カテゴリー「日記・コラム・つぶやき」の記事

2023.08.14

国会図書館のデジタルアーカイブ検索で遊んでみたら、父親の卒業制作までたどり着いた話

国立国会図書館デジタルコレクションというページ(こちら)では、所蔵しているデジタルコンテンツを次々とテキスト化しているようで、それらを検索可能な状態で提供している。
基本的にはものすごく古い時代の書物あたりがメインになっているが、たとえば自分の祖父母とかご先祖の名前を入れてみると、いろいろと楽しめるはずである。

私の場合、祖母の名前ではヒットしなかったが、祖父と思われる人物は数件ヒットしたのである(同じ漢字を途中まで含む、似た名前の別人もヒットするわけだが)。両方の祖父ともに特に有名人というわけではないのだが、長い人生においては、たとえば公的機関が出すような文書だったり、地域における公共性の高いちょっとした読み物みたいなものには、ときに名前ぐらいは載ったりすることもあるだろう。

そしてそういう非常に細かい情報たちが、こうしてネットで探し出せることに「すげぇぇぇ」となる。ここは世代的な問題だろうが、未だにインターネットにたいしては、そういう気持ちになってしまう。すげぇよ。

で、一般ユーザーの場合は、「この文書に、この検索キーワードがヒットした」というレベルまでしか分からないので、当該のページそのものをネットで閲覧することはできない。本当にデータが欲しい場合は別途、手続きが必要になる。

私の場合は「これは」と思う資料について古本サイトで検索すると、実物で入手できるものがあったので、ちょっとした記念に2つほど発注してみた。
ひとつは父方の祖父についてのもので、地域の郷土史家らしき人々が戦後に編纂した重厚な本だった。地元の産業界の詳細な紹介をしているコーナーに関係者の名前が細かく列挙されており、電力会社に勤めていた祖父の名前を見つけることができた。
もうひとつは母方の祖父についてのもので、実は某地方の旧制高校の出身だったようで(私の母もその認識はなかった)、その高校の同窓会が編纂した書物の中に主だった卒業生たちの進路先や活躍ぶりが分野ごとにずらっと紹介されており、絶対にこれは本人だと分かる内容で書き残されていた。

そんなわけで「恐るべし国会図書館」、思わぬタイムカプセルを見つけた感じであるが、さらに踏み込んで父親の名前を入力すると、似たような名前の検索結果がたくさん出てくるなかで、誠文堂新光社が発行している、広告関係やデザイン関連を扱った雑誌『アイデア』の1961年6月号に、父の名前がありそうだということが分かったのである。
私の父は多摩美術大学の図案科、つまり今でいうところのグラフィックデザイン学科で学んでいたのである。おそらくその関係ではないかと思われた。

すかさずこれも古本市場で調べたのだが、あいにく雑誌の現物を入手できそうなアテがなかった。
そこで次に調べたのは、国立情報学研究所のCiNiiによる全国の大学図書館の蔵書検索である(こちら)。そうすると『アイデア』の当該号を所蔵しているいくつかの大学のなかで、自宅に近い某大学図書館が学外一般者も資料閲覧やコピーが可能だということが分かったので、とある日の午後に訪れてみた。

Img5352

たまに「休みの日には何をしているか」と人から訊かれることがあり、いつも答えに苦しんで「いろいろやってます」と返すのだが、こういうことが「いろいろ」の中にあるんだろうなと、誰もいない静かな書庫を歩き回りながら思った。「父親の名前が載った古い雑誌をみるために、よく知らない大学図書館の書庫の中でウロウロする」という、ただそれだけの休日。

もちろん図書館なので、きっちり整理されている資料群から、目的のものを探し当てるのにまったく時間はかからなかった。

Img5351
(▲黒表紙に製本されて「アイデア」とだけ書かれて並んでいる状況がなんだかポップ感があって、よい。)

こうして1961年6月号の『アイデア』と対面することができた。

そこで分かったのは、この号では前年度の主な美術系大学のデザイン関係の卒業制作展のなかから、いくつかの作品を紹介するという趣旨の特集記事があり、そこに父の卒業制作が掲載されていたということであった。

Img5349

「え、ということは、他の美術大学も含めていくつもある卒業制作のなかからピックアップして選出されたということ!? すごいやん!?」と、素直に父親を褒め称えたい気持ちになった。
誰もいない書庫で。



そこで見つけたのがこれだった。










Img5350

タイトルは『日本の民謡』




Torres

お、おう・・・・。


たしかに味のある作品といえば味があるが、当時のこの美大生の試みがうまくいっているのかどうかはよく分からない。でもまぁ、こうして雑誌に選ばれているのだから、きっと良い作品なのだろうと自分に言い聞かせながら、この特集コーナーまるごとをコピー機にかけさせてもらい、あらためて実家に行って父親にこのコピーを手渡してみた。

なんとなくの予想通り、父の反応はたいして盛り上がるわけではなく薄いリアクションであった。
この卒業制作はレコードジャケットを作るという課題だったとのことで、たしかに他のページに掲載されている学生の作品も、そんな感じで正方形にオシャレなデザインを配置しており、当時はモダンジャズが流行っていたようで、ジャズのレコードっぽいのがたくさん掲載されていた。

そんななかであえて「日本の民謡」を押し出したあたり、さすが「ビートルズは嫌いだった」と言い張る偏屈な若者だった当時の父親の気概を匂わせる(正確にはビートルズは大学卒業後に流行っていたわけだが)。

私がこのコピーを持ってきたことで、父にとっては自分の作品のことよりも、あちこちのページに記載されている同級生の名前にひとつずつ懐かしさを覚えていたようで、それはそれでコピーしておいてよかったと思った。

父は卒業後に某家電メーカーの宣伝部に進むことになるのだが、この雑誌が出たのはまさに社会人一年目の慌ただしいときのことだったようで、こともあろうに私が今回見つけるまで「こんな雑誌に載っていたことは知らなかった」とのこと。つまりあれか、遠く山口県の故郷から芸大にまで通わせてくれた両親にも雑誌に載ったことなんて伝えてなかったのかこの息子は。

あと、ついでに書くと、私自身もたしかにイラストや絵を描くのは得意なほうだが、子どものときから振り返るに、父から絵の描き方を具体的に教えてもらった記憶はない。
さらに、私はやがて仕事上のなりゆきで、自分でチラシ制作のためにデザインやグラフィックソフトを独学で習得して、趣味においても仕事においても我流でデザイン作業がそれなりにできる人になったのだが、よくよく考えたら父のほうは学生時代にみっちりデザインを専門に学んでいたというのに、そういう会話をほとんどしたことがなく、これは我々の間における「皮肉な謎」のひとつである。

例えば私などは「教えたがり」なので、もし子どもがいたら、良くも悪くもそれなりに自分の得意技能についてあれこれと言ってしまいたくなるだろうと思う。しかし私の父はそういう干渉をまったく行わなかったことになるので、人からみたら「それが最高の教育なんです」とか言うかもしれないが、本当に何もなかった側からすると、ちょっとぐらいは何か教えておいてくれてもよかったんじゃないかと思う部分もある(笑)

