カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2026.05.23

『自分のために本をつくる ZINE&リトルプレス ビギナーズガイド』(石川理恵・著、グラフィック社)という本のこと

 自作のフリーペーパーを最後に印刷して配ったのがそろそろ10年前になることに気付いて愕然としている。マジか。この10年のあいだに何があったのかうまく思い出せない。コロナ禍の数年間はもう記憶に残したくないぐらいだし、引っ越しが一回あって、ほかに思い浮かぶことといえば最後にロンドンに行けたのが2017年の夏で、その後にひょんなことからスキーに一人でハマったり、マラソン大会の応援企画を冬場には楽しくやり続けていて、そして春にはKYOTOGRAPHIEのボランティアをこの3年間はがんばっていることぐらいで、他に何かあったっけとなり、あっという間という言葉では追いつけない速度感に苛まれる。

 そんななか最近になって、グラフィック社の編集者の方から連絡をいただいた。2012年に出版された『自由に遊ぶ、DIYの本づくり』をもとにリニューアルした本が計画されるとのことで、当時その本に掲載されていた、私の最初のZINE『DIY TRIP』の制作事例を取り上げた取材記事の再録についての問い合わせだった(正確にいうと、2011年に出た『リトルプレスをつくる』との合本・増補改訂版ということになる)。

 私としてはまったく問題ありませんと二つ返事でオッケーを出したものの、しかしそれにしてもだ、この『DIY TRIP』の作者自身が、もうこの10年間たいしたものを作って発表していなくて、その点についてはひたすら恐縮するしかない。再録にあたり、あらためて本文の校正をする機会をいただいたのだが、あまりに自分が当時と違って「現役感」に乏しいので、ページの隅にちょこっと入っているフリーペーパー『HOWE』の紹介部分は、私のふがいない実状に沿って少し手を入れさせていただいた。弱気なアピールである。この新しい本の読者さんがせっかく『DIY TRIP』や『HOWE』にもし興味を持ってもらっても、肝心の現物が手に入りにくいわけで、そこはちょっと申し訳ない気分になって、クヨクヨしている(フリーペーパーについては直接連絡をもらえたらなんとかします)。

 こうして『自分のために本をつくる ZINE&リトルプレス ビギナーズガイド』(石川理恵・著)という本が、このたび4月末にグラフィック社から刊行されたのである。ゼロから想いを立ち上げて、あれやこれやと冊子の形にし、人に読んでもらうまでのあらゆるステップが丁寧に解説されていて、これはZINE/リトルプレスの制作・流通を扱ったものとして現代の日本で手に入るなかで最良のテキストブックであると強く思った。

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 急いで付け加えるが、ZINEをつくるという行為にまつわるDIY精神論的な観点からいえば「そもそもテキストブックなんて不要だろう」という考え方は当然あるだろうし、「お手本」や「効率性」なんて気にせずに試行錯誤して自力でやり方を見出すことのほうが、より大事なのではという意見も、もっともだと思う。

 ただしそういうツッコミの部分を心の片隅に置きつつも、それでもこの本は良いテキストブックになっていると考えるし、そして感謝の気持ちもわき上がってきて、それはきっと、自分自身が「停滞している作り手」だからなのかもしれない。これは私個人の事情ゆえに基づく感慨みたいなものであって、「私がボヤボヤしていたこの10年のあいだに、ZINEづくりを取り巻く環境がこういうふうに変わりつつあるんだな」ということを余すところなく伝えてくれる、充実の改訂っぷりがこの本には詰め込まれている。自分が関与しているという「贔屓目」があるのは仕方ないかもしれないが、とかく著者の石川理恵さんをはじめとして、この本をリミックスして改めて世に放ちたいと思った人々による、ZINE/リトルプレスのシーンを活性化させたいという熱い気持ちが、自分には「リハビリ」のように効いてくる、ということだ。
(そして一方で、時代的にアナログ手作り出版物としてのZINEというものが広く認識され実践されつつある現況だからこそ、こうした出版企画が可能になっている、ということについても思うところはいろいろあるわけだが)

 なにせこの書名の冒頭には「自分のために本をつくる」と書いてある。これは、やもすると挑発的なフレーズだと感じる。「なぜZINEを作るのか」と問われるとき、それが「メディア」であるがゆえに、自分以外の人々に読んでもらいたいという、外側からみてもわかりやすい動機が絶対的にあるはずで、しかしその本質のところでは、ただ一人この世をただよう我が身のために作ることが奥底に横たわっていることを示唆している。結果として誰からも読まれないかもしれないし、幸運にも読まれたとしても無言でお互いの時間はただ過ぎていくだけかもしれない。でも少なくとも何かはこの世界のなかで作られて存在していて、それを果たした手応えは、自分のためのものとして最後に残っていく。そんなことをタイトルから思い浮かべた。

 だからこそ、自分のために作るうえでも、走り出そうと蹴り出した足の、その足が接する地面のように、誰かの言葉や仕事を求めたくなる。その土台や支点があってこそのDIY的なる試行錯誤の旅がはじまるような感じを認めておきたいのである。

 それはちょうど、私がインターネットという言葉をまだ知ることがなかった1995年の春にふと立ち寄った、近鉄奈良駅の北側にある東向北商店街の、今は営業していない豊住書店(今回ちょっと気になって調べたら江戸時代から存在していたとっても古い書店だったと知って今さら驚いている)の奥の書棚にぎっしりと並んでいた「別冊宝島」のバックナンバーから『新・メディアの作り方』を手にとってページをひらき、そこに『俄』という三つ折りのフリーペーパーの書影の写真を見つけたときに何らかの衝動性が電流のようにピリッとやってきて「自分でも作れるんじゃないか」と感じ、本を買ってその日の夜にワープロ専用機で『HOWE』を書きはじめたときのことを思うわけである。

 誰かがこのあたらしい本で思わぬところからインスピレーションを受けるかもしれないのであれば、その可能性をできるだけ広げていきたい。自分がそうだったように。

 そして今回この文章を書きながら改めて思い至ったのは、そもそも『DIY TRIP』をつくるきっかけとなったアメリカへの旅だって、もともとは『Stolen Sharpie Revolution』という正真正銘の「ZINEづくりガイドブック」を読んだことが始まりにあるわけで、つまり私にとっては「一冊の本にインスパイアされる」というのが、いろんな行動につながる、最初に起こる火花みたいなものになりやすいのかもしれない。

