クリエイティビティの新しい循環(おおさか創造千島財団『paper C』2号より)
おおさか創造千島財団の発行するフリーペーパー『paper C』 の2号を読んでいて、ちょっと記録しておきたいと思った箇所があったので、以下にメモとして全文書かせていただく。(こういう情報もちゃんと個人的に後で活用できるようにしておきたいところだが、なかなか整理方法が見いだせない)
遠藤水城氏(インディペンデントキュレーター)とアサダワタル氏(日常編集家)の対談の最後らへん全文。
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遠藤:社会の中にクリエイティビティがどう必要かという根源的な問いに悩んでいる人こそハードコアでおもしろい。
アサダ:ハードコアでおもしろい分、見えないこともありそうですよね。すぐにその表現の成果が社会化されるわけではないから、そのジレンマであせってしまうこともあると思います。
遠藤:僕ね、ヒップホップ大好きなんですよ。ブラックカルチャーは「あいつのしゃべり方がかっこいい」「あいつのタグがすげえ」といったお互いのクリエイティビティを見る/見られるシステムをつくりあげていて、名も無い貧乏な人でも、お互いを尊重して生きていける、よくできたシステムだと思うんです。
アサダ:お互いをリスペクトしつつ、批評できるシステムですよね。そこに現地のレコード屋や理髪店みたいなのが絡んでくることでカルチャーが生まれていく。
遠藤:そうそう。美術システムとは異なるクリエイティビティの循環方法を発明したと言っても良い。一部の人に才能があり、ほかは一般人で、その才能の高度な洗練を公的に保護することで社会全体の豊かさとする、というのが欧米的な美術システムですが、ブラックカルチャーシステムは違う。そういったオルタナティヴなシステムは地域や階層などにより、特定の文脈内でいくらでも成立しうるんです。お互いにクリエイティビティを保証する、さまざまなパターンがありうる。
アサダ:日本ではどうでしょうね。
遠藤:芸術家が社会に介入していく際には、干渉、交渉、摩擦のようなものが生まれて、その過程自体が価値化される視点が必要です。そこにクリエイティビティは宿る。お互いの領域を越えて、求められているという実感につながるまでコミュニケーションを取らないとダメだと思うんです。アーティストには「既存のシステムだけじゃない表現のあり方がありえることを追求していくことができる」と言い、その一方で地域の人たちには、「自分たちの独自性を発揮することで誰かに見られ、それが喜びやより良い生活の獲得に繋がるような領域がありうる」と伝えること、それこそ僕たちのような人間がするべきことなんじゃないかな。
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以上。個人的には、ヒップホップに代表されるブラックカルチャーのことを、私はかなり中途半端な理解のままで消化しつづけている気がしているだけに、こういう話を今あらためて読むと、なんだか未だに終わっていない大きな宿題の存在を思い起こさせてくれるような気がする。だからちょっと自分のために記録しておきたいと感じたのかもしれない。
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