カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2023.04.19

(ネタバレにならない程度に)『街とその不確かな壁』の読後感について書く

よく考えたら村上春樹の新作を発売日に買うということも、あと何回できるか分からないんだよなと思った。
ちょうど私にとって、自分が生まれる前の1972年とか1973年あたりに、洋楽ロックの世界ではキラ星のごとき名作アルバムが信じられないぐらい次々とリリースされていったという歴史に憧れを覚えるのと似たような感じのノリで、先週の発売日に書店に寄って『街とその不確かな壁』を手に入れてみて、さっき読み終わった。

自分の率直な感想としては・・・いま、こうしてブログでさっそく記事を書きたくなる程に、つまり誰かと語り合いたいぐらいの気分で、今回は充実した読後感がある。

私は決して村上作品の熱心な読者だとは思っていなくて(どちらかというと氏のエッセイのほうが好きだ)、あまり私の感想もアテにはならないのだが、少なくとも前回の『騎士団長殺し』よりかは、よっぽど良い、と言ってもいいだろうと(笑)。

その理由を考えてみると、今回の作品で描かれたさまざまな出来事や、それをとりまく光景や心象などは、なんというか、読者それぞれの「生」にダイレクトにつながっていくような普遍的な感覚がずっとあったからかもしれない。
別れを惜しむかのようにこの小説の最後のページを読み終わったあと、ここから先の展開が、読み手である自分自身の内なる部分で続いていくかのような、そういう話だった。
(それを言ったら、『騎士団長殺し』でも他の作品でも同じようなものではないかと言われても、まぁ、そうかもしれませんが・・・とは思うのだけど、なんだか『騎士団長殺し』だけはタイトルのせいかもしれないが、なんだかしっくりこない感じがずっとつきまとった作品だった)

それと、読み進めながらずっと思っていたのは、2009年に村上春樹が行ったいわゆる「エルサレム・スピーチ」のことだった。ここで村上春樹は「壁=システム(政治だったり軍事だったりの統治制度など)」と「卵=個々人やその魂」を比喩として用いて「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と述べたわけだが、今回の作品は表題にも「壁」という語があるように、そのままのメタファーが小説のなかで繰り返し重要なものとして登場している。

もっともこの作品は、デビュー直後の1980年に発表した作品の出来に満足がいっていないまま長らく気になっていて、それをコロナ禍の始まった2020年頃から書き直しを試み、そこから物語をさらに進めた末にできあがったとのことで、本書の「あとがき」では「要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。」と書いている。長らく自分のなかで沈殿しては浮かび上がってきたりする問題意識をつかんで離さないそのスタンスによって、「壁と卵」のメタファーが、その始まりから現在に至るまでずっと村上春樹のなかにあったのかもしれない。そう思うと、きわめてこの人は恐ろしいほど実直なんだろうと思う。

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2023.03.25

福井の書店「わおん書房」にて出会った『やりなおし世界文学』(津村記久子)で自分もやりなおしたくなった

出張で福井にいくことがあり、帰る前の空き時間に立ち寄れそうな本屋を探したら、「わおん書房」という小さい書店があったので行ってみた。

簡素なカフェスペースも備えていて、どの棚も「売りたい本しか置かないぞ」というこだわりが感じられるおしゃれな空間だった。

インディーズ系書店に来たからには絶対に何か本を買って帰ろうと、狭い店内を何往復もウロウロしていた私を見かねたのか、店員さんから「荷物をここに置いてもらっていいですよ」と声をかけていただいた。しかしよくみると私が肩からさげていた仕事用のカバン(着替えも入っていたからよけいにパンパン)が、店の中央に設置してある大きいテーブルに平積みされていた本たちを知らず知らずになぎ倒していたのでプヒャー! すいません! となった。

そうして気を取り直して、帰りの電車内で気楽に読めるようなコラム集みたいなものがちょうどいいだろうなとウロウロを繰り返し、装丁の良さも目をひいたので手にとったのが津村記久子の『やりなおし世界文学』(新潮社、2022年)だった。

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津村記久子さんと言えばサッカーのサポーターを題材にした小説があり、その存在を知ってはいたが、読んでいなかった。
なので、わおん書店のテーブル陳列を乱した申し訳なささに加えて津村記久子さんにも若干の申し訳なささを感じつつ、この本とともに帰路についたのであった。

でもこうした「実はまだ読んでません、すいません、テヘッ」というスタンスそのものが、この『やりなおし世界文学』のテーマともなっている。読書好きが高じてプロの作家となっても、なぜか読まずじまいで通り過ぎていった古今東西の名作文学たちについて、津村さんが「今まで読んでなくてすいません」の姿勢で一作ずつ向き合い、その感想を述べていくコラム集となっており、もともとは新潮社の『波』などに連載されていたものだ。

そしてこれが期待以上に面白かったのである。読み手としての津村さんの視点が絶妙で、ときに鋭く深く読み解いたかと思えば、下世話で小市民的なスタンスになったり、放埒な筆運びで世界文学の巨匠たちの仕事を語りまくる。

そもそも最初に登場するのがスコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』である。
「もういいかげん、ギャツビーのことを知る潮時が来たように感じたのだった。」
という書き出しで、あぁーこれを津村さんはそれまで読んでこなかったのかとまずは驚かされるわけだが、
「ギャツビーは、わたしには華麗な人には思えなかったけれども、人気がある理由は辛くなるほど理解できた。少なくとも、『華麗さ』と『男性用スキンケア用品の名前だから』という理由で避けている人であればあるほど、本書の切実さが刺さると思う。」
とあって、ネタバレをギリギリに回避しつつ、自分もこの本を読んでみたいと思わせる楽しげな文体が、「津村さんも面白いし、取り上げた名作文学たちも面白い(はず)」と感じさせるのであった。

