フットボール哲学/philosophy

2020年6月27日

『フットボール批評』28号「無観客劇場への覚悟はあるか」

今日からJリーグが再開される。なんとかここまで、こぎつけた。

そんななか『フットボール批評』最新の28号、特集は「無観客劇場への覚悟はあるか」。今回も非常に読み応えがあったので、いくつかコメント。

 まず冒頭のJリーグ村井チェアマンのインタビュー。コロナ禍で個人的にも毎日の仕事生活に疲弊しつつある状況で読んでいるからか、この記事において村井チェアマンの発言に触れると、素直に「この人、すごい有能!!」と平伏したくなった。思考と決断と実行のスピードの早さ、そしてサッカー業界の外からやってきたがゆえに、変なところでの考慮をせず、ひたすらJリーグ理念を判断基準として動こうとしているところに我々ファンは一定の信頼感を寄せることができるわけだ。
 「新型コロナウイルスの本質的な意味は『分断』にある」という村井氏の意見は、広く社会全般に共有されてほしい問題提起ではないだろうか。

 新連載「汚点:横浜フリューゲルスは、なぜ消滅しなければならなかったのか」。これまでもサッカー産業の暗部に切り込んできた田崎健太氏による原稿なので、今後の展開がすごく楽しみ。まさに『批評』だからこそこういうテーマは正面切って掲載していく意義がある。確かに言われてみたら当時はクラブの消滅についていろいろと考えるところはあったけれども、そもそも横浜フリューゲルスというクラブの成り立ちについて思い及んだことはなかったなぁ、と。そこでこの連載では、クラブの出発点が1964年東京五輪の時期に結成されたサッカー少年団だった、というところから歴史語りが始まっていき、思わぬ人物の関わりが明らかにされ、続きが早く読みたい・・・!となる(おそらくやがては単行本化されるとは思うので期待したい)。
 そして何より、コロナ禍における経済的損失が不可避となってきたサッカー界およびスポーツ界にとって、第二のフリューゲルスを生み出さないようにするためにはどうするか、という裏のテーマも図らずも背負うことになっていくと思うので、なおさら雑誌としても大事にしていってほしい連載。

 最近の『批評』の連載ですごく楽しみになっているのが「世界サッカー狂図鑑」。さまざまな国の市井のサッカーファンをじっくりと取材し、文章とイラストで親しみやすく紹介してくれる。今回はマレーシアのジョホールバル出身のサポーターさんで、イスラム教徒としての生活様式と、サッカーを熱くサポートしていく日々がどのようにリンクしていくかが興味深い。そして今回は「番外編」として、この国で芝を作る日本人の奮闘ぶりもレポートされている。こちらも「すげぇぇー!!」となる。サッカーというスポーツの及ぶ世界の広さをあらためて実感。

 今号では、以前別冊で出た「フットボール戦術批評」のエッセンスが「ミニ版」として収録されていて、あえてサッカーが観られないなかでこういうガチな戦術論を載せてきたこと自体が面白い。そして期待以上に前のめりになる記事ばかりだった。ひとつはシメオネ監督のアトレティコがリバプールとのCL戦で見せた「ゲーゲンプレッシング2.0」といえる組織的ボール奪取の理論の話。
 もうひとつはベガルタ仙台を指揮していた渡邉前監督と岩政大樹氏の対談「ポジショナルプレー実践論」。これは指導者目線で語られたがゆえに、「いかに選手に分かってもらうか」というベクトルが、そのまま読み手である我々素人にたいする「いかに読者に分かってもらうか」という方向性に一致していくので、記事の中で岩政氏がひとりで熱く盛り上がっていくポイントと、読み手の私のほうもシンクロして「そういうことですかー!! なるほどーー!」となった出色の対談。
 ちなみに普通こういう対談形式の記事は「聞き役の合いの手」が省かれることが多い。しかしこの記事では

「岩政:はい」

「岩政:あーー」

っていう、やたら挿入される岩政氏のこの短いリアクションが誌面で再現されていると、読んでいるこちらのリズムにも同調してくるので、このスタンスはわりと悪くないと個人的には思っている。

 そしてこちらも印象に残った記事としては、元Jリーガー井筒陸也氏とサガン鳥栖・小林祐三の対談。もともと音楽活動などサッカー選手以外の顔も積極的に見せていた“パンゾー”選手だったが、その発信力ゆえにいろんな言葉を持っている選手だということが改めて分かってすごく刺激的。コロナ禍におけるJリーガーは何を考えるべきか、という井筒氏の問いかけに対して小林祐三は、

「一回、絶望したらいいんじゃないと思うけど。
そこで絶望できるというのも、一つの指針になるなと思っていて。
でも、僕は絶望できなかった」

 刺さるフレーズである。
 ほかにも「フットボールにたいして盲目的にならないようにする、ほどよい脱力感」というテーマも興味深く、「子供のときからサッカーしかやってませんでした」というのが、日本の部活動のありかたなども含めて果たしてどうなんだろうかという教育文化的な側面にも通じるものがある。 やー、小林祐三に連載記事書いてもらえないだろうか(笑)。つまり、こういう『批評』のようなメディアこそが「語れるJリーガーを見いだしていく」という機能を果たしていくのではないかと思っていて、普段だとなかなか話せないことも、『批評』のような場だったら、心の内を自分のリアルな言葉で紡いでもらえるのではないかと、そういうことを改めて期待させた号だった。

