フットボール哲学/philosophy

2014年6月11日

開幕戦ブラジル×クロアチアを観る予定はなかったのに、レフェリーに日本代表主審・西村雄一さんが抜擢されたのでうろたえる件

開幕戦は別に生で観なくていいかなーっていう感じでスケジューリングをしていたのだが、今朝になって審判団を日本のセットで行くというニュース。うおおぉぉぉ!!

これは日本サッカー界の歴史的快挙。Jリーグの審判のクオリティがこの重要なオープニングゲームを担うことになった。そして今大会のある種の基準作りという役割も果たすことになるのだろう。

主審の西村雄一さんは、ついこのあいだのJ-SPORTS『FOOT!』でゲスト出演していて、とても興味深かったのである。

プロ審判になるまでの修行期間、平日は営業職の仕事をしていたとのことで、その経験を通して、「売り物は判定で、判定の積み重ねでお客様の信頼を得ていく」というスタンスを培ってきたという。

まさにその信頼の積み重ねで、サッカー王国でのW杯の開幕戦を担当することになる。

この調子で決勝戦も吹いてほしいなーと日本のサッカーファンは思うだろう。実際、『FOOT!』でも最後にMCの倉敷さんが「決勝で、吹きたいですよねー」と言った。

しかし西村さん、その言葉には同意しなかった。

スパッと、こう言いきったのだ。

「いえ、私は日本代表が決勝にあがると信じていますから」

Nishimura

いやー、これはしびれた。カッコよかった。

そういうわけで、「日本代表の初戦」は、もうさっそく開幕戦から始まるのであった。

世界とつながる4年ぶりの日々がまたはじまる。

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2014年3月10日

「浦和レッズ差別的横断幕騒動」で気になった3つのこと

 先日の浦和レッズのホーム開幕戦で入場ゲートに差別的横断幕が掲げられたままだった問題について。

 その後の続報がまだ自分ではフォローできていないのだが、この時点で書いておきたいことがあるとすれば、まずはこの騒動が土曜にTwitterなどで広まった段階で、浦和レッズのサポーターがこの横断幕を掲げたことが確定的のような意見が見られたことが、ちょっと危ないなぁと思ったのである。一部のジャーナリストのツイートにもそういう「前提」が読めたりするのであるが、ちょっと待ってよ~と言いたい。

こういう横断幕を掲げる方法で、浦和のサポでもなんでもない人が、テロ行為のようにクラブに損害を与えることだって可能なわけだ(今回の騒動が示した教訓があるとすれば、そういう差別主義者によるアクションが日本のサッカー場だけじゃなくて企業や大学とか、とにかく人がたくさん集まるところでいつでも起こりえる可能性があることを周知させたことにある)。

なので、「どういう属性の人がこの行為をしたか」が確定するまでは、浦和レッズのサポーターは決して非難されるべきではないし、しちゃダメだ、と。

ふたつめ。

現時点で浦和レッズの公式HPが出している最新情報は「サガン鳥栖戦での出来事について(第2報)」なのだが、この内容を読むと・・・

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17時ごろ、209ゲートのコンコース側に『JAPANESE ONLY』という横断幕が掲げられているとの報告が、警備会社スタッフとソーシャルメディア上の情報を取得したクラブスタッフから入りました。17時9分に速やかに撤去するよう指示しました。通常、トラブル防止のため横断幕の撤去は、当事者との合意の上、取り除く手順となっておりますが、試合中であったため、最終的には18時4分に強制的に撤去いたしました。
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とある。まず言いたいのは・・・ちょっと話がずれるが、日本語をもっと丁寧に書いて欲しいことだ・・・サッカーでパスを出すのと同じで、文章を書くというのも「相手を思いやったパス出し」のように、読み手に届くパスワークを目指してくれと言いたい。

で、
「17時9分に速やかに撤去するよう指示しました」って、誰が誰に指示したの?

んで、それなのに、速やかに撤去しようと思ったけど、従来のルールでは「当事者と合意の上、撤去する手順」なもんだから、「試合中であったため」、結局試合が終わった18時まで撤去しないで横断幕が掲げられていた、というわけである。

ここで分かるのは、「試合が始まってしまえば、関係者を呼び出して横断幕の撤去について話し合うことができない」という認識でいたことだ。そんなに浦和のゴール裏って融通がきかない集団、と見なされているのだろうか?

