サッカー比喩的研究論文作法
自分の研究や仕事の停滞さ加減を棚にあげつつ、そして「HOWE」のフリーペーパー作成の停滞さ加減を棚にあげつつ、私は、他人のやっている研究についての話を聴くのが本当に好きなのだ。
今日もある院生さんが現在の進捗状況を報告している場面に立ち合わせてもらっていた。とりあげているテーマについて私は何も知識はないのだが、しかし話を聞いているだけで興味深いトピックスが次から次へとでてくる。こういう論文が面白くならないわけながい。正直うらやましいぐらいである。でも本人はそれでもあまり筆が進まない、というので、思わず例のごとくサッカー的比喩で「個々の選手の能力は高いのに、チームとして機能しない今のジーコJAPANみたいな感じね??」などと口走ってしまう私。(別にこのことはわざわざサッカーに例えなくてもいいんじゃないか、しかもぜんぜん例えが普通で面白みにも欠けている・・・と今書きながら冷静に反省。)
ともあれ、ハタから見れば面白い局面を迎えているんだけど、書いている本人にとってはなかなか全体像をうまく捉えきれず、ドリブル突破なりパス回しができないことは、まさにサッカーの試合をテレビ中継のカメラが写す高ーい位置からみて、「なんでそんなところにボールを蹴るんだ」とか思ってしまう我々がいるように、論文作成においても当てはまる気がする。自分を振り返ってもそれは思う。
いうまでもなくこれは文系の論文についてとくにあてはまる。理系の場合は、当初予定していた手続きどおりに実験が無事完了すれば、あとは出てきたデータを前に立ち止まることはなかなか許されないと想像する。ところが文系の場合は、最後の最後まで、たまたま見つけた新聞記事や、フィールド調査地の社会変動などによって、新たなデータに出くわしたがために、今までやってきたことすべてを疑問に付してしまうような可能性が残るのである。サッカーに例えれば、終了間際に登場した見慣れぬ相手チームの交代選手のトリッキーな動きによってペースが乱され、嫌なムードのまま果てにはオウンゴールを喫してしまい、試合が振り出しにもどってしまうような状態である。残り時間はいくらだよ、と。
そういう状況を打開するひとつの有力な策は、情報やデータをカード化したものを、あらためて並び替えたりして吟味することなのだろう。いまずっとこの作業をサッカーに例えたら何になるんだろう、と考えているのだが、なかなか思いつかない。初心に戻る、ということも言えるのだが、ちょっと物足りない。
自分の得てきたデータを、カードという断片に分割し、それを自らの手で再編集していくという作業。そのプロセスのなかにも新たな気づきが生まれ、また別の方向へ編集作業が続いていくような、まるでひとつの修行のような過程だなぁと思う。つまりは、とにかく苦しい局面でも、ボール回しを止めてはいけない、常に前を向くプレイを心がけよう、というチームスピリットなんだろうか。
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