カテゴリー「文化・芸術」の記事

2021.08.29

『B面の歌を聞け』vol.1「服の自給を考える」

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 友人の作家・太田明日香さんが主宰する「夜学舎」から、手作り雑誌『B面の歌を聞け』が創刊された。

 ここで語られる「B面」というのは、資本主義とかメインカルチャーが主軸で動いている世界を「A面」だと捉えたときに考え得る、オルタナティブな世界のありようのことだ。モノの交換だったり、できる範囲でDIY精神を発揮していったり、お金をかけなくてもいい部分をそれぞれのローカルの場から探求・実践していく姿勢を、このささやかな雑誌は問いかけようとしている。

 初回のテーマは「服の自給を考える」ということで、ハンドメイドのシャツの制作者へのインタビューや、ただ消費される対象としてでなく、服との多様なつきあいかたを提案する記事などが楽しめた。とくに、よれよれになって着れなくなった服を、型紙から起こして別の素材で縫製して“コピー”するという発想は自分にとって新鮮だったし、あと自分に技術がなく、身近なところで縫製を頼めないような場合に有用な「縫製職人マッチングアプリ」があるというのも、面白い試みである。

 読みながら感じたことは、衣食住のなかで「衣」の部分はもっとも「B面仕様」にしやすい領域ではないかということだ。たとえば「子どもが暮らしやすい家を建てる」というのはありえるが「子ども専用の家を建てる」ということは難しいわけで、そう思うと衣服というのは年齢とか目的とかの一般的な側面での「個性」に応じて、それぞれにカスタマイズが求められ、さらに嗜好やオシャレさを追求する楽しさの幅もふんだんに備わっているわけで、この領域を企業の利潤追求作業にまかせっきりにするのは確かにもったいない。

 ただし、もちろんすべてをイチから自作する必要もなく、雑誌のなかでも「不要品からパーツを流用し、ここぞの部分だけをハンドメイドとして成立させていく」というスタンスが紹介されていたりするように、「いいとこ取り」で、手作りと既製品のハイブリッドを楽しんでいくことも可能である。
 そういえばちょっと前に『ゼロからトースターを作ってみた結果』(トーマス・トウェイツ、新潮文庫)を読んで、あらためて「ものを作ること」について考えさせられたが(この本、ある意味では名著だと思う)、すべてを自分で作り上げる必要はなく、技術がゼロであろうとも、出来る限り自分で考えたり学んだりしたうえで、どうしてもムリな部分は専門家や既製品に任せることだって、そのスタンスにおいてはDIY精神であり、そうした「A面とB面を行き来するバランス感」が大切なのだろうと思う。

 次号の予定は「コロナ以後におけるお酒とのつきあい方」とのことで、「夜学舎」については(こちら)へ!

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2021.07.31

ひたすらロンドンの地下鉄に乗ったり駅をウロウロしている動画

 先日ひさしぶりにharukanashowで喋らせていただく(こちら)。前回トークしたのがちょうど一年前だったことを知り、驚く。ついこの間のことのようだったが、このコロナ禍の日々がいかに早く過ぎていったかを実感・・・。
 収録日において、直近に迫りつつあった東京五輪開幕への違和感だったり、サッカーの欧州選手権やF1イギリスGPでのお客さんの入りっぷりへの不安などを語らせていただく。
 これを書いている時点で開幕一週間を経ているのだが、なんかもう、東京および全国各地での感染者の増加傾向を思うと、素直に五輪を楽しめるモードではまったくない。あと一週間後にはどうなっていることやら、この危なさや先行きの不安感を我々一般人が(税金払いながら)引き受けなければならないことへの憤慨にまみれている今日この頃である。


 そんなわけで、相変わらずテレビはそこそこにYouTubeに依存している日々である。


 以前、Watched Walkerについて紹介したが、最近新たに見つけたのは、それのロンドン地下鉄バージョンともいえる「London Underground First Person Journey 24/7 Livestream」という動画で、収録した映像をつないでひたすら24時間配信している。リンクは(こちら)。