そういう意味では今回のこの本『自分のために本をつくる・・・』だって、クヨクヨしている自分がふたたび何かを語りたくなるきっかけにしてもいいわけである。そう思うことにする。

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 そして偶然にも、上記の文章でしめくくってこの記事をアップしようと準備していた矢先、つい昨晩に思わぬところでZINEのことに出くわした。

 人生の成り行きのアヤで、私には文化人類学に関わりが深い、ちょっと変わった友人知人恩人(ホメてます)が多数いるわけだが、そんな彼らが企画している「井戸端人類学」と称する研究会に出向き、そこで久しぶりにKさんと顔を合わせた。この日の発表者である彼はタイと日本を行き来し、多国籍の患者をケアする施設で介護職として奮闘した経験から文化人類学にたどり着くのだが、一筋縄ではいかない彼の人生譚、そしてさまざまな看取りや別れを経て彼なりに感じたタイと日本の死生観について、お手製のグリーンカレーをみんなで食べながらその語りを共有するという企画だった。

 そんな破天荒なKさんは私に会うなり、お久しぶりの挨拶もそこそこに「最近、ZINEをつくりましたよ!」と、彼がこの日取り上げたテーマにもとづく、タイでの義母の死や、ご自身の親の遺骨をメコン川で散骨した話などを写真とともにつづった冊子を紹介してくれたのである。私はそもそも、ZINEを作っていることをKさんに話したことすらも忘れていたほどなのだが、こうして彼にとって私は、「何かをつくって、人につたえる」手段のひとつとしてZINEを選ばせるきっかけの一部を作ったような存在であったことを、図らずも知ることとなった。つくづく人生はいろんなやり方で刺激を与えてくれて、何かを思い出させてくれる。

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2026.02.01

ただひたすらに、驚きをもって読んだ本:『コードブレイカー:エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史』

 戦時下のアメリカのある都市に、両親が共働きの家庭があった。家族で食卓を囲みつつ、母親も父親も、その日の職場であった出来事については何も語ろうとせず、お互いそれぞれの仕事についてはなんだかとても多大なプレッシャーを抱えているようなのだが、そのことで親どうしが言葉を交わすことは決してない。
 しかしその実、二人がともに関わっている仕事は、自分たちが暮らすこの国の命運を明日にでも左右させかねない役割を担わされているものだった。そんな状況にあることを、彼らの子どもたちは察知していたかどうか・・・

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 今回のブログで取り上げるのは2025年に読んだ本でダントツに面白かった本で、ジェイソン・ファゴン著、小野木明恵訳『コードブレイカー:エリザベス・フリードマンと暗号解読の秘められし歴史』(みすず書房、2024年)である。
 
 私は読んだすぐ直後に、本のなかに挟まっていた「読者カード」のハガキに感想と賞賛をびっちり書いて出版社に送ったほどであり、驚きとスリリングさが最後まで持続していった怒濤の読書体験だった。
 
 まず急いで付け加えるが、「驚きとスリリングさ」というのは自分自身が単に「そんなことも知らないのか」っていうレベルの歴史オンチなまま歳を重ねたせいでもあるのを先にお断りしておく。無知ゆえに些細なことにまで「そうなのか!」となってしまいがちではあるが、それにしてもこの本は、厳密な資料収集と分析に基づくれっきとした歴史書でもありつつ、その一方でジャーナリストとしての著者による書きっぷりによって、エンターテインメント小説のようにも読めてしまう。この絶妙なバランス感が、最後まで飽きさせずに読み通すことを可能にしている。

 もともとアメリカにおける暗号解読の歴史においては、ウィリアム・フリードマンという人物が筆頭にあげられ、「国家安全保障庁:NSA」(近年におけるエドワード・スノーデンの存在によって、自分のような一般人でもその名を強く認識するようになった組織だが)の生みの親のような位置づけで語られているとのこと。
 で、本書はそのウイリアムの妻であるエリザベスを主人公として取り上げている。エリザベスもまた共に暗号解読の手法を産みだし、そしてこの夫妻が育てた後輩たちとともに、驚異的な働きによって世界大戦のなかで暗号解読を成し遂げたのだった。しかし歴史のアヤというか、そこにはジェンダーの問題もあったのだろうけれども、近年にいたるまでエリザベスの存在にスポットライトがあたることはなく、この著者による綿密な調査により、機密解除によって公開された資料や、残された書簡、インタビューなどを通じてこのエリザベスのたどった数奇な半生が示されることになったのである。

「著者まえがき」ではこのように述べられている。
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エリザベスとウィリアムのフリードマン夫妻は30年間にわたり、子ども二人を育てながら、二つの大戦時にやりとりされた何千もの通信文を解読し、密輸ネットワークや、ギャング、組織犯罪、外国の軍隊、ファシズムについて秘密のほころびを探り当てて突破した。二人はまた、暗号学(クリプトロジー)なる新たな技術を考案し、暗号作成の手法を一変させた。夫妻の慧眼から得られた成果は今日でも、巨大な政府機関から、インターネット上の個人のごく小さな活動に至るありとあらゆることの根底に潜んでいる。しかも夫妻は、数学の素養がほぼないにもかかわらず、これをやってのけたのだった。二人の生活を構成する基本単位は、方程式ではなく言葉だった。二人は心底、言葉を愛していた。言葉を練り上げ、引きちぎり、ひっくり返して格子やマス目や細長い紙片に並べ、白いメモ用紙に何行にもわたり書き連ねた。
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 たしかに暗号というと複雑な数理的処理が求められる印象が強いのだが、この本そのものも、ほとんど数学的な話が出てくることなく、限りなく平易な言葉で暗号解読のプロセスが示されているのが実にありがたい。

