カテゴリー「経済・政治・国際」の記事

2026.04.19

祝開幕、2026「KYOTOGRAPHIE」最初の週末の走り書き的感想

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 今年も開幕した京都国際写真祭KYOTOGRAPHIE(以下KG)について、最初の週末を終えたところでの、走り書きメモのような記事を・・・。

 ボランティアスタッフとして3年目を迎える今年は、はじめて(新年度早々に職場の休みを入れてw)開催前日の金曜日のプレ・オープンの日にスタッフ参加を申し込んでみたわけで、割り当てられたのがKGのインフォメーション・センターである八竹庵。まさにKGのコアな部分に入らせてもらう形になり、開幕前日ということで、きっとむちゃくちゃ慌ただしいのだろうな・・・と不安を少し抱えつつ一年ぶりに現場へ。でも実際に来てみたら、さすが12年以上やっているイベントともなるとソツなくすべてがオーガナイズされており、この日に来るのはプレス関係者やVIPだけということもあり、お客さんを迎えるのも落ち着いて対応できた。

とはいえさすが前日準備ならではのちょっとした業務が楽しめて、14台のレンタルサイクルの納品を手伝い、その車体番号に応じて電動アシスト自転車のバッテリーそれぞれに番号札を貼る作業を自分がやらせてもらった。今年のKG特別レンタサイクルを利用した場合、そこに貼られた養生テープ部分が、やや心許なかった場合は、あぁタテイシが雑な貼り方をしたんだなと思ってもらって間違いない。

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 前回の記事でも紹介したように今年は八竹庵でファトマ・ハッスーナの追悼展示がある。パレスチナの状況を伝える写真を撮りつづけた彼女がイスラエルの爆撃で亡くなる前に、支援者とかわしたiPhoneのビデオ通話の記録について、そのままiPhone1台だけを暗い室内に置いて動画を流すという展示が行われている。何もない暗い空間に、ぽつんとスマホだけが光を放っているその空間が、まさに彼女の置かれた境遇を表わしているかのような場となっている。

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 そして八竹庵でのもうひとつの展示は、今回のKGで重点的に取り上げられている南アフリカにフォーカスし、「A4 ARTS FOUNDATION」による、同国における写真集のありかたをめぐる歴史的変遷を、その政治状況を含めて振り返るもの。ほとんどの写真集は手にとって眺められるようになっている。

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 次の18日は誉田屋源兵衛の会場に行き、サポートスタッフとして開幕日を迎えた。色彩の鮮やかなタンディウェ・ムリウの展示の2階では誉田屋の帯の特別展示も行われていて、自分にはまったく分からない世界なのだが、これはこれでスゴいものを見ている! と唸るような超絶技巧の帯が飾られている。

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 そして同じ誉田屋でもうひとつある展示は、去年のKG+で観たときから関心を寄せていたフェデリコ・エストルの「シャイン・ヒーローズ」。「靴磨き」がテーマなので、来場者には入り口で脱いでもらった靴をあえてこうして下駄箱みたいなところに置かせて「靴が見られる」という趣向も、いい感じである。そしてアーティスト自身が置いた靴も2足ほどあるので、それがどれなのかはスタッフに尋ねてみてほしい。

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 圧巻だったのは、「そうそう、こういうのが知りたかった!」となった、本プロジェクトがどのように社会運動とリンクして発展していったかというマッピング。社会的差別を受けているボリビアの靴磨きの人々をめぐり、アートの力で彼らを「ヒーロー」として描く試みを通じて、どのように支援活動がエンパワメントされ、実効性のあるユニークなプロジェクトに育って展開していったかが分かる解説展示となっている。

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そのそばには、靴磨きの人々がヒーローとして活躍するアメコミ風マンガの展示があり、そして物販コーナーでもいろいろと味わい深いグッズが売られており、その売り上げの一部は靴磨き職人らへのサポート資金にもなっていくという循環型経済の仕組みが成り立っている。

そして19日の夕方には、ここでアーティスト・ツアーのイベントが行われ、私はこの特別イベント専用のサポートスタッフに申し込んで運良く関わらせてもらうことになった(このタイプの業務は募集枠が少ないので貴重なのだ)。やはり作家本人が作品を前に話をしてくれるというのはとても豪華な観賞体験であり、アートと社会運動の関係について熱心に語るフェデリコ・エストルに、来場者からも多くの質問が投げかけられ、濃密な時間だった。つくづくKGって良いイベントだよなぁとその様子を眺めながら思った。

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で、この日はそれに先だってお客さんとして3つの会場を回ってみた(ボランティアスタッフは様々な会場を客として訪れることをKG事務局としては推奨しているので、規定回数以上ボランティアに入ることが事前に確定しているスタッフは、開幕早々であってもパスポートチケットが特典でいただけるのである。)。

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まずは東本願寺の大玄関。ここは南アフリカのレボハン・ハンイェの展示が行われている。自分が到着したときにたまたまアーティスト・ツアーが開始された直後で、予約なく来た我々のような客も一緒に参加してよいとのことだったので、ありがたく後ろのほうで拝聴した。

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ここで特に感じ入った作品が、ハンイェさんの母親が亡くなったあと、母親が着ていた服を自分で身につけ、かつての母親が写っている写真のなかに自分をモンタージュして写り込ませ、家族の歴史や、ひいては南アフリカの歴史を感じてもらうというプロジェクトだった。

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それに加えて、南アフリカでの灯台守の暮らしを再現するジオラマのような作品も展示されており、灯台が光を照らすようにこの小さな箱のなかの照明の具合によって、そこに映るシルエットが美しく浮かぶ作品群も強い印象を残した。説明文には「灯台は、暗闇を照らし出すこと、何かをたゆまず続けること、そして人々の暮らしを支える見えない構造の象徴となり、個人からコミュニティへと記憶を拡張していく」とあり、まさに今回のKGのテーマ「EDGE」を彷彿とさせる展示だったと感じる。これらをアーティストトークとともに鑑賞し、質疑応答のときは、作者のハンイェさんに、どうして写真家になったのかと参加者のお子さんが問い、「自分から写真家になろうと思ったのではなく、写真が自分を選んだとしか言いようがない」と答えていたのが印象的。

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その余韻を引きずりながら、すぐ近くにある重信会館へ。

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先日のブログ記事でも書いたとおり、おそらく今年の目玉企画のひとつであろうこの展示「残されるもののかたち」は、ちょっと今回の記事で書くには「語りどころ」がありすぎて、別の機会にじっくりと紹介したいと思う。まぁ、つまり、あれだ。「廃墟のような場所で、廃墟をテーマにした作品を鑑賞する」という、この体験は「ヤバイ!」の一言に尽きた。いろいろな意味で、ヤバかった。今回の記事では写真をあまり出さないでおこうと思うが、これから一ヶ月のあいだ、SNSなどでたくさんの感想が語られるであろうし、それらを眺める楽しみが増えた。みんなどういうリアクションをするんだろうなぁ、と。なので今の段階でいえることは「ぜひ、現地に行ってみてください」である。

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で、そのあと烏丸御池まで地下鉄に乗って、私が個人的に今年一番楽しみにしていたアントン・コービンの展示をじっくりと観賞させてもらった。

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このU2の『ヨシュア・ツリー』の写真がとりわけ大きく飾られていて、もうこれだけで満足感があった。

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あと、もうひとつ自分にとってアントン・コービンといえばジョイ・ディビジョンであり、とくにこのバンドの(その後に起こる出来事を思うとなおさらに)象徴的な1枚ともいえる伝説的な写真はロック写真の歴史上でも傑出した一枚であると思う。(この撮影地がマンチェスターではなくロンドンだったことを今回初めて知った)
でもあらためてこういう「展示」の場において、じっくり写真と向き合って眺めると、左端のスティーブン・モリスさん、寝癖立ってるように見えるのね、とかくだらないことを思ったりもする。

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他にもいろいろなミュージシャンや著名人のポートレイトが展示され、そして最後はあまり自分としては知らなかったコービンのプロジェクトのひとつである「墓地」についての展示があり、そこで彼自身のヒューマンな部分に触れるような感じが得られた。

この展示会場ではアントン・コービンへのインタビュー動画が上映されており、彼が被写体としてきたセレブたちへの接し方の部分などで興味深い語りが聴けた(本当は彼のアーティスト・ツアーにも参加したかったが、自分がスタッフで動いていた時間帯の実施だったので叶わず!)