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2019年8月 4日

#ファンの責任マラソン があるので #ファンの責任労働 というのもアリではないだろうか

今年の4月ごろ、あるサガン鳥栖のサポーターが、低迷するチーム状況にたいする自虐ネタ(?)として、Twitter上で「#ファンの責任マラソン」というハッシュタグを投じた。

おそらくそのサポーターも普段はランニングを趣味にしておられるのであろう。いわゆる部活動における「罰走」のようなノリで、愛するクラブが試合に負けたことの「責任」を取って自分が走る(走らされる)という状況を「ファンの責任」として位置づけたわけである。

やがてこのハッシュタグは、「Jリーグ×ランニング」の趣味を持つ多くの「Jサポランナー/Jユニランナー」の人々の琴線に触れ、じわじわと共有されるようになっていった(ように思う)。

もちろん、彼らの多くはもともと普段から自主的に走っているであろう人たちであるが、そうした日々のランニングのなかで、「応援しているチームが負けたときは、責任をとって“罰走”する」という、自虐的なファンタジーをある種のネタとして楽しむことができるわけだ。

このハッシュタグを追っていると、ほかにも「この機会に自分も走ってみようかな」というサポーターのつぶやきだったり、「全国のJサポランナーさんたちとつながれるような気がして楽しい」というコメントが見受けられたりもする。ちょっとした自虐ネタでつながる悲喜こもごもな日々。ふがいないチーム状況を憂う状況から転じて視点をちょっと変えてみると、サッカーファンとしてほんの少し日々の生活を楽しめるコツが、こうして新たに生まれていくのである。

そこで私は思うのだが、この「罰走」としてのマラソンを「労働」に置き換えてみても面白いのではないだろうか。つまり「チームが負けた責任の一部を負ってサポーターが労働に励む」というニュアンスで捉える「#ファンの責任労働」である。まぁ、チームが勝とうが負けようが、日々の労働をがんばるのは社会人として本来当然のこととはいえ、そんなに簡単に毎日がんばることなんてできない。だからこそ、そこの「がんばり」を、愛するクラブの成績にリンクさせてしまえば、苦しい労役のなかでも少しは笑顔になれるエネルギーが得られるのではないだろうか。「このあいだの試合、負けやがってー!」と、苦笑いをかみしめつつ。

「・・・言われなくても、しょっちゅうやってるわ!」っていうツッコミもあちこちから飛んできそうだが(笑)

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2018年2月 7日

あなたがチェルシーのサポーターにならないほうがいい10の理由

 先日、「PREMIER LEAGUE PUB」というサイトで「あなたがアーセナルサポーターになるべき3つの理由」という記事をうっかり最後まで読んでしまった(この記事)。
 読み終えてもアーセナルのファンにならなかった私は、この記事に対抗して「あなたがチェルシーサポーターになるべき3つの理由」という記事をすぐに書かないといけないと思った。
 しかし3つも理由が思いつかなかったので、仕方なく「あなたがチェルシーのサポーターにならないほうがいい理由」を考えてみると、どんどんネタがあふれ出てきたので、なんとか苦労して10個の理由にしぼった。
上質のパスサッカー、スペクタクルなサッカー哲学などに心躍らせている熱心なサッカーファンの方々が、以下につづく理由を読んで我が身の幸運をあらためて確かめることができれば幸いである。


(1)クラブの名前を人に伝えるときに、いつも微妙な思いをする
 趣味として「サッカー観戦」を挙げると「どこのチームを応援しているんですか?」と尋ねられて「チェルシー」と答えると、たいていの日本人にとってその名はまずもって「株式会社明治のキャンデー」の名称として受け止められる。
 実際、クラブの位置するロンドンのチェルシー地区の名前をこのキャンデーの商品名として採用したわけで、明治の公式サイトをみると「愛らしい」「女性的」「甘い感じ」「しゃれた感じ」という消費者テストの結果を受けてこの名前に決まったそうである。したがって我々がサポートするサッカークラブは、日本人的にはなんだかアメをなめまくったかのような甘ったるい響きを想起させるのであり、「アーセナル」とか「なんとかユナイテッド」とか、そういう勇ましい響きとは無縁なところから説明をスタートさせないといけないのである(「そう、アメじゃなくて・・・あ、アメのほうのチェルシーもおいしいですよね、ええ」)。


(2)チーム創設のきっかけが、あまりカッコよくない
 そもそもチェルシーFCは、すぐ近くにある別のクラブ、フルアムFCのために新しいスタジアムを建設したのに、話がこじれて「やっぱりそのスタジアムは要りません」となったことで、新たにサッカークラブを作ったことから始まったのである。つまりチェルシーFCは「仕方なく」作られたサッカークラブなのであり、最初に誰かの高貴な野心とか夢とかそういうものから芽生えたわけでもない、なんとも言えないビミョーな経緯から歴史が始まっていったのである。「八つ当たり的に、仕方なく始まったサッカークラブ」が、どういうわけか現在はイングランドのトップリーグや欧州チャンピオンズリーグで闘っているという自覚をチェルシーのサポーターは忘れてはいけないはずなのだが、たぶん多くの人は忘れたがっている。