あと、毎回のコラムに添えられるタイトルも秀逸なのが多い。アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』については「幼年期はべつに終わっていい」とか、サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』については「誰もがゴドーを待っている」とか、カフカ『城』に至っては「仕事がまったく進まない」とか、こういうノリで紹介されると、今まで読んでいなかった作品も中身ががぜん気になってくるのである。

普段利用するような大型書店だと、あまり「文学」のコーナーにいくことも少ないので、わおん書房のようなセレクトショップ的な本屋さんならではの出会い方でこういう本を知ることができたのはよかった。

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2023.01.22

ひさびさの「当たり読書」:『THE WORLD FOR SALE:世界を動かすコモディティー・ビジネスの興亡』

 突然だが、以下にある企業のロゴや社名をご存じの方々はどれぐらいいるだろうか。

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 今回取り上げる本『THE WORLD FOR SALE:世界を動かすコモディティー・ビジネスの興亡』(J・ブラス、J・ファーキー著、松本剛史訳、日経BP、2022年)を読むまで、私はこれらの企業の名前はまったく知らなかった。
 しかしこれらの会社は、たとえば米国におけるアップル社やコカ・コーラ社のようなワールドワイドな規模で商売をし、時としてとてつもない収益をあげていたりする。

 扱っているのはいわゆるコモディティー、つまり原油や金属資源、農作物などである。
 仮に我々はアップル製品を買わずとも、またコーラを1本も飲まなくてもそれなりに社会生活を送ることができるだろうけれど、一方でエネルギー資源や食料が世界中を移動することによる様々な恩恵を受けなければ、まずもって生活が成り立たない。ただ、これらを取引して動かしていく「コモディティー商社」の社名に我々が触れることは稀だろう。彼らは自らの存在を一般消費者に誇示する必要はまったくなく、いわゆる「B to B」のビジネス形態なのだから当然かもしれない。そしてこの本を読むと、むしろその存在ができるだけ表舞台に出てこないほうが彼らにとっては動きやすく、利する部分が多いことも分かる。

 そういうわけで「民間で知られないままでいるには、あまりにも巨大な影響力を持った、途方もない強欲の組織体」ともいえるコモディティー商社群について、その通史や暗部、そしてこの業界の未来について徹底的なリサーチやインタビューに基づいて書ききったこの本は、とっても刺激的であった。

 登場する企業・政府・人物、彼らが行ってきたことのあらゆることが非常に狡猾だったり強欲だったり倫理感が欠如していたり、さまざまな部分でスキャンダラスでダーティーなものなのに、それらをすべてひっくるめて「楽しんで読めるもの」として成立しているのは、これはもうジャーナリストの見事な技芸のたまものであり、ストーリーテリングの妙味が炸裂した本だと感服するしかない。
 
 とくに私は「グローバリゼーション」という言葉を、これまでなんとなくフワッとした意味合いの、大きい概念を指し示す適当なフレーズ程度のものとして捉えていたことに気づかされた。ちょうど「マルチメディア」という言葉が今となっては陳腐なものになっているように、時代を経るごとにグローバリゼーションという言葉も「今さら、なんですか」という印象しか浮かばないような、そんな感じである。
 だがこの本を読んで、私にとっての「グローバリゼーション観」はドス黒いものとセットに、生々しく迫るものとして強制的に再認識させられたのだった。
 国家の枠組みを飛び越えるもの、その動態みたいなものをグローバリゼーションのひとつの表われとして捉えるのであれば、まさにコモディティー商社が、とうの昔から国家の管理とか法律とかの規制に縛られることなく活動の幅を拡大して好き勝手に動いており、もはや彼らの金儲けの飽くなき探求の結果としてグローバリゼーションといえる状態が作られていったのではないか、ひいては「オマエらのせいかーーっ!?」というツッコミをしてしまいたくなるのであった。
 
 何せインターネットができるずっと以前から、ある意味での「情報ネットワーク網」を世界中にはりめぐらせ、こともあろうにCIAですらそこに頼ることが多々あったらしく、また「ビッグデータ」という言葉ができるずっと前から、商社は世界中の農場から得た膨大な情報を駆使して未来予測を立てて生産量や値動きの変動を追っていたりもする。なので彼らの活動が現代に至る技術革新のイノベーションを促進していた部分があるとも言えそうである。

 で、この本でもいろいろな「歴史的取引」が紹介されるのだが、国際社会からの経済制裁により貿易が本来はできないはずの国だったり、反政府ゲリラ組織だったり、債務危機に陥って破綻寸前の国だったり、そうした困窮状況につけこんだコモディティー商社の暗躍によって資金や資源が動き、国や反体制組織が支援されていく。そしてそこには政治的公正さや倫理観は「二の次」となる。ただひたすら「たくさん儲かるから」、彼らはリスクを背負って賭けに飛び込む。
 そういう意味では「武器商人」にも通じる話でもあるが、コモディティー商社の場合は、扱っている商材が最終的に私たちの生活の一部としてつながっていて、末端のところにいる「顧客=読者」としての我々もある意味でそうしたドロドロの状況に含まれているのだということも実感させられる。

