。

 その他のコネタでは、決勝戦直前に国際映像で流れたオープニングムービーのなかに、現地ではしゃぐサポーターをムービー用に整列させて映していて「あっ!」となった。そこにはメキシコからやってきたサポーターたちで、一人だけ奥さんに反対されてロシアに行けない仲間のために、その人の等身大パネルを持ってロシアまでバスの旅を敢行するというネタでじわじわ有名になった「等身大パネルのハビエルさん」がいたのである。ほんの一瞬のことだったが、まさか決勝の直前で出てくるとは!と、ジワッとくるものがあった。こうしてちゃんと公式的にハビエルさんネタがフォローされていたことが分かり、「よかったなぁハビエルさん!」と妙な連帯感(お面ネタをやっているからか 笑)を覚えた次第である。
 そもそもハビエルさんの等身大パネルを持ち込んだ人々も、5人組でバスでメキシコからロシアまで旅しようぜなんていう企画を実行しちゃうわけで、なんというか、みんな大いに人生をサッカーがらみで遊び倒しているわけで・・・

 こういう人々の営みを観たり知ったりすることで、あらためて言いたいことがあるとすれば、「ここまでみんなが感情的になったりバカになったりできるワールドカップという時空間は、やはり貴重なんじゃないか」ということに尽きるわけだ。

 例えばこの、初出場だったパナマ代表の初戦の国歌斉唱を中継していたときのテレビのコメンタリーの動画などを観ると、何かを成し遂げることや、それを見守って応援し続けることの強い感情的な想いなど、こういうところに普遍的な何かを見いだしたくなる。そしてプッシー・ライオットのメンバーたちもそこは同じ価値観を共有していると思っている。試合乱入の是非はともかくとしても。
 そして大会そのものがたとえ危ういものの上に成り立っているとしても、ワールドカップは、少なくともグラウンドの上においては、フットボールがもたらしてくれるものに感謝したくなる4年に一度の機会でありつづけてほしい。

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