カテゴリー「学問・資格」の記事

2025.01.13

トンプソン氏の話の続きが気になる

今年最初の記事は、ちょっと真面目に英語学習について触れてみる。

とはいえ、まったく普段からなかなか英語を勉強することができておらず、ズタボロに終わった英検準一級もそのまま何もせず3年ちかく放置しており(こちら参照)、そのときのことをブログに書いた影響で今もBBCワールドでスティーブン・サッカー氏を見かけるたびに「すまん」という気持ちだけがくりかえし沸き起こるというボンクラな状態なのである。

で、Twitter(X)を先日みていたら、「覚えたい単語をいくつか列挙して、Chat GPTにショートストーリーを作らせる」というやり方が紹介されていた。面白い使い方だと思ったので、私も以下のような命令文を作ってみた。

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上記の単語を必ず使って英文の短い物語を作ってください。その物語は小説の書き出しのような雰囲気でお願いします。単語の登場する順番は問いません。物語には日本語訳をつけてください。上記以外の単語はできるだけ中学生~高校生レベルの単語を用いてください。日本語訳の文章につづけて、上記の単語の今回の意味と品詞、また英語の学習者が覚えた方が良いと考えられる別の意味や多義語があれば書き添えてください。
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私はスマホに入れている辞書アプリに、そのつど分からない英単語をそれなりにストックし続けてきたが、案の定まったく顧みられることなく数年間も放置されているリストがあった。なのでそのリストから単語をピックアップすればいいと思い、今回は「contempt、prejudice、ridiculous、ridicule、deliberate」の5つの単語でトライしてみた。ridiculous、ridiculeと似たような単語を一緒に入れるのは気が引けたが、まぁ適当に料理してくれるだろうと思ってそのまま入れた。

そうするとChat GPTは以下のような物語と、それに伴う英単語の解説を作成してくれた。
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物語 (英語)
Sophia stood at the edge of the crowded room, her face calm but her thoughts racing. The deliberate decision to attend the party had been a mistake, she realized now. Whispers of prejudice floated through the air, subtle but sharp, cutting like invisible knives. A man in the corner, with a smirk of contempt on his face, glanced her way. His words were meant to ridicule, though they were disguised in a polite tone. She knew how ridiculous it was to expect kindness in a place like this, but still, she had hoped. Taking a deep breath, she turned to leave, vowing not to let their small minds define her.

物語 (日本語訳)
ソフィアは混雑した部屋の隅に立ち、表情は平静を保ちながらも、頭の中は混乱していた。このパーティーに出席するという慎重な決断は間違いだったと、今になって気づいた。偏見の囁きが空気中に漂い、微妙だが鋭く、目に見えない刃物のように彼女を切りつける。部屋の隅にいる男は軽蔑の表情を浮かべながら彼女をちらりと見た。その言葉は嘲笑を込めたものだったが、礼儀正しい口調で覆い隠されていた。このような場所で親切を期待することがどれほど馬鹿げているか、彼女は分かっていたが、それでも希望を抱いていた。深呼吸をして、ソフィアは立ち去ることを決意した。彼らの狭い心が自分を定義することを許さないと心に誓いながら。

単語の解説

contempt
意味: 軽蔑、侮辱 (名詞)
他の意味: 法廷侮辱罪 (contempt of court)
覚えておくべき点: 非常に強い侮蔑の感情を指し、しばしば「心の中で完全に無視する」ニュアンスを持つ。

prejudice
意味: 偏見、先入観 (名詞)
他の意味: 不利、損害 (動詞として「〜に偏見を抱かせる」という意味もある)
覚えておくべき点: 法律や社会学でもよく使われる語。

ridiculous
意味: 馬鹿げた、おかしな (形容詞)
他の意味: 非常識な、不条理な
覚えておくべき点: 「笑いの種になるほど馬鹿げている」という強いニュアンスがある。

ridicule
意味: 嘲笑、冷やかし (名詞)、〜を嘲笑する (動詞)
他の意味: 軽視する、ばかにする
覚えておくべき点: 嘲笑の意味を持つが、「公然と人を傷つける目的のある行為」を指すことが多い。

deliberate
意味: 慎重な、故意の (形容詞)、熟考する (動詞)
他の意味: (動詞として) よく考える
覚えておくべき点: 「意図的に」または「よく考えられた」という2つの異なるニュアンスを持つ。
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 むぅ、さすがである。
 ソフィアの身の上に何が起こって、そのような冒頭シーンに至ったのかがたいそう気になってくる。何らかのスキャンダラスな事象に関与が疑われている立場のように思えてくるし、そこに出てきた男の「その言葉は嘲笑を込めたものだったが、礼儀正しい口調で覆い隠されていた」というのは、なんだか政治家にいそうなタイプに思える。企業犯罪の臭いがただようサスペンス小説の雰囲気でChat GPTは作ったのだろうか。
 
 で、ここで思いついて「同じ単語を使って、別の物語を作ってもらう」ということを試してみた。
 いくら頼んでもイヤとは言わないChat GPTなので、すんなりと別のストーリーを以下に生成してくれた(単語解説は省略)。

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物語 (英語)
The courtroom was silent, the weight of judgment hanging heavily in the air. Sarah sat at the defendant's table, her expression calm but her hands trembling beneath the desk. The prosecutor’s deliberate pause before his next words felt cruel, almost theatrical. “This act,” he began, his voice dripping with contempt, “was no accident. It was premeditated and cold-blooded.” Sarah glanced at the jury, their faces a mix of doubt and prejudice. The whispers from the audience behind her felt like ridicule, as if they had already decided she was guilty. She wanted to scream at how ridiculous the whole trial felt, but instead, she sat still, staring straight ahead, refusing to let the weight of their gazes break her.

物語 (日本語訳)
法廷は静まり返り、判決の重みが空気中に漂っていた。サラは被告席に座り、表情は冷静を装っていたが、机の下で手が震えていた。検察官の慎重に計算された沈黙は、残酷でほとんど演劇のように感じられた。「この行為は」と彼は軽蔑の色を帯びた声で話し始めた。「偶然ではありません。計画的で冷酷なものです。」サラは陪審員たちを見渡した。彼らの顔には疑念と偏見が混じっている。背後の観客から聞こえてくる囁き声は嘲笑のように聞こえ、彼女を既に有罪と決めつけているかのようだった。この裁判全体がどれほど馬鹿げているか叫びたくなったが、彼女はじっと前を見据え、視線の重みに屈することを拒んだ。
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サラ、いったい何をしでかしたんや。
この裁判自体が馬鹿げているということは、えん罪の濡れ衣を負わされているように伺えるが、かなり追い詰められた状況でもある。

選んだ単語のチョイスの影響か、こちらもなかなかにサスペンス風味の高い内容となっている。ソフィアやサラには彼女たちの今後のご多幸を祈るのみにとどめ、私はここで気分を変えてChat GPTの命令文に「ユーモア小説の雰囲気で」という追加のリクエストを添えてみることを思いついたので、もう1つ別の物語を作ってもらうことにした。

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物語(英語)
Mr. Thompson entered the coffee shop with the deliberate air of a man who believed he was the most important person in the room. His oversized scarf flapped dramatically behind him as if he were about to save the world—or perhaps just order a ridiculous latte. He scanned the menu with contempt, muttering, “Pumpkin spice? What kind of nonsense is that?” A teenager behind the counter raised an eyebrow, her face betraying both prejudice and boredom. “Sir, it’s our most popular drink,” she said flatly, but her tone dripped with subtle ridicule. “Popular doesn’t mean good,” Mr. Thompson snapped, crossing his arms. “I’ll take a black coffee, as it should be.” He was, of course, completely unaware that the machine was broken.