皮肉ついでにさらにいうと、この1961年に父が『デザイン』にその名を刻んだ55年後に、今度は私が同じ雑誌(2016年7月号)に載ることになったわけである。野中モモさんとばるぼらさんのZINEについての連載で、フリーペーパーを紹介していただいたのであった。

2016_vol7

そして、このページにたまたま挙げてもらっていた『HOWE』の第20号「ベルギー、フランス、ハイタッチ」の表紙絵は、父親に頼んで描いてもらったモン・サン=ミシェルを載せていたわけで、図らずも父親は2回、自分の作品を『アイデア』に載せたことになるのであった。

(そんなことよりも、いいかげんフリペの新作を作れよというツッコミはさておき)

| | Comments (0)

2023.07.08

水たまりを越えていけ

いつも通勤で近道を利用するとき、とある中学校の敷地の横を歩いている。
そこは細い通路で、中学校の敷地側は低いコンクリートの上に金網のフェンスが続いている。そして向かい側は大きな用水路になっていて、そこも金網のフェンスで仕切られている。

このあいだ夜のうちに強く雨が降り続いた日があり、その翌朝のことであった。

天気は回復していたので、いつもの近道ルートを歩いていたが、ずっと降っていた雨の影響で、水たまりがあちこちにできていた。
しかもこの細い道の路面のアスファルト部分は近年になって工事か何かで新しくなった部分があるようで、そのせいか、歩いている道の先には、今まで見たことのないような規模の巨大な水たまりが発生しているらしいことが、路面の様子を見てうかがえた。

たいていは路面の凹凸を慎重に選んでいけば、水たまりのなかでもできるだけクツを濡らさずに足をついて渡っていける部分もあるものだが、この大きな水たまりにおいてはけっこうな深さもあるようで、まったくもって足場になりそうな部分がなく、まるで池のようになっていたわけである。
できれば革靴を濡らしたくないので、来た道を引き返したほうがいいかなと思いつつ、ひとまず水たまりの状態を確かめようと、そのまま進んでみた。

ちょうどその反対方面からは2人の男子中学生がこちらに向かって歩いてきて、その巨大な「池」を前に立ち尽くし、「どうしよう・・・」といった感じで迷っている様子だった。

Sonoichi

彼ら2人がどういう行動を取るのかは私にとっても参考になるので、問題の水たまりに向かって歩きながら、その動向を注視していた。

すると、その男子中学生2人は、水たまりの縁をしばらく右往左往しながらも、やがてそのまま普通に水たまりをジャブジャブと歩き進んでいったのである。
すべてをあきらめたかのように・・・。

ちょうど私が水たまりの縁にたどり着いた頃、「池」を渡りきった彼らとすれ違う感じになった。
おそらく彼らの運動靴は一気にグショグショに濡れていたことだろう。

そんな様子を見届けた私も「池」を前にいったん足をとめ、状況を見回して、決断した。


この場合、選ぶべき手段はこれじゃないのか?













Sononi

ええ、齢46になるオッサンは、中学校の敷地のとなりで朝からカニ歩きですよ。
体重も増えてるから、つかんだフェンスの金網もグワングワンとなって不安定でしたよ。

でもおかげさまで、革靴は無事に濡れずにすみましたよ。



・・・というわけで、私はこのことからいろいろ考え込んでしまったのである。
あの少年たちは、どうしてこの方法を思いつかなかったのか。

これは「外遊び経験の豊富さのちがい」というものによるかもしれないが、
それよりも、私はなんだかこれは「ゲーム的な対応力」の違いを感じた。行く先のルートに障害物があり、どうやってそれを乗り越えるかという課題について「昭和のゲーマー」としての私と、令和のゲーマー(であろう)と思える現代の中学生たちとの、実生活世界へのゲーム的な発想の持ち込み方みたいなものが、何か違うのかもしれない。

・・・と、そんなことをモヤモヤと考えていたのだが、でも真相はきっと、「公衆の面前では、はしたないことをやらない」という、イマドキ中学生のスマートな意識が、そうさせただけなのかもしれない。

あのときカニ歩きを終えた私は、後ろを振り返ることはしなかった。ひょっとしたらあの中学生たちは、フェンスにつかまったカニ歩きのオッサンの姿を振り返って目撃していたかもしれない。その場合は、「その手があったか」と思うよりも、「ああいう人にはならないようにしなくちゃ」と思ったかもしれない。


| | Comments (0)

2023.05.07

チャールズ国王戴冠式の個人的ツボ・まとめ

思えばエリザベス女王の国葬については繰り返し見たくなる映画のような素晴らしい葬儀で、いろいろと語りたいシーンがいくつもあったのだが、なんだか「人のお葬式」について書くのも気が引ける部分もあり、このブログでは書かずにいたままだった。
(でも結局、普段の生活でもこの話について誰かと語る機会もなかったので、気が向いたらブログでまた書くかもしれない)

そうして昨日はチャールズ3世の戴冠式が執り行われ、幸い日本では連休の真っ只中ということもありじっくりとBBCワールドの日本語通訳入りでその様子をライヴ中継で味わうことができた。そして一方ではサッカー・アジアチャンピオンズリーグ決勝が同時刻に行われていたもんだから、浦和レッズの試合の様子も気になるのでパソコンでDAZNの中継を流しっぱなしにしつつ・・・という状況だった。

230507_img_5158
テレビで観ているうちに、なんだか自分も観光客気分で、スマホで画面を撮影したくなった(今回はほとんどがこのスマホの写真を使わせてもらいますが、当然ながら画像の質は悪いです)。

230507_img_5162
バッキンガム宮殿からウェストミンスター寺院へ向かう行進から始まるのだが、馬車をひく馬たちが、青いカツラをつけられて、そして目にはフタになるような飾りをつけられていた。
230507_img_5169
おそらく馬の性質上、そうすることで集中力が高まったりするのだろうけど、「見えにくくないのだろうか、それで自分の職務を全うすることはできるのだろうか」と、ぼんやりと不安にさせるあたり、「これは英国の誇るロックバンドであるロキシー・ミュージックのギタリスト、フィル・マンザネラが初期によくしていた変なメガネみたいなものなのだ」と思うようにした。
Manzanera
↑ この人。

そうしてウェストミンスター寺院には王室の面々がやってくる。

230507_img_5170
ハリー王子は今回はひとりで出席。いろいろ微妙だもんねぇ。

230507_img_5172
で、アン王女を見て最初は「なんでそんな格好なん?」と思って半笑いで写真を撮ったのだが、このことは後になっていかに自分が無知であったかを思い知らされることになる。

ちなみに報道写真から拝借。これがその格好。
Princessannecoronation
この帽子のまま戴冠式のあいだも列席していたので、ずっと気になっていたのである。

230507_img_5182
そうこうしているうちに、国王夫妻を載せた馬車が国会議事堂の近くを通って寺院へ。

230507_img_5187
本当にどうでもいいことばかり気になるのだが、いつもは観光客でごった返しているウェストミンスター寺院の入口にある、この画像の奥にみえる「お土産屋さん」、さすがに今日は閉めてるんだよなと確認。