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そんなわけでスタートの3日間についてのこの走り書きのような内容がどこまで参考になるかは分からないけれど、ぜひKGの展示に足を運んでくれる人が増えることを祈りつつ、「今年も充実した一ヶ月が始まるよー!」という気持ちで、五月の連休を心待ちにしている。

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2026.03.03

こんな状況だからこそ、KYOTOGRAPHIE(京都国際写真祭)2026について、どこよりも気が早いレビューを書いてみたくなる

 世界があちこちで瓦解していて、どうにも腹立たしくて哀しくて、それでも季節はめぐってくる。今年も4月18日から約一ヶ月にわたり京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」(以下KG)が行われるわけで、「早く春になってほしい」という気持ちに連動して、今年もできるだけボランティアスタッフとして参加しようと決めている私はさっそくそわそわしている。

 今年のテーマは「EDGE」ということで、すでにメイン展示のプログラム内容や開催場所が広報されている。もちろんこの数日間のあいだにさらに深刻度を増しつつある世界情勢の影響で、人々やモノの移動などに予想外のアクシデントが起こりえる可能性も想定されるので、これから本番に向けて変更になったりする部分がいくつか出てくるかもしれないが、ひとまず現時点での情報をもとに、「気の早すぎるレビュー」として、私が気になるポイントをここに書き散らかせていただく。こんな状況下だからこそ、めぐる季節によってやってくる楽しいモノゴトは大事に味わいたいし、「祭」とはそういうものだ。

なお私のスタンスは、
・そんなに古今東西の写真家についての知識はない
・そんなに現代アートにも詳しくない
・そんなにガチで写真を撮るレベルにない
・そんなに長年KGのボランティアをやっているわけではない(今年で3回目)
・そんなに以前から毎年熱心な客としてKGを鑑賞していたわけではない
ということをあらかじめお断りしておく。

そんな私が今シーズンのKGの何にこんな早い段階から盛り上がっているかといえば、
アントン・コービンの展示が!! 
今年は! 
あるんですってば!!
 
そのことを言いたいがためにこの記事を書いているようなものである。

アントン・コービンといえば。
中学生の頃から、文字通り中2病のごとく、いまだに聴き続けているU2の『The Unforgettable Fire』や『The Joshua Tree』のアルバムジャケットなどをはじめ、初期のころからのU2の姿をたくさん撮影し、他にもジョイ・ディビジョンの写真もバンドの存在感を決定づける作品を多く残しており、その他たくさんのロックスターのポートレイトを手がけた、ベスト・オブ・ロッキンフォトグラファーである。

ジョイ・ディビジョンといえば夭折したカリスマ・ボーカリストのイアン・カーティスの半生を描いた映画『コントロール』を監督したのもコービンである。コービンならではの写真観そのもののようなモノクロームの映像によって、彼らの伝説の日々を限りなくリアルに描ききった作品で、当時私はこの映画を、学生時代の同期でU2ファンであったウメさんと東京で会った折りに、渋谷の映画館で一緒に観に行った・・・ちなみにこの記事を準備していた最中、「映画を観た場所って渋谷で合ってたっけ? 久しぶりにウメさんに連絡とって訊いてみようかなーどうしようかなー」となっていた矢先、恒例の京都マラソンでの「サッカーユニフォーム姿のランナーさん応援企画」をやっていたら、千葉にいるはずのウメさんがサプライズでランナーとして参加して目の前にやってくるという出来事がおこる(こちら参照)。ナイスすぎるだろウメさん・・・。

ということで、まさかKGでアントン・コービンという展開は予想していなかったので熱い。おまけにU2のギタリストの名前はEDGEである。今回の全体テーマにもピッタリである(強引)。

コービンの展示会場は「嶋臺(しまだい)ギャラリー」ということで、地下鉄の烏丸御池駅すぐの場所でアクセスも良く、古い町家を活用した展示に期待大である。

個人的には昨年までのKGにおいて、私にとってのベスト・ベニューでありつづけた京都新聞社ビル印刷工場跡地での展示が今年からはなくなってしまったので、テンションはやや下がり気味であったのだが、そんなところへアントン・コービンの展示が決まったとあり、おかげで今年も私は前のめりでボランティアスタッフに臨めそうである。

 そしてもうひとつ強烈にプッシュしたい展示は、ウルグアイ出身のフェデリコ・エストル「Shine Heroes」だ。ボリビアのラパスにおいて、靴磨きに従事する人々は差別的なまなざしを避けるべく覆面で仕事をしている人が多く、エストルらは支援団体とともにアートの力で彼らを取りまく状況をとらえ直し、靴磨き職人を「覆面ヒーロー」として読み替え、そこから新たな文化的アイデンティティを創出するというプロジェクトを展開しているとのこと。それで気付いたが、私は自分自身の生活でもこの「読み替える」という作戦を重視して好んでいるのだろう。たとえば市民マラソン大会の現場を意図的に「読み替えて」サッカーファンを応援する場にしてしまうという試みも、その流れにあるわけだ。
 このエストルの作品群は昨年のKG+SELECTで出展されていて、見事にアワードを受賞したことで、晴れて2026年KGのメイン展示として改めて単独の個展が開催されることになった。私も昨年のこの展示には強く印象づけられた一人で、ぜひ深掘りした内容で翌年も観てみたいと願っただけに嬉しい。そして予定されている展示会場となるのは、誉田屋源兵衛の「黒蔵」とのこと。そこがさらに「うおぉ!?」となるポイントであり、黒く大きい蔵の放つ謎めいたムードは、まさに「覆面」を捉える本作品群の展示空間としてはさぞかしハマることになるだろうと期待を込めて断言できる。

そして同じ誉田屋源兵衛では「竹院の間」のほうで、ケニア出身の写真家タンディウェ・ムリウ「Camo」の展示が行われる。布をテーマにした作品で知られる作家とのことで、鮮やかな布の背景と、自身のまとう衣装によるカモフラージュをとらえた印象的なキー・ビジュアルが告知されている。そもそも誉田屋が着物の帯をあつかう老舗だけに、テキスタイルというモチーフでのつながりが想定されているのだろう。会場に足を踏み入れたときに迫り来る色彩と、古きよき商家の空間のミクスチャーによる鮮烈なコントラストが想像される。
展示作品そのものに加えて、会場がどこに設定されるかで、観る前からの期待度がより強く増していくのはKGの素敵なところである。

このムリウは東アフリカの人だが、今年のKGは南アフリカの写真家も多くフィーチャーし、「SOUTH AFRICA IN FOCUS」と銘打って次の4つのプログラムが展開される。
アーネスト・コール(京セラ美術館)
ピーター・ヒューゴ(京セラ美術館)
レボハン・ハンイエ(東本願寺 大玄関)
“A4 ARTS FOUNDATION”(八竹庵)

アパルトヘイト下の歴史的記録を遺し、日本初公開の大規模展として紹介されるアーネスト・コール。そのコールの没年時に生まれた若いアーティストとしてのレボハン・ハンイェに、長いキャリアを重ねるピーター・ヒューゴと、それぞれの展示には同じ地を舞台にした異なる時間軸の位置づけが伺える。そしてKGのインフォメーションセンターである八竹庵では、南アフリカにおける1950年代からの抵抗的な表現実践について理解を深められる場として、ケープタウンを拠点とする、アートをめぐる支援団体「A4 ARTS FOUNDATION」による写真集(ブックメイキング)の展示などが行われる。

なお八竹庵ではそれに加えてもうひとつ展示がある。パレスチナの写真家としてガザ地区の姿を世界に発信しつづけ、2025年4月にイスラエルによる爆撃で命を落としたファトマ・ハッスーナの追悼展示が予定されている。八竹庵は無料で入れるインフォメーション・センターとしての中心的な役割をふまえつつ、その年ごとに伝えたいメッセージ性がダイレクトに込められた展示に出会える場でもある。この数日のあいだの情勢によっては、いろいろな面で緊張感が高まる会場になりかねないが、それはそれとして引き受けていくべき部分でもあろう。

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私はボランティアとしてKGに関わるようになってから、KGにおけるあらゆる展示を網羅的に接することで、KGが毎年企画する展示においては、内容のジャンル分けのようなものがバランス感をもって設定されていることを実感するようになった。観客の側でいた時代にはあまり気にしなかった部分でもある。

そうした「自分なりのジャンル区分」でいえば、今年の「日本の大御所写真家の部」として森山大道の回顧展(京セラ美術館)、「自然環境の部」ではジュリエット・アニェルの植物と鉱物の作品(有斐斎弘道館)、「若手日本人写真家を応援しようの部」では福島あつしによる農業の営みをめぐる作品展示(ygion)、「KGイチオシの、アワード受賞者の部」として柴田早理のフランス・シャンパーニュでの葡萄畑と女性の作品群(ASPHODEL)、「シャネルが協賛する女性写真家特集の部」としてリンダー・スターリングの日本初個展(京都文化博物館)が予定されている。