 撮影者はひたすらロンドンの地下鉄に乗り、ホームに降りるや乗り換えのために駅構内を歩き回って、また違う地下鉄に乗り・・・その繰り返し。そうしてあの空間における音や情景をカメラに収め続ける(ただし、なぜそんなに急ぐのかっていうぐらい早足で移動したがるところがあるので、もうちょっと落ち着いて行動してよと言いたくなる)。そもそも地下鉄なので窓の外の風景が楽しいわけでもなく、下方のテロップのおかげで、かろうじて今はどの線の、どの駅の区間を動いているのかが分かるわけで、地味といえば地味な試みだ。
 動画として「見る」という以上に、そのまま部屋のBGMとして流しっぱなしにしてもいい。基本的にうるさいだけなのだが(笑)、車内アナウンスだったり、時おり聞こえる「Mind the Gap」の機械的な音声だったり、レールがきしむ音のデカさっぷりだったり、ドアの開閉のときになる電子音だったり、すべてがロンドン暮らしをイメージさせる音として、心和む。


 それと同時に、こうしてカメラを携えてやたら地下鉄に乗ったり降りたりを繰り返しているこの撮影者は、どうしたって不審者のようにも見られるかもしれない。しかしイギリスの国らしいというか、冷徹なほどに他人には干渉しないムードが車内にもうかがえて、そのうえでこういう動画撮影が成り立っている気もする。


 そして最近撮影した動画がほとんどのようで、あきらかにコロナ禍の影響で地下鉄の乗客や駅構内を歩く人が決定的に少ない。なのでこれを見ながら、どのみちちょっと切ない気分にもなる。「そこにいない自分のこと」と、「今はそこに行くことができない、ということを納得しなければいけない自分のこと」があって、そのうえで「コロナ禍のいま、ロンドンはこういう姿になっている」ということを知り得る手段のひとつとして、いくばくかの感謝の念をもってこの単調な動画を眺めつづけている。

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2021.04.25

友人の弟君の結婚披露宴をライブ配信で楽しませていただいた話

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▲ゲーム実況「ナポリの男たち」のキャラがのっかったケーキがファニー。

 旧友のM・フィオリオ氏の弟くんであるシゲちゃんが、このたびめでたく結婚式を挙げた。

 本来なら昨年の今頃に挙式が執り行われる予定だったのだが、コロナ禍のためなくなく延期となってしまった。
 しかしそれから一年が経ち、さまざまな工夫により感染対策を万全にしたうえで挙式と披露宴が催されることとなり、そしてその様子をネット中継で配信をするということになったのである。
 私はフィオリオ氏に頼んでその動画配信のURLを教えてもらい、その様子を観ることができ、貴重な体験をさせてもらえることとなった。

 そもそもフィオリオ氏のご一家が私の地元に引っ越してきたのは小学校6年生のときであり、シゲちゃんは当時1歳とかだったわけで、おおよそ一回りほど違う。よくフィオリオ氏の家に遊びに行かせてもらっていたが、年が離れているぶん、我々にも屈託なく接してくれる天真爛漫なシゲちゃんとはその当時から同じ空間を共有してワイワイやっていた。
 あとこの当時のことを思い返すと、いつも帰りがけにフィオリオ氏のお父さんが、リビングから「おつかれさーん」と、まるで一仕事終えたかのような声をかけてくれたのが印象的で、こちらとしてはさんざんゲームなどして遊ばせてもらっていたのでまったくお疲れでもないのだけど・・・と当時は思っていたわけだが、あの「おつかれさーん」は、ひょっとしたらシゲちゃんの相手をしてくれてお疲れさま、っていう意味だったのかもしれないと後々になって思ったりもした。

 そんなわけで、少年時代の一時期をしばしば共に過ごしたシゲちゃんであるが、大きくなるにつれて顔を合わせる機会も減り、やがて進学で親元を離れ、難しそうな勉強を続けて立派な社会人になっていく様子を、ときおりフィオリオ氏との会話でうかがう感じであった。

 そのシゲちゃんがご結婚とのことで、なんだか勝手ながら親戚のおじさんのような気持ちで感慨深く思えてきて、去年の段階で「もし披露宴の当日に急きょ欠席者が出たら、いつでも駆けつける準備はしておくから!」とフィオリオ氏に伝えていた(『新郎の兄の友人』という立場の人が出席する披露宴はなかなかないだろうけど)。