 大学を出たが将来に展望が見いだせない23歳のエリザベスは仕事を求めてシカゴを訪れるも、そこでも芳しい成果は得られなかった。失意のうちに故郷へ帰る前に、せっかくだから記念にと、当地の図書館でシェイクスピアの稀覯本を観てみようとなったことがきっかけとなり、とある大富豪の関わる風変わりな研究所にたどり着いて職を得ることになるというミステリー風味満載のエピソードには「マジで!?」となる。そしてそこで彼女はウィリアムと出会うことになるわけだが、そこから二人で暗号解読という未踏の作業に取り組んでいくことになる数奇なプロセスの端々にも「そんなことってあるわけ!?」と何度もつぶやいてしまいたくなる。

 結果的にエリザベスは沿岸警備隊に所属しながら、禁酒法時代には密輸船による暗号交信を解読する役割を担いつつ、やがてその能力や経験が軍事部門にも活用されることとなり、陽の当たらないオフィスで、弟子たちとともに敵国の軍事暗号文の解読を一手に引き受けていく。

 暗号解読ときくと、まずもってナチス・ドイツの暗号「エニグマ」の解読ということで、コンピューターの父と呼ばれるイギリスのアラン・チューリングを描いた名作映画『イミテーション・ゲーム』のことを思い出すが、同時期にアメリカ側でも、このフリードマン夫妻による解読が成功していたことが分かる。

 本書で取り上げられる主要なエピソードのひとつとして、ナチスが南米に傀儡政権を作ることをもくろみ、アルゼンチンに武器を輸出する計画のすべてが、エリザベスの手によって完全に解読されていたことが紹介されている。
 暗号解読で重要なことは「暗号が解読できていることをいかに敵に悟られないようにするか」という点であり(映画『イミテーション・ゲーム』でもその問題については観る者に深い葛藤を突きつける切ないエピソードを通して描かれている)、なのでナチスによるアルゼンチンとの交渉も、その進行過程は逐一エリザベスによってすべて筒抜けとなっていたが、そのことを気づかせないようにしながら敵国の狙いを阻止するためにどのように動くのかは、非常にギリギリのところの判断が必要となる。

 結果的にわずかなほころび(というか、ドジな人)を突いて、水際で武器の輸出入計画を阻止できたのだが(その作戦に関与したイギリス軍のやり方がちょっと失笑してしまうほどの強引さだったにせよ)、当然ながら初めて知りえる舞台裏の秘史に「マジで!?」をここでも連発しつつ、ヒトラーの野心を打ち砕くひとりのアメリカの母親、という緊張感あふれる構図は読んでいてひたすらハラハラする。
 
 と同時に、アメリカにとってのもうひとつの敵であった日本軍の暗号通信も、やはりエリザベスの解読によってその作戦計画や行き交う情報はことごとく読み切られており、その影響で多大な戦死者があったことも日本人の読者としては直面させられるわけである。

 そしてエリザベスもウィリアムも、第二次大戦期にはそれぞれが別々の暗号解読に従事していたわけだが、極秘の機密情報を扱う以上、たとえ夫婦間であってもお互いが知り得た話を伝えたり相談しあうことはタブーであった。さらにウィリアムのほうは激務によって心身ともに衰弱していき、その原因は容易に想像できても、それ以上のところでどうにも力になれずに見守るだけしかできない苦渋のエリザベスもまた、自身の任務を抱えながらの過酷な日々を過ごしていた。

 先に引用した「著者まえがき」にあったように、エリザベスとウィリアム、そして子どもたちとのあいだにおける「言葉を愛する心」は残された手紙の端々から伝わってきて、そしてそうした個人としての「言葉をめぐる好奇心や探求心」が、巨大で醜い政治的軋轢や敵意に満ちた戦時下において、歪んだ思惑の際をすり抜けて急所を突いていく。その目的や役割は当然ながらポジティブなものではないが、一人の好奇心旺盛な女性が人生を賭して取り組んだその驚くべき粘り強い仕事を、この本は冷静な筆致のなかに深い敬愛の念を込めて讃えている。

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2026.01.02

津村記久子と大神神社とキング・クリムゾン

2026onenga

今年もよろしくおねがいします。

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初詣は今年も奈良県桜井市に出向き、大神神社へ行った。
自分はずっと奈良県で生まれ育ったが、昔は大神神社のことは何も知らず、その存在を意識して行くようになったのは京都で一人暮らしをしてからだった。わりとパワースポット的なものに興味があり、その流れで行ってみて、たしかに良い空気感のある場所だなぁと感じたのがきっかけである。

そこから毎年正月にはここで祈祷をしてもらうようになり、それなりに平穏無事に楽しく生きているので、いつもいつもありがとうございます~というノリで今年も新年早々大神神社に行ってきたのである。

で、京都からだとそれなりに小旅行といえる距離感で、長く電車にゆられることになる。なので車内では本を読むわけだが、今回持ってきたのは津村記久子が2012年に発表した小説『ウエストウイング』の文庫本だった。

この本を選んだのは「津村記久子でまだ読んでいない作品はどれだろうか」とふと思い立って、大晦日に書店に行って検索機で調べ、手ごろな文庫版で在庫があったのがこの本だけだったという次第であり、正月に読もうと思って買っておいたわけである。

そうして、奈良へ向かう電車のなかで何の気なしにこの文庫本を読み始めて、75ページの最後のところにさしかかると、こんな一文があった。

「二つ年下の彼女とは、初詣にどこへ行くかという話をした。彼女の夫の実家が奈良なので、毎年大神神社に行くのだそうだ」

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「ふおぉ~、偶然ぐーぜん! 津村センセイ、いま僕は、その大神神社に向かってるって~!」

ということで、この軽いシンクロニシティ的な偶然にちょっと驚いて、なんだか新年早々いいことありそうだなと思った。

で、

津村作品ではしばしば、唐突に説明抜きにサブカルチャーの固有名詞が文章のなかに出てくることがあり、分からない人にはなんのこっちゃ、となりかねないワードが効果的に差し挟まれることがある。

