カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2023.12.25

意志決定理論「エフェクチュエーション」とは、DIY精神のことなんじゃないか & 今年もありがとうございました

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『エフェクチュエーション:優れた起業家が実践する「5つの原則」』(吉田満梨・中村龍太著、ダイヤモンド社 2023年)という本を読んでみた。

そんな結論になることを予想して読んだわけじゃないのだが、私なりにこの本で言われていることを強引にまとめると、結局のところエフェクチュエーション(Effectuation)とされる思考様式は、私がずーーっとこだわっている、Do it Yourself、DIY精神そのものじゃないかということだった。

まず本書では、従来の組織がとりがちなアプローチとして「コーゼーション(因果論)」が紹介される。市場調査・マーケティング分析などによって利益の見込みを立て、それに向けて事業計画が練られ、実行にあたっての資源を確保し、目標に向かって突き進む。「まぁ、どこでも普通はそうするよな」とも思える合理的で一般的な物事の進め方だとは思うが、このスタンスでは不確実性の高い現実世界において想定外の出来事や使える資源に制限がでてきたりすると、とたんに行き詰まるわけである(そしてまた事業計画をめぐる会議や下準備が繰り返される・・・と)。

そこでエフェクチュエーション(実効理論)という考え方になるのだが、これは卓越した起業家たちの意志決定プロセスを分析した学術研究をもとに編み出されたとのことで、次の5点の思考様式を特徴としている。

「手中の鳥の原則」
「許容可能な損失の原則」
「レモネードの原則」
「クレイジーキルトの原則」
「飛行機のパイロットの原則」

・・・と言われても「なんのこっちゃ」と言いたくなる名前がつけられているわけだが、本書の戦略としてこうして各原則につけられたユニークなネーミングが読み手の好奇心をさらに刺激するという意味で、マーケティング的にはうまくいっている気がする。そして表紙の装丁のポップなデザインも効果的で、書店で見かけたらつい手に取ってしまう策略に私もひっかかったわけだ。

で、今回のブログ記事を書くにあたって初めて知ったのだが、これらの原則については、実は本書を刊行したダイヤモンド社のホームページで、著者自身がものすごく詳しく解説しているのであった(こちら)。はっきりいってこのサイトの記事を通読すれば、本書の主要なエッセンスはタダ同然ですべて吸収できると思えるので「お金返して!」とさえ言いたくなる(笑)。
ちなみに本のほうでは、これらの原則の解説のあと、残り3分の1ぐらいのページ量を使ってひとつの事例が紹介されているのだが、これがあまりにも特殊事例すぎて、なんだか自分としてはあまりピンとこないのであった。

ともあれ、私がDIY精神として重視している考え方と、このエフェクチュエーションが通じていると思うのは「手持ちの材料や条件を創意工夫して活用し、どのような状況にも柔軟に対応できるように備える」ということである(なので、必要に応じて昔ながらのコーゼーション的にいってもいいわけだし、状況に応じてエフェクチュエーションに切り替えて対応していく、というスタンスが推奨される)。

たとえば実際にDIY的なものづくりでは、あらかじめ設計図は作るだろうけれども、いざ作り出すと想定通りにはいかなかったりもする。そこで「設計図が悪い」と、作業を止めて振り出しに戻るというよりも、ひとまずアドリブやアレンジを加えて、使えるものを駆使してとりあえず完成までこぎつけてみることもできるわけだ。そうすることで、当初は思いもしなかった新たな魅力や愛着を覚えることもあるだろうし、それらの一連の体験をふまえて今後はより望ましい活動に結びつけられるかもしれない。

そんなわけで、古くて新しいDIYスピリットの発想や志向といったものは、硬直した組織を改善するうえでも使える思想なんだということを、図らずも再確認させてもらった気がする。


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さて2023年の本ブログも最後の記事になりまして、少ない本数ながら今年も読んでいただきありがとうございました。

個人の目からみても、そして世界のあちこちからの目を通しても、いろいろと落ち着かない日々が続いているのですが、自分の周りの平穏をまず祈るような気持ちで日々を生きて、そして時間を削りながらも書き続けていくしかないのだなと、あらためて思う日々であります。

「今年のシメの一曲」は、ラブ・サイケデリコの『All the best to you』を選びます。このあいだ彼らのライヴを観てきたのですが、今年リリースされたこの新曲も披露されて、デビューして25年以上経ってもまったくサビつかない「デリコ節」に熱いものを感じたのでした。

この曲のミュージック・ビデオは市井の人々のさまざまな表情や街の何気ない風景が続くだけなのに、なんだか少しだけ勇気づけられるような、そんな感じがわき起こる不思議な作品です。

それではみなさま、よい年末年始を。

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2023.10.23

学生時代に読んだ本のなかで(ある意味で)最もショックを受けた本のこと

勤めている大学の図書課の企画で、すべての事務部署の職員スタッフが一人一冊の本ないし映画をオススメしてポップを描くという試みが行われた。

学生さんに勧めたい本ということで考えると、いろいろ迷うところがあった。
しかし最終的には「まぁ、学生さんはそもそもこんなコーナーに注意を向けることもなかろう」と思えてきて、気楽なノリで「自分が学生時代に読んだ本のなかで何が最も衝撃的だったか」をふりかえり、こんなポップをザザザッと描いてみた。

