カテゴリー「書籍・雑誌」の記事

2019.07.14

アウトドアの新しい楽しみ方「チェアリング」に興味がわく

たまたま書店でこういう本をみかけて、即買い。

椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門 (ele-king books)
スズキ ナオ パリッコ
Pヴァイン (2019-03-28)
売り上げランキング: 279,951

持ち運びの楽な折りたたみ椅子をもって、それを屋外において、限りなく荷物を持たずに、自然のなかでひとときを過ごすというアクティビティが「チェアリング」と名付けられていて、それが知る人ぞ知る密かなブームになって、こうして書籍まで刊行される運びになったようだ。

こういうことはもちろん以前からもそれなりに行われていたのだろうけど、「あらためて特定のアクションに名前をつける」ということで生み出される新たな「うごき」みたいなものに私は興味をひかれる。

日本チェアリング協会(笑)による、チェアリングを実施するうえでの注意点はこれだ。

・人様に迷惑をかけない
・ゴミは持ち帰る。むしろ掃除して帰るのかっこいい
・市井の人々に威圧感を与えない(酒をよく思わない人もいるので)
・私有地に無断で立ち入らない
・騒がない(KEEP CALM)
・公共の場を占有しない
・装備を増やしすぎてキャンプにしない

思い立って椅子とともに外へ行き、できれば近所にコンビニとかトイレがあれば嬉しくて、そうしてほどよい場所にスペースをみつけたら、そこで椅子を置いて座り、静かにその風景を味わう。

考えてみたらシンプルなことなのだけど、ある程度しっかり意識しないとこういうアクションを実行に移すことはなかなかできにくいものである。「チェアリング」は日常生活をすこし別の角度から眺めて、自分を取り囲む世界を新たな気持ちや視点で見つめ直す「工夫」だったり「アイデア」のひとつだと思う。

というわけで、お酒を飲まなくても、好きな過ごし方をすればいいわけで、私も折りたたみ椅子(と、虫除けスプレーとか)を手に入れるところから始めようと思う。

この本の著者たちが以前デイリーポータルZで書いた記事がとても詳しいのでリンクを貼っておく(こちら)。

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2019.05.20

平成最後の読書と、令和最初の読書

 読みながら、これが平成最後の読書になるのかもしれないと感じたので、4月30日を目標に読み切ったのが『ねじまき鳥クロニクル』だった。最近は「村上春樹再マイブーム期」で、特に近年のインタビュー集やエッセイなどを読んでいて、その流れで重い腰をあげ、今まで食わず嫌いだった長編も少しずつ手を出そうと思ったのである。でもこの作家の物語世界は、一年に一度読むぐらいがちょうどいいかもしれない。『ねじまき鳥』のおかげで、ゴールデンウィークのはじめごろはなんとなくフワフワとした気分になっていた。作者がこれを書いたのが1994年で、その後村上春樹は阪神大震災にみまわれた日本に戻り、オウムの事件に関心を寄せていく時期になるので、そう思うと平成を振り返る時期には図らずもどこかで共鳴していた気もする。

 なので令和になってからの最初の読書は地に足の着いた、現実的な内容の本を・・・と思い書店でウロウロした末に手に取ったのは、地に足が着くどころかずっと浮かんでいるようなテーマ、つまり空の旅についてのエッセイ、『グッド・フライト、グッド・ナイト:パイロットが誘う最高の空旅』(マーク・ヴァンホーナッカー著、ハヤカワ文庫)であった。現役パイロットでありつつ優美な文章を書くイギリス人作家による大空への賛歌。特に印象的だったのは、夜の飛行時における窓からの景色が好きであるという、根っからの「空マニア」としての記述であった。

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旅客機のすぐ下を、空っぽの大地が流れていく。暗い地表は天国と同じくらい遠く思える。また地表には、人の創った光も自然の炎も思いがけずたくさんある。都市や小さな集落が光によって描きだされる。闇が支配する時間に、光の文字で記された本のページのような地表を眺めていると、夜間飛行は、人間が地上に生んだ光の美しさを再確認するだけのためにあるような気がしてくる。生きとし生けるものすべてが星々に包まれていることを、思い出すために飛んでいるように思えてくる。

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 暗いコックピットから見る星々は息をのむすばらしさだ。高高度ともなると星々に遠近感が生まれ、夜空は三次元になる。宇宙に“深さ”という言葉を使ってもいいような気がしてくる。古の光が貫く深さから成る、宇宙という名の海だ。
 月のない夜は小さな星まで見えるので、意外にも星座の存在感は薄れる。乱気流や湿気のせいで11キロ下の地表までは届かない弱い光まで見えるがゆえに、星座の輪郭が埋もれてしまうのだ。逆に新しい星座を考えようと思えばいくらでもできる。天の川が初めて本物の川らしく見える。光のひとつひとつが水の粒だとしたら、暗黒を流れる星の雲といってもいい。

