4年越しのPK戦
日本 1-1 ヨルダン
(PK4-3)
僕は4年前のあの夏をずっと思い出していた。当時僕はちょっと混乱した23歳で、毎日迷いっぱなしで、まったく同い年のU-23日本代表のシドニー五輪での快進撃を見届けることで、彼らが自分自身の「決断」を後押ししてくれていたような気分でいた。
4年前の夏、その冒険は決勝トーナメントの初戦におけるアメリカ代表との死闘の末、PK戦で終わった。あの、中田英寿の蹴ったボールがポストに当たってすべてが終わった試合だ。僕はその夜、宴会の席で写りの悪い液晶テレビを持参していて、ほとんどボールの動きが見えない小さいモニターを、数人の仲間や隣の部屋にいたヤンキー風の少年たちと一緒に囲んであの試合の最後の最後までを見守っていた。
あのシーンの後、頭は真っ白だったけど、手に持っていた液晶テレビの、フル稼働した電池の収納部分の熱さなんかを、今でも思い出せる。あれ以来あのときの液晶テレビは使っていない。そしてこんな宴会の日に、部屋の隅でサッカー中継を全身全霊込めて視聴することを許してくれた、あの場に集った人々には本当に感謝している。
今年のアジアカップは、なんとしても獲りたいタイトルである。会場を埋める地元中国の観客による、日本代表への激しいブーイングが目立っているが、試合中ならいくらでも許そう。しかし、試合開始前の国歌斉唱の時間からブーイングをするというのは、それが歴史的背景とか対日感情とかそういう話をする以前に、「サッカーの国際試合を観戦する」という行為に対する侮辱でしかない。彼らとは、サッカーを観るという体験を共有したくないと、僕は思った。そんなふうに思ったのは初めてだ。
サッカーは、そんなことで左右されるものじゃない!!!!!
だから私は、今大会において日本が優勝することが、サッカーにおける真髄を守り抜くために絶対負けられない戦いになると考えていた。まさに今大会のピッチに中田英寿が参加していたらなおさらそれを期待するが、彼のようなクールさでもって、「サッカーはサッカー」であり、「それ以上の何ものでもないプレー」を、ただ繰り返してほしいわけである。そして決勝の北京で、大ブーイングの中、アジアカップを獲ろう。サッカーに勝って、アジアカップを連覇で制する、ただそれだけだ。
そして先ほどの準々決勝は、相変わらずの暑そうな重慶で、ヨルダンのタフな試合運びに苦しめられながら、奇跡的なPK戦での勝利をもぎとった。川口のあの眼、僕の大好きなときの川口の眼だ。何かを信じ続けることのできる眼に、僕は少し自分を恥じた。そう、もはや僕は、少し諦めかけていた。4年前とよく似ていた。でも今日は、勝ったのだ。
そしてこの試合を通して、気付いたことは・・・
そう、自分の人生と、サッカーは、中国のブーイングと同じように、本当はまったく別のものである。本当はそうなのである。だから自分自身がそのことを一番問われなければいけないんだ、ということを、今痛感している。
そして、あのときよりかは、今の僕は自分の人生をサッカーには投影していない、と思っている。人生とサッカーは別物、サッカーと政治・歴史は別物、多少なりとも、そう思っている。だから改めて、あの4年前に、宴の席で勝手にサッカーを観て盛り上がっていた僕らを許してくれた方々に、本当に感謝しなくてはならないと、思うのであった。
というわけで、これが4年越しの自省。日本代表はいつもそうやって、僕を育ててくれている気がする。
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