カテゴリー「思い出」の記事

2026.01.02

津村記久子と大神神社とキング・クリムゾン

2026onenga

今年もよろしくおねがいします。

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初詣は今年も奈良県桜井市に出向き、大神神社へ行った。
自分はずっと奈良県で生まれ育ったが、昔は大神神社のことは何も知らず、その存在を意識して行くようになったのは京都で一人暮らしをしてからだった。わりとパワースポット的なものに興味があり、その流れで行ってみて、たしかに良い空気感のある場所だなぁと感じたのがきっかけである。

そこから毎年正月にはここで祈祷をしてもらうようになり、それなりに平穏無事に楽しく生きているので、いつもいつもありがとうございます~というノリで今年も新年早々大神神社に行ってきたのである。

で、京都からだとそれなりに小旅行といえる距離感で、長く電車にゆられることになる。なので車内では本を読むわけだが、今回持ってきたのは津村記久子が2012年に発表した小説『ウエストウイング』の文庫本だった。

この本を選んだのは「津村記久子でまだ読んでいない作品はどれだろうか」とふと思い立って、大晦日に書店に行って検索機で調べ、手ごろな文庫版で在庫があったのがこの本だけだったという次第であり、正月に読もうと思って買っておいたわけである。

そうして、奈良へ向かう電車のなかで何の気なしにこの文庫本を読み始めて、75ページの最後のところにさしかかると、こんな一文があった。

「二つ年下の彼女とは、初詣にどこへ行くかという話をした。彼女の夫の実家が奈良なので、毎年大神神社に行くのだそうだ」

Buffon_20260102163501

「ふおぉ~、偶然ぐーぜん! 津村センセイ、いま僕は、その大神神社に向かってるって~!」

ということで、この軽いシンクロニシティ的な偶然にちょっと驚いて、なんだか新年早々いいことありそうだなと思った。

で、

津村作品ではしばしば、唐突に説明抜きにサブカルチャーの固有名詞が文章のなかに出てくることがあり、分からない人にはなんのこっちゃ、となりかねないワードが効果的に差し挟まれることがある。

それで、さきほどの偶然の余韻をすこし引きずりながら、さらに読み進めて、そのあとすぐの99ページ目。

物語の進行上、ここでは、ある「顔」をめぐっての描写説明が入るのだが、そのなかで

「その顔が『クリムゾン・キングの宮殿』のジャケットに似ているのではないか、」

といった具合で、キング・クリムゾンのファーストアルバムである『クリムゾン・キングの宮殿』というワードがこのページだけで4回登場する。


実は私はこの本を読みながら、電車のなかでずっと聴いていたのが、キング・クリムゾンの曲だけを集めた自作プレイリストだったりする(笑)

Kyuden
「どひゃー!」

そのプレイリストは惜しくも『宮殿』に関わる曲は入っていなくて、昨年11月ぐらいに思い立ってサブスクで検索して集めた、クリムゾンのライヴの定番である『トーキング・ドラム』と『太陽と戦慄パート2』の2曲が連続して演奏される、さまざまな年代のライヴ音源だけを集めたもので、ひたすらこの数週間はこのプレイリストをループで延々と聴き続けることが多かったのである(自分のなかで、この曲にはある種のセラピー的な効能があるんじゃないかとすら思っていて、聴き飽きない)。

そんな状況で、この小説を読みながら、「えええええクリムゾンってー!!」と、ひとりでまさに「戦慄」を覚えていた。

そんな正月でした。
ほんと、いいこと起こってほしい。シンクロニシティ大歓迎。

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2025.12.30

着ぐるみの中の人になってみた

 このあいだ職場で実施するイベントに際して同僚から私に電話があり「着ぐるみに入ってもらうことはできないでしょうか」という突然の打診を受けたので「やりたいです。ぜひやらせてください」と即答した。