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と、このように美しい文(または見事すぎる訳文)が続くのだが、「なるほど、そんな世界があったのか!」と、いままで夜に窓際の席からじっくり外を眺めたことがなかったことを激しく後悔している。とはいえ、特に夜間飛行のときは、窓は閉めたままにしないと客室乗務員から注意を受けるので、そのあたりは悩ましいところではある。

前回、飛行機に乗って海外に行ったのが2年前のロンドン行きの大韓航空になるわけだが、行きのソウルからの乗り継ぎ便では、ばっちり窓際を予約して、「おろしや国酔夢譚」の世界を思いつつ、ロシア上空での地表の景色を楽しみにしていて、ずっと窓の外を眺めていた。しかしかなり早い段階で「シェードを下ろせ命令」が客室乗務員からそれとなく通達され、なぜこんな明るい時間帯に!? 誰も寝ないのに? これを楽しみに窓際の席を(しかも追加料金で最前列を)予約したってのに!! と納得がいかなくて、ちょっと半開きにしてそのままボーッとしていたら、トイレ待ちで通路にいた子供が、わざわざ身を乗り出して私の窓を完全に閉め切りやがったのである(笑)。いくら大人げないと言われようが、私はそのときばかりは内心、おおいに憤ったぞ。そのことをこの記事を書きながら思い出したわけで、ふたたびまた腹立たしくなってきたので、だから次に飛行機に乗るときは、毛布をかぶって窓をあけてずっと外を見ているかもしれない。こうして私の場合、この本の流れるような文体のごとく落ち着いた優雅な空の旅とはほど遠いのである。

 

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2018.12.31

今年最後の読書は、パン職人の自叙伝。

 今年は結局フリーペーパーも書かず、ZINEづくりに向けた作業もまったくはかどらずに終わっていく。
 ただ、インプットの面において久しぶりに読書欲が旺盛な周期に入ってきたのか、今年はめっぽういろんなジャンルの本を読んできたように思う。ただし今年最後の読書のきっかけは意外なところからやってきて、つい先日顔を合わせた旧友のM・フィオリオ氏が「これを読め!」と(強引に)貸してきた、ドミニク・ドゥーセ氏の自叙伝『ドミニクドゥーセ、リスタート!』(伊勢新聞社、2014年)となった。


 ドミニク・ドゥーセって、誰? となるのも無理はない。我々にとってその名前が特別なのは、90年代の初めに我々がF1マニアだった頃、鈴鹿サーキットで出店していたパン・お菓子屋のフランス人オーナーシェフとしてこの名前を深く記憶に留めていたからだ。特にフィオリオ氏がこのお店のお菓子を気に入り、彼が買った缶入りのお菓子に添えられていたリーフレットもなんとなく印象的だった。それで私もずっとドミニク・ドゥーセという名前を、聖地としての鈴鹿サーキットのこととセットで想い出のなかにしまっている。

 ただそれから25年ぐらいたって、お互いF1ファンではなくなっている今の状況において、フィオリオ氏がこの本を私にどうしても読ませたかったのは、我々はドミニク・ドゥーセが当時どういう想いでフランスから来日して、三重県の国際レーシングサーキットに店を構えて、その後どういうことがあったかということをまったく知らないまま生きていたからである。別にそんなことを知らないままでも、それはそれで問題はないのだろうが、この本を読むと「そんなことがあったのか、ドミニク!!」と、まるで遠い親戚のおじさんの知られざる驚きの過去をこそっと告白されたかのような、その数奇な人生の浮き沈みがなんとも驚きの連続だったからである。

 そもそもドミニク・ドゥーセは、87年に鈴鹿でF1日本GPを誘致するにあたって海外からの選手や客に対応できる良質の料理人の必要性が検討されたことで、サーキットの運営母体であるホンダから熱心なオファーを受けて日本に来ることになったそうだ。そこからの日本社会への適応に関する苦闘ぶりを読むにつれ、結局この人は日本のバブル期における「ノウハウがなくても金で解決すればいい」的なありかたに翻弄された人のようにも思えてくる。苦労して母国でパン職人になり、腹をくくって日本に来たからにはフランスの味をたくさんの人に伝えようという使命感をもって頑張り続けるも、遠くに住む家族との問題や、サーキットから独立してお店を展開するも、あやしい事業提携話にひっかかって悲惨な目にあったりと、幾多の困難を経て「ドミニク・ドゥーセの店」のブランドを守り抜き、今は原点である鈴鹿に本店を構えて「リスタート」をきっているドミニク氏の職人魂を思うと、今すぐにでもお店に出向いて、パンやカヌレを食べたい気持ちになってくる。

 「鈴鹿に行けばドミニクのパンが食べられる」ということでファンも多かったという幾多のF1ドライバーたちとの交流もまた、彼のパン職人としての来歴を語るうえでは欠かせない部分であるが、「私も、彼らとは違ったレースを、必死で走っていた」という一文がすごく、光っている。

