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2011.02.04

サッカー的日常、あるいはエジプトのデモ

ワールドカップのパラグアイ×日本だったり、先日のアジアカップ決勝をともに爆睡して見逃しているような(今日もその件で学生のKさんにツッコミ入れられたり)そんな自分がここでサッカーについてたびたび語ってしまったりすることがなんだか気まずい感もあったりするが、そのかたわらで、この1月末に至る、いわゆる「ヨーロッパサッカー界の冬の移籍市場」の動きをみていたら、なんだか選手の移籍が激しくて動揺していたり長友スゲーとかなったり、それだけでじっくりブログで語りたい気分なんだけども、ひとまずそんなことよりも、もっとサッカー的に大きな、感動的な、あぁサッカーファンで本当によかった的な出来事が今日の仕事場においてわき起こり、ちょっと落ち着いたらそのことも含めて近いうちにじっくり「サッカー的日常」のあれこれをブログに書いていきたいと思う。

わざと妙に長い文章を書いてみました。


で、
さきほどまで参加していた「木曜日の私塾」で「資本主義の内側から働きかける表現/アートについて」という論点に至ったときに、パッと思いついたことがあった。
今行われている、エジプトの大規模なデモだ。
BBCワールドニュースでは、ほぼ延々とリアルタイムで現地の映像を報道しているのだが、あれをみると、大きい広場にひたすら人が埋め尽くしていて、とくに何があるわけでもないのだけど、「たくさん人が存在する」というだけで、ひとつの大きなメッセージを発しているかのような印象を受け、ものすごく見入ってしまう(つまり、ムバラク大統領が退陣するまでこの広場から人がいなくなることはないぞ、みたいな)。
デモをライヴでみると、細切れのニュース報道では伝わらない、よくわからないダイナミズムみたいなものがうかがえて、目が離せないのである。その場で特に何も起こっていなくても。

で、パッと思ったことというのは、「この、人の集まりっぷりそのものが、アートだとしたら」という視点もアリなんじゃないかということだ。本人たちは意図していないけれど、「集まること」自体が、芸術的な作用をもたらしている・・・と、そういう何気ない思いつきであるが、実はアートのチカラってそういうところに通じているんじゃないか、と。

だから、「アーティストが社会を変えようとする」のと「アートが社会を変えうる」ということは、わりと別個にわけて捉えておいたほうがいいんじゃないかということだ。

考えながら適当に書いている文章なので、ちょっとまとまらないけれど、メモっぽい記録としてここに書いておく。

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