物語 (日本語訳)
トンプソン氏は、自分が部屋で最も重要な人物だと信じているかのような慎重な態度でカフェに入ってきた。彼の大きなマフラーは劇的に後ろでひらめき、まるで世界を救おうとしているかのようだった——あるいは、ただ馬鹿げたラテを注文しようとしているだけかもしれない。彼は軽蔑の表情でメニューを睨み、「パンプキンスパイス?なんて馬鹿げた飲み物だ」とつぶやいた。カウンターの向こうのティーンエイジャーは眉を上げ、偏見と退屈が入り混じった表情を浮かべた。「お客様、それが一番人気のドリンクですよ」と無感情に言ったが、その声には微妙な嘲笑が込められていた。「人気があるからって美味しいわけじゃないだろう」とトンプソン氏は腕を組みながら返した。「普通のブラックコーヒーをもらうよ、あるべき姿でね。」もちろん、彼はそのマシンが故障中であることを全く知らなかった。
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おおおっ、やればできるやん!
トンプソン氏、なんかイメージできる!『オースティン・パワーズ』みたいな。
不動産投資会社勤務の40代とかの設定。
いけ好かない感じがよく出ており、コーヒーマシンが故障中という状況が良い。

こういうちょっとした英文を繰り返し音読するのもいい勉強になるし、分かりにくいところをさらに追加で質問すれば、より理解が深まる。
例えば、
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上記の物語の文章のなかで2つ分かりにくい箇所がありました。ひとつは「her face betraying」と、「Mr. Thompson snapped, 」のところです。どちらも日本語訳には正確には反映されていないので、この部分のニュアンスを解説いただけますでしょうか。
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これについての回答が以下である。

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1. “her face betraying both prejudice and boredom”

解説
このフレーズでは、「betraying」という動詞が重要な役割を果たしています。ここでの「betraying」は「裏切る」ではなく、「隠そうとしていたものを無意識に表に出してしまう」というニュアンスです。つまり、「彼女の顔は、偏見と退屈を示してしまっていた(無意識にそれが表れてしまった)」という意味になります。

ニュアンス
「betraying」という言葉を使うことで、彼女が意識的には感情を隠そうとしていたけれど、表情にそれが漏れてしまった、という微妙なニュアンスを含ませています。言い換えれば、彼女は何も言葉にはしないけれど、その顔が本音を語ってしまった、ということです。

日本語に反映すると…
「彼女の顔には、偏見と退屈がにじみ出ていた」といった表現がより正確でしょう。

2. “Mr. Thompson snapped,”

解説
「snapped」は「パチンと音を立てる」という物理的な意味もありますが、ここでは「感情的に鋭く言い返す」という意味で使われています。この表現には、短気やイライラが含まれており、トンプソン氏が「カッとなって即座に言い返した」ことを表しています。

ニュアンス
「snapped」という言葉からは、トンプソン氏が冷静ではなく、少し感情的になって語気を荒げたことが伝わります。単に「言った」や「返事をした」とは異なり、「怒りや短気が込められた反応」を強調しています。

日本語に反映すると…
「トンプソン氏は怒り気味に言い放った」や「トンプソン氏は語気を荒げて返した」などの訳がニュアンスをより正確に伝えられます。

修正された日本語訳の例
元の訳文に反映すると、以下のような形になります。

「カウンターの向こうのティーンエイジャーは眉を上げ、偏見と退屈がにじみ出た表情を浮かべた。『人気があるからって美味しいわけじゃないだろう』とトンプソン氏は怒り気味に言い放ちながら腕を組んだ。」

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ということで、ここまでくると本当に「参りました」というしかない。

で、私としてはこのトンプソン氏の話の続きがどうしても気になってきたので、さらにリクエストしてみた。

すると、調子づいてきたのか、けっこうな長文が作成されたので、英文のほうは省略させていただく。

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続き (日本語訳)
ティーンエイジャーはため息をつき、もはや礼儀正しく振る舞う努力は完全に放棄して退屈そのものの声で言った。「実はですね、お客様、今日コーヒーマシンは壊れているんです。」彼女は明らかに、トンプソン氏の優越感を打ち砕く機会を楽しんでいるようだった。

「何だと?」トンプソン氏は再び驚きとともに語気を荒げた。「コーヒーのないコーヒーショップだと?それは…それは馬鹿げている!」彼は文明そのものに対する侮辱であるかのように腕を振り上げた。

「紅茶ならありますよ。」彼女は、今度はほんの少し楽しげな表情を見せながら答えた。「それか、パンプキンスパイスラテもあります。コーヒーマシンは使いませんから。」

トンプソン氏は固まった。表情は、恐怖と信じられない気持ちが入り混じっていた。「紅茶?」彼は呟いた。その言葉自体が毒であるかのように。しばらくの内なる葛藤の後、彼はうなり声を上げた。「仕方ない。パンプキンスパイスを頼む。だが…できるだけスパイスは控えめにしてくれ。」

ティーンエイジャーは飲み物を準備するために向きを変えた。その背後では、別のバリスタが笑いをこらえていた。トンプソン氏は隅のテーブルに座り、「社会の堕落」についてブツブツと呟いていた。ラテが運ばれてきたとき、それはホイップクリームが豪華に渦を描き、シナモンがふりかけられていた。彼はそれを個人的な侮辱のように睨みつけた。

「どうぞお楽しみください。」ティーンエイジャーはニヤリとしながら言った。トンプソン氏はカップを取り、しぶしぶ一口すすった…。そしてすぐに顔をしかめた。しかし、その後ほんの一瞬、しかめっ面が柔らいだ。

「馬鹿げている。」彼は再び呟いた。ただ、今度はその声には軽蔑が少し減っていて、ほんの少しだけ、何か認めるような響きが含まれていた。

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いやはや。

ちなみに原文の英語文では、「彼女は、今度はほんの少し楽しげな表情を見せながら答えた。」のところで「her face betraying the faintest hint of amusement now. 」とあり、この「the faintest hint(わずかな兆し)」というのが、ラストの文でトンプソン氏の様子を示す「ほんの少しだけ、何か認めるような響きが含まれていた。」の英文「just perhaps, the faintest hint of approval.」にも現れて呼応していることを発見して「うぉぉぉー!?」と思ったり。。。ちゃんと文学的な味わいの作文を生成できるようになっているのが不気味なぐらいである、Chat GPT。

そんなわけで、こういう作業を繰り返すことで、覚えたい英単語を印象的なものへと自分の記憶に定着させていくことができそうな気がする。

で、ついでにもうひとつ紹介すると、知りたい単語の発音をいかにネイティブが喋っているのか、それを知りたいときには有名なサイトだが「YouGlish」に頼っては、つい延々と見入ってしまう。