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2018.11.01

永遠に続くかのような、はるか遠い世界をくぐりぬけたような気持ちで読み終えた小説のこと

 だいぶ前に手に入れていたものの、なかなか読む決心がつかなくて、長いあいだ放置していた小説を、ようやく先日読み終えた。


 読む決心がつかなかったのは、その小説があまりにも長いからであった。ひとたび手を着けたら、一気にリズムに乗って読んでいかないと、きっとすぐ飽きて挫折するだろうと思っていた。

 しかし思い切って本の世界に飛び込むと、その心配は不要だった。それぞれの章ごとに、一遍のドラマが始まっては終わっていき、そして次の章へと時間の流れは受け継がれつつ、かすかな関連性が次の章への布石を打っていく。その端々で、その小説が描く空間に実在したであろうさまざまなものへの想いに浸らせつつ、つぎつぎとスリリングで面白いフィクションが展開されていく、みごとな構成の小説だった。


 その本の題名は、ずばり『ロンドン』である。エドワード・ラザファードによる1997年の作品で、日本語版は集英社が発行した。上下巻合わせてだいたい1100ページ。ハードカバー版しか存在しておらず、2冊重ねると8.5センチほどの厚さになる。なので読むのをためらっていた理由のひとつは「一冊が重たすぎる」ことにあり、この数年、この本がひょっこりと文庫版だったりデジタル版で再発されないものかとずっと望んでいたが、どうやらそうはならないようだ。通勤電車の中ぐらいでしか本を読まない私にとっては、この本をずっとカバンに入れ続けた2ヶ月が終わった今、毎朝がどことなく「軽やかな気分」にすらなっている。


London01
 この小説は紀元前54年から、1997年にいたる約2千年にわたるロンドンの、もっといえば「テムズ川とその周辺」を舞台に、フィクションとして10組ほどの家族の変遷を語りつつ、実際の歴史的事象を織り込んで描いたダイナミックな大河ドラマのごとき小説(まさに舞台も『大河』なのだ)である。

 それぞれの時代においてたくましく生き抜き、純朴な人だったり狡猾な人だったりが、幸運や不運に見舞われ、自らの力の及ばない時代の荒波に翻弄されていったりする。それぞれの登場人物やその子孫達の目線から、ひとつの大きな「河」とその周辺の大地が少しずつ発展し、大火や爆撃による崩壊をも乗り越えて現在の姿に至っていく、そのありようを壮大な小説として味わっていくわけで、ロンドンという街が好きで好きでたまらない私のような者にとっては、これまでにない独特な読書体験をさせてもらったと、いまはひたすら作者(と見事な翻訳者)に感謝しかない。


 もっと早く読んでおけばよかったと思うことが何度もあり、話のあちこちで差し挟まれる、考古学的・歴史学的な「ロンドン・トリビア」に触れるたびに、スマホでグーグル地図を調べたりウィキペディアで実物を確認したりする楽しさもあって、今度ロンドンを訪れるときにはぜひ行ってみたい場所がこれでさらに増えまくった次第である。そもそもロンドンには言うまでもなくたくさんの面白い博物館や美術館があって、どれもリピーターとなってついつい再訪してしまうので、時間がいくらあっても足りなくて、他に行くべき博物館がまだまだ残っている有様なのである。なので実は私はいまだに「ロンドン博物館」と「交通博物館」には行けてなくて「今後のお楽しみ」にしたままなのである。次回ロンドンに行ったら、この街の歴史の面白さをじっくり味わえるであろうこの2館は心からワクワクして訪れることができそうである。

 子どもの時から私は歴史の授業が得意ではなく、すぐに物忘れをするためになかなか歴史の流れを記憶することが苦手だと思ってきたが、こうしてたった一カ所の視点から離れずに、ひとつの人類史の流れをたどっていくことが、こんなにスリリングでドラマチックなのかと改めて歴史学の面白さに敬服している。思えば世界史の教科書って、読み進めるとこれまでの出来事がバッサリと後ろに追いやられて、突然次の章からまるで何事もなかったかのようにまったく別の地域の話になっていく展開になっていて、そのあたりでモヤモヤとさせられていたのだろうなぁとつくづく思い至った。そりゃあ限られた時間に生徒たちは歴史的事象を理解・把握しないといけなかったから仕方ないのだが、そのせいでこうした『ロンドン』がもたらしてくれる「定点観測的楽しさ」が味わえないのは歯がゆいところでもある。

装丁のイラストレーションも最高にステキで、帆船が宙に浮かんでいるという空想的コンセプトが、史実とフィクションの混交をうまく雰囲気として伝えているようにも思える。


London02

 なにより最後の最後で、人がやってきては去って行く巨大交易都市としてのロンドンが、古来よりさまざまな民族の移住によって築かれた場所であることを作者は強調して締めくくっているのが印象的であった。それはまさに私がはじめてロンドンを訪れたときに感じ得たことでもあり、現代のアメリカやブラジルの大統領の流れとも関して、また、移民の受入れにあまりにも消極的な先進国に住む者として、読後感にじんわりと残すものがあった。


