展覧会「京都市長選挙」アーティストトーク
選挙期間ギリギリにソーシャルキッチンに行けてよかった!
「展覧会『京都市長選挙』」のアーティストトークにお邪魔した。
よくわからない、調べるのも面倒くさい、そんな「政治」について、いまのところ自分たちが唯一意思を持って参加できる「選挙」についても、よく考えてみたら「争点」なんて自分たち自身が考えたり提案したりするものである。だが、メディアの報道などによって「争点」が与えられてしまっていたり、候補者によって作られたりしている。それってちょっとおかしいんじゃないか、という目を持つのが大事なんだなと学んだ。
そして公職選挙法って、こんな法律だったんだ! と目からウロコ。正しい選挙をすすめるためには必要なことでもあるが、逆にその細かい規則が、市民にとって自由に選挙について考えたり発信したりすることを結果的に妨げているんじゃないかと邪推したくなるような法律っぽい。
あとものすごく前時代的なルールのまま改正されることがないみたいで、「選挙運動のための提灯は2つまで」とか、そんな提灯に名前書いてるヤツなんていねーよ! っていう。でも逆にそれだったら現代の選挙活動は提灯を使ってみたら目立つかもしれない、とか思ったり。
そして選挙カーによる、あのうるさい名前のコール&レスポンス(←どう表現したらいいか分からないが、こう書くと音楽のライヴみたいだな)も、「もっと面白いこと言ったり工夫したりすればいいのに」と思うのだが、あれはあれで、やはり公職選挙法に則って、あのようなスタイルでしかスピーカーから声を出せないらしく。
というわけで、「誰にとってもあまり面白くないニッポンの選挙」の姿がうかびあがる。そこの陰でトクをするのは誰だろうか。
そう思うとアメリカ大統領選挙って、いつも思うのはアメフトのスーパーボウルとかによく似ているなぁ、と。それぞれの地区からひたすら目の前のライバルを倒し続けて、最後の最後に決勝戦に臨むっていう図式とか。そのプロセスで候補者の名前入りバッジとかステッカーが飛び交って、もはやドラマチックな娯楽産業と化していく。それが良いかどうかは分からないが、少なくとも「盛り上がらない政治」よりかは結構なことだ。それにしても日本の民主主義ってアメリカからやってきたんじゃなかったっけ?
で、そういうがんじがらめのなか、今回の「展覧会」は選挙をネタに、フラットにイーブンに、選挙のための判断材料を提供してくれて、それでいてアーティスティックでちょっぴり“挑発的”なこの試みはものすごく意義のあるものだと思った。
こういうカフェとかで、選挙マニフェストを片手に、気軽に政治の話をする、ということが「すごく斬新なもの」から「とても大事なこと」へとシフトしていき、そのうちよくわからない法律がユルユルに解体されて、あらゆる意味で「参加しやすいもの」へと政治が開かれていけばいいのにな、と思った。
あくまでも夢想でしかないが、既得権益にまみれた政治空間を数の論理で守り尽くそうとするオッサンたちのディフェンスラインを崩すには、最初から「政治」とか「選挙」という土俵にあがらずに、何らかの別の概念というか名前というか、たとえば「選挙を選挙として捉えない試み」みたいなものを作って、外側から転回させていく戦術みたいなものを想像できないか、ということだ。「勝手に創って勝手に盛り上がる戦術」である。たぶん「アラブの春」とかの騒ぎってそういうことなんじゃないかとか思ったり。や、うまく解説できないけど、なんとなく。
もちろん誤解の無いように言い添えると今回の「展覧会」そのものは中立的なものであって、そういった政治運動とは無縁のスタンスではあるが、やはり「政治」に触れると個人としてはそういうことを考えたくなる。そういうきっかけをもらえたのが大きい。
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