映画『ドリーミン・ワイルド:名もなき家族のうた』を観て、音楽環境の時代的変遷を実感したり不変の家族愛に心うたれつつ、どうしても映画に没頭できずにひとりツッコミを入れ続けたりしたこと
「実話に基づく映画」が好きだ。
たぶん、自分の立っている世界とどこかで地続きであるという実感をもって観ることができるからかもしれない。
さて今回観た映画『ドリーミン・ワイルド:名もなき映画のうた』(公式サイトはこちら)は、米国ワシントン州の田舎で、広い農場で暮らすエマーソン一家の物語だ。父親は楽器を与えるだけでなく、音楽スタジオをDIYで建造して、2人の兄弟は農作業の手伝いの傍ら音楽づくりに没頭していく。兄のジョーがドラムを叩き、弟のドニーが歌いつつギターやその他の楽器の多くを手がけ、曲も次々とドニーが生み出していく。
そして1979年、ドニーが17歳のときにエマーソン兄弟は『Dreamin' Wild』というアルバムを自主制作で完成させ、レコードを大量にプレスするのである。
ただしそれは片田舎での話であり、そこから販路をもって広げていく術もなく、その作品が陽の目を見ることはなかった(たびたび、エマーソン家の地下室などに未開封のダンボールの山が置かれている様子がうかがえて、自分もZINEの冊子とか自作Tシャツの在庫などをダンボールにひたすら抱えているだけに、人ごとではない切なさに共鳴する)。
その後も才能溢れるドニーは音楽の道を捨てきれずに奮闘するも、「夢」は夢のまま年月が過ぎていく。ところが約30年の時を経て、あるコレクターが骨董品屋でこのレコードを発見し、その音楽性を賞賛すると、ネット時代ゆえの「バズり」が生じて、一気にこのアルバムおよびエマーソン兄弟の存在が再評価される事態となり、レコードの再発やメディアからの注目、それに伴うライブ演奏の機会がめぐってくるのだが、そんな急展開の状況においてドニーには無邪気に喜ぶことができない葛藤が押し寄せてくる・・・というストーリーだ。
そして今この「あらすじ」を書いていて気づくのは、これはあくまでも「ドニー側からみた書き方」であり、この映画を観た後の心情から振り返ると、例えば兄のジョーの視点だったり、または惜しみなくすべてを注いで彼らを信じ続けてくれた両親の側からの視点で捉え直して「あらすじ」を書いてみたくもなる。私が冒頭で「エマーソン一家の物語だ」と書いたのは、そういうことなのだ。これは音楽の映画であるだけでなく、まさに家族をめぐる映画だった。
映画の最初のほうで、何も状況を把握していないエマーソン家(田舎暮らしで、ネット社会で起こっている音楽業界のことなんかには無関心だったのだろう)を訪ねてきた音楽プロデューサーがいかにこの作品に注目が集まっているかを力説し、少しずつ事の重大さが認識されていくシーンなんかは、素朴な気持ちで観ているこちら側にとってもだんだんと微笑ましい気持ちがこみ上げてくる。
しかし事態はそんな単純な話ではなく、そこからドニー個人にとってはいわば「遅れてきた試練」のような展開になっていくわけだが、それをふまえて一歩引いて現実のところで考えてみると、「この映画を作る話そのもの」も、リアルな部分でエマーソン家にとってはある意味で「試練」みたいなものがあったのではないか、と想像してしまう。大昔に子どもたちが青年期特有の熱情で作った音楽作品の、予想だにしなかった再評価に関わる家族間の、どちらかというとあまり表だって言いにくい「過去」の話を、この映画を通してドキュメンタリー的に追体験させてしまう、このあたりは実際のエマーソン家のなかでどういう昇華のされかたがあったのだろうか。こうした「音楽の再発見による家族の夢の新たな展開」と「夢を追っていた家族の歴史の露呈」の二重構造が途中からうっすらと気になってきたのだが、最後にはそのあたりも映画作品としてうまく着地させていった、とも言える(これから観る人のために詳しくは書かないでおく)。
それにしても、この兄弟が残したアルバムをよくぞ発掘してくれた! とも言いたくなる。映画を観る前から「予習」としてサブスクだったりYouTubeで実際のエマーソン兄弟の演奏を聴いていたわけだが、この『Dreamin' Wild』収録曲の、とくにラストの「My Heart」なんかは、果てなく広がる大地の地平線から立ち上がってくるような気配から奏でられる繊細なフレーズに、何度も繰り返して聴きたくなる中毒性がある。当時10代だった彼らがこうした音風景を自分たちのハンドメイドで結晶化させていったことは、確かにひとつの奇跡的な味わいがある。
(でもなぜかこの曲は映画のなかでは使われなかった。エンドロール向きだと予測していたのだが)
で、ここからはかなり下世話な感想・・・。
この映画では私の超好きなズーイー・デシャネルが、ドニーの妻、ナンシーの役として出演している。
そのことは映画を観る前から理解していたはずなのだが、そのせいで、どうしても私はスクリーンに現れるのが「ドニーの妻のナンシー」ではなく「うわー!ズーイー!」という存在感で捉えてしまうがために、映画の世界のなかで
どれだけドニーが苦悩しようが、
いらだちを見せようが、
つい反射的に
「おいおい、ズーイー・デシャネルが奥さんなんやから、それ以上人生に何を望むねん!?」
・・・というような気持ちになってしまうわけである。
気を取り直して「いやいやいや、ここはドニーの煩悶にフォーカスして、共感しないと・・・」となるわけだが、どうしてもズーイー登場時には元通りになってしまいがちで、物語世界そのものへの没入がそのつどリセットされるような感じになってしまい、その点についてはもう本当に本当にエマーソンさんご一家の皆様には申し訳ないと頭をさげたくなるし、純粋な気持ちで映画を観続けられていなかったことを平謝りするしかない。
結論:それにしてもズーイーはあいかわらず超絶ステキ。
いやいやいや、違う。違うんです。
(この記事の冒頭で「実話に基づいた話は自分と地続きだ」とかなんとか書いたけど、ズーイーに関してはまったく地続きじゃないですね・・・はい。)
(無理やり話をかえて)
あ、子ども時代のドニーを演じた印象的な俳優ノア・ジュプさんは、なんと『フォード vs フェラーリ』に出てきたケン・マイルズの息子役でもあったとは! それは気づかなかったぁー!!(すっかり大人になって!) この映画も実際にあった話を基にした作品になるわけだが、実際に起こったとは思えないほどにあらゆる点でドラマチックなモータースポーツ史の1ページを完璧に描ききった傑作で、コロナ期の果てにどうしてもスクリーンで味わいたいと願い、恐る恐る映画館に行って観た作品という意味でも、自分にとっては印象深い映画なのであった。
(たぶんコロナのこともあって、この映画をほとんど客のいない映画館で観たことは表だってブログに書かないままだったと思われる。)
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