 

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2018.05.28

楽しげな本が新たに発刊されましたよ:『退屈をぶっとばせ!:自分の世界を広げるために本気で遊ぶ』(オライリージャパン)

読んでない本について書くのはこのブログでは控えてるのだが、2日前に出た本で「わー!」となったので、その気持ちに従って衝動的に紹介。『Make:』の関連書籍はどれも刺激的で見逃せない。
アマゾンの紹介ページではこんな風に書いてある:
本書は、自分自身にとって意味のある人生を作りたいと考えている10代の少年少女のための書籍です。
その内容は「すぐに大人にほめさせない」「学校に行かないで学ぶ」「ADHDの子どもへのメッセージ」など、成長の過程で必要なことが書かれたエッセイから、「文章を書くためのエクササイズ」「批評する方法を身につける」「スニーカーをデコる」「クッキーの焼き方を通して科学実験を学ぶ」「政治家に自分の考えを伝える」「ガレージセールでお金をかせぐ」「自分で自転車を修理する」「ゲームデザインを学ぶ」など、自己表現、社会活動、DIYに関連したハウトゥまで幅広く、これらを知り、体験することで、企業が提供する出来合いの娯楽ではない、本当に夢中になれることを自分で見つけることができるでしょう。
・・・ということなのだが、もはやこれは10代の子供向けではなく、文章を書いたり批評したりスニーカーをデコったり、クッキー焼いたり政治を考えたりガレージセールしたり自転車修理したりゲームづくりに挑んでみたりとか、「これはぜんぶオトナも本気出してやるべきだろう」っていう気持ちになるわけだ(そう思わせるウラの意図なり、真の狙いみたいなものも、『Make:』だったりオライリーの本全般は匂わせてくるので、さすがというか)。

そしてこの説明文でグッとくるのが「自己表現」と「社会活動」の同列のなかにDIY精神が当たり前のように語られて、それが共有されている状況がうかがえることだ。それこそがずっと私にとってこだわりのある部分であって、「ものづくり=DIY」の部分だけでなく、「それを行う主体としての自分そのもの」が「手作り、創意工夫」のなかで「自己表現」となっていく感じ、そこをちゃんと押さえていきたいのである。

で、これを言うと立場的にどうなんだとなりそうだが、そういう精神性ってやつは、教育だけでは(もっというと政策だけでは)育成されないし、常に「計画性」とか「プロセス、効用、効果測定、カリキュラム」みたいなものを、すっ飛ばして、すりぬけて、意味の分からない方向へ飛び散っていくのである。アウト・オブ・オーダーな世界。ざまぁみろ、っていう。

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2017.12.18

最近のあれこれをダダっと書く

 うっかりしているとこっちのブログを書かないまま2017年が終わってしまいそうになる。こんなはずじゃなかった、っていうのが2017年の自分を表わしているのかもしれないのだが、よくよく考えるとこれまでの人生全般において「こんなはずじゃなかった」って思いながら進んでいる気がするし(みんなもそうだと思うのだが、違うだろうか)、いずれにせよ「書くこと」によって、そのときどきの自分を確かめていかないといけない気もしている。なのにブログの更新頻度はお寒い状況であった。

 今日の時点で、思いつく限りのことをメモ書きのようにダダッと書いてみる。勢い重視。

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「こんなはずじゃない」っていう2017年においても、「これはもう文句なしに素晴らしい!」と思えることはあるわけで、(この本)が発表されて(このようなことがあった)、というのは私にとっても2017年最高の出来事のひとつ。おめでとうございます!!

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そして「harukanashow」のポッドキャスト、11月は2回連続でKanaさんという若いアーティストさんと音楽遍歴について話をさせていただく。(こちら)と(こちら)。なかなか思い返すと恥ずかしくなる過去の個人史について語っている。でも「インスタント・レタリング」って今だと気軽に似たような状態のものを個人で作成できてしまう時代なんだよなぁ、と。

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 ついに、来てしまった! と思ったこと。

 先日、デイリーポータルZで「現存世界最古のモノレール」としてヴッパータールのことが紹介された。
 (こちら)がその記事だ。ライターさんがヴッパータールにいって、その独特なモノレールについて興奮して取材している様子が伝わってくる。

 2014年にドイツ旅行をした際、このヴッパータールは私にとって旅のハイライトのひとつだった。映画『都会のアリス』の舞台のひとつであり、ずっとあこがれていた場所だった。そしてドイツではこのなんともいえないぶら下がりのモノレールがとても有名な観光名所であるにも関わらず、日本ではほとんど知られていないというのも、旅情をくすぐるわけである。

