Posts categorized "映画・テレビ"

2018.01.10

自由を求めての脱出とか料理とかブログを書くこととかの映画について

正月休み用に借りてみた映画2本。どちらも実話をもとにした作品。

まずは『パピヨン』(1973年)。

結論としては、「正月に観るべき映画ではなかった」(笑)。

無実の罪でフランス領ギニアの刑務所に収容され、そこからの決死の脱出を試みたパピヨンと、その仲間たちの物語。
スティーブ・マックイーンとダスティン・ホフマンという二大スターの競演。

「脱獄もの」といえばマックイーンの『大脱走』が有名だが、その双璧をなすとされる名画だとのことで、まったく知らなかったので観てみたが、いやぁ過酷すぎて観ていてほんとに辛くなった。孤島を囲む海は美しいが、同時に自由を許さない残酷さが静かに広がっていて、すべてが重く、切ない。そして運命を共にする主演の二人の対照的な結末。

DVD特典映像のメイキングでは、本物のパピヨンさんが映画の制作スタッフにアドバイスをしたり、当時の監獄を再現したセットにたたずみ、過去を思って感慨深い表情を見せる様子などが残されているが、よくもまぁこの状況下で脱獄を図ったなぁ、ていうか「よく生きていましたねぇ」と思えて仕方ない。(映画ゆえにか、ギリギリのピンチをなぜかうまく切り抜けたりするシーンなど、ホントにそうだったの? って言いたくもなるが)

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2つ目は『ジュリー&ジュリア』(2009年)。

最近読んだ本で紹介されていたので気軽に観たのだが、映画の背景に考えさせるテーマが別に浮かび上がった。

ジュリア・チャイルドは、戦後1949年にアメリカの外交官の妻としてパリに住んだことをきっかけに、名門料理学校ル・コルドン・ブルーでフランス料理の修業を積み、やがて家庭向け料理本の著者として、またテレビの料理番組の先生としても有名になっていく。そんな勇猛果敢で陽気なジュリア役をメリル・ストリープがうまく演じながら彼女の物語を進行させつつ、物語の本筋はそこから約50年後、そのジュリアの書いた料理本のレシピ524品を1年間ですべて料理してブログで発表しようとする、ジュリーという公務員の女性の奮闘ぶりが同時並行的に描かれていくユニークな構成となっている(ちょうどジュリーは9.11テロの後処理に携わる仕事をしていたようで、ブログという表現形式はたしかにこの頃からポピュラーになっていったというメディア史的なありかたも示されている)。

料理と出会い、料理と向き合いながら人生の困難を乗り越えようとする姿勢だったり、ジュリアの最初の料理本を出版することへの様々な試練や、もともと作家志望だったジュリーのブログが徐々に評判を呼んで、そこから出版への道が開かれていくあたりなど、この2人が図らずも似たような状況に置かれていった感じがうまく描かれている。また、ジュリーとジュリアそれぞれの夫の理解力や温かさも通じるものがあって、観ていてほっこりする。そしてリベラルなジュリアの夫が「赤狩り」の影響であらぬ疑いをかけられたり、ジュリーのブログの存在が上司にも知られ「自分が共和党員だったら君はクビだ」と言われたエピソードなど、その時代における政治的なネタも印象的なスパイスになっている。

あまり多くを書くとネタバレになるので控えるが、この「良くも悪くもブログが自分の知らないところで広まること」について、この映画が投げかけるトピックはわりと身につまされることがあり、この映画が「料理を通してバーチャルにつながる、世代を超えた人生ドラマ」だけでなく、見方をかえると「ブログというパーソナルかつソーシャルなメディアの及ぼす影響力についての、21世紀初頭のアメリカでの一事例」としても捉えることのできる作品になっていて、図らずも自分自身の活動についても考えさせられるものとなった。

あとブロガーとしては、そもそもであるが、「忙しくても毎日違う料理をレシピ通り作り、そのことを書いていくこと」を自分に課したジュリーにひたすら敬服したい気分にもなったり(笑)。