(3)絶対的なライバル関係のあるクラブがない
 上記の理由からすれば、ご近所のフルアムFCとは因縁浅からぬ関係として、強烈なライバル意識が芽生えていてもおかしくはなかったはずである。しかしどういうわけか今日に至るまでそういう関係性を築くことには失敗しており、むしろ「兄弟」みたいな感覚すらある。まして近年のフルアムにおいては、前オーナーの趣味でスタジアムにマイケル・ジャクソンの像が建立されるなど、対抗意識というよりも困惑を覚えたり心配をしてしまうような気分になっているチェルシーファンも多いはずだ。
 なのでアーセナルとトッテナムのように、激しい敵意をむき出しにした緊張感あふれるダービーマッチとは無縁であることがチェルシーのつまらない部分である。そのくせ、イングランド国内はもちろん世界中のクラブ(そして審判も)からは総じて嫌われており、そういう意味では毎試合ムダにピリピリとした緊張感がただよっていると言えなくもない。

(4)若手育成のヘタさっぷりに耐えなければいけない
 充実した育成環境を誇り、世界でも屈指の優秀なユースチームを抱えているチェルシーFCは、トップチームで活躍できる有能なタレントを次々と輩出している・・・ただしここでいう「トップチーム」はチェルシー以外のクラブにおいて、である。
 また、近年でも資金力に物を言わせ世界中に張り巡らしたスカウティング網からニューヒーロー候補と目される若手選手の獲得に次々と成功してきたが、選手個人が成功するのは青いユニフォームを脱いだ後からになる。今シーズンも他チームでエース級の働きをみせているケヴィン・デ・ブライネ、モハメド・サラー、ロメル・ルカクなど、かつてはチェルシーの一員でいたことをサポーターはときおり思いだしては、やりきれない気持ちを抱えながら「踏み台」のような気分で生きていかざるを得ないのである。

(5)高額な移籍金を投じて外から獲ってくる大物選手が、絶不調になりやすいチーム環境であることに耐えなければいけな

 「フェルナンド・トーレス」。


(6)昭和のマンガのような名前のオーナーに振り回されることを覚悟しないといけない
 突如現れてチェルシーのオーナーになった「ロシアの石油王、アブラモビッチ氏」は日本人にとって「昭和のマンガかっ!?」とツッコミをいれたくなる存在であった。そんな衝撃の第一印象から、もうかれこれ15年ちかくになるわけだが、ロシア・マネー投入により“チェルスキー”と呼ばれ「金満チーム」と揶揄されつつも、最高レベルの才能を集め(そしてまた投げ売り)、50年ぶりのリーグ優勝やチャンピオンズリーグ初制覇を果たしたことは、なんだかんだ揺るぎない不朽の功績となった。ただし一方でよくわからない人事騒動が勃発したりするわけで、どんな有能な監督がチェルシーを率いても、ちょっとしたタイミングで突然解任されることに慣れないといけない。
 そうしてチームの方向性や戦術はコロコロ変わり、去年まで主力だった選手が突然ベンチ要因になったり放出リストに載ったりすることをいつも覚悟しなければいけない。このあたりのスリリングさは今後も続いてくだろうし、ある日突然、アブラモビッチがチームから手を引いて大混乱に陥って、崖から一気に転がり落ちていく危険性もあるわけで、そういう日がくることを・・・実は心のどこかで「怖いものみたさ」で期待してしまう自分もいたりする。
 「夢の劇場」だとか「美しく勝利せよ!」だとか「クラブ以上の存在」みたいな理念だとか「君は独りで歩くことはない」みたいなポエムを語りたがる人は決してチェルシーを応援してはいけない。しょせんこの世は結局、昭和のマンガみたいなもので、お日様は西から昇り、青い夕陽となってロンドンの街を染めていくのだ、それでいいのだ。よくないか。

(7)公式グッズのデザインがダサいことに耐えないといけない
 あくまで私の持論だが、サッカークラブが世界中にファンを増やすべくグローバルなブランド展開を推進させようとすると、クラブの公式グッズのデザインは、多様な国や世代に受け入れられやすいものになっていくため、どんどん平均的で無難なものに落ち着いていき、その結果すべてがダサい方向性になっていく。そしてチェルシーに関してはTシャツのデザインにそれが顕著であり、手に取りたくなるようなクールさとは無縁である。
 でもこの日本語「チェルシー」シャツは、あまりに酷いがゆえにジワジワくるので、今回あらためて見るとだんだん欲しくなってきた。そういう作戦か?

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(8)ホームの試合開始直前に流れるパンクな曲が、よく聴くと景気悪い
 ホームスタジアムのスタンフォード・ブリッジに近いキングス・ロードの通りはロンドン・パンク発祥の地であり、偉大なパンクバンド「ザ・クラッシュ」のフロントマン、故ジョー・ストラマーはチェルシーのファンでもあった。いつもホームゲームの試合開始直前には、ここぞというタイミングで、ザ・クラッシュの代表曲『ロンドン・コーリング』が一曲まるまるスタジアム内に大音量で流れるのが恒例となっており、それはチェルシーFCの数少ない美点のひとつだと個人的に思っている(しかし実はほかのロンドンのチームでも流れているらしいのだが、それはさておき)。



このクラブにとっていわば「裏のテーマソング」とも言えるこの『ロンドン・コーリング』だが、しかし曲の歌詞をよーくみてみると「ロンドンは水没する!」といったような不穏な内容で、おおよそ試合前の選手たちやサポーターを鼓舞するようなテイストではない。みんなを鬱屈した気分にさせてどうするんだ。