「きっとタテーシならやってくれるだろう」という見込みは、ものの見事にその通り、的中である。まぁ、来年で49歳だけどな。

 で、その際に着ぐるみの概要について簡単な説明をうけたのだが、何やらちょっと不穏な気配を感じたので電話を切ったあとすぐ自分でも調べてみた。(この件をブログに書くにあたってはあらゆる具体的な名称は今回すべて伏せさせていただきます)それは某都道府県の違法薬物対策キャンペーンの一環として公募採用されたキャラクターで、パッとみたらとても可愛い男の子なのだが、よくみたら頭の上に、注射器、大麻、ドクロ、薬品のビン、怪しい錠剤が乗っているという、なかなかアッパーなデザインのキャラクターであり、妙な着ぐるみを二つ返事で引き受けてしまった・・・と頭をかかえた。

 

 

Kigurumi

▲自分で模写してみた。

 実際、このキャラの発表当時はネット界隈でもちょっと話題になったようで、「防止するどころか自分自身がヤバいのでは」と揶揄されたりもしていたようだ。よく調べると、設定としては「薬物におぼれた友人を救うべく立ち上がった男の子」ということらしい。まぁ、そりゃそうするしかないよな。

 今回のイベントにおける位置づけとしては、会場にいくつかあるブースのなかで、違法薬物の蔓延防止キャンペーンにかかる展示発表が行われており、それのPRという目的でこの着ぐるみを借りられることになったようだ。そして役所の担当者などは当日来ることがないと聞き、そこは正直なところホッとした。つまり自分の動きは自由裁量がきくことになり、休みたいときに休めそうである。加えて「受け持っている展示会場の入り口から少し外に出て、建物周辺にいるイベント来場者に向けて展示会場そのもののアピールを行い、会場に立ち寄ってもらうように呼び込むこと」もこの担当部署の上司からは期待されているようだったので、ブースを離れてのんびりと自由に動き回って来場者と触れあえそうだった。

 本番の2日前にその着ぐるみは職場に到着した。担当部署の上司自らがクルマで役所に出向いて着ぐるみを借りてきたらしく、でかい風呂敷に包まれた頭と胴体とクツは、上司のセダン車で一度に運ばれたことが信じがたいボリュームだった。そこまでして持ち込まれた着ぐるみを、私が着て「やっぱり動けませんでした~」となったらどうしようかとさらに不安がつのり、恐る恐るその部署のスタッフの力を借りてまずは装着してみたわけだ。

 最初に頭部をかぶったとき、丸くて暗い空間のなかで、自分の呼吸する音だけが静かに聞こえるだけだったので、私は映画『2001年宇宙の旅』のクライマックスの場面を思った。BGMを流すことなく、HALの淡々とした機械音声と、人間であるボーマン船長の息づかいの音だけが延々と続き、ほかに誰もいない静寂の宇宙空間における途方もない絶望的なまでの孤独感をスタンリー・キューブリック監督は巧みに表現していたが、あの名作シーンも着ぐるみの中も、「非日常感」という意味では共通している(強引)。

 視界については、着ぐるみのオデコのあたりに書かれている文字「薬物乱用防止」の背景部分が細かい網目状になっていて、そこからかろうじて外が見えるようになっていた。そして人形の目玉にあたるところは自分の胸下あたりに位置し、その目玉は自動車の窓とかに貼るスモークスクリーンのようになっていた。そのため外側からは黒い目玉にみえるが、内側からはサングラスをかけたときのように外が見られるようになっていて、それで足下の様子が確認できるようになっていた。よくできている。

Shikai

▲外の世界を認識するための網の目

 しばらくその暗闇の孤独感を味わったのち、着替えに使っていた小部屋からノソノソとドアをくぐりぬけて事務室の面々に会おうとしたら、頭がうまく通らずドアに頭をゴツンとぶつけながらジタバタしてしまう。目の前の格子ごしにうっすら見える同僚たちがひとしきり指をさしてクスクス笑う状況を自分も楽しむ余裕があった。ひとまずは自分の太りぎみの体が着ぐるみに無事にフィットしたことに安心した。