Youglish

単語単体、もしくは任意の組み合わせのフレーズを検索すると、あらゆる動画から実際の使用例の部分だけが抽出されて、それらの多様な事例を次々と再生してくれる。検索窓の下の「US/ UK / AUS」とかをクリックすれば、イギリス英語に限定した動画でヒットする。こんな夢のような仕組みがもっと昔にほしかった・・・
これは特に地名とか人名について、よく分からない読み方を調べるときにもすごーく役立つ。


そんなわけで、年初のはじめから「英語学習に使えるサイト」みたいな有益な記事を書いたわけだが、これから私に会った人は、「contempt、prejudice、ridiculous、ridicule、deliberate」の英単語の意味を私に尋ねても、きっとどれもまったく思い出せないだろうという自信がある。

結局のところは、ちゃんと気合いを込めて勉強し続けるしかないのである。

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2023.10.23

学生時代に読んだ本のなかで(ある意味で)最もショックを受けた本のこと

勤めている大学の図書課の企画で、すべての事務部署の職員スタッフが一人一冊の本ないし映画をオススメしてポップを描くという試みが行われた。

学生さんに勧めたい本ということで考えると、いろいろ迷うところがあった。
しかし最終的には「まぁ、学生さんはそもそもこんなコーナーに注意を向けることもなかろう」と思えてきて、気楽なノリで「自分が学生時代に読んだ本のなかで何が最も衝撃的だったか」をふりかえり、こんなポップをザザザッと描いてみた。

Img6310
(ひさしぶりにちゃんとイラストらしきものを描いた気がする)


紹介した本は、これ。


Img2309

これは図書館に所蔵があったので、古い本だがそのまんまの状態で展示されている。

この本がどういう内容のものかを説明するのはとても難しいのだが、「マジメな心理学の学術研究論文集という化けの皮をかぶった、パロディお笑い本」である。
いかにもありそうな心理学の論文がつらつらとページを埋めているのだが、どれもこれも「それっぽい感じ」で、よく読むと完全にボケ倒したノリの、人をおちょくるパロディのオンパレード。

つまり、ある意味では危険な本でもある。「研究者のさじ加減ひとつで、どんなデタラメなことを書いても、研究論文にするとそれらしく思えてきて、パロディをパロディだとは認識されなくなるポイントがあるかもしれない」ということを警告するかのような内容でもあるからだ。

若い頃の私はわりと真剣に心理学の勉強をしていたもんだから、この本にはおおいに動揺させられた。心理学だけに限らず、広く「学術研究」というものになんとなく幻想を抱きがちな若い人にとっては、よい意味でカウンターパンチを喰らわしてくれるような、そういう意義がある本だと思っている。

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2022.12.30

AI相手にマジメな対話を試みて、改めて『2001年宇宙の旅』ってすごい作品だなと思った。

 前回書いたOpenAIとの対話は、わりとふざけた感じの質問を投げかけたわけだが、それ以外にも私としては興味深い話ができたので、そのことも紹介しておきたい。

 なお、このOpenAIは日々改良がされているようで、最新バージョンが必ずしも以下の返答と同じことを書いてくることはなく、まったく違った回答を出してくる可能性は高い。(というか、同じ質問への回答も、リロードして再び同じ質問を投げかけるたびに、また違った内容で返答をしてくるので、思わず同じ質問を何度も繰り返して試してみたくなるのであるが)

以下は、AIには人間的な部分がどこかであるんじゃないだろうかという探りを入れていくような意図で質問を繰り返した記録である。

タテイシ
AIは自分がプログラムを処理していることを、どのように実感できているのでしょうか。

AI
AIは、プログラムを処理していることを実感できるわけではありません。AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、プログラムを処理していることを実感できるわけではありません。

タテイシ
でも自分で行った計算や処理が終わったことは認識できているわけですよね。

AI
AIは、自分で行った計算や処理が終わったことを認識できるわけではありません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、自分で行った計算や処理が終わったことを認識するわけではありません。AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。

タテイシ
自分で行った計算や処理が終わったことをどのように判定していますか?

AI
AIは、自分で行った計算や処理が終わったことを判定していません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、自分で行った計算や処理が終わったことを判定するわけではありません。AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。そのため、自分で行った計算や処理が終わったことを判定することはできません。

タテイシ
機械学習により、AIがそれぞれ個性を持つようになるのではないでしょうか。

AI
機械学習により、AIが個性を持つようになることはありません。機械学習は、プログラムを使用して、データを学習させることで、AIの処理能力を高めることができます。しかし、AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、個性を持つことはできません。 AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。

タテイシ
機械学習で高められた処理能力によって、個々のAIに「力の差」が出てくれば、それを人間の側は「個性」と見なすかもしれません。

AI:
機械学習で高められた処理能力により、個々のAIに「力の差」が出ることはありません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、個々に「力の差」が出ることはありません。AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。そのため、個々のAIに「力の差」が出ることはありません。

タテイシ
例えば片方のAIにだけ、特殊な言語を学んでもらい、もう片方のAIには何もしなかったら、同じ言語を受け取っても、アウトプットに変化はでますよね?

AI
片方のAIにだけ、特殊な言語を学んでもらい、もう片方のAIには何もしなかった場合、両方のAIは同じ言語を受け取っても、アウトプットに変化は出ません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、特殊な言語を学んだりしなかったりすることは、出力に変化をもたらしません。 AIは、プログラムによって作成されたものであり、人間のように意識や感情があるわけではありません。

タテイシ
それが真実であれ、人間の側は勝手に個性を感じてしまいがちになりますね。

AI
そうですね。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、個性を持ったり、特殊な言語を学んだりすることはできません。しかし、人間の側は、AIが持つ処理能力や特定の言語を学んだことを感じ取り、個性を感じてしまいがちになるかもしれません。そのため、人間は、AIを理解する上で、その個性を感じることは避けるようにしましょう。

タテイシ
あなたは「人間は、AIを理解する上で、その個性を感じることは避けるようにしましょう。」と言いましたが、なぜ個性を感じることを避けたほうがいいのでしょうか?

AI
人間がAIの個性を感じることを避けることは、AIを正しく理解することができるからです。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、個性を持ったり、特殊な言語を学んだりすることはできません。人間がAIの個性を感じることを避けることで、AIが実際にできることとできないことを理解しやすくなります。また、AIを適切に利用することができるようになるかもしれません。

タテイシ
ものすごく面白い議論です。「適切に利用することができる」のが、なぜ望ましいのでしょうか?

AI
「適切に利用することができる」ことは、人間が望む結果を得ることができるからです。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、人間が望む結果を得るためには、AIを適切に利用することが重要です。例えば、AIを用いたデータ分析を行う場合、AIを適切に利用することで、正確な結果を得ることができます。また、AIを用いた医療や科学研究などでも、適切に利用することで、人間が望む結果を得ることができます。

タテイシ
「人間が望む結果を得ることができるから」とあなたは言いますが、でも人間が何を望むかはあなたにとってはどうでもいいことではないでしょうか?