 届けられるはずのない場所へ誰も想像もしないルートから原油を送り込んでみせたり、あるはずの大型タンカーが突然姿を消したり、そうした「ナイフの刃の上を歩く」ように綱渡りで秘密裏に進められる巨大な商取引をダイナミックに展開する商社のトレーダーたちの奮闘ぶりは、それが褒められる行為かどうかは別として、どうしたって「面白い」のである。国家という枠組みによる衝突や駆け引きをよそに、その裏をかいて、自分たちの利益のためだけに国境をやすやすと飛び越えて資源を調達しては売りさばき、あるいは値上がりを見越して溜め込み、さまざまな策略を駆使して法の網の目をかいくぐりライバルを出し抜いて巨万の富を獲得しようというそのエネルギッシュな動きは、もはや読んでいて感心すらしてしまう。

 そうやって「国家を裏であやつる存在」にもなりうるコモディティー商社の影響力が途方もなく大きいものに発展していくこととなる。ネタバレになるので詳細は書かないが、近年の動向において、こうした動きを監視し抑圧する方向で一番の役割を担いつつあるのが、やはり「世界の警察」を自認する合衆国だったりする。本書の終盤においては、このあたりの動きを含めてコモディティー商社をとりまく世情が今後どうなるかを占っていくのだが、「それでもしぶとく彼らは儲け続けるはずだ」という論調になっていくのが苦笑いを誘う。
 もし今後、探査船が月に飛んで、月の深部に有益な埋蔵資源が眠っていることが判明しても、それはコモディティー商社の手配したコンテナや重機が月から資源をすっかり回収した跡が残っていたがゆえに発見できました、というオチになるんじゃないかと夢想してしまう。

 そしてまた、ここまで広範囲で多方面にわたる天然資源の商取引の歴史を語るにあたり、「主だった登場人物や会社が一冊の本のなかで認識しうる程度の数に収まっていること」が、いかにわずか少数の人間や組織が、この地球全体の資源をコントロールしているかという不穏な実情を示唆している気がする。なので本書の題名『THE WORLD FOR SALE』はこれ以上見事な表現がないぐらいに著者たちの伝えたいことが示されていて、決して誇張でもないのであった。

 それにしてもこの本は、題名と装丁がちょっと気になったのでたまたま手に取り、それでお正月休みに読み始めてみたら、とにかく筆の運びが巧みで翻訳も自然で一気にグイグイ読ませ、どの章もスリリングなサスペンス小説のようで、かつ今までまったく知らなかった業界の内側をわかりやすく丁寧に解説してくれるという、久しぶりの「当たり読書」だった。

 たとえば本書の終盤、「第13章 権力の商人」の書き出しはこうだ。

2018年初めにその短い発表があったとき、ペンシルベニア州の公立学校に勤める教員の誰かが注意を払うことはおそらくなかっただろうが、そこには彼らの退職後の蓄えにとってありがたくない知らせが含まれていた。

 この第13章に至るまで本を読み進んでいると、崩壊後のソ連だったり、キューバや湾岸戦争や中国の資源需要急増などといった緊張感の高い話がテーマとして連発してくるなかで、このシンプルで唐突な書き出しは絶妙だ。いったいどうして、ペンシルベニア州の公立学校の先生たちの退職金が、このコモディティー業界史をめぐる激しいテーマに関わってくるんだ!? と気になって仕方がなくなる(実際、このあと予想だにしない方向へ話が急展開する)。カメラの視点と、背景のテーマとの距離感のギャップが大きければ大きいほど、著者が仕掛ける「演出」が際だってくる。

 このごろは「面白い!ブログで書きたい!」と思える本になかなか出会えてなくて、昨年だと『コンテナ物語:世界を変えたのは「箱」の発明だった』(M・レビンソン著、日経BP、2019年)は、そのテーマ性が絶妙なので読む前から期待値が高くなりすぎたのもあったが、どういうわけか途中から急激につまらなくなって、結局途中でギブアップしてしまった。やはり書き手の側にある種のサービス精神だったり、人間存在のユーモアとペーソスを大事にしようという意識が根底にうかがえる本は、読者を飽きさせずページをめくる手を随行させ、読み終わるのが惜しいぐらい充実した読後感を与えてくれる。そういう本にもっと出会いたいものである。

 

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2022.02.13

自分にとって最高だった古本屋が消えていく

奈良で育ってよかったことのひとつはフジケイ堂という古本屋が身近にあったことだったと言ってもいい。奈良県内に数店舗あり、とにかく良い本が安く売られている店で、商売が成り立っていたのがずっと不思議なほどだった。

それが、この2月末をもって閉店するということをツイッターで知った。

中学から大学あたりまで、何かとフジケイ堂には足を運んでいた。大学の進路選択の遠因になったF・D・ピートの『シンクロニシティ』もフジケイ堂で買ったものだし、あと、20代のはじめごろ定期的に通っていた病院の近くにあったフジケイ堂の支店では、ナタリー・ゴールドバーグの『Writing Down the Bones』の邦訳初版といえる『クリエイティブ・ライティング:<自己発見>の文章術』に出会うことになる。昨年末の記事でもこの本について触れているが、この作品は現時点での私の生涯のベスト3に入る本であり、この本と出会えたことで私は病気になったことを少しはポジティブに捉えることすらできている。

今までの自分を作ってきたいろいろな読書のかなりの部分はフジケイ堂によってもたらされていたと思える。
というわけで2月のとある日に、フジケイ堂にいくためだけに奈良へ行ってきた。自分にとって最もなじみのあった、近鉄奈良駅のそばの小西通り商店街のお店である。