 こうしてイベント当日を迎える。11月初旬のいい天気の日だった。

 この日ひたすら着ぐるみをかぶり続けていた私の感想は、「暑い」「怖い」「でも楽しい」、これに尽きた。

 まず、とにかく暑かった。たしかに11月にしては天気がよすぎて気温が高めだったのもある。着ぐるみというのは、たしかに文字通り「ヌイグルミ」なのであり、そこに己の肉体が同化していく装置なのだということを改めて思い知った。何もしなくても汗が流れ続け、この日だけはメガネではなく使い捨てコンタクトレンズを装着しておいたのは大正解だった。自分のかいた汗や、吐く息のせいで湿度は上昇し、着ぐるみの目にあたる部分のスモークスクリーンが内側から結露し、足下を確認するはずの視界が水滴だらけでよく見えなくなっていった。

 これを翌日返却するにあたり、私の汗の染み込み具合はどうなんだろうか、次に使う人はどういうニオイに見舞われるのかと不安になるレベルで一日中ずっと汗をかきまくったのである。

 自分が受け持っている会場の室内にいるよりも、屋外にいたほうが冷たい空気が体内に少しだけ流れてきていくぶん過ごしやすいことが分かってきた。なのでほとんどの時間は玄関先エリアの日陰部分を選びながら「ここには何かがあるよ~みんな来てね~」といったアクションをし続けることにした。そしてそうなると、今度は建物の周辺エリアを散策していた子どもたちがこちらをめがけて四方八方から寄ってくるという状況になっていく。

 何が怖いかって、こういう子どもたちであった。
 特に「親がどこかに行っていて、単独でこっちに突っ込んでくる男の子」が、とっても怖い。
 このことはある程度事前に予想できたことであるが、親の監督下にない状態の子どもにとって、着ぐるみは非日常の意味をはき違えることが一方的に許される存在対象と化すのである。

 何せ、この着ぐるみの胸の部分には「NO DRUGS」というメッセージがプリントされていた。この言葉こそが、この日の私が同一化している寡黙なキャラクターが全世界の人々に伝えたいことのすべてなのである。
 しかし今こうして汗まみれの狭い視野のなかで私が受けている激しい振動や感触を通して、抱きついてきたり手や足を振り回しているのであろうと推測される子どもたちには、このメッセージの意味を理解してもらえそうな気配はない。もし親が近くにいる場合なら「これはこういう意味なんだよ」という解説が入ることを期待できるのだが、単独で突進してくる幼い子どものなかで「英語が読めてその意味が理解できる子ども」がいればそれなりに驚くべきことであるし、そこからさらに「ドラッグという英単語が広義では薬品のことであるとふまえつつ、この文脈では違法薬物を指していることも的確に理解している子ども」がいれば、そっちのほうがさらに驚いてしまうとともに、ちょっと心配にすらなるだろう。

 いずれにせよ、そんな子どもたちに喫緊に伝えたかったのは、ノー・ドラッグの前に、まずはノー・バイオレンスのほうだ。

 無尽蔵のスタミナを誇って延々と迫り来る子どもたちからは頭部のパーツを外されないように気を付けつつ、彼らからは「なんかしゃべれ」という圧をかけられ続け、こちらは無言の身振り手振りでごまかし、それでも食い下がってくる子たちには、いっそのこと自分から頭を外し、汗だくのオッサンによる怒号を飛ばしてしまうという、ある種の一線を越えたい誘惑に何度もかられたが、そこはなんとか耐えた。

 執拗に着ぐるみを取り囲んでいると、なかには鋭い観察眼を持った子どももいる。この着ぐるみは私の体の大きさではすこし窮屈だったため、胴体と腕のパーツのあいだに、私自身の体がどうしても少し露出してしまう箇所があるらしかった(中にいるとそれがどういう様子なのかが見えない)。たまたま黒い長袖シャツを着ていたから目立たなかったが、すかさずそのスキマを見つけてしまった子どもは、なんともいえない気持ちになっていたように思う。モノゴトの裏側、オトナの事情をかいま見てしまった瞬間であり、なんともリアクションしにくい部分を、この私の生身の腕から感じ取って「一気に冷める」ようであった。