この中ではとくに70年代英国パンクシーンから出てきたというリンダー・スターリングの展示は観客としても楽しみであるし、そしてまたボランティア・スタッフの立場からしてみたら、こうした「シャネル協賛の部」とか「ディオール協賛の部」といったブランド企業とのコラボレーション展示に関わるときは、いつも以上に緊張感を覚える。なぜならお客さんからしてみたらこんな私でもその日だけはシャネルやディオールの看板の下で動くスタッフの一員になるわけなので、現場では「わたしもシャネルです」みたいな表情や身振りを試行錯誤し続けたくなるわけだ・・・無駄な試みと言われようとも(笑)。でもそういうこと自体が、ボランティアを楽しむポイントだったりもする。

そして、あくまで私の主観ではあるが、KGのなかには「この特別な場所だからこそ、この写真作品を展示してみました部門」というのが毎年あり、今年でいえばイヴ・マルシャン&ロマ・メェッフェルの「重信会館」での展示が挙げられよう。実は今回の発表があるまで、そもそも私は重信会館という建物については何も知らなかった。真宗大谷派の研究所であったり大谷大学の学生寮などに使われてきたという古い建物がまだ残っており、ツタがたくさん覆い茂るこのモダンな建物のなかで「近代建築の廃墟」をテーマとする作品を鑑賞できるというのは、なかなかの体験となるであろう。

そんなわけで、とりまく世界の状況は落ち着かないけれども、KGは今年もさまざまな角度からの発見や鮮烈なイメージを、わすれがたい一瞬において感じさせてくれるイベントになるだろうと期待している。そしてお客さんとして楽しむのはもちろんのこと、どんな短い単発のシフトでもボランティアスタッフを随時募集しているようなので、KGというイベントそのものを味わうチャンスとして捉えていただければ幸いである。

Enjoykg

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2026.02.01

ただひたすらに、驚きをもって読んだ本:『コードブレイカー:エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史』

 戦時下のアメリカのある都市に、両親が共働きの家庭があった。家族で食卓を囲みつつ、母親も父親も、その日の職場であった出来事については何も語ろうとせず、お互いそれぞれの仕事についてはなんだかとても多大なプレッシャーを抱えているようなのだが、そのことで親どうしが言葉を交わすことは決してない。
 しかしその実、二人がともに関わっている仕事は、自分たちが暮らすこの国の命運を明日にでも左右させかねない役割を担わされているものだった。そんな状況にあることを、彼らの子どもたちは察知していたかどうか・・・

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 今回のブログで取り上げるのは2025年に読んだ本でダントツに面白かった本で、ジェイソン・ファゴン著、小野木明恵訳『コードブレイカー:エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史』(みすず書房、2024年)である。
 
 私は読んだすぐ直後に、本のなかに挟まっていた「読者カード」のハガキに感想と賞賛をびっちり書いて出版社に送ったほどであり、驚きとスリリングさが最後まで持続していった怒濤の読書体験だった。
 
 まず急いで付け加えるが、「驚きとスリリングさ」というのは自分自身が単に「そんなことも知らないのか」っていうレベルの歴史オンチなまま歳を重ねたせいでもあるのを先にお断りしておく。無知ゆえに些細なことにまで「そうなのか!」となってしまいがちではあるが、それにしてもこの本は、厳密な資料収集と分析に基づくれっきとした歴史書でもありつつ、その一方でジャーナリストとしての著者による書きっぷりによって、エンターテインメント小説のようにも読めてしまう。この絶妙なバランス感が、最後まで飽きさせずに読み通すことを可能にしている。

 もともとアメリカにおける暗号解読の歴史においては、ウィリアム・フリードマンという人物が筆頭にあげられ、「国家安全保障庁:NSA」(近年におけるエドワード・スノーデンの存在によって、自分のような一般人でもその名を強く認識するようになった組織だが)の生みの親のような位置づけで語られているとのこと。
 で、本書はそのウイリアムの妻であるエリザベスを主人公として取り上げている。エリザベスもまた共に暗号解読の手法を産みだし、そしてこの夫妻が育てた後輩たちとともに、驚異的な働きによって世界大戦のなかで暗号解読を成し遂げたのだった。しかし歴史のアヤというか、そこにはジェンダーの問題もあったのだろうけれども、近年にいたるまでエリザベスの存在にスポットライトがあたることはなく、この著者による綿密な調査により、機密解除によって公開された資料や、残された書簡、インタビューなどを通じてこのエリザベスのたどった数奇な半生が示されることになったのである。

「著者まえがき」ではこのように述べられている。
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エリザベスとウィリアムのフリードマン夫妻は30年間にわたり、子ども二人を育てながら、二つの大戦時にやりとりされた何千もの通信文を解読し、密輸ネットワークや、ギャング、組織犯罪、外国の軍隊、ファシズムについて秘密のほころびを探り当てて突破した。二人はまた、暗号学(クリプトロジー)なる新たな技術を考案し、暗号作成の手法を一変させた。夫妻の慧眼から得られた成果は今日でも、巨大な政府機関から、インターネット上の個人のごく小さな活動に至るありとあらゆることの根底に潜んでいる。しかも夫妻は、数学の素養がほぼないにもかかわらず、これをやってのけたのだった。二人の生活を構成する基本単位は、方程式ではなく言葉だった。二人は心底、言葉を愛していた。言葉を練り上げ、引きちぎり、ひっくり返して格子やマス目や細長い紙片に並べ、白いメモ用紙に何行にもわたり書き連ねた。
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 たしかに暗号というと複雑な数理的処理が求められる印象が強いのだが、この本そのものも、ほとんど数学的な話が出てくることなく、限りなく平易な言葉で暗号解読のプロセスが示されているのが実にありがたい。

 大学を出たが将来に展望が見いだせない23歳のエリザベスは仕事を求めてシカゴを訪れるも、そこでも芳しい成果は得られなかった。失意のうちに故郷へ帰る前に、せっかくだから記念にと、当地の図書館でシェイクスピアの稀覯本を観てみようとなったことがきっかけとなり、とある大富豪の関わる風変わりな研究所にたどり着いて職を得ることになるというミステリー風味満載のエピソードには「マジで!?」となる。そしてそこで彼女はウィリアムと出会うことになるわけだが、そこから二人で暗号解読という未踏の作業に取り組んでいくことになる数奇なプロセスの端々にも「そんなことってあるわけ!?」と何度もつぶやいてしまいたくなる。

 結果的にエリザベスは沿岸警備隊に所属しながら、禁酒法時代には密輸船による暗号交信を解読する役割を担いつつ、やがてその能力や経験が軍事部門にも活用されることとなり、陽の当たらないオフィスで、弟子たちとともに敵国の軍事暗号文の解読を一手に引き受けていく。

 暗号解読ときくと、まずもってナチス・ドイツの暗号「エニグマ」の解読ということで、コンピューターの父と呼ばれるイギリスのアラン・チューリングを描いた名作映画『イミテーション・ゲーム』のことを思い出すが、同時期にアメリカ側でも、このフリードマン夫妻による解読が成功していたことが分かる。

 本書で取り上げられる主要なエピソードのひとつとして、ナチスが南米に傀儡政権を作ることをもくろみ、アルゼンチンに武器を輸出する計画のすべてが、エリザベスの手によって完全に解読されていたことが紹介されている。
 暗号解読で重要なことは「暗号が解読できていることをいかに敵に悟られないようにするか」という点であり(映画『イミテーション・ゲーム』でもその問題については観る者に深い葛藤を突きつける切ないエピソードを通して描かれている)、なのでナチスによるアルゼンチンとの交渉も、その進行過程は逐一エリザベスによってすべて筒抜けとなっていたが、そのことを気づかせないようにしながら敵国の狙いを阻止するためにどのように動くのかは、非常にギリギリのところの判断が必要となる。

 結果的にわずかなほころび(というか、ドジな人)を突いて、水際で武器の輸出入計画を阻止できたのだが(その作戦に関与したイギリス軍のやり方がちょっと失笑してしまうほどの強引さだったにせよ)、当然ながら初めて知りえる舞台裏の秘史に「マジで!?」をここでも連発しつつ、ヒトラーの野心を打ち砕くひとりのアメリカの母親、という緊張感あふれる構図は読んでいてひたすらハラハラする。
 
 と同時に、アメリカにとってのもうひとつの敵であった日本軍の暗号通信も、やはりエリザベスの解読によってその作戦計画や行き交う情報はことごとく読み切られており、その影響で多大な戦死者があったことも日本人の読者としては直面させられるわけである。