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2017.06.19

「天文学セラピー」ふたたび/iPhoneの充電コネクタの掃除をして驚いたことなど

 先日の記事であたらしいソファを買った話を書いたが、ソファを探している時期に、頭の片隅でずっと、「この調子だと、あたらしいテレビが欲しくなるよな・・・」となっていた。8年前ぐらいに引っ越しとともに買った26型テレビをずっと使っていたのだが、パソコンの画面とさほど変わらず、ソファ生活が始まれば、そのサイズ感がどうしても小さく思えてきたのである。

 奇しくもその時期は、新製品が出る直前のシーズンだったようで、古いモデルが在庫処分セールされるタイミングでもあった。電気店の店員さんの口車に乗せられた向きもあるが、「いま古いモデル買っておかないと!」という気持ちで、テレビの購入に踏み切った。
大きさは43型。ちょっと部屋のサイズを思うと大きすぎるかもしれないと思ったが、いまこうして一ヶ月ぐらいたって慣れてしまうと、普通に見えてくる。

 そうして私は最近、ソファにごろんとなってテレビをみる時間が増えた。もうこれは40すぎの男にとっては致命的な傾向になっていくことも自覚しつつ。

 で、ちかごろのテレビは当然のようにYouTubeの動画などを気軽に観られるモードがデフォルトに入っており、むしろそっちのほうが面白くなってきている。当初はそんな機能があっても特に使わないだろうなー、どうせ動画はパソコンで見るし・・・と思っていたのが、動画の中にはテレビに応じた画質の動画もたくさんあることがわかり、なにより最近のマイブームはNASAなどの宇宙空間からのライヴ映像を配信しているチャンネルである(こちら)。
 私はつねづね「天文学セラピー」と呼んでいるのだが、宇宙空間について触れる時間を持つことはストレートに「癒やし」になっていくと思っている。日常生活でまず最初に忘れがちになることって、そういうことだったりする。絶妙のバランスで回っている地球に我々はヘバりついて生かされているんだよなー、っていう立ち位置。あ、「立ち位置」という言葉すらも宇宙からみたらなんか違うかもしれない。まさに「ヘバりつき位置」か。そうしてだらしなくソファに、グデンと横になりながら、遙か彼方の宇宙空間や地球の映像を眺めつつ思いを馳せる時間をかなり大切にしている。

 そういえば以前に、スカパーの「エコミュージックTV」というチャンネルが終了したときに私はおおいに落胆し、今後の生きる糧を失ったかのような気持ちになったのだが、時を経て私は、YouTubeとネット接続テレビ(と、ソファ)という組み合わせによって、また「エコミュージックTV」があった日々のような気持ちを取り戻せそうである。「そうか、テレビでネット動画が見られることの良さはこういうことなのか」と、いまさらな感想であるが、私はそうやって3周回遅れぐらいで生きている。地球に、ヘバりついてんだもん。

 テレビをみる時間が増えたぶん、単純にブログを書く頻度が減っていっているので、それもなんとかしたい。

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 これはつい昨晩のことなのだが、このところずっと、ちょうど2年ぐらい使用しているiPhoneが、電源コネクタの接触不良か何かでうまく充電できないことが多く、「うーむ、最近やたら買い物ばかりしているから、携帯の買い換えは避けたいなぁ」と思っていた。充電器とケーブルはAppleの純正品を使っており、また併用しているiPod touchのほうは問題なく充電できているので、原因があるとすればiPhoneのほうだった。
 で、なぜかこの件については特にネットで検索をかけて調査する、ということもしておらず、ひたすら悶々とした日々を送っていたのだが、ふと何かのはずみでそのことを検索したら、「コネクタの中をつまようじで掃除するとホコリがでてくる」という超絶シンプルな解決策が紹介されていた。