そして私に近しい人なら皆知っているように、こういう「ネタ」は私が次なるZINEなりフリーペーパーを書くためには絶好の素材であるにも関わらず、それを本当に現実にモノにするためには途方もないダラダラとした時間が必要であり、言うだけ言って企画倒れ、っていうのがいつものパターンとなっており、これもその一つである。今これを書いているパソコンの近くの棚には無印良品で買った大きめのファイルケースがあり、そこにはマスキングテープが貼られ、マジックペンでひとこと「ヴッパータールZINE」と書いてある。そして私の記憶を辿ると、最後にこのケースに手を触れたのはおそらく前の冬だったかもしれない。そういうことなのだ。

 この味わい深いモノレールが走るヴッパータールがどれだけ素敵な場所かということと、そしてまたこの街を教えてくれたきっかけとしての『都会のアリス』という映画について、そのふたつの事柄がこの街を流れゆく川のようにぐねぐねと入り交じったようなZINEを作ってみたいとずっと思っていて、結局何も動いていないのである。

 そうこうしているうちに、こうしてデイリーポータルZが「ついに」記事として取り上げたのである。この状況は、かつて『DIY TRIP』を作ったとたんに大手メディアがなぜかポートランドを特集しはじめて、結局私の書いたものの情報的な側面が急速に古くなっていって焦った出来事を思い起こさせる。グズグズしていたら、すぐに大きな注目が集まってしまう昨今である。

 ちなみにヴッパータールに関するもうひとつ最近のホットな関連事象を。
 職場で働いていた後輩が、30歳になる前にもういちどワーキングホリデービザ取得を目指し、無事にドイツのビザを取って仕事を辞めて旅立って行った。その出発直前、はなむけの言葉もそこそこに(とはいえ大半は『うらやましい~』というセリフばかり連呼していたのだが)「ぜひヴッパータールに行ってみて」ということを私は強くオススメしていたのである。するとつい先日メールがきて、ドイツ入国まもなくタイミングよく雪景色のヴッパータールに行ってきて感動した旨のメールが写真つきで送られてきた。そう、こういうスパッとした行動力こそが大事なのだと、私はこれを書きながら痛感している。

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 「書いていないネタ」は、この秋にもうひとつ出現している。手ぬぐい屋「にじゆら」で買い物をしたときに、たまたま「工場見学ツアー」の応募があることを知りエントリーをしたら見事に当たり、大阪の工場でにじゆらの社長自らによる「司会・進行・解説」を務めるツアーに参加する機会を得たのである。
社長の情熱はただひとつ、この「にじゆら」で伝統的に行っている染めの技法「注染(ちゅうせん)」がどういうものなのかを消費者に広く伝えたいというもので、私はこの日すっかり感動してしまった(社長さんの喋りも熱くて面白かった)。当然これも格好の「ネタ」としてブログに書いていきたいし、写真もあるのだが、自分の理解不足の部分もあって、ちゃんと調べ直さないといけない気もしていて、結局ずるずると時間が過ぎている。いつかいい文章でこの工場で出会ったことを伝えたい。

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 この秋はいろいろな場所へ出かけていたのだが、そのひとつが伊勢白子の「大黒屋光太夫記念館」だった。今年の春からとつぜんマイブームと化した例のロシア漂流民『おろしや国酔夢譚』の話は、自分のなかでこの記念館来訪でひとつのピークを迎えたといってもよかった。しかし、しかし、当然ながら記念館にしろそのほかの史跡にしろ、こういうのは得てして「昔からそこにあるもの」なのであり、私のマイブーム感による高揚した気分で訪れても、現実的にはクールにならざるを得ない部分があるわけだ(この感じ、伝わるだろうか)。
 なのでおおむね「大人しい旅」に終わり、そうなるとあまり「書きたい」という気分にもならず、いまは自分のなかで粛々とその史実のことをときおり想起しては、いよいよ寒くなる日々に当時の彼らの気持ちを重ねて想像する程度に留まっている。でもきっとこうして、私は年を重ねながら少しずつ歴史とか郷土史とかに関心をよせていくようになるのかもしれない。

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本についてもいろいろ書きたいのだが、気持ちが追いつかない。
や、最近ほんとにあらためて「本、おもしろい」って素直に思うことが多い。

そんななか、
「ついに来た!」というか、「ついに出た!!」
という本。

雑誌『アイデア』の対談がついにまとまった、とんでもなく重厚な本。
これを乗り越える仕事は、今後の数十年は出てこないんじゃないかと思う。
そしてこの本には「自分自身の一部」が刻まれている以上、ちゃんと直視して読み通すべきなのだけど、どうもやはり、自分のなかで『いま何も作れていない』という焦燥感にかられるのも否めないので、実は順調にページが進んでいない。

