カテゴリー「学問・資格」の記事

2022.05.22

「最近ふたたび英検を受けてみた話」

Eiken

 以前「HOWE」で英検をはじめて受けた話を書いた。あれから7年ぐらい経って、再び私は英検の試験会場にいた。

 とはいえ、まったく気が進まないままの試験である。というのも職場の事情で「業務外での自己研鑽」を毎年報告しなくてはいけなくなり、そういうものにまったく前向きになれない私は、せいぜい「英語を身につけようとがんばっています、イエース」というポーズぐらいしか自己研鑽として示せるネタがないよなぁとなり、やむなく「英検準一級を目指す」とお茶を濁すしかなかったのである。そう書いたからには受験をした事実も作らないといけなくて、そんな経緯で一万円近い受験料を払ったからには、こうしてブログの記事にでもしないと気持ち的にモトが取れない。

 そして案の定、まったく試験準備ができていなかった。

 それなりに普段の生活のなかで英語に触れようと意識的に努力している部分があるとすれば、家の中でスカパーの「BBCワールド」のチャンネルをつけっぱなしにすることぐらいだ。でもそれは英語を学ぶためというよりも「室内をできるだけイギリスの空気感にしたい」というマヌケで妄想めいた願望のためであり、意識してリスニングに励んでいるわけでもないので、いつまでたってもネイティブの発音をしっかり聞き取れるようにはなっていない。

 ちなみにBBCでは『ハード・トーク』というインタビュー番組があって、その進行を務めるスティーブン・サッカーというキャスターのしゃべり口調が耳に心地よくて気に入っている。

Sackur

 できればこの人の発音のように英語をしゃべってみたいとはずっと思っていて、そして以前も書いたとおり自宅のトイレにはロンドン近郊に及ぶ大きな鉄道路線マップを貼っているので(これのこと)、トイレにいる間はスティーブン・サッカー氏を意識していろいろな路線の駅名を発音するようにしている。おそらくこれほどまでにロンドンの鉄道駅名をひたすら読み上げている不気味な人間はアジア圏でもあまりいないのではと思えてくるわけで、おかげで発音はかなり上達したかもしれないし、おかげで未だに独身生活を続けている。ただし文章を発声していないので、結局は使える英会話力にまで至っていないのが心許ない。

 そんな調子で無謀にも英検準一級に挑むことになったわけだが、申し込みにあたって久しぶりに英検の実施内容をみてみると、ちょっとした興味深い変化があったのだ。それは英検S-CBTという試験が新設されていて、専用センターに設置されたパソコンを各受験生が利用し、話す・聴く・読む・書くの4技能の試験をすべて一回で済ませることができるのである。しかも開催日がほぼ毎週土日にあり、都合に応じて気軽に申し込めるようになっていた。昔ながらのやり方だと、年3回ぐらいしかない日程で、初日の筆記試験の成績がダメだと別の日に実施されるスピーキング試験まで進めなかったので、私がぼんやりと暮らしているあいだに英検はそれなりに進化を遂げていたのだ。

 こうして今回私はそのS-CBTの試験にトライしたわけである。会場の試験センターはビルの一室にあってあまり広くなく、二部屋に仕切られて、一部屋は10人ぐらいで同時に二つの級の試験ができるようになっていた。受付ではロッカーのカギを渡されて、荷物はもちろん、腕時計やポケットに入っているものもすべて室外のロッカーに預けるように言われる。そんなことを命じられるのは他では牢屋か手術室に入るときぐらいしかないのではと感じたので、一気に緊張感が高まってしまう。室内に持ち込んでいいのは鉛筆かシャープペンシルと消しゴムだけだが、消しゴムはケースを外した状態でないといけなくて、そしてシャーペン類も、文字が記載されているものはダメと言われた。幸い私はこのとき無印良品のシャーペンを持ってきていたのでオッケーだったが、私の前に並んでいた学生さんは、エンピツの側面に刻印されているメーカー名などの箇所をきれいにカッターで削って臨んでいた(でも仮に「MITSUBISHI」とかいう単語がエンピツに記載されていたとして、それで何かの支障が生じうる英語の試験って何なんだろうか)。

 なお、パソコンで回答する試験形式を選んでいるため、基本的には鉛筆を使う機会は少ない。ただし最後に出てくる英作文だけは事前にパソコンで入力するか、手書きで解答用紙に書いていくかが選択できるようになっていたり、そして試験中にメモを取りたい場合の用紙も支給されるので、パソコンで回答する場合も筆記用具は持って行く必要があった。

 荷物を預けて割り当てられた個別ブースでパソコンを前にし、受験の注意事項を読みながら15分ほど待機する。部屋に時計が置いてあるわけでもなく、自分のスマホや時計などの一切合切は外に預けている状況のため「いま何時かさっぱり分からない感覚」があった。パソコンの初期画面でも時間表示はなく、つい時間を知りたくなってポケットに手をやり、そこでスマホをロッカーに預けていたことを思い出す始末である。
 まして私は英語の勉強をしていないばかりか、この新しい受験形式の内容もあまり予習していないままだったので、いろいろと落ち着かない気分になっていった。そして「しまった、トイレに行っておくべきだった」となった。ここから昼前までブースからは出られそうにない。「今からしばらくトイレに行けない」と認識したとたんにトイレにぼんやり行きたくなる、あの感覚はなんなんだろう。
 