 本来なら去年に予定していた挙式や披露宴が延期になったことは新郎新婦やご家族にとってもたいへんお気の毒なことであっただろうと思う。しかしコロナ禍のなかで、オンラインで場を共有するという技術的な課題解決があらゆる分野で定着していったことにより、1年後に仕切り直して行われる挙式や披露宴において、私のような立場の者でも「ある意味での参加」ができるようになったことについては、ひとつの大きな社会変容を実感させられる。おそらくコロナ禍が収まったあとも、こうした挙式・披露宴において、オンラインを用いたコミュニケーション技術は積極的に活用されるだろうから、未来の生活様式のひとつのありかたを今回の彼らは示してくれたように思う。

 そういうわけで私のほうも気合いを入れるべく、









自宅で礼服を着て臨むことにした。

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▲着替えたけど、このあと外出する予定がない日。

 動画配信のURLにアクセスすると、事前に式場側からの注意事項がいくつか示されており、そのなかでなるほどと思ったのは「たとえ友人に知らせたいとはいえ、SNS等で配信URLを拡散させないように」というポイントだ。たしかに結婚式や披露宴は、よくよく考えると新郎新婦だけでなく招待客においても個人情報の固まりのようなイベントなので、この点は強調して注意を払うべきなのだと認識した。

そしていよいよ挙式が始まった。

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 久しぶりにお見かけするシゲちゃんはすっかりオトナになっていて(そりゃそうだ、自分がいま43歳なのだ)、笑うとミスチルの桜井さんに似ており、いい男になっていた。お連れ合いさんも可憐で雰囲気が素敵な方で、良い人に出会ったんだねえぇ~と、親戚のおっさんモードで眺めていた。

 たまたま式場内のカメラの位置取りの関係で、フィオリオ氏のご家族の様子も見えやすかった。もし仮にこういう場で私が列席していたら真後ろの席についているだろうから、ご親族の表情なども背中越しに想像するしかないわけで、これはこれで貴重な光景を見せていただいたわけである。

 そうして挙式のあと、誰もいない披露宴会場に動画が切り替わった。やがて招待客がテーブルにつき、主役登場まで待つ間の時間もずっと中継してくれていたのは良かった。どうしても披露宴開始前は、「手持ちぶさた」な時間帯が必ずあるわけで、このあたり、とてもリアルな「時間的経験」だと感じた。

 とはいえ私としては、この時間帯を利用して、自宅のなかでチョコチョコと動き回る必要があった。というのも・・・








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 そう、自分用の食事をあらかじめ用意したのである。
 普段あまり行かない近所の高級スーパーに出向き、そこでお総菜コーナーを物色した結果、(ちょっと想定とは異なるラインナップだったが)「なんとなく色合いが披露宴っぽい」という理由でこのチョイスに。そして普段はお酒は飲まないが、せっかくなのでスパークリングワインなども準備してみたり。私としては「飲み慣れないお酒を味わう+お酒のせいでボ~ッとしたテンションになる」というのも披露宴に付きものの経験なので、できるだけそういうシチュエーションを再現しておきたかった。

 こうして披露宴が始まり、画面に向かって乾杯を行った。

 新郎新婦が招待客と一緒に写真を撮ったりする際に接近するときは、飛沫防止のため、ハート型にデコレーションされた透明プラスチックの板のようなものを手に添えて会話していて、いろいろ工夫されていた。

 私の立場からすれば、フィオリオ家ご一同と新郎新婦が一緒に写真撮影をするシーンが最も興味深いところであり、ちゃんとカメラも正面に回ってその様子を伝えてくれていた。それぞれの表情を微笑ましく眺めながら、パソコンの画面に向かってスマホのカメラで写真を撮ったりしたわけだが、後々になって気づいたのは、これはスクリーンショットで画像をキャプチャしたほうが確実に画質的には良いはずなので、ついいつもの調子でスマホを取り出していたことについては苦笑いである。

 今回はそれでも感染防止対策のため、現場には親族のみを招待するに留め、それはご本人たちにとっても本意ではなかったであろうけれども、オンライン配信による利点を最大限駆使したうえで、出来る限りたくさんの方々に「参加」をしてもらいたいという新郎新婦の気持ちが随所に表れていた。
 たとえばチャット機能により、URLを知っている友人たちはメッセージを随時送ることができ、司会者の人もその内容をふまえてコメントを添えたりもできる。おそらく、新郎新婦の席にも画面が設置されていて、そのコメントを読めるようにもなっていたと思われる。
 また会場内に流れているBGMも適度な音量で配信にも届いていて、その空間にいるような雰囲気づくりは技術的にとても考えられていた。
 