230507_img_5189
そしてさらにどうでもいいことなのだが、馬車を降りるときに国王夫妻を迎えていたこの人たちがそれぞれに持っている傘の種類がバラバラだったのが印象的だった。隊列や行進に関わるあらゆる物事がビシッと揃っていたなか、数少ない「間に合わせ感」が出ていたのがこれだったので、つい嬉しくなって写真に撮ってしまう。

230507_img_5191
国王を待つ参列者。ハリーの「ぼっち感」が際立つので「がんばれ!」と言いたくなるし、その目の前にはアン王女の帽子。いろいろ気になる。手前の空席はこのあとウイリアム皇太子の家族が座る。

230507_img_5192
そして来賓席のなかでは秋篠宮夫妻がいいポジションに座っていて目立っていた。

で、ここから大司教やさまざまな聖職者が入場してくる。

230507_img_5193
230507_img_5195
「なんでこういう衣装なんでしょうねぇ?」と言いたくなる。いろいろ豪華だったり謎めいていたり。

230507_img_5196
不鮮明で申し訳ないが、どう考えても「普通の長い棒」あるいは「釣り竿?」にしか見えないものを持って入場する人も。

230507_img_5198
で、寺院に入場する直前の国王と、この儀式でずっとサポート役をつとめる2人の司教の様子が捉えられていて、とくに右側のメガネの司教がやたらフランクに喋っているようにうかがえたので、きっと「まぁ、気楽にいきましょ、気楽に」みたいなノリでリラックスさせようとしていたのかもしれない。

230507_img_5203
こうして入場。後ろにいる少年のうち左は、孫にあたるジョージ王子が立派に侍者を務めていた。いつか彼もこの儀式をやらないといけないのだろうなぁ。

230507_img_5212
そんなジョージ王子と新国王を見守るウイリアム皇太子の一家も勢揃い。
Charlotte
すっかり大きくなったシャーロット王女とルイ王子がこの日もすごくかわいらしくてネットではさっそくいろいろ記事になっている。
Princelouisandprincesscharlotte
特にこの写真におけるシャーロット王女の毅然とした立ち姿は、まんまエリザベス女王そのものやん!といった印象がある。

230507_img_5214
そうして儀式が始まったのだが、驚いたのはオープニングを飾ったのはひとりの少年の侍者が、これから儀式が始まります的なスピーチを行ったことだ。すごい緊張感のなかで、ものすごい大役を務めていて、立派だった。

そうしてここから長々と儀式が進んでいったわけである。

230507_img_5218
まぁ、当然といえば当然だが、それぞれが口にする言葉はカンニングペーパーを見ないことにはどうしようもないわけである。
カンペの背には紋章みたいなのがちゃんと印刷されているが、なんだかテレビのクイズ番組で使われるような問題カードにも見えてくる。

230507_img_5221
常にカンペ。

230507_img_5227
そして、建物の構造上、来賓席からは直接メインの舞台が見えないので、ウイリアム皇太子も身を乗り出さないと様子が分からない。

また、今回の戴冠式では、歴史上はじめて女性の司教が儀式に参加したり、新しい取り組みをいくつか導入していたようで、そのうちの一つが、ゴスペル歌手による「ハレルヤ」の合唱が行われたことだった。

230507_img_5233

アカペラによる歌はとても美しかったが、個人的にはちょっと緊張感を覚えた。というのも
230507_img_5234
みんなで輪になって歌っていたので、絵的にはちょっと落ち着かない状態に。

230507_img_5238
あと、背後に映る参列者のみなさんの表情がなぜか一様に固すぎて、そこも緊張感をかもしだしていた。や、分かるよ、儀式が長ったらしいのは。

230507_img_5245
引き続き儀式は粛々と進んでいき、これは聖なる油を身体に塗る儀式の最中に持ち込まれた囲い。中で何が行われているかは誰も分からないのである。

230507_img_5246
「お着替えタイム」みたいな、これもまた絵的に落ち着かない時間。見方によっては「奇術師の脱出ショー」みたいな雰囲気すらある。

で、ここまでくると、あくまで自分の主観なのだが、チャールズ王やカミラ王妃も「面倒くさいなぁ」というオーラがでているように思われてきた。

230507_img_5247
さんざん儀式に振り回されたあげく、途中できわめてラフな格好にさせられて、この上から特別な金色の衣を着せられたり。

230507_img_5252
そしてそれぞれの貴重な宝物が、順番に新国王に手渡されるのであった。

230507_img_5254
そして最後に王冠をかぶるのだが、このときは「強引に頭にねじこまれる」感じがあって、ちょっと気の毒なほどだった(笑)

230507_img_5258
で、カミラ王妃にも王冠がねじこまれたのだが、この直後に何度も王冠と髪の隙間を手でいじったりして、「儀式とか本当に面倒くさいのよね」といわんばかりのカミラさんの庶民的なノリ、私は嫌いじゃないです。

230507_img_5265
紫色を基調とした衣装や王冠を身につけて退場。この姿をみてはじめて、あぁエリザベス女王の子どもだったんだなぁ、似ているなぁ、と実感。

こうして再び一行はバッキンガム宮殿に向かうわけであるが、最初よりもかなりパワーアップした隊列が待ち構えていた。

230507_img_5271

で、ここで大変驚いたのは、国王の妹にあたるアン王女である。
彼女は馬術が得意とのことで、このとき国王夫妻の馬車を率いる騎馬隊の一員として、馬にまたがり行進していたのである。
Anne_

Anne
この緑色の円の位置でずっと馬に乗って併走。

いやはや、参りました。このような理由で、あのようなお召し物を身につけていたとは。
これって日本の皇室に例えたら、即位パレードで天皇陛下が乗るハイヤーに紀宮さんが白バイで併走するようなものではないか。カッコ良すぎる。

来賓席にいたあとに、馬にまたがって宮殿へ。
ネット上でも「アン王女かっこいい」の賞賛がいくつも起こっている様子。

230507_img_5279

230507_img_5291
こうして、バッキンガム宮殿に戻って、多くの見物客へ挨拶。

230507_img_5301
230507_img_5303

この一連のプロセスが5時間ぐらい。すっかり見入ってしまった。(その傍ら、浦和レッズが奮闘の末、アジア王者になっていた。おめでとうございます)

230507_img_5304
最後にロンドンに行ったのが2017年で、そのときこの宮殿や、宮殿前のザ・マルの大通りについて想い出深い出来事があり(こちら)、自分にとっても特別な感情を抱く場所ではあるが、こうしてまた文字通りの新しい歴史が刻まれていったんだなぁと実感した。

<余談>
230507_img_5299
▲このお面は売り物だと思われるのだが、いまだに世界的にはこうした「写真のお面」はそのクオリティが残念なままである。私の書いた「DIYお面の作り方」の記事を読んでもらいたいものである。

| | Comments (0)

