100人幻想
さっき「報道ステーション」で、とある事件のことが取り上げられていたとき、「・・・100人の捜査員を動員し・・・」という説明が流れた。
100人の捜査員。
つまり、この文脈だと、それほど多くの人員を配置して捜査にあたっている、という意味を込めているのだろうけれど。
しかし、ちょっと待った。
たしかに、普段から事件取材をしている記者にとっては、100人の捜査員が登場すれば、それは「多い」という判断がつくのかもしれないだろうけど、一般人にとっては、100人が基準より多いかどうかなんてこと、判断つかないはずだ。
散歩中のおじいちゃんが、普段からとっても大切にしている、孫からプレゼントされた赤いベレー帽をどこかになくしてしまった。
こういう事態においても、100人の警察官や近所の住民が総出で探し出してもいいじゃないか。それぐらいの気概を持っていたいではないか。できることなら私も一緒に探したいぐらいだ。「っ赤色って、またハイカラなベレー帽を!」とか言いながら・・・・
というわけで、「100人の捜査官」が登場しようが何をしようが、「だからといって、それがどうした」と受け取っておきたい。客観的事実であるなら、それでいい。
ついつい、自動的に「あ、多いのね」と受け止めてしまうような、そういうコトバは気をつけたい。メディアから発せられるコトバだと、なおさら。
もしかしたら我々には「100人幻想」というものがあるかもしれない。
100人イコール、「多い」わけだ。
真っ先に思い浮かぶのは、『一年生になったら』の歌だ。(まど・みちお作詞/山本直純作曲)
「友だち100人できるかな♪」
というのは、あくまでも「100人=大人数」という意味よりも、むしろ「小学校に入りたての児童にとって、100以上の数値を処理するのは限界がある」という事情によって定められた歌詞ではないかと思える。「友だちが2985人できるかな♪」であってもいいじゃないか。結局のところ、我々は人生においてそれぐらいの人数と、ともに飲み、吐き、語りつづけているんじゃないか、と。
つぎに思い浮かぶのは、やはり「100人乗っても大丈夫!」のCMでおなじみ、「イナバ物置」だろう。
「100人幻想の精神的支柱」ではないかとすら思える、その圧倒的な存在感。
ここのホームページをみると、「屋根が丈夫なのはCMをご覧になればおわかりですが・・・」とも書かれており、私が物心ついた頃からずっと続いているあのCMによって築き上げた、ゆるぎない信念を感じさせる。
ただし、多少知恵がついてきたら、さすがの私も「普通に業界で定められた基準値でいけば、人が100人乗ったところで、たいていの物置は大丈夫なんだろう??」とかいいたくもなる。
むしろ、私がもしこの物置会社の社長であるならば、
「CMでは、傍らにロックバンドを演奏させて、物置の上で100人のオーディエンスがノリノリでジャンプし続けるようにせよ」
と指示するだろう。(追記: さらにいうと、CMで物置の中に収納するクルマは、もちろん社長自身の所有車を設置するのだ。
100人がノリノリで飛び上がったりしても、ビクともしない物置なら、私も素直にリスペクトだ。
やはりロック魂は必須。
(そんな結論かよ、今日は)
Comments
その物置にのっている人たちの立ち位置をみれば、誰か平行感覚が悪い人が1人いれば、ぐらぐらとなってボーリングがたおれるように、あるいは自転車が将棋倒しのように倒れるような結果となってしまいそうだ。
特に奥にいる黄色の服の人たちは、オリンピック選手同然の足腰をしているんじゃないだろうか、などといった夢もヘチマもないことを考えています。
Posted by: かほり | 2006.04.19 19:00
たしかに、それは考えたことがなかった! ものすごい危険かもしれません。たしかに・・・ひょっとして「合成写真疑惑」もありか?
Posted by: タテーシ | 2006.04.19 23:32