それで、さきほどの偶然の余韻をすこし引きずりながら、さらに読み進めて、そのあとすぐの99ページ目。

物語の進行上、ここでは、ある「顔」をめぐっての描写説明が入るのだが、そのなかで

「その顔が『クリムゾン・キングの宮殿』のジャケットに似ているのではないか、」

といった具合で、キング・クリムゾンのファーストアルバムである『クリムゾン・キングの宮殿』というワードがこのページだけで4回登場する。


実は私はこの本を読みながら、電車のなかでずっと聴いていたのが、キング・クリムゾンの曲だけを集めた自作プレイリストだったりする(笑)

Kyuden
「どひゃー!」

そのプレイリストは惜しくも『宮殿』に関わる曲は入っていなくて、昨年11月ぐらいに思い立ってサブスクで検索して集めた、クリムゾンのライヴの定番である『トーキング・ドラム』と『太陽と戦慄パート2』の2曲が連続して演奏される、さまざまな年代のライヴ音源だけを集めたもので、ひたすらこの数週間はこのプレイリストをループで延々と聴き続けることが多かったのである(自分のなかで、この曲にはある種のセラピー的な効能があるんじゃないかとすら思っていて、聴き飽きない)。

そんな状況で、この小説を読みながら、「えええええクリムゾンってー!!」と、ひとりでまさに「戦慄」を覚えていた。

そんな正月でした。
ほんと、いいこと起こってほしい。シンクロニシティ大歓迎。

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2024.12.14

取引先の営業さんが書店経営を妄想させてくれる件

私の職場にはいくつかの書店の営業担当の人が出入りするのだが、私は業務的に直接関わることはないため、普段そんなに話をする機会はない。

それが、ある日たまたま某大型書店の営業さんとしばし立ち話をするという状況になり、ふいに「これからの書店のありかたについて、何か思うところはありますか」という、唐突にデカいテーマの話題を振ってきたのである。

なので私も調子に乗って、思いつくままアイデアをダラダラと述べた。

例えば、書店の「有料ファンクラブ制度」はどうか。書店そのものに深くコミットしたい消費者はたくさんいると思うのだ。
そういうファンだったら、バックヤードの作業の一部とかをボランティアでもやってみたい人がわりといるんじゃないか(そんな悠長なことをやっている場合じゃない! と現場の書店員さんは思うだろうけど)。

ファンクラブ会員だったら、自分が買って読んだ本についてのレビューや的確なフィードバックを、出版社側にダイレクトに伝えることに前向きに取り組むだろうし、他の会員さんたちの感想文だって読んでみたくなる。
微力ながらも出版文化へのささやかな貢献を果たしたいというニーズは、読書好きならすごくあるはずなのだ。

あと私が力説したのは、最近ではスーパーマーケットに自動運転の掃除機マシンがウロウロし、ファミレスでは配膳ロボットが動き回っているような状況なので、そういう仕組みを応用し、週に一回でいいので、閉店後の大型書店のすべての棚の状況を画像化してスキャンできる仕組みをつくり、それらをネットで閲覧できるサービスはできないだろうか。別にこれは全店舗でやる必要はなく、最も売り場面積の大きい店舗の棚だけで充分である。
ただ、そこで知り得た情報をもとに、当該の本をその書店ではなく他のネット書店や古書店で発注してしまう客が多くなるかもしれないのだが、、、でもこうしたサービスは、忙しくて書店を回れない人や、とくに地方に住んでいる人にとってすごく有用だと思うわけである。リアル書店に足を運ぶ意義のかなりの部分が、そうした「最新の棚の状況を見ながらウロウロし、未知の本との出会いを求める」ところにあるからだ。

以上のような妄想めいたネタを語って聞かせて、営業さんも立場上「なるほどー」と話を合わせてくれて、そのときはそんな感じで話が終わった。


で、数日後にその営業担当さんが、私にピンポイントで話しかけて「こんな情報を持ってきました」とやってきた。

それは、トーハンによる書店開業パッケージ『HONYAL』(ホンヤル)がサービスを開始した、というリリースだった。

日本の書籍流通において、トーハンをはじめとする取次業はその独自の立ち位置でしばしば議論されることがあるが、このたびの新規サービスというのは、一言でいえば「小規模でも本が売れるようにハードルを低くしてサポートする」というものだ。

詳しくはウェブサイト(こちら)を見ていただくとして、要するに一般的な意味での書店が減少していくなか、個人書店だったり、あるいはカフェや美容院といった「書店じゃない業種」のところにも書籍の販路を一定のクオリティで増やしていくことで、「本と消費者の出会う場所を少しでも増やしていく」という狙いをもって展開していくようなのだ。

なるほど・・・と思ったが、

Inzaghitukkomi
いや、ちょっと待ってよ、なんでこのハナシ、僕のところに持ってきたん!?

つまり、僕にインディーズ書店をやれっていうことか!? 

「こいつは本屋をやりたがっているだろう」って思われてんのか!?

なので、トーハンの新しい動向そのものより、この営業担当さんの動きのほうに軽く衝撃を受けたわけである。

そんなわけで、このごろの私はこの営業さんのなかで「実は本屋をやりたがっているかもしれない事務員」と見なされつつ、そして私は私でふとした拍子にキテレツな本屋を営む妄想にかられながら日々を過ごしている。

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2024.10.03

ノートの端にある日付の記入欄が空白のままであることが無性に好きである、というよくわからない話など

本を読んでいて、思わぬところで、子ども時代からずっと自分のなかに持っていた、なんともいえない恍惚感をともなう、密かな「こだわり」のことを図らずも思い出すこととなった。

それは何かというと、ノートのページの上部にあらかじめ薄く印刷されている、「日付を書く欄」のことなのである。

青白く、限りなく薄いインクで印刷されている「Date / / 」といった、あの部分である。

あの部分が、「何も書かれていないままの状態」であることを、私はとっても好んでいたのである。その状態そのものが、なぜか子どものころから無性に、大好きなのであった。今でも好きだ。

Date

このあいだ『限りある時間の使い方』(オリバー・バークマン著、高橋璃子訳、かんき出版、2022年)を読んでいたら、こんな一節があった。

哲学者のアンリ・ベルクソンが『時間と自由』という本のなかで書いたこととして紹介されていたのだが、我々は優柔不断な状態を好むということで、「われわれが思いのままにする未来が、ひとしくほほえましく、ひとしく実現可能な、さまざまの形のもとに、同時にわれわれに対して現れるからである」