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もう一冊、これは実用書ではあるのだが、

「こんな本よむヒマあったらブログ記事をひとつでも多く書けばいいのに」っていうツッコミは甘んじて引き受けるが、これは「アウトライン・プロセッサ―」についての私の思い込みや誤解を氷解させてくれたという意味で、「2017年度・目からウロコ賞」 を差し上げたい良書であったのだ。学術論文とか書く人にとっても改めて良いツールになりえる本なので、公私ともに強くプッシュしていきたい本。
アウトライン・プロセッサはどうしても「目次を作って、それを元に書いていく」という作業のための道具「でしかない」と思われがちだけど、そうじゃなくて、好きなように要素を書きまくって「並び替えること(=並び替えが容易であること)」の意味を積極的に思考の方法(もっと広くいえば、普段の生活の記録全般)へと活用していこうというところまで視野に入れていて、「そうだったのかー! もっと早く注目すべきだったー!」となっているところ・・・つまり自分にとっての最新のマイブームがこれ。

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急に太った理由として「アボカドをよく食べるようになったから」という原因を疑った経験のある方がいましたら、ぜひ語り合いましょう。

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そうしてとつぜん話を戻すと、「ヴッパータールについてのZINE」を作るためには「もういちど現地で取材をしないといけない」というのを自分のなかの言い訳にして、またドイツ旅行にいく、というオチは充分にありえる。

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2017.08.08

『誰にでも描ける! イラスト旅ノート。』(k.m.p.著)は旅=人生を楽しむ指南書としても秀逸だ

 イラストエッセイ風の旅行記をたくさん作っている2人組ユニット、k.m.p.による『誰にでも描ける! イラスト旅ノート。』(JTBパブリッシング、2016年)は、冒頭に「旅は3回楽しめる」と説明されている。それは「準備」と「旅の最中」、そして「旅のあと」だ。一度の旅をながーく楽しみ、味わっていくためにできる工夫がこの本には凝縮されている。

 本としてのトータルなコンセプトとしては「あなたも旅行の記録をこんな風にまとめてみましょう」という内容だけれども、その視点だけではなく、もはやこれはk.m.p.のお二人のこれまでの海外旅行経験から蓄積されてきた「取材ノウハウのすべて」を大公開、という向きでも読めるし、そして実際にこれまで作った本におけるカラフルでポップで濃密な紙面を、二人がどういうふうに考えて工夫して作ってきたかという「本づくりの舞台裏、メイキング」の大公開、みたいにも読める。そして一番大切な部分として「いかに旅(=生活)を楽しむか」というアイデアやコツをあますところなくちりばめてくれているという、一冊で4粒美味しい感じの、素敵な本である。

 たとえば、この本を書店でザッと立ち読みして、こう思う人は多いかもしれない・・・「こんなにマメな作業、自分にはムリ!」、うむ、それはよく分かる。そもそもがこの人たちの作る本すべてに言えることだが、ページにおける情報量が濃すぎて、すべてがマメマメしくて、超絶技巧を凝らしたアートみたいな本なのである。
 でもこれは、「あなたもこんな感じで旅行記をまとめなさい」という読み方を必ずしも要求するものではなく、「こういう旅行記を書く2人が、どんなアイデアや工夫をしているか、ちょっと知ってみたくない?」というスタンスで気軽に読んでも楽しめるわけである。つまり「自分にとって役立ちそうなものを取捨選択していく」という読み方だ。その点において「旅行をもっと自分らしく味わいたい、楽しみたい」と思っている人なら、「買い」の一冊だ。

 もし社会学系の大学生で野外調査(フィールドワーク)をしている人がいたら、ぜひこの本を参考にしてもらいたいぐらいである。旅行の計画の立て方や、現地でのメモの取り方なんかは、「実際に現場で数々の苦労をしてきたからこそ」の実用的なアドバイスに満ちている。そしてそうした作業をできる限り自分なりに楽しく実践し、その後のアウトプットをいかにワクワクしたものにするか、というところにつながっていくのが素晴らしい。

 個人的に参考になった点を挙げたらキリがないが、ひとつだけ。旅行ガイドブックの表紙を隠すために、別の大きい紙をブックカバーのようにする人は多いと思うが、その紙をわざと本の背丈よりも大きめにとっておいて、はみ出る部分を外側に折込んで、そうしてブックカバーにすることで「外側に簡易なポケットができる」というもの。「だから何?」と思うかもしれないが、私は「うぉ~!もっと早く知っておけばよかった!」となった。ささいな工夫だけども、現地で行動するときにはかなり有用なテクニックだと思えて、こういう小技は好きだ。

 そしてこの本では「番外編」として、こうして培った「旅ノートづくりのノウハウ」を、もっと身近な日常の「おさんぽ」でも活用してみては、という提案。日常も旅も同じように、「しっかり味わい、よく観察すること」や「良いことも悪いこともひっくるめて、自分なりに消化して、慈しむようにそれらを記録に残すこと」が、日々の人生を豊かにしていくことなのでは・・・というのが、k.m.p.のお二人によるささやかなメッセージだったりする。


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2017.07.31

ペンギン・ブックスの関連グッズっていい味だしてる

たまたま丸善の大きい店舗にいったら、洋書コーナーの隅っこに、ペンギン・ブックスの装丁をモチーフにしていた折りたたみ傘がディスプレイされていて、買いそうになった。でも自分としては折りたたみ傘は「軽量命、デザイン二の次」という考え方なので、踏みとどまった。