 試験がはじまる前に、スタッフが部屋に入ってきて、パソコンの音声確認を行うよう指示された。自分が話す内容が録音されるので、ヘッドセットとマイクをしっかり装着し、そして録音レベルのテストにおいては「Hello, how are you?」と発声するようにと指示が書かれていた。狭い部屋でこのマイクテストを最初に口火を切ってやるのがちょっと照れくさい気分になるので、ついほかの人たちが話し始めるまで待ってしまう。自分が話した音声がリピートされて、無事に聞こえるかどうかを確認してマイクテストが終了。それが終わったらいったん動きを止めて、スタッフが「試験開始」を宣言するまで動かないようにするのかと思いきや、マイクテストが終わったらそのまま自分のペースで試験を始めてよいらしく、アタフタとなる。この時点でさっそく心が乱される展開に。
 この寸前まで私が考えていたことといえば、「別に“ハワユー?”って発声しなくても、単なる機械的なテスト録音なんだから別のフレーズでもいいんだろうか、『ウェーイ!』とか言ってみたり・・・」といったことであった。この落ち着かない状況下においては、そういう妄想をすることで気持ちを安定させようとしていたのかもしれない。ウェーイ。

 そうして最初のテストが始まる。画面に4コママンガのようなものが出てくる。飲食店のオーナーが売り上げ増大を狙ってロボットで接客させるというアイデアを実行したら、売り上げが落ちてしまったというストーリーだった。これを決められた録音可能時間のあいだにマイクに向かってマンガの内容を英語で説明するというもので、案の定、アタマが真っ白になりアワアワとなって、そのままカウントダウンとともに終了。

 次のセクションでは、動画で外国人が質問をしてきて、それについて短い時間でアワアワと答えていく。何を尋ねられたか覚えていないほどにあっという間に回答可能な時間が過ぎていき、私のアワアワな返答も途中で録音が途切れ、さっさと画面も消えていく。すぐに別の動画が現れて、脈絡なく違う質問をしてくるという、その繰り返し。伝えたいことはたくさんあったはずなのに私はほとんど何も言えず、そこに映っていた人の名前も知らないまま、すべてが終わっていく。出会いと別れとは無情なものである。
 せっかく鍛えていた(はず)の発音もアワアワしすぎて、もはやそれどころじゃなかったので、何も発揮できなかった。

Sackur
すまん、スティーブン。

 こうして不勉強な私を徹底的に打ちのめすスピーキング・テストがあっさり終わっていった。そしてヘッドフォンをつけているのでそのまま引き続きリスニング・テストが始まっていく。二人の対話を聞いたあと、質問があり、画面に表示された4つの選択肢のなかから回答を選ぶというもの。

 この時点で私はさっそく戦意喪失していたのであるが、しかしここで流れてきたリスニング問題の会話が、なぜかミョーに聴き取りやすかったのである。おそらく日頃の「BBCワールドつけっぱなし生活」は、それなりに意味があったのかもしれない。そうなると得点を稼ぎたいという欲が一気に沸き起こり、リスニングの部ぐらいは満点を狙うぞと、前のめりになって問題に向き合っていった。やれ新しい家具を買いに行くわよとかこのテーブルがいいんじゃないのかとか、この手の問題でありがちな生活感ただよう会話ばかりであるが、それなりに「聞ける!」「アンタがそう言いたくなる気持ち、分かる!」という感覚に至る状態が心地よかった。

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 こうして鼻息荒くリスニングを終えたあとは、短い英文の空欄に当てはまる単語を選ぶというオーソドックスな問題が続くセクションへ進む。ここではパソコンによる解答方法がよく考えられていて、たとえば問題の隅にチェックを入れるところがあり、あとで時間が余ったときに、クリックしたらすぐに当該の問題に飛んで見直しができるようになっていたりする。
 そうしてハイテクな英検の進化に感心しているのもつかの間であった。ここで次々と襲いかかってくる問題群における、それぞれの選択肢に並ぶ英単語が、見事にどれもさっぱり分からなかったのである。だいたい、この年齢までそれなりに英語に触れていると、たいがいの英単語はどこかで見たことがあったりするような意識でいたりする。そんな感じなのに、どうして英検では準一級になったとたん、はじめて出会うような不思議な言葉ばかりが登場するのか・・・ええ、まったく勉強していない自分を最上段の棚にあげたうえで言いますが、英語の世界にそんな単語って本当に存在するんですかと逆ギレしたくなるほどに、まるで珍しい昆虫ばかりが集められた標本を眺めているかのような、完全に意味不明でお手上げ状態の単語ばかりが選択肢に鎮座しているのである。英検二級は確かに「まぐれ」で通ったかもしれないが、これが準一級の壁なのか・・・と、ふたたび打ちのめされた。

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 読者諸氏にはここまで辛抱強く読んでいただき感謝を申し上げたい。今回のこのブログ記事が長くて辟易しているだろうが、その感覚はまさに私がこの英検を受けているときの気分とよく似ていると思っていただきたい。まだこの文章は続くし、すなわち、まだ試験は終わらないのである。