 そしてエリザベスもウィリアムも、第二次大戦期にはそれぞれが別々の暗号解読に従事していたわけだが、極秘の機密情報を扱う以上、たとえ夫婦間であってもお互いが知り得た話を伝えたり相談しあうことはタブーであった。さらにウィリアムのほうは激務によって心身ともに衰弱していき、その原因は容易に想像できても、それ以上のところでどうにも力になれずに見守るだけしかできない苦渋のエリザベスもまた、自身の任務を抱えながらの過酷な日々を過ごしていた。

 先に引用した「著者まえがき」にあったように、エリザベスとウィリアム、そして子どもたちとのあいだにおける「言葉を愛する心」は残された手紙の端々から伝わってきて、そしてそうした個人としての「言葉をめぐる好奇心や探求心」が、巨大で醜い政治的軋轢や敵意に満ちた戦時下において、歪んだ思惑の際をすり抜けて急所を突いていく。その目的や役割は当然ながらポジティブなものではないが、一人の好奇心旺盛な女性が人生を賭して取り組んだその驚くべき粘り強い仕事を、この本は冷静な筆致のなかに深い敬愛の念を込めて讃えている。

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2024.01.06

2024年正月:不安と憤りと川魚と所ジョージ

「よいお年をお迎えください」と言っていたそばから、いざ正月を迎えると激しい地震に見舞われ、北陸にいる友人たちは無事で何よりだったが落ち着かない日々が続いている。被災された方々にはお見舞い申し上げるとともに、すみやかに日常が取り戻せますように・・・とお祈りするしかない。

しかしそれにしても今回は政府の対応の遅さや、相変わらず神経を逆撫でする首相の言動などが過去にも増して目に余る。それでも暴動は起こらず投票率も低くて国民は政治に無関心でいてくれる状況を維持して改憲できると政権は踏んでいるわけだが、どうも近年の動きが「わざと批判を生む&開き直る&その状況に慣れさせる」という方向性にシフトしているようで、そこの「不可解なまでにわざとらしく醸成させた陰湿な不快感の押しつけ」をあちこちの分野にしれっと浸透させていきたがる狙いは何なんだろうかと、年明けから考え込んでしまう(例えば大阪万博のあのマスコットキャラクターにも同じ臭いを感じている)。

不安と憤りばかりの正月になってしまうが、負けじと普通に2024年最初のブログ記事を書く。

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年末に、あるお店で川魚の料理をいただいた。
塩焼きにされていて、身をほぐすのにちょっと手間取るやつである。

こういうときにいつも思い出すことがある。
学生時代、遠方に住む友人を訪ねて旅行し、そこで友人のご両親に地元の居酒屋に連れて行ってもらい、たくさんごちそうになった。
そこでたまたまサンマの塩焼きをいただいたのだが、そのときの私のサンマの食べっぷりを、友人のお父さんがいたくホメてくれたのである。

確かに私は以前からサンマを綺麗に骨だけ残して食べることにこだわりを持つようになっていたのだが、それを改めて人生の先輩から賞賛されると「そうか、これは自分の取り柄なのか」と新鮮な気持ちになったとともに「単に食い意地が張っているだけなのかもしれないが・・・」という照れくささが、当時の記憶としてある。

そんなわけで「私は魚を綺麗に食べる人なのだ」という妙な自負があり、そこで今回の川魚と向き合いながら気づいたのは「もはや魚を食べることはアートなのかもしれない」ということだった。

「魚そのものをじっくり味わえよ」とひとりでツッコミを入れたくなるほどに、小さい骨だらけの中からいかに身をはぎとりつつ、できるかぎり元の骨格を残すかという課題に没頭していたわけだが、この作業は無心に何らかの創作物を作りあげる時間に似ていると思えてきたわけである。小さい子供が魚を食べるのを嫌がるのは無理もない。なぜなら技芸としてのアートを求められるからである。すべての子供が図画工作を好きなわけじゃない。

意地になって苦闘しつつ、なぜこんなことに時間と手間をかけているのかと自問しながら、アートへの希求だけではない、もうひとつの想いが浮かんできた。
それは「自分なんぞに食べられてしまう運命となったこの魚に、少しでも恩返しできることがあるとすれば、綺麗に食べることしかない」ということだ。これはおそらく、小さい魚は「一匹全体をまるごと自分だけがいただく」という状況だからかもしれない。サーモンの切り身を食べるときには、あまりそういうことに思い至らない。鶏肉や牛肉も同様に。
本来なら食事をいただく基本姿勢として常々そうした意識は大事なのだが、ついぞオトナになるにつれ忘れがちになっていることにも気づかされた。ありがとう魚。

そうしてできあがったアート作品は誰かに鑑賞してもらいたいという欲も出てくる。そしてこの場合、おそらく地上で唯一の鑑賞者は、私が店を出たあとに食器を片づけにくる店員さんであろう。でもわざわざその店員さんも、この皿に残された「骨格標本かよ!」と言いたくなるような「作品」の存在に気づいてくれない可能性のほうが高い。
それでも、うまくいけばもしかしたら「こんなに綺麗に食べてもらえましたよ」と、厨房にいる料理人にも共有してくれるかもしれない。店員さんよ、インスタにあげたっていいんだぞ。

「そう、目指すべきは人に見せたくなるぐらい美しく食べ尽くされた魚なのだ」と自分に言い聞かせると、より丁寧な箸づかいを心がけ、慎重に作業を進めていく意欲が高まるというものである。

仕上げには、お皿に添えられていた大きい笹の葉っぱを、わざわざ魚の下に敷いて、骨の白い造形が緑色の背景に映えて見えるように工夫してみた。しかし今になってこの文章を書きながら冷静に振り返ると、さすがにやりすぎだったかもしれない。

こういう行為に走りたくなる遠因をたどると、小さい頃にテレビで観た所ジョージに行き当たる。
何気ないトークのなかで、所さんは「レストランの食事が美味しかったら、自分の皿にソースとかで『うまい』って書き残してお店を出る」というようなことを話していて、なぜかそのことがずっとアタマに残っているのである。子供心に「自分もそういうオトナになりたい」と思ったんだろう。そして実際にはどうなんだろう。

・・・そんなことを思い出したので、雑誌『世田谷ベース』のバックナンバーで「所さんのお悩み相談室」の特集号が手元にあったはずだと書棚を探し、パラパラとめくってみると、こんな所ジョージの言葉に出会った。

「歳を取りたくないっつっても取るんだから。自分がやがてなるものをマイナスに思ったらダメ。自分がやがてなるものはプラスに思わなきゃ」

なるほど・・・ということで、引き続きできるだけ楽しく歳を重ねていけるようにしたいと改めて思わされる新年であった。

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2023.05.07

チャールズ国王戴冠式の個人的ツボ・まとめ

思えばエリザベス女王の国葬については繰り返し見たくなる映画のような素晴らしい葬儀で、いろいろと語りたいシーンがいくつもあったのだが、なんだか「人のお葬式」について書くのも気が引ける部分もあり、このブログでは書かずにいたままだった。
(でも結局、普段の生活でもこの話について誰かと語る機会もなかったので、気が向いたらブログでまた書くかもしれない)

そうして昨日はチャールズ3世の戴冠式が執り行われ、幸い日本では連休の真っ只中ということもありじっくりとBBCワールドの日本語通訳入りでその様子をライヴ中継で味わうことができた。そして一方ではサッカー・アジアチャンピオンズリーグ決勝が同時刻に行われていたもんだから、浦和レッズの試合の様子も気になるのでパソコンでDAZNの中継を流しっぱなしにしつつ・・・という状況だった。

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テレビで観ているうちに、なんだか自分も観光客気分で、スマホで画面を撮影したくなった(今回はほとんどがこのスマホの写真を使わせてもらいますが、当然ながら画像の質は悪いです)。

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バッキンガム宮殿からウェストミンスター寺院へ向かう行進から始まるのだが、馬車をひく馬たちが、青いカツラをつけられて、そして目にはフタになるような飾りをつけられていた。
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おそらく馬の性質上、そうすることで集中力が高まったりするのだろうけど、「見えにくくないのだろうか、それで自分の職務を全うすることはできるのだろうか」と、ぼんやりと不安にさせるあたり、「これは英国の誇るロックバンドであるロキシー・ミュージックのギタリスト、フィル・マンザネラが初期によくしていた変なメガネみたいなものなのだ」と思うようにした。
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↑ この人。

そうしてウェストミンスター寺院には王室の面々がやってくる。

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ハリー王子は今回はひとりで出席。いろいろ微妙だもんねぇ。

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で、アン王女を見て最初は「なんでそんな格好なん?」と思って半笑いで写真を撮ったのだが、このことは後になっていかに自分が無知であったかを思い知らされることになる。