2023.04.19

(ネタバレにならない程度に)『街とその不確かな壁』の読後感について書く

よく考えたら村上春樹の新作を発売日に買うということも、あと何回できるか分からないんだよなと思った。
ちょうど私にとって、自分が生まれる前の1972年とか1973年あたりに、洋楽ロックの世界ではキラ星のごとき名作アルバムが信じられないぐらい次々とリリースされていったという歴史に憧れを覚えるのと似たような感じのノリで、先週の発売日に書店に寄って『街とその不確かな壁』を手に入れてみて、さっき読み終わった。

自分の率直な感想としては・・・いま、こうしてブログでさっそく記事を書きたくなる程に、つまり誰かと語り合いたいぐらいの気分で、今回は充実した読後感がある。

私は決して村上作品の熱心な読者だとは思っていなくて(どちらかというと氏のエッセイのほうが好きだ)、あまり私の感想もアテにはならないのだが、少なくとも前回の『騎士団長殺し』よりかは、よっぽど良い、と言ってもいいだろうと(笑)。

その理由を考えてみると、今回の作品で描かれたさまざまな出来事や、それをとりまく光景や心象などは、なんというか、読者それぞれの「生」にダイレクトにつながっていくような普遍的な感覚がずっとあったからかもしれない。
別れを惜しむかのようにこの小説の最後のページを読み終わったあと、ここから先の展開が、読み手である自分自身の内なる部分で続いていくかのような、そういう話だった。
(それを言ったら、『騎士団長殺し』でも他の作品でも同じようなものではないかと言われても、まぁ、そうかもしれませんが・・・とは思うのだけど、なんだか『騎士団長殺し』だけはタイトルのせいかもしれないが、なんだかしっくりこない感じがずっとつきまとった作品だった)

それと、読み進めながらずっと思っていたのは、2009年に村上春樹が行ったいわゆる「エルサレム・スピーチ」のことだった。ここで村上春樹は「壁=システム(政治だったり軍事だったりの統治制度など)」と「卵=個々人やその魂」を比喩として用いて「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と述べたわけだが、今回の作品は表題にも「壁」という語があるように、そのままのメタファーが小説のなかで繰り返し重要なものとして登場している。

もっともこの作品は、デビュー直後の1980年に発表した作品の出来に満足がいっていないまま長らく気になっていて、それをコロナ禍の始まった2020年頃から書き直しを試み、そこから物語をさらに進めた末にできあがったとのことで、本書の「あとがき」では「要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。」と書いている。長らく自分のなかで沈殿しては浮かび上がってきたりする問題意識をつかんで離さないそのスタンスによって、「壁と卵」のメタファーが、その始まりから現在に至るまでずっと村上春樹のなかにあったのかもしれない。そう思うと、きわめてこの人は恐ろしいほど実直なんだろうと思う。

| | Comments (0)

2023.04.06

仕事でバナーを手に立ち続けて気づいたこと

 私は事務員として大学で働いているが、キャンパスの最寄りの駅から少し歩いたところに専用のスクールバス乗り場があり、4月ごろは新入生をはじめ多くの学生が利用するので最も混雑する。なのでいつもこの時期はバスの運行会社の人とともに、職員も交替で当番を決め、大学名の入った腕章を巻いてバス停付近の混雑対応にあたることになっている。

 このとき学生たちに求めることは、「狭い歩道に広がって歩かず、一般通行者のジャマにならないように気をつける」ということだ。

 とはいえ、一人で来る学生は往々にしてイヤホンを耳に差しておりこちらの声を聴くつもりはなく、私としても「だーかーらぁージャマになってるから歩道の端に寄れって言ってんだろおおぉーーがあぁーー!!」という旨のメッセージを(かなりソフトに変換して)大声で何十回と繰り返すのも、しんどい。

そのため、私はこの業務にあたるとき、いつも自主的に以下のようなバナーを作って立つようにしている。



Keepleft

このようなバナーを学生に見せて、道の左端を歩くように仕向けつつ「おはようございます」というフレーズを連呼するほうがお互いの精神衛生上にも良いだろうと思っている。

また、バナーを持って立ち続けることで、ここを通過する地域住民にも「当大学はこのバス停周辺における交通環境の安定化に最大限の努力を行っている」ということが視覚的にも伝わってくれたらいいなという、小賢しい目的も密かにある。
(そういうことを私が意識するようになったのは、学生時代に公共空間における落書き/グラフィティを消去しようとする地方自治体の動きを追っていた時期、調査に応じてくれた役所の担当者が「街中で目立つ落書きを我々が消そうとする作業そのものを、近隣住民に見てもらうのも防犯対策事業の目的のひとつ」とキッパリ言ったことによる知見に基づいている)

こうしたバナーを用意して待ち構えることは自分にとって普通のことだと思っているのだが、同僚である教職員の面々が学生にまじってスクールバス乗り場に向かうとき、こうしたバナーを手にしたタテーシの姿に出くわすと、人によってはどういうわけかクスクス笑いを誘うようで、なんだか可笑しさを感じさせるらしいのである。

私としてはこの現場においてできる限りの効果的な方策を熟慮した末にこの「バナーを見せる」という方法をあみだしたつもりである。そして多くの教職員が毎年私のバナーを見てきたはずなのだが、毎年この業務において事務局で作られる簡単なマニュアルにおいて、いまだに「バナーを持って立つ」という指示が書き加えられる様子はない。やはり「なぜか笑える感じ」が漂うからか、私としても自分からは積極的に「バナーを作って持った方がいいですよ」とは進言しにくいのである。

 なので毎年、私は無言のうちにバナーをプリントアウトし、折りたたんでカバンに忍ばせて、翌朝に朝日のあたるバス停につづく歩道へたどりついたら、同じく整理業務を担当する同僚やバス会社の人々と軽い打ち合わせをして持ち場について、ひとり静かにバナーを広げるのであった。


 そうして今年も桜の季節を迎え、つい先日も同じようにしていたわけだが、今回ここで初めて「大きな気づき」を得たのだった。


 ようやく、分かったのである。


 これは、私がこの10年あまりにわたって少しずつ親しんできた新しい趣味である「市民マラソン大会を沿道で応援する人」と、構造的にまったく同じことをしているのである。

走ってくるランナーにバナーを掲げて応援している沿道の客と、次々やってくる学生に声をかけながらバナーを見せてこちらの思いを伝えようとする私の姿は、やっていることが同じなのである。

 さらにいえば、別の趣味であるモータースポーツにおける「ピットウォールでサインボードを掲げるスタッフ」とも、やはり同じような構造なのである。

<イメージ画像 ↓ >
Pitboard

 だからこそ、このときの私はおそらく不気味なほどに満足げな雰囲気で歩道に立っているのだろうと思える。


 そりゃあ、まぁ、苦笑してしまうわな。

| | Comments (2)

2023.03.25

福井の書店「わおん書房」にて出会った『やりなおし世界文学』(津村記久子)で自分もやりなおしたくなった

出張で福井にいくことがあり、帰る前の空き時間に立ち寄れそうな本屋を探したら、「わおん書房」という小さい書店があったので行ってみた。

簡素なカフェスペースも備えていて、どの棚も「売りたい本しか置かないぞ」というこだわりが感じられるおしゃれな空間だった。

インディーズ系書店に来たからには絶対に何か本を買って帰ろうと、狭い店内を何往復もウロウロしていた私を見かねたのか、店員さんから「荷物をここに置いてもらっていいですよ」と声をかけていただいた。しかしよくみると私が肩からさげていた仕事用のカバン(着替えも入っていたからよけいにパンパン)が、店の中央に設置してある大きいテーブルに平積みされていた本たちを知らず知らずになぎ倒していたのでプヒャー! すいません! となった。