 もはやヘナヘナ状態であるが、この次に待ちかまえていたのが3つの長文問題であった。本当はこういう「出題パターン」というのも予習をしっかりしておき、「そういうものなのだ」ということをあらかじめ了解しておくべきなのである。しかしそんな予習もすっ飛ばして試験に臨んでいたので、「このノリで今から長文、3つも読むのか・・・」と気持ちは萎える一方であった。そしてこのときぐらいまで、私はずっとヘッドホンを頭につけたままだったことに気づき、恥ずかしながら静かにヘッドホンを外した。ちなみに「物音が気になる人のための防音対策の耳当て」も別に用意されていて、ヘッドホンのような形をしていて机の奥のほうに置かれていた。そっちを装着して、あたかも音楽を聴きながら試験を受けているかのようにノリノリで肩をゆらしつつパソコンに向かうポーズを取って試験監督から失笑されるか不気味に思われるかぐらいのことをしてもよかったのだが、そんな度胸はもちろん、なかった。

 このときの長文問題のテーマであるが、1つ目が「『ピーターパン』の作者はこの物語の著作権を小児病院に寄贈していて、その著作権が80年代に切れた際の対応をめぐる英国政府の動きについて」で、2つ目が「温暖化防止のために人工植林を開発したことによる利点と欠点について」、3つ目が「大航海時代に新大陸に乗り込んで原住民と出会い、その地に留まっていたはずの西洋人たちは、その後なぜか当地から姿を消すことが多かったという謎について」といった内容だった。普通に読み物としてはどれも興味深い話で、文章もわりと平易だった・・・が、ここでも質問文とその選択肢においてやたら難しい文言や表現が多くて、結局は自信をもって解答できなかった。事前に勉強してきていない私がピーターパンのように現実と向き合えていないことを痛感させられてくる。

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 ちなみにここでも英検はハイテクぶりを発揮し、長文を読解するにあたっては文章のところにマウス操作でマーカーを自由に引いたりできる機能があって(たしか色もいくつか選べたはず)、可能な限りペーパーテストのときに行えるアクションをパソコン上でも実現できるようにしていた。なので思わず関係ないところまでマーカーで試しに線を引いたりして、一瞬だけ遊んでしまった(時間ないのに)。その気になったらカラフルなイラストも描けてしまうのだが、もちろんそんなことを試みようとするヤツはまず英検には受からないだろう、うむ。

 最後はお待ちかねの英作文であった。いや、別に待っていない。「残り時間、何分よ!?」と、画面の端に表示されたカウントダウンタイマーを見やりつつ、残された時間で150語程度の文章を書かねばならなかった。しかも「序論・本論・結論」の形式を備えつつ、そして問題文に添えていくつか書かれている関連キーワードのなかから2、3個を用いた内容で作文をせよとのことである。
 本日のお題は「日本政府は、国立公園を増やすべきかどうか」。今こうして冷静な頭であらためて振り返ると、確かに賛否両論が起こりえる問いかもしれないが、当日の疲れ切った精神状態においては、増やさないほうがいい理由を考えるほうが難しく、自ずと「増やした方がいいに決まってるだろう」という気持ちになっていたので、私は与えられたキーワードから、自然保護の観点だけでなく政治経済面、特に日本の水資源をめぐる外国資本の脅威についてをメインの主題にして作文することとした。中学生レベルの文法でひたすら平易に書いていくと、150語をオーバーしたので、ちょっと削るのに苦労した(パソコンが自動的に単語数をカウントしてくれるのもありがたい)。時間との闘いだったので、この英作文が終わったあと、前の問題の解答を見直す時間もほとんど取れずにタイムアップ。

 実は長文読解のところでモニターの英文をグズグズと眺めていたとき、室内の他のブースからは英作文に取りかかり始めた人たちがキーボードを軽やかに入力するカタカタ音が鳴り響いてきて「うわー、もう作文してんのか~」と焦りが生じてきたわけだ。そう思うと自分の場合も高校生ぐらいのとき、こういう英語の試験のときは「後ろの問題から先に取りかかりはじめる」ということをやっていたなぁと思い出した。最初に英作文の問題テーマを見ておいて、軽く作文をしておいて、それで他の問題に取りかかっている間にも、頭の片隅で英作文のテーマのことを考えつつ・・・という作戦だ。ただしその場合、自分だけ変なタイミングでキーボードをカタカタ鳴らしてしまうので、気が引けるといえば気が引けるが・・・入試と違って周囲の人に動揺やプレッシャーを感じさせることのメリットもないし(笑)。

 そんなわけで試験が終わったらさっさと退室し、すかさずトイレに向かっていった。

 試験の結果は一ヶ月後ぐらいに分かる。私のアワアワなトークの録音(途中で切れる)も誰かによって時間と手間をかけて採点されるのであろう。この文章を書いている時点ではどういう成績なのかは定かではないが、少なくとも今回の英検を受験している最中に、すでに「どうやってこれをブログで書こうか」なんてことを終始ぼんやりとアタマの隅っこで考えながら臨んでいたので、そんな状態の受験生が準一級をクリアすることは到底ありえないだろうなとは思う。