だって、場合によってはクラブの勝ち点が剥奪されるかもしれないっていう事態なのに。

そういう可能性を理解する「サポーター」だったら、応援をやめて、状況の対処に協力する姿勢を示すはずなのだ。目の前の勝ち点が剥奪されるかもしれないのに、応援続けてもしょうがない。

どうして「試合がはじまったら」、横断幕のひとつも取り外せない事態になるのか。
(ましてや今回は、コンコースからスタンドに至る通路にあったものなのに)

逆にいえば、この運用でいくと、「試合開始と同時に、問題発言のある横断幕を掲げてしまえば、試合終了まで人目に触れられる」っていう戦略もアリになるのだった。

まぁ、この文書でも最後のほうに「今後については、明らかに差別的で不適切であるとクラブが判断した場合、横断幕などの撤去を行います。」とある。でもここからがややこしいのだ。

3つめのポイント。
「スタジアムを『言葉狩り』の場にしてほしくない」。

もちろん私も差別主義的な横断幕は掲示されるべきではないと考えるが、しかしサッカースタジアムにおける「過激な言動、ギリギリな表現」といった要素が、少しずつ「自主規制」によって方向性がゆがめられていくのであれば、それこそ世界に恥ずべき事態なんじゃないかと思ってしまうわけだ。

そのことに関連して触れると、最近のニュースでFIFAがワールドカップ本大会を前にして、「選手はいかなるメッセージもアンダーシャツに書いてはいけない」という通達を出したようなのだが、この動きについてもっとサッカージャーナリストは問題視すべきじゃないのかと思っている。まるで選手は黙ってプレーしろといわんばかりで、それならピッチサイドに置いてある集音マイクも取り外せよ、って言いたくなる。

わえわれ客席のファンもピッチ上の選手も、一人の人間として、いかなる思想信条を持っていても、言論の自由、表現の自由ってやつはギリギリ確保してほしいのである。そのうえで言動にはリスクと責任を伴っていることを意識しつつ、小さい動きであってもサッカーというワールドワイドな文化においては、途方もなく遠いところまでその影響を及ぼすかもしれないという想像力を抱えながら、あらゆる思想や表現をもってサッカーの試合を楽しく熱く、見守っていきたいのである。大げさかもしれないけど、それぐらいのプライドを持ってサッカースタジアムに向かうことは、あながち誇大妄想的ではないはずだ。

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2014年2月22日

「好きなこと」を仕事にし続ける情熱を絶やさないコツ:ライアン・ギグスに学ぶ

Number847

『Number』の最新号(No.847)。この2人が並ぶ表紙だと私は買うしかない。せっかくだったらモウ監督もスーツでキメてほしかったが(だってこれだといかにも『休日のパパ的風情』が、最近の彼はとくに強まる)。

「レジェンドが語る欧州フットボール論」って、もはやそれだけだと陳腐な企画のようにも思えるけど、それはそれで予想以上に楽しめた。

そのなかでもライアン・ギグスのインタビューがよかった。やはり現役を長く続けるうえでは、日々の自己管理が大事なわけだが、特に興味深かったのは「メンタルの管理」についての話。「成功に酔わず、試合で手応えを感じても、『で、次の対戦相手は?』とすぐに気持ちを切り替える」という話で、

「・・・その意味では、あんまりサッカーを楽しめていないのかもしれない。だから僕は、次に対戦するチームやマッチアップする選手のビデオを見終わった後、あえてまったく関係のない試合を眺めたりもするんだ。仕事のことを忘れて、純粋に一人のファンとしてサッカーを愛する気持ちを保っていくためにね」

とのこと。これはきっと、ギグスがその長いキャリアを築き選手として成熟していくうえで、そのプロセスのなかで編み出した自分なりの対処方法なのだと思う。ハングリー精神を失わないことと同じぐらい、「サッカーを純粋に楽しみ続ける気持ち」という、少年のような精神性も失わないように努めていく。その両輪があってこその、日々のフットボーラーとしての生活の積み重ねがあったということだ。こういう「対処法」を意識的にやりつづけるからこそ、ライアン・ギグスという選手は40歳になってもプレミアリーグのトップレベルでプレーを続けられている。「好きなことを仕事にすることの苦しみ」への対処法としてもヒントになりそうな話だ。