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表の店構えが以前知っているものとは変わっていて、私が奈良を離れたあいだにお店は少しはリニューアルしていたのである。ただし店内の雰囲気は昔のままで、違ったことといえば、閉店セールの張り紙と、そしてレジの周囲に透明のビニールが張り巡らされていることであった。

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こういう日なので、絶対に何か本を買って帰ろうと思うわけで、そういう目で書棚を見やると・・・どういうわけか欲しいと思える本がこういうときに限ってあまり見つからない。なので書棚をウロウロし、普段見なかったような場所まで凝視する。最後の最後だから、こうしてあらためてじっくり丁寧に書棚を見る時間もまた特別なものとなった。

そうして、なんとか自分なりに選んだ本は、結局3冊のみ。
閉店セールで3割引なので、この3冊で847円・・・。最後の最後まで安すぎるだろう、この店は。

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▲ハウツー系の本は相変わらず好きだ。

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▲フジケイ堂で最後に買う本としてこれ以上ふさわしいタイトルの本はないだろうと思って手に取った。

レジの店員さんに、閉店がとても残念なことであり、長いこと営業していてとてもお世話になったことと、感謝の意を述べさせていただく。店員さんも「いろんなお客さんからお声掛けをいただいていて・・・」と言っていた。

店の入り口には以前から「小さな本から 大きな夢を」というキャッチフレーズが書かれていて、よく見たらレシートにも印字されている。それはまさにその通りなのだ、といつも思っていた。この店のおかげで出会った小さな本のいくつかは、たしかに自分に夢を描かせるだけのインパクトを与えられてきたと断言できる。ありがとう、本当にありがとう、フジケイ堂。

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▲レシートには、「またの御来店をお待ちしております」とあって、さらに切なくなる。

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2020.12.31

2020→2021

 まずは自分も周りの人々も健康なままで年末を迎えることができていることに感謝。ひたすら感謝。ここまで健康管理に気を使った一年もないが、本当は普段から心がけるべきことなんだろう。

 コロナ禍って、文字通り世界中の宗教や国境の区別なく、すべての人が同時代のなかで共に向き合う課題となっていることで世界史に残る出来事になるわけだが、よく考えてみたらこういう感染症って時代を問わず発生するので、今回のCOVID-19がインターネットの発達したこの時代に起こったことがある意味ではまだラッキーだったのかもしれないと感じている。これがもし25年前ぐらいに起こっていて、情報の主要な入手先がまだテレビや新聞だけに限られた場合だったら、もっと厄介なことになっていたように思う。

 ところで花王の「ビオレ・ガード 手指用消毒スプレー」という製品をご存じであろうか。

200mlというサイズは持ち運ぶことを意識した製品となっている。ロック機構も備わっているので、不用意に噴射することもない。
 私もこれを買い求めた次第だが、カバンに入れて持ち運びたい場合、もっと収納しやすくて、かつ剥きだしのノズル部分をカバーできるような工夫ができないかを、このごろずっと考えている。
 いつも通勤電車のなかでみかける男性が、カバンについているペットボトル収納用のポケットにこのスプレーを差し込んでいるのだが、たしかにそうしたくなる気持ちは分かる。ただ、できればカバンの内部に収めたいところではあるので、何かを代用してケースのようにして、かつ取り出しやすくするような仕組みができないか、あるいはノズルで指をかけるところのプラスチック部分を削ることで形状をよりシャープにできないか、といったカスタマイズの可能性をぼんやりと考えている・・・そして、いまだにその解決策が見いだせていない状況ゆえに、スプレーをカバンに入れずに机のうえに置いたままだったりするので、本末転倒ではあるのだが。

 そういう「改造」を考えたくなるマインドがわき起こるのは、すぐ影響を受けやすい私が最近読んだ本が、とても楽しかったからである。


F1マシンのデザイナー、エイドリアン・ニューウェイの自伝『HOW TO BUILD A CAR』(三栄、2020年)では、空気力学のプロとして彼が手がけたマシンの設計において、そのときどきに考えだしたことやアイデア創出のプロセスが、工学の知識がない読者にも分かりやすく解説されていく。アイルトン・セナが事故死したときのマシンも彼の手によるものだったが、あの出来事を境に安全性との共存を図る時代的要請とともに様々なルール改定が行われ、その「網の目」をいかにかいくぐり、速さを失わないように知恵を絞るかという、そうした試行錯誤のせめぎ合いが折々のエピソードとともに語られており、ある意味ではビジネス書のような読み方ができる労作である。

 ニューウェイの本のおかげで「空力」の重要性についてあらためて意識するようになった私だが、さしずめ日常生活でそのことを活用できる場面といえば、マスクを着けるときにメガネが曇りにくいようにするため、いかに鼻の頭の部分までマスクを引き上げて折り曲げるかといった「鼻息の空力」について毎朝あれこれと苦慮することぐらいであるが・・・。

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さて2021年を迎えるにあたり、当然ながらコロナ禍の動向が気になることは変わらないが、ひとつお知らせできる個人的なイベントとして・・・ふと思い立って昨年から通い出した水彩木版画教室において、2年に一度、教室展として受講生の作品を合同展示する機会があり、それが2月末から3月頭、大阪・箕面市のミカリ・ギャラリー(サルンポヮク2階)で行われることになっている。コロナ禍において毎月メンバーで話し合いを続けながら実施形態を模索しつつ、講師の先生の指導のもと準備を進めている状況。まだ正式には案内ができないけれども、ひとまず予告として。

2021年こそは平穏な年となりますように・・・。

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2020.10.10

『岐阜マン』の単行本!!!

