京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」の印象をざっくりと。
京都国際写真祭KYOTOGRAPHIE(以下KG)もあとちょっとで閉幕! ゴールデンウィークの混雑のなか京都をウロウロしたくない人もまだ会期としては5月11日まで残っているので、観にいけるチャンスはまだある!
・・・ということで、今回の記事は、ボランティアスタッフとして立ち入ったり、スキマ時間でお客として訪れたりした範囲でタテーシが書けるレビューを、ダァーッと殴り書きのように記す。誰かにとって何かの参考になれば幸い。
<八竹庵>
ここについては前回の記事で取り上げているけれども、ひとつ書き忘れていたのは土田ヒロミによる「リトルボーイ」は今回の写真祭における最重要作品となり、終戦80年を経たことへの大切な、とっても大切なメッセージがこめられている。今回のメインテーマ「HUMANITY」はこの作品ですべて語り尽くしているのでは。
この展示だけはメディアに載る広報物でも非公開の設定になっており、実物はこの八竹庵会場の一番奥の倉で、暗がりのなか、静かにあなたを待っている。
<京都市美術館別館>
今回のKGで予想以上に自分に刺さったのがこのグラシエラ・イトゥルビデの展示。実際SNSで検索してもここは大絶賛の様子。KGは毎年、取り上げる写真家や展示内容のコンセプトのバランスを考慮して、一人の作家のこういうガッツリした展示を最低でも1箇所は設定しているように思われる。実際この会場がもっとも作品の展示点数が多いそうで、見応え度という意味でもダントツに推せるのがこのメキシコ出身の写真家の回顧展であった。
▲この入り口のキーヴィジュアルの時点で、これはタダものではない作品たちが待ちかまえていることを示していた。
▲イトゥルビデさんは鳥をモチーフにいくつかの写真を撮影してきたとのことだが、特にこの作品は、今年のKGのメイン会場で観たすべての写真のなかでも個人的ベストとして推したい。動物を被写体に入れる場合は、往々にして運を味方につける必要があるにせよ、「それにしても!」ですよ。ものすごくないですか、これ。
▲Diorから依頼されたという作品も少し展示されていた。こういう依頼仕事でも写真家の強い個性がどうしたって滲み出るものがあるようで、写真というものが、その瞬間を永遠のなかに閉じこめる装置であるということを改めて思い至らせてくれるような「神秘的な静けさ」みたいなものが、張りつめた緊張感とともにプリントされているような感じが忘れられないのである。いったい何がどうしてこういうふうになるんでしょうねぇ、と。
この他にもいくつか「うおぉああ~」と感じた写真があるのだが、ともかくこれらは現地でぜひ観てほしいと願う。
<TIME’S>
三条通り高瀬川ぞいに80年代からある安藤忠雄設計のTIME’Sがすっからかんになって久しいが、このKGの時期だけはあたかも以前からずっとそうであったかのように全部が写真館みたいになって、あちこち歩き回れる状態になっていて、それだけでもここに来る価値があり、そこへきてマーティン・パーの展示「Small World」だ。世界の観光客の行動を皮肉とユーモアで切り取った作品群で、ただひたすら笑える。そう、笑えるのだが、同時にそれは今まさに写真展に押し掛けている自分自身もある部分で観光客と同じようなもので、その笑いが直接自分自身へ返ってくることにも思い至る、という部分もある。
▲ピサの斜塔にまだ行ったことがないが、自分もぜひこのような写真を撮りたいと固く決意した(笑)。
ちなみにパー氏はイギリス人(さすがMr.ビーンを生んだ国だけある)。そんなパー氏が春の桜咲き誇る京都に滞在し、いろいろな観光スポットで撮影した写真が延々リピートされる映像コーナーも、苦笑いをひとりこらえつつ楽しませてもらった。大混雑のなか、観光を楽しめているように思えないいくつもの疲弊した表情だったり、なんとか自分なりに観光を意味のあるものに奮闘すべく必死になっている姿だったり・・・ある種、そこを強調してチョイスしているんだろうけど、パー氏のブラックな皮肉を込めた視点を通して、「観光地に人が集まるってどういうことなんだろうか」と改めて問わずにはいられない。そして映像の後ろで流れるユルいBGMも、より哀愁を誘う。