(9)ボハルデという選手のことで一生ネタにされ続けることに耐えないといけない
 
ついにこの話をしないといけないのか・・・

 ウィンストン・ボハルデ(Winston Bogarde)という名前はチェルシーを応援しようとする者にとっては避けて通れない存在である。メディアの企画で「サッカー選手の移籍をめぐる世紀の失敗例」みたいな記事がたまにあるが、ボハルデこそはそうしたランキングで常に優勝争いを繰り広げることになる「チェルシーFCの正真正銘の黒歴史」であるからだ。
 オランダ代表歴のある当時30歳のボハルデは2000年にチェルシーと4年契約を結ぶ。そして2004年までの4年間、リーグ戦先発はわずか2試合、通算でたった12試合の出場にとどまり、年俸は約4億円。早々に戦力構想外になりクラブもあの手この手で彼を放出したがったが、ボハルデは不屈の精神力でチェルシーに留まり続けて見事に4年契約を全うし、通算で約16億円のサラリーを得てサッカー界から引退した。

 たしかに監督交代のタイミングのアヤが問題の原因だと言われたり、当時のチェルシーが他のクラブに先駆けて多国籍軍化していった背景もあって、外国人選手のマネージメントにおいてはもはや「多様性! 何でもアリ!」な雰囲気があったのかもしれない。それにしてもボハルデに支払った給料、出場した1試合あたりで換算すると1億2千万円超・・・ボハルデがすごいのか、チェルシーのフロント陣がおめでたい連中なのか。おそらく今後もボハルデの名前はチェルシーサポーターをからかうにはひたすら金字塔的ネタでありつづける。
 
ちなみに近年よく知られているように、チェルシーでは30歳を超えた選手への複数年契約の更新は、たとえレジェンド級の選手であっても認められないという方針がある。このクラブの冷酷非情な実態を世間にさらしてしまっているのだが、この方針の影にはボハルデの事例があったからだろうと容易に想像される。
 
スーパー・ボハルデ、彼こそはある意味でチェルシーの歴史を変えたレジェンドともいえる。「ボハルディズム」という言葉すら生み出したくなるし、チェルシーサポーターとして生きる“負け犬”社会人のひとりとしては、どこかで「ボハルディズム」に共鳴したくなる気分がないといえばウソになる。

 ※そこで調子に乗って「ボハルディズム」のバナーまで作ってみた。クリックしたらデカイ画像になるので職場のパソコンの壁紙なんかにどうぞ。

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(10)自虐的で卑屈なサポーターとならざるを得なくなる
 チームの愛称は「Blues」だが、「ブルー=憂鬱」と捉えると、言い得て妙である。「でも今は強豪チームで、立派じゃないですか」と言われようと、そういう立場に不慣れなこともあり「たまたま今はお金があるだけ」とすぐに言い返したくなる。先述の通り、いついかなるタイミングで一気に没落するか分からない、その恐怖感と隣り合わせである不安定さのなかにおいて、かろうじて「応援する理由」を見出しているのがチェルシーサポーターであり、要するに面倒くさい人々である。

 しかし規模にかかわらず、イングランド国内にある数え切れないほどのサッカークラブのうち、95%ぐらいのクラブはこれと似たような、やっかいで面倒くさい事情を山のように抱えているとも言えるのではないか。つまりそうした境遇のイングランド国内の大小クラブの、たまたま頂点ぐらいに位置しているのがチェルシーFCなのだと思う。ジャイアント・キリングで格下にぶっ倒され、一気に下位ディビジョンの底なし沼に沈みゆく可能性に満ちていることはイングランドのあらゆるレベルで常に起こっていることで(特にFAカップという大会は、その過酷な現実を忘れさせないようにする啓発イベントの一環ではないかとすら思える)、チェルシーFCのサポーターとして味わえるもの、それはフットボール・クラブを応援することにまつわる哀れで報われない、先の見えない日々の終わりなき苦悩であり、輝かしい王冠が一瞬のうちに、指をすりぬけて地上にしたたる泥水のなかに落ちてゆくような幻想にとりつかれて生きていくことだ。ロンドン・コーリング!


 さて、ここまで我慢強く読んでくれるような人がいるとすれば、その人は哀れなチェルシーのサポーターか、好奇心旺盛なヒネくれたサッカーファンのどちらかであろう。ぜひ「チェルシーサポーターになるべき理由」を3つ挙げられるかどうか、悪夢の続きみたいな話をいつか語りあおう・・・。

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2014年6月11日

開幕戦ブラジル×クロアチアを観る予定はなかったのに、レフェリーに日本代表主審・西村雄一さんが抜擢されたのでうろたえる件

開幕戦は別に生で観なくていいかなーっていう感じでスケジューリングをしていたのだが、今朝になって審判団を日本のセットで行くというニュース。うおおぉぉぉ!!

