国会図書館はタイムマシンでもあるのか
幼少期に何度も読み返したけれど、いつの間にか処分してしまって今はもう手元にないという本は誰しもがあるんじゃないかと思う。
よく考えたら、そういうものもひょっとしたら国会図書館に所蔵されていて、借りられはしないけど閲覧することはできるはずで、そのためだけに東京まで出かけて、一日じゅう本を眺めるのはアリだろうと思う(でも、なかなか実現できていない)。
自分にとってそれは、社会科カラー図鑑みたいな本で、たぶん姉のために買われた本なのだろうけど、おそらく一番古い記憶のちかくに、飽きずに何度も同じページを見続けていたようなイメージがある。もちろん書名も分からないが、おぼろげにそこに載っていた写真たちは印象に残っている。あれをもう一度観ることはできないか、としばしば思う。感動の度合いはハンパないはずだ。
国会図書館はタイムマシンなのである。きっと。
そういう原初的な読書体験とは別に、小学生ぐらいになったときの自分にとって同様の存在が『ファミコン通信』になるわけで、それも国会図書館でバックナンバーをあれこれ読もうと、もう何年も前から思っている・・・ちかいうちに実行に移したい。
『ファミコン通信』のおかげで(そしてそんな雑誌を買いたがる自分を許してくれた親のおかげで)、私はなにより「文章を自由に面白く書くことの楽しさ」というものがあることを知り、桜玉吉というイラストレーターのマンガに出会うことになり、「編集」や「アートディレクション」といった作業に興味を持ったりと、今の自分につながる決定的な基点となっていったような気がする。
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今日、たまたま仕事で出かけた場所である人が語ったことのなかで、「縄」というものを、太古の日本人が農耕のなかで「生産活動とは別に、表現活動として作った」という認識を示していて、「あ、そんなふうに思ったことはなかった!」となった。
学問的に確たることは分からないし、うまくは言えないが、もちろん、稲を育てて米を収穫したあと、残った稲穂を使って縄なり草鞋なりを作ることは、仕事に関係する道具を作ったという意味では同じ「生産活動」なのであろうけど、しかしある面ではそういったモノを作ることが「表現活動」の領域でもあったんじゃないかと思えてくるわけだ。神社の「しめ縄」などはまさに工芸品みたいなものであるし。
古来の人々にとっての「表現活動」がどういう認識であったかも当然よく分からないけれども、いずれにせよ「生産活動と紙一重のところにある表現活動」という認識は、直感的ではあるが、いつかどこかで「!」とひらめきを与えてくれる認識のような気がしている。
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Comments
よく知らないので教えて欲しいのですが、けいはんな地区の国会図書館と東京のでは、やっぱり違うのでしょうか?
Posted by: あんとら | 2012.03.03 23:28
あんとら>じつは僕も関西館行ったことなくて(笑)。でもおそらく収蔵されている資料はかなりの部分、異なっているのかと思います。ひたすら国会図書館HPで所蔵情報をみていくしかないのかなぁ、と思っています。
Posted by: HOWE | 2012.03.04 22:30