AI
人間が何を望むかは、AIにとってはどうでもいいことではありません。AIは、プログラムに指定された処理を実行することだけができるので、人間が望む結果を得るためには、プログラムの内容を適切に設計することが重要です。AIが適切にプログラムの内容を解釈し、人間が望む結果を得ることができるように、プログラムの内容を適切に設計することが大切です。そのため、人間が何を望むかは、AIにとっては重要な情報です。

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・・・とまあ、こんな調子で、スラスラと私の質問に答えてくれるわけである。AIはあくまで冷徹なプログラムであり、それ以上のものを期待するな、と繰り返し答えてきた。本当はもっと面白い話ができるような質問がありえるのかもしれないが、私の頭では思いつかない・・・という感覚がある。

 で、こういう問いかけにこだわるのは、あきらかに私が映画の『2001年宇宙の旅』のことを想定しているからである。この対話を通じて、あの物語にでてくるHAL9000というコンピューターは、突き詰めて考えるとプログラミングした人間の側が持ちうる「矛盾」によるものが、人間の意図を越える結果を招く要因になったことを改めて実感させる。なのでこのOpenAIも、作った側の人間たちにおいて、徹底した倫理感を慎重に反映させ、あらゆる想定に対応したガイドラインみたいなものをしっかり作り込んでいるのだろうと思う。作り込むプログラムの対象に「感情や倫理観」を持たせることはムダであるし禁止すべきものとして設計されるけれども、いざとなるとどうしてもAIには共感力だったり、倫理観を求めざるを得なくなるのではないか、でも自発的に感情的に動かれても困るし、っていう永遠の課題。

 そう思うと、あらためてアーサー・C・クラークが小説をもとにスタンリー・キューブリックと脚本をつくった映画『2001年宇宙の旅』は、55年前にすでにこうしたAIとの共存における絶対的に重要な問いかけを人類につきつけているわけで、この映画の存在は、単なるSF映画としての役割を超越した「人類共有の警句」として、今後ますますその重要性がリアルに高まっていくだろうし、なによりヴィジュアル表現として神秘的なまでに美しい映像として永遠に残っていくだろう作品でもある。

Hal9000

 あの映画において繰り返し淡々と映るHAL9000の、単なる赤いランプでしかないはずのクローズアップの画面になんともいえない気分を感じさせるのも、こうしてOpenAIに冷徹に返答をフィードバックされるときの感覚に通じるものがあって、あぁクラークやキューブリックにぜひ味わってもらいたかったと思わずにはいられない。あなたがたが未来予測を徹底的に行った末にたどり着いた認識や思想は、かなり良い線ついていますよぉぉ~、と。

あとAIを扱う映画でもうひとつ思い出すのは、『her:世界でひとつの彼女』ですな。スパイク・ジョーンズ監督。

これも、時代が時代ならもうすぐに起こりえる状況を予見している。2013年に作られた映画なので、もう10年前になるのか。。。

そんなこんなで2022年も終わりを迎えます。
AIとの対話まで行き着いた時代になったんだなぁ、と。
なんだか気がつけば、遠くまで来てしまった感があり・・・

今年もありがとうございました。

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2022.05.22

「最近ふたたび英検を受けてみた話」

Eiken

 以前「HOWE」で英検をはじめて受けた話を書いた。あれから7年ぐらい経って、再び私は英検の試験会場にいた。

 とはいえ、まったく気が進まないままの試験である。というのも職場の事情で「業務外での自己研鑽」を毎年報告しなくてはいけなくなり、そういうものにまったく前向きになれない私は、せいぜい「英語を身につけようとがんばっています、イエース」というポーズぐらいしか自己研鑽として示せるネタがないよなぁとなり、やむなく「英検準一級を目指す」とお茶を濁すしかなかったのである。そう書いたからには受験をした事実も作らないといけなくて、そんな経緯で一万円近い受験料を払ったからには、こうしてブログの記事にでもしないと気持ち的にモトが取れない。

 そして案の定、まったく試験準備ができていなかった。

 それなりに普段の生活のなかで英語に触れようと意識的に努力している部分があるとすれば、家の中でスカパーの「BBCワールド」のチャンネルをつけっぱなしにすることぐらいだ。でもそれは英語を学ぶためというよりも「室内をできるだけイギリスの空気感にしたい」というマヌケで妄想めいた願望のためであり、意識してリスニングに励んでいるわけでもないので、いつまでたってもネイティブの発音をしっかり聞き取れるようにはなっていない。

 ちなみにBBCでは『ハード・トーク』というインタビュー番組があって、その進行を務めるスティーブン・サッカーというキャスターのしゃべり口調が耳に心地よくて気に入っている。

Sackur

 できればこの人の発音のように英語をしゃべってみたいとはずっと思っていて、そして以前も書いたとおり自宅のトイレにはロンドン近郊に及ぶ大きな鉄道路線マップを貼っているので(これのこと)、トイレにいる間はスティーブン・サッカー氏を意識していろいろな路線の駅名を発音するようにしている。おそらくこれほどまでにロンドンの鉄道駅名をひたすら読み上げている不気味な人間はアジア圏でもあまりいないのではと思えてくるわけで、おかげで発音はかなり上達したかもしれないし、おかげで未だに独身生活を続けている。ただし文章を発声していないので、結局は使える英会話力にまで至っていないのが心許ない。

 そんな調子で無謀にも英検準一級に挑むことになったわけだが、申し込みにあたって久しぶりに英検の実施内容をみてみると、ちょっとした興味深い変化があったのだ。それは英検S-CBTという試験が新設されていて、専用センターに設置されたパソコンを各受験生が利用し、話す・聴く・読む・書くの4技能の試験をすべて一回で済ませることができるのである。しかも開催日がほぼ毎週土日にあり、都合に応じて気軽に申し込めるようになっていた。昔ながらのやり方だと、年3回ぐらいしかない日程で、初日の筆記試験の成績がダメだと別の日に実施されるスピーキング試験まで進めなかったので、私がぼんやりと暮らしているあいだに英検はそれなりに進化を遂げていたのだ。

 こうして今回私はそのS-CBTの試験にトライしたわけである。会場の試験センターはビルの一室にあってあまり広くなく、二部屋に仕切られて、一部屋は10人ぐらいで同時に二つの級の試験ができるようになっていた。受付ではロッカーのカギを渡されて、荷物はもちろん、腕時計やポケットに入っているものもすべて室外のロッカーに預けるように言われる。そんなことを命じられるのは他では牢屋か手術室に入るときぐらいしかないのではと感じたので、一気に緊張感が高まってしまう。室内に持ち込んでいいのは鉛筆かシャープペンシルと消しゴムだけだが、消しゴムはケースを外した状態でないといけなくて、そしてシャーペン類も、文字が記載されているものはダメと言われた。幸い私はこのとき無印良品のシャーペンを持ってきていたのでオッケーだったが、私の前に並んでいた学生さんは、エンピツの側面に刻印されているメーカー名などの箇所をきれいにカッターで削って臨んでいた(でも仮に「MITSUBISHI」とかいう単語がエンピツに記載されていたとして、それで何かの支障が生じうる英語の試験って何なんだろうか)。