これは日本サッカー界の歴史的快挙。Jリーグの審判のクオリティがこの重要なオープニングゲームを担うことになった。そして今大会のある種の基準作りという役割も果たすことになるのだろう。

主審の西村雄一さんは、ついこのあいだのJ-SPORTS『FOOT!』でゲスト出演していて、とても興味深かったのである。

プロ審判になるまでの修行期間、平日は営業職の仕事をしていたとのことで、その経験を通して、「売り物は判定で、判定の積み重ねでお客様の信頼を得ていく」というスタンスを培ってきたという。

まさにその信頼の積み重ねで、サッカー王国でのW杯の開幕戦を担当することになる。

この調子で決勝戦も吹いてほしいなーと日本のサッカーファンは思うだろう。実際、『FOOT!』でも最後にMCの倉敷さんが「決勝で、吹きたいですよねー」と言った。

しかし西村さん、その言葉には同意しなかった。

スパッと、こう言いきったのだ。

「いえ、私は日本代表が決勝にあがると信じていますから」

Nishimura

いやー、これはしびれた。カッコよかった。

そういうわけで、「日本代表の初戦」は、もうさっそく開幕戦から始まるのであった。

世界とつながる4年ぶりの日々がまたはじまる。

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2014年3月10日

「浦和レッズ差別的横断幕騒動」で気になった3つのこと

 先日の浦和レッズのホーム開幕戦で入場ゲートに差別的横断幕が掲げられたままだった問題について。

 その後の続報がまだ自分ではフォローできていないのだが、この時点で書いておきたいことがあるとすれば、まずはこの騒動が土曜にTwitterなどで広まった段階で、浦和レッズのサポーターがこの横断幕を掲げたことが確定的のような意見が見られたことが、ちょっと危ないなぁと思ったのである。一部のジャーナリストのツイートにもそういう「前提」が読めたりするのであるが、ちょっと待ってよ~と言いたい。

こういう横断幕を掲げる方法で、浦和のサポでもなんでもない人が、テロ行為のようにクラブに損害を与えることだって可能なわけだ(今回の騒動が示した教訓があるとすれば、そういう差別主義者によるアクションが日本のサッカー場だけじゃなくて企業や大学とか、とにかく人がたくさん集まるところでいつでも起こりえる可能性があることを周知させたことにある)。

なので、「どういう属性の人がこの行為をしたか」が確定するまでは、浦和レッズのサポーターは決して非難されるべきではないし、しちゃダメだ、と。

ふたつめ。

現時点で浦和レッズの公式HPが出している最新情報は「サガン鳥栖戦での出来事について(第2報)」なのだが、この内容を読むと・・・

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17時ごろ、209ゲートのコンコース側に『JAPANESE ONLY』という横断幕が掲げられているとの報告が、警備会社スタッフとソーシャルメディア上の情報を取得したクラブスタッフから入りました。17時9分に速やかに撤去するよう指示しました。通常、トラブル防止のため横断幕の撤去は、当事者との合意の上、取り除く手順となっておりますが、試合中であったため、最終的には18時4分に強制的に撤去いたしました。
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とある。まず言いたいのは・・・ちょっと話がずれるが、日本語をもっと丁寧に書いて欲しいことだ・・・サッカーでパスを出すのと同じで、文章を書くというのも「相手を思いやったパス出し」のように、読み手に届くパスワークを目指してくれと言いたい。

で、
「17時9分に速やかに撤去するよう指示しました」って、誰が誰に指示したの?

んで、それなのに、速やかに撤去しようと思ったけど、従来のルールでは「当事者と合意の上、撤去する手順」なもんだから、「試合中であったため」、結局試合が終わった18時まで撤去しないで横断幕が掲げられていた、というわけである。

ここで分かるのは、「試合が始まってしまえば、関係者を呼び出して横断幕の撤去について話し合うことができない」という認識でいたことだ。そんなに浦和のゴール裏って融通がきかない集団、と見なされているのだろうか?

だって、場合によってはクラブの勝ち点が剥奪されるかもしれないっていう事態なのに。

そういう可能性を理解する「サポーター」だったら、応援をやめて、状況の対処に協力する姿勢を示すはずなのだ。目の前の勝ち点が剥奪されるかもしれないのに、応援続けてもしょうがない。

どうして「試合がはじまったら」、横断幕のひとつも取り外せない事態になるのか。
(ましてや今回は、コンコースからスタンドに至る通路にあったものなのに)

逆にいえば、この運用でいくと、「試合開始と同時に、問題発言のある横断幕を掲げてしまえば、試合終了まで人目に触れられる」っていう戦略もアリになるのだった。

まぁ、この文書でも最後のほうに「今後については、明らかに差別的で不適切であるとクラブが判断した場合、横断幕などの撤去を行います。」とある。でもここからがややこしいのだ。

3つめのポイント。
「スタジアムを『言葉狩り』の場にしてほしくない」。

もちろん私も差別主義的な横断幕は掲示されるべきではないと考えるが、しかしサッカースタジアムにおける「過激な言動、ギリギリな表現」といった要素が、少しずつ「自主規制」によって方向性がゆがめられていくのであれば、それこそ世界に恥ずべき事態なんじゃないかと思ってしまうわけだ。

そのことに関連して触れると、最近のニュースでFIFAがワールドカップ本大会を前にして、「選手はいかなるメッセージもアンダーシャツに書いてはいけない」という通達を出したようなのだが、この動きについてもっとサッカージャーナリストは問題視すべきじゃないのかと思っている。まるで選手は黙ってプレーしろといわんばかりで、それならピッチサイドに置いてある集音マイクも取り外せよ、って言いたくなる。