そのほかの記事では、いまベンフィカのディレクターを務めるルイ・コスタのインタビューも楽しかった。「背番号10番について語ってほしい」という依頼を持ち込んだら、忙しいにも関わらずやってきて語りまくって、あげくインタビュー後もわざわざ記者さんの携帯電話に「あと3人、言い忘れた背番号10がいる!」って電話をかける、そのルイ・コスタの人柄にグッときた。「相手が率先して語りたくなるテーマを用意する」っていうのは、ジャーナリズムの世界だけじゃなく、いろいろな場面でポイントになってくると思うわけで、ルイ・コスタも「10番」を語りたくてしょうがなかったんだなぁ、と微笑ましい気分になった。

そしてページをまたいで掲載されている夕暮れのリスボンの街並みの美しさも印象的。『Number』はスポーツ雑誌における『ナショナル・ジオグラフィック』だとずっと思っているのだが、こういう見事な風景写真が添えられると、海外サッカー観戦への旅情がかきたてられる。

そのあとに続く記事「フィリッポ・インザーギを訪ねて。」も秀逸。ルイ・コスタに「10番」を語ってもらうなら、「9番」を語るに相応しいのがインザーギなのは当然であったが、約束されたはずのインタビューが(ミランの新監督お家騒動のゴタゴタにより)勝手にドタキャンとなり、「実現しなかったインタビュー企画そのものをネタとして、無理矢理インザーギを語ってみる」という、このスタンスがいい。なんかこう、ドタバタのなかでも一瞬光る内容を見せるあたり、たった一発のチャンスをワンタッチで決めてギャーギャー喜びを爆発させるインザーギのキャラクターそのものっぽくて、ひるがえって記事として成立しているのがすごい。いつかインザーギだけで本を作ってほしい気がする。マジで。

Miniinzaghi

「ギャー!!」

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2013年12月25日

J-SPORTS『FOOT!』の小澤一郎氏によるスペイン人GKコーチ、ジョアン・ミレッ氏のインタビューが名言連発だった

そもそもこのサッカー用のブログをはじめた理由のひとつは、「よりよい生活を送る一助としてのサッカー的思想」といったネタをじっくり論じていきたかったからなのだが、どうしても構えすぎて自分のコトバで記事にすることが難しく感じていたりした。

で、

J-SPORTS 『FOOT !』 12月20日放送回で、いま湘南ベルマーレのアカデミーでGKコーチを担当すべくスペインから来日中のゴールキーパーコーチ、ジョアン・ミレッ氏のインタビューが紹介されていた。

このときミレッ氏が語った内容には、私がもし親だったら子どもに毎日読ませたいぐらいの言葉が並んでいたので、番組で流れた字幕をテキストで打ち込んでみた。

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最初にここ(湘南)に来た時GKはうつむき加減でトレーニングに来ていました。
GKは下を向いて歩いてはいけません。

試合でもゴールを決められると頭を下げて「すみません」と言っていました。
なぜ謝る必要があるのでしょうか?フットボールはそういうものではありません。
謝っていたらもっとゴールを決められるでしょう。
どんな状況でも続けなければいけないのです。

何があっても一人で立ち上がらないといけません。フットボールはまさに人生そのものです。フットボールの中で自分というものを表現しているのです。

人生がどんなものか、一番知っていなければいけないのはやはりGKです。
なぜならGKは隠れることができないからです。

フィールドの選手であればパスを受けたくないなと思ったら、わざと相手選手に近づいてアリバイプレイをすることができます。「マークされているからパスを受けたいけど無理でしょ?」という感じで。

しかしGKは絶対に逃げることも隠れることもできません。
ゴールを決められても続けてプレイしなければいけないのです。どんなにゴールを決められても立ち上がり続けるのです。

自分を見失わず堂々として立ち振る舞いをするというのは人生においても同じことです。

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まさにフットボール=人生の哲学。こういうコトバをこれからももっと大切にしていきたいのである。

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2013年5月16日

『FOOTBALL ACTIVIST』ZINEの第1号ができました

チェルシーぃぃ
祝・ヨーロッパリーグ優勝!