「なぜいままでそのことに思い至らなかったのか」とすら思えたので、ものの試しにやってみたのだが、


Matsuki01

ハイ、
思っていた分量の、
かるく3倍ぐらいのホコリのかたまりが次々と出てきました・・・


私はiPhoneを普段ずっとズボンのポケットに入れていたのだが、いやはやまさかこんなにホコリが蓄積されていたとは・・・

当然ながら、それで充電器の接触の問題、速攻で解決。

「 す い ま せ ん 」
とひたすら言いたい気分。

最近はそんな感じです。


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2016.11.27

ポッドキャスト『Harukana Show』で村上春樹の訳した『グレート・ギャツビー』について語りました

イリノイ州アーバナシャンペンからお送りするポッドキャスト「ハルカナショー」、No.297, Nov.25, 2016 「秋の夜長、村上春樹の世界観にふれるwith Tateishi」ということで、最近のマイブームを話そうと思って、このブログに書きそびれたままのネタ、村上春樹が訳したスコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の話をさせていただく。

ポッドキャストは(こちら)より。

最近はまったく村上春樹を読んでないのだけど、高校時代に集中的に読んでいた時期があって、その延長で『グレート・ギャツビー』も当時の翻訳で読んだけど、なんかさっぱりで、でも書き出しと結論の部分の美しさは確かに印象が残っていた・・・という作品だった。村上春樹がもっとも好きな小説として挙げていて「老後の楽しみとしていつか翻訳する」と何かのエッセイで書いていて、それがいつのまにか10年前ぐらいに早々に出版されていたことを知りちょっと驚いて、ずっと気になっていて、最近ようやく手を出した・・・という顛末。

装丁に関してはこっちの下のほうの廉価版?のバージョンのほうが断然好みなんだけど、なぜかAmazonではこのバージョンが表示されない。
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ちなみにこの一連の翻訳シリーズは和田誠氏による他の装丁も絶妙にツボな写真を使っていてすごく好き。
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作家にしろミュージシャンにしろ、その本人が強く影響を受けた大好きなアーティストの作品にたいしてカバーをしてみたりオマージュを捧げたりするのはすごく興味深いもので、たとえば個人的にすぐ思いつくのはローリング・ストーンズがカバーするロバート・ジョンソンの『Love in vain』とか、「この曲本当に大好きなんです濃度」の高まりが素敵すぎて(あ、このブログの左端の下のほうに表示してる、好きな音楽動画を集めた中にも未だにアップしていますが)、もはや原曲よりもさらに違う味わいを放っていて、いろんなライヴ音源とかをネットでいろいろ探したくなる。アーティストによる「一方的な思い入れ、片思いっぷり」みたいな情熱を本家に向けて捧げていくそのテンション、私は好きである。

とにかく、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』ですよ。村上春樹が作家人生を賭けて最大限の愛情を込めて必死に翻訳した文章が面白くないわけがなくて、文章表現として何を読者に示して、どこで会話文を入れて、どこで情景描写を行って、どこまで言葉で説明するか/あるいは説明しないのかといった独特のバランス感、立体感というか・・・村上春樹は「テクスチャー」などと表現しているけれど、そういう「ある種の感触」が絶妙で、たしかに村上春樹がこの小説の魅力を力説するだけのことはある気がした。他のところで村上春樹は「文体とは乗り物みたいなもの」と書いていたことが印象的でずっと覚えているのだが、今回の翻訳を読んで、あらためて「読者を乗せて運ぶ」という概念を考え抜いていくことが文章を組み立てていくうえでの重要なポイントなのだと実感。

で、そうしたフィッツジェラルドなどの文学者を見出して編集者として支えたマックス・パーキンズの評伝を今読んでいるところで、例えばこの『グレート・ギャツビー』の完成までをパーキンズがどのようにオーガナイズして軌道修正させていったかなどのエピソードがすごく興味深かったり。
この本を原作として作られた映画で、今年たまたま日本で公開されている『ベストセラー:編集者パーキンズに捧ぐ』を見逃したことを後悔していたのだが、よくみたら関西では1月にも京都シネマとかでやるみたいで、ありがたい。

しかしこの映画版の主軸である肝心の作家トマス・ウルフの本って日本でなかなか手軽には手に入らないのが謎。古本でやたら高値になってる。


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2016.04.22

R.I.P.

