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2024.08.08

キノコ雲に誇りを持っている街で生きること:映画『リッチランド』

 以前、長崎を訪れて原爆資料館を見終わったあとに「展示物の数が少なくて、こじんまりしていた」という印象が残った。しかし後々になって、それはつまり「残せるものが存在しないぐらいの破壊力であったのでは」と気づき、思わぬ距離感からの恐ろしさが追随してくるような気持ちになった。

明日8月9日は長崎に原爆が落とされた日であるが、来年はついに戦後80年ということで、私たちも遠くに来てしまった感がある。

そんななか、いまドキュメンタリー映画『リッチランド』が上映されている。

Richland

アメリカのワシントン州の南部にあるリッチランドという街は、郊外のどこにでもありそうなおだやかな町なのだが、ここは戦時中にマンハッタン計画を極秘に進めるべく、さまざまな地理的条件から見出され、核燃料の生産拠点として戦略的にテコ入れが図られた街なのであった。

長崎に落とされた原子爆弾「ファットマン」のプルトニウムはこの街で作られたとのこと。

「日本に原爆を落としたことで戦争を早期に終わらせた」というアメリカ人の主張はよくあるわけだが、そこからやがて冷戦期に突入すると、結局は当初の思惑以上に、この核燃料産出エリアの重要性は高まっていき、戦後もどんどんと街は発展していく。

ちなみに「リッチランド」という地名は、この土地に町を作ることを決めた際に、当時の州議会議員の名前にちなんでつけられたとのことだが、どうしたって原子力産業の名の下において金銭的な豊かさを享受する「リッチ」に由来したんじゃないかと曲解したくなるような、なんともいえない「皮肉」を感じてしまう。

本作の映画監督、アイリーン・ルスティックのまなざしは、それでもかなりフラットな視点を維持しようと努めている。原爆をつくり、そしてコミュニティへの環境汚染が懸念されつつも、それでも「街の発展、家族の豊かな生活」もまた、リアルに重要なことであり、一方の意見に簡単に寄りかからない粘り強さをもってカメラを回し続けたのだろうとうかがえた。

そうしてこの映画では、この街の平和そうな暮らしの様相を捉えながらいくつかの論点や課題をじわじわと提示していくのだが、私が一番感じ入ったのは地元のリッチランド高校のことである。この高校の校章は見事にキノコ雲そのもののイラストであり、アメフト部の愛称は「ボマーズ」という、私の感覚から言えば直球すぎてどこまでも痛々しいわけであるが、それだけ街の人々はキノコ雲に誇りを感じており、街の基幹産業へのリスペクトを再生産させてきたわけである。

映画の途中で、そんなリッチランド高校に通う生徒達の一部がカメラの前で思い思いに語り合うシーンがあった。もちろん、このドキュメンタリー映画に出ることを承諾したような生徒たちであることを差し引いて彼らの言葉を聞くべきなのだが、そんな彼らは素直にこの校章の超絶なダサさをどうにかしたいと思っており、そして自分たちのその思いをつきつめていくと、それがアメリカという国や、それを取り巻くさまざまな国際政治の根幹の部分にまで及ぶことを鮮やかなまでに思い至らせてくれる。

そうして、きっとこの彼らたちがなんとか自分の考えを大事にしようと苦心しつつも、教室に戻るとその信念はマジョリティに圧倒されてしまうのであろうこともどこかで感じさせたりもする。それゆえに、私はこの彼らの実直なディスカッションのシーンが強く心に響いて、残った。こういう若者たちが終わりのない議論の境界線上で踏みとどまってくれている限り、希望は全然捨てなくていいのである、とあらためて力強く思えたのであった。

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