ただひたすらに、驚きをもって読んだ本:『コードブレイカー:エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史』
戦時下のアメリカのある都市に、両親が共働きの家庭があった。家族で食卓を囲みつつ、母親も父親も、その日の職場であった出来事については何も語ろうとせず、お互いそれぞれの仕事についてはなんだかとても多大なプレッシャーを抱えているようなのだが、そのことで親どうしが言葉を交わすことは決してない。
しかしその実、二人がともに関わっている仕事は、自分たちが暮らすこの国の命運を明日にでも左右させかねない役割を担わされているものだった。そんな状況にあることを、彼らの子どもたちは察知していたかどうか・・・
今回のブログで取り上げるのは2025年に読んだ本でダントツに面白かった本で、ジェイソン・ファゴン著、小野木明恵訳『コードブレイカー:エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史』(みすず書房、2024年)である。
私は読んだすぐ直後に、本のなかに挟まっていた「読者カード」のハガキに感想と賞賛をびっちり書いて出版社に送ったほどであり、驚きとスリリングさが最後まで持続していった怒濤の読書体験だった。
まず急いで付け加えるが、「驚きとスリリングさ」というのは自分自身が単に「そんなことも知らないのか」っていうレベルの歴史オンチなまま歳を重ねたせいでもあるのを先にお断りしておく。無知ゆえに些細なことにまで「そうなのか!」となってしまいがちではあるが、それにしてもこの本は、厳密な資料収集と分析に基づくれっきとした歴史書でもありつつ、その一方でジャーナリストとしての著者による書きっぷりによって、エンターテインメント小説のようにも読めてしまう。この絶妙なバランス感が、最後まで飽きさせずに読み通すことを可能にしている。
もともとアメリカにおける暗号解読の歴史においては、ウィリアム・フリードマンという人物が筆頭にあげられ、「国家安全保障庁:NSA」(近年におけるエドワード・スノーデンの存在によって、自分のような一般人でもその名を強く認識するようになった組織だが)の生みの親のような位置づけで語られているとのこと。
で、本書はそのウイリアムの妻であるエリザベスを主人公として取り上げている。エリザベスもまた共に暗号解読の手法を産みだし、そしてこの夫妻が育てた後輩たちとともに、驚異的な働きによって世界大戦のなかで暗号解読を成し遂げたのだった。しかし歴史のアヤというか、そこにはジェンダーの問題もあったのだろうけれども、近年にいたるまでエリザベスの存在にスポットライトがあたることはなく、この著者による綿密な調査により、機密解除によって公開された資料や、残された書簡、インタビューなどを通じてこのエリザベスのたどった数奇な半生が示されることになったのである。
「著者まえがき」ではこのように述べられている。
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エリザベスとウィリアムのフリードマン夫妻は30年間にわたり、子ども二人を育てながら、二つの大戦時にやりとりされた何千もの通信文を解読し、密輸ネットワークや、ギャング、組織犯罪、外国の軍隊、ファシズムについて秘密のほころびを探り当てて突破した。二人はまた、暗号学(クリプトロジー)なる新たな技術を考案し、暗号作成の手法を一変させた。夫妻の慧眼から得られた成果は今日でも、巨大な政府機関から、インターネット上の個人のごく小さな活動に至るありとあらゆることの根底に潜んでいる。しかも夫妻は、数学の素養がほぼないにもかかわらず、これをやってのけたのだった。二人の生活を構成する基本単位は、方程式ではなく言葉だった。二人は心底、言葉を愛していた。言葉を練り上げ、引きちぎり、ひっくり返して格子やマス目や細長い紙片に並べ、白いメモ用紙に何行にもわたり書き連ねた。
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たしかに暗号というと複雑な数理的処理が求められる印象が強いのだが、この本そのものも、ほとんど数学的な話が出てくることなく、限りなく平易な言葉で暗号解読のプロセスが示されているのが実にありがたい。