そしてこちらもようやく完成して嬉しいのです。

Fazine_02


『FOOTBALL ACTIVIST』#01号、テーマ「サッカーファンならではの方法で楽しんでみる、市民マラソン大会の応援~Jリーグサポーターよ、沿道に集まろう!」(本文16ページ、定価500円)

本当に小さい冊子ではありますが。

たとえばイングランドのフットボールシーンではこうした「ファンジン文化」は今でも残っているのですが、日本ではスポーツをモチーフにした小冊子が珍しい気がしていたので、こういうのをずっと作りたかったわけです。

というわけで、創刊号テーマとして、かねてからこのブログでも紹介している、例の「市民マラソンを走るサッカーウェア姿のランナーさんを勝手に応援しよう企画」を取り上げてみました。この応援をやるに至った経緯、そして応援のコツなどを16ページにわたって書いております。

Fazine01_02

そしてさらに言えば、私としては今回のZineにおいては「浦和レッズの背番号7のユニフォームを着た女の子」のイラストを描けたことに、ひとつの達成感を覚えていたりします。

本冊子をお取り扱いしていただいているお店を紹介しますと・・・

★こうしたインディーズ自主出版などを扱っておられるオンラインストア「Lilmag」さんでは、さっそく紹介文を添えて販売していただいております(こちらのリンクをクリック)。

お店のHPのトップページは(こちら)。

実店舗の本屋さんでは、
★東京
SHIBUYA PUBLISHING BOOKSELLERS(お店のHPはこちら)

★京都
ガケ書房(お店のHPはこちら

上記お店にて販売していただいております!ありがとうございます!

このほかにも随時、取り扱っていただけるお店を募集中です。

もちろん著者本人にもお問い合わせいただければ対応いたします!
メールは prog_howe(at)hotmail.com  まで。

第一版は限定300冊をつくりました。
どうやったら、こういう冊子を読んでくれるサッカーファンの方々に届くのか、まったくおぼつかない状況でスタートしております。お知恵を拝借しながら、とにかくまずは冊子を作って、サッカーをプレイするがごとく、あちこち走りながら考えていこうと思っています。




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2013年4月17日

イングランド4部チェスターフィールドのサポーターになって、ベルギーから自転車で最終戦にかけつける人々の話

Qolyのサイトより。
「英4部の最終戦にベルギーから自転車で駆けつけるサポーターがいる 」

くわしくは(こちら)。

まさしく、こういう人をフットボール・アクティヴィストと呼ぶべきだな。

まず感じ入ったのは、あまり深い理由なく、イングランドでどこか応援できそうなチームはないかと探したのがきっかけで、このチェスターフィールドという弱小クラブをサポートしはじめたことだ。当時リーグ1(つまり3部リーグ)で最下位で、そういうチームを応援するのも面白そうだ、っていうノリ。

私はこういうノリでクラブを応援するのはアリだと思っている。
そこには特別な理由なんていらないのであった。フィーリングとか、偶然とか、そういうので全然いいと思う。

そして彼らがステキなのは、実際にチェスターフィールドのスタジアムや地元の街へいって、そこで充実した旅をしてきたことだ。こういう展開が、サッカーをめぐる楽しさの醍醐味だとも思う。
やはり「現地へいく、本物に出会う」というのは、何物にも代えがたいものがあるわけだ。

で、今回はチャリティーとして自転車で現地に向かうということで、ちょうど最新号の『クーリエ・ジャポン』誌のコラムで書かれていた、イギリス人特有のチャリティ精神のことを思い出させた。つまり、チャリティでホスピス支援のための寄付を募ることと、ベルギーからチェスターフィールドまで自転車で行くことには何の論理性や因果性もないはずなのだが、この国におけるチャリティとは、「ロジックではなく、精神としてのチャリティ」、その勇気や志を支援するのもチャリティなのであるという気風が関係しているという(それでようやく、日本の24時間テレビのマラソンもなんとなくそこにつながってくるのか、と思い至った)。