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(ひさしぶりにちゃんとイラストらしきものを描いた気がする)


紹介した本は、これ。


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これは図書館に所蔵があったので、古い本だがそのまんまの状態で展示されている。

この本がどういう内容のものかを説明するのはとても難しいのだが、「マジメな心理学の学術研究論文集という化けの皮をかぶった、パロディお笑い本」である。
いかにもありそうな心理学の論文がつらつらとページを埋めているのだが、どれもこれも「それっぽい感じ」で、よく読むと完全にボケ倒したノリの、人をおちょくるパロディのオンパレード。

つまり、ある意味では危険な本でもある。「研究者のさじ加減ひとつで、どんなデタラメなことを書いても、研究論文にするとそれらしく思えてきて、パロディをパロディだとは認識されなくなるポイントがあるかもしれない」ということを警告するかのような内容でもあるからだ。

若い頃の私はわりと真剣に心理学の勉強をしていたもんだから、この本にはおおいに動揺させられた。心理学だけに限らず、広く「学術研究」というものになんとなく幻想を抱きがちな若い人にとっては、よい意味でカウンターパンチを喰らわしてくれるような、そういう意義がある本だと思っている。

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2023.08.14

国会図書館のデジタルアーカイブ検索で遊んでみたら、父親の卒業制作までたどり着いた話

国立国会図書館デジタルコレクションというページ(こちら)では、所蔵しているデジタルコンテンツを次々とテキスト化しているようで、それらを検索可能な状態で提供している。
基本的にはものすごく古い時代の書物あたりがメインになっているが、たとえば自分の祖父母とかご先祖の名前を入れてみると、いろいろと楽しめるはずである。

私の場合、祖母の名前ではヒットしなかったが、祖父と思われる人物は数件ヒットしたのである(同じ漢字を途中まで含む、似た名前の別人もヒットするわけだが)。両方の祖父ともに特に有名人というわけではないのだが、長い人生においては、たとえば公的機関が出すような文書だったり、地域における公共性の高いちょっとした読み物みたいなものには、ときに名前ぐらいは載ったりすることもあるだろう。

そしてそういう非常に細かい情報たちが、こうしてネットで探し出せることに「すげぇぇぇ」となる。ここは世代的な問題だろうが、未だにインターネットにたいしては、そういう気持ちになってしまう。すげぇよ。

で、一般ユーザーの場合は、「この文書に、この検索キーワードがヒットした」というレベルまでしか分からないので、当該のページそのものをネットで閲覧することはできない。本当にデータが欲しい場合は別途、手続きが必要になる。

私の場合は「これは」と思う資料について古本サイトで検索すると、実物で入手できるものがあったので、ちょっとした記念に2つほど発注してみた。
ひとつは父方の祖父についてのもので、地域の郷土史家らしき人々が戦後に編纂した重厚な本だった。地元の産業界の詳細な紹介をしているコーナーに関係者の名前が細かく列挙されており、電力会社に勤めていた祖父の名前を見つけることができた。
もうひとつは母方の祖父についてのもので、実は某地方の旧制高校の出身だったようで(私の母もその認識はなかった)、その高校の同窓会が編纂した書物の中に主だった卒業生たちの進路先や活躍ぶりが分野ごとにずらっと紹介されており、絶対にこれは本人だと分かる内容で書き残されていた。

そんなわけで「恐るべし国会図書館」、思わぬタイムカプセルを見つけた感じであるが、さらに踏み込んで父親の名前を入力すると、似たような名前の検索結果がたくさん出てくるなかで、誠文堂新光社が発行している、広告関係やデザイン関連を扱った雑誌『アイデア』の1961年6月号に、父の名前がありそうだということが分かったのである。
私の父は多摩美術大学の図案科、つまり今でいうところのグラフィックデザイン学科で学んでいたのである。おそらくその関係ではないかと思われた。

すかさずこれも古本市場で調べたのだが、あいにく雑誌の現物を入手できそうなアテがなかった。
そこで次に調べたのは、国立情報学研究所のCiNiiによる全国の大学図書館の蔵書検索である(こちら)。そうすると『アイデア』の当該号を所蔵しているいくつかの大学のなかで、自宅に近い某大学図書館が学外一般者も資料閲覧やコピーが可能だということが分かったので、とある日の午後に訪れてみた。

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たまに「休みの日には何をしているか」と人から訊かれることがあり、いつも答えに苦しんで「いろいろやってます」と返すのだが、こういうことが「いろいろ」の中にあるんだろうなと、誰もいない静かな書庫を歩き回りながら思った。「父親の名前が載った古い雑誌をみるために、よく知らない大学図書館の書庫の中でウロウロする」という、ただそれだけの休日。

もちろん図書館なので、きっちり整理されている資料群から、目的のものを探し当てるのにまったく時間はかからなかった。

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(▲黒表紙に製本されて「アイデア」とだけ書かれて並んでいる状況がなんだかポップ感があって、よい。)

