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2025.12.30

着ぐるみの中の人になってみた

 このあいだ職場で実施するイベントに際して同僚から私に電話があり「着ぐるみに入ってもらうことはできないでしょうか」という突然の打診を受けたので「やりたいです。ぜひやらせてください」と即答した。

「きっとタテーシならやってくれるだろう」という見込みは、ものの見事にその通り、的中である。まぁ、来年で49歳だけどな。

 で、その際に着ぐるみの概要について簡単な説明をうけたのだが、何やらちょっと不穏な気配を感じたので電話を切ったあとすぐ自分でも調べてみた。(この件をブログに書くにあたってはあらゆる具体的な名称は今回すべて伏せさせていただきます)それは某都道府県の違法薬物対策キャンペーンの一環として公募採用されたキャラクターで、パッとみたらとても可愛い男の子なのだが、よくみたら頭の上に、注射器、大麻、ドクロ、薬品のビン、怪しい錠剤が乗っているという、なかなかアッパーなデザインのキャラクターであり、妙な着ぐるみを二つ返事で引き受けてしまった・・・と頭をかかえた。

 

 

Kigurumi

▲自分で模写してみた。

 実際、このキャラの発表当時はネット界隈でもちょっと話題になったようで、「防止するどころか自分自身がヤバいのでは」と揶揄されたりもしていたようだ。よく調べると、設定としては「薬物におぼれた友人を救うべく立ち上がった男の子」ということらしい。まぁ、そりゃそうするしかないよな。

 今回のイベントにおける位置づけとしては、会場にいくつかあるブースのなかで、違法薬物の蔓延防止キャンペーンにかかる展示発表が行われており、それのPRという目的でこの着ぐるみを借りられることになったようだ。そして役所の担当者などは当日来ることがないと聞き、そこは正直なところホッとした。つまり自分の動きは自由裁量がきくことになり、休みたいときに休めそうである。加えて「受け持っている展示会場の入り口から少し外に出て、建物周辺にいるイベント来場者に向けて展示会場そのもののアピールを行い、会場に立ち寄ってもらうように呼び込むこと」もこの担当部署の上司からは期待されているようだったので、ブースを離れてのんびりと自由に動き回って来場者と触れあえそうだった。

 本番の2日前にその着ぐるみは職場に到着した。担当部署の上司自らがクルマで役所に出向いて着ぐるみを借りてきたらしく、でかい風呂敷に包まれた頭と胴体とクツは、上司のセダン車で一度に運ばれたことが信じがたいボリュームだった。そこまでして持ち込まれた着ぐるみを、私が着て「やっぱり動けませんでした~」となったらどうしようかとさらに不安がつのり、恐る恐るその部署のスタッフの力を借りてまずは装着してみたわけだ。

 最初に頭部をかぶったとき、丸くて暗い空間のなかで、自分の呼吸する音だけが静かに聞こえるだけだったので、私は映画『2001年宇宙の旅』のクライマックスの場面を思った。BGMを流すことなく、HALの淡々とした機械音声と、人間であるボーマン船長の息づかいの音だけが延々と続き、ほかに誰もいない静寂の宇宙空間における途方もない絶望的なまでの孤独感をスタンリー・キューブリック監督は巧みに表現していたが、あの名作シーンも着ぐるみの中も、「非日常感」という意味では共通している(強引)。

 視界については、着ぐるみのオデコのあたりに書かれている文字「薬物乱用防止」の背景部分が細かい網目状になっていて、そこからかろうじて外が見えるようになっていた。そして人形の目玉にあたるところは自分の胸下あたりに位置し、その目玉は自動車の窓とかに貼るスモークスクリーンのようになっていた。そのため外側からは黒い目玉にみえるが、内側からはサングラスをかけたときのように外が見られるようになっていて、それで足下の様子が確認できるようになっていた。よくできている。

Shikai

▲外の世界を認識するための網の目

 しばらくその暗闇の孤独感を味わったのち、着替えに使っていた小部屋からノソノソとドアをくぐりぬけて事務室の面々に会おうとしたら、頭がうまく通らずドアに頭をゴツンとぶつけながらジタバタしてしまう。目の前の格子ごしにうっすら見える同僚たちがひとしきり指をさしてクスクス笑う状況を自分も楽しむ余裕があった。ひとまずは自分の太りぎみの体が着ぐるみに無事にフィットしたことに安心した。

