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2011.07.12

2011月曜日の私塾 第1回 「オレオレ表現」はつまらない。

「月曜日の私塾」のインフォメーション、問い合わせ先について修正しました(こちら)。

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表現や政治やその他もろもろを語り合う「私塾」の第一回目はサトー先生による「芸術と主体」の話題提供。
ACT-UPのエイズに関する社会運動を事例に「モヤモヤして言語化できない情動にかたちを与えるのが『表現』」と述べ、そしてギブソンのアフォーダンス理論をもとに「『私』という主体はいない」ので、主体はたえず流動的にいろんな視点をとって環境の情報を知覚していくから「とにかく動いていく」=原発問題下における芸術表現を語るのであれば、それは「絶望するまえに『とにかく動け』」というもの。そうして結論として「『オレオレ表現』というのはつまらない」といった内容。

(こうして書くと分かりにくくなって、自分が昨日の話をちゃんと理解できていないようなフシがあるが)「アーティストはそれぞれの見方があって、それぞれの視点から作品を作っている」ということを疑ってみるのは大事だと思った。もちろん多様性というのは大事なのだが、あまりに「私が、私が」の視点だけで表現行為が営まれると、何らかの思考停止につながっていくかもしれない。それはブブさんが言ったような「個性的であること=よいもの」という教育的な傾向を疑うことにも通じていて、私はいくら個性的でも、他者とコミュニケーションが成立しなかったら、ちょっとイヤだよなぁということを近年ぼんやりと(特に現代アートとかをみると)思い続けているので、まさに昨日の「『オレオレ表現』はつまらない」というコトバがしっくりくるのである。
 サッカーに例えると、パスは味方選手にボールが通ってはじめて「パス」と名乗る資格があるということだ。もちろん、やみくもに蹴ったボールでも、たまに味方に通るときもあるが。ただそれを良しとして、次のプレーも同様にしてしまうと、そのうちうまくいかなくなるわけだ。

「動き続けろ」というのも、まさにサッカー的に捉えたくなるのだが、ほんのちょっと自分の立ち位置を変えるだけで、グラウンド上の世界は違って見えて、あたらしいパスコースやシュートのコースが見つかったりするわけだ。でもつい(自分も含めて)どうしてもすぐに「あきらめる」傾向があって、グラウンドで突っ立ったままの状態で自分の能力や状況を判断するのではなく、とりあえず走り続ければ、局面はどこかで確実に変わるのでは、と思うのである。

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