小学校6年生のときに、プリンスのつくった『バットマン』のサントラをひたすら聴いていた。
けっきょく映画は観ていないのだが・・・
いま思えば、人生で最初にハマった洋楽はこれになるのか。
安らかに・・・


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2016.02.16

生き方と、構え方:『写真家ソール・ライター:急がない人生で見つけた13のこと』

ドキュメンタリー映画『写真家ソール・ライター:急がない人生で見つけた13のこと』を観てもっとも感じ入ったのは、80歳になるこの写真家が、街中で写真を撮るべく構えるデジカメの、その持ち方だった。

まるで、どこにでもいそうな素人のおじいさんが「デジカメって使い慣れないのよね」といわんばかりに、ブレた写真になりそうな、指先だけでカメラを支えるような、ハラハラする構えかただったのである。

あくまでも彼はフォトグラファーであり、その昔、商業ファッション誌で一時代を築いたとされる写真技術を持っている人物である。でもそんな彼は名声や評価にはとんと無頓着であり、このドキュメンタリー映画のために自身の姿が撮影され、インタビューをされるなかでも、端々に「なんで私が?」という戸惑いを隠さない。

もちろん、まだ若くて体がよく動く頃とは、カメラの持ち方や脇のしめ方だって違ってくるだろう。それは時間の流れとともに変容していくはずである。
でもビジュアルを捉えるその姿勢や感性は年を取っても変わることがない部分もあるわけで、どんなカメラの構えになろうが、目の前の世界を愛でて瞬間を切り取っていくその動作を眺めているうちに、その人となりや生き方が、まるであのなんともぎこちないカメラの持ち方に集約されているようだった。

なのでこの映画およびソール・ライターという写真家の人生について語るには、その「カメラの持ち方」を語るだけで充分のような気がした。


得てして我々は本当に大事な本質を捉えるのがヘタだったりする。


あのたどたどしいカメラの持ち方、でも何も悪びれることなく構えるその「たたずまい」に、それを強烈に感じた。

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2016.01.13

SMAP解散のニュースを、プログレッシヴ・ロックのファンとしては反射的に斜に構えて受け止めがちになる件

SMAP解散のニュースが朝から報じられている。しかしマーケティング的には、正しいステップを踏んでいるのだろう。なぜならすでに各メンバーはソロで活動している時間が長いわけで、それぞれが充分すぎるほど単独でやっていける状況が広く長く続いており、解散というニュースに対してもそれほどの衝撃度は少ないはずだ。

(個人的体験として本当にショックの大きかった解散はやはりスーパーカーだった。メンバーの一部ですら、バンドが今後も続くものと信じて疑っていなかった中の衝撃的な解散劇だったのだから、ファンにしてみればそのショックはさらに大きかったのである)

SMAPの解散を「マーケティング的に正しい」と感じさせるのは、たとえば仮に事務所が違えど、数年に一度くらいは「再集結」することだってできるはずで、そのたびに話題作りが可能になるわけだ。さらにいうと、途中で脱退した森くんだって、そうした枠組みだと再結集の際に加えやすくなる気がしないだろうか。それはスポンサー的にはおいしいネタである。

そういうふうに思うことの下地には、私が古くさい英国プログレッシヴ・ロックのミュージシャンたちの有り様に振り回されて生きていることが色濃く反映されている。

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「『プログレ』って文字をこのブログに書くの久しぶり-!」