 そんな子どもたちの中には、親に促されても決して私に近寄ろうとしない子もいた。そりゃそうだろう、笑顔なんだけど頭に注射器やドクロをつけたキャラクターなので、「行っていいかどうか」の判断がつきにくい。逆にそういう子のほうが例えばオトナになって海外旅行とかでもトラブルに遭わない可能性が高い気がするので、親御さんには「あなたの子育てはうまくいっている」と声をかけてあげたかったがもちろん黙っておいた。でもこうなると自分もプロ意識がムダに刺激され、どうにかして「自分は怖くない、かわいいキャラなんだよ~」ということを必死にジェスチャーで示したくなる。どうやったら子どもに親しんでもらえるパフォーマンスを繰り出せるかというのは、普段の私が1ミリも考えないことでもあったので、これはこれで良い経験になったと思う。

 そうかと思えば、老若男女いろいろな人が私のところへ近寄ってきては、口々に「かわいい」と言ってくれたりするので照れてしまうし、女子学生たちからは次々とセルフィーを一緒に撮ってもらえたりするし、ある女の子からは「だいすき」とまで言ってもらえたりもした。私からはまったく何も喋っていないのに、初対面で「だいすき」である。こうなると、着ぐるみの暗い頭部から見える世界を眺めながら、今までの人生で自分が女子に好かれようと必死に試みてきた数々の努力や苦労はいったい何だったんだろうかと、ふと我に返ってしまいそうにもなる。

 そんな私の苦闘ぶりを、忙しいなか折に触れて様子を見に来ていたらしい担当部署の上司は「例年になく展示会場にたくさんの人をひきよせて、子どもたちが楽しそうに着ぐるみと触れあっている!」と認識していたようで、私のところにやってきては健闘を称えつつ、あまりに私が多くの時間を屋外で子どもたちと過ごしていることを心配もしてくれていた。長いあいだ外にいるのは着ぐるみの内部にひたすら冷気を取り入れたいがための「命を守る行動」の一環であったが、そのことは黙っておいた。
 結局はその担当部署の上司がいつになくうれしそうにしていたので自分としても、この着ぐるみ体験はやってよかったし楽しいものに感じられたわけである。

 あと普段から私はよくJリーグの試合会場でもマスコットに熱視線を送るファンの一人でもあるが、特に夏場の試合などでも黙々と求められるアクションを繰り出し続けているマスコット着ぐるみの労苦を思わずにはいられなかった。いつだってフレンドリーに我々ファンへ手を振ってくれているが、きっとその中は汗だくでむちゃくちゃ苦しいはずだ・・・と思った。

 ちなみに、会場内に設けた自分専用の控え室で休憩をとるとき、必ず現場担当の学生スタッフさんに声をかけて一緒についてきてもらい、控え室のなかで着ぐるみの頭部を外してもらう手助けをしてもらっていた。そして学生スタッフさんの担当シフトの関係上、休憩のたびにいつも異なる学生さんたちが私を手伝うことになった。なので可愛い着ぐるみの頭部を外したら「バンダナを巻いた汗だくの疲弊したオッサン」が現れるという状況だったので、そのとき学生さんが浮かべるビミョーな表情を私はいつも楽しみにしていたりもした。

 こうして着ぐるみ係をやりきった私はその日の「業務」を心から楽しんだわけだが、職場からの帰り、電車に乗るべく駅を歩いていて、向こうから子連れの家族を見かけると、つい反射的に手を振りかけてしまい、慌ててごまかした。

 これはもしかしたら「着ぐるみの中の人あるある」なのかもしれない。 (了)

Ashi

▲また、このクツに足をつっこむ日がくることを楽しみにしている

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・・・というわけで、今回も長文の記事となりましたが、今年もこのブログを読んでいただきありがとうございます。
読んだ本の話とか書きたいことがいろいろあるのですが、それはまた追々、少しずつ書いていければと思います。

2025年もいろいろなことがあり、ショックだったり考えさせられることがあったり、ただひたすら楽しかったりグッとくるシーンもあったりですが、とにかく前へと進むしかないですね・・・

この「前へと進む」という意識付けについては最近強く思うところがあって、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』の最後の一文が、

「だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも」 (村上春樹訳)
となって物語が終わっていくわけですが、この原文
「So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.」
が、どうして英語ネイティブの人にとっては美しい名文だと感じられるのかを、つい最近ChatGPTさんに尋ねてみたら、「うぉぉ!!そうなのか!?」という発見が炸裂しまくって、それ以来この文章がマイブームになってるところです。