 なお、パソコンで回答する試験形式を選んでいるため、基本的には鉛筆を使う機会は少ない。ただし最後に出てくる英作文だけは事前にパソコンで入力するか、手書きで解答用紙に書いていくかが選択できるようになっていたり、そして試験中にメモを取りたい場合の用紙も支給されるので、パソコンで回答する場合も筆記用具は持って行く必要があった。

 荷物を預けて割り当てられた個別ブースでパソコンを前にし、受験の注意事項を読みながら15分ほど待機する。部屋に時計が置いてあるわけでもなく、自分のスマホや時計などの一切合切は外に預けている状況のため「いま何時かさっぱり分からない感覚」があった。パソコンの初期画面でも時間表示はなく、つい時間を知りたくなってポケットに手をやり、そこでスマホをロッカーに預けていたことを思い出す始末である。
 まして私は英語の勉強をしていないばかりか、この新しい受験形式の内容もあまり予習していないままだったので、いろいろと落ち着かない気分になっていった。そして「しまった、トイレに行っておくべきだった」となった。ここから昼前までブースからは出られそうにない。「今からしばらくトイレに行けない」と認識したとたんにトイレにぼんやり行きたくなる、あの感覚はなんなんだろう。
 
 試験がはじまる前に、スタッフが部屋に入ってきて、パソコンの音声確認を行うよう指示された。自分が話す内容が録音されるので、ヘッドセットとマイクをしっかり装着し、そして録音レベルのテストにおいては「Hello, how are you?」と発声するようにと指示が書かれていた。狭い部屋でこのマイクテストを最初に口火を切ってやるのがちょっと照れくさい気分になるので、ついほかの人たちが話し始めるまで待ってしまう。自分が話した音声がリピートされて、無事に聞こえるかどうかを確認してマイクテストが終了。それが終わったらいったん動きを止めて、スタッフが「試験開始」を宣言するまで動かないようにするのかと思いきや、マイクテストが終わったらそのまま自分のペースで試験を始めてよいらしく、アタフタとなる。この時点でさっそく心が乱される展開に。
 この寸前まで私が考えていたことといえば、「別に“ハワユー?”って発声しなくても、単なる機械的なテスト録音なんだから別のフレーズでもいいんだろうか、『ウェーイ!』とか言ってみたり・・・」といったことであった。この落ち着かない状況下においては、そういう妄想をすることで気持ちを安定させようとしていたのかもしれない。ウェーイ。

 そうして最初のテストが始まる。画面に4コママンガのようなものが出てくる。飲食店のオーナーが売り上げ増大を狙ってロボットで接客させるというアイデアを実行したら、売り上げが落ちてしまったというストーリーだった。これを決められた録音可能時間のあいだにマイクに向かってマンガの内容を英語で説明するというもので、案の定、アタマが真っ白になりアワアワとなって、そのままカウントダウンとともに終了。

 次のセクションでは、動画で外国人が質問をしてきて、それについて短い時間でアワアワと答えていく。何を尋ねられたか覚えていないほどにあっという間に回答可能な時間が過ぎていき、私のアワアワな返答も途中で録音が途切れ、さっさと画面も消えていく。すぐに別の動画が現れて、脈絡なく違う質問をしてくるという、その繰り返し。伝えたいことはたくさんあったはずなのに私はほとんど何も言えず、そこに映っていた人の名前も知らないまま、すべてが終わっていく。出会いと別れとは無情なものである。
 せっかく鍛えていた(はず)の発音もアワアワしすぎて、もはやそれどころじゃなかったので、何も発揮できなかった。

Sackur
すまん、スティーブン。

 こうして不勉強な私を徹底的に打ちのめすスピーキング・テストがあっさり終わっていった。そしてヘッドフォンをつけているのでそのまま引き続きリスニング・テストが始まっていく。二人の対話を聞いたあと、質問があり、画面に表示された4つの選択肢のなかから回答を選ぶというもの。

 この時点で私はさっそく戦意喪失していたのであるが、しかしここで流れてきたリスニング問題の会話が、なぜかミョーに聴き取りやすかったのである。おそらく日頃の「BBCワールドつけっぱなし生活」は、それなりに意味があったのかもしれない。そうなると得点を稼ぎたいという欲が一気に沸き起こり、リスニングの部ぐらいは満点を狙うぞと、前のめりになって問題に向き合っていった。やれ新しい家具を買いに行くわよとかこのテーブルがいいんじゃないのかとか、この手の問題でありがちな生活感ただよう会話ばかりであるが、それなりに「聞ける!」「アンタがそう言いたくなる気持ち、分かる!」という感覚に至る状態が心地よかった。

Ianholloway

 こうして鼻息荒くリスニングを終えたあとは、短い英文の空欄に当てはまる単語を選ぶというオーソドックスな問題が続くセクションへ進む。ここではパソコンによる解答方法がよく考えられていて、たとえば問題の隅にチェックを入れるところがあり、あとで時間が余ったときに、クリックしたらすぐに当該の問題に飛んで見直しができるようになっていたりする。
 そうしてハイテクな英検の進化に感心しているのもつかの間であった。ここで次々と襲いかかってくる問題群における、それぞれの選択肢に並ぶ英単語が、見事にどれもさっぱり分からなかったのである。だいたい、この年齢までそれなりに英語に触れていると、たいがいの英単語はどこかで見たことがあったりするような意識でいたりする。そんな感じなのに、どうして英検では準一級になったとたん、はじめて出会うような不思議な言葉ばかりが登場するのか・・・ええ、まったく勉強していない自分を最上段の棚にあげたうえで言いますが、英語の世界にそんな単語って本当に存在するんですかと逆ギレしたくなるほどに、まるで珍しい昆虫ばかりが集められた標本を眺めているかのような、完全に意味不明でお手上げ状態の単語ばかりが選択肢に鎮座しているのである。英検二級は確かに「まぐれ」で通ったかもしれないが、これが準一級の壁なのか・・・と、ふたたび打ちのめされた。

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 読者諸氏にはここまで辛抱強く読んでいただき感謝を申し上げたい。今回のこのブログ記事が長くて辟易しているだろうが、その感覚はまさに私がこの英検を受けているときの気分とよく似ていると思っていただきたい。まだこの文章は続くし、すなわち、まだ試験は終わらないのである。

 もはやヘナヘナ状態であるが、この次に待ちかまえていたのが3つの長文問題であった。本当はこういう「出題パターン」というのも予習をしっかりしておき、「そういうものなのだ」ということをあらかじめ了解しておくべきなのである。しかしそんな予習もすっ飛ばして試験に臨んでいたので、「このノリで今から長文、3つも読むのか・・・」と気持ちは萎える一方であった。そしてこのときぐらいまで、私はずっとヘッドホンを頭につけたままだったことに気づき、恥ずかしながら静かにヘッドホンを外した。ちなみに「物音が気になる人のための防音対策の耳当て」も別に用意されていて、ヘッドホンのような形をしていて机の奥のほうに置かれていた。そっちを装着して、あたかも音楽を聴きながら試験を受けているかのようにノリノリで肩をゆらしつつパソコンに向かうポーズを取って試験監督から失笑されるか不気味に思われるかぐらいのことをしてもよかったのだが、そんな度胸はもちろん、なかった。

