「余情」っていう言葉。
先日のネタ(たほいや)で『広辞苑』に親しむようになってから、ときおりパラパラとめくることが多くなった。自分が使ったことのない言葉、まったく知らない言葉との出会いを楽しんでいる。
そんなわけで最近の私の中に響いてきたのが、「余情」という言葉である。
余る情と書いて余情。
意味は、「ある行為や表現の目に見えない背後に、なお深く感じられる風情。行為や表現のあとに残る、しんみりとした美的印象。言外の情趣。」
とのこと。
うむ、あまり触れたことがない言葉ではあるが、観念としてはすごく共感できる。
それとともに考えさせられるのは、まさにこういう「余情のある表現」っていうのが、このごろだといろんな領域で不足しているような、もっと言うと失われつつあるんじゃないか、ということだ。
「余情」はひょっとしたら、気づかれにくくて面倒くさい感じだったりもするだろうし、まどろっこしかったり、思わせぶりだったり、そういう受け止められ方をされてしまいがちかもしれない。
何せ言葉の意味に「言外の情趣」とある(この「情趣」って言葉もなかなか使わないけど、いい言葉ですね)。「言外」というのは、言葉の意味として、その意味や示すものの「外側」を無理矢理でも伝えようとする、ある種の矛盾がそこにはあるわけで、そこをひっくるめて「余情! 以上!」みたいな感じで、潔い日本語であり、独特の感覚である。
こういう話を書きたくなった背景を思い返すと、最近とあるお店でご飯を食べていたら、そこで流れていた有線放送のBGMで、最近売れてる曲なのかどうかも分からないとあるポップソングの歌詞が、「ずっと仲の良かった友だちがいま結婚式を挙げている。昔はこんな日がくるなんて信じられなかったけど、これからは幸せになってね」みたいな内容なのだが、その歌詞のフレーズが、まさに「ずっと仲の良かった友だちがいま結婚式を挙げている。昔はこんな日がくるなんて信じられなかったけど、これからは幸せになってね」っていう「言葉そのもの」がひたすら羅列されていて、「なんじゃあそりゃあ!!」っていう気分になったわけである。つまりはこれは「余情がない」言葉なのですよ。こういうのは歌詞というものではなく、「単なる説明文」だと思うわけで。どうしていつの間にかポピュラー音楽界は余情を失ってしまったんだろう、っていう。
古いものを礼賛する悪いクセをここでも発揮して申し訳ないが、この現代の貧相な日本語歌詞の世界観でいえば、80年代における銀色夏生が書いた名作『そして僕は途方に暮れる』の歌い出しの絶妙な歌詞も、現代風に変換すれば「彼女が家を出て行って、僕はとっても哀しいよ」みたいな歌詞になりかねない。
ていうか、そもそも、それだとこの曲のタイトルも『そして僕は途方に暮れる』じゃなくて、『僕は別れて哀しい』になるのかもしれない・・・余情、あぁ余情!
Charaのカバーしたバージョンもすごくいい。
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Comments
壁ぬり以来、時々楽しく拝見しています。
流行りの歌の歌詞を聴いた父が人生幸朗師匠ばりに怒っていた意味、今になってよくわかる気がします(笑)。
Posted by: オミダマヤ | 2017.02.16 15:27
オミダマヤさん>ブログ読んでいただき恐縮です。人生幸朗師匠(笑)思わず以下のようなサイトを訪れてしまった次第です。
http://sabretooth.exblog.jp/1859957/
Posted by: タテイシ | 2017.02.18 10:27
幸朗師匠ネタ、ありがとうございます。
そうそう。上司の故郷を勝手に旅するシリーズ、だいぶ楽しみました。あとたわわちゃん情報みて、すぐスタンプも購入!これからも、おもしろ話期待しておりまーす。
Posted by: オミダマヤ | 2017.02.19 21:03