実際このチャリティも、スタジアム・アナウンサーから提案されたアイデアと紹介されているが、そのアイデアにたいしてすぐにアクションを起こしてしまう、このベルギー人たちのノリの良さ、柔軟性みたいなものは見習いたいものである。

ちなみにQolyのサイトで最近ほかにグッときたニュースは「40年ぶりに試合に“行けなかった”サポーター」のおじいさんの話(これだ)。1786試合つづけてフォレストの試合を観てきたっていう、まずはそのことが驚異的だっての。

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2013年4月 1日

サッカー文化と「政治的なるもの」とのマッチアップのなかで生きること:『アナキストサッカーマニュアル』を読んで

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『アナキストサッカーマニュアル:スタジアムに歓声を、革命にサッカーを』
ガブリエル・クーン著、甘糟智子・訳、レイジ・フットボール・コレクティブ・協力 現代企画室・刊

この数週間、この本について何をどう説明して書こうかと、あれこれと思索してみたのだが、タイトルに「マニュアル」とあって、それはつまり網羅的な情報を伝えていこうという意図のもとで書かれた本ゆえに、全体的にこれだ、という説明が難しいことを感じている。

この本はまさに文字通りの「アクティビスト」、つまり政治・社会運動の文脈において考察されていくサッカー本である。このブログで私が「フットボール・アクティビスト」と名乗ってはいるものの、このような本の前においては、まったくアクティビストのアの字にも至っていないわけだが・・・。

それでもなお、まずはこの本の内容について、自分なりのコトバで一文でまとめてみると、

「タイトルに『アナキスト』って書いてあるが、実際にはこの本の著者は、左サイドに張り付いてプレーをするのではなく、できるだけ中盤の真ん中にポジションをとり、巧みなプレーで『政治とサッカー』をめぐる世界中の多彩な出来事をパス出ししてくれる好著である」

ということだ。決してこれは、左派政治運動の極端な人による極端な物言いで埋め尽くされている本ではない(と、少なくとも私はそう受け止めている)。
サッカーのボランチのように、非常にバランスを意識したポジショニングで、著者が誠実に、「サッカーと政治」を語ろうとしている努力が伝わってきて、いままで読んだサッカー本のなかでも際だって特別な位置を占めそうな予感がある。

つまりは、「パスの受け手(読者)」である我々の読み方にかかってくる。
それゆえ、「フットボール的」な書籍であった。

この本を日本語で読めるようにしてくれたことに最大限の感謝を示したい。

で、

正直なところ、私はこの本を読んで、どうしていいかわからないぐらい「ヤバい、ヤバいぞ」という気分でいる。
その「ヤバい」という感覚は何かというと、「知らないこと、考えが至っていないことが、まだまだたくさんありすぎる」ことへの焦燥感だ。そこを刺激してくれる本なのである。

「反人種差別ワールドカップ」、「オルタナティブ・ワールドカップ」、「金の警棒賞(最も暴力的な警備を行うクラブに与えられる)」のこととか、あとサッカー文化におけるセクシャル・マイノリティの運動がこれほど活発になっていることとか、今までまったく知らなかったことがたくさん紹介されている。

さらにいうと、伝統的な政治的議論だと、「サッカーは大衆のためのアヘンであり、政治意識を失わせるので害のあるスポーツだ」と言われてきたことが、そういう方向ではなく、「異なる立場の人びとを結びつけ、連帯させるエネルギーを有する、世界で最も愛されているツール」のようにサッカーを捉えて、その可能性や面白さをいかに活用していくかということに向かっていくのであれば、ラディカルな政治意識をもったまま、サッカーを応援することに矛盾を感じなくて済むわけで、そしてそういうバランス感覚でなされている実践がすでに世界のあちこちで試みられていて、それは(個人的にも)重要な示唆に富んだヒントをもたらしてくれる。

「サッカーを『大衆のアヘン』や資本家たちの楽園でしかないとみなしたり、ナショナリズムや派閥心を育む反動的な温床だとみなすのは短絡的だ。サッカーには、直接民主主義や連帯、それから忘れてはならないのは、楽しさといったことに基づくコミュニティの形成と確立を促進する価値観が生来的に備わっている」(p.322)