その記述を読んだとき、なぜ子どもの頃から自分はあのノートの端っこにある「DATE / / 」の空疎な印刷がたまらなく好きだったのかについて、決定的な答えが図らずも説明されている気がして、ゾワゾワッとした。

そうなのだ。
私はこの「何も書かれていない日付欄」に、「ひとしくほほえましく、ひとしく実現可能な」さまざまな「未来の一日」を感じていたかったのである。きっと。

なので子どもの時から、このノートの端っこにある「Date」の部分をひたすらボーッと眺めるひとときを、何らかの意志をもって「好んでいた」わけだが、まぁ子どものときってそういう妙なところへの途方もない嗜好って、わりとあったりする。今になってようやく、この本によって「うっ、そういうことか・・・!」となっている。

でもそういう「将来へのありもしない、謎めいた“郷愁”」ともいえそうな、「あったかもしれない未来の人生への、無条件の途方もない憧憬」みたいなものを「優柔不断ぎみにひきずる感覚」は、結局のところオトナになった今でも未だにずっと、どこかで求めている。それがやっかいなところでもある。

(今回のこのネタ、果たして伝わるのかどうか、もはや分からないのだが、気にしないでおく)

ちなみにこの本、ほかにも

「僕たちが気晴らしに屈するのは、自分の有限性に直面するのを避けるためだ」

なんていうことをサラッと言ってて、ものすごくグサグサと刺さる。

それとか「宇宙的無意味療法」というのが本書に出てくるが、これは大昔から私が提唱している「天文学セラピー」(こちらの過去記事)と同じことを言っている。日々の不安や心配事は宇宙から見ればまったくどうでもいいことのように思えてくる、というやつだ。

そんなわけで最近折に触れてページをめくってこの本を再読して、気になったところはメモっている。

話は変わって宇宙といえば、『宇宙する頭脳:物理学者は世界をどう眺めているのか?』(須藤靖・著、朝日新書、2024年)も最近読んだ本ではなかなか楽しかった。著者の若々しい文体と、脚注がやたら面白いという、そういう意味でも印象深い本だったが、ガチガチ文系の私でもぐいぐいと宇宙論にひきこまれていく。
「この宇宙において地球が誕生したという事実は、その後地球で生物が誕生しようとしまいと変わることのない断固たる事実である。仮に生物、そして人類が誕生しなくとも、この地球は実在しているのだ(ただし、それを確認してくれる知性はいない)」

「我々人類が存在するおかげで、この宇宙(さらにはマルチバース?)の実存が確認されている事実は確かだ。その意味において、我々はこの宇宙の実存証明に関して信じがたいほど重要な貢献をしている」

なんていう話は、長年「かゆいなー、でも、かけないなー」と思っていた脳味噌の隅っこを気持ちよくガリガリとかいてくれるような爽快感すらあった。こういう話をもっと子どもの時に授業で聴きたかったし考えたかった。

ーーーーー
それと、もうすっかり10月になってしまったが、8月にひさしぶりに「Harukana Show」のラジオで2回連続で話をさせてもらい・・・
「No. 698, Aug. 9, 2024, 冷茶。Pink Floyd『狂気』発売50周年記念イベントと四角錐 with Tateishi」こちら
「No. 699, Aug.16, 2024, KYOTOGRAPHIE 2024でボランティア、アートでつなぐ with Tateishi」こちら

ということで、本当に久しぶりにグラフィティの話をしたり、相変わらずなピンク・フロイドへの偏愛を語り、そして今年のマイブームとなった京都国際写真展ボランティアのことを語らせていただいた。
あと以前から注目しているWisely Brothersの曲を選ばせていただいた。イリノイ州のアーバナの街角で、コミュニティラジオで彼女らの音楽が流れたのだと思うと、ほっこりする。

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2023.12.25

意志決定理論「エフェクチュエーション」とは、DIY精神のことなんじゃないか & 今年もありがとうございました

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『エフェクチュエーション:優れた起業家が実践する「5つの原則」』(吉田満梨・中村龍太著、ダイヤモンド社 2023年)という本を読んでみた。

そんな結論になることを予想して読んだわけじゃないのだが、私なりにこの本で言われていることを強引にまとめると、結局のところエフェクチュエーション(Effectuation)とされる思考様式は、私がずーーっとこだわっている、Do it Yourself、DIY精神そのものじゃないかということだった。

まず本書では、従来の組織がとりがちなアプローチとして「コーゼーション(因果論)」が紹介される。市場調査・マーケティング分析などによって利益の見込みを立て、それに向けて事業計画が練られ、実行にあたっての資源を確保し、目標に向かって突き進む。「まぁ、どこでも普通はそうするよな」とも思える合理的で一般的な物事の進め方だとは思うが、このスタンスでは不確実性の高い現実世界において想定外の出来事や使える資源に制限がでてきたりすると、とたんに行き詰まるわけである(そしてまた事業計画をめぐる会議や下準備が繰り返される・・・と)。

そこでエフェクチュエーション(実効理論)という考え方になるのだが、これは卓越した起業家たちの意志決定プロセスを分析した学術研究をもとに編み出されたとのことで、次の5点の思考様式を特徴としている。

「手中の鳥の原則」
「許容可能な損失の原則」
「レモネードの原則」
「クレイジーキルトの原則」
「飛行機のパイロットの原則」

・・・と言われても「なんのこっちゃ」と言いたくなる名前がつけられているわけだが、本書の戦略としてこうして各原則につけられたユニークなネーミングが読み手の好奇心をさらに刺激するという意味で、マーケティング的にはうまくいっている気がする。そして表紙の装丁のポップなデザインも効果的で、書店で見かけたらつい手に取ってしまう策略に私もひっかかったわけだ。