 そして動画配信の場合だと、途中に用意されている余興のクイズゲームや、お二人のこれまでを紹介する写真スライドなどは、これ以上ないぐらい鮮明に画面で拝見できる。ただし写真に収まっている本人や親族以外の人については、ネット配信である以上、すべて顔を覆い隠さなければならない配慮が求められるのも、見ていて「なるほどなぁ」と思った。
 
 そうした配慮は、宴の終盤に訪れた「新婦へのサプライズメッセージ動画の上映」のときにも徹底されていて、この場合、現場の会場で流された動画は、個人情報保護の観点によりネット配信の視聴者には見せることができないわけである。ただしその代わり、配信用のカメラは「動画を見る新郎新婦の姿」をずっと捉えていて、新婦が驚き、笑い、感激し、涙を浮かべる様子を見守ることとなる。そしてこのときシゲちゃんが新婦の雰囲気を察してさりげなく内ポケットからハンカチを取り出して渡した様子はすごく素敵なシーンで、とっても印象的だった。

 こうして最後の締めくくりは新郎新婦によるスピーチがあり、そこからエンディング・ムービーが配信された。自宅で見ているこちらも、もはやすっかり現場にいるテンション(ちょっと酔ってるし)になっていて、ハートフルな気持ちとともに、すっかり堪能させてもらっていた。

 こうして新しい時代の変化を味わわせてくれたシゲちゃんご夫妻にはあらためて「ご結婚おめでとうございます!貴重な経験をさせてくれてありがとう!!」といつかリアルな現場で伝えたいと思った。

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 ▲調子に乗って近所のケーキ屋にも寄って用意したが、さすがに食べ過ぎの感があるな。

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2021.03.28

ちょっと昔のロンドン・バスの「あの部分」を再利用したバッグ・小物類をハンドメイドする京都の「SANS-SERIF」に出会ってテンション上がった日のこと

すごくひさしぶりに京都市役所前のゼスト御池を通りがかった。
そのまま地下鉄に乗ろうと思ったわけである。

イベントスペースでは、クラフト・雑貨を扱うお店のブースが立ち並んでいて、そこを通りすがりにたまたま目に入ったものがあり、思わず足が止まった。

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このロンドン・バスの写真のタペストリーを見た瞬間、そこにある品物が何を意味するかが「!!」とパッと分かるようになっていた仕組みも、さすがだと思う。

やーーーー、これはねぇ、もう、絶対、足が止まるでしょう、ロンドン大好き人間にとっては。

つまりこういうことである。

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あの古いバージョンのロンドンバスの、行き先案内表示に使われていた部分を再利用して、バッグなどを作っているわけである!

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つまりはFREITAGのようなコンセプトで、産業分野で使われた素材をリユースした一点物ばかりであり、どれも欲しくなる(笑)

京都を拠点に活動している「SANS-SERIF」、その代表でデザイナーの藤川和也さんという方がブースにおられたので、しばしの時間、お話をうかがえた。

あのレトロな行き先表示の部分は単純に紙類のように思っていたのだが、実際には古くはリネン生地だったり、その後はタイベックというポリエチレン系の素材だったりして、とても軽くて丈夫なのだった。現地でコレクターが収集しつつも、多くは破棄されるようで、それらの素材を仕入れてカッティングや組み合わせをデザインし、京都の鞄職人さんが帆布で縫い合わせていく。おそらく知る限り世界で他にやっているところはない、とのこと。

ロンドンの公共交通全般におよぶ独特の書体は、エドワード・ジョンストンがデザインしたフォントが100年前から使われていて、この行き先標示の文字の印刷はシルクスクリーンで行っているとのこと。よーく見ると、ところどころに線の微妙なうねりがあったりして、それも味わい深い。

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そして、ロンドン以外の地域だと、黒白だけでなく緑や青色が標示に使われることもあるようで、上の緑色のものはポーツマスで走るバスのものだとか。

こうなると、思い入れのある場所の地名が入っている商品を探してしまいたくなる。土地の記憶と結びつく一点物のプロダクト、ひたすら素敵である。

あらためて同社のHPは(こちら)へ!