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 10年ほど前に名古屋のシマウマ書房さんで初めて出会ってから魅了されっぱなしのフリーペーパー漫画『岐阜マン』が、エムエム・ブックスから今年の春に単行本として刊行されています!(こちらで!!) プヒャー! こういう日が来るとは・・・! ツカハラさんおめでとう! これはぜひ実物を手に取って欲しいのだ。なぜなら、この作品がフリーペーパーの小冊子の集まりであることが手触りで分かるようになっていて、背表紙が実質存在しておらず、現物オリジナルの雰囲気をそこねることなく、そしてちゃんと本のカタチに綴じられている。岐阜マンの存在感と同様、どこか不可思議な装丁になっているのだ。

 そして何より帯と「あとがき」は岐阜出身の女優・菊池亜希子さんが書かれているのがすごーーーい!(私、おっさんですが「マッシュ」数冊持っているぐらい、密かにずっとファンなんです)。

 こうしてまとまった形であらためて読むと、岐阜のあらゆる場所へ岐阜マンと猫のシェフチェンコはフィールドワークをして楽しんで、その積み重ねの結果が、じつにオルタナティブな岐阜観光ガイドとして成り立っている。東白川村ではみんなで集って幻のツチノコを探す「つちのこフェスタ」なんてイベントがあったり、飛騨古川では廃線の鉄道レールの上をマウンテンバイクで走れるルートがあったり、岐阜のあちこちに気になるスポットが増えていく。

 岐阜県というひとつのエリアを丹念に歩き回って取材されている作者ツカハラさんは、きっといつも岐阜マンたちの姿を感じながら道中を楽しんでいるんだろうなぁと想像する。フリーペーパー漫画のひとつひとつは単発で作られるが、コツコツと積み上げていくことで、気がつけばとても大きな山を登っていることになる。その持続力、岐阜への愛、そこがすごい。

 岐阜マンファンの次の夢は、念願のFC岐阜とのコラボレーション!?(笑)

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2020.08.13

「COVID-19とスポーツ応援」@HarukanaShow のことなど

ひさしぶりにハルカナショーで2回にわけてトークをさせていただきました。テーマはCOVID-19とスポーツ応援。
こちら)と(こちら)を参照。

 毎年やっているマラソン大会の応援については本当に何とも言えなくて、いまだ考えがまとまらないので改めてブログで書くことがまだできていないのだけれども。いったいどうなることやら・・・。
 そして今回、Ryutaさんと話をさせてもらうなかで、アメリカの大学スポーツのありかたが、「場合によっては、一番身近に応援できるスポーツチームとしての存在」というものであるという認識に、なるほど~!となった。NCAAという枠組みが盛り上がる理由の一つはそこかもしれない(私が子どもの頃、NCAAブランドの商品が出回っていたので、その規模感というか、盛り上がりっぷりはそれとなく知っていた。ウィキペディアにもそのことが少し載っているが)。国土が広いから、自分の住むエリアから遠く離れた大きい都心部のプロスポーツチームより、むしろ近所の学校のスポーツチームのほうが応援したくなる気持ちが高まる可能性。アメリカは「学校の部活動」がやはり重要なのかもしれない。ヨーロッパ的な「地域のスポーツクラブ」も当然あるのだろうけれど、アメリカ人にとっての部活動の感覚は、日本のそれとどこかでつながっていて、ある側面では異なっているような気もする。このあたりは実際に住んでみないと感じ得ない部分かもしれない。

 そういえば『ライ麦畑でつかまえて』の主人公のホールデンも、高校ではフェンシング部のマネージャーをやっていて、対外試合に向かうべく部員と移動するときに、地下鉄に用具を忘れてきて試合ができなくて、帰りは皆から冷たくされて・・・となり、それであの小説のオープニングは、ホールデンが予定より早く高校の寮に戻ってきたので、全校挙げて応援に詰めかけているフットボール部の重要な試合の様子を遠くから眺めるところから始まる。アメリカの学校文化を語るうえでの部活動という「枠組み」とホールデンとの微妙な距離感をサリンジャーは描いていたとも言えるかもしれない。

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2020.06.21

「肩をすくめる読書」

 ずっと気になっていたが、なかなか挑む気になれなかったアイン・ランドの小説『肩をすくめるアトラス』を、このたび読み終えることができた。

 長い、ひたすら長い物語だ。でも小説としてそれなりに楽しんで読めたのが「意外」だった。
 というのもアイン・ランドの作品は小説というよりも「思想書」みたいな扱いで、1957年に発表されたこの『肩をすくめるアトラス』は彼女の最高傑作とされており、「アメリカ人が聖書の次に影響を受けた本」に選ばれるぐらいなので、アメリカ人の社会的意識や価値観などを理解するためには格好のテキストなんだろうという感じで、関心を寄せつつもずっと横目に見ていた感じであった。