「理想的な状況下であれば、サッカーは個人の自由と社会的責任の結合を体験する、そして実験する、完全な環境である。その上、社会と同様、チームが成功するためには異なるスキルを持った人間が協力し合わなければならない。マラドーナばかりが10人いてもW杯で優勝はできないだろう。マラドーナが輝くためには、彼が出来ないたくさんの仕事を他のチームメートがやらなければならない。堅固なディフェンスラインを敷き、ルーズボールを追い、相手をタックルし、頭で競り勝ち(『神の手』は使わずに)といった具合だ。『名もない』チームがスター満載のチームを倒してきた例がサッカーの歴史に多いのは、選手たちが自分たちの能力を、チームとして最大限発揮したからだ。サッカーは個人の才能を、社会的に最も有益となる形で結集させることを人びとに教えてくれる」(p.326)


というわけで、今後もできるかぎり再読して、気合いを入れてこの本に書かれている情報を自分でもフォローしていきたい。もし可能であれば、この本をもとに、そう、まさにこの本とピッチ上でパス交換をするがごとく、自分なりにZine冊子のようなかたちで、この本から得られたものを別の形にして自分なりに表現・発信していけたらいいなと考えているし、そしてまたこの本の帯に書かれている言葉を借りれば「ラジカル・フットボーリズム」とはそういう態度こそが求められていると思う。そうさせるだけのエネルギーと、好奇心の高揚と、ちょっとした勇気をもたらしてくれたこの本に、そしてサッカーそのものにも、感謝したくなる。

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2012年12月13日

いただいた言葉

先日のクラブW杯のチケットについて問い合わせてくれた海外のチェルシーのサポーターさんから、このようなメールをいただいた。

I truly appreciate all the helpful and thoughtful gesture you've done for me and probably all the visiting Chelsea FC fans. On behalf of all the traveling Chelsea fans, I'd like to express my thanks and gratefulness.

Faith on humanity has been restored! Yes, I'll come by and say hi if I happen to chance upon you.

Domo Arigato Tateishi-san


「今回来日したチェルシーファンを代表して、御礼と感謝の気持ちを述べたい」

この言葉をいただけたことで、すでに私にとって今回のクラブW杯は人生においてとても大切な大会になったと思う。

そして、私だけでなく、このチェルシーファン向け情報提供サイトのために協力をしていただいたYさんご夫妻、M・フィオリオ氏、そして上司のSさんにもこのサポーターからのメッセージを捧げたいと思う。本当にありがとうございます!

サッカーを通じて、こういうかたちの交流ができ、温かい気持ちになれる喜びと面白さを、これからも多くの人と分かち合いたいと思う。

そして私も明日、横浜へいく。ついにチェルシーFCの登場だ。

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2012年11月22日

The way of my life with Chelsea is a way of confronting a sense of defeat.

飲み食いして帰宅して寝る前にネットをみたら、ディ・マッテオ監督解任のニュースを今になって知る。

だからあわててこうしてブログを書いてしまう。、

つくづく、なんでこういうことになってしまうのかと残念な気持ちでいる。

でも自分のスタンスとしては、
The way of my life with Chelsea is a way of confronting a sense of defeat.
この英文を書いてみて、あらためて感じるところがあって、正しい英語なのかどうかはさておき、チェルシーが好きになった理由のひとつにあった、「強いけど負ける部分」、まさに「敗北力」の美学のありかたをつきつけられたクラブであると感じたところにある。

そこの「美学」をもっと見せて欲しい。
勝ち続けられるクラブなんてあるわけないだろ馬鹿野郎。
負けたときに、いかにその状況のなかで佇むか。その姿勢、その意志、その勇気が、クラブの姿を磨き続けていく。そこに途方もない愛や情熱や挑戦や悔しさや美しさや執念や醜さが、ギューーーっとワケ分からないぐらいに凝縮されていくからこそ我々は「次の試合」に向けてまた一歩を踏み出せるのである。だってそれが自分の人生の生き写しみたいなものにさえなっていくのだから。

