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2007.07.28

サッカーのチカラ

先日の記事の続きみたいな話だが、「サッカー」と「テロ」を考えたときに、必ず想起されることがある。
それは、1996年に起こった「ペルー日本大使公邸占拠事件」である。
これは武装組織MRTAが、ペルーにある日本大使公邸のパーティーに乱入して人質をとり、篭城するという事件だった。
この事件について、くわしくはウィキペディアの解説を参照いただきたい(こちら)。

このたてこもりは長期間にわたり、そして私はそのなりゆきを当時かなり注目していた(新聞をやたら切り抜いていた記憶がある)。
大使公邸のなかにいる人質たちがどうなっているのか、ほとんど情報も得られず、そして武装組織は用意周到にその作戦を実行しており、どのように解決されるのか、まったくわからなかった。

しかし最終的には、軍と警察による特殊部隊の強行突入によって、犠牲者は出したものの多くの人質を奪還し、MRTAのメンバーを射殺することにより事件は幕切れとなった。

ここでポイントだったのが、強行突入をするタイミングを、「毎日の日課となっていたサッカーの時間にあわせた」ということだ。
私はそのことに深く印象付けられた。

つまり、MRTAという武装組織が大使公邸を占拠するという、非常に緊張を強いる任務を自らの手で実行していくなかで、事件が長期化するうえでは、MRTAのメンバーにとってもその状況下はストレスの多い毎日だったことが容易に想像されるわけである。そんな生活のなかで、彼らにとっての「サッカーをする時間」の持つ意味を思うと、サッカーというスポーツのもつエネルギーの解放感だったり、慰みだったり、「人間としての喜び」を表現できる可能性だったり、ということを考えずにはいられないのである。いくらテロリストとして強硬姿勢を崩さなかったとしても、サッカーの前には、彼らは「普通の、どこにでもいる人たち」に戻っていたのではないかと思うのである。

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ちなみにこの事件によって「リマ症候群」というものが言われるようになったらしい。今はじめて知った。
「ストックホルム症候群」の逆バージョンで、犯人の側が人質に感化される現象がここで起こっていたようだ。

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