そうして気を取り直して、帰りの電車内で気楽に読めるようなコラム集みたいなものがちょうどいいだろうなとウロウロを繰り返し、装丁の良さも目をひいたので手にとったのが津村記久子の『やりなおし世界文学』(新潮社、2022年)だった。

Sekaibungaku

津村記久子さんと言えばサッカーのサポーターを題材にした小説があり、その存在を知ってはいたが、読んでいなかった。
なので、わおん書店のテーブル陳列を乱した申し訳なささに加えて津村記久子さんにも若干の申し訳なささを感じつつ、この本とともに帰路についたのであった。

でもこうした「実はまだ読んでません、すいません、テヘッ」というスタンスそのものが、この『やりなおし世界文学』のテーマともなっている。読書好きが高じてプロの作家となっても、なぜか読まずじまいで通り過ぎていった古今東西の名作文学たちについて、津村さんが「今まで読んでなくてすいません」の姿勢で一作ずつ向き合い、その感想を述べていくコラム集となっており、もともとは新潮社の『波』などに連載されていたものだ。

そしてこれが期待以上に面白かったのである。読み手としての津村さんの視点が絶妙で、ときに鋭く深く読み解いたかと思えば、下世話で小市民的なスタンスになったり、放埒な筆運びで世界文学の巨匠たちの仕事を語りまくる。

そもそも最初に登場するのがスコット・フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』である。
「もういいかげん、ギャツビーのことを知る潮時が来たように感じたのだった。」
という書き出しで、あぁーこれを津村さんはそれまで読んでこなかったのかとまずは驚かされるわけだが、
「ギャツビーは、わたしには華麗な人には思えなかったけれども、人気がある理由は辛くなるほど理解できた。少なくとも、『華麗さ』と『男性用スキンケア用品の名前だから』という理由で避けている人であればあるほど、本書の切実さが刺さると思う。」
とあって、ネタバレをギリギリに回避しつつ、自分もこの本を読んでみたいと思わせる楽しげな文体が、「津村さんも面白いし、取り上げた名作文学たちも面白い(はず)」と感じさせるのであった。

あと、毎回のコラムに添えられるタイトルも秀逸なのが多い。アーサー・C・クラーク『幼年期の終わり』については「幼年期はべつに終わっていい」とか、サミュエル・ベケット『ゴドーを待ちながら』については「誰もがゴドーを待っている」とか、カフカ『城』に至っては「仕事がまったく進まない」とか、こういうノリで紹介されると、今まで読んでいなかった作品も中身ががぜん気になってくるのである。

普段利用するような大型書店だと、あまり「文学」のコーナーにいくことも少ないので、わおん書房のようなセレクトショップ的な本屋さんならではの出会い方でこういう本を知ることができたのはよかった。

| | Comments (0)

2023.03.14

愛と葛藤の無印良品週間

「無印良品週間」といえば、いつ実施されるか予測ができない、ちょっとしたゲリラ的バーゲンセールである。あらゆるものが10%オフで購入できるので、無印良品ファンはその日がくるのを待ち構えつつ、普段から「次の『週間』に何を買うかリスト」なんかをメモっておいて準備しているはず・・・してますよね。するよね。

あと、たまたま買い物のついでに無印良品ストアに足を踏み入れちゃったりすると、「今度の『週間』で買おうと思っているものの現物をあらかじめ確認したり、最近出た新商品をチェックしておく」っていうことも・・・やりますよね。するよね。

で、「週間」が近づいてきたら、店内にも「●月●日から無印良品週間がはじまる」という案内が掲示されていたりするわけで、あらためて「うん、始まるな『週間』、よしよし・・・」と思いながら満足げに店内をウロウロしたりするわけで・・・するよね、うん。

で、そんな「週間」を近日中に控えた直前のときでも、たくさんのお客さんがレジに並んでいる光景を目にするわけである。
そのときに、私は葛藤を覚える。

うむ、たしかに、レジにたくさんのお客さんがいることは、間違いなく(株)良品計画にとっていいことであるには間違いない。

でも、でも、

「週間」が、あと数日で始まるんですよぉ!?

その買い物、もうちょっとガマンしたら、来週には10パー引きですよっ!?

あなたが、その、今まさにレジに持っていこうとしている「重なるラタン角形バスケット・大 3,990円」は、本当に今日ここで買っておかないといけないものなんですかぁ!?

お店にめったに行けないっていっても、「良品週間」はネットストアでも割引きになりますよー!?

・・・と、そこに並ぶ一人一人に語りかけたくなる。

普段そんなに無印に興味関心がないのであれば仕方がない。でも今日ここにきて、あちこちに貼られている「●月●日から無印良品週間10パーセント引き」のインフォメーションは目に入っていないのだろうか。今日の買い物をガマンしておいて、ちょっと時間をとって会員登録して(無料だ)、スマホにアプリでも入れておけば、「週間」の時期に10%引きクーポンが表示されるっていうのに。

そして店内スタッフも、あえて「無印良品週間」をことさらにアッピールしてこないのである。考えようによっては、会員登録を増やす良いきっかけともなりそうなものだが、そこに執心するわけでもなく、「知っている人には割引きますが、まぁ、そうでなくても普段からお客さんはやってきますし、通常価格で買ってくれてありがたいですね~」っていうノリである。むぅ。

これと似た葛藤は、実際に「週間」に突入して、ここぞとばかりに買い物をしてレジに並ぶときにも感じてしまう。

当然ながら「週間」は、無印フリークにとっての祭典として、どうしてもレジは通常以上に混む。普段あまり買い物をしてこなかったことを後ろめたく感じつつも、我々はこの「週間」でのレジの長蛇っぷりを甘んじて引き受け、覚悟をもって並んでいるわけである。

で、レジに並んでいるときに、つい私は暇つぶしを兼ねて「どれだけのお客さんが、レジでのお会計のときに『週間』の割引きクーポンを提示しているか」を、まるで良品計画のマーケティング担当部門の社員かよというぐらいにしっかり観察してしまうのである。

そこでのだいたいの印象では、「思っているほど『週間』のことは知られていないっぽい」ということである。レジの店員さんがクーポンやアプリはお持ちですかと尋ねるも、何も持っていないので別にいいです、というお客さんはめっぽう多いのだ。混雑したレジ前で並んでいる間に、もし店内のお知らせをみて気づいたら、その場でアプリをダウンロードして会員登録して、クーポンを用意する時間的な余裕は十分にあるというのに・・・キミはレジにたどり着くまでに何をボヤボヤしとるんや!? と、お節介オッサンはひとり買い物カゴを持ったまま問いただしたくなる気分にかられる。