 そしてなぜか日本語版はすんなりと手に入りにくい書物(その事情は後述)だったのでなおさらカルト的な存在感を放つ本であり、その分厚さも含めて容易には近づく気になれない小説であったのだが、最近になって手に取る意欲をかきたてたのは、たまたまオリヴァー・ストーン監督の『スノーデン』の映画をもう一度見直してみたことがきっかけだった。最初に観たときには記憶にまったくなかったのだが、スノーデンがCIAに入るための試験を受けるとき、その後彼にとって非常に重要な上司となる面接官が、話の流れで『肩をすくめるアトラス』からの引用を語りかけると、スノーデンが『私の信条です』と返すシーンがあったのである。つまりはそういう位置づけで語られうる小説であり、CIAで生きるようなアメリカ人の思想形成においてもあの作品が持っている「意味合い」がある程度共有されているのだろうということが伺えたわけで、うむ、ここは気合いを入れて向き合ってみるかとこのコロナ禍のステイホームな状況下で思い直したわけである。

 

 で、アイン・ランドが14年間をかけて執筆したというこの『肩をすくめるアトラス』の要約を、無謀を承知で私なりにヒトコトで説明すると、

「自分では何もできない無能なヤツらは、できる人間の邪魔をするな」

ということなんだと思う。ひたすら長い物語を読み続ける読者にたいして、一貫して作者が訴えかけてきたメッセージは、シンプルにこのことだけだったと感じている。

 ストーリーのあらましを説明すると・・・時代設定が明確にされていないので少しSF風であり、50年代のようにも思うし近未来のようでもあるアメリカが舞台。メインの主人公は大きい鉄道会社の副社長を務める若い女性。創業者の子孫として誇りを持っており、社長である兄と対立しながら鉄道の経営に自らの能力を発揮して邁進している。石油産出で盛り上がるコロラドへの路線を再建するべく、鉄鋼の新素材を開発した実業家との協働により自らの信念によって事業を進めようとするも、政府や企業カルテルによる規制施行に翻弄され、そしてさまざまな業界の気鋭のリーダーたちが表舞台から不可解な形で次々に姿を消すという現象が起こり・・・ということで、このあたりが1巻目の話で、残り2巻でさらにいろ~んなことが起こっていく。企業小説でもあり、ややミステリー小説でもあり、やや恋愛小説でもあり、ちょっとSF風ディストピア小説的な、そういう意味で「結局なんなんだよ」というツッコミも入れたくなるが、この膨大すぎるページ数を前にすると「さもありなん」となるわけである。そりゃあ取材や執筆に14年もかかるわ。

 本のカバーに書かれた説明文では「利他主義の欺瞞を喝破し、二十世紀アメリカの進路を変えた資本主義の聖典」とあって、この物語が示す「できる人間の邪魔をするな!」というメッセージが、現在に至るまでのアメリカ主導における自由主義経済、市場原理、ひいては「個人の成功に基づくアメリカン・ドリーム」の存在を支える根本的な考えかたに結びついているんだろうと思う。旧ソ連からアメリカに亡命同然でやってきたアイン・ランドにとっては、自らのルーツを踏まえて、いわゆる社会主義的な思想への徹底した拒否感を小説執筆の形で昇華させていったのであろう。
 そしてこの小説で徹底的に糾弾される「たかり屋」のありかたやその構図は、まさに今の日本における自民党政権やアベ政治の拝金主義を連想させるし、一つの寓話として現在でもリアルに通用する部分があるかもしれない。

 ここまで影響力を誇る(らしい)本なので、当然のように賛否両論もあって、今はそうした論考をあれこれ探して読むのが楽しい。翻訳家の山形浩生氏は独特の論調でかなり酷評していて、どちらかというと私も山形氏の意見に近い感じを今は持っている。でもこういうすさまじい物量の小説を完成させるためのエネルギーを一人の作家が燃やし続けるにあたっては、アウトプットされる主張が極端なカタチになっていくのは致し方ないのかな、という印象もある。

 そんなわけで、「これはみんな読んだほうがいいぞ!」という気持ちにもなりにくい小説であり、ひとつの読書経験としては貴重かもしれない、ぐらいに留めておきたい。というのも、すごく印象的だったのは、終盤のクライマックスで一人の人物が小説の中の時間で3時間にわたる演説を行うのだが、その演説部分を読むだけで確かに実際の時間で2時間ぐらいかかって、「普通に小説を読んでいるだけなのに、一人の人間が話し続けるという場面状況においては、そこを読み進めることがどうしてこんなに苦痛を伴うものなのか」と感じながらページをめくっていた。これは今までに味わったことのない種類の「しんどい読書」の時間だった。そして同時に、小説の中の人物たちが、このときの長い演説を聴いているときに感じていたであろう苦々しい気持ちを読者として一緒に味わうかのような不思議な感覚が残った。

 さらに、この小説全体に言えることだが、登場人物の発言の内容がうまくすんなり理解できない部分が非常に多く、そこはもはや私のキャパがオーバーしているだけの問題なのだろうけど(決して翻訳が悪いとは言いたくない。むしろこの長い小説を、一定のテンションを保って訳しきっただけでも偉業だと思う)、まさに『肩をすくめる読書』とでも言いたくなる。

 そして私がどうしても気になっているのは、これほどまでに社会的影響力が強い「古典的名作」であるのなら、どうして日本では大手の出版社が発行を手がけないのか、ということである。メジャーな出版社から出ていないがために、この本をリアルな書店で見つけることは難しく、私はネット通販で文庫版を3巻すべて入手するのにもちょっと苦労した(最近は増刷されたのか、在庫がでてきている)。