こうして1961年6月号の『アイデア』と対面することができた。

そこで分かったのは、この号では前年度の主な美術系大学のデザイン関係の卒業制作展のなかから、いくつかの作品を紹介するという趣旨の特集記事があり、そこに父の卒業制作が掲載されていたということであった。

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「え、ということは、他の美術大学も含めていくつもある卒業制作のなかからピックアップして選出されたということ!? すごいやん!?」と、素直に父親を褒め称えたい気持ちになった。
誰もいない書庫で。



そこで見つけたのがこれだった。










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タイトルは『日本の民謡』




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お、おう・・・・。


たしかに味のある作品といえば味があるが、当時のこの美大生の試みがうまくいっているのかどうかはよく分からない。でもまぁ、こうして雑誌に選ばれているのだから、きっと良い作品なのだろうと自分に言い聞かせながら、この特集コーナーまるごとをコピー機にかけさせてもらい、あらためて実家に行って父親にこのコピーを手渡してみた。

なんとなくの予想通り、父の反応はたいして盛り上がるわけではなく薄いリアクションであった。
この卒業制作はレコードジャケットを作るという課題だったとのことで、たしかに他のページに掲載されている学生の作品も、そんな感じで正方形にオシャレなデザインを配置しており、当時はモダンジャズが流行っていたようで、ジャズのレコードっぽいのがたくさん掲載されていた。

そんななかであえて「日本の民謡」を押し出したあたり、さすが「ビートルズは嫌いだった」と言い張る偏屈な若者だった当時の父親の気概を匂わせる(正確にはビートルズは大学卒業後に流行っていたわけだが)。

私がこのコピーを持ってきたことで、父にとっては自分の作品のことよりも、あちこちのページに記載されている同級生の名前にひとつずつ懐かしさを覚えていたようで、それはそれでコピーしておいてよかったと思った。

父は卒業後に某家電メーカーの宣伝部に進むことになるのだが、この雑誌が出たのはまさに社会人一年目の慌ただしいときのことだったようで、こともあろうに私が今回見つけるまで「こんな雑誌に載っていたことは知らなかった」とのこと。つまりあれか、遠く山口県の故郷から芸大にまで通わせてくれた両親にも雑誌に載ったことなんて伝えてなかったのかこの息子は。

あと、ついでに書くと、私自身もたしかにイラストや絵を描くのは得意なほうだが、子どものときから振り返るに、父から絵の描き方を具体的に教えてもらった記憶はない。
さらに、私はやがて仕事上のなりゆきで、自分でチラシ制作のためにデザインやグラフィックソフトを独学で習得して、趣味においても仕事においても我流でデザイン作業がそれなりにできる人になったのだが、よくよく考えたら父のほうは学生時代にみっちりデザインを専門に学んでいたというのに、そういう会話をほとんどしたことがなく、これは我々の間における「皮肉な謎」のひとつである。

例えば私などは「教えたがり」なので、もし子どもがいたら、良くも悪くもそれなりに自分の得意技能についてあれこれと言ってしまいたくなるだろうと思う。しかし私の父はそういう干渉をまったく行わなかったことになるので、人からみたら「それが最高の教育なんです」とか言うかもしれないが、本当に何もなかった側からすると、ちょっとぐらいは何か教えておいてくれてもよかったんじゃないかと思う部分もある(笑)

皮肉ついでにさらにいうと、この1961年に父が『デザイン』にその名を刻んだ55年後に、今度は私が同じ雑誌(2016年7月号)に載ることになったわけである。野中モモさんとばるぼらさんのZINEについての連載で、フリーペーパーを紹介していただいたのであった。

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そして、このページにたまたま挙げてもらっていた『HOWE』の第20号「ベルギー、フランス、ハイタッチ」の表紙絵は、父親に頼んで描いてもらったモン・サン=ミシェルを載せていたわけで、図らずも父親は2回、自分の作品を『アイデア』に載せたことになるのであった。

(そんなことよりも、いいかげんフリペの新作を作れよというツッコミはさておき)

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2023.04.19

(ネタバレにならない程度に)『街とその不確かな壁』の読後感について書く

よく考えたら村上春樹の新作を発売日に買うということも、あと何回できるか分からないんだよなと思った。
ちょうど私にとって、自分が生まれる前の1972年とか1973年あたりに、洋楽ロックの世界ではキラ星のごとき名作アルバムが信じられないぐらい次々とリリースされていったという歴史に憧れを覚えるのと似たような感じのノリで、先週の発売日に書店に寄って『街とその不確かな壁』を手に入れてみて、さっき読み終わった。

自分の率直な感想としては・・・いま、こうしてブログでさっそく記事を書きたくなる程に、つまり誰かと語り合いたいぐらいの気分で、今回は充実した読後感がある。

私は決して村上作品の熱心な読者だとは思っていなくて(どちらかというと氏のエッセイのほうが好きだ)、あまり私の感想もアテにはならないのだが、少なくとも前回の『騎士団長殺し』よりかは、よっぽど良い、と言ってもいいだろうと(笑)。