で、今回のブログ記事を書くにあたって初めて知ったのだが、これらの原則については、実は本書を刊行したダイヤモンド社のホームページで、著者自身がものすごく詳しく解説しているのであった(こちら)。はっきりいってこのサイトの記事を通読すれば、本書の主要なエッセンスはタダ同然ですべて吸収できると思えるので「お金返して!」とさえ言いたくなる(笑)。
ちなみに本のほうでは、これらの原則の解説のあと、残り3分の1ぐらいのページ量を使ってひとつの事例が紹介されているのだが、これがあまりにも特殊事例すぎて、なんだか自分としてはあまりピンとこないのであった。

ともあれ、私がDIY精神として重視している考え方と、このエフェクチュエーションが通じていると思うのは「手持ちの材料や条件を創意工夫して活用し、どのような状況にも柔軟に対応できるように備える」ということである(なので、必要に応じて昔ながらのコーゼーション的にいってもいいわけだし、状況に応じてエフェクチュエーションに切り替えて対応していく、というスタンスが推奨される)。

たとえば実際にDIY的なものづくりでは、あらかじめ設計図は作るだろうけれども、いざ作り出すと想定通りにはいかなかったりもする。そこで「設計図が悪い」と、作業を止めて振り出しに戻るというよりも、ひとまずアドリブやアレンジを加えて、使えるものを駆使してとりあえず完成までこぎつけてみることもできるわけだ。そうすることで、当初は思いもしなかった新たな魅力や愛着を覚えることもあるだろうし、それらの一連の体験をふまえて今後はより望ましい活動に結びつけられるかもしれない。

そんなわけで、古くて新しいDIYスピリットの発想や志向といったものは、硬直した組織を改善するうえでも使える思想なんだということを、図らずも再確認させてもらった気がする。


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さて2023年の本ブログも最後の記事になりまして、少ない本数ながら今年も読んでいただきありがとうございました。

個人の目からみても、そして世界のあちこちからの目を通しても、いろいろと落ち着かない日々が続いているのですが、自分の周りの平穏をまず祈るような気持ちで日々を生きて、そして時間を削りながらも書き続けていくしかないのだなと、あらためて思う日々であります。

「今年のシメの一曲」は、ラブ・サイケデリコの『All the best to you』を選びます。このあいだ彼らのライヴを観てきたのですが、今年リリースされたこの新曲も披露されて、デビューして25年以上経ってもまったくサビつかない「デリコ節」に熱いものを感じたのでした。

この曲のミュージック・ビデオは市井の人々のさまざまな表情や街の何気ない風景が続くだけなのに、なんだか少しだけ勇気づけられるような、そんな感じがわき起こる不思議な作品です。

それではみなさま、よい年末年始を。

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2023.10.23

学生時代に読んだ本のなかで(ある意味で)最もショックを受けた本のこと

勤めている大学の図書課の企画で、すべての事務部署の職員スタッフが一人一冊の本ないし映画をオススメしてポップを描くという試みが行われた。

学生さんに勧めたい本ということで考えると、いろいろ迷うところがあった。
しかし最終的には「まぁ、学生さんはそもそもこんなコーナーに注意を向けることもなかろう」と思えてきて、気楽なノリで「自分が学生時代に読んだ本のなかで何が最も衝撃的だったか」をふりかえり、こんなポップをザザザッと描いてみた。

Img6310
(ひさしぶりにちゃんとイラストらしきものを描いた気がする)


紹介した本は、これ。


Img2309

これは図書館に所蔵があったので、古い本だがそのまんまの状態で展示されている。

この本がどういう内容のものかを説明するのはとても難しいのだが、「マジメな心理学の学術研究論文集という化けの皮をかぶった、パロディお笑い本」である。
いかにもありそうな心理学の論文がつらつらとページを埋めているのだが、どれもこれも「それっぽい感じ」で、よく読むと完全にボケ倒したノリの、人をおちょくるパロディのオンパレード。

つまり、ある意味では危険な本でもある。「研究者のさじ加減ひとつで、どんなデタラメなことを書いても、研究論文にするとそれらしく思えてきて、パロディをパロディだとは認識されなくなるポイントがあるかもしれない」ということを警告するかのような内容でもあるからだ。

若い頃の私はわりと真剣に心理学の勉強をしていたもんだから、この本にはおおいに動揺させられた。心理学だけに限らず、広く「学術研究」というものになんとなく幻想を抱きがちな若い人にとっては、よい意味でカウンターパンチを喰らわしてくれるような、そういう意義がある本だと思っている。

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2023.08.14

国会図書館のデジタルアーカイブ検索で遊んでみたら、父親の卒業制作までたどり着いた話

国立国会図書館デジタルコレクションというページ(こちら)では、所蔵しているデジタルコンテンツを次々とテキスト化しているようで、それらを検索可能な状態で提供している。
基本的にはものすごく古い時代の書物あたりがメインになっているが、たとえば自分の祖父母とかご先祖の名前を入れてみると、いろいろと楽しめるはずである。

私の場合、祖母の名前ではヒットしなかったが、祖父と思われる人物は数件ヒットしたのである(同じ漢字を途中まで含む、似た名前の別人もヒットするわけだが)。両方の祖父ともに特に有名人というわけではないのだが、長い人生においては、たとえば公的機関が出すような文書だったり、地域における公共性の高いちょっとした読み物みたいなものには、ときに名前ぐらいは載ったりすることもあるだろう。

そしてそういう非常に細かい情報たちが、こうしてネットで探し出せることに「すげぇぇぇ」となる。ここは世代的な問題だろうが、未だにインターネットにたいしては、そういう気持ちになってしまう。すげぇよ。

で、一般ユーザーの場合は、「この文書に、この検索キーワードがヒットした」というレベルまでしか分からないので、当該のページそのものをネットで閲覧することはできない。本当にデータが欲しい場合は別途、手続きが必要になる。

私の場合は「これは」と思う資料について古本サイトで検索すると、実物で入手できるものがあったので、ちょっとした記念に2つほど発注してみた。
ひとつは父方の祖父についてのもので、地域の郷土史家らしき人々が戦後に編纂した重厚な本だった。地元の産業界の詳細な紹介をしているコーナーに関係者の名前が細かく列挙されており、電力会社に勤めていた祖父の名前を見つけることができた。
もうひとつは母方の祖父についてのもので、実は某地方の旧制高校の出身だったようで(私の母もその認識はなかった)、その高校の同窓会が編纂した書物の中に主だった卒業生たちの進路先や活躍ぶりが分野ごとにずらっと紹介されており、絶対にこれは本人だと分かる内容で書き残されていた。