ちなみに報道写真から拝借。これがその格好。
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この帽子のまま戴冠式のあいだも列席していたので、ずっと気になっていたのである。

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そうこうしているうちに、国王夫妻を載せた馬車が国会議事堂の近くを通って寺院へ。

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本当にどうでもいいことばかり気になるのだが、いつもは観光客でごった返しているウェストミンスター寺院の入口にある、この画像の奥にみえる「お土産屋さん」、さすがに今日は閉めてるんだよなと確認。

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そしてさらにどうでもいいことなのだが、馬車を降りるときに国王夫妻を迎えていたこの人たちがそれぞれに持っている傘の種類がバラバラだったのが印象的だった。隊列や行進に関わるあらゆる物事がビシッと揃っていたなか、数少ない「間に合わせ感」が出ていたのがこれだったので、つい嬉しくなって写真に撮ってしまう。

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国王を待つ参列者。ハリーの「ぼっち感」が際立つので「がんばれ!」と言いたくなるし、その目の前にはアン王女の帽子。いろいろ気になる。手前の空席はこのあとウイリアム皇太子の家族が座る。

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そして来賓席のなかでは秋篠宮夫妻がいいポジションに座っていて目立っていた。

で、ここから大司教やさまざまな聖職者が入場してくる。

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「なんでこういう衣装なんでしょうねぇ?」と言いたくなる。いろいろ豪華だったり謎めいていたり。

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不鮮明で申し訳ないが、どう考えても「普通の長い棒」あるいは「釣り竿?」にしか見えないものを持って入場する人も。

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で、寺院に入場する直前の国王と、この儀式でずっとサポート役をつとめる2人の司教の様子が捉えられていて、とくに右側のメガネの司教がやたらフランクに喋っているようにうかがえたので、きっと「まぁ、気楽にいきましょ、気楽に」みたいなノリでリラックスさせようとしていたのかもしれない。

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こうして入場。後ろにいる少年のうち左は、孫にあたるジョージ王子が立派に侍者を務めていた。いつか彼もこの儀式をやらないといけないのだろうなぁ。

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そんなジョージ王子と新国王を見守るウイリアム皇太子の一家も勢揃い。
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すっかり大きくなったシャーロット王女とルイ王子がこの日もすごくかわいらしくてネットではさっそくいろいろ記事になっている。
Princelouisandprincesscharlotte
特にこの写真におけるシャーロット王女の毅然とした立ち姿は、まんまエリザベス女王そのものやん!といった印象がある。

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そうして儀式が始まったのだが、驚いたのはオープニングを飾ったのはひとりの少年の侍者が、これから儀式が始まります的なスピーチを行ったことだ。すごい緊張感のなかで、ものすごい大役を務めていて、立派だった。

そうしてここから長々と儀式が進んでいったわけである。

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まぁ、当然といえば当然だが、それぞれが口にする言葉はカンニングペーパーを見ないことにはどうしようもないわけである。
カンペの背には紋章みたいなのがちゃんと印刷されているが、なんだかテレビのクイズ番組で使われるような問題カードにも見えてくる。

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常にカンペ。

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そして、建物の構造上、来賓席からは直接メインの舞台が見えないので、ウイリアム皇太子も身を乗り出さないと様子が分からない。

また、今回の戴冠式では、歴史上はじめて女性の司教が儀式に参加したり、新しい取り組みをいくつか導入していたようで、そのうちの一つが、ゴスペル歌手による「ハレルヤ」の合唱が行われたことだった。

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アカペラによる歌はとても美しかったが、個人的にはちょっと緊張感を覚えた。というのも
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みんなで輪になって歌っていたので、絵的にはちょっと落ち着かない状態に。

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あと、背後に映る参列者のみなさんの表情がなぜか一様に固すぎて、そこも緊張感をかもしだしていた。や、分かるよ、儀式が長ったらしいのは。

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引き続き儀式は粛々と進んでいき、これは聖なる油を身体に塗る儀式の最中に持ち込まれた囲い。中で何が行われているかは誰も分からないのである。

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「お着替えタイム」みたいな、これもまた絵的に落ち着かない時間。見方によっては「奇術師の脱出ショー」みたいな雰囲気すらある。

で、ここまでくると、あくまで自分の主観なのだが、チャールズ王やカミラ王妃も「面倒くさいなぁ」というオーラがでているように思われてきた。

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さんざん儀式に振り回されたあげく、途中できわめてラフな格好にさせられて、この上から特別な金色の衣を着せられたり。

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そしてそれぞれの貴重な宝物が、順番に新国王に手渡されるのであった。

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そして最後に王冠をかぶるのだが、このときは「強引に頭にねじこまれる」感じがあって、ちょっと気の毒なほどだった(笑)

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で、カミラ王妃にも王冠がねじこまれたのだが、この直後に何度も王冠と髪の隙間を手でいじったりして、「儀式とか本当に面倒くさいのよね」といわんばかりのカミラさんの庶民的なノリ、私は嫌いじゃないです。

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紫色を基調とした衣装や王冠を身につけて退場。この姿をみてはじめて、あぁエリザベス女王の子どもだったんだなぁ、似ているなぁ、と実感。

こうして再び一行はバッキンガム宮殿に向かうわけであるが、最初よりもかなりパワーアップした隊列が待ち構えていた。

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で、ここで大変驚いたのは、国王の妹にあたるアン王女である。
彼女は馬術が得意とのことで、このとき国王夫妻の馬車を率いる騎馬隊の一員として、馬にまたがり行進していたのである。
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Anne
この緑色の円の位置でずっと馬に乗って併走。

いやはや、参りました。このような理由で、あのようなお召し物を身につけていたとは。
これって日本の皇室に例えたら、即位パレードで天皇陛下が乗るハイヤーに紀宮さんが白バイで併走するようなものではないか。カッコ良すぎる。

来賓席にいたあとに、馬にまたがって宮殿へ。
ネット上でも「アン王女かっこいい」の賞賛がいくつも起こっている様子。

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こうして、バッキンガム宮殿に戻って、多くの見物客へ挨拶。

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この一連のプロセスが5時間ぐらい。すっかり見入ってしまった。(その傍ら、浦和レッズが奮闘の末、アジア王者になっていた。おめでとうございます)

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最後にロンドンに行ったのが2017年で、そのときこの宮殿や、宮殿前のザ・マルの大通りについて想い出深い出来事があり(こちら)、自分にとっても特別な感情を抱く場所ではあるが、こうしてまた文字通りの新しい歴史が刻まれていったんだなぁと実感した。

<余談>
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▲このお面は売り物だと思われるのだが、いまだに世界的にはこうした「写真のお面」はそのクオリティが残念なままである。私の書いた「DIYお面の作り方」の記事を読んでもらいたいものである。

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2023.01.22

ひさびさの「当たり読書」:『THE WORLD FOR SALE:世界を動かすコモディティー・ビジネスの興亡』

 突然だが、以下にある企業のロゴや社名をご存じの方々はどれぐらいいるだろうか。

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 今回取り上げる本『THE WORLD FOR SALE:世界を動かすコモディティー・ビジネスの興亡』(J・ブラス、J・ファーキー著、松本剛史訳、日経BP、2022年)を読むまで、私はこれらの企業の名前はまったく知らなかった。
 しかしこれらの会社は、たとえば米国におけるアップル社やコカ・コーラ社のようなワールドワイドな規模で商売をし、時としてとてつもない収益をあげていたりする。

 扱っているのはいわゆるコモディティー、つまり原油や金属資源、農作物などである。
 仮に我々はアップル製品を買わずとも、またコーラを1本も飲まなくてもそれなりに社会生活を送ることができるだろうけれど、一方でエネルギー資源や食料が世界中を移動することによる様々な恩恵を受けなければ、まずもって生活が成り立たない。ただ、これらを取引して動かしていく「コモディティー商社」の社名に我々が触れることは稀だろう。彼らは自らの存在を一般消費者に誇示する必要はまったくなく、いわゆる「B to B」のビジネス形態なのだから当然かもしれない。そしてこの本を読むと、むしろその存在ができるだけ表舞台に出てこないほうが彼らにとっては動きやすく、利する部分が多いことも分かる。

 そういうわけで「民間で知られないままでいるには、あまりにも巨大な影響力を持った、途方もない強欲の組織体」ともいえるコモディティー商社群について、その通史や暗部、そしてこの業界の未来について徹底的なリサーチやインタビューに基づいて書ききったこの本は、とっても刺激的であった。

 登場する企業・政府・人物、彼らが行ってきたことのあらゆることが非常に狡猾だったり強欲だったり倫理感が欠如していたり、さまざまな部分でスキャンダラスでダーティーなものなのに、それらをすべてひっくるめて「楽しんで読めるもの」として成立しているのは、これはもうジャーナリストの見事な技芸のたまものであり、ストーリーテリングの妙味が炸裂した本だと感服するしかない。
 