その理由を考えてみると、今回の作品で描かれたさまざまな出来事や、それをとりまく光景や心象などは、なんというか、読者それぞれの「生」にダイレクトにつながっていくような普遍的な感覚がずっとあったからかもしれない。
別れを惜しむかのようにこの小説の最後のページを読み終わったあと、ここから先の展開が、読み手である自分自身の内なる部分で続いていくかのような、そういう話だった。
(それを言ったら、『騎士団長殺し』でも他の作品でも同じようなものではないかと言われても、まぁ、そうかもしれませんが・・・とは思うのだけど、なんだか『騎士団長殺し』だけはタイトルのせいかもしれないが、なんだかしっくりこない感じがずっとつきまとった作品だった)

それと、読み進めながらずっと思っていたのは、2009年に村上春樹が行ったいわゆる「エルサレム・スピーチ」のことだった。ここで村上春樹は「壁=システム(政治だったり軍事だったりの統治制度など)」と「卵=個々人やその魂」を比喩として用いて「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と述べたわけだが、今回の作品は表題にも「壁」という語があるように、そのままのメタファーが小説のなかで繰り返し重要なものとして登場している。

もっともこの作品は、デビュー直後の1980年に発表した作品の出来に満足がいっていないまま長らく気になっていて、それをコロナ禍の始まった2020年頃から書き直しを試み、そこから物語をさらに進めた末にできあがったとのことで、本書の「あとがき」では「要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。」と書いている。長らく自分のなかで沈殿しては浮かび上がってきたりする問題意識をつかんで離さないそのスタンスによって、「壁と卵」のメタファーが、その始まりから現在に至るまでずっと村上春樹のなかにあったのかもしれない。そう思うと、きわめてこの人は恐ろしいほど実直なんだろうと思う。

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2023.03.25

福井の書店「わおん書房」にて出会った『やりなおし世界文学』(津村記久子)で自分もやりなおしたくなった

出張で福井にいくことがあり、帰る前の空き時間に立ち寄れそうな本屋を探したら、「わおん書房」という小さい書店があったので行ってみた。

簡素なカフェスペースも備えていて、どの棚も「売りたい本しか置かないぞ」というこだわりが感じられるおしゃれな空間だった。

インディーズ系書店に来たからには絶対に何か本を買って帰ろうと、狭い店内を何往復もウロウロしていた私を見かねたのか、店員さんから「荷物をここに置いてもらっていいですよ」と声をかけていただいた。しかしよくみると私が肩からさげていた仕事用のカバン(着替えも入っていたからよけいにパンパン)が、店の中央に設置してある大きいテーブルに平積みされていた本たちを知らず知らずになぎ倒していたのでプヒャー! すいません! となった。

そうして気を取り直して、帰りの電車内で気楽に読めるようなコラム集みたいなものがちょうどいいだろうなとウロウロを繰り返し、装丁の良さも目をひいたので手にとったのが津村記久子の『やりなおし世界文学』(新潮社、2022年)だった。

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津村記久子さんと言えばサッカーのサポーターを題材にした小説があり、その存在を知ってはいたが、読んでいなかった。
なので、わおん書店のテーブル陳列を乱した申し訳なささに加えて津村記久子さんにも若干の申し訳なささを感じつつ、この本とともに帰路についたのであった。

でもこうした「実はまだ読んでません、すいません、テヘッ」というスタンスそのものが、この『やりなおし世界文学』のテーマともなっている。読書好きが高じてプロの作家となっても、なぜか読まずじまいで通り過ぎていった古今東西の名作文学たちについて、津村さんが「今まで読んでなくてすいません」の姿勢で一作ずつ向き合い、その感想を述べていくコラム集となっており、もともとは新潮社の『波』などに連載されていたものだ。

そしてこれが期待以上に面白かったのである。読み手としての津村さんの視点が絶妙で、ときに鋭く深く読み解いたかと思えば、下世話で小市民的なスタンスになったり、放埒な筆運びで世界文学の巨匠たちの仕事を語りまくる。

そもそも最初に登場するのがスコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』である。
「もういいかげん、ギャツビーのことを知る潮時が来たように感じたのだった。」
という書き出しで、あぁーこれを津村さんはそれまで読んでこなかったのかとまずは驚かされるわけだが、
「ギャツビーは、わたしには華麗な人には思えなかったけれども、人気がある理由は辛くなるほど理解できた。少なくとも、『華麗さ』と『男性用スキンケア用品の名前だから』という理由で避けている人であればあるほど、本書の切実さが刺さると思う。」
とあって、ネタバレをギリギリに回避しつつ、自分もこの本を読んでみたいと思わせる楽しげな文体が、「津村さんも面白いし、取り上げた名作文学たちも面白い(はず)」と感じさせるのであった。

あと、毎回のコラムに添えられるタイトルも秀逸なのが多い。アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』については「幼年期はべつに終わっていい」とか、サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』については「誰もがゴドーを待っている」とか、カフカ『城』に至っては「仕事がまったく進まない」とか、こういうノリで紹介されると、今まで読んでいなかった作品も中身ががぜん気になってくるのである。