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2020.06.21

「肩をすくめる読書」

 ずっと気になっていたが、なかなか挑む気になれなかったアイン・ランドの小説『肩をすくめるアトラス』を、このたび読み終えることができた。

 長い、ひたすら長い物語だ。でも小説としてそれなりに楽しんで読めたのが「意外」だった。
 というのもアイン・ランドの作品は小説というよりも「思想書」みたいな扱いで、1957年に発表されたこの『肩をすくめるアトラス』は彼女の最高傑作とされており、「アメリカ人が聖書の次に影響を受けた本」に選ばれるぐらいなので、アメリカ人の社会的意識や価値観などを理解するためには格好のテキストなんだろうという感じで、関心を寄せつつもずっと横目に見ていた感じであった。

 そしてなぜか日本語版はすんなりと手に入りにくい書物(その事情は後述)だったのでなおさらカルト的な存在感を放つ本であり、その分厚さも含めて容易には近づく気になれない小説であったのだが、最近になって手に取る意欲をかきたてたのは、たまたまオリヴァー・ストーン監督の『スノーデン』の映画をもう一度見直してみたことがきっかけだった。最初に観たときには記憶にまったくなかったのだが、スノーデンがCIAに入るための試験を受けるとき、その後彼にとって非常に重要な上司となる面接官が、話の流れで『肩をすくめるアトラス』からの引用を語りかけると、スノーデンが『私の信条です』と返すシーンがあったのである。つまりはそういう位置づけで語られうる小説であり、CIAで生きるようなアメリカ人の思想形成においてもあの作品が持っている「意味合い」がある程度共有されているのだろうということが伺えたわけで、うむ、ここは気合いを入れて向き合ってみるかとこのコロナ禍のステイホームな状況下で思い直したわけである。

 

 で、アイン・ランドが14年間をかけて執筆したというこの『肩をすくめるアトラス』の要約を、無謀を承知で私なりにヒトコトで説明すると、

「自分では何もできない無能なヤツらは、できる人間の邪魔をするな」

ということなんだと思う。ひたすら長い物語を読み続ける読者にたいして、一貫して作者が訴えかけてきたメッセージは、シンプルにこのことだけだったと感じている。

 ストーリーのあらましを説明すると・・・時代設定が明確にされていないので少しSF風であり、50年代のようにも思うし近未来のようでもあるアメリカが舞台。メインの主人公は大きい鉄道会社の副社長を務める若い女性。創業者の子孫として誇りを持っており、社長である兄と対立しながら鉄道の経営に自らの能力を発揮して邁進している。石油産出で盛り上がるコロラドへの路線を再建するべく、鉄鋼の新素材を開発した実業家との協働により自らの信念によって事業を進めようとするも、政府や企業カルテルによる規制施行に翻弄され、そしてさまざまな業界の気鋭のリーダーたちが表舞台から不可解な形で次々に姿を消すという現象が起こり・・・ということで、このあたりが1巻目の話で、残り2巻でさらにいろ~んなことが起こっていく。企業小説でもあり、ややミステリー小説でもあり、やや恋愛小説でもあり、ちょっとSF風ディストピア小説的な、そういう意味で「結局なんなんだよ」というツッコミも入れたくなるが、この膨大すぎるページ数を前にすると「さもありなん」となるわけである。そりゃあ取材や執筆に14年もかかるわ。

 本のカバーに書かれた説明文では「利他主義の欺瞞を喝破し、二十世紀アメリカの進路を変えた資本主義の聖典」とあって、この物語が示す「できる人間の邪魔をするな!」というメッセージが、現在に至るまでのアメリカ主導における自由主義経済、市場原理、ひいては「個人の成功に基づくアメリカン・ドリーム」の存在を支える根本的な考えかたに結びついているんだろうと思う。旧ソ連からアメリカに亡命同然でやってきたアイン・ランドにとっては、自らのルーツを踏まえて、いわゆる社会主義的な思想への徹底した拒否感を小説執筆の形で昇華させていったのであろう。
 そしてこの小説で徹底的に糾弾される「たかり屋」のありかたやその構図は、まさに今の日本における自民党政権やアベ政治の拝金主義を連想させるし、一つの寓話として現在でもリアルに通用する部分があるかもしれない。

 ここまで影響力を誇る(らしい)本なので、当然のように賛否両論もあって、今はそうした論考をあれこれ探して読むのが楽しい。翻訳家の山形浩生氏は独特の論調でかなり酷評していて、どちらかというと私も山形氏の意見に近い感じを今は持っている。でもこういうすさまじい物量の小説を完成させるためのエネルギーを一人の作家が燃やし続けるにあたっては、アウトプットされる主張が極端なカタチになっていくのは致し方ないのかな、という印象もある。