つまりそういうお客さんは、よりによって無印ファンが押しかけていつも以上にレジが長蛇の列になって混雑するっていう時期に、割引で購入する意志もないまま、わざわざ買い物に来てしまっているということになる。
割引きにもならないわ、そしていつも以上に長蛇の列で並ぶことになり時間を失うわ、そしてお会計のときに無印アプリの入ったスマホをスタッフに提示しているかどうかを私みたいなヤツにジーッと観察されるハメになっているわで、まったく、いいことがない。

ただ、すべてを大きな視点から捉えると、そんな10パーセントのためにあくせくと動くような私みたいな輩よりも、いつでも値段を気にせずフラッとやってきては買っていく、そういう人たちが本当の意味で良品計画を応援して支えているのかもしれない・・・と、こうして「葛藤」は終わることがないのであった。

Muji

| | Comments (0)

2023.02.06

誰もいない映画館で『セールスマン』を観ながら、自分も仕事をしているような気になっていった。

 前回の記事で映画館について触れたのだが、今年はなるべく映画館に行こうと思っていて、先日は『セールスマン』という映画を観てきた。でも上映期間が終わりかけの時期だったからか、客は私一人だけだった(映画館で一人というのはさすがに初めてだった)。

これはアルバート&デヴィッド・メイズルス兄弟による1969年の作品で、豪華版の聖書を訪問販売するセールスマンの姿をひたすら捉えたドキュメンタリー映画である。どうしてそんなニッチなネタを映画に残そうとしたのか、そのテーマ設定自体が興味深いので、気になっていたのである。

Salesman

 そう、まずもってこの「豪華版聖書」は買ってもらうのにかなり苦労しそうな商品なのである。このサイトで昔の米国での物価を調べると、1969年当時の1ドルは今の物価で約8ドル相当らしい。この映画で扱われた聖書の販売価格はたしか50ドルぐらいだったはずなので、今なら400ドル、日本円で52,000円、なんなら消費税込みで57,200円ぐらいの感覚か。『広辞苑』とかの辞書のような分厚さでサイズが大きく、外装の色が自由に選べて、中身も綺麗なビジュアルがふんだんに取り入れられており、たしかに古い聖書よりも魅力的ではありそうだが、それでもテレビショッピング的に「そこから驚きの割引き価格!」にならないかなぁと思ってしまうような価格帯である。

 物語は4人の主要なセールスマンのうち、ポールというおじさんをメインに追っていくことになる。このポール氏がどうにも売り上げが芳しくなく、門前払いにあいまくるし、不慣れな土地で行きたい住所にたどり着けないまま諦めたり、しまいにはモーテルに戻って同僚にグチりまくっては、担当している地区の悪口までぶちまける(なので、聖書販売業者はよくこの映画化にオッケーを出したよなぁとエンドロールにでてくる謝辞をみて思った)。

 メイズルス兄弟は「ダイレクト・シネマ」というコンセプトを掲げて映画史に残る作品を手がけたということで、撮影機材の小型化により、ありのままの「現場」に飛び込んで撮影することがその手法の特徴になるとのこと。そうして作られた本作品を通して私がずっと気になっていたのは、「よくぞここまでご家庭にカメラが踏み込めたなぁ」ということだった。

 つまり、訪問販売のセールスマンが家を訪ねて玄関から居間に通されるだけでも一苦労なわけだが、そこでさらにカメラマンまでもがズカズカ入り込むことになるわけだ。映画ではそのあたりの経緯には触れられていなくて、どうやって一般家庭の人々と折り合いを付けながらここまで撮影できたのか、ヒヤヒヤする感じで観ていた。ドキュメンタリー映画は、常に「カメラがそこにいることの影響」を頭の片隅で考えながら観てしまうわけで、本作で映し出される人々が赤裸々に「この聖書を買うだけの経済的余裕がいかに我が家にはないか」をカメラの前で切々と語るのは不思議な感じすらしていた。そして状況が状況だけに、聖書を「買わない」と突っぱねることへの自身の信仰心における煩悶だったり、そしてそこにつけこむセールストークの無慈悲な雰囲気といったものが、モノクロフィルムを通して切々と記録されている。

 途中のエピソードで、豪華なホテルで行われる社内研修において偉いさんは「あなたたちはお客様に幸福をもたらす仕事をしているのだから、もっと誇りをもて」と叱咤激励する。そうして血気盛んな社員たちは「自分の目標は●●万ドル売り上げることです!」と皆の前で宣言させられたりする。このあたりは現代でも似たような状況のような気がするし、スターバックスにおける「我々はコーヒーを売っているのではなく体験を売っている」とかいうスローガンも思わせたりする。でも当事者も絶対気がついていただろうけれど、このセールスマンたちは、拝金主義と宗教的信仰の板挟みのなかで労働を行っている。そもそもキリスト教は利子をつけてお金を貸したりすることを忌避していたはずなのに、映画にでてくるセールスマンは、聖書の支払いに悩む客に何のためらいもなくローン支払いを提案したり、果ては「隣人にお金を借りたらどうか」とまで言う。

 そうしてポール氏は、「俺が金持ちになったら~♪」などと鼻歌を歌いながら車を走らせ、客の前では「この聖書は一生モノの遺産になります!」とか言い張り(ホントに自分でもそう思ってんのか、とツッコミたくなる)、舞台は雪の残る寒々しいボストンから一転し、今度は同僚たちとフロリダにまで販売旅行と称して出張したりするが、それでもなんだか冴えない日々が続く。それぞれにある地域の教会で、豪華版聖書に興味のある人が記入した登録カードみたいなものを頼りにして訪問先のターゲット客をあたっているようなのだが、映画ではさまざまな境遇の家庭が登場して、軒並み経済的にはそこまで裕福でもなく、結局どこへ行っても留守だったり、断られたりの連続で、しだいに哀愁ただようロードムービー的な雰囲気になっていき、最後はいささか唐突な感じで終わるのだが、なんだか自分も「報われない労働」をしたような気分になった。ゆえに労働にしばしばまつわる淡々とした「救われなさ」みたいな感覚が味わえる作品であり、そしてポールおじさんのその後に少しでも神のご加護があってほしいと思った(僕は買わないけど)。

 

| | Comments (2)

2023.01.22

ひさびさの「当たり読書」:『THE WORLD FOR SALE:世界を動かすコモディティー・ビジネスの興亡』

 突然だが、以下にある企業のロゴや社名をご存じの方々はどれぐらいいるだろうか。

230121logo

 今回取り上げる本『THE WORLD FOR SALE:世界を動かすコモディティー・ビジネスの興亡』(J・ブラス、J・ファーキー著、松本剛史訳、日経BP、2022年)を読むまで、私はこれらの企業の名前はまったく知らなかった。
 しかしこれらの会社は、たとえば米国におけるアップル社やコカ・コーラ社のようなワールドワイドな規模で商売をし、時としてとてつもない収益をあげていたりする。