普段利用するような大型書店だと、あまり「文学」のコーナーにいくことも少ないので、わおん書房のようなセレクトショップ的な本屋さんならではの出会い方でこういう本を知ることができたのはよかった。

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2023.01.22

ひさびさの「当たり読書」:『THE WORLD FOR SALE:世界を動かすコモディティー・ビジネスの興亡』

 突然だが、以下にある企業のロゴや社名をご存じの方々はどれぐらいいるだろうか。

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 今回取り上げる本『THE WORLD FOR SALE:世界を動かすコモディティー・ビジネスの興亡』(J・ブラス、J・ファーキー著、松本剛史訳、日経BP、2022年)を読むまで、私はこれらの企業の名前はまったく知らなかった。
 しかしこれらの会社は、たとえば米国におけるアップル社やコカ・コーラ社のようなワールドワイドな規模で商売をし、時としてとてつもない収益をあげていたりする。

 扱っているのはいわゆるコモディティー、つまり原油や金属資源、農作物などである。
 仮に我々はアップル製品を買わずとも、またコーラを1本も飲まなくてもそれなりに社会生活を送ることができるだろうけれど、一方でエネルギー資源や食料が世界中を移動することによる様々な恩恵を受けなければ、まずもって生活が成り立たない。ただ、これらを取引して動かしていく「コモディティー商社」の社名に我々が触れることは稀だろう。彼らは自らの存在を一般消費者に誇示する必要はまったくなく、いわゆる「B to B」のビジネス形態なのだから当然かもしれない。そしてこの本を読むと、むしろその存在ができるだけ表舞台に出てこないほうが彼らにとっては動きやすく、利する部分が多いことも分かる。

 そういうわけで「民間で知られないままでいるには、あまりにも巨大な影響力を持った、途方もない強欲の組織体」ともいえるコモディティー商社群について、その通史や暗部、そしてこの業界の未来について徹底的なリサーチやインタビューに基づいて書ききったこの本は、とっても刺激的であった。

 登場する企業・政府・人物、彼らが行ってきたことのあらゆることが非常に狡猾だったり強欲だったり倫理感が欠如していたり、さまざまな部分でスキャンダラスでダーティーなものなのに、それらをすべてひっくるめて「楽しんで読めるもの」として成立しているのは、これはもうジャーナリストの見事な技芸のたまものであり、ストーリーテリングの妙味が炸裂した本だと感服するしかない。
 
 とくに私は「グローバリゼーション」という言葉を、これまでなんとなくフワッとした意味合いの、大きい概念を指し示す適当なフレーズ程度のものとして捉えていたことに気づかされた。ちょうど「マルチメディア」という言葉が今となっては陳腐なものになっているように、時代を経るごとにグローバリゼーションという言葉も「今さら、なんですか」という印象しか浮かばないような、そんな感じである。
 だがこの本を読んで、私にとっての「グローバリゼーション観」はドス黒いものとセットに、生々しく迫るものとして強制的に再認識させられたのだった。
 国家の枠組みを飛び越えるもの、その動態みたいなものをグローバリゼーションのひとつの表われとして捉えるのであれば、まさにコモディティー商社が、とうの昔から国家の管理とか法律とかの規制に縛られることなく活動の幅を拡大して好き勝手に動いており、もはや彼らの金儲けの飽くなき探求の結果としてグローバリゼーションといえる状態が作られていったのではないか、ひいては「オマエらのせいかーーっ!?」というツッコミをしてしまいたくなるのであった。
 
 何せインターネットができるずっと以前から、ある意味での「情報ネットワーク網」を世界中にはりめぐらせ、こともあろうにCIAですらそこに頼ることが多々あったらしく、また「ビッグデータ」という言葉ができるずっと前から、商社は世界中の農場から得た膨大な情報を駆使して未来予測を立てて生産量や値動きの変動を追っていたりもする。なので彼らの活動が現代に至る技術革新のイノベーションを促進していた部分があるとも言えそうである。

 で、この本でもいろいろな「歴史的取引」が紹介されるのだが、国際社会からの経済制裁により貿易が本来はできないはずの国だったり、反政府ゲリラ組織だったり、債務危機に陥って破綻寸前の国だったり、そうした困窮状況につけこんだコモディティー商社の暗躍によって資金や資源が動き、国や反体制組織が支援されていく。そしてそこには政治的公正さや倫理観は「二の次」となる。ただひたすら「たくさん儲かるから」、彼らはリスクを背負って賭けに飛び込む。
 そういう意味では「武器商人」にも通じる話でもあるが、コモディティー商社の場合は、扱っている商材が最終的に私たちの生活の一部としてつながっていて、末端のところにいる「顧客=読者」としての我々もある意味でそうしたドロドロの状況に含まれているのだということも実感させられる。

