雑誌『ニュートン』の特集「パラレル宇宙論」になんだか癒されたり励まされたりする気分
雑誌『ニュートン』最新号の特集が「パラレル宇宙論」。
書いてあることの科学的本質をまったく理解できていないなりに説明すると、最新宇宙物理学の成果として、この宇宙で人類が観測可能な領域ってまだまだ狭いらしく、そしていろいろ研究しまくった結果、
「宇宙は同時に他にもたくさん存在しているのではないか」
となり、
「自分たちとまったく同じような姿の生命体がいる宇宙が、どこか遠くにコピーのようにある可能性も、確率としてはありえる」
とのこと。
宇宙がいろいろ存在しそうなのは分かるとしても、なんで僕らのコピーみたいなのがわざわざ存在していただく必要があるの? とも言いたくなるが・・・なにせ『ニュートン』の雑誌は豊富なイラストで分かりやすく説明してくれるのがウリのようだが、そのあたりの説明箇所でも、「地球人とまったく同じ生活スタイルを送っている人が何億光年とかの先で、まったく同じ部屋で生活しているようなイラスト」だったりするのがある意味「衝撃的」でもある・・・。
でも、数学で計算すれば、「まったくの我々のうり二つのコピーがどれか無数の別の宇宙の中に存在していてもおかしくはない」ということになるのであろう。そのあたり、自然科学と奇想的SFファンタジーの狭間にギュウッと脳みそが圧縮されるような、この感じは面白い。
まぁ、たしかにスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』だって、延々と人類史と宇宙をテーマにした映画で、最後にはとにかくひたすら宇宙空間を突き進む内容になって、それでその果てに待っていた景色っていうのが、なぜかそのへんにあるホテルの一室みたいな生活感ただよう空間だったりするわけで、このへんのギャップを思うとあながちキューブリックとかアーサー・C・クラークは当時からこうしたパラレル宇宙論を見透してしたのかもしれない・・・たぶん。
いつもこういう話は「天文学的セラピー」として受け止めて楽しむことにしている。日常の辛いことや哀しいことも、なんだかこういう宇宙の途方もない膨大な話を前にすればなんてことない気がしてくる。
そしてパラレル宇宙論に即していえば、現実の我々の日常生活が、いろいろな選択の積み重ねで成り立っているとすれば、「選ばなかったほうの世界」が、常に新しく生まれていて、その瞬間ごとに私たちの体を取り囲む世界が「別の宇宙」として絶え間なく生成していっている、と思えば「パラレル宇宙論」もなんとなく親しみをもって納得できそうな気がする。そうやって非常に膨大な、無数の「選ばれなかった世界たち、自分が今感知できない無数の可能性に満ちた世界」を乗り越えつつ、今日も明日も涙あり笑いありの不思議な空間を受け止めて生きていく。
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