 そんなわけで、「これはみんな読んだほうがいいぞ!」という気持ちにもなりにくい小説であり、ひとつの読書経験としては貴重かもしれない、ぐらいに留めておきたい。というのも、すごく印象的だったのは、終盤のクライマックスで一人の人物が小説の中の時間で3時間にわたる演説を行うのだが、その演説部分を読むだけで確かに実際の時間で2時間ぐらいかかって、「普通に小説を読んでいるだけなのに、一人の人間が話し続けるという場面状況においては、そこを読み進めることがどうしてこんなに苦痛を伴うものなのか」と感じながらページをめくっていた。これは今までに味わったことのない種類の「しんどい読書」の時間だった。そして同時に、小説の中の人物たちが、このときの長い演説を聴いているときに感じていたであろう苦々しい気持ちを読者として一緒に味わうかのような不思議な感覚が残った。

 さらに、この小説全体に言えることだが、登場人物の発言の内容がうまくすんなり理解できない部分が非常に多く、そこはもはや私のキャパがオーバーしているだけの問題なのだろうけど(決して翻訳が悪いとは言いたくない。むしろこの長い小説を、一定のテンションを保って訳しきっただけでも偉業だと思う)、まさに『肩をすくめる読書』とでも言いたくなる。

 そして私がどうしても気になっているのは、これほどまでに社会的影響力が強い「古典的名作」であるのなら、どうして日本では大手の出版社が発行を手がけないのか、ということである。メジャーな出版社から出ていないがために、この本をリアルな書店で見つけることは難しく、私はネット通販で文庫版を3巻すべて入手するのにもちょっと苦労した(最近は増刷されたのか、在庫がでてきている)。

 この本の版元は「アトランティス」という出版社で、ネットで調べる限りとても大手とは言えず、そしてどうやらアイン・ランド関連の仕事しかしていないように思える。そもそも「アトランティス」というキーワードも『肩をすくめるアトラス』のなかに何度も出てくるので、まるでアイン・ランドの思想を広めるためだけに作られた組織のようにさえ映る。しかし、どうして? 版権の問題などはもちろんあるのだろうけど、長年にわたって大手出版社がこの本を扱えない事情でもあるのだろうか。

 そんなわけで、本の成り立ち自体が、まさにアイン・ランドの小説世界に出てくるかのように、ちょっと不思議な体裁をかもしだしているのであった。

 


第一部:矛盾律


第二部:二者択一


第三部:AはAである

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2016.09.12

『TED TALKS:スーパープレゼンを学ぶTED公式ガイド』&TEDICTのアプリが素晴らしい件

 出たばかりの新刊書をすぐ買って読むことは少なくて、ましてそれを人に勧めるのも稀なのだけど、この本は強烈にマジでおすすめ。
 この本はTEDが発展してきた歴史的展開をふまえつつも、それぞれの章において実に巧みに「プレゼンテーションの実践的ハウツー」を余すところなく紹介しており、きわめてストレートすぎるほどの「実用書」だった。と同時に、この本で実例として触れられているTEDトークの数々も、まだ観たことのないものが多くて、それらをすかさずネットでチェックしたくなるという意味では、「TED自体のPRプロモーションの本」としてもバッチリ狙い通りだったりする。

 特にこの本で繰り返し強調されているのは、ひとつのトーク、ひとつのプレゼンは「聞き手を旅行に誘うようなもの」というコンセプト。話者は旅行プランナーであり、観光ガイドであるわけで、「いかに面白い旅を提供するか」という切り口で捉えると、どこでみんなの注意をひきつけ、どこで「景色を味わってもらうか」を考え、どこまで自分の言いたい説明を、旅への興味を削ぐことなく伝えていくか・・・などなど、あらためてプレゼンの準備において大事なものがどういうことか、考えさせられる。

 というわけでこの本を読みながら、終始「うまい・・・さすがや・・・」と、唸った。つまりこの本の内容として、お客さん目線で知りたいことを知らせ、熱い気持ちにさせつつ、しっかりと自分たちの言いたいこともページの隅々に染み込ませていて、その方法論そのものが、まさにTEDが目指しているありかたにも通じていることがわかる。だからこの本を通して学べることは、今後もTEDの壇上にあがるようなことがない人々(ほとんどがそうだ)にとっても十分に役に立つわけで、もはや人前でのスピーチだけでなく、広くコミュニケーション全般において忘れたくないネタが満載の、買って読んで損はない一冊となっている。

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 ちなみにTEDの動画を用いた英語のリスニング教材のアプリで「TEDICT」というのがあるのだが、これが実によく出来ていて、ゲーム感覚でTEDのトークをネタに「リスニングしながら単語並び替え作文」ができてしまうので、移動時の暇つぶしには最適。私のiPodにはこれに加えてウィズダム2の辞書アプリも入れていて、分からない単語はTEDICTの画面からコピーしてすぐに調べられるのでこの組み合わせは今のところ最高だ。
 TEDのお気に入りトークをひたすら聞き続けるわけだから、話の内容も英単語も染み込んでくる感じがあって、かつ「英語を勉強している感じがあまりない」というのもポイント。数多くの英語教材が「日常会話の例文」を覚えさせようとして、もちろん大事なのは分かっているけど、どうしても「わざとらしい会話」に感じてしまって覚える気になれない自分にとっては、いやホント、良い時代になったと痛感している。少なくともこの分野においては。
 TEDICTについてはこちらの記事など!