あぁ、ロンドン行きたい・・・(笑)

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ちなみに。

このSANS-SERIFさんのブースを後にした直後に気づいたのだが、よくよく考えると、私がこのゼスト御池を通過して地下鉄に乗ろうとした経緯もシンクロニシティ的にすごいものがあった。

そもそも、三条駅付近でお昼ご飯を食べようと思ったが、目当ての店が混雑していたので京都市役所の近所まで移動してご飯を食べた。本当はここまで来る予定は当初はなく、そしてこのあとの用事は、地下鉄でいえば一駅先の烏丸御池駅周辺が目的地なので、本当は歩いてもよかったのだが、このときはたまたま地下鉄に頼ろうと思い、ゼスト御池の地下街に降りたのである。

そこで上記のSANS-SERIFさんに出くわして感動したわけだが、その後わたしが地下鉄に乗ったあとにやろうとしていた用事というのが、これがよりによって「コピー屋さん(京都カンプリ烏丸店)に行って、ロンドン中心部の鉄道路線図の大判プリントを行う」というものだった(笑)。

どういうことかというと・・・

実は私は家のトイレに、ロンドン地下鉄や近郊の鉄道がすべて網羅された案内地図の現物を壁に貼っていて、あたかも鉄道マニアのごとく日々これらの駅名を眺めて暮らしているのである。また最近は、英語の発音を家で練習するきっかけとして、それらの駅名を(現地の車内放送ばりに)いかに発声するかの練習を繰り返しているのである。そうなると、細かい文字で書かれた駅名が読みにくいため、いっそのこと最新版の路線図をPDFでダウンロードし、パソコンの画像ソフトで加工し、壁のスペースいっぱいまで貼り付けられるように拡大したものを自作しようと思い立ったのである。

そのファイルが完成したので、それをコピー屋さんに持っていって大判のA1サイズに印刷してもらおう・・・と思って、そのためだけに出かけたのである。それがこうして、ひょんなことからロンドン交通局のあの伝統的な書体をモチーフにしたバッグを扱うデザイナーさんと出会い、話をさせてもらったわけで(ひとまずこの日はキーホルダーとマスクホルダーを購入させてもらいました)。

興奮冷めやらぬ感じで地下鉄に乗って、そこであらためて「あ、今から自分、あの書体がたくさん書かれたロンドンの路線図を印刷するんだった」と気づいた次第(笑)。いやはや、こういう日もあるもんで・・・

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▲こうして大判の路線図が手に入り、トイレの壁面へ(笑)。これでどの駅名もしっかり読めるようになった!

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2021.03.13

ありがとうございました@版画展

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無事に教室展が終わりました。
来ていただいた友人の方々には感謝・・・!
自分の作品を前に友人と語り合うという体験は、とても新鮮なものでした。
またこういう機会があれば。

このミカリギャラリーのある建物の雰囲気が、こうして終わったあとも体にじんわりと残るような、不思議な感覚があります。
実質的に二日間とちょっとぐらいしかこの場所にいなかったはずなのに、なんだか古くから知っていた場所のようで。

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庭の黄色いミモザが本当に綺麗なタイミングで楽しめました。

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そして展覧会が終わったということは、あの空間や時間はもう二度と再現ができないということでもあり、そのことがなおいっそう、ノスタルジックな気持ちにさせてくれます。

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2021.02.28

水彩木版画の教室展はじまりました

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先日、展覧会の会場設営に参加してきました。
自分の関わる展示をゼロから作っていくのは考えてみたら初めてかもしれません。
無心でクギを打ち込む時間とか、なかなか新鮮。

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会期はわずかですが、それぞれの日に分担して教室の受講生が当番しています。タテーシは3月6日(土)の午前中と8日(月)の最終日にいる予定。

1Fのカフェは都合によりこの期間は営業していませんが、この建物を取り囲む雰囲気が、とても良い感じであります。
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ミモザが咲いてます。

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2021.01.31

通っている木版画教室の展覧会に参加します

2019年のゴールデンウィークのときに、水彩木版画の教室「空中山荘」の体験講座を受けて、そこから教室に通うようになりました。

2年に1回、教室では受講生の作品の展覧会をすることになっていて、今年度はコロナ禍ではあるものの、なんとか準備を続けてきて、このたびの開催となりました。
水彩木版画なので、白黒だけでなくカラフルな版画がメインとなりますが、このフライヤーが示唆するコントラスト具合も楽しめる展示になっています。