 この本の版元は「アトランティス」という出版社で、ネットで調べる限りとても大手とは言えず、そしてどうやらアイン・ランド関連の仕事しかしていないように思える。そもそも「アトランティス」というキーワードも『肩をすくめるアトラス』のなかに何度も出てくるので、まるでアイン・ランドの思想を広めるためだけに作られた組織のようにさえ映る。しかし、どうして? 版権の問題などはもちろんあるのだろうけど、長年にわたって大手出版社がこの本を扱えない事情でもあるのだろうか。

 そんなわけで、本の成り立ち自体が、まさにアイン・ランドの小説世界に出てくるかのように、ちょっと不思議な体裁をかもしだしているのであった。

 


第一部:矛盾律


第二部:二者択一


第三部:AはAである

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2020.05.09

動きの遅い私でも、いつでもメディアになりえること:『野中モモの「ZINE」:小さなわたしのメディアを作る』について

 

『野中モモの「ZINE」:小さなわたしのメディアを作る』(晶文社、2020年)

 

この本の帯にはこう書いてある。

「何かを作りたいと思ったら
 あなたはいつでも
 メディアになれる」

 フリーペーパーのようなものを作ってみたいと衝動的に思ったころの自分に言ってあげたい言葉だ。


 
 ごくたまに、若い人に向けて、自分が作っているものについての話をさせてもらう機会があったりする。そして私が高校3年生のときにフリーペーパー『HOWE』を作りはじめた頃のくだりで、必ず言いたくなることがある。
 それはきわめて当たり前のことなのかもしれないが、「人がメディアを語るとき、その人がどういう時代のなかで、どのような個人史においてメディアを捉えてきたか、そこを想像しながら聴いてほしい」ということである。

 私が自宅のワープロ機で最初のフリーペーパーの原稿を印刷したとき( とはいえインクリボンは高額だったのでめったに使わず、熱転写でプリントできる安い感熱紙であらゆる文書を打ち出していて、こうした保存がきかない紙で初期の『HOWE』を作っていたことを後々になって後悔することになるわけだが )、まだインターネットというものの存在は知らなかった。その年の暮れに「Windows 95」というパソコンの基本ソフトが発売されて盛り上がっている様子がニュースで盛んに報じられていたが、まだそのことの本当の意義やその直後に起こりうることはよく分かっていなかった。
 その翌年大学に入り、友人MSK氏に教えてもらい、図書館に置いてあるごく一部のパソコンだけがインターネットにつながっているというので、そこで私は初めてウェブサイトというものを見て衝撃を受け、それからはネットサーフィンに明け暮れるようになった。
 しかし私はそれでもホームページづくりではなく、すでに自分がカタチとして持っていた「新鮮な遊び」ともいえるフリーペーパー作りにもう少しこだわろうと思っていた。

 もしこのタイミングが少しでも違っていて、高校生の頃にインターネットに触れていたら、私はおそらく「紙によるメディア」を作ろうとはまったく思わなかったかもしれない。

 こうして個々人にとってのメディア体験を語ることは、その人の生きた時代なり技術史なりとの関係のなかにおいて受け止められることによってようやく「その時々の面白さや意味」が浮かんでくる。

 すでに『日本のZINEについて知ってることすべて』(誠文堂新光社、2017年)という決定的な仕事により、戦後占領期以後から現在に至るいくつもの自主制作印刷物について網羅的な解説をされた野中モモさんが今回の新著で取り組んだのが、まさにこの「メディア環境の変遷と個人史」を書ききることだった。まだ見ぬ若い世代の読み手にZINEの面白さや可能性を伝えるためには、やはりどうしてもこの作業が必要なのだ。おそらくご本人にとってしばしば書きにくさを感じるテーマだったかもしれないが、こうして日本のZINEカルチャーを応援し、また実践者としても試行錯誤してきた独自の取り組みのあれこれを読者と共有するためには、やはり野中さん個人による「私語り」からはじまっていくのが最もふさわしい。そしてそれは、決して「こういうルートがモデルである」というのではなく、むしろまったく逆で、「それぞれのオリジナルな自分だけの土壌から、いかにメディアを紡ぎ出すか」を示すことであり、そのひとつの手段としてZINEがあるのだ、ということだ。

 そして第2章からつづくのは、さまざまなZINEの作り手や、ZINEをめぐるコミュニティについての紹介になるのだが、そこにも「参考となるモデル」ではなく、「極めて独自の、他にない、その人ならでは」の話が連なっていく。だからこそZINEは「わたしがつくるもの/誰でもつくることができるもの」としての意味が深まっていくのであり、この本がトータルで伝えたいことも「お手本なんてないし、求められるクオリティなんて関係ないし、あなたの立ち位置から、自由に作ってみよう」なのだと思う。

 冒頭の帯のコピー、「あなたはいつでもメディアになれる」をあらためて考えると、これもそれぞれの読み手の世代によって、捉え方が違ってくるのだろう。今では誰でもメディアになれる(ならざるを得ない)ことは自明のことのようにすら思えるかもしれないが、この本でいう「メディアになる」というのは、技術革新のスピード感とは無縁のものだ。すでに広がっている、大きな組織や経済によって構成されてきた仕組みに同調するのではなく、それらと趣が異なる地平に降りていき、遠くにいるかもしれない誰かに向かって、自分の腕力でできる範囲で、その想いを放り投げ続けていくことなのだ。

 そうした試行錯誤が、たとえすぐには誰かに届かなくても、広い世界に向かって精一杯に腕を振って何かを投げたことで生じる、どこか心地よい疲労感が肩に残る感じ・・・その「手応え」みたいなものが、ZINEという「手間がかかって、なにかと遅いメディア」を自分の手で作り上げていくことで得られる楽しさなのだろうと思う。