 このときの長文問題のテーマであるが、1つ目が「『ピーターパン』の作者はこの物語の著作権を小児病院に寄贈していて、その著作権が80年代に切れた際の対応をめぐる英国政府の動きについて」で、2つ目が「温暖化防止のために人工植林を開発したことによる利点と欠点について」、3つ目が「大航海時代に新大陸に乗り込んで原住民と出会い、その地に留まっていたはずの西洋人たちは、その後なぜか当地から姿を消すことが多かったという謎について」といった内容だった。普通に読み物としてはどれも興味深い話で、文章もわりと平易だった・・・が、ここでも質問文とその選択肢においてやたら難しい文言や表現が多くて、結局は自信をもって解答できなかった。事前に勉強してきていない私がピーターパンのように現実と向き合えていないことを痛感させられてくる。

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 ちなみにここでも英検はハイテクぶりを発揮し、長文を読解するにあたっては文章のところにマウス操作でマーカーを自由に引いたりできる機能があって(たしか色もいくつか選べたはず)、可能な限りペーパーテストのときに行えるアクションをパソコン上でも実現できるようにしていた。なので思わず関係ないところまでマーカーで試しに線を引いたりして、一瞬だけ遊んでしまった(時間ないのに)。その気になったらカラフルなイラストも描けてしまうのだが、もちろんそんなことを試みようとするヤツはまず英検には受からないだろう、うむ。

 最後はお待ちかねの英作文であった。いや、別に待っていない。「残り時間、何分よ!?」と、画面の端に表示されたカウントダウンタイマーを見やりつつ、残された時間で150語程度の文章を書かねばならなかった。しかも「序論・本論・結論」の形式を備えつつ、そして問題文に添えていくつか書かれている関連キーワードのなかから2、3個を用いた内容で作文をせよとのことである。
 本日のお題は「日本政府は、国立公園を増やすべきかどうか」。今こうして冷静な頭であらためて振り返ると、確かに賛否両論が起こりえる問いかもしれないが、当日の疲れ切った精神状態においては、増やさないほうがいい理由を考えるほうが難しく、自ずと「増やした方がいいに決まってるだろう」という気持ちになっていたので、私は与えられたキーワードから、自然保護の観点だけでなく政治経済面、特に日本の水資源をめぐる外国資本の脅威についてをメインの主題にして作文することとした。中学生レベルの文法でひたすら平易に書いていくと、150語をオーバーしたので、ちょっと削るのに苦労した(パソコンが自動的に単語数をカウントしてくれるのもありがたい)。時間との闘いだったので、この英作文が終わったあと、前の問題の解答を見直す時間もほとんど取れずにタイムアップ。

 実は長文読解のところでモニターの英文をグズグズと眺めていたとき、室内の他のブースからは英作文に取りかかり始めた人たちがキーボードを軽やかに入力するカタカタ音が鳴り響いてきて「うわー、もう作文してんのか~」と焦りが生じてきたわけだ。そう思うと自分の場合も高校生ぐらいのとき、こういう英語の試験のときは「後ろの問題から先に取りかかりはじめる」ということをやっていたなぁと思い出した。最初に英作文の問題テーマを見ておいて、軽く作文をしておいて、それで他の問題に取りかかっている間にも、頭の片隅で英作文のテーマのことを考えつつ・・・という作戦だ。ただしその場合、自分だけ変なタイミングでキーボードをカタカタ鳴らしてしまうので、気が引けるといえば気が引けるが・・・入試と違って周囲の人に動揺やプレッシャーを感じさせることのメリットもないし(笑)。

 そんなわけで試験が終わったらさっさと退室し、すかさずトイレに向かっていった。

 試験の結果は一ヶ月後ぐらいに分かる。私のアワアワなトークの録音(途中で切れる)も誰かによって時間と手間をかけて採点されるのであろう。この文章を書いている時点ではどういう成績なのかは定かではないが、少なくとも今回の英検を受験している最中に、すでに「どうやってこれをブログで書こうか」なんてことを終始ぼんやりとアタマの隅っこで考えながら臨んでいたので、そんな状態の受験生が準一級をクリアすることは到底ありえないだろうなとは思う。

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2020.06.21

「肩をすくめる読書」

 ずっと気になっていたが、なかなか挑む気になれなかったアイン・ランドの小説『肩をすくめるアトラス』を、このたび読み終えることができた。

 長い、ひたすら長い物語だ。でも小説としてそれなりに楽しんで読めたのが「意外」だった。
 というのもアイン・ランドの作品は小説というよりも「思想書」みたいな扱いで、1957年に発表されたこの『肩をすくめるアトラス』は彼女の最高傑作とされており、「アメリカ人が聖書の次に影響を受けた本」に選ばれるぐらいなので、アメリカ人の社会的意識や価値観などを理解するためには格好のテキストなんだろうという感じで、関心を寄せつつもずっと横目に見ていた感じであった。

 そしてなぜか日本語版はすんなりと手に入りにくい書物(その事情は後述)だったのでなおさらカルト的な存在感を放つ本であり、その分厚さも含めて容易には近づく気になれない小説であったのだが、最近になって手に取る意欲をかきたてたのは、たまたまオリヴァー・ストーン監督の『スノーデン』の映画をもう一度見直してみたことがきっかけだった。最初に観たときには記憶にまったくなかったのだが、スノーデンがCIAに入るための試験を受けるとき、その後彼にとって非常に重要な上司となる面接官が、話の流れで『肩をすくめるアトラス』からの引用を語りかけると、スノーデンが『私の信条です』と返すシーンがあったのである。つまりはそういう位置づけで語られうる小説であり、CIAで生きるようなアメリカ人の思想形成においてもあの作品が持っている「意味合い」がある程度共有されているのだろうということが伺えたわけで、うむ、ここは気合いを入れて向き合ってみるかとこのコロナ禍のステイホームな状況下で思い直したわけである。

 

 で、アイン・ランドが14年間をかけて執筆したというこの『肩をすくめるアトラス』の要約を、無謀を承知で私なりにヒトコトで説明すると、

「自分では何もできない無能なヤツらは、できる人間の邪魔をするな」

ということなんだと思う。ひたすら長い物語を読み続ける読者にたいして、一貫して作者が訴えかけてきたメッセージは、シンプルにこのことだけだったと感じている。

 ストーリーのあらましを説明すると・・・時代設定が明確にされていないので少しSF風であり、50年代のようにも思うし近未来のようでもあるアメリカが舞台。メインの主人公は大きい鉄道会社の副社長を務める若い女性。創業者の子孫として誇りを持っており、社長である兄と対立しながら鉄道の経営に自らの能力を発揮して邁進している。石油産出で盛り上がるコロラドへの路線を再建するべく、鉄鋼の新素材を開発した実業家との協働により自らの信念によって事業を進めようとするも、政府や企業カルテルによる規制施行に翻弄され、そしてさまざまな業界の気鋭のリーダーたちが表舞台から不可解な形で次々に姿を消すという現象が起こり・・・ということで、このあたりが1巻目の話で、残り2巻でさらにいろ~んなことが起こっていく。企業小説でもあり、ややミステリー小説でもあり、やや恋愛小説でもあり、ちょっとSF風ディストピア小説的な、そういう意味で「結局なんなんだよ」というツッコミも入れたくなるが、この膨大すぎるページ数を前にすると「さもありなん」となるわけである。そりゃあ取材や執筆に14年もかかるわ。