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会場となるカフェ、サルンポヮクさんはまだ現地にいったことがないのですが、素敵な雰囲気の場所です。【注:現在は完全予約制で営業されています】

この展覧会にむけては、昨年の大半の時間を費やして作った作品1点だけを展示すればいいかー・・・と、新米の私は(のんきに)思っていたのですが、先生より「最低2点は出すこと」と言われ(笑)、最初の体験講習会で作ったハガキサイズの作品も額装して出展させていただくことに・・・当時まだ版画を始めるかも決めていない体験講習のときだから、無邪気に自分の趣味丸出しのモチーフで彫ってしまった拙い作品で恥ずかしい限りですが・・・。
 私の作品はともかくとしても、他のみなさんがそれはもう多彩で、版画表現のいろんな可能性を見せてくれる楽しい作品を展示していますので!!

それとは別に、「白黒の旅」のテーマにそった、共同製作的な作品も別途1点、受講生全員が展示しています(その自分の作品によせてそれぞれがショートエッセイを書き添えています)。

もし展覧会に行ってみようという方がおられましたら、事前にお知らせいただけると助かりますし、特に何も言わずフラッとご来場いただいてもぜんぜんオッケーです。ただしコロナ感染対策で入場制限をかけておりますので、場合によっては寒い中ちょっと待っていただく可能性がありますのでご了承ください。

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2020.12.13

ロンドン・ナショナルギャラリー展・・・には行ってない

ロンドンネタが続くのだが、それだけロンドン禁断症状が出ているということでお許し願いたい。

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▲EU離脱したり移民に厳しかったりするものの、ヒースロー空港に到着すると、あちらこちらでいろんな職業の人が愛想良く「ウェルカム」と親しげにポーズをとっている看板に出くわす。このタクシー運転手のおじさんの写真ですら、次に出くわしたときには感極まってしまうかもしれない。

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さてコロナ禍で外に出られないのに、予定通り「ロンドン・ナショナルギャラリー展」は日本で開催されていて、いま大阪に来ている。
ただ、いろいろ迷いつつも私は行っていない。コロナ禍で極力外出を控えているという基本姿勢もあるが、そもそも入場にあたっては事前申込み制だったり(思い立ってフト行けない)、それなりに「さっさと観てさっさと外に出なければいけない」プレッシャーがうかがえるので(好きな絵は立ち止まってずっと観たい)、あまり積極的に「行くぞ!」とはなりにくい。

ちなみにナショナルギャラリーは、いろんな部屋ごとに雰囲気が異なる壁紙が貼られているのだが、私はナショナルギャラリーでそうした壁紙を「観賞」するのが密かな楽しみだったりする。これはもう、すべての旅行者に伝えたいのである。「ナショナルギャラリーは、展示物だけじゃなく、壁紙もチェックやで!マジで!!」と。壮麗な壁紙が、天井の高い部屋でドカンと張り巡らされているわけで、絶妙な配色だったり模様の見事さだったり、私はときどき何もない壁に向かってですら、うっとり立ち尽くすのである(冷静にふりかえると、珍客だ)。

(とはいえ、ナショナルギャラリーに限らず、大英博物館とかその他のミュージアム系でも軒並み壁紙はきっとオシャレだったりするとは思うが)

ミュージアムの中では写真が撮れないから壁紙の記録を持ち帰ることもできず、頭のなかのイメージだけが残っているのだが、ふたたびあの壁紙の世界に戻れる日をひたすら待ち望む。

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▲昔のロンドン旅行の写真をいろいろ見返して自分をなだめている。何気ない1枚に新鮮な発見があったり。これは完全にジャケ買いだったアイスコーヒー。よくみると「ポラロイドカメラの写真みたいに軽く振ってください」っていう但し書きが。

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2020.10.10

『岐阜マン』の単行本!!!