 届けられるはずのない場所へ誰も想像もしないルートから原油を送り込んでみせたり、あるはずの大型タンカーが突然姿を消したり、そうした「ナイフの刃の上を歩く」ように綱渡りで秘密裏に進められる巨大な商取引をダイナミックに展開する商社のトレーダーたちの奮闘ぶりは、それが褒められる行為かどうかは別として、どうしたって「面白い」のである。国家という枠組みによる衝突や駆け引きをよそに、その裏をかいて、自分たちの利益のためだけに国境をやすやすと飛び越えて資源を調達しては売りさばき、あるいは値上がりを見越して溜め込み、さまざまな策略を駆使して法の網の目をかいくぐりライバルを出し抜いて巨万の富を獲得しようというそのエネルギッシュな動きは、もはや読んでいて感心すらしてしまう。

 そうやって「国家を裏であやつる存在」にもなりうるコモディティー商社の影響力が途方もなく大きいものに発展していくこととなる。ネタバレになるので詳細は書かないが、近年の動向において、こうした動きを監視し抑圧する方向で一番の役割を担いつつあるのが、やはり「世界の警察」を自認する合衆国だったりする。本書の終盤においては、このあたりの動きを含めてコモディティー商社をとりまく世情が今後どうなるかを占っていくのだが、「それでもしぶとく彼らは儲け続けるはずだ」という論調になっていくのが苦笑いを誘う。
 もし今後、探査船が月に飛んで、月の深部に有益な埋蔵資源が眠っていることが判明しても、それはコモディティー商社の手配したコンテナや重機が月から資源をすっかり回収した跡が残っていたがゆえに発見できました、というオチになるんじゃないかと夢想してしまう。

 そしてまた、ここまで広範囲で多方面にわたる天然資源の商取引の歴史を語るにあたり、「主だった登場人物や会社が一冊の本のなかで認識しうる程度の数に収まっていること」が、いかにわずか少数の人間や組織が、この地球全体の資源をコントロールしているかという不穏な実情を示唆している気がする。なので本書の題名『THE WORLD FOR SALE』はこれ以上見事な表現がないぐらいに著者たちの伝えたいことが示されていて、決して誇張でもないのであった。

 それにしてもこの本は、題名と装丁がちょっと気になったのでたまたま手に取り、それでお正月休みに読み始めてみたら、とにかく筆の運びが巧みで翻訳も自然で一気にグイグイ読ませ、どの章もスリリングなサスペンス小説のようで、かつ今までまったく知らなかった業界の内側をわかりやすく丁寧に解説してくれるという、久しぶりの「当たり読書」だった。

 たとえば本書の終盤、「第13章 権力の商人」の書き出しはこうだ。

2018年初めにその短い発表があったとき、ペンシルベニア州の公立学校に勤める教員の誰かが注意を払うことはおそらくなかっただろうが、そこには彼らの退職後の蓄えにとってありがたくない知らせが含まれていた。

 この第13章に至るまで本を読み進んでいると、崩壊後のソ連だったり、キューバや湾岸戦争や中国の資源需要急増などといった緊張感の高い話がテーマとして連発してくるなかで、このシンプルで唐突な書き出しは絶妙だ。いったいどうして、ペンシルベニア州の公立学校の先生たちの退職金が、このコモディティー業界史をめぐる激しいテーマに関わってくるんだ!? と気になって仕方がなくなる(実際、このあと予想だにしない方向へ話が急展開する)。カメラの視点と、背景のテーマとの距離感のギャップが大きければ大きいほど、著者が仕掛ける「演出」が際だってくる。

 このごろは「面白い!ブログで書きたい!」と思える本になかなか出会えてなくて、昨年だと『コンテナ物語:世界を変えたのは「箱」の発明だった』(M・レビンソン著、日経BP、2019年)は、そのテーマ性が絶妙なので読む前から期待値が高くなりすぎたのもあったが、どういうわけか途中から急激につまらなくなって、結局途中でギブアップしてしまった。やはり書き手の側にある種のサービス精神だったり、人間存在のユーモアとペーソスを大事にしようという意識が根底にうかがえる本は、読者を飽きさせずページをめくる手を随行させ、読み終わるのが惜しいぐらい充実した読後感を与えてくれる。そういう本にもっと出会いたいものである。

 

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2022.02.13

自分にとって最高だった古本屋が消えていく

奈良で育ってよかったことのひとつはフジケイ堂という古本屋が身近にあったことだったと言ってもいい。奈良県内に数店舗あり、とにかく良い本が安く売られている店で、商売が成り立っていたのがずっと不思議なほどだった。

それが、この2月末をもって閉店するということをツイッターで知った。

中学から大学あたりまで、何かとフジケイ堂には足を運んでいた。大学の進路選択の遠因になったF・D・ピートの『シンクロニシティ』もフジケイ堂で買ったものだし、あと、20代のはじめごろ定期的に通っていた病院の近くにあったフジケイ堂の支店では、ナタリー・ゴールドバーグの『Writing Down the Bones』の邦訳初版といえる『クリエイティブ・ライティング:<自己発見>の文章術』に出会うことになる。昨年末の記事でもこの本について触れているが、この作品は現時点での私の生涯のベスト3に入る本であり、この本と出会えたことで私は病気になったことを少しはポジティブに捉えることすらできている。