解散後のSMAPのメンバーを、あたかもプログレの有名バンドのメンバーのように捉えると、上述したような「再結成」はいくらでも話題性を呼んで、そのたびにお金も動くだろうし、もし仮に全員が再結成しなくても、テレビ番組やその他の媒体で、「あのメンバーとあのメンバーが久しぶりに共演」という話題性はいくらでも増殖可能になってくるのである。そしておそらく、そのほうがSMAPという枠組みに縛られるよりもよっぽど効果的だと判断されたのかもしれない。

(まったく知らないところから新バンドが作られても、ドラムにビル・ブラフォード、ベースにジョン・ウェットンが参加していると報じられたら、どんな地味な扱いだとしても私は何の迷いもなくそのバンドのCDを買いに行くことになる、そういうノリだ)

そしてこの調子でいけば、たとえばTOKIOがメインの「鉄腕DASH」に、元SMAPのメンバーが1人2人でもゲスト参加すれば、それだけでプログレ・ロックでいう「スーパーグループ」の法則のごとく、瞬間最大風速的な盛り上がりをいくらでも作ることが可能である(ただし、そうした盛り上がりは長く続かないこともまた、歴史が証明している)。

というわけで、SMAPという枠組みが外れた5人ないし6人は、今までよりもいっそう、話題づくりを仕掛けやすい立場になっていく。それこそ懇意にしているロックバンドのライヴにゲストで入って昔のSMAPの曲を歌ってみたりとか、そういうことがすぐ想像されるわけだ。

つまりは「SMAPという枠組み自体の若返り」とも受け止められるわけで、そんな簡単にこの枠組みがその輝きを失うことはないはずで、もしかしたらよりいっそう、今後は「元SMAP」の人々が日本の芸能界をリードしていくのかもしれない。今回はそういう仕組み作りが進行しただけのこと、だ。

・・・すべてはプログレ・ロック界の激しい人的交流と金儲けの歴史に振り回されている者としての推測ではあるが(笑)

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2016.01.09

グーグルのストリートビューの画像だけを使った映像作品『NIGHTLESS』(田村友一郎)のアイデアに魅入る年明け

今年最初に「うおぉ、そうきたか!」と唸ったこと。

S先生より教えてもらった、田村友一郎さんというアーティストの映像作品『NIGHTLESS』。

グーグルのストリートビューの画像だけを素材にして、10分ほどの映画にしたというもの。

これは真っ先にアイデアをカタチにしたもん勝ちの作品。なるほどー!! ってなる。

ある意味ではストリートビューにたいする皮肉のようにも感じられるし、同時にこうした技術を面白く享受してしまえる時代への賛歌にも受け止められるであろう。

そして題名が示唆するように、世界中の土地を把握しようと試みるストリートビューの映像は、当たり前なんだけど、その利用趣旨の都合上、夜の風景は表示されないわけである。つまり常に明るい世界だけがデータとして蓄積され続けていくという、「夜の不在」に気づかせてくれるのである。

S先生が作者本人から聞いたところでは、ストリートビューを少しずつ動かして、スクリーンショットでパソコンの画面をキャプチャして、加工して、つなげて・・・の連続らしい。いやはや、アイデアをカタチにする執念の勝利である。

YouTubeでも公開されているので、ぜひ。(こちら

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2015.12.18

世界に表現されることのなかった、すべてのかくされた創作物へ:『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』

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ジョン・マルーフという若い歴史家が、シカゴの街並みをとらえた写真資料をオークションで漁っていたことから、このヴィヴィアン・マイヤーなる無名の人物が撮影したフィルムを手にする。そこから「ヴィヴィアン・マイヤーとは何者か」を探究する旅がはじまり、やがて多くの人に彼女の作品が知られるようになる。このドキュメンタリー映画はあらためて「ことの次第」と、さらなる深い探究の軌跡を収めた作品となっている。

ネタバレ的に書くが、結果的にこの映画を観ても、我々はヴィヴィアン・マイヤーについて知るどころか、さらに多くの謎をつきつけられて終わっていく。家庭を持たず、乳母として生きるかたわら、路上に出てカメラを持ち、あらゆる瞬間、あらゆる人物をファインダーごしに捉えていった謎の女。ちょっと常人離れした部分を抱えつつ、あれほどの技術と才能がありながら、生涯においてまったく公表することのなかった膨大な写真作品。