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 10年ほど前に名古屋のシマウマ書房さんで初めて出会ってから魅了されっぱなしのフリーペーパー漫画『岐阜マン』が、エムエム・ブックスから今年の春に単行本として刊行されています!(こちらで!!) プヒャー! こういう日が来るとは・・・! ツカハラさんおめでとう! これはぜひ実物を手に取って欲しいのだ。なぜなら、この作品がフリーペーパーの小冊子の集まりであることが手触りで分かるようになっていて、背表紙が実質存在しておらず、現物オリジナルの雰囲気をそこねることなく、そしてちゃんと本のカタチに綴じられている。岐阜マンの存在感と同様、どこか不可思議な装丁になっているのだ。

 そして何より帯と「あとがき」は岐阜出身の女優・菊池亜希子さんが書かれているのがすごーーーい!(私、おっさんですが「マッシュ」数冊持っているぐらい、密かにずっとファンなんです)。

 こうしてまとまった形であらためて読むと、岐阜のあらゆる場所へ岐阜マンと猫のシェフチェンコはフィールドワークをして楽しんで、その積み重ねの結果が、じつにオルタナティブな岐阜観光ガイドとして成り立っている。東白川村ではみんなで集って幻のツチノコを探す「つちのこフェスタ」なんてイベントがあったり、飛騨古川では廃線の鉄道レールの上をマウンテンバイクで走れるルートがあったり、岐阜のあちこちに気になるスポットが増えていく。

 岐阜県というひとつのエリアを丹念に歩き回って取材されている作者ツカハラさんは、きっといつも岐阜マンたちの姿を感じながら道中を楽しんでいるんだろうなぁと想像する。フリーペーパー漫画のひとつひとつは単発で作られるが、コツコツと積み上げていくことで、気がつけばとても大きな山を登っていることになる。その持続力、岐阜への愛、そこがすごい。

 岐阜マンファンの次の夢は、念願のFC岐阜とのコラボレーション!?(笑)

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2020.06.21

「肩をすくめる読書」

 ずっと気になっていたが、なかなか挑む気になれなかったアイン・ランドの小説『肩をすくめるアトラス』を、このたび読み終えることができた。

 長い、ひたすら長い物語だ。でも小説としてそれなりに楽しんで読めたのが「意外」だった。
 というのもアイン・ランドの作品は小説というよりも「思想書」みたいな扱いで、1957年に発表されたこの『肩をすくめるアトラス』は彼女の最高傑作とされており、「アメリカ人が聖書の次に影響を受けた本」に選ばれるぐらいなので、アメリカ人の社会的意識や価値観などを理解するためには格好のテキストなんだろうという感じで、関心を寄せつつもずっと横目に見ていた感じであった。

 そしてなぜか日本語版はすんなりと手に入りにくい書物(その事情は後述)だったのでなおさらカルト的な存在感を放つ本であり、その分厚さも含めて容易には近づく気になれない小説であったのだが、最近になって手に取る意欲をかきたてたのは、たまたまオリヴァー・ストーン監督の『スノーデン』の映画をもう一度見直してみたことがきっかけだった。最初に観たときには記憶にまったくなかったのだが、スノーデンがCIAに入るための試験を受けるとき、その後彼にとって非常に重要な上司となる面接官が、話の流れで『肩をすくめるアトラス』からの引用を語りかけると、スノーデンが『私の信条です』と返すシーンがあったのである。つまりはそういう位置づけで語られうる小説であり、CIAで生きるようなアメリカ人の思想形成においてもあの作品が持っている「意味合い」がある程度共有されているのだろうということが伺えたわけで、うむ、ここは気合いを入れて向き合ってみるかとこのコロナ禍のステイホームな状況下で思い直したわけである。

 

 で、アイン・ランドが14年間をかけて執筆したというこの『肩をすくめるアトラス』の要約を、無謀を承知で私なりにヒトコトで説明すると、

「自分では何もできない無能なヤツらは、できる人間の邪魔をするな」

ということなんだと思う。ひたすら長い物語を読み続ける読者にたいして、一貫して作者が訴えかけてきたメッセージは、シンプルにこのことだけだったと感じている。

 ストーリーのあらましを説明すると・・・時代設定が明確にされていないので少しSF風であり、50年代のようにも思うし近未来のようでもあるアメリカが舞台。メインの主人公は大きい鉄道会社の副社長を務める若い女性。創業者の子孫として誇りを持っており、社長である兄と対立しながら鉄道の経営に自らの能力を発揮して邁進している。石油産出で盛り上がるコロラドへの路線を再建するべく、鉄鋼の新素材を開発した実業家との協働により自らの信念によって事業を進めようとするも、政府や企業カルテルによる規制施行に翻弄され、そしてさまざまな業界の気鋭のリーダーたちが表舞台から不可解な形で次々に姿を消すという現象が起こり・・・ということで、このあたりが1巻目の話で、残り2巻でさらにいろ~んなことが起こっていく。企業小説でもあり、ややミステリー小説でもあり、やや恋愛小説でもあり、ちょっとSF風ディストピア小説的な、そういう意味で「結局なんなんだよ」というツッコミも入れたくなるが、この膨大すぎるページ数を前にすると「さもありなん」となるわけである。そりゃあ取材や執筆に14年もかかるわ。