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調べたら案外、ほかにもペンギン・ブックスのグッズがあるのな。
でも日本語で調べてもあまりうまくヒットしなかった。
どこで買えるんだこれ、っていう。探せば日本でもあるのだろうけど。
ちなみにアマゾンでも「在庫切れ」っていうのが多い。

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と、ここまで盛り上がっておいて、私はケルアックも読んだことないんだが。
もっと言うと、洋書そのものを持ってないやん、っていう(笑)

でも欲しくなるな、この独特の味わい。

それにしても「ペンギンブックス 折りたたみ傘」で検索しているのに、日本語のグーグルはなぜ「Suica」のペンギンのグッズばかり推してくるのだ!? 全然違うやん!

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2017.03.04

さいきんのこと:プレステVR、デロンギ、『繁栄』、三谷幸喜と清水ミチコの対談について

 先日同僚のタスク家におじゃましたときに、最近話題の「プレイステーションVR」があって、ちょっと遊ばせてもらった・・・いやはや驚異の体験とはまさにこのことで、ゲームの世界に没入するというのは、文字通りの意味でこのVRという装置が叶えてしまった。

ファミコンをはじめて触って以来30年近くが経ったが、家庭用ゲーム機はついにここまできてしまったのかと、何か踏み込んではいけない領域を垣間見た気分で、「すげー!!」と叫びまくってしまった。当然、プレイ中は周囲に頭とかぶつけないようにしないといけないわけで、バーチャルの世界に埋没するがゆえに気をつけないといけない物理的状況を、現実的に配慮しないと危険なのである。当たり前といえば当たり前なのだが。

 実際にVRに対応したゲームの世界では、こちらの自由意志による視点移動を現実世界のそれのようにあらゆる角度で表示することを可能としている。つまり走行中の車のなかにいて、後ろをふりかえってみると、こちらの首振りのスピードに合わせて後部座席に映る景色をスムーズに見せてくれるわけだ。ふー。

 タスク氏はこのVRをまだ自分の子どもたちにはプレイさせておらず、それはとても賢明な判断だと思った。物心ついたときからこうしたバーチャル・ゲーム機器で遊びまくることで、いざ自分が生身の状態で運動をするときに、どうしても物理状況における限界、「身体が動き得る幅の狭さ」みたいなものを感じてしまい(動きにくいし、失敗したらケガも怖いし、いいことがない)、リアルな運動に興味を抱かなくなる子供が今後増えていくんじゃないかと想像してしまう。あくまでもバーチャルが楽しいのはリアルとの比較があるからなのだが、こうしたバーチャル・ゲームの流れが不可避となると、大きい目でみたときにどういう影響が浸透していくのか、見守っていくしかないのだろう。

 ちなみに、ゴーグルで映像を見せる装置という観点でいけば、このVRをつけたときに真っ先に感じたのは「まるで映画館にいるみたい」ということだったので、寝たきりの人とかがDVDの映画を楽しむときの補助具というような方向性も今後発展していくのだろう。


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いまさら驚くべきことではないのだが、住んでいる場所がとても寒く、部屋が冷え冷えとしており、エアコンだけでは限界を感じていた。しかし改めて賃貸契約をみると、燃やす系の暖房機器は使えないので、最近思い切ってデロンギのオイルヒーターを買ったのである。

 いままでオイルヒーターの導入をためらっていたのは、「置き場所によって性能が発揮できるかどうかが決まる」とか、「すぐには部屋が温まらない」という情報が、どうもひっかかっていたからである。しかし、ためらっているあいだにも部屋は寒いままであり、「ないよりはマシだろう」と買ってみたわけだ。

 そして結論からいうと「たしかに、いったいどこに置くのが正解なのかが分からない」ということだった。いちよガイダンス通り、もっとも寒くなりやすい窓際に置いているのだが、あまりにカーテンや壁にヒーターを近づけすぎると危険らしいので、このポジショニングが実に中途半端なものになるのだった(電源コードとコンセントの関係も考慮しないといけないし)。そして案の定、あまり温かさを感じることはない。

 これは何かに似ているなぁと思ったら、それは「どこのポジションが最も適正なのか分からないままのサッカー選手」だった。チームを去るときまで、結局どこのポジションがベストだったのか分からないままの選手はかなり多い。そのモヤモヤがまさにいま、オイルヒーターという物体として私の日常に、ささいな懸念事項として存在しているのである。

そういう意味ではかなり人間くさい器具かもしれない。そう思うと愛着すらわいてきた。寒いけど。

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 最近読んだ本でダントツに面白かったのが、マット・リドレー・著『繁栄―明日を切り拓くための人類10万年史』 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫、2013年)だ。