ゆえにこの映画は、おそらくもっとたくさんいるであろう、ヴィヴィアン・マイヤーのような人びとによる無数の創作物、決して陽の目をみることのなかった「いくつもの輝き」についても思いをはせるドキュメンタリー映画である。

こういう過去の埋もれた芸術作品が人の目に触れるにあたって、やはり現代におけるインターネットが果たしうる役割というのは大きいなぁというのはきわめて月並みな感想ではあるし、今後も似たような事例が生まれてくることも予想できよう。しかしだ、それにしても、このヴィヴィアン・マイヤーの遺した作品たちは、お世辞抜きに本当にどれもこれも見事なのだ。

もちろん、すべての創作物が人目に触れなくてはいけない理由はないし、本人の意向に従って、それらが秘密のまま保持されてもまったく問題はない。それは分かっているのだが、次々と映画のなかで惜しみなく・・・その刹那的な見せ方も、演出としては効果的だったが・・・紹介されていく彼女の写真作品に触れれば触れるほど、このクオリティが埋もれていた人生のありよう、そしてそれが現代において発掘された数奇な運命を、どのように受け止めればいいのだろうか、と思案しながらこの映画を観続けていたのであった。

映画についてくわしくは(こちら)へ。

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2015.11.03

「闘わない一揆の映画」としての『新しき民』

 大学のイベントで、山崎樹一郎監督(本学の卒業生である)の最新作『新しき民』の上映イベントを実施させていただいた。
 これは岡山県の真庭地域で江戸時代に起こった「山中一揆」をモチーフにした時代劇なのだが、これはある意味で「現代映画」でもある。なぜなら「一揆」とは、言葉こそ違えど特に昨今の日本の社会状況にも大いに関わりを帯びた行為になってきており、このイベントが当初企画されていた年度初めの頃には想像していなかったのだが、この映画はその作品としての意義ゆえに、このイベントを準備しているあいだにもいくつかの劇場公開が決まっていったのである。

 ただ単にこの作品は「一揆を描いた映画」ではなく、最大のポイントは「一揆を闘わなかった人」を主人公に据えていることである。それゆえに、やはり極めて、これは「現代のこと」にも、いろいろな道筋で通じている気がする。
一揆をするべく立ち上がる民衆のなかで、ただ一人それを拒み、すべてを捨てて逃げることにおいて、そこに至る「想像力」が、今の時代に生きる我々にも突きつけられている、そういう映画なのである。

 この真庭地域の特殊事情もあって、農民だけでなく山奥で林業を営む木地師など、この地域にはさまざまな職域にまたがるコミュニティが協働していて、民衆の主張を通すには、すべての派閥において納得できる決着に至るよう交渉する必要性があった。しかしそれが少しでもできなかった場合、一揆を蜂起する側に亀裂が走り、仲間割れを起こすことだってありうる。場合によってはそこから「異なる他者」への排斥や差別意識だって育まれかねない。「それこそが権力側の意図だ」という旨が作中にも語られるが、それはそのままストレートに、現代の我々の社会状況にも言えるのである。

 そして、この映画の主人公である治兵衛が、究極の選択として仲間や家族を見捨てて一揆から背を向けて逃げたこと、そこに至る想いや苦悩は、当時の農民たちと現代の我々とで共有することだってできる、そんな想像力こそが、そうした権力側の意図をすり抜けていく可能性の一つになり得ること、そうしたことを考えさせることがこの映画の重要なテーマとなっている。

 身内びいきとか完全に抜きで、たくさんの人に届いて欲しい、「今」の日本の映画。

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2015.10.27

『新しき民』上映会+トークイベント

ひさしぶりに仕事関連の告知も!
(タイミングとしては遅いですが・・・)

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チラシの裏面や詳細は(こちら)へ!


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