 とくに私は「グローバリゼーション」という言葉を、これまでなんとなくフワッとした意味合いの、大きい概念を指し示す適当なフレーズ程度のものとして捉えていたことに気づかされた。ちょうど「マルチメディア」という言葉が今となっては陳腐なものになっているように、時代を経るごとにグローバリゼーションという言葉も「今さら、なんですか」という印象しか浮かばないような、そんな感じである。
 だがこの本を読んで、私にとっての「グローバリゼーション観」はドス黒いものとセットに、生々しく迫るものとして強制的に再認識させられたのだった。
 国家の枠組みを飛び越えるもの、その動態みたいなものをグローバリゼーションのひとつの表われとして捉えるのであれば、まさにコモディティー商社が、とうの昔から国家の管理とか法律とかの規制に縛られることなく活動の幅を拡大して好き勝手に動いており、もはや彼らの金儲けの飽くなき探求の結果としてグローバリゼーションといえる状態が作られていったのではないか、ひいては「オマエらのせいかーーっ!?」というツッコミをしてしまいたくなるのであった。
 
 何せインターネットができるずっと以前から、ある意味での「情報ネットワーク網」を世界中にはりめぐらせ、こともあろうにCIAですらそこに頼ることが多々あったらしく、また「ビッグデータ」という言葉ができるずっと前から、商社は世界中の農場から得た膨大な情報を駆使して未来予測を立てて生産量や値動きの変動を追っていたりもする。なので彼らの活動が現代に至る技術革新のイノベーションを促進していた部分があるとも言えそうである。

 で、この本でもいろいろな「歴史的取引」が紹介されるのだが、国際社会からの経済制裁により貿易が本来はできないはずの国だったり、反政府ゲリラ組織だったり、債務危機に陥って破綻寸前の国だったり、そうした困窮状況につけこんだコモディティー商社の暗躍によって資金や資源が動き、国や反体制組織が支援されていく。そしてそこには政治的公正さや倫理観は「二の次」となる。ただひたすら「たくさん儲かるから」、彼らはリスクを背負って賭けに飛び込む。
 そういう意味では「武器商人」にも通じる話でもあるが、コモディティー商社の場合は、扱っている商材が最終的に私たちの生活の一部としてつながっていて、末端のところにいる「顧客=読者」としての我々もある意味でそうしたドロドロの状況に含まれているのだということも実感させられる。

 届けられるはずのない場所へ誰も想像もしないルートから原油を送り込んでみせたり、あるはずの大型タンカーが突然姿を消したり、そうした「ナイフの刃の上を歩く」ように綱渡りで秘密裏に進められる巨大な商取引をダイナミックに展開する商社のトレーダーたちの奮闘ぶりは、それが褒められる行為かどうかは別として、どうしたって「面白い」のである。国家という枠組みによる衝突や駆け引きをよそに、その裏をかいて、自分たちの利益のためだけに国境をやすやすと飛び越えて資源を調達しては売りさばき、あるいは値上がりを見越して溜め込み、さまざまな策略を駆使して法の網の目をかいくぐりライバルを出し抜いて巨万の富を獲得しようというそのエネルギッシュな動きは、もはや読んでいて感心すらしてしまう。

 そうやって「国家を裏であやつる存在」にもなりうるコモディティー商社の影響力が途方もなく大きいものに発展していくこととなる。ネタバレになるので詳細は書かないが、近年の動向において、こうした動きを監視し抑圧する方向で一番の役割を担いつつあるのが、やはり「世界の警察」を自認する合衆国だったりする。本書の終盤においては、このあたりの動きを含めてコモディティー商社をとりまく世情が今後どうなるかを占っていくのだが、「それでもしぶとく彼らは儲け続けるはずだ」という論調になっていくのが苦笑いを誘う。
 もし今後、探査船が月に飛んで、月の深部に有益な埋蔵資源が眠っていることが判明しても、それはコモディティー商社の手配したコンテナや重機が月から資源をすっかり回収した跡が残っていたがゆえに発見できました、というオチになるんじゃないかと夢想してしまう。

 そしてまた、ここまで広範囲で多方面にわたる天然資源の商取引の歴史を語るにあたり、「主だった登場人物や会社が一冊の本のなかで認識しうる程度の数に収まっていること」が、いかにわずか少数の人間や組織が、この地球全体の資源をコントロールしているかという不穏な実情を示唆している気がする。なので本書の題名『THE WORLD FOR SALE』はこれ以上見事な表現がないぐらいに著者たちの伝えたいことが示されていて、決して誇張でもないのであった。

 それにしてもこの本は、題名と装丁がちょっと気になったのでたまたま手に取り、それでお正月休みに読み始めてみたら、とにかく筆の運びが巧みで翻訳も自然で一気にグイグイ読ませ、どの章もスリリングなサスペンス小説のようで、かつ今までまったく知らなかった業界の内側をわかりやすく丁寧に解説してくれるという、久しぶりの「当たり読書」だった。

 たとえば本書の終盤、「第13章 権力の商人」の書き出しはこうだ。

2018年初めにその短い発表があったとき、ペンシルベニア州の公立学校に勤める教員の誰かが注意を払うことはおそらくなかっただろうが、そこには彼らの退職後の蓄えにとってありがたくない知らせが含まれていた。

 この第13章に至るまで本を読み進んでいると、崩壊後のソ連だったり、キューバや湾岸戦争や中国の資源需要急増などといった緊張感の高い話がテーマとして連発してくるなかで、このシンプルで唐突な書き出しは絶妙だ。いったいどうして、ペンシルベニア州の公立学校の先生たちの退職金が、このコモディティー業界史をめぐる激しいテーマに関わってくるんだ!? と気になって仕方がなくなる(実際、このあと予想だにしない方向へ話が急展開する)。カメラの視点と、背景のテーマとの距離感のギャップが大きければ大きいほど、著者が仕掛ける「演出」が際だってくる。

 このごろは「面白い!ブログで書きたい!」と思える本になかなか出会えてなくて、昨年だと『コンテナ物語:世界を変えたのは「箱」の発明だった』(M・レビンソン著、日経BP、2019年)は、そのテーマ性が絶妙なので読む前から期待値が高くなりすぎたのもあったが、どういうわけか途中から急激につまらなくなって、結局途中でギブアップしてしまった。やはり書き手の側にある種のサービス精神だったり、人間存在のユーモアとペーソスを大事にしようという意識が根底にうかがえる本は、読者を飽きさせずページをめくる手を随行させ、読み終わるのが惜しいぐらい充実した読後感を与えてくれる。そういう本にもっと出会いたいものである。

 

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2023.01.15

今さらながら「ふるさと納税」をやってみた話

数年前に、普段は業務で関わることが少ない職場の人と世間話をする機会があり、そのときに「『ふるさと納税』やってないんですか! 絶対やったほうがいいですよ!」と強くオススメされたことがあった。

Furusato

しかし、そのあとも相変わらず何もしないまま日々を過ごしていた。特産物の果物とかが自宅に届くのはよさそうだが、「マイナンバーカード」を作らないと参加できないものだと勝手に思い込んでいたのである。

で、昨年の末頃に、どうやらふるさと納税はマイナンバーカードがなくてもできるらしいことが分かり、そこで初めてこの制度について真剣に向き合った次第である。今さら・・・と思われるかもしれないが、私の周りの人にそれとなく訊いてみても、まだやったことがない人も多いみたいで、そういうものなのかもしれない。

それにしてもあらためてこの制度のことを知ると、ポジティブな面とネガティブな面があり、いろいろと奥深い。例えば最近でもニュースでやっていたが、川崎市などは市民がこぞってこの制度を利用したので「税金の流出」が問題になって、市側が市民向けに「このままだと行政サービスが低下します」と訴えていたりする(こちら参照)。
それと、約9割の自治体がこの制度に参加しているとのことで、東京都は自らの判断で辞退していたりするケースがあるものの、もしかしたらとても小さい地方自治体のなかでは、制度に乗りたくても乗れないほどいろんな意味でのエネルギーが枯渇していたりするところがあったりするのかな・・・とか想像してしまう。現在の政権下においては、「自助努力」を求められる厳しい風潮があって、それは自治体においても同様に、税収の奪い合いの競争を生み出してしまっているフシもある。

で、ユーザー側(というか納税者側)からすると、何もしなかったらそのまま税金として徴収されるぶんを、自分の思い入れのある好きな自治体に寄付できたり、災害に見舞われた地域に支援の気持ちで寄付したり、あるいは返礼品をいろいろ探して、それ目当てで寄付を送ることができ、それまで名前すら知らなかった地方自治体とちょっとした「ご縁」ができることは、この制度のポジティブな点ではある。

