滋賀県書道協会は、やはりパンクだった
★ご注意★【2016年9月追記:以下の内容は2013年7月当時の内容でして、現在の滋賀県書道協会のホームページの内容はこれとは異なってしまっていることをあらかじめご了承ください】
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上司のSさんから教えてもらって以来、このブログで2回ほど紹介している「滋賀県の書道教育は、パンク精神に富んでいる」という話。
今回あらためて、そのパンクっぷりの根源を追うべく「滋賀県書道協会」のホームページをみてみたので、またネタにさせていただく。
トップページの「書道協会理念」をクリックしてほしい。
子どもによる「まめ」の字を書いた画像をみせて「どう思うか?」と問い、寺子屋での古くからの書道教育を例に取り、
「上手に書けるのはおおいに褒められるわけですが、はたしてそれが褒められるに値するものなのでしょうか。」
という挑発的な問いかけ。さらに、
「かつてテレビの視聴者参加番組に、子どもが演歌歌手の失恋の歌をまねて歌い似ているといって大喝采をあびるという場面がありました。今ではそんな番組はなくなりましたが、5歳や7歳の子どもが恋の悩みを悲しげにこぶしをきかせて歌う姿ほどおぞましい光景はありません。」
と、なかなかイレギュラーな角度からの例え話。
「習字の稽古もまさにそれと同じことを子どもに強いているとはいえないでしょうか。キャリアを積んだ年輩の書家が書いた手本を子どもたちに与え、まねさせることが教育の方法としてはたして妥当なものなのでしょうか。」
そこから、絵画では児童画というジャンルがあり、子どもはのびのびと自分らしい絵を描いているのだから「児童書」というものがあってもいいではないかというインディーズ精神あふれる提起があり、そして硬筆ではちゃんとマトモな字を書けるように指導することも強調されている。
「わざわざ整正な文字を書くのに最も難しい毛筆を使う必要は全くないといえましょう。本協会は整正な文字の学習は硬筆で、自由な表現は毛筆でと主張しているわけです。」
とのこと。私なんかはもうこの時点で「そうだよな、その通りだよな」と納得させられてしまう。
そして最後にたたみかけてくる、このシメの文章がすごい。
「いずれにしても入門した師匠から手本をもらいそれを習うことから始まるのが通例かと思います。だから多くの人々は書道とは『手本を習う』ことと心得ているのだと思われます。これはおそらく小学校の書写の学習以来の固定概念をしからしめる結果といえましょう。
そんな仕方でスタートしたとしても、早晩自立して自分の個性を発揮した書が書けるようにならなくてはいけませんね。全国展で入賞をねらう人が相変わらず師匠の手本を頼りにしているなどとの風評を耳にするにつけ書道界のえせ芸術ぶりに恥ずかしくさえなります。
本協会はそんな書道から訣別して『自分の書を確立』することを目指してさまざまな試みを打ち出しているところです。大上段な口吻ながら『日本の書に未来を』と訴えたいと思います」
というわけで、パンクだ。まさにこれはパンク・ロックだ。「ならなくてはいけませんね。」っていうこの箇所の物言いがちょっと気になるけど、いやはや、この熱いスピリットに触れちゃうと、もはや滋賀県の書道教育を応援せずにはいられない・・・や、私はもともと応援しているつもりではあるが、うむ。
ちなみにこのホームページでは「今月の優秀作品」が掲載されていて、期待を裏切らないクオリティを見せてくれているのでファンなら毎月要チェックだ。
私はもう、滋賀県書道協会の主催する書道展を観に行きたくてしかたがない。
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Comments
小学校の頃、書道教室に通い、
師匠の手本を頼りに毛筆を書いていた私としては、
この文章を読むと身につまされます。
字がうまいかへたかは別として、
ンス
ドタ
という文字の組み方は斬新としか言いようがなく
学年と名前は何事もなかったかのごとく
定位置に配置するあたりに、
強く惹き付けられます。
というか、この「スタンド」という言葉を
縦書きで筆と墨とで書いてみた精神、
貴重です。
この精神を見習わないといけないし、
これからも大切にしてもらいたい。
Posted by: M.フィオリオ | 2013.07.11 22:47
フィオリオ>スタンド、もしかしたら『ジョジョ』の影響かもしれず、そして私にとっては新京極通りの大衆食堂の店名だったりします。
Posted by: N.Tateishi | 2013.07.13 11:17