そんなわけで「恐るべし国会図書館」、思わぬタイムカプセルを見つけた感じであるが、さらに踏み込んで父親の名前を入力すると、似たような名前の検索結果がたくさん出てくるなかで、誠文堂新光社が発行している、広告関係やデザイン関連を扱った雑誌『アイデア』の1961年6月号に、父の名前がありそうだということが分かったのである。
私の父は多摩美術大学の図案科、つまり今でいうところのグラフィックデザイン学科で学んでいたのである。おそらくその関係ではないかと思われた。

すかさずこれも古本市場で調べたのだが、あいにく雑誌の現物を入手できそうなアテがなかった。
そこで次に調べたのは、国立情報学研究所のCiNiiによる全国の大学図書館の蔵書検索である(こちら)。そうすると『アイデア』の当該号を所蔵しているいくつかの大学のなかで、自宅に近い某大学図書館が学外一般者も資料閲覧やコピーが可能だということが分かったので、とある日の午後に訪れてみた。

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たまに「休みの日には何をしているか」と人から訊かれることがあり、いつも答えに苦しんで「いろいろやってます」と返すのだが、こういうことが「いろいろ」の中にあるんだろうなと、誰もいない静かな書庫を歩き回りながら思った。「父親の名前が載った古い雑誌をみるために、よく知らない大学図書館の書庫の中でウロウロする」という、ただそれだけの休日。

もちろん図書館なので、きっちり整理されている資料群から、目的のものを探し当てるのにまったく時間はかからなかった。

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(▲黒表紙に製本されて「アイデア」とだけ書かれて並んでいる状況がなんだかポップ感があって、よい。)

こうして1961年6月号の『アイデア』と対面することができた。

そこで分かったのは、この号では前年度の主な美術系大学のデザイン関係の卒業制作展のなかから、いくつかの作品を紹介するという趣旨の特集記事があり、そこに父の卒業制作が掲載されていたということであった。

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「え、ということは、他の美術大学も含めていくつもある卒業制作のなかからピックアップして選出されたということ!? すごいやん!?」と、素直に父親を褒め称えたい気持ちになった。
誰もいない書庫で。



そこで見つけたのがこれだった。










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タイトルは『日本の民謡』




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お、おう・・・・。


たしかに味のある作品といえば味があるが、当時のこの美大生の試みがうまくいっているのかどうかはよく分からない。でもまぁ、こうして雑誌に選ばれているのだから、きっと良い作品なのだろうと自分に言い聞かせながら、この特集コーナーまるごとをコピー機にかけさせてもらい、あらためて実家に行って父親にこのコピーを手渡してみた。

なんとなくの予想通り、父の反応はたいして盛り上がるわけではなく薄いリアクションであった。
この卒業制作はレコードジャケットを作るという課題だったとのことで、たしかに他のページに掲載されている学生の作品も、そんな感じで正方形にオシャレなデザインを配置しており、当時はモダンジャズが流行っていたようで、ジャズのレコードっぽいのがたくさん掲載されていた。

そんななかであえて「日本の民謡」を押し出したあたり、さすが「ビートルズは嫌いだった」と言い張る偏屈な若者だった当時の父親の気概を匂わせる(正確にはビートルズは大学卒業後に流行っていたわけだが)。

私がこのコピーを持ってきたことで、父にとっては自分の作品のことよりも、あちこちのページに記載されている同級生の名前にひとつずつ懐かしさを覚えていたようで、それはそれでコピーしておいてよかったと思った。

父は卒業後に某家電メーカーの宣伝部に進むことになるのだが、この雑誌が出たのはまさに社会人一年目の慌ただしいときのことだったようで、こともあろうに私が今回見つけるまで「こんな雑誌に載っていたことは知らなかった」とのこと。つまりあれか、遠く山口県の故郷から芸大にまで通わせてくれた両親にも雑誌に載ったことなんて伝えてなかったのかこの息子は。

あと、ついでに書くと、私自身もたしかにイラストや絵を描くのは得意なほうだが、子どものときから振り返るに、父から絵の描き方を具体的に教えてもらった記憶はない。
さらに、私はやがて仕事上のなりゆきで、自分でチラシ制作のためにデザインやグラフィックソフトを独学で習得して、趣味においても仕事においても我流でデザイン作業がそれなりにできる人になったのだが、よくよく考えたら父のほうは学生時代にみっちりデザインを専門に学んでいたというのに、そういう会話をほとんどしたことがなく、これは我々の間における「皮肉な謎」のひとつである。

例えば私などは「教えたがり」なので、もし子どもがいたら、良くも悪くもそれなりに自分の得意技能についてあれこれと言ってしまいたくなるだろうと思う。しかし私の父はそういう干渉をまったく行わなかったことになるので、人からみたら「それが最高の教育なんです」とか言うかもしれないが、本当に何もなかった側からすると、ちょっとぐらいは何か教えておいてくれてもよかったんじゃないかと思う部分もある(笑)

皮肉ついでにさらにいうと、この1961年に父が『デザイン』にその名を刻んだ55年後に、今度は私が同じ雑誌(2016年7月号)に載ることになったわけである。野中モモさんとばるぼらさんのZINEについての連載で、フリーペーパーを紹介していただいたのであった。

2016_vol7

そして、このページにたまたま挙げてもらっていた『HOWE』の第20号「ベルギー、フランス、ハイタッチ」の表紙絵は、父親に頼んで描いてもらったモン・サン=ミシェルを載せていたわけで、図らずも父親は2回、自分の作品を『アイデア』に載せたことになるのであった。

(そんなことよりも、いいかげんフリペの新作を作れよというツッコミはさておき)