(そして同会場では吉田多麻希「土を継ぐ」の展示があるのだが、私があまりにパー氏の作品に時間をかけすぎて、こちらのほうの開館時間を逃してしまい、観ていないのであった・・・)
<嶋臺(しまだい)ギャラリー>
同じように「皮肉」っぽさが効果的に炸裂している展示として、リー・シェルマン&オマー・ヴィクター・ディオプの「Being There」がある。この展示は何の予備知識もないまま進んでいくと、古き良きアメリカのほのぼのとした写真がレトロな調度品やインテリアとともに次々と並んでいるという、ただそれだけの作品なのだけれど、展示の最後に流れている映像を観て、「そういうことだったの!?」と驚いてしまうという仕掛け(なので、もういちど前に戻って見返したくなるお客さんも多数)。
ちなみにこの会場ではもうひとつ無料の企画として、長年京都で発行されている英文雑誌『KYOTO JOURNAL』のこれまでの歩みを振り返る特別プログラムも併催されており、タイミングがあえば創始者のジョンさんが温和な笑顔で来場者を迎えてくれる。
<京都文化博物館 別館>
KGは写真作品を展示する場所そのものの個性との相互作用を楽しむというコンセプトを志向しているけれども、この京都文化博物館の別館はまさにその強烈な存在感をもって来場者を迎え入れ、古くは日本銀行京都支店として人が行き交っていたであろう歴史ある格式高い空気感が今もそこかしこに漂い、そんな空間で作品が楽しめる。
今回はインドのプシュパマラ・Nの展示ということで、森村泰昌のように自分自身をさまざまな役柄に変身させて、根強い因習やジェンダー規範などへの問題提起を試みた作品群が展示されている。2階では彼女のインタビュー映像作品が視聴でき、インドのカースト制や民族誌的な知識がないと難解な内容であるのは否めないが、ずっと撮影用のメイクをしてもらいながらしゃべり続けたり、被った冠の衣装が対話の途中でズレてくるのがどうしても気になってしまう様子だったりを観ているうちに、プシュパマラさんへの親しみがわいてきたりする。
<ASPHODEL>
「自分自身の身体を作品にする」という意味では、こちらのレティシア・キイ「LOVE & JUSTICE」もストレートに迫ってくる。コートジボワールで生まれ育ち、髪の毛はまっすぐでなければならないという俗習にみまわれていたところを、かつての植民地以前のアフリカ人女性たちの髪型の多様性を知ることで「自然な私」を受け入れ、そこから表現活動を通して女性へのエンパワメントへとつながっていく。それにしても自分の髪でここまで作り込むか!?と驚かされる。
そしてこの力強い展示が、祇園という特殊な場所のまっただ中を選んで設営されているということもポイントである。
(これとは別に、京都滞在時に撮影した作品たちが出町枡形商店街で展示されているのだが、私はまだ観ておらず)
<東本願寺 大玄関>
京都に住んでいると、なかなか具体的な用事がない限り、こうした「ザ・名所」には立ち入らないわけで、今回のKGでこの場所が会場になったおかげで、おそらく初めてじゃないかと思う訪問となったのが東本願寺だ。
このイーモン・ドイル「K」は、作者の急逝した兄、そして兄にあてて母親が書いた手紙がモチーフとなり、追悼としての作品が捧げられている。有料会場にしては展示の規模が小さく感じるのだが、この「大玄関」が普段は非公開となっている希少な場所ということで、そこでアイルランド由来の音楽とともに、その場を流れる風を味わってみたりした。
<両足院>
逆に「ここは無料でいいの!?」となったのが建仁寺のなかにある両足院、エリック・ポワトヴァン。ここは庭園とともに日本家屋の佇まいにとけ込む絵画のような繊細な写真作品を堪能できる。襖絵のような大きなプリントが、余白の美とともに存在感を放っている。時間帯によって日の傾き具合で少しずつ色彩がうつろう世界。
ちなみに庭園のなかをサンダルで歩いて茶室の窓からのぞく作品は、「だから何?」と思うかもしれないので、近くにいるスタッフに作品の意味を訊ねることをお勧めする(スタッフは自分からは話しかけないし、ましてやお寺の会場なので、静寂をできるだけ保とうとしている)。
