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2021.06.07

ディカプリオの『華麗なるギャツビー』をいまさら観たのだが

小説の映画版っていうのは、「たいていが期待ハズレ」と思っているフシがあった。

『グレート・ギャツビー』の映画版が2013年に作られていたことはそれとなく知っていたが、
Gatsby
この主演がディカプリオで、主役のギャツビーを演じたわけだが。
この時点で「うーーーーん、なぁぁんか違うんだぁ~私のなかでギャツビーはこの人じゃないんだよなぁぁぁ~」っていう思いが当時からあった。

ネットで画像検索すると、この写真もよく出てくるのだが、
Gatsby2
やーー、この微妙な笑みも(それなりにこの物語の本質を考えると、演技としてはこの表情のさじ加減も上手いんだろうけど)、なんだか「この人じゃないんだよなぁ」感があったわけである。

でも、だからといって「じゃあディカプリオ以外だったら誰がいいのか」と問われても、そんなに俳優について詳しくないので、うまく代役を推薦できないわけであるが・・・。

そんなこんなで、長らくスルーしてきたこの作品ではあるが、最近ふとしたきっかけで観てみることにした。

 

いやー、驚いた。

 

すごく、よかった。
すいませんでした、と謝りたい。

 

俳優のイメージが、じつはディカプリオ以外のほぼ全員が、私の脳内イメージにかなり近かった。そこがまず驚いた。

そして予想以上に、原作の内容に忠実だった。その1920年代の世界のなかの一部分を現代風に解釈して、ダイナミックな映画に仕上げていた印象。

なにより原作を読んだときに、想像を司る部分が描く世界観やイメージが、ちゃんと映像美のなかで表現されている感じがものすごくあったので、「不思議な再読体験」のようでもあった。

たとえば序盤のブキャナン邸のシーンで、最初にデイジーが出てくるシーンの、透き通るようなカーテンが風にあおられている部屋の感じとか、クライマックスを迎えるニューヨークのホテルの冷たく張り詰めた部屋・・・でも夏の暑さでけだるい部分もある雰囲気とか、すごく細かい部分なのだけど「この情景を自分は本を読んだときに味わっていた」と言いたくなるような、そういうビジュアルが随所に達成されていた。

で、その「達成」の要因として私が感じたのは、ひとえに原作を書いたフィッツジェラルドの巧みな文章構成力によって、時代を経ても多くの人が同じようなイメージを鮮烈に思い浮かべ、かつ登場人物たちのフィーリングが共有できるように、言葉が構築されていったのであろう・・・ということだ。

「この文章や言葉が、どうしてこの順番で現れてくるのか」という感覚でじっくり向き合いたくなるところがたくさんあるので、村上春樹がものすごくこの小説を推しているのも、きっとそういうことなのだろうと思う。「時代を超えて、多くの人が共感できる、言葉と言葉の美しいつながり」が、この小説においては随所にちりばめられていて、翻訳家としては原文英語のその美しさをどうやって変換していくか、とても苦心のしがいのある作品なのだろうと思う。

翻訳でしか私は味わえないにせよ、この映画を観てあらためて、この小説が持っている「流れるような美しさと、冷酷な儚さが混ざり合う世界」を違った角度で堪能させてもらった気がする。また原作の小説が読みたくなるっていうことは、映画の勝利でもある。


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