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June 2021に作成された記事

2021.06.20

サイドカー問題のその後

2ヶ月前、4月にこのブログで「サイドカーが欲しい」という鍼灸師の先生についての記事を書いた(こちら)。

鍼灸師の先生のところにいくのは月に一回なので、記事を書いてからまた一ヶ月後に行くと、

「ちょうど先日、中古バイク屋さんで契約をしてきました」とのこと。

話はすっかり突き進んでいた様子。
最大のハードルであった家族にも、無事に説明を果たしたとのこと。

そしてさらに一ヶ月が過ぎた先日のこと、雨降りのなか、鍼灸院を訪ねた。

鍼灸院は先生の自宅と併設されており、入口の駐車スペースに、象の頭のハリボテでも置いているのかと思えるような、グレーのシートに覆われた大きな固まりがあった。

シートで被さっているため、いったいこれが何なのかが判断しにくいので、この家の前を通る人は気になるかもしれない。これが「自分のサイドカーを所有すること」なのかと、鍼灸院の入口の前で私はしばし突っ立って、この状況を味わわせてもらった。
(今日は雨だったので、シートをはがして実際のバイクを目にするのは次回以降の「おたのしみ」にさせてもらった)

わずか2ヶ月のあいだに、本当にサイドカーを自宅に迎え入れた鍼灸師の先生、「乗るときのことを考えると夜寝られないぐらいワクワクすることがある」と子どものようなことを言う。でも実際、そうなんだろうなぁと思う。いつでもこの巨大な象の頭、いやバイクにまたがって発進できるとなれば(バイクを持つことが久しぶりであればなおさら)、乗りたくてしょうがなくなるだろう。

そしてこのコロナ禍で自分を平静に保つための趣味として、バイク運転は適切なジャンルの趣味かもしれないと思えてきた。風を受けて自由を感じながら走行を楽しむという行為には、この閉塞感あふれる状況においてはとても魅力的である。

ただし時期的に雨が続いていたので、先生はまだ2回しか運転していないとのこと。なので、まだ家族も隣に乗せて走ってはいない。

先生いわく、つい昔のクセで道路の中央を走ってしまいがちになり、特に交差点で右折しようと止まっている先行車の車をよけて直進しようとするときなど、今までにないぐらいの「大回りで動く意識」がないと危ないということを言っていた。つまり「自分はとても変わった乗り物を運転しているのだ」という自覚をずっと持っていないといけないわけである。

そしてこの変わった乗り物を公道で運転する以上、「見られる意識」はより高まるため、「何を着ていくか」も重要なファクターとなり、また同乗者となる家族についてもヘルメットやその他のギアを準備する必要があるために、これでいっそう支出がかさむ可能性が高まるという、至極当然の成り行きについても我々は真剣に話し合った。というわけで、毎月一度のペースで鍼灸院で鍼を打ってもらっている時間は、「結局、どんな趣味をするにしてもお金がかかって大変よね」という人類不変のテーマについて堂々めぐりの議論が続いていくのであった。

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2021.06.07

ディカプリオの『華麗なるギャツビー』をいまさら観たのだが

小説の映画版っていうのは、「たいていが期待ハズレ」と思っているフシがあった。

『グレート・ギャツビー』の映画版が2013年に作られていたことはそれとなく知っていたが、
Gatsby
この主演がディカプリオで、主役のギャツビーを演じたわけだが。
この時点で「うーーーーん、なぁぁんか違うんだぁ~私のなかでギャツビーはこの人じゃないんだよなぁぁぁ~」っていう思いが当時からあった。

ネットで画像検索すると、この写真もよく出てくるのだが、
Gatsby2
やーー、この微妙な笑みも(それなりにこの物語の本質を考えると、演技としてはこの表情のさじ加減も上手いんだろうけど)、なんだか「この人じゃないんだよなぁ」感があったわけである。

でも、だからといって「じゃあディカプリオ以外だったら誰がいいのか」と問われても、そんなに俳優について詳しくないので、うまく代役を推薦できないわけであるが・・・。

そんなこんなで、長らくスルーしてきたこの作品ではあるが、最近ふとしたきっかけで観てみることにした。

 

いやー、驚いた。

 

すごく、よかった。
すいませんでした、と謝りたい。

 

俳優のイメージが、じつはディカプリオ以外のほぼ全員が、私の脳内イメージにかなり近かった。そこがまず驚いた。

そして予想以上に、原作の内容に忠実だった。その1920年代の世界のなかの一部分を現代風に解釈して、ダイナミックな映画に仕上げていた印象。

なにより原作を読んだときに、想像を司る部分が描く世界観やイメージが、ちゃんと映像美のなかで表現されている感じがものすごくあったので、「不思議な再読体験」のようでもあった。

たとえば序盤のブキャナン邸のシーンで、最初にデイジーが出てくるシーンの、透き通るようなカーテンが風にあおられている部屋の感じとか、クライマックスを迎えるニューヨークのホテルの冷たく張り詰めた部屋・・・でも夏の暑さでけだるい部分もある雰囲気とか、すごく細かい部分なのだけど「この情景を自分は本を読んだときに味わっていた」と言いたくなるような、そういうビジュアルが随所に達成されていた。

で、その「達成」の要因として私が感じたのは、ひとえに原作を書いたフィッツジェラルドの巧みな文章構成力によって、時代を経ても多くの人が同じようなイメージを鮮烈に思い浮かべ、かつ登場人物たちのフィーリングが共有できるように、言葉が構築されていったのであろう・・・ということだ。

「この文章や言葉が、どうしてこの順番で現れてくるのか」という感覚でじっくり向き合いたくなるところがたくさんあるので、村上春樹がものすごくこの小説を推しているのも、きっとそういうことなのだろうと思う。「時代を超えて、多くの人が共感できる、言葉と言葉の美しいつながり」が、この小説においては随所にちりばめられていて、翻訳家としては原文英語のその美しさをどうやって変換していくか、とても苦心のしがいのある作品なのだろうと思う。

翻訳でしか私は味わえないにせよ、この映画を観てあらためて、この小説が持っている「流れるような美しさと、冷酷な儚さが混ざり合う世界」を違った角度で堪能させてもらった気がする。また原作の小説が読みたくなるっていうことは、映画の勝利でもある。


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