わえわれ客席のファンもピッチ上の選手も、一人の人間として、いかなる思想信条を持っていても、言論の自由、表現の自由ってやつはギリギリ確保してほしいのである。そのうえで言動にはリスクと責任を伴っていることを意識しつつ、小さい動きであってもサッカーというワールドワイドな文化においては、途方もなく遠いところまでその影響を及ぼすかもしれないという想像力を抱えながら、あらゆる思想や表現をもってサッカーの試合を楽しく熱く、見守っていきたいのである。大げさかもしれないけど、それぐらいのプライドを持ってサッカースタジアムに向かうことは、あながち誇大妄想的ではないはずだ。

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2014年2月22日

「好きなこと」を仕事にし続ける情熱を絶やさないコツ:ライアン・ギグスに学ぶ

Number847

『Number』の最新号(No.847)。この2人が並ぶ表紙だと私は買うしかない。せっかくだったらモウ監督もスーツでキメてほしかったが(だってこれだといかにも『休日のパパ的風情』が、最近の彼はとくに強まる)。

「レジェンドが語る欧州フットボール論」って、もはやそれだけだと陳腐な企画のようにも思えるけど、それはそれで予想以上に楽しめた。

そのなかでもライアン・ギグスのインタビューがよかった。やはり現役を長く続けるうえでは、日々の自己管理が大事なわけだが、特に興味深かったのは「メンタルの管理」についての話。「成功に酔わず、試合で手応えを感じても、『で、次の対戦相手は?』とすぐに気持ちを切り替える」という話で、

「・・・その意味では、あんまりサッカーを楽しめていないのかもしれない。だから僕は、次に対戦するチームやマッチアップする選手のビデオを見終わった後、あえてまったく関係のない試合を眺めたりもするんだ。仕事のことを忘れて、純粋に一人のファンとしてサッカーを愛する気持ちを保っていくためにね」

とのこと。これはきっと、ギグスがその長いキャリアを築き選手として成熟していくうえで、そのプロセスのなかで編み出した自分なりの対処方法なのだと思う。ハングリー精神を失わないことと同じぐらい、「サッカーを純粋に楽しみ続ける気持ち」という、少年のような精神性も失わないように努めていく。その両輪があってこその、日々のフットボーラーとしての生活の積み重ねがあったということだ。こういう「対処法」を意識的にやりつづけるからこそ、ライアン・ギグスという選手は40歳になってもプレミアリーグのトップレベルでプレーを続けられている。「好きなことを仕事にすることの苦しみ」への対処法としてもヒントになりそうな話だ。

そのほかの記事では、いまベンフィカのディレクターを務めるルイ・コスタのインタビューも楽しかった。「背番号10番について語ってほしい」という依頼を持ち込んだら、忙しいにも関わらずやってきて語りまくって、あげくインタビュー後もわざわざ記者さんの携帯電話に「あと3人、言い忘れた背番号10がいる!」って電話をかける、そのルイ・コスタの人柄にグッときた。「相手が率先して語りたくなるテーマを用意する」っていうのは、ジャーナリズムの世界だけじゃなく、いろいろな場面でポイントになってくると思うわけで、ルイ・コスタも「10番」を語りたくてしょうがなかったんだなぁ、と微笑ましい気分になった。

そしてページをまたいで掲載されている夕暮れのリスボンの街並みの美しさも印象的。『Number』はスポーツ雑誌における『ナショナル・ジオグラフィック』だとずっと思っているのだが、こういう見事な風景写真が添えられると、海外サッカー観戦への旅情がかきたてられる。

そのあとに続く記事「フィリッポ・インザーギを訪ねて。」も秀逸。ルイ・コスタに「10番」を語ってもらうなら、「9番」を語るに相応しいのがインザーギなのは当然であったが、約束されたはずのインタビューが(ミランの新監督お家騒動のゴタゴタにより)勝手にドタキャンとなり、「実現しなかったインタビュー企画そのものをネタとして、無理矢理インザーギを語ってみる」という、このスタンスがいい。なんかこう、ドタバタのなかでも一瞬光る内容を見せるあたり、たった一発のチャンスをワンタッチで決めてギャーギャー喜びを爆発させるインザーギのキャラクターそのものっぽくて、ひるがえって記事として成立しているのがすごい。いつかインザーギだけで本を作ってほしい気がする。マジで。

Miniinzaghi

「ギャー!!」

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2013年12月25日

J-SPORTS『FOOT!』の小澤一郎氏によるスペイン人GKコーチ、ジョアン・ミレッ氏のインタビューが名言連発だった

そもそもこのサッカー用のブログをはじめた理由のひとつは、「よりよい生活を送る一助としてのサッカー的思想」といったネタをじっくり論じていきたかったからなのだが、どうしても構えすぎて自分のコトバで記事にすることが難しく感じていたりした。

で、

J-SPORTS 『FOOT !』 12月20日放送回で、いま湘南ベルマーレのアカデミーでGKコーチを担当すべくスペインから来日中のゴールキーパーコーチ、ジョアン・ミレッ氏のインタビューが紹介されていた。

このときミレッ氏が語った内容には、私がもし親だったら子どもに毎日読ませたいぐらいの言葉が並んでいたので、番組で流れた字幕をテキストで打ち込んでみた。

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最初にここ(湘南)に来た時GKはうつむき加減でトレーニングに来ていました。
GKは下を向いて歩いてはいけません。