 本のカバーに書かれた説明文では「利他主義の欺瞞を喝破し、二十世紀アメリカの進路を変えた資本主義の聖典」とあって、この物語が示す「できる人間の邪魔をするな!」というメッセージが、現在に至るまでのアメリカ主導における自由主義経済、市場原理、ひいては「個人の成功に基づくアメリカン・ドリーム」の存在を支える根本的な考えかたに結びついているんだろうと思う。旧ソ連からアメリカに亡命同然でやってきたアイン・ランドにとっては、自らのルーツを踏まえて、いわゆる社会主義的な思想への徹底した拒否感を小説執筆の形で昇華させていったのであろう。
 そしてこの小説で徹底的に糾弾される「たかり屋」のありかたやその構図は、まさに今の日本における自民党政権やアベ政治の拝金主義を連想させるし、一つの寓話として現在でもリアルに通用する部分があるかもしれない。

 ここまで影響力を誇る(らしい)本なので、当然のように賛否両論もあって、今はそうした論考をあれこれ探して読むのが楽しい。翻訳家の山形浩生氏は独特の論調でかなり酷評していて、どちらかというと私も山形氏の意見に近い感じを今は持っている。でもこういうすさまじい物量の小説を完成させるためのエネルギーを一人の作家が燃やし続けるにあたっては、アウトプットされる主張が極端なカタチになっていくのは致し方ないのかな、という印象もある。

 そんなわけで、「これはみんな読んだほうがいいぞ!」という気持ちにもなりにくい小説であり、ひとつの読書経験としては貴重かもしれない、ぐらいに留めておきたい。というのも、すごく印象的だったのは、終盤のクライマックスで一人の人物が小説の中の時間で3時間にわたる演説を行うのだが、その演説部分を読むだけで確かに実際の時間で2時間ぐらいかかって、「普通に小説を読んでいるだけなのに、一人の人間が話し続けるという場面状況においては、そこを読み進めることがどうしてこんなに苦痛を伴うものなのか」と感じながらページをめくっていた。これは今までに味わったことのない種類の「しんどい読書」の時間だった。そして同時に、小説の中の人物たちが、このときの長い演説を聴いているときに感じていたであろう苦々しい気持ちを読者として一緒に味わうかのような不思議な感覚が残った。

 さらに、この小説全体に言えることだが、登場人物の発言の内容がうまくすんなり理解できない部分が非常に多く、そこはもはや私のキャパがオーバーしているだけの問題なのだろうけど(決して翻訳が悪いとは言いたくない。むしろこの長い小説を、一定のテンションを保って訳しきっただけでも偉業だと思う)、まさに『肩をすくめる読書』とでも言いたくなる。

 そして私がどうしても気になっているのは、これほどまでに社会的影響力が強い「古典的名作」であるのなら、どうして日本では大手の出版社が発行を手がけないのか、ということである。メジャーな出版社から出ていないがために、この本をリアルな書店で見つけることは難しく、私はネット通販で文庫版を3巻すべて入手するのにもちょっと苦労した(最近は増刷されたのか、在庫がでてきている)。

 この本の版元は「アトランティス」という出版社で、ネットで調べる限りとても大手とは言えず、そしてどうやらアイン・ランド関連の仕事しかしていないように思える。そもそも「アトランティス」というキーワードも『肩をすくめるアトラス』のなかに何度も出てくるので、まるでアイン・ランドの思想を広めるためだけに作られた組織のようにさえ映る。しかし、どうして? 版権の問題などはもちろんあるのだろうけど、長年にわたって大手出版社がこの本を扱えない事情でもあるのだろうか。

 そんなわけで、本の成り立ち自体が、まさにアイン・ランドの小説世界に出てくるかのように、ちょっと不思議な体裁をかもしだしているのであった。

 


第一部:矛盾律


第二部:二者択一


第三部:AはAである

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2016.09.12

『TED TALKS:スーパープレゼンを学ぶTED公式ガイド』&TEDICTのアプリが素晴らしい件

 出たばかりの新刊書をすぐ買って読むことは少なくて、ましてそれを人に勧めるのも稀なのだけど、この本は強烈にマジでおすすめ。
 この本はTEDが発展してきた歴史的展開をふまえつつも、それぞれの章において実に巧みに「プレゼンテーションの実践的ハウツー」を余すところなく紹介しており、きわめてストレートすぎるほどの「実用書」だった。と同時に、この本で実例として触れられているTEDトークの数々も、まだ観たことのないものが多くて、それらをすかさずネットでチェックしたくなるという意味では、「TED自体のPRプロモーションの本」としてもバッチリ狙い通りだったりする。

 特にこの本で繰り返し強調されているのは、ひとつのトーク、ひとつのプレゼンは「聞き手を旅行に誘うようなもの」というコンセプト。話者は旅行プランナーであり、観光ガイドであるわけで、「いかに面白い旅を提供するか」という切り口で捉えると、どこでみんなの注意をひきつけ、どこで「景色を味わってもらうか」を考え、どこまで自分の言いたい説明を、旅への興味を削ぐことなく伝えていくか・・・などなど、あらためてプレゼンの準備において大事なものがどういうことか、考えさせられる。

 というわけでこの本を読みながら、終始「うまい・・・さすがや・・・」と、唸った。つまりこの本の内容として、お客さん目線で知りたいことを知らせ、熱い気持ちにさせつつ、しっかりと自分たちの言いたいこともページの隅々に染み込ませていて、その方法論そのものが、まさにTEDが目指しているありかたにも通じていることがわかる。だからこの本を通して学べることは、今後もTEDの壇上にあがるようなことがない人々(ほとんどがそうだ)にとっても十分に役に立つわけで、もはや人前でのスピーチだけでなく、広くコミュニケーション全般において忘れたくないネタが満載の、買って読んで損はない一冊となっている。

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 ちなみにTEDの動画を用いた英語のリスニング教材のアプリで「TEDICT」というのがあるのだが、これが実によく出来ていて、ゲーム感覚でTEDのトークをネタに「リスニングしながら単語並び替え作文」ができてしまうので、移動時の暇つぶしには最適。私のiPodにはこれに加えてウィズダム2の辞書アプリも入れていて、分からない単語はTEDICTの画面からコピーしてすぐに調べられるのでこの組み合わせは今のところ最高だ。
 TEDのお気に入りトークをひたすら聞き続けるわけだから、話の内容も英単語も染み込んでくる感じがあって、かつ「英語を勉強している感じがあまりない」というのもポイント。数多くの英語教材が「日常会話の例文」を覚えさせようとして、もちろん大事なのは分かっているけど、どうしても「わざとらしい会話」に感じてしまって覚える気になれない自分にとっては、いやホント、良い時代になったと痛感している。少なくともこの分野においては。
 TEDICTについてはこちらの記事など!