「いろいろ言われているけど、世界はこの10万年単位で、確実に『良く』なっている」というのがこの本の主張なのだけど、その是非はともかく、人類の繁栄のキーとなったのが「分業と交易・交換」という概念であるというポイントはとても示唆的だ。あるアイデアを、他人とシェアしたり、交換しあうことで、新たなアイデアが生まれていくということをひたすら繰り返してきたからこそ、人類は生きのびることができたというのがこの本全体を通して検証されている。

このネット時代だとなおさらその「分業・交換」のプロセスは予想を上回る規模とスピードで行いうるのだから、そうしてまた新たな課題解決に人類は取り組み、乗り越えていけるのだろう・・・という前向きな気分が読後感として残るので、ひろくオススメしたい一冊。

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あ、あともう一冊、このシリーズをいままでなんでスルーしてきたのだろうと後悔していて、このごろジワジワと集めて読みまくっている。三谷幸喜と清水ミチコの対談集。

もともとはFM番組での喋りを文章化しているのだけど、なんかこう、言葉のテンポや相手の発言への切り返しとか、文章だからこそできる「ある種のカタチやパターン」において、読み手を引き込んで、笑わせる技術に昇華させていて、この二人の絶妙なレベルでの掛け合いが、読んでいて爽快なのである。

ちなみに「むかつく二人」の文庫版は6年前に出たものだが、巻末の解説はいまをときめく星野源が書いていたりする。



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2016.11.27

ポッドキャスト『Harukana Show』で村上春樹の訳した『グレート・ギャツビー』について語りました

イリノイ州アーバナシャンペンからお送りするポッドキャスト「ハルカナショー」、No.297, Nov.25, 2016 「秋の夜長、村上春樹の世界観にふれるwith Tateishi」ということで、最近のマイブームを話そうと思って、このブログに書きそびれたままのネタ、村上春樹が訳したスコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の話をさせていただく。

ポッドキャストは(こちら)より。

最近はまったく村上春樹を読んでないのだけど、高校時代に集中的に読んでいた時期があって、その延長で『グレート・ギャツビー』も当時の翻訳で読んだけど、なんかさっぱりで、でも書き出しと結論の部分の美しさは確かに印象が残っていた・・・という作品だった。村上春樹がもっとも好きな小説として挙げていて「老後の楽しみとしていつか翻訳する」と何かのエッセイで書いていて、それがいつのまにか10年前ぐらいに早々に出版されていたことを知りちょっと驚いて、ずっと気になっていて、最近ようやく手を出した・・・という顛末。

装丁に関してはこっちの下のほうの廉価版?のバージョンのほうが断然好みなんだけど、なぜかAmazonではこのバージョンが表示されない。
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ちなみにこの一連の翻訳シリーズは和田誠氏による他の装丁も絶妙にツボな写真を使っていてすごく好き。
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作家にしろミュージシャンにしろ、その本人が強く影響を受けた大好きなアーティストの作品にたいしてカバーをしてみたりオマージュを捧げたりするのはすごく興味深いもので、たとえば個人的にすぐ思いつくのはローリング・ストーンズがカバーするロバート・ジョンソンの『Love in vain』とか、「この曲本当に大好きなんです濃度」の高まりが素敵すぎて(あ、このブログの左端の下のほうに表示してる、好きな音楽動画を集めた中にも未だにアップしていますが)、もはや原曲よりもさらに違う味わいを放っていて、いろんなライヴ音源とかをネットでいろいろ探したくなる。アーティストによる「一方的な思い入れ、片思いっぷり」みたいな情熱を本家に向けて捧げていくそのテンション、私は好きである。

とにかく、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』ですよ。村上春樹が作家人生を賭けて最大限の愛情を込めて必死に翻訳した文章が面白くないわけがなくて、文章表現として何を読者に示して、どこで会話文を入れて、どこで情景描写を行って、どこまで言葉で説明するか/あるいは説明しないのかといった独特のバランス感、立体感というか・・・村上春樹は「テクスチャー」などと表現しているけれど、そういう「ある種の感触」が絶妙で、たしかに村上春樹がこの小説の魅力を力説するだけのことはある気がした。他のところで村上春樹は「文体とは乗り物みたいなもの」と書いていたことが印象的でずっと覚えているのだが、今回の翻訳を読んで、あらためて「読者を乗せて運ぶ」という概念を考え抜いていくことが文章を組み立てていくうえでの重要なポイントなのだと実感。

で、そうしたフィッツジェラルドなどの文学者を見出して編集者として支えたマックス・パーキンズの評伝を今読んでいるところで、例えばこの『グレート・ギャツビー』の完成までをパーキンズがどのようにオーガナイズして軌道修正させていったかなどのエピソードがすごく興味深かったり。
この本を原作として作られた映画で、今年たまたま日本で公開されている『ベストセラー:編集者パーキンズに捧ぐ』を見逃したことを後悔していたのだが、よくみたら関西では1月にも京都シネマとかでやるみたいで、ありがたい。

しかしこの映画版の主軸である肝心の作家トマス・ウルフの本って日本でなかなか手軽には手に入らないのが謎。古本でやたら高値になってる。


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