あと、これも自分の思い込みだったのだが、ふるさと納税の返礼品は「地元の特産物」として食品関係ばかりがほとんどだと思っていた。しかしそれ以外にも地元の製造業や観光業とも連携して、現地企業が生産する日用品とか、スキー場のリフト券なども返礼品となっていて、バリエーションが豊富であることに驚かされた。つまり普段の生活で何か日用品を買おうと思い、それが自己負担額2000円以上は確実にするもので、かつ寄付上限額を超えない限りであれば、買い物に行く前にふるさと納税の返礼品で入手できるかどうか探してみて、もしあればそっちで注文するほうがお得なわけである。

そんなわけで「もっと早くから気づいておけばよかった・・・」と、昨年末に駆け込みでいろいろと楽天のふるさと納税サイトをあれこれ検索しまくっていたわけである。

そんな私が一番最初に申し込んだ返礼品がこれである。


















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お味噌汁用に欲しかった、大きなお椀・・・。

一人暮らしをして以来、お味噌汁を一人分つくると、どうしても量が少しオーバーすることが多々あって、使っていたお椀だと一度に入りきらなかったのである。なので長い間、それとなく大きいお椀を探していたのだが、これ!といったものに出会えていなかったのである。それで今回のふるさと納税デビューにおいて、大きいお椀を探してみたら見事に出てきたのでオーダーしたのであった。

うむ、これを読んだ“ふるさと納税ユーザー”の読者諸氏のツッコミが聞こえてくるよ・・・。
「それって・・・その辺のお店で2000円以内で買えない?」と。

や、たしかに、私もオーダーした直後にそのことをうっすら思った。

しかし、実際に届いたものを手にしたら、ものすごく手触りが良く、丁寧に加工された、人の手の温もりを感じさせるものであり「おおお! これはかなり良い! 2000円以上は確実にします! ありがとうございます!」と納得した。
(寄付金額は15000円だったので、それの3割以内が返礼品価格だから、きっと4000円ぐらいのものだろうと思う)

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これは、島根県益田市にある匹見というところで生産されている「Hikimi 森の器」とのこと。今回用いられた木材はトチノキであることが焼き印で示されている。

そこで生産者さんの思いがこのように語られていたりする。
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◆生産者の想い
益田地域の山林での雪害・風害による倒木、道路建設等のためやむを得ず伐採された樹木などを譲り受けた後、製材・乾燥・ロクロ削り加工など1年以上の時間と愛情をかけて、樹木から食器へと新たな使命を与えて生まれ変わらせ、皆様のもとへお届けします。

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ということで、非常に時間をかけた丁寧なものづくりをされているわけである。
そうして生産者さんの作業風景の写真も見ることができる。ご参考までに当該ページは(こちら)。
こういうのを目にすると、たしかに応援したくなるじゃないですか。

そして匹見という地域について調べてみると、ウィキペディアでは「1960年代以降より過疎が進行しており、『過疎発祥の地』として知られる」とあり、そうだったんだぁ~となり、なおさらに寄付をしようという気持ちになったわけである。こうして知らない地域のことを新たに学べる機会にもなっている。

そして寄付控除の手続きについては、確かにマイナンバーカードを持っていない場合はプラスアルファでちょっとした書類手続きがゴチャゴチャと発生する。だが「しかるべき書類を作って折りたたんで封筒にノリ付けして封をして、郵送に備える」という一連の作業について、私の場合は長年にわたる特異な趣味(← 笑)の影響で、自宅デスクで極めてスムーズに行える体制をすでに築き上げていたため、何ら面倒に感じることはないのであった。

こんな調子で、他にもいろいろと調べては、寄付を申し込んでみた。ベタではあるが夏ごろには山梨から果物がちょくちょく届けられるように手配したりして、楽しみにしている。

私の同僚の人が世間話のトークのネタで(タテーシとの話題に困ったあげく?)ふるさと納税を持ち出してきたくなる気持ちも今ならよく分かる。「そんな返礼品があるのか!」っていうのが他にもたくさんありそうなので、情報交換したくなるわけである。

ただ、ふるさと納税は決して節税ではなく、「単なる税金の前払い」と言える制度でもあるので、昨年分を年末のうちに駆け込みで一気にまとめて申し込んだがゆえに、翌月のクレジットカードの支払い予定がえらいことになるというのがオチといえばオチである。

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2021.08.29

『B面の歌を聞け』vol.1「服の自給を考える」

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 友人の作家・太田明日香さんが主宰する「夜学舎」から、手作り雑誌『B面の歌を聞け』が創刊された。

 ここで語られる「B面」というのは、資本主義とかメインカルチャーが主軸で動いている世界を「A面」だと捉えたときに考え得る、オルタナティブな世界のありようのことだ。モノの交換だったり、できる範囲でDIY精神を発揮していったり、お金をかけなくてもいい部分をそれぞれのローカルの場から探求・実践していく姿勢を、このささやかな雑誌は問いかけようとしている。

 初回のテーマは「服の自給を考える」ということで、ハンドメイドのシャツの制作者へのインタビューや、ただ消費される対象としてでなく、服との多様なつきあいかたを提案する記事などが楽しめた。とくに、よれよれになって着れなくなった服を、型紙から起こして別の素材で縫製して“コピー”するという発想は自分にとって新鮮だったし、あと自分に技術がなく、身近なところで縫製を頼めないような場合に有用な「縫製職人マッチングアプリ」があるというのも、面白い試みである。

 読みながら感じたことは、衣食住のなかで「衣」の部分はもっとも「B面仕様」にしやすい領域ではないかということだ。たとえば「子どもが暮らしやすい家を建てる」というのはありえるが「子ども専用の家を建てる」ということは難しいわけで、そう思うと衣服というのは年齢とか目的とかの一般的な側面での「個性」に応じて、それぞれにカスタマイズが求められ、さらに嗜好やオシャレさを追求する楽しさの幅もふんだんに備わっているわけで、この領域を企業の利潤追求作業にまかせっきりにするのは確かにもったいない。

 ただし、もちろんすべてをイチから自作する必要もなく、雑誌のなかでも「不要品からパーツを流用し、ここぞの部分だけをハンドメイドとして成立させていく」というスタンスが紹介されていたりするように、「いいとこ取り」で、手作りと既製品のハイブリッドを楽しんでいくことも可能である。
 そういえばちょっと前に『ゼロからトースターを作ってみた結果』(トーマス・トウェイツ、新潮文庫)を読んで、あらためて「ものを作ること」について考えさせられたが(この本、ある意味では名著だと思う)、すべてを自分で作り上げる必要はなく、技術がゼロであろうとも、出来る限り自分で考えたり学んだりしたうえで、どうしてもムリな部分は専門家や既製品に任せることだって、そのスタンスにおいてはDIY精神であり、そうした「A面とB面を行き来するバランス感」が大切なのだろうと思う。

 次号の予定は「コロナ以後におけるお酒とのつきあい方」とのことで、「夜学舎」については(こちら)へ!

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2021.07.31

ひたすらロンドンの地下鉄に乗ったり駅をウロウロしている動画

 先日ひさしぶりにharukanashowで喋らせていただく(こちら)。前回トークしたのがちょうど一年前だったことを知り、驚く。ついこの間のことのようだったが、このコロナ禍の日々がいかに早く過ぎていったかを実感・・・。
 収録日において、直近に迫りつつあった東京五輪開幕への違和感だったり、サッカーの欧州選手権やF1イギリスGPでのお客さんの入りっぷりへの不安などを語らせていただく。
 これを書いている時点で開幕一週間を経ているのだが、なんかもう、東京および全国各地での感染者の増加傾向を思うと、素直に五輪を楽しめるモードではまったくない。あと一週間後にはどうなっていることやら、この危なさや先行きの不安感を我々一般人が(税金払いながら)引き受けなければならないことへの憤慨にまみれている今日この頃である。


 そんなわけで、相変わらずテレビはそこそこにYouTubeに依存している日々である。


 以前、Watched Walkerについて紹介したが、最近新たに見つけたのは、それのロンドン地下鉄バージョンともいえる「London Underground First Person Journey 24/7 Livestream」という動画で、収録した映像をつないでひたすら24時間配信している。リンクは(こちら)。