 こうしてイベント当日を迎える。11月初旬のいい天気の日だった。

 この日ひたすら着ぐるみをかぶり続けていた私の感想は、「暑い」「怖い」「でも楽しい」、これに尽きた。

 まず、とにかく暑かった。たしかに11月にしては天気がよすぎて気温が高めだったのもある。着ぐるみというのは、たしかに文字通り「ヌイグルミ」なのであり、そこに己の肉体が同化していく装置なのだということを改めて思い知った。何もしなくても汗が流れ続け、この日だけはメガネではなく使い捨てコンタクトレンズを装着しておいたのは大正解だった。自分のかいた汗や、吐く息のせいで湿度は上昇し、着ぐるみの目にあたる部分のスモークスクリーンが内側から結露し、足下を確認するはずの視界が水滴だらけでよく見えなくなっていった。

 これを翌日返却するにあたり、私の汗の染み込み具合はどうなんだろうか、次に使う人はどういうニオイに見舞われるのかと不安になるレベルで一日中ずっと汗をかきまくったのである。

 自分が受け持っている会場の室内にいるよりも、屋外にいたほうが冷たい空気が体内に少しだけ流れてきていくぶん過ごしやすいことが分かってきた。なのでほとんどの時間は玄関先エリアの日陰部分を選びながら「ここには何かがあるよ~みんな来てね~」といったアクションをし続けることにした。そしてそうなると、今度は建物の周辺エリアを散策していた子どもたちがこちらをめがけて四方八方から寄ってくるという状況になっていく。

 何が怖いかって、こういう子どもたちであった。
 特に「親がどこかに行っていて、単独でこっちに突っ込んでくる男の子」が、とっても怖い。
 このことはある程度事前に予想できたことであるが、親の監督下にない状態の子どもにとって、着ぐるみは非日常の意味をはき違えることが一方的に許される存在対象と化すのである。

 何せ、この着ぐるみの胸の部分には「NO DRUGS」というメッセージがプリントされていた。この言葉こそが、この日の私が同一化している寡黙なキャラクターが全世界の人々に伝えたいことのすべてなのである。
 しかし今こうして汗まみれの狭い視野のなかで私が受けている激しい振動や感触を通して、抱きついてきたり手や足を振り回しているのであろうと推測される子どもたちには、このメッセージの意味を理解してもらえそうな気配はない。もし親が近くにいる場合なら「これはこういう意味なんだよ」という解説が入ることを期待できるのだが、単独で突進してくる幼い子どものなかで「英語が読めてその意味が理解できる子ども」がいればそれなりに驚くべきことであるし、そこからさらに「ドラッグという英単語が広義では薬品のことであるとふまえつつ、この文脈では違法薬物を指していることも的確に理解している子ども」がいれば、そっちのほうがさらに驚いてしまうとともに、ちょっと心配にすらなるだろう。

 いずれにせよ、そんな子どもたちに喫緊に伝えたかったのは、ノー・ドラッグの前に、まずはノー・バイオレンスのほうだ。

 無尽蔵のスタミナを誇って延々と迫り来る子どもたちからは頭部のパーツを外されないように気を付けつつ、彼らからは「なんかしゃべれ」という圧をかけられ続け、こちらは無言の身振り手振りでごまかし、それでも食い下がってくる子たちには、いっそのこと自分から頭を外し、汗だくのオッサンによる怒号を飛ばしてしまうという、ある種の一線を越えたい誘惑に何度もかられたが、そこはなんとか耐えた。

 執拗に着ぐるみを取り囲んでいると、なかには鋭い観察眼を持った子どももいる。この着ぐるみは私の体の大きさではすこし窮屈だったため、胴体と腕のパーツのあいだに、私自身の体がどうしても少し露出してしまう箇所があるらしかった(中にいるとそれがどういう様子なのかが見えない)。たまたま黒い長袖シャツを着ていたから目立たなかったが、すかさずそのスキマを見つけてしまった子どもは、なんともいえない気持ちになっていたように思う。モノゴトの裏側、オトナの事情をかいま見てしまった瞬間であり、なんともリアクションしにくい部分を、この私の生身の腕から感じ取って「一気に冷める」ようであった。

 そんな子どもたちの中には、親に促されても決して私に近寄ろうとしない子もいた。そりゃそうだろう、笑顔なんだけど頭に注射器やドクロをつけたキャラクターなので、「行っていいかどうか」の判断がつきにくい。逆にそういう子のほうが例えばオトナになって海外旅行とかでもトラブルに遭わない可能性が高い気がするので、親御さんには「あなたの子育てはうまくいっている」と声をかけてあげたかったがもちろん黙っておいた。でもこうなると自分もプロ意識がムダに刺激され、どうにかして「自分は怖くない、かわいいキャラなんだよ~」ということを必死にジェスチャーで示したくなる。どうやったら子どもに親しんでもらえるパフォーマンスを繰り出せるかというのは、普段の私が1ミリも考えないことでもあったので、これはこれで良い経験になったと思う。