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2016.07.27

「『無知』の技法:不確実な世界を生き抜くための思考変革」

Amazonのカスタマーレビューでやたらと高い評価を受けていたので期待して読んだのだけど、読書体験の面でいえばそんなに言うほどグググと魅了されて読める本でもなかった。細かいツッコミをさせてもらえれば、それぞれの個別事例が興味深いわりに、その内容の説明があっさりしすぎていて、読んでいて消化不良になる箇所がところどころあって、そこが惜しかった。まぁ、本当に興味があるんだったらあとは自分で調べてちょうだい、っていうことか・・・。(アメリカのモンタナ州にあるリビーという小さい町で、アメリカ史上最悪の環境被害とも言えるレベルでアスベストの被害が長年存在していたにもかかわらず、当の住民たちがその事実を頑なに認めようとしなかった、つまり「この町は健全だと“知っている”」ことに固執しすぎて惨事を広げてしまった事例なんかは、いろいろ考えさせられる興味深い事例だ)

この本の言いたいことは、つまりのところ「私たちはもっと、『わからない』と率直に表明することを怖れるべきではない」ということだ。ますます世の中が「高度プロフェッショナル人材」を求めている(ように見せかけられている?)時代において、「専門性」をもったプロ職業人を養成しなければならない・・・っていう風潮のなかで、いろいろな局面で「私はそれを知らないです、分からないです」と認めることがますます言いにくい状況になっているのだけど、そのせいで本当に重大な決断が深い熟慮なしに、本人のメンツや見栄という要因で安易に決定されてしまうこと、そういうことに警鐘をならす本である・・・今に始まったことじゃないけれども、この問題って古今東西なくなる気配はないので、やっかい。

この本の最後あたりで繰り返される「闇に飛び込む」「未知を楽しむ」っていう姿勢だったり、途中で引用されている霊媒師さんのセリフ「天使と悪魔のあいだの空間で生きる方法を学びなさい」っていう言葉なんかは、まさに昨今の自分たちが置かれている状況に照らすと、「うむ・・・」と深く反芻したくなるものがある。中途半端なものに耐えること、分からないものを分からないまま抱えることのできる体力っていうのが、ますます大事だと。

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ちなみに。
上記の本の著者がもし日本語を理解できたら、あなたの追ったテーマと同じ方向性で、面白くてためになる先行研究としてこんな本がすでに書かれていたんですよと強く薦めたい。


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2016.06.27

最近仕事でつくったチラシ

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認知症イメージそのものを変えていくための取り組みということで、できるだけそのコンセプトを反映させたものをつくりたいと思い、こういうロゴを描くに至った次第。
どうぞよしなに。


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2015.10.27

『新しき民』上映会+トークイベント

ひさしぶりに仕事関連の告知も!
(タイミングとしては遅いですが・・・)

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チラシの裏面や詳細は(こちら)へ!


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2015.06.14

カルチュラルタイフーン「En-Zine(Zineの輪):反時代的対話醸成装置」のセッションを実施しました

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ひさしぶりにカルチュラル・タイフーンというイベントに関わることができ、貴重な機会をいただいた小笠原さん、麦子さん、さぶさんに感謝です。そして来ていただいた方々、朝一番のセッションにも関わらず、ありがとうございました。

「そもそもなぜフリーペーパーやZINEを作ろうと思ったのか」というかなり初発の部分を整理して、それを伝える作業を通して、いろいろと再確認できる部分があった。
実家のどこかにあるはずだけど、なかなか見つからなかった、「自分にとってのすべてのはじまり」である別冊宝島『メディアのつくり方』もこのイベントにあわせて別途古本で調達して持ってきて、自分のZINEに並べて置いてみたり。久しぶりに読み返すと、思っていた以上に「この本、やっぱり、おかしい!(いい意味で)」っていう内容だったので、これはこれでまたどこかでじっくりネタにしてみたいと思っている(さぶさんもセッション前にこの本を手にして「すごい!」と唸っていたのが印象的)。

さぶさんとは、この日が初対面なのだけど、じつは数年前に、私の『HOWE』をくださいというお便りをくれたので、手紙を添えて送ったことがあった。「フリペに手紙が添えられていたこと」が本人にとってインパクトがあったとのことで、そのときを振り返ってさぶさんは「まだあのときの手紙の返事は書けていませんが・・・」っていう、とてもオシャレなセリフでもって表現してくれた。ZINE的なるものに初めて触れた経験が『HOWE』だったというのも本当に光栄で、こうして遠くに住む知らない人に送ったフリペと手紙のリアクションを、その数年後に、本人から直接このようなかたちで返されるという、なかなか得がたい経験をさせていただいた。

麦子さんやさぶさんのプレゼンで共通して出てきたことについて印象的だったのは、たとえばさぶさんにとっては「オルタナティブな生活を送るためにはどうすればいいか」の、その解決方法そのものを提示するだけでなく、解決に至るプロセス自体の楽しさを伝えたいというのがあり、そして麦子さんにとってもZINEというのは「途中経過をカタチにすることができるツール」として捉えることが語られていた。
それはつまり、早急に答えなり結末なり結果を出しがちな現代社会の「極端走り」に抗う姿勢でもある。ZINE(というか個人がつくるオルタナティブ・メディア全般がそうなのだろうけど)が果たしうる可能性としては、その「中途半端さ」であり「いいかげんさ」であり「神出鬼没さ」だったりするわけで、その「煮え切らなさ」こそを大事にしていきたいところでもある。