 撮影者はひたすらロンドンの地下鉄に乗り、ホームに降りるや乗り換えのために駅構内を歩き回って、また違う地下鉄に乗り・・・その繰り返し。そうしてあの空間における音や情景をカメラに収め続ける(ただし、なぜそんなに急ぐのかっていうぐらい早足で移動したがるところがあるので、もうちょっと落ち着いて行動してよと言いたくなる)。そもそも地下鉄なので窓の外の風景が楽しいわけでもなく、下方のテロップのおかげで、かろうじて今はどの線の、どの駅の区間を動いているのかが分かるわけで、地味といえば地味な試みだ。
 動画として「見る」という以上に、そのまま部屋のBGMとして流しっぱなしにしてもいい。基本的にうるさいだけなのだが(笑)、車内アナウンスだったり、時おり聞こえる「Mind the Gap」の機械的な音声だったり、レールがきしむ音のデカさっぷりだったり、ドアの開閉のときになる電子音だったり、すべてがロンドン暮らしをイメージさせる音として、心和む。


 それと同時に、こうしてカメラを携えてやたら地下鉄に乗ったり降りたりを繰り返しているこの撮影者は、どうしたって不審者のようにも見られるかもしれない。しかしイギリスの国らしいというか、冷徹なほどに他人には干渉しないムードが車内にもうかがえて、そのうえでこういう動画撮影が成り立っている気もする。


 そして最近撮影した動画がほとんどのようで、あきらかにコロナ禍の影響で地下鉄の乗客や駅構内を歩く人が決定的に少ない。なのでこれを見ながら、どのみちちょっと切ない気分にもなる。「そこにいない自分のこと」と、「今はそこに行くことができない、ということを納得しなければいけない自分のこと」があって、そのうえで「コロナ禍のいま、ロンドンはこういう姿になっている」ということを知り得る手段のひとつとして、いくばくかの感謝の念をもってこの単調な動画を眺めつづけている。

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2020.06.21

「肩をすくめる読書」

 ずっと気になっていたが、なかなか挑む気になれなかったアイン・ランドの小説『肩をすくめるアトラス』を、このたび読み終えることができた。

 長い、ひたすら長い物語だ。でも小説としてそれなりに楽しんで読めたのが「意外」だった。
 というのもアイン・ランドの作品は小説というよりも「思想書」みたいな扱いで、1957年に発表されたこの『肩をすくめるアトラス』は彼女の最高傑作とされており、「アメリカ人が聖書の次に影響を受けた本」に選ばれるぐらいなので、アメリカ人の社会的意識や価値観などを理解するためには格好のテキストなんだろうという感じで、関心を寄せつつもずっと横目に見ていた感じであった。

 そしてなぜか日本語版はすんなりと手に入りにくい書物(その事情は後述)だったのでなおさらカルト的な存在感を放つ本であり、その分厚さも含めて容易には近づく気になれない小説であったのだが、最近になって手に取る意欲をかきたてたのは、たまたまオリヴァー・ストーン監督の『スノーデン』の映画をもう一度見直してみたことがきっかけだった。最初に観たときには記憶にまったくなかったのだが、スノーデンがCIAに入るための試験を受けるとき、その後彼にとって非常に重要な上司となる面接官が、話の流れで『肩をすくめるアトラス』からの引用を語りかけると、スノーデンが『私の信条です』と返すシーンがあったのである。つまりはそういう位置づけで語られうる小説であり、CIAで生きるようなアメリカ人の思想形成においてもあの作品が持っている「意味合い」がある程度共有されているのだろうということが伺えたわけで、うむ、ここは気合いを入れて向き合ってみるかとこのコロナ禍のステイホームな状況下で思い直したわけである。

 

 で、アイン・ランドが14年間をかけて執筆したというこの『肩をすくめるアトラス』の要約を、無謀を承知で私なりにヒトコトで説明すると、

「自分では何もできない無能なヤツらは、できる人間の邪魔をするな」

ということなんだと思う。ひたすら長い物語を読み続ける読者にたいして、一貫して作者が訴えかけてきたメッセージは、シンプルにこのことだけだったと感じている。

 ストーリーのあらましを説明すると・・・時代設定が明確にされていないので少しSF風であり、50年代のようにも思うし近未来のようでもあるアメリカが舞台。メインの主人公は大きい鉄道会社の副社長を務める若い女性。創業者の子孫として誇りを持っており、社長である兄と対立しながら鉄道の経営に自らの能力を発揮して邁進している。石油産出で盛り上がるコロラドへの路線を再建するべく、鉄鋼の新素材を開発した実業家との協働により自らの信念によって事業を進めようとするも、政府や企業カルテルによる規制施行に翻弄され、そしてさまざまな業界の気鋭のリーダーたちが表舞台から不可解な形で次々に姿を消すという現象が起こり・・・ということで、このあたりが1巻目の話で、残り2巻でさらにいろ~んなことが起こっていく。企業小説でもあり、ややミステリー小説でもあり、やや恋愛小説でもあり、ちょっとSF風ディストピア小説的な、そういう意味で「結局なんなんだよ」というツッコミも入れたくなるが、この膨大すぎるページ数を前にすると「さもありなん」となるわけである。そりゃあ取材や執筆に14年もかかるわ。

 本のカバーに書かれた説明文では「利他主義の欺瞞を喝破し、二十世紀アメリカの進路を変えた資本主義の聖典」とあって、この物語が示す「できる人間の邪魔をするな!」というメッセージが、現在に至るまでのアメリカ主導における自由主義経済、市場原理、ひいては「個人の成功に基づくアメリカン・ドリーム」の存在を支える根本的な考えかたに結びついているんだろうと思う。旧ソ連からアメリカに亡命同然でやってきたアイン・ランドにとっては、自らのルーツを踏まえて、いわゆる社会主義的な思想への徹底した拒否感を小説執筆の形で昇華させていったのであろう。
 そしてこの小説で徹底的に糾弾される「たかり屋」のありかたやその構図は、まさに今の日本における自民党政権やアベ政治の拝金主義を連想させるし、一つの寓話として現在でもリアルに通用する部分があるかもしれない。

 ここまで影響力を誇る(らしい)本なので、当然のように賛否両論もあって、今はそうした論考をあれこれ探して読むのが楽しい。翻訳家の山形浩生氏は独特の論調でかなり酷評していて、どちらかというと私も山形氏の意見に近い感じを今は持っている。でもこういうすさまじい物量の小説を完成させるためのエネルギーを一人の作家が燃やし続けるにあたっては、アウトプットされる主張が極端なカタチになっていくのは致し方ないのかな、という印象もある。

 そんなわけで、「これはみんな読んだほうがいいぞ!」という気持ちにもなりにくい小説であり、ひとつの読書経験としては貴重かもしれない、ぐらいに留めておきたい。というのも、すごく印象的だったのは、終盤のクライマックスで一人の人物が小説の中の時間で3時間にわたる演説を行うのだが、その演説部分を読むだけで確かに実際の時間で2時間ぐらいかかって、「普通に小説を読んでいるだけなのに、一人の人間が話し続けるという場面状況においては、そこを読み進めることがどうしてこんなに苦痛を伴うものなのか」と感じながらページをめくっていた。これは今までに味わったことのない種類の「しんどい読書」の時間だった。そして同時に、小説の中の人物たちが、このときの長い演説を聴いているときに感じていたであろう苦々しい気持ちを読者として一緒に味わうかのような不思議な感覚が残った。

 さらに、この小説全体に言えることだが、登場人物の発言の内容がうまくすんなり理解できない部分が非常に多く、そこはもはや私のキャパがオーバーしているだけの問題なのだろうけど(決して翻訳が悪いとは言いたくない。むしろこの長い小説を、一定のテンションを保って訳しきっただけでも偉業だと思う)、まさに『肩をすくめる読書』とでも言いたくなる。

 そして私がどうしても気になっているのは、これほどまでに社会的影響力が強い「古典的名作」であるのなら、どうして日本では大手の出版社が発行を手がけないのか、ということである。メジャーな出版社から出ていないがために、この本をリアルな書店で見つけることは難しく、私はネット通販で文庫版を3巻すべて入手するのにもちょっと苦労した(最近は増刷されたのか、在庫がでてきている)。

 この本の版元は「アトランティス」という出版社で、ネットで調べる限りとても大手とは言えず、そしてどうやらアイン・ランド関連の仕事しかしていないように思える。そもそも「アトランティス」というキーワードも『肩をすくめるアトラス』のなかに何度も出てくるので、まるでアイン・ランドの思想を広めるためだけに作られた組織のようにさえ映る。しかし、どうして? 版権の問題などはもちろんあるのだろうけど、長年にわたって大手出版社がこの本を扱えない事情でもあるのだろうか。

 そんなわけで、本の成り立ち自体が、まさにアイン・ランドの小説世界に出てくるかのように、ちょっと不思議な体裁をかもしだしているのであった。

 


第一部:矛盾律


第二部:二者択一


第三部:AはAである

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