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2023.04.19

(ネタバレにならない程度に)『街とその不確かな壁』の読後感について書く

よく考えたら村上春樹の新作を発売日に買うということも、あと何回できるか分からないんだよなと思った。
ちょうど私にとって、自分が生まれる前の1972年とか1973年あたりに、洋楽ロックの世界ではキラ星のごとき名作アルバムが信じられないぐらい次々とリリースされていったという歴史に憧れを覚えるのと似たような感じのノリで、先週の発売日に書店に寄って『街とその不確かな壁』を手に入れてみて、さっき読み終わった。

自分の率直な感想としては・・・いま、こうしてブログでさっそく記事を書きたくなる程に、つまり誰かと語り合いたいぐらいの気分で、今回は充実した読後感がある。

私は決して村上作品の熱心な読者だとは思っていなくて(どちらかというと氏のエッセイのほうが好きだ)、あまり私の感想もアテにはならないのだが、少なくとも前回の『騎士団長殺し』よりかは、よっぽど良い、と言ってもいいだろうと(笑)。

その理由を考えてみると、今回の作品で描かれたさまざまな出来事や、それをとりまく光景や心象などは、なんというか、読者それぞれの「生」にダイレクトにつながっていくような普遍的な感覚がずっとあったからかもしれない。
別れを惜しむかのようにこの小説の最後のページを読み終わったあと、ここから先の展開が、読み手である自分自身の内なる部分で続いていくかのような、そういう話だった。
(それを言ったら、『騎士団長殺し』でも他の作品でも同じようなものではないかと言われても、まぁ、そうかもしれませんが・・・とは思うのだけど、なんだか『騎士団長殺し』だけはタイトルのせいかもしれないが、なんだかしっくりこない感じがずっとつきまとった作品だった)

それと、読み進めながらずっと思っていたのは、2009年に村上春樹が行ったいわゆる「エルサレム・スピーチ」のことだった。ここで村上春樹は「壁=システム(政治だったり軍事だったりの統治制度など)」と「卵=個々人やその魂」を比喩として用いて「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と述べたわけだが、今回の作品は表題にも「壁」という語があるように、そのままのメタファーが小説のなかで繰り返し重要なものとして登場している。

もっともこの作品は、デビュー直後の1980年に発表した作品の出来に満足がいっていないまま長らく気になっていて、それをコロナ禍の始まった2020年頃から書き直しを試み、そこから物語をさらに進めた末にできあがったとのことで、本書の「あとがき」では「要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。」と書いている。長らく自分のなかで沈殿しては浮かび上がってきたりする問題意識をつかんで離さないそのスタンスによって、「壁と卵」のメタファーが、その始まりから現在に至るまでずっと村上春樹のなかにあったのかもしれない。そう思うと、きわめてこの人は恐ろしいほど実直なんだろうと思う。

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2023.03.25

福井の書店「わおん書房」にて出会った『やりなおし世界文学』(津村記久子)で自分もやりなおしたくなった

出張で福井にいくことがあり、帰る前の空き時間に立ち寄れそうな本屋を探したら、「わおん書房」という小さい書店があったので行ってみた。

簡素なカフェスペースも備えていて、どの棚も「売りたい本しか置かないぞ」というこだわりが感じられるおしゃれな空間だった。

インディーズ系書店に来たからには絶対に何か本を買って帰ろうと、狭い店内を何往復もウロウロしていた私を見かねたのか、店員さんから「荷物をここに置いてもらっていいですよ」と声をかけていただいた。しかしよくみると私が肩からさげていた仕事用のカバン(着替えも入っていたからよけいにパンパン)が、店の中央に設置してある大きいテーブルに平積みされていた本たちを知らず知らずになぎ倒していたのでプヒャー! すいません! となった。

そうして気を取り直して、帰りの電車内で気楽に読めるようなコラム集みたいなものがちょうどいいだろうなとウロウロを繰り返し、装丁の良さも目をひいたので手にとったのが津村記久子の『やりなおし世界文学』(新潮社、2022年)だった。

Sekaibungaku

津村記久子さんと言えばサッカーのサポーターを題材にした小説があり、その存在を知ってはいたが、読んでいなかった。
なので、わおん書店のテーブル陳列を乱した申し訳なささに加えて津村記久子さんにも若干の申し訳なささを感じつつ、この本とともに帰路についたのであった。

でもこうした「実はまだ読んでません、すいません、テヘッ」というスタンスそのものが、この『やりなおし世界文学』のテーマともなっている。読書好きが高じてプロの作家となっても、なぜか読まずじまいで通り過ぎていった古今東西の名作文学たちについて、津村さんが「今まで読んでなくてすいません」の姿勢で一作ずつ向き合い、その感想を述べていくコラム集となっており、もともとは新潮社の『波』などに連載されていたものだ。

そしてこれが期待以上に面白かったのである。読み手としての津村さんの視点が絶妙で、ときに鋭く深く読み解いたかと思えば、下世話で小市民的なスタンスになったり、放埒な筆運びで世界文学の巨匠たちの仕事を語りまくる。

そもそも最初に登場するのがスコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』である。
「もういいかげん、ギャツビーのことを知る潮時が来たように感じたのだった。」
という書き出しで、あぁーこれを津村さんはそれまで読んでこなかったのかとまずは驚かされるわけだが、
「ギャツビーは、わたしには華麗な人には思えなかったけれども、人気がある理由は辛くなるほど理解できた。少なくとも、『華麗さ』と『男性用スキンケア用品の名前だから』という理由で避けている人であればあるほど、本書の切実さが刺さると思う。」
とあって、ネタバレをギリギリに回避しつつ、自分もこの本を読んでみたいと思わせる楽しげな文体が、「津村さんも面白いし、取り上げた名作文学たちも面白い(はず)」と感じさせるのであった。

あと、毎回のコラムに添えられるタイトルも秀逸なのが多い。アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』については「幼年期はべつに終わっていい」とか、サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』については「誰もがゴドーを待っている」とか、カフカ『城』に至っては「仕事がまったく進まない」とか、こういうノリで紹介されると、今まで読んでいなかった作品も中身ががぜん気になってくるのである。

普段利用するような大型書店だと、あまり「文学」のコーナーにいくことも少ないので、わおん書房のようなセレクトショップ的な本屋さんならではの出会い方でこういう本を知ることができたのはよかった。

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