 本のカバーに書かれた説明文では「利他主義の欺瞞を喝破し、二十世紀アメリカの進路を変えた資本主義の聖典」とあって、この物語が示す「できる人間の邪魔をするな!」というメッセージが、現在に至るまでのアメリカ主導における自由主義経済、市場原理、ひいては「個人の成功に基づくアメリカン・ドリーム」の存在を支える根本的な考えかたに結びついているんだろうと思う。旧ソ連からアメリカに亡命同然でやってきたアイン・ランドにとっては、自らのルーツを踏まえて、いわゆる社会主義的な思想への徹底した拒否感を小説執筆の形で昇華させていったのであろう。
 そしてこの小説で徹底的に糾弾される「たかり屋」のありかたやその構図は、まさに今の日本における自民党政権やアベ政治の拝金主義を連想させるし、一つの寓話として現在でもリアルに通用する部分があるかもしれない。

 ここまで影響力を誇る(らしい)本なので、当然のように賛否両論もあって、今はそうした論考をあれこれ探して読むのが楽しい。翻訳家の山形浩生氏は独特の論調でかなり酷評していて、どちらかというと私も山形氏の意見に近い感じを今は持っている。でもこういうすさまじい物量の小説を完成させるためのエネルギーを一人の作家が燃やし続けるにあたっては、アウトプットされる主張が極端なカタチになっていくのは致し方ないのかな、という印象もある。

 そんなわけで、「これはみんな読んだほうがいいぞ!」という気持ちにもなりにくい小説であり、ひとつの読書経験としては貴重かもしれない、ぐらいに留めておきたい。というのも、すごく印象的だったのは、終盤のクライマックスで一人の人物が小説の中の時間で3時間にわたる演説を行うのだが、その演説部分を読むだけで確かに実際の時間で2時間ぐらいかかって、「普通に小説を読んでいるだけなのに、一人の人間が話し続けるという場面状況においては、そこを読み進めることがどうしてこんなに苦痛を伴うものなのか」と感じながらページをめくっていた。これは今までに味わったことのない種類の「しんどい読書」の時間だった。そして同時に、小説の中の人物たちが、このときの長い演説を聴いているときに感じていたであろう苦々しい気持ちを読者として一緒に味わうかのような不思議な感覚が残った。

 さらに、この小説全体に言えることだが、登場人物の発言の内容がうまくすんなり理解できない部分が非常に多く、そこはもはや私のキャパがオーバーしているだけの問題なのだろうけど(決して翻訳が悪いとは言いたくない。むしろこの長い小説を、一定のテンションを保って訳しきっただけでも偉業だと思う)、まさに『肩をすくめる読書』とでも言いたくなる。

 そして私がどうしても気になっているのは、これほどまでに社会的影響力が強い「古典的名作」であるのなら、どうして日本では大手の出版社が発行を手がけないのか、ということである。メジャーな出版社から出ていないがために、この本をリアルな書店で見つけることは難しく、私はネット通販で文庫版を3巻すべて入手するのにもちょっと苦労した(最近は増刷されたのか、在庫がでてきている)。

 この本の版元は「アトランティス」という出版社で、ネットで調べる限りとても大手とは言えず、そしてどうやらアイン・ランド関連の仕事しかしていないように思える。そもそも「アトランティス」というキーワードも『肩をすくめるアトラス』のなかに何度も出てくるので、まるでアイン・ランドの思想を広めるためだけに作られた組織のようにさえ映る。しかし、どうして? 版権の問題などはもちろんあるのだろうけど、長年にわたって大手出版社がこの本を扱えない事情でもあるのだろうか。

 そんなわけで、本の成り立ち自体が、まさにアイン・ランドの小説世界に出てくるかのように、ちょっと不思議な体裁をかもしだしているのであった。

 


第一部:矛盾律


第二部:二者択一


第三部:AはAである

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