 扱っているのはいわゆるコモディティー、つまり原油や金属資源、農作物などである。
 仮に我々はアップル製品を買わずとも、またコーラを1本も飲まなくてもそれなりに社会生活を送ることができるだろうけれど、一方でエネルギー資源や食料が世界中を移動することによる様々な恩恵を受けなければ、まずもって生活が成り立たない。ただ、これらを取引して動かしていく「コモディティー商社」の社名に我々が触れることは稀だろう。彼らは自らの存在を一般消費者に誇示する必要はまったくなく、いわゆる「B to B」のビジネス形態なのだから当然かもしれない。そしてこの本を読むと、むしろその存在ができるだけ表舞台に出てこないほうが彼らにとっては動きやすく、利する部分が多いことも分かる。

 そういうわけで「民間で知られないままでいるには、あまりにも巨大な影響力を持った、途方もない強欲の組織体」ともいえるコモディティー商社群について、その通史や暗部、そしてこの業界の未来について徹底的なリサーチやインタビューに基づいて書ききったこの本は、とっても刺激的であった。

 登場する企業・政府・人物、彼らが行ってきたことのあらゆることが非常に狡猾だったり強欲だったり倫理感が欠如していたり、さまざまな部分でスキャンダラスでダーティーなものなのに、それらをすべてひっくるめて「楽しんで読めるもの」として成立しているのは、これはもうジャーナリストの見事な技芸のたまものであり、ストーリーテリングの妙味が炸裂した本だと感服するしかない。
 
 とくに私は「グローバリゼーション」という言葉を、これまでなんとなくフワッとした意味合いの、大きい概念を指し示す適当なフレーズ程度のものとして捉えていたことに気づかされた。ちょうど「マルチメディア」という言葉が今となっては陳腐なものになっているように、時代を経るごとにグローバリゼーションという言葉も「今さら、なんですか」という印象しか浮かばないような、そんな感じである。
 だがこの本を読んで、私にとっての「グローバリゼーション観」はドス黒いものとセットに、生々しく迫るものとして強制的に再認識させられたのだった。
 国家の枠組みを飛び越えるもの、その動態みたいなものをグローバリゼーションのひとつの表われとして捉えるのであれば、まさにコモディティー商社が、とうの昔から国家の管理とか法律とかの規制に縛られることなく活動の幅を拡大して好き勝手に動いており、もはや彼らの金儲けの飽くなき探求の結果としてグローバリゼーションといえる状態が作られていったのではないか、ひいては「オマエらのせいかーーっ!?」というツッコミをしてしまいたくなるのであった。
 
 何せインターネットができるずっと以前から、ある意味での「情報ネットワーク網」を世界中にはりめぐらせ、こともあろうにCIAですらそこに頼ることが多々あったらしく、また「ビッグデータ」という言葉ができるずっと前から、商社は世界中の農場から得た膨大な情報を駆使して未来予測を立てて生産量や値動きの変動を追っていたりもする。なので彼らの活動が現代に至る技術革新のイノベーションを促進していた部分があるとも言えそうである。

 で、この本でもいろいろな「歴史的取引」が紹介されるのだが、国際社会からの経済制裁により貿易が本来はできないはずの国だったり、反政府ゲリラ組織だったり、債務危機に陥って破綻寸前の国だったり、そうした困窮状況につけこんだコモディティー商社の暗躍によって資金や資源が動き、国や反体制組織が支援されていく。そしてそこには政治的公正さや倫理観は「二の次」となる。ただひたすら「たくさん儲かるから」、彼らはリスクを背負って賭けに飛び込む。
 そういう意味では「武器商人」にも通じる話でもあるが、コモディティー商社の場合は、扱っている商材が最終的に私たちの生活の一部としてつながっていて、末端のところにいる「顧客=読者」としての我々もある意味でそうしたドロドロの状況に含まれているのだということも実感させられる。

 届けられるはずのない場所へ誰も想像もしないルートから原油を送り込んでみせたり、あるはずの大型タンカーが突然姿を消したり、そうした「ナイフの刃の上を歩く」ように綱渡りで秘密裏に進められる巨大な商取引をダイナミックに展開する商社のトレーダーたちの奮闘ぶりは、それが褒められる行為かどうかは別として、どうしたって「面白い」のである。国家という枠組みによる衝突や駆け引きをよそに、その裏をかいて、自分たちの利益のためだけに国境をやすやすと飛び越えて資源を調達しては売りさばき、あるいは値上がりを見越して溜め込み、さまざまな策略を駆使して法の網の目をかいくぐりライバルを出し抜いて巨万の富を獲得しようというそのエネルギッシュな動きは、もはや読んでいて感心すらしてしまう。

 そうやって「国家を裏であやつる存在」にもなりうるコモディティー商社の影響力が途方もなく大きいものに発展していくこととなる。ネタバレになるので詳細は書かないが、近年の動向において、こうした動きを監視し抑圧する方向で一番の役割を担いつつあるのが、やはり「世界の警察」を自認する合衆国だったりする。本書の終盤においては、このあたりの動きを含めてコモディティー商社をとりまく世情が今後どうなるかを占っていくのだが、「それでもしぶとく彼らは儲け続けるはずだ」という論調になっていくのが苦笑いを誘う。
 もし今後、探査船が月に飛んで、月の深部に有益な埋蔵資源が眠っていることが判明しても、それはコモディティー商社の手配したコンテナや重機が月から資源をすっかり回収した跡が残っていたがゆえに発見できました、というオチになるんじゃないかと夢想してしまう。

 そしてまた、ここまで広範囲で多方面にわたる天然資源の商取引の歴史を語るにあたり、「主だった登場人物や会社が一冊の本のなかで認識しうる程度の数に収まっていること」が、いかにわずか少数の人間や組織が、この地球全体の資源をコントロールしているかという不穏な実情を示唆している気がする。なので本書の題名『THE WORLD FOR SALE』はこれ以上見事な表現がないぐらいに著者たちの伝えたいことが示されていて、決して誇張でもないのであった。

 それにしてもこの本は、題名と装丁がちょっと気になったのでたまたま手に取り、それでお正月休みに読み始めてみたら、とにかく筆の運びが巧みで翻訳も自然で一気にグイグイ読ませ、どの章もスリリングなサスペンス小説のようで、かつ今までまったく知らなかった業界の内側をわかりやすく丁寧に解説してくれるという、久しぶりの「当たり読書」だった。

 たとえば本書の終盤、「第13章 権力の商人」の書き出しはこうだ。

2018年初めにその短い発表があったとき、ペンシルベニア州の公立学校に勤める教員の誰かが注意を払うことはおそらくなかっただろうが、そこには彼らの退職後の蓄えにとってありがたくない知らせが含まれていた。

 この第13章に至るまで本を読み進んでいると、崩壊後のソ連だったり、キューバや湾岸戦争や中国の資源需要急増などといった緊張感の高い話がテーマとして連発してくるなかで、このシンプルで唐突な書き出しは絶妙だ。いったいどうして、ペンシルベニア州の公立学校の先生たちの退職金が、このコモディティー業界史をめぐる激しいテーマに関わってくるんだ!? と気になって仕方がなくなる(実際、このあと予想だにしない方向へ話が急展開する)。カメラの視点と、背景のテーマとの距離感のギャップが大きければ大きいほど、著者が仕掛ける「演出」が際だってくる。

