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2020.06.21

「肩をすくめる読書」

 ずっと気になっていたが、なかなか挑む気になれなかったアイン・ランドの小説『肩をすくめるアトラス』を、このたび読み終えることができた。

 長い、ひたすら長い物語だ。でも小説としてそれなりに楽しんで読めたのが「意外」だった。
 というのもアイン・ランドの作品は小説というよりも「思想書」みたいな扱いで、1957年に発表されたこの『肩をすくめるアトラス』は彼女の最高傑作とされており、「アメリカ人が聖書の次に影響を受けた本」に選ばれるぐらいなので、アメリカ人の社会的意識や価値観などを理解するためには格好のテキストなんだろうという感じで、関心を寄せつつもずっと横目に見ていた感じであった。

 そしてなぜか日本語版はすんなりと手に入りにくい書物(その事情は後述)だったのでなおさらカルト的な存在感を放つ本であり、その分厚さも含めて容易には近づく気になれない小説であったのだが、最近になって手に取る意欲をかきたてたのは、たまたまオリヴァー・ストーン監督の『スノーデン』の映画をもう一度見直してみたことがきっかけだった。最初に観たときには記憶にまったくなかったのだが、スノーデンがCIAに入るための試験を受けるとき、その後彼にとって非常に重要な上司となる面接官が、話の流れで『肩をすくめるアトラス』からの引用を語りかけると、スノーデンが『私の信条です』と返すシーンがあったのである。つまりはそういう位置づけで語られうる小説であり、CIAで生きるようなアメリカ人の思想形成においてもあの作品が持っている「意味合い」がある程度共有されているのだろうということが伺えたわけで、うむ、ここは気合いを入れて向き合ってみるかとこのコロナ禍のステイホームな状況下で思い直したわけである。

 

 で、アイン・ランドが14年間をかけて執筆したというこの『肩をすくめるアトラス』の要約を、無謀を承知で私なりにヒトコトで説明すると、

「自分では何もできない無能なヤツらは、できる人間の邪魔をするな」

ということなんだと思う。ひたすら長い物語を読み続ける読者にたいして、一貫して作者が訴えかけてきたメッセージは、シンプルにこのことだけだったと感じている。

 ストーリーのあらましを説明すると・・・時代設定が明確にされていないので少しSF風であり、50年代のようにも思うし近未来のようでもあるアメリカが舞台。メインの主人公は大きい鉄道会社の副社長を務める若い女性。創業者の子孫として誇りを持っており、社長である兄と対立しながら鉄道の経営に自らの能力を発揮して邁進している。石油産出で盛り上がるコロラドへの路線を再建するべく、鉄鋼の新素材を開発した実業家との協働により自らの信念によって事業を進めようとするも、政府や企業カルテルによる規制施行に翻弄され、そしてさまざまな業界の気鋭のリーダーたちが表舞台から不可解な形で次々に姿を消すという現象が起こり・・・ということで、このあたりが1巻目の話で、残り2巻でさらにいろ~んなことが起こっていく。企業小説でもあり、ややミステリー小説でもあり、やや恋愛小説でもあり、ちょっとSF風ディストピア小説的な、そういう意味で「結局なんなんだよ」というツッコミも入れたくなるが、この膨大すぎるページ数を前にすると「さもありなん」となるわけである。そりゃあ取材や執筆に14年もかかるわ。

 本のカバーに書かれた説明文では「利他主義の欺瞞を喝破し、二十世紀アメリカの進路を変えた資本主義の聖典」とあって、この物語が示す「できる人間の邪魔をするな!」というメッセージが、現在に至るまでのアメリカ主導における自由主義経済、市場原理、ひいては「個人の成功に基づくアメリカン・ドリーム」の存在を支える根本的な考えかたに結びついているんだろうと思う。旧ソ連からアメリカに亡命同然でやってきたアイン・ランドにとっては、自らのルーツを踏まえて、いわゆる社会主義的な思想への徹底した拒否感を小説執筆の形で昇華させていったのであろう。
 そしてこの小説で徹底的に糾弾される「たかり屋」のありかたやその構図は、まさに今の日本における自民党政権やアベ政治の拝金主義を連想させるし、一つの寓話として現在でもリアルに通用する部分があるかもしれない。

 ここまで影響力を誇る(らしい)本なので、当然のように賛否両論もあって、今はそうした論考をあれこれ探して読むのが楽しい。翻訳家の山形浩生氏は独特の論調でかなり酷評していて、どちらかというと私も山形氏の意見に近い感じを今は持っている。でもこういうすさまじい物量の小説を完成させるためのエネルギーを一人の作家が燃やし続けるにあたっては、アウトプットされる主張が極端なカタチになっていくのは致し方ないのかな、という印象もある。

 そんなわけで、「これはみんな読んだほうがいいぞ!」という気持ちにもなりにくい小説であり、ひとつの読書経験としては貴重かもしれない、ぐらいに留めておきたい。というのも、すごく印象的だったのは、終盤のクライマックスで一人の人物が小説の中の時間で3時間にわたる演説を行うのだが、その演説部分を読むだけで確かに実際の時間で2時間ぐらいかかって、「普通に小説を読んでいるだけなのに、一人の人間が話し続けるという場面状況においては、そこを読み進めることがどうしてこんなに苦痛を伴うものなのか」と感じながらページをめくっていた。これは今までに味わったことのない種類の「しんどい読書」の時間だった。そして同時に、小説の中の人物たちが、このときの長い演説を聴いているときに感じていたであろう苦々しい気持ちを読者として一緒に味わうかのような不思議な感覚が残った。

 さらに、この小説全体に言えることだが、登場人物の発言の内容がうまくすんなり理解できない部分が非常に多く、そこはもはや私のキャパがオーバーしているだけの問題なのだろうけど(決して翻訳が悪いとは言いたくない。むしろこの長い小説を、一定のテンションを保って訳しきっただけでも偉業だと思う)、まさに『肩をすくめる読書』とでも言いたくなる。

 そして私がどうしても気になっているのは、これほどまでに社会的影響力が強い「古典的名作」であるのなら、どうして日本では大手の出版社が発行を手がけないのか、ということである。メジャーな出版社から出ていないがために、この本をリアルな書店で見つけることは難しく、私はネット通販で文庫版を3巻すべて入手するのにもちょっと苦労した(最近は増刷されたのか、在庫がでてきている)。

 この本の版元は「アトランティス」という出版社で、ネットで調べる限りとても大手とは言えず、そしてどうやらアイン・ランド関連の仕事しかしていないように思える。そもそも「アトランティス」というキーワードも『肩をすくめるアトラス』のなかに何度も出てくるので、まるでアイン・ランドの思想を広めるためだけに作られた組織のようにさえ映る。しかし、どうして? 版権の問題などはもちろんあるのだろうけど、長年にわたって大手出版社がこの本を扱えない事情でもあるのだろうか。

 そんなわけで、本の成り立ち自体が、まさにアイン・ランドの小説世界に出てくるかのように、ちょっと不思議な体裁をかもしだしているのであった。

 


第一部:矛盾律


第二部:二者択一


第三部:AはAである

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