試合でもゴールを決められると頭を下げて「すみません」と言っていました。
なぜ謝る必要があるのでしょうか?フットボールはそういうものではありません。
謝っていたらもっとゴールを決められるでしょう。
どんな状況でも続けなければいけないのです。

何があっても一人で立ち上がらないといけません。フットボールはまさに人生そのものです。フットボールの中で自分というものを表現しているのです。

人生がどんなものか、一番知っていなければいけないのはやはりGKです。
なぜならGKは隠れることができないからです。

フィールドの選手であればパスを受けたくないなと思ったら、わざと相手選手に近づいてアリバイプレイをすることができます。「マークされているからパスを受けたいけど無理でしょ?」という感じで。

しかしGKは絶対に逃げることも隠れることもできません。
ゴールを決められても続けてプレイしなければいけないのです。どんなにゴールを決められても立ち上がり続けるのです。

自分を見失わず堂々として立ち振る舞いをするというのは人生においても同じことです。

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まさにフットボール=人生の哲学。こういうコトバをこれからももっと大切にしていきたいのである。

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2013年5月16日

『FOOTBALL ACTIVIST』ZINEの第1号ができました

チェルシーぃぃ
祝・ヨーロッパリーグ優勝!

そしてこちらもようやく完成して嬉しいのです。

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『FOOTBALL ACTIVIST』#01号、テーマ「サッカーファンならではの方法で楽しんでみる、市民マラソン大会の応援~Jリーグサポーターよ、沿道に集まろう!」(本文16ページ、定価500円)

本当に小さい冊子ではありますが。

たとえばイングランドのフットボールシーンではこうした「ファンジン文化」は今でも残っているのですが、日本ではスポーツをモチーフにした小冊子が珍しい気がしていたので、こういうのをずっと作りたかったわけです。

というわけで、創刊号テーマとして、かねてからこのブログでも紹介している、例の「市民マラソンを走るサッカーウェア姿のランナーさんを勝手に応援しよう企画」を取り上げてみました。この応援をやるに至った経緯、そして応援のコツなどを16ページにわたって書いております。

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そしてさらに言えば、私としては今回のZineにおいては「浦和レッズの背番号7のユニフォームを着た女の子」のイラストを描けたことに、ひとつの達成感を覚えていたりします。

本冊子をお取り扱いしていただいているお店を紹介しますと・・・

★こうしたインディーズ自主出版などを扱っておられるオンラインストア「Lilmag」さんでは、さっそく紹介文を添えて販売していただいております(こちらのリンクをクリック)。

お店のHPのトップページは(こちら)。

実店舗の本屋さんでは、
★東京
SHIBUYA PUBLISHING BOOKSELLERS(お店のHPはこちら)

★京都
ガケ書房(お店のHPはこちら

上記お店にて販売していただいております!ありがとうございます!

このほかにも随時、取り扱っていただけるお店を募集中です。

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メールは prog_howe(at)hotmail.com  まで。

第一版は限定300冊をつくりました。
どうやったら、こういう冊子を読んでくれるサッカーファンの方々に届くのか、まったくおぼつかない状況でスタートしております。お知恵を拝借しながら、とにかくまずは冊子を作って、サッカーをプレイするがごとく、あちこち走りながら考えていこうと思っています。




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2013年4月17日

イングランド4部チェスターフィールドのサポーターになって、ベルギーから自転車で最終戦にかけつける人々の話

Qolyのサイトより。
「英4部の最終戦にベルギーから自転車で駆けつけるサポーターがいる 」

くわしくは(こちら)。

まさしく、こういう人をフットボール・アクティヴィストと呼ぶべきだな。

まず感じ入ったのは、あまり深い理由なく、イングランドでどこか応援できそうなチームはないかと探したのがきっかけで、このチェスターフィールドという弱小クラブをサポートしはじめたことだ。当時リーグ1(つまり3部リーグ)で最下位で、そういうチームを応援するのも面白そうだ、っていうノリ。

私はこういうノリでクラブを応援するのはアリだと思っている。
そこには特別な理由なんていらないのであった。フィーリングとか、偶然とか、そういうので全然いいと思う。

そして彼らがステキなのは、実際にチェスターフィールドのスタジアムや地元の街へいって、そこで充実した旅をしてきたことだ。こういう展開が、サッカーをめぐる楽しさの醍醐味だとも思う。
やはり「現地へいく、本物に出会う」というのは、何物にも代えがたいものがあるわけだ。

で、今回はチャリティーとして自転車で現地に向かうということで、ちょうど最新号の『クーリエ・ジャポン』誌のコラムで書かれていた、イギリス人特有のチャリティ精神のことを思い出させた。つまり、チャリティでホスピス支援のための寄付を募ることと、ベルギーからチェスターフィールドまで自転車で行くことには何の論理性や因果性もないはずなのだが、この国におけるチャリティとは、「ロジックではなく、精神としてのチャリティ」、その勇気や志を支援するのもチャリティなのであるという気風が関係しているという(それでようやく、日本の24時間テレビのマラソンもなんとなくそこにつながってくるのか、と思い至った)。

実際このチャリティも、スタジアム・アナウンサーから提案されたアイデアと紹介されているが、そのアイデアにたいしてすぐにアクションを起こしてしまう、このベルギー人たちのノリの良さ、柔軟性みたいなものは見習いたいものである。

