海外の美術館にいくとしばしば目にする光景について
海外の美術館(といっても私の場合はロンドンとパリでしか美術館に入ったことがないのだが)でしばしば見かけた光景が、「小学校ぐらいの子どもたちが授業の一環でやってきて、みんなで作品を囲んで観賞したり学んだりする」という状況。
あるいは、ドキュメンタリー映画『ハーブ&ドロシー』(の続編だったっけ)でもそういうシーンがあったかと思う。ヴォーゲル夫妻が収集した現代アート作品を、教育的利用として、地元の子どもたちが観賞して、「何コレ?」「アートって何?」みたいな話し合いを、美術館で現物のアートを前にして考え合う、そういう状況だ。
思い返すと、日本ではそういう光景に出会ったことがない。
これは、単に「私がいままで平日に美術館に行ったことがあまりないからそういうシーンに遭遇しにくい」からなのか、「本当にそれをやっている教育現場が少ない」からなのかは分からない。
もちろん、そういう取り組みをしている美術館なり学校が自分の想像以上にあったりするのかもしれないが、おそらく日本の美術館のフォーマットを想定するにつけ、たぶんそういう教育方法はなじまないようになっている気がする。
だって、うるさいからだ。
お金を払って静かに観に来ている客がいるのだから、ワーワーキャーキャーいうガキの集団に美術館のムードをぶち壊しにされたくはないはずだ。
きっと教育体制そのものも、基本フォーマットが異なっているから、ともいえそう。
でもどういうわけか、海外の美術館で子どもたちがみっしりと座って絵画の前にいる光景は、思い返してもまったく苦にならない。
たしかに行儀が良くて相当しつけられている気もするが、それにしてはどうしてああいう教育が可能になるのか。
それに対応するものとして日本の教育現場でおそらく採用されているのは「文化観賞の時間」なのかもしれない。
市民会館ホールみたいなところで、西洋のクラシックなり日本の古典芸能なりを「観賞」するやつだ。
あれは「観賞」なので、その場で思ったことを発言することは(ホールという舞台設定のせいもあって)御法度だ。
「つべこべ言わず、黙って見やがれ」的な。
なんかこう、日本の教育と政治体制ってすべてがつながっているので、この「黙って受入れろやコラァ!」的な流れが、上からも下からもわきあがってくるわけで、そうして子どもたちも追い詰められて制御不能な状態になりやすいんじゃないか。
もっと、言いたいことが言えること、その自信や安心感を自発的にうながせる雰囲気であってほしいよな、と思うわけで、学校現場が「ホールでの文化観賞」以外の選択肢を通して子どもたちに美術や表現を教えたり味わえたりする環境っていうのが多様にあってほしい。
だって、やっぱり「批評力」って必要なわけで、どうしても「人の評価の積み重ねを尊重する」ことが過剰になりすぎると、それはホントーに危険だからだ。他人の評価軸ばかりが自分の判断力や感性よりも先行してしまうなんて、それは危険、キケン、デンジャラス、あぶない、アブない話だ。
たとえば日曜日のワールドカップの試合、後半途中でコートジボワールのドログバが途中出場しても、そんな他人の作った名声や評価につられて、あの状況でドログバという存在をそこまでリスペクトする必要はなかったんだよ、ちょっと意識しすぎだよ、っていう話にも通じるんです(笑)。や、マジで。
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