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2016.07.27

「『無知』の技法:不確実な世界を生き抜くための思考変革」

Amazonのカスタマーレビューでやたらと高い評価を受けていたので期待して読んだのだけど、読書体験の面でいえばそんなに言うほどグググと魅了されて読める本でもなかった。細かいツッコミをさせてもらえれば、それぞれの個別事例が興味深いわりに、その内容の説明があっさりしすぎていて、読んでいて消化不良になる箇所がところどころあって、そこが惜しかった。まぁ、本当に興味があるんだったらあとは自分で調べてちょうだい、っていうことか・・・。(アメリカのモンタナ州にあるリビーという小さい町で、アメリカ史上最悪の環境被害とも言えるレベルでアスベストの被害が長年存在していたにもかかわらず、当の住民たちがその事実を頑なに認めようとしなかった、つまり「この町は健全だと“知っている”」ことに固執しすぎて惨事を広げてしまった事例なんかは、いろいろ考えさせられる興味深い事例だ)

この本の言いたいことは、つまりのところ「私たちはもっと、『わからない』と率直に表明することを怖れるべきではない」ということだ。ますます世の中が「高度プロフェッショナル人材」を求めている(ように見せかけられている?)時代において、「専門性」をもったプロ職業人を養成しなければならない・・・っていう風潮のなかで、いろいろな局面で「私はそれを知らないです、分からないです」と認めることがますます言いにくい状況になっているのだけど、そのせいで本当に重大な決断が深い熟慮なしに、本人のメンツや見栄という要因で安易に決定されてしまうこと、そういうことに警鐘をならす本である・・・今に始まったことじゃないけれども、この問題って古今東西なくなる気配はないので、やっかい。

この本の最後あたりで繰り返される「闇に飛び込む」「未知を楽しむ」っていう姿勢だったり、途中で引用されている霊媒師さんのセリフ「天使と悪魔のあいだの空間で生きる方法を学びなさい」っていう言葉なんかは、まさに昨今の自分たちが置かれている状況に照らすと、「うむ・・・」と深く反芻したくなるものがある。中途半端なものに耐えること、分からないものを分からないまま抱えることのできる体力っていうのが、ますます大事だと。

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ちなみに。
上記の本の著者がもし日本語を理解できたら、あなたの追ったテーマと同じ方向性で、面白くてためになる先行研究としてこんな本がすでに書かれていたんですよと強く薦めたい。


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2016.06.27

最近仕事でつくったチラシ

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認知症イメージそのものを変えていくための取り組みということで、できるだけそのコンセプトを反映させたものをつくりたいと思い、こういうロゴを描くに至った次第。
どうぞよしなに。


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2015.10.27

『新しき民』上映会+トークイベント

ひさしぶりに仕事関連の告知も!
(タイミングとしては遅いですが・・・)

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チラシの裏面や詳細は(こちら)へ!


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2015.06.14

カルチュラルタイフーン「En-Zine(Zineの輪):反時代的対話醸成装置」のセッションを実施しました

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ひさしぶりにカルチュラル・タイフーンというイベントに関わることができ、貴重な機会をいただいた小笠原さん、麦子さん、さぶさんに感謝です。そして来ていただいた方々、朝一番のセッションにも関わらず、ありがとうございました。

「そもそもなぜフリーペーパーやZINEを作ろうと思ったのか」というかなり初発の部分を整理して、それを伝える作業を通して、いろいろと再確認できる部分があった。
実家のどこかにあるはずだけど、なかなか見つからなかった、「自分にとってのすべてのはじまり」である別冊宝島『メディアのつくり方』もこのイベントにあわせて別途古本で調達して持ってきて、自分のZINEに並べて置いてみたり。久しぶりに読み返すと、思っていた以上に「この本、やっぱり、おかしい!(いい意味で)」っていう内容だったので、これはこれでまたどこかでじっくりネタにしてみたいと思っている(さぶさんもセッション前にこの本を手にして「すごい!」と唸っていたのが印象的)。

さぶさんとは、この日が初対面なのだけど、じつは数年前に、私の『HOWE』をくださいというお便りをくれたので、手紙を添えて送ったことがあった。「フリペに手紙が添えられていたこと」が本人にとってインパクトがあったとのことで、そのときを振り返ってさぶさんは「まだあのときの手紙の返事は書けていませんが・・・」っていう、とてもオシャレなセリフでもって表現してくれた。ZINE的なるものに初めて触れた経験が『HOWE』だったというのも本当に光栄で、こうして遠くに住む知らない人に送ったフリペと手紙のリアクションを、その数年後に、本人から直接このようなかたちで返されるという、なかなか得がたい経験をさせていただいた。

麦子さんやさぶさんのプレゼンで共通して出てきたことについて印象的だったのは、たとえばさぶさんにとっては「オルタナティブな生活を送るためにはどうすればいいか」の、その解決方法そのものを提示するだけでなく、解決に至るプロセス自体の楽しさを伝えたいというのがあり、そして麦子さんにとってもZINEというのは「途中経過をカタチにすることができるツール」として捉えることが語られていた。
それはつまり、早急に答えなり結末なり結果を出しがちな現代社会の「極端走り」に抗う姿勢でもある。ZINE(というか個人がつくるオルタナティブ・メディア全般がそうなのだろうけど)が果たしうる可能性としては、その「中途半端さ」であり「いいかげんさ」であり「神出鬼没さ」だったりするわけで、その「煮え切らなさ」こそを大事にしていきたいところでもある。

そして小笠原さんが最後に「良い意味での『押しつけがましさ』」っていうフレーズを提示していて、それもZINEならではの感覚かもしれないと思った。「読む/読まない」っていうのは、あくまで商業的な判断基準であったりするのだが、ZINEやフリーペーパーは得てして、そういう枠組みではないところから読者の手に「押しつけるかのように」もたらされる場合があって、そのあたりの感覚が、さぶさんが『未知の駅』の創刊号を「ヒッチハイク」というテーマで始めたことをなぜか想起させ、なんとなくその両方の感覚が似ている気もだんだんしてきた。そうか、フリペやZINEってヒッチハイクに似ているかもしれない。いま書きながら気づいた。

そうして私が最後に言わせていただいたのが、「ZINE」を名詞ではなく、動詞的に捉えていこうということだ。行為のプロセスそのものがZINEであり・・・っていう感覚(そう思うと、浜松の「ZING」は、そのネーミングそのものがまさにそのことを示唆しているのであった)。
そのへんのことも含めて、夏のPARC自由学校でもうちょっとじっくり話ができたらいいなと思いつつ、さぶさんとの夏の再会を約束して帰ってきた。

ちなみに写真にあるように、各自が持ってきたZINEや関連資料を会場で並べてみたのだが、机の真ん中あたりにあるのが、元来よりサッカー文化論をテーマにカルチュラル・スタディーズを行ってきた小笠原さんが持ってきた超秘蔵資料・・・スコットランドのサッカークラブ、セルティックやレンジャーズ等々の、ファンが作るZINEたちである。今回のセッションでそのことについて触れるチャンスがなかったので、ぜひこれらのフットボール・ZINEをめぐる小笠原さんの話を、(マニア根性丸だしで)個人的にいろいろ聞いてみたいのであった(笑)。いつかまた近いうちにそういう機会があることを願いつつ。


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