今までの自分を作ってきたいろいろな読書のかなりの部分はフジケイ堂によってもたらされていたと思える。
というわけで2月のとある日に、フジケイ堂にいくためだけに奈良へ行ってきた。自分にとって最もなじみのあった、近鉄奈良駅のそばの小西通り商店街のお店である。

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表の店構えが以前知っているものとは変わっていて、私が奈良を離れたあいだにお店は少しはリニューアルしていたのである。ただし店内の雰囲気は昔のままで、違ったことといえば、閉店セールの張り紙と、そしてレジの周囲に透明のビニールが張り巡らされていることであった。

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こういう日なので、絶対に何か本を買って帰ろうと思うわけで、そういう目で書棚を見やると・・・どういうわけか欲しいと思える本がこういうときに限ってあまり見つからない。なので書棚をウロウロし、普段見なかったような場所まで凝視する。最後の最後だから、こうしてあらためてじっくり丁寧に書棚を見る時間もまた特別なものとなった。

そうして、なんとか自分なりに選んだ本は、結局3冊のみ。
閉店セールで3割引なので、この3冊で847円・・・。最後の最後まで安すぎるだろう、この店は。

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▲ハウツー系の本は相変わらず好きだ。

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▲フジケイ堂で最後に買う本としてこれ以上ふさわしいタイトルの本はないだろうと思って手に取った。

レジの店員さんに、閉店がとても残念なことであり、長いこと営業していてとてもお世話になったことと、感謝の意を述べさせていただく。店員さんも「いろんなお客さんからお声掛けをいただいていて・・・」と言っていた。

店の入り口には以前から「小さな本から 大きな夢を」というキャッチフレーズが書かれていて、よく見たらレシートにも印字されている。それはまさにその通りなのだ、といつも思っていた。この店のおかげで出会った小さな本のいくつかは、たしかに自分に夢を描かせるだけのインパクトを与えられてきたと断言できる。ありがとう、本当にありがとう、フジケイ堂。

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▲レシートには、「またの御来店をお待ちしております」とあって、さらに切なくなる。

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2020.12.31

2020→2021

 まずは自分も周りの人々も健康なままで年末を迎えることができていることに感謝。ひたすら感謝。ここまで健康管理に気を使った一年もないが、本当は普段から心がけるべきことなんだろう。

 コロナ禍って、文字通り世界中の宗教や国境の区別なく、すべての人が同時代のなかで共に向き合う課題となっていることで世界史に残る出来事になるわけだが、よく考えてみたらこういう感染症って時代を問わず発生するので、今回のCOVID-19がインターネットの発達したこの時代に起こったことがある意味ではまだラッキーだったのかもしれないと感じている。これがもし25年前ぐらいに起こっていて、情報の主要な入手先がまだテレビや新聞だけに限られた場合だったら、もっと厄介なことになっていたように思う。

 ところで花王の「ビオレ・ガード 手指用消毒スプレー」という製品をご存じであろうか。

200mlというサイズは持ち運ぶことを意識した製品となっている。ロック機構も備わっているので、不用意に噴射することもない。
 私もこれを買い求めた次第だが、カバンに入れて持ち運びたい場合、もっと収納しやすくて、かつ剥きだしのノズル部分をカバーできるような工夫ができないかを、このごろずっと考えている。
 いつも通勤電車のなかでみかける男性が、カバンについているペットボトル収納用のポケットにこのスプレーを差し込んでいるのだが、たしかにそうしたくなる気持ちは分かる。ただ、できればカバンの内部に収めたいところではあるので、何かを代用してケースのようにして、かつ取り出しやすくするような仕組みができないか、あるいはノズルで指をかけるところのプラスチック部分を削ることで形状をよりシャープにできないか、といったカスタマイズの可能性をぼんやりと考えている・・・そして、いまだにその解決策が見いだせていない状況ゆえに、スプレーをカバンに入れずに机のうえに置いたままだったりするので、本末転倒ではあるのだが。

 そういう「改造」を考えたくなるマインドがわき起こるのは、すぐ影響を受けやすい私が最近読んだ本が、とても楽しかったからである。


F1マシンのデザイナー、エイドリアン・ニューウェイの自伝『HOW TO BUILD A CAR』(三栄、2020年)では、空気力学のプロとして彼が手がけたマシンの設計において、そのときどきに考えだしたことやアイデア創出のプロセスが、工学の知識がない読者にも分かりやすく解説されていく。アイルトン・セナが事故死したときのマシンも彼の手によるものだったが、あの出来事を境に安全性との共存を図る時代的要請とともに様々なルール改定が行われ、その「網の目」をいかにかいくぐり、速さを失わないように知恵を絞るかという、そうした試行錯誤のせめぎ合いが折々のエピソードとともに語られており、ある意味ではビジネス書のような読み方ができる労作である。

