2013→2014
早いもので2013年も終わりを迎えつつあり、年末特有の慌ただしさがやってきている。今年も無事に過ごせてなによりで、いろいろなものに感謝。
いま「ポメラ」を使って電車のなかでこのテキストを書いていて、たまにこうして屋外で文章を書くことも大切なことだと実感している。生活の時間の連続の中でこそ僕らはものを考えて、書き続けられるようになっておきたい。
かつて私はワープロ専用機と向き合う時間を多く取っていて、その流れでフリーペーパーづくりが始まっていった。先日浜松のAmaZingでそういう話をしたあと、自分のなかでぼんやりと「屋外で最近文章を書いていないな」と思い至っていて、こうしていまポメラを久しぶりに取り出して電車のなかで打っている。
このポメラに文章を打ち込む作業は、ワープロ専用機の頃の感触に近いものがある。文字を打つこと以外にやれることがなく、モノクロの画面を見つめつつ、それでもその画面の向こう側に「何らかの色彩」を見ているかのように、何かに向かって言葉を追いかけていく感じだ。
「行間を読む」っていう言葉はうまいこと言い当てている感じがあって、たしかにこのモノクロの行間には、その隙間に向かってこちらから働きかけると感応するような領域の存在が感じられる、といったら大げさなのか。そして最近の自分はモノクロ写真にたいして興味がわいていることと無縁ではなさそうだ。色彩のないところの先に色彩をイメージすることへの希求。
先日、国立近代美術館の「皇室の名品」にいく機会があって、皇室には興味がないけれども皇室が持っているお宝には多少興味をひかれたので行ったわけである。とくにいくつかの明治期の陶器にいたく心をひきつけられたのだが、そこでも「色彩と、それを可能にする精密な仕事」に関する興味が喚起された。この色を出すためにどういう苦心の積み重ねがあったのか、そして作品として出来上がるトータルな存在感に圧倒された。
そして特別展とは別の展示で、白黒写真の展示があって、そちらのほうがさらに印象的だった。とくにアンセル・アダムズの写真のプリントに魅了されて、もともとこの人の作品は有名すぎるぐらいに有名で、本来なら「ベタな」感じすら思っていたのだが、あらためて向き合うと、写真技術として「映像的に真っ暗な陰の中に、さらに存在する自然の様子」までをも的確に光の連鎖としてフィルムに焼き付けていることがうかがえる作品があって、それはおそらく写真集などで本に印刷するときにはおそらく再現できない淡い形象なのではないかと思われるほどだった。素直に「すまん、アンセル!」と謝りたくなった。写真だからといってすべて複製品としての印刷物のなかで再現されているとは限らないのだ、とちょっと反省した。写真家がプリントした現物には、よく見ると彼らがたどり着いた「色彩の影」が記録されていて、それこそを鑑賞することが「ライヴで写真と向き合うこと」の真骨頂なのだと学ばされた。
「行間を読む」ことから、いつのまにかモノクロと色彩の話になっていった。屋外で文章を書くとこんなふうに思考が散逸していってしまう。
得てして毎日は灰色のようにも感じてしまうけれども、何もない色のなかにこそ無限の色彩が可能性のなかにあってほしい、と願いつつ今年のブログを締めくくってみる。
ご愛読ありがとうございました。来年もよろしくおねがいいたします。
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