 

 ・・・そして今回のこの文章はまさに、ここ数年のあいだ様々な言い訳を連ねて何もZINEやフリーペーパーを作ることができていない自分自身に、ダイレクトに跳ね返ってくるわけであるが・・・遠くに投げたいけど、その腕力もめっきり落ちてきまして・・・いやいや、がんばりますよ、ええ。

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2020.04.06

脳天気な記事を書きたいと思いつつ、最近読んだ『スノーデン独白:消せない記録』のことについて

 まったく時流に関係なく脳天気なブログ記事を書きたい、と思っている。

 ひとえに私は機嫌良く生きています、と言いたい。そりゃあこの国の政治家にたいして総じて腹立たしい限りであるし、そのうえで、選挙だけでなく、怒りを別のエネルギーでも表現していきたい。それが「機嫌良く生きぬくこと」ではないかと思う。自分の機嫌は自分で取ろう。人を頼らずに。最大の復讐は、ひとりひとりの個人が(見てくれだけでも)機嫌良く生き続けることだ。きっと。

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 最近読んだ本では『スノーデン独白:消せない記録』(山形浩生訳、河出書房新社、2019年)がとても面白かった。その表現は不適切なんだろうけど「面白かった」としか言いようがなかった。本人の手によるエドワード・スノーデンの自伝は、オリバー・ストーン監督による映画『スノーデン』の影響もあって、その記述からありありとヴィジュアル的にイメージがどんどん沸いてきて、緊迫感がリアルにつたわってくる。

 前に書いた、スヌーピー漫画の作者シュルツの自伝についての記事でも同じテーマに触れたが、スノーデンの人格形成期を振り返ると、この人にとっても軍隊生活というのは非常に重要なファクターだったことがうかがえる。そしてこのスノーデンの場合は、9.11テロによる衝撃から、きわめて直線的な愛国心ゆえに、パソコンオタクとしての我が身をふりかえることなくマッチョな軍隊の門を叩いたあたり、「徹底的なまでに実直すぎる人」なんだろうと思う(彼の人生最大の後悔は、9.11テロ後のアメリカによる戦争を『反射的に何の疑問も抱かずに支持したこと』だという)。結果的に訓練で追った足のケガの影響で彼は(幸か不幸か)軍隊を辞めざるをえなかったわけだが、その正直さがゆえに、結果的にパソコンスキルを活かしてCIAの内部に入って職業人として使命を全うしようとしたときに、徐々に分かってくる国家的陰謀にたいして、信じ切っていたものに裏切られるかのような、はげしい葛藤に悩まされていくわけである。


 その葛藤は、彼が日本の横田基地にあるNSA(アメリカ国家安全保障局)のセンターで勤務していた頃から始まったという。そこで開催される会議に出席予定だった技術担当者がたまたま欠席となりスノーデンが代役を頼まれ、そこで発表の準備のために中国による民間通信の監視技術に関する資料を読みこんだことが発端となった。本書の200~201ページではそんな彼の人生のターニングポイントともいえるそのときのことがこう綴られる。

「中国の市民の自由はぼくの知ったことではなかった。ぼくにはどうすることもできない。ぼくは自分が正義の側のために働いていると確信しており、だから僕も正義の味方のはずだった。

 でも読んでいるもののいくつかの側面には困惑させられた。ぼくは、技術進歩の根本原理とすら呼べるものを思い出してしまったのだ。それは何かが実行可能ならば、それは実行されてしまうだろうし、すでに実行済みである可能性も十分にある、というものだ。アメリカが中国のやっていることについてこれほどの情報を手に入れるためには、どう考えてもまったく同じことをやっていないはずがないのだ。そしてこれだけの中国に関する資料を見ている間に、自分が実は鏡を見ていて、アメリカの姿を見ているのではというかすかな考えがどうしても消えなかった。中国が市民たちに公然とやっていることを、アメリカは世界に対してこっそりやれる―― それどころか、実際にやっていそうだ。

 こう書くとたぶん嫌われるだろうけれど、当時はこの不穏な気持ちを僕は抑え込んだ。実際、それをなんとか無視しようとした。(中略)でもその徹夜の後の眠れぬ何日かを経て、ぼくの心の奥底ではかすかな疑念がまだ蠢いていた。中国についてのまとめを発表した後もずっと、僕はつい探し回ってしまったのだった。」

 その後の数年間の準備や葛藤を経て、この実直すぎる男が取った行動は世界をゆるがしていくことになる。そのことの重大さやカバーすべき情報量にはとても一読者の私にはついていけないのは当然なのだが、今回の自伝によって、「人生で最も重要な教えと言えるものを教えてくれたのは『スーパーマリオブラザーズ』だ」と言ってのけたり、人生ではじめてインターネットというものに触れたときの衝撃を隠すことなく素直に書いていくその筆調に、私はまさに同世代としての強い共感を覚えるわけで、それゆえに、政治的な意味とか社会的影響とはちょっとかけ離れたところで、ロシアで幽閉された生活を送っている彼の身を、不思議な親しみをもって案じてしまう。もっとも、いまはウイルスで世界中が幽閉生活となり、自分自身も身の危険を味わっている状況ではあるが・・・

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と、ここまで書いて文頭を読み直すと、「ぜんぜん脳天気な記事じゃない」と気づく。結局ウイルスの話やんけ、と。

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