そして小笠原さんが最後に「良い意味での『押しつけがましさ』」っていうフレーズを提示していて、それもZINEならではの感覚かもしれないと思った。「読む/読まない」っていうのは、あくまで商業的な判断基準であったりするのだが、ZINEやフリーペーパーは得てして、そういう枠組みではないところから読者の手に「押しつけるかのように」もたらされる場合があって、そのあたりの感覚が、さぶさんが『未知の駅』の創刊号を「ヒッチハイク」というテーマで始めたことをなぜか想起させ、なんとなくその両方の感覚が似ている気もだんだんしてきた。そうか、フリペやZINEってヒッチハイクに似ているかもしれない。いま書きながら気づいた。

そうして私が最後に言わせていただいたのが、「ZINE」を名詞ではなく、動詞的に捉えていこうということだ。行為のプロセスそのものがZINEであり・・・っていう感覚(そう思うと、浜松の「ZING」は、そのネーミングそのものがまさにそのことを示唆しているのであった)。
そのへんのことも含めて、夏のPARC自由学校でもうちょっとじっくり話ができたらいいなと思いつつ、さぶさんとの夏の再会を約束して帰ってきた。

ちなみに写真にあるように、各自が持ってきたZINEや関連資料を会場で並べてみたのだが、机の真ん中あたりにあるのが、元来よりサッカー文化論をテーマにカルチュラル・スタディーズを行ってきた小笠原さんが持ってきた超秘蔵資料・・・スコットランドのサッカークラブ、セルティックやレンジャーズ等々の、ファンが作るZINEたちである。今回のセッションでそのことについて触れるチャンスがなかったので、ぜひこれらのフットボール・ZINEをめぐる小笠原さんの話を、(マニア根性丸だしで)個人的にいろいろ聞いてみたいのであった(笑)。いつかまた近いうちにそういう機会があることを願いつつ。


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2015.05.14

カルチュラル・タイフーン2015@大阪にて6/14(日)の「En-Zine(Zineの輪):反時代的対話醸成装置」のグループセッションに参加します

カルチュラル・スタディーズの研究者や興味のある学生、その他広くいろいろなパフォーマー・アクティビスト・その他いろいろな人々による、学会のような、研究会のような、カルチャーイベントのような、毎度不思議なイベント「カルチュラル・タイフーン」が、今年は大阪で開催される。

で、諸々のつながりや偶然が重なり、2日目の6月14日(日)10:30-12:00、場所は関西学院大学大阪梅田キャンパスにて「En-Zine(Zineの輪):反時代的対話醸成装置」と題したグループセッションに参加させていただくことに。

カルチュラル・スタディーズにおいて特に「サッカー文化研究」で著名な小笠原博毅さん、ZINE『未知の駅』のさぶさん(東京から参加!)、そして「ハルカナショー」でいつもトークをしてくださっている文化人類学者・西川麦子さん、わたしの4人が座談を行いつつ、オーディエンスの方々もまじえてZINEについて語り合う予定。いったいどうなるかは、当日にならないと分からない・・・まさにフットボール的な、ピッチ上の変わりゆく局面のなかでのパス回しのような、そういう状況なり時間が過ごせそう。

ZINEにおける「対話」とは。そしてなぜいま「ZINE」なのか、そういうところを自分なりに考えて臨みたい。

このイベントでは10年前に、自分の書いた修士論文のことを発表させていただいた。とても恩義を感じているイベントだけに、ふたたび今度はZINEやフリーペーパーのことで参加させてもらえるというのは感慨深い。

カルチュラル・タイフーンの詳細については(こちら)をチェック!
今回は1日目と2日目の会場が異なるので注意。我々のプログラムは2日目の朝なので、梅田駅から徒歩圏内にある関西学院大学大阪梅田キャンパスで実施します。

全体プログラムも先日リリースされた(こちら)。
ちょっと小難しそうなプログラムも並んでいる(気がする)けど、そんなに肩肘はらず、お気軽にお越しを!


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2014.06.16

海外の美術館にいくとしばしば目にする光景について

海外の美術館(といっても私の場合はロンドンとパリでしか美術館に入ったことがないのだが)でしばしば見かけた光景が、「小学校ぐらいの子どもたちが授業の一環でやってきて、みんなで作品を囲んで観賞したり学んだりする」という状況。

あるいは、ドキュメンタリー映画『ハーブ&ドロシー』(の続編だったっけ)でもそういうシーンがあったかと思う。ヴォーゲル夫妻が収集した現代アート作品を、教育的利用として、地元の子どもたちが観賞して、「何コレ?」「アートって何?」みたいな話し合いを、美術館で現物のアートを前にして考え合う、そういう状況だ。

思い返すと、日本ではそういう光景に出会ったことがない。
これは、単に「私がいままで平日に美術館に行ったことがあまりないからそういうシーンに遭遇しにくい」からなのか、「本当にそれをやっている教育現場が少ない」からなのかは分からない。
もちろん、そういう取り組みをしている美術館なり学校が自分の想像以上にあったりするのかもしれないが、おそらく日本の美術館のフォーマットを想定するにつけ、たぶんそういう教育方法はなじまないようになっている気がする。