 このごろは「面白い!ブログで書きたい!」と思える本になかなか出会えてなくて、昨年だと『コンテナ物語:世界を変えたのは「箱」の発明だった』(M・レビンソン著、日経BP、2019年)は、そのテーマ性が絶妙なので読む前から期待値が高くなりすぎたのもあったが、どういうわけか途中から急激につまらなくなって、結局途中でギブアップしてしまった。やはり書き手の側にある種のサービス精神だったり、人間存在のユーモアとペーソスを大事にしようという意識が根底にうかがえる本は、読者を飽きさせずページをめくる手を随行させ、読み終わるのが惜しいぐらい充実した読後感を与えてくれる。そういう本にもっと出会いたいものである。

 

| | Comments (0)

2023.01.15

今さらながら「ふるさと納税」をやってみた話

数年前に、普段は業務で関わることが少ない職場の人と世間話をする機会があり、そのときに「『ふるさと納税』やってないんですか! 絶対やったほうがいいですよ!」と強くオススメされたことがあった。

Furusato

しかし、そのあとも相変わらず何もしないまま日々を過ごしていた。特産物の果物とかが自宅に届くのはよさそうだが、「マイナンバーカード」を作らないと参加できないものだと勝手に思い込んでいたのである。

で、昨年の末頃に、どうやらふるさと納税はマイナンバーカードがなくてもできるらしいことが分かり、そこで初めてこの制度について真剣に向き合った次第である。今さら・・・と思われるかもしれないが、私の周りの人にそれとなく訊いてみても、まだやったことがない人も多いみたいで、そういうものなのかもしれない。

それにしてもあらためてこの制度のことを知ると、ポジティブな面とネガティブな面があり、いろいろと奥深い。例えば最近でもニュースでやっていたが、川崎市などは市民がこぞってこの制度を利用したので「税金の流出」が問題になって、市側が市民向けに「このままだと行政サービスが低下します」と訴えていたりする(こちら参照)。
それと、約9割の自治体がこの制度に参加しているとのことで、東京都は自らの判断で辞退していたりするケースがあるものの、もしかしたらとても小さい地方自治体のなかでは、制度に乗りたくても乗れないほどいろんな意味でのエネルギーが枯渇していたりするところがあったりするのかな・・・とか想像してしまう。現在の政権下においては、「自助努力」を求められる厳しい風潮があって、それは自治体においても同様に、税収の奪い合いの競争を生み出してしまっているフシもある。

で、ユーザー側(というか納税者側)からすると、何もしなかったらそのまま税金として徴収されるぶんを、自分の思い入れのある好きな自治体に寄付できたり、災害に見舞われた地域に支援の気持ちで寄付したり、あるいは返礼品をいろいろ探して、それ目当てで寄付を送ることができ、それまで名前すら知らなかった地方自治体とちょっとした「ご縁」ができることは、この制度のポジティブな点ではある。

あと、これも自分の思い込みだったのだが、ふるさと納税の返礼品は「地元の特産物」として食品関係ばかりがほとんどだと思っていた。しかしそれ以外にも地元の製造業や観光業とも連携して、現地企業が生産する日用品とか、スキー場のリフト券なども返礼品となっていて、バリエーションが豊富であることに驚かされた。つまり普段の生活で何か日用品を買おうと思い、それが自己負担額2000円以上は確実にするもので、かつ寄付上限額を超えない限りであれば、買い物に行く前にふるさと納税の返礼品で入手できるかどうか探してみて、もしあればそっちで注文するほうがお得なわけである。

そんなわけで「もっと早くから気づいておけばよかった・・・」と、昨年末に駆け込みでいろいろと楽天のふるさと納税サイトをあれこれ検索しまくっていたわけである。

そんな私が一番最初に申し込んだ返礼品がこれである。


















Img4755

お味噌汁用に欲しかった、大きなお椀・・・。

一人暮らしをして以来、お味噌汁を一人分つくると、どうしても量が少しオーバーすることが多々あって、使っていたお椀だと一度に入りきらなかったのである。なので長い間、それとなく大きいお椀を探していたのだが、これ!といったものに出会えていなかったのである。それで今回のふるさと納税デビューにおいて、大きいお椀を探してみたら見事に出てきたのでオーダーしたのであった。

うむ、これを読んだ“ふるさと納税ユーザー”の読者諸氏のツッコミが聞こえてくるよ・・・。
「それって・・・その辺のお店で2000円以内で買えない?」と。

や、たしかに、私もオーダーした直後にそのことをうっすら思った。

しかし、実際に届いたものを手にしたら、ものすごく手触りが良く、丁寧に加工された、人の手の温もりを感じさせるものであり「おおお! これはかなり良い! 2000円以上は確実にします! ありがとうございます!」と納得した。
(寄付金額は15000円だったので、それの3割以内が返礼品価格だから、きっと4000円ぐらいのものだろうと思う)

Img4756

これは、島根県益田市にある匹見というところで生産されている「Hikimi 森の器」とのこと。今回用いられた木材はトチノキであることが焼き印で示されている。

そこで生産者さんの思いがこのように語られていたりする。
---
◆生産者の想い
益田地域の山林での雪害・風害による倒木、道路建設等のためやむを得ず伐採された樹木などを譲り受けた後、製材・乾燥・ロクロ削り加工など1年以上の時間と愛情をかけて、樹木から食器へと新たな使命を与えて生まれ変わらせ、皆様のもとへお届けします。

---
ということで、非常に時間をかけた丁寧なものづくりをされているわけである。
そうして生産者さんの作業風景の写真も見ることができる。ご参考までに当該ページは(こちら)。
こういうのを目にすると、たしかに応援したくなるじゃないですか。

そして匹見という地域について調べてみると、ウィキペディアでは「1960年代以降より過疎が進行しており、『過疎発祥の地』として知られる」とあり、そうだったんだぁ~となり、なおさらに寄付をしようという気持ちになったわけである。こうして知らない地域のことを新たに学べる機会にもなっている。

そして寄付控除の手続きについては、確かにマイナンバーカードを持っていない場合はプラスアルファでちょっとした書類手続きがゴチャゴチャと発生する。だが「しかるべき書類を作って折りたたんで封筒にノリ付けして封をして、郵送に備える」という一連の作業について、私の場合は長年にわたる特異な趣味(← 笑)の影響で、自宅デスクで極めてスムーズに行える体制をすでに築き上げていたため、何ら面倒に感じることはないのであった。

こんな調子で、他にもいろいろと調べては、寄付を申し込んでみた。ベタではあるが夏ごろには山梨から果物がちょくちょく届けられるように手配したりして、楽しみにしている。

私の同僚の人が世間話のトークのネタで(タテーシとの話題に困ったあげく?)ふるさと納税を持ち出してきたくなる気持ちも今ならよく分かる。「そんな返礼品があるのか!」っていうのが他にもたくさんありそうなので、情報交換したくなるわけである。

ただ、ふるさと納税は決して節税ではなく、「単なる税金の前払い」と言える制度でもあるので、昨年分を年末のうちに駆け込みで一気にまとめて申し込んだがゆえに、翌月のクレジットカードの支払い予定がえらいことになるというのがオチといえばオチである。

| | Comments (0)

より以前の記事一覧