 ニューウェイの本のおかげで「空力」の重要性についてあらためて意識するようになった私だが、さしずめ日常生活でそのことを活用できる場面といえば、マスクを着けるときにメガネが曇りにくいようにするため、いかに鼻の頭の部分までマスクを引き上げて折り曲げるかといった「鼻息の空力」について毎朝あれこれと苦慮することぐらいであるが・・・。

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さて2021年を迎えるにあたり、当然ながらコロナ禍の動向が気になることは変わらないが、ひとつお知らせできる個人的なイベントとして・・・ふと思い立って昨年から通い出した水彩木版画教室において、2年に一度、教室展として受講生の作品を合同展示する機会があり、それが2月末から3月頭、大阪・箕面市のミカリ・ギャラリー(サルンポヮク2階)で行われることになっている。コロナ禍において毎月メンバーで話し合いを続けながら実施形態を模索しつつ、講師の先生の指導のもと準備を進めている状況。まだ正式には案内ができないけれども、ひとまず予告として。

2021年こそは平穏な年となりますように・・・。

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2020.10.10

『岐阜マン』の単行本!!!

201010


 10年ほど前に名古屋のシマウマ書房さんで初めて出会ってから魅了されっぱなしのフリーペーパー漫画『岐阜マン』が、エムエム・ブックスから今年の春に単行本として刊行されています!(こちらで!!) プヒャー! こういう日が来るとは・・・! ツカハラさんおめでとう! これはぜひ実物を手に取って欲しいのだ。なぜなら、この作品がフリーペーパーの小冊子の集まりであることが手触りで分かるようになっていて、背表紙が実質存在しておらず、現物オリジナルの雰囲気をそこねることなく、そしてちゃんと本のカタチに綴じられている。岐阜マンの存在感と同様、どこか不可思議な装丁になっているのだ。

 そして何より帯と「あとがき」は岐阜出身の女優・菊池亜希子さんが書かれているのがすごーーーい!(私、おっさんですが「マッシュ」数冊持っているぐらい、密かにずっとファンなんです)。

 こうしてまとまった形であらためて読むと、岐阜のあらゆる場所へ岐阜マンと猫のシェフチェンコはフィールドワークをして楽しんで、その積み重ねの結果が、じつにオルタナティブな岐阜観光ガイドとして成り立っている。東白川村ではみんなで集って幻のツチノコを探す「つちのこフェスタ」なんてイベントがあったり、飛騨古川では廃線の鉄道レールの上をマウンテンバイクで走れるルートがあったり、岐阜のあちこちに気になるスポットが増えていく。

 岐阜県というひとつのエリアを丹念に歩き回って取材されている作者ツカハラさんは、きっといつも岐阜マンたちの姿を感じながら道中を楽しんでいるんだろうなぁと想像する。フリーペーパー漫画のひとつひとつは単発で作られるが、コツコツと積み上げていくことで、気がつけばとても大きな山を登っていることになる。その持続力、岐阜への愛、そこがすごい。

 岐阜マンファンの次の夢は、念願のFC岐阜とのコラボレーション!?(笑)

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2020.08.13

「COVID-19とスポーツ応援」@HarukanaShow のことなど

ひさしぶりにハルカナショーで2回にわけてトークをさせていただきました。テーマはCOVID-19とスポーツ応援。
こちら)と(こちら)を参照。

 毎年やっているマラソン大会の応援については本当に何とも言えなくて、いまだ考えがまとまらないので改めてブログで書くことがまだできていないのだけれども。いったいどうなることやら・・・。
 そして今回、Ryutaさんと話をさせてもらうなかで、アメリカの大学スポーツのありかたが、「場合によっては、一番身近に応援できるスポーツチームとしての存在」というものであるという認識に、なるほど~!となった。NCAAという枠組みが盛り上がる理由の一つはそこかもしれない(私が子どもの頃、NCAAブランドの商品が出回っていたので、その規模感というか、盛り上がりっぷりはそれとなく知っていた。ウィキペディアにもそのことが少し載っているが)。国土が広いから、自分の住むエリアから遠く離れた大きい都心部のプロスポーツチームより、むしろ近所の学校のスポーツチームのほうが応援したくなる気持ちが高まる可能性。アメリカは「学校の部活動」がやはり重要なのかもしれない。ヨーロッパ的な「地域のスポーツクラブ」も当然あるのだろうけれど、アメリカ人にとっての部活動の感覚は、日本のそれとどこかでつながっていて、ある側面では異なっているような気もする。このあたりは実際に住んでみないと感じ得ない部分かもしれない。

 そういえば『ライ麦畑でつかまえて』の主人公のホールデンも、高校ではフェンシング部のマネージャーをやっていて、対外試合に向かうべく部員と移動するときに、地下鉄に用具を忘れてきて試合ができなくて、帰りは皆から冷たくされて・・・となり、それであの小説のオープニングは、ホールデンが予定より早く高校の寮に戻ってきたので、全校挙げて応援に詰めかけているフットボール部の重要な試合の様子を遠くから眺めるところから始まる。アメリカの学校文化を語るうえでの部活動という「枠組み」とホールデンとの微妙な距離感をサリンジャーは描いていたとも言えるかもしれない。

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