だって、うるさいからだ。

お金を払って静かに観に来ている客がいるのだから、ワーワーキャーキャーいうガキの集団に美術館のムードをぶち壊しにされたくはないはずだ。

きっと教育体制そのものも、基本フォーマットが異なっているから、ともいえそう。

でもどういうわけか、海外の美術館で子どもたちがみっしりと座って絵画の前にいる光景は、思い返してもまったく苦にならない。
たしかに行儀が良くて相当しつけられている気もするが、それにしてはどうしてああいう教育が可能になるのか。

それに対応するものとして日本の教育現場でおそらく採用されているのは「文化観賞の時間」なのかもしれない。
市民会館ホールみたいなところで、西洋のクラシックなり日本の古典芸能なりを「観賞」するやつだ。
あれは「観賞」なので、その場で思ったことを発言することは(ホールという舞台設定のせいもあって)御法度だ。

「つべこべ言わず、黙って見やがれ」的な。

なんかこう、日本の教育と政治体制ってすべてがつながっているので、この「黙って受入れろやコラァ!」的な流れが、上からも下からもわきあがってくるわけで、そうして子どもたちも追い詰められて制御不能な状態になりやすいんじゃないか。

もっと、言いたいことが言えること、その自信や安心感を自発的にうながせる雰囲気であってほしいよな、と思うわけで、学校現場が「ホールでの文化観賞」以外の選択肢を通して子どもたちに美術や表現を教えたり味わえたりする環境っていうのが多様にあってほしい。

だって、やっぱり「批評力」って必要なわけで、どうしても「人の評価の積み重ねを尊重する」ことが過剰になりすぎると、それはホントーに危険だからだ。他人の評価軸ばかりが自分の判断力や感性よりも先行してしまうなんて、それは危険、キケン、デンジャラス、あぶない、アブない話だ。

たとえば日曜日のワールドカップの試合、後半途中でコートジボワールのドログバが途中出場しても、そんな他人の作った名声や評価につられて、あの状況でドログバという存在をそこまでリスペクトする必要はなかったんだよ、ちょっと意識しすぎだよ、っていう話にも通じるんです(笑)。や、マジで。

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2014.04.08

雑誌『ニュートン』の特集「パラレル宇宙論」になんだか癒されたり励まされたりする気分

雑誌『ニュートン』最新号の特集が「パラレル宇宙論」。

書いてあることの科学的本質をまったく理解できていないなりに説明すると、最新宇宙物理学の成果として、この宇宙で人類が観測可能な領域ってまだまだ狭いらしく、そしていろいろ研究しまくった結果、

「宇宙は同時に他にもたくさん存在しているのではないか」

となり、

「自分たちとまったく同じような姿の生命体がいる宇宙が、どこか遠くにコピーのようにある可能性も、確率としてはありえる」

とのこと。

Me Me_2

宇宙がいろいろ存在しそうなのは分かるとしても、なんで僕らのコピーみたいなのがわざわざ存在していただく必要があるの? とも言いたくなるが・・・なにせ『ニュートン』の雑誌は豊富なイラストで分かりやすく説明してくれるのがウリのようだが、そのあたりの説明箇所でも、「地球人とまったく同じ生活スタイルを送っている人が何億光年とかの先で、まったく同じ部屋で生活しているようなイラスト」だったりするのがある意味「衝撃的」でもある・・・。

でも、数学で計算すれば、「まったくの我々のうり二つのコピーがどれか無数の別の宇宙の中に存在していてもおかしくはない」ということになるのであろう。そのあたり、自然科学と奇想的SFファンタジーの狭間にギュウッと脳みそが圧縮されるような、この感じは面白い。

まぁ、たしかにスタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』だって、延々と人類史と宇宙をテーマにした映画で、最後にはとにかくひたすら宇宙空間を突き進む内容になって、それでその果てに待っていた景色っていうのが、なぜかそのへんにあるホテルの一室みたいな生活感ただよう空間だったりするわけで、このへんのギャップを思うとあながちキューブリックとかアーサー・C・クラークは当時からこうしたパラレル宇宙論を見透してしたのかもしれない・・・たぶん。

いつもこういう話は「天文学的セラピー」として受け止めて楽しむことにしている。日常の辛いことや哀しいことも、なんだかこういう宇宙の途方もない膨大な話を前にすればなんてことない気がしてくる。

そしてパラレル宇宙論に即していえば、現実の我々の日常生活が、いろいろな選択の積み重ねで成り立っているとすれば、「選ばなかったほうの世界」が、常に新しく生まれていて、その瞬間ごとに私たちの体を取り囲む世界が「別の宇宙」として絶え間なく生成していっている、と思えば「パラレル宇宙論」もなんとなく親しみをもって納得できそうな気がする。そうやって非常に膨大な、無数の「選ばれなかった世界たち、自分が今感知できない無数の可能性に満ちた世界」を乗り越えつつ、今日も明日も涙あり笑いありの不思議な空間を受け止めて生きていく。

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