 そうかと思えば、老若男女いろいろな人が私のところへ近寄ってきては、口々に「かわいい」と言ってくれたりするので照れてしまうし、女子学生たちからは次々とセルフィーを一緒に撮ってもらえたりするし、ある女の子からは「だいすき」とまで言ってもらえたりもした。私からはまったく何も喋っていないのに、初対面で「だいすき」である。こうなると、着ぐるみの暗い頭部から見える世界を眺めながら、今までの人生で自分が女子に好かれようと必死に試みてきた数々の努力や苦労はいったい何だったんだろうかと、ふと我に返ってしまいそうにもなる。

 そんな私の苦闘ぶりを、忙しいなか折に触れて様子を見に来ていたらしい担当部署の上司は「例年になく展示会場にたくさんの人をひきよせて、子どもたちが楽しそうに着ぐるみと触れあっている!」と認識していたようで、私のところにやってきては健闘を称えつつ、あまりに私が多くの時間を屋外で子どもたちと過ごしていることを心配もしてくれていた。長いあいだ外にいるのは着ぐるみの内部にひたすら冷気を取り入れたいがための「命を守る行動」の一環であったが、そのことは黙っておいた。
 結局はその担当部署の上司がいつになくうれしそうにしていたので自分としても、この着ぐるみ体験はやってよかったし楽しいものに感じられたわけである。

 あと普段から私はよくJリーグの試合会場でもマスコットに熱視線を送るファンの一人でもあるが、特に夏場の試合などでも黙々と求められるアクションを繰り出し続けているマスコット着ぐるみの労苦を思わずにはいられなかった。いつだってフレンドリーに我々ファンへ手を振ってくれているが、きっとその中は汗だくでむちゃくちゃ苦しいはずだ・・・と思った。

 ちなみに、会場内に設けた自分専用の控え室で休憩をとるとき、必ず現場担当の学生スタッフさんに声をかけて一緒についてきてもらい、控え室のなかで着ぐるみの頭部を外してもらう手助けをしてもらっていた。そして学生スタッフさんの担当シフトの関係上、休憩のたびにいつも異なる学生さんたちが私を手伝うことになった。なので可愛い着ぐるみの頭部を外したら「バンダナを巻いた汗だくの疲弊したオッサン」が現れるという状況だったので、そのとき学生さんが浮かべるビミョーな表情を私はいつも楽しみにしていたりもした。

 こうして着ぐるみ係をやりきった私はその日の「業務」を心から楽しんだわけだが、職場からの帰り、電車に乗るべく駅を歩いていて、向こうから子連れの家族を見かけると、つい反射的に手を振りかけてしまい、慌ててごまかした。

 これはもしかしたら「着ぐるみの中の人あるある」なのかもしれない。 (了)

Ashi

▲また、このクツに足をつっこむ日がくることを楽しみにしている

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・・・というわけで、今回も長文の記事となりましたが、今年もこのブログを読んでいただきありがとうございます。
読んだ本の話とか書きたいことがいろいろあるのですが、それはまた追々、少しずつ書いていければと思います。

2025年もいろいろなことがあり、ショックだったり考えさせられることがあったり、ただひたすら楽しかったりグッとくるシーンもあったりですが、とにかく前へと進むしかないですね・・・

この「前へと進む」という意識付けについては最近強く思うところがあって、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の最後の一文が、

「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも」 (村上春樹訳)
となって物語が終わっていくわけですが、この原文
「So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.」
が、どうして英語ネイティブの人にとっては美しい名文だと感じられるのかを、つい最近ChatGPTさんに尋ねてみたら、「うぉぉ!!そうなのか!?」という発見が炸裂しまくって、それ以来この文章がマイブームになってるところです。

「舟」って、車とかと違って必ずしも自分が制御したとおりに精緻には動いてくれなくて、それでも自分を乗せて何らかの流れには乗って進んでいくわけで、それはまさに生活に似ているところがあるなと、つくづく思う次第です。

そんなわけでこのブログ恒例の「今年よく聴いた一曲」で締めくくります。
羊文学『あいまいでいいよ』

 

 

いい流れがたくさん、きますように。

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