あぁ、だから、もうちょっと、人生を磨き続けるためのアートの部分、言葉や数字にできない難しい領域ではあるが、それでもフットボールの根幹の美しさを、時間をかけて追求していくクラブであってほしい。サポーターとしてそういう念を送るしかない。そしてついに12月がやってくるのである。

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2012年9月25日

映画館でマジ泣きしながら観た『コッホ先生と僕らの革命』に、日本のサッカーファンとして心からの「ありがとう」を伝えたい

Kakumei

ドイツにおけるサッカーの創始期を描く、史実に基づく映画である。
1874年。イギリス帰りのコッホ先生が、サッカーボールを手にドイツに戻り、名門校で英語を教えることになる。

規律と服従を重んじるドイツ式教育のなかにあって、「自主性」と「フェアプレー精神」と「仲間を大切にする気持ち」を育みたいと思い、コッホ先生はイギリス留学中に出会ったあたらしいスポーツ、サッカーを通した授業を取り入れる。

ただしサッカーは国民教育的観点(またブルジョワ的価値観)からみると「野蛮」なものであり、従来の体育教育にはそぐわないものとして、同僚の教師や教育後援会の圧力によりコッホ先生とサッカーは排斥されようとする。

そうして学校ではサッカーが「禁止」となり、こっそりやっていた校外でのサッカーもバレて禁じられていく。しかし最終的に、国からの「視察」というイベントが契機となって、サッカーというスポーツが教育現場で活用できるかどうかという判断がされることになり、生徒たちの知恵と努力で試合にこぎつけるところが物語のクライマックスであるわけだ。

この、勇気ある先生と子供たちの存在があったからこそ、ドイツでサッカーというスポーツがはじまったのだという想いで映画をみると、もう映画の序盤から私は『探偵ナイトスクープ』における西田敏行みたいな状態になっていた・・・最初にコッホ先生が学校にサッカーボールと荷物をかかえて現れるシーンから・・・この一個のボールから、その後の100年後の状況を想うと、もう、涙腺がグワ~~っと。「早すぎ!」っていう(笑)。

そしてなにより、サッカーを通して培われていくフェアプレーの精神や、親や先生に服従するだけでない、ひとりひとりが自主的に考え行動する「フットボール的精神性」が、普段の生活の中でも活かされるのであるというメッセージがこの生徒たちの変容や成長を通して描かれているのであり・・・もう映画の中盤あたりからスイマセン、いい年こいて、たまらず涙と鼻水が流れたままで・・・(笑)

コッホ先生が公園で生徒たちに「想像してみてほしい、あらゆる街にサッカーチームができて、みんなが試合を楽しみにするような世界を」と呼びかける、そのシーンが印象的で・・・(この、この状況がですよ、仮にフィクションであったとして、そんなセリフが当時語られていなかったとしても)このコッホ先生の想いが実を結び、サッカーの魅力に感化された生徒たちを始まりとして、やがてドイツにサッカー文化をもたらし、そこからあらゆる地域における総合的スポーツクラブの伝統を生み・・・そしてクラマーさんが日本にやってきてこの国のサッカーの近代化に尽力した縁で、そのドイツの状況を現地で目の当たりにした日本の先人たちの「感動」が、その後の20世紀末の日本にJリーグを生み出す「原動力」へとつながっていった歴史を想うと・・・この今のJリーグの姿を、コッホ先生や「サッカーって、なんだそれ?」って最初は不思議そうな目をしていたあの生徒たちに見せてあげたい・・・「すべては君たちの勇気のおかげやぞ!」・・・と思うと、もうダメです、涙が止まらなかった。

このときのコッホ先生の想いが、そのまま100年を越えて、まさに僕らの日常にまで届いていること。サッカーを愛する我々が今まさに生きている世界をも含めて捉えうる壮大なストーリーの「原点」に、あらためて最大級の「ありがとう」を伝えたくなる映画である。

なお、全国で公開中だが上映されている映画館が限られており、そして非常に残念なことに「京都シネマ」ではパンフレットが売り切れだったので買えず、再入荷もないとのこと。なので私の知り合いのかたで、もし映画館でこの作品のパンフレットみつけた方はぜひ僕のぶんも買っておいてほしいですマジで!!

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