大学を出たが将来に展望が見いだせない23歳のエリザベスは仕事を求めてシカゴを訪れるも、そこでも芳しい成果は得られなかった。失意のうちに故郷へ帰る前に、せっかくだから記念にと、当地の図書館でシェイクスピアの稀覯本を観てみようとなったことがきっかけとなり、とある大富豪の関わる風変わりな研究所にたどり着いて職を得ることになるというミステリー風味満載のエピソードには「マジで!?」となる。そしてそこで彼女はウィリアムと出会うことになるわけだが、そこから二人で暗号解読という未踏の作業に取り組んでいくことになる数奇なプロセスの端々にも「そんなことってあるわけ!?」と何度もつぶやいてしまいたくなる。
結果的にエリザベスは沿岸警備隊に所属しながら、禁酒法時代には密輸船による暗号交信を解読する役割を担いつつ、やがてその能力や経験が軍事部門にも活用されることとなり、陽の当たらないオフィスで、弟子たちとともに敵国の軍事暗号文の解読を一手に引き受けていく。
暗号解読ときくと、まずもってナチス・ドイツの暗号「エニグマ」の解読ということで、コンピューターの父と呼ばれるイギリスのアラン・チューリングを描いた名作映画『イミテーション・ゲーム』のことを思い出すが、同時期にアメリカ側でも、このフリードマン夫妻による解読が成功していたことが分かる。
本書で取り上げられる主要なエピソードのひとつとして、ナチスが南米に傀儡政権を作ることをもくろみ、アルゼンチンに武器を輸出する計画のすべてが、エリザベスの手によって完全に解読されていたことが紹介されている。
暗号解読で重要なことは「暗号が解読できていることをいかに敵に悟られないようにするか」という点であり(映画『イミテーション・ゲーム』でもその問題については観る者に深い葛藤を突きつける切ないエピソードを通して描かれている)、なのでナチスによるアルゼンチンとの交渉も、その進行過程は逐一エリザベスによってすべて筒抜けとなっていたが、そのことを気づかせないようにしながら敵国の狙いを阻止するためにどのように動くのかは、非常にギリギリのところの判断が必要となる。
結果的にわずかなほころび(というか、ドジな人)を突いて、水際で武器の輸出入計画を阻止できたのだが(その作戦に関与したイギリス軍のやり方がちょっと失笑してしまうほどの強引さだったにせよ)、当然ながら初めて知りえる舞台裏の秘史に「マジで!?」をここでも連発しつつ、ヒトラーの野心を打ち砕くひとりのアメリカの母親、という緊張感あふれる構図は読んでいてひたすらハラハラする。
と同時に、アメリカにとってのもうひとつの敵であった日本軍の暗号通信も、やはりエリザベスの解読によってその作戦計画や行き交う情報はことごとく読み切られており、その影響で多大な戦死者があったことも日本人の読者としては直面させられるわけである。
そしてエリザベスもウィリアムも、第二次大戦期にはそれぞれが別々の暗号解読に従事していたわけだが、極秘の機密情報を扱う以上、たとえ夫婦間であってもお互いが知り得た話を伝えたり相談しあうことはタブーであった。さらにウィリアムのほうは激務によって心身ともに衰弱していき、その原因は容易に想像できても、それ以上のところでどうにも力になれずに見守るだけしかできない苦渋のエリザベスもまた、自身の任務を抱えながらの過酷な日々を過ごしていた。
先に引用した「著者まえがき」にあったように、エリザベスとウィリアム、そして子どもたちとのあいだにおける「言葉を愛する心」は残された手紙の端々から伝わってきて、そしてそうした個人としての「言葉をめぐる好奇心や探求心」が、巨大で醜い政治的軋轢や敵意に満ちた戦時下において、歪んだ思惑の際をすり抜けて急所を突いていく。その目的や役割は当然ながらポジティブなものではないが、一人の好奇心旺盛な女性が人生を賭して取り組んだその驚くべき粘り強い仕事を、この本は冷静な筆致のなかに深い敬愛の念を込めて讃えている。














































































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