ちなみにQolyのサイトで最近ほかにグッときたニュースは「40年ぶりに試合に“行けなかった”サポーター」のおじいさんの話(これだ)。1786試合つづけてフォレストの試合を観てきたっていう、まずはそのことが驚異的だっての。

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2013年4月 1日

サッカー文化と「政治的なるもの」とのマッチアップのなかで生きること:『アナキストサッカーマニュアル』を読んで

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『アナキストサッカーマニュアル:スタジアムに歓声を、革命にサッカーを』
ガブリエル・クーン著、甘糟智子・訳、レイジ・フットボール・コレクティブ・協力 現代企画室・刊

この数週間、この本について何をどう説明して書こうかと、あれこれと思索してみたのだが、タイトルに「マニュアル」とあって、それはつまり網羅的な情報を伝えていこうという意図のもとで書かれた本ゆえに、全体的にこれだ、という説明が難しいことを感じている。

この本はまさに文字通りの「アクティビスト」、つまり政治・社会運動の文脈において考察されていくサッカー本である。このブログで私が「フットボール・アクティビスト」と名乗ってはいるものの、このような本の前においては、まったくアクティビストのアの字にも至っていないわけだが・・・。

それでもなお、まずはこの本の内容について、自分なりのコトバで一文でまとめてみると、

「タイトルに『アナキスト』って書いてあるが、実際にはこの本の著者は、左サイドに張り付いてプレーをするのではなく、できるだけ中盤の真ん中にポジションをとり、巧みなプレーで『政治とサッカー』をめぐる世界中の多彩な出来事をパス出ししてくれる好著である」

ということだ。決してこれは、左派政治運動の極端な人による極端な物言いで埋め尽くされている本ではない(と、少なくとも私はそう受け止めている)。
サッカーのボランチのように、非常にバランスを意識したポジショニングで、著者が誠実に、「サッカーと政治」を語ろうとしている努力が伝わってきて、いままで読んだサッカー本のなかでも際だって特別な位置を占めそうな予感がある。

つまりは、「パスの受け手(読者)」である我々の読み方にかかってくる。
それゆえ、「フットボール的」な書籍であった。

この本を日本語で読めるようにしてくれたことに最大限の感謝を示したい。

で、

正直なところ、私はこの本を読んで、どうしていいかわからないぐらい「ヤバい、ヤバいぞ」という気分でいる。
その「ヤバい」という感覚は何かというと、「知らないこと、考えが至っていないことが、まだまだたくさんありすぎる」ことへの焦燥感だ。そこを刺激してくれる本なのである。

「反人種差別ワールドカップ」、「オルタナティブ・ワールドカップ」、「金の警棒賞(最も暴力的な警備を行うクラブに与えられる)」のこととか、あとサッカー文化におけるセクシャル・マイノリティの運動がこれほど活発になっていることとか、今までまったく知らなかったことがたくさん紹介されている。

さらにいうと、伝統的な政治的議論だと、「サッカーは大衆のためのアヘンであり、政治意識を失わせるので害のあるスポーツだ」と言われてきたことが、そういう方向ではなく、「異なる立場の人びとを結びつけ、連帯させるエネルギーを有する、世界で最も愛されているツール」のようにサッカーを捉えて、その可能性や面白さをいかに活用していくかということに向かっていくのであれば、ラディカルな政治意識をもったまま、サッカーを応援することに矛盾を感じなくて済むわけで、そしてそういうバランス感覚でなされている実践がすでに世界のあちこちで試みられていて、それは(個人的にも)重要な示唆に富んだヒントをもたらしてくれる。

「サッカーを『大衆のアヘン』や資本家たちの楽園でしかないとみなしたり、ナショナリズムや派閥心を育む反動的な温床だとみなすのは短絡的だ。サッカーには、直接民主主義や連帯、それから忘れてはならないのは、楽しさといったことに基づくコミュニティの形成と確立を促進する価値観が生来的に備わっている」(p.322)

「理想的な状況下であれば、サッカーは個人の自由と社会的責任の結合を体験する、そして実験する、完全な環境である。その上、社会と同様、チームが成功するためには異なるスキルを持った人間が協力し合わなければならない。マラドーナばかりが10人いてもW杯で優勝はできないだろう。マラドーナが輝くためには、彼が出来ないたくさんの仕事を他のチームメートがやらなければならない。堅固なディフェンスラインを敷き、ルーズボールを追い、相手をタックルし、頭で競り勝ち(『神の手』は使わずに)といった具合だ。『名もない』チームがスター満載のチームを倒してきた例がサッカーの歴史に多いのは、選手たちが自分たちの能力を、チームとして最大限発揮したからだ。サッカーは個人の才能を、社会的に最も有益となる形で結集させることを人びとに教えてくれる」(p.326)


というわけで、今後もできるかぎり再読して、気合いを入れてこの本に書かれている情報を自分でもフォローしていきたい。もし可能であれば、この本をもとに、そう、まさにこの本とピッチ上でパス交換をするがごとく、自分なりにZine冊子のようなかたちで、この本から得られたものを別の形にして自分なりに表現・発信していけたらいいなと考えているし、そしてまたこの本の帯に書かれている言葉を借りれば「ラジカル・フットボーリズム」とはそういう態度こそが求められていると思う。そうさせるだけのエネルギーと、好奇心の高揚と、ちょっとした勇気をもたらしてくれたこの本に、そしてサッカーそのものにも、感謝したくなる。

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