<堀川御池ギャラリー>
同じく無料会場でがっつり展示が楽しめる場所として紹介したい。これはメイン・プログラムではないが「KG+SELECT」という関連イベントとして、審査員から選ばれた国内外10組のアーティストの作品を集めて展示し、ここで審査のうえ選出された1組には、翌年のKGのメイン・プログラムとして開催権が与えられるというもの。
私がとくに見入ったのがウルグアイのフェデリコ・エストル。まず説明文でノックアウトされた。「ラパスやエル・アルト近郊には、毎日3000人の靴磨き職人が客を求めて街に繰り出している。彼らを特徴づけているのは、周囲に気づかれないようにつけているスキーマスクだ。近所では、彼らが靴磨きの仕事をしていることは誰も知らない。」とはじまり、「え!? どういうこと!?」となる。続きはこの以下の画像からぜひ読んでみてほしい。
こういう社会があり、こういう人がいて、そしてそれをアートのチカラで変調させる可能性があるということを知らせてくれる展示であり、「うむ・・・ぜひ来年のKGのメインプログラムになってほしい・・・もっとこの人の作品について知りたいわ・・・」と思っていたら、よくよく調べるとすでに今年のKG+セレクトのアワードで受賞決定していたことを知る。おおっ、来年さっそく超楽しみな展示がこれで確定!!
それともうひとつ、香港の何兆南(サウス・ホー・シウナム)による「Work naming has yet to succeed」も印象的だった。香港における2019年の民主化デモにおいて街のあちこちに書かれたメッセージが消去され、その「痕跡」を捉えた写真群が展示されている。「壁の言葉が消されたあと」の光景ではあるものの、実は消えきっていないという、その曖昧な領域が可視化されている。説明文を読まずにさっさと通過して「単なる街の風景写真」だと認識して去っていくカップルのお客さんがいて、「あぁっ、そうじゃないんです! 説明文を読んで!」となってしまった歯がゆさも思い出として残っている。
<ギャラリー素形>
で、その昨年のKG+で展示された作家のうち、アワードを獲得して今年のメインプログラム開催に至ったのが台湾の劉星佑(リュウ・セイユウ)の「父と母と私」という展示。昨年のKG+で観た、「父親にウェディングドレス、母親にスーツ」を着させて撮影した作品群がインパクト大で、その圧巻の「両親シリーズ」の発展系ともいえる内容が今回じっくりとメインプログラムとして鑑賞できるわけで「フシギなご両親との久しぶりの再会」のような感覚で展示会場を歩いた。
性別役割の固定概念を問いかけるシリーズから、さらには父親が兵役をつとめた土地に赴いて制作した作品など、家族の歴史をたどっていくことでそのメッセージ性がより社会的なものへと昇華していく感じがあったが、それにしても映像で展示された、ご両親の「足踏みダンス」みたいなナゾの動きが延々と展開していく作品が絶妙にジワジワきて、目が離せなくなった。表現行為の原動力には作者にとってのシリアスで切実な想いがあるのだろうけれど、それをファニーなタッチで「作品」にしていくことで、観る者の心情にグッと入り込んで、不思議な角度から共感を呼び起こすような、そういう作品たちであった。
・・・と、ここまで書いても、まだ「誉田屋」の石川真生、「くろちく万蔵ビル」の甲斐啓二郎の展示について書ききれていない! そしてタテーシにとって最重要な「京都新聞ビル・印刷工場跡」のJRの展示についても、今回はあえて触れずにこの記事をアップしようと思う。なぜなら「京都新聞ビルはマストだから」。ここを行かずしてKGは始まらないし終わらない。すでにSNSではたくさん写真が拡散しているけれども、最後のネタバレについてはまだこのブログでは書きたくないので、そういうのも含めてぜひこれはマジで京都新聞ビルの展示「Printing the Chronicles of Kyoto」は多くの方々に味わってほしい。
本当ならもっと洗練された記事にしたかったけれども、もう連休も終わってしまうので、エイヤッとこの記事を公開させていただきます。
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