「舟」って、車とかと違って必ずしも自分が制御したとおりに精緻には動いてくれなくて、それでも自分を乗せて何らかの流れには乗って進んでいくわけで、それはまさに生活に似ているところがあるなと、つくづく思う次第です。

そんなわけでこのブログ恒例の「今年よく聴いた一曲」で締めくくります。
羊文学『あいまいでいいよ』

 

 

いい流れがたくさん、きますように。

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2025.10.12

なぞかけ配達員さん

 職場で自分がいる部署に、たまに来る配達員のおじさんがいる。少年がそのまま歳をとった感じで年齢が判別しにくく、目がギラギラしている。陽に焼けて色黒くやせ細っていて、やつれた感じがうかがえるところに運送業の大変さを思わせるが、いつもどこかしら「昨晩は深酒しちゃいましてね」と言いたげな雰囲気でフラリとやってくる。

 このおじさんは荷物を配達して普通に帰って行けばいいものの、しばしば「つぶやき」が付け加わってくるのであった。例えば受領書と控えの伝票が2枚セットになっているものを、1枚はがして持ち帰るにあたり、そのおじさんは「これがぁ~! いっつも、ウマくできないんですよねぇぇ~何年このシゴトしてんだかねぇぇぇ~」と自虐的にわめきながら、実際にぜんぜん薄紙がめくれずに苦闘していたりする。

 こういう「可愛げのあるボヤキ」が、状況を問わずついつい口にでちゃうタイプのようで、俳優でいえば『北の国から』の田中邦衛を彷彿とさせるような昭和感をふんだんに放っている。おそらく仲間から麻雀に誘われたら、弱いくせにいつもホイホイ張り切って参加するものの、案の定たくさん負けまくって、その「ボヤき節」が皆からの笑いを誘うような、そういう姿を想像させてしまう人の良さがある。令和の時代において、もはやこういうおじさんは絶滅危惧種のような気もしてくる。

 その日も配達員のおじさんは我々のところへやってきて、同僚のTさんが応対した。最近この部署に異動してきたTさんはすぐれたコミュニケーション能力を持っているため、このおじさんともすぐに仲良くなり、近頃はもっぱらTさんが配達員さんの相手をして、しばらく談笑するまでになっていた。

 デスクの配置上、いつも私は彼らの談笑には背を向ける位置で仕事をしているのだが、この日は配達員のおじさんが突然Tさんに「なぞかけ」を出題してきたもんだから、それを背中ごしに耳にした我々もすかさず仕事の手を止めて振り返り、おじさんに向き合うこととなった。

「夏バテとかけて、宇宙に出ちゃったと説く。そのココロは?」

と、おじさん。

お、おう・・・。

ううむ、さっぱり分からない・・・。
同僚たちも首をひねる。

おじさん、ドヤ顔で甲高い声をあげて、


「こたえ、『くうき』がない!」


ああぁぁああぁぁあぁ~!!
なるほどおおぉぉおおぉ!!
「食う気」ね、はいはいはい!!

そもそも「なぞかけ」と真剣に向き合うことになるのは、少なくとも21世紀に入ってからは初めてのことだと思えるので、こうした「トンチを効かせていく感覚」が異様に新鮮だったりする。

我々のリアクションをみて興に乗ってきたおじさん、得意顔で第二問。

「大雨とかけて、鍋料理と説く。そのココロは?」

ううぅ、これも分からない。
雨? 鍋? なんじゃそりゃ。
またしても、みんな答えが出せない・・・。


「こたえ、あとはゾウスイ!」


うおぉうおああおあああぁぁぁぁ~!!
くっそおおおお!!! 
面白いやないかい!!

ここまでくると、我々のほうから「師匠、もう1問ください!」というノリになっていた。

つづけて第三問。

「次も大統領選挙に出たがるトランプとかけて、人の来ない神社と説く。そのココロは?」

これはすぐ分かった! 
私もドヤ顔で即答。

「再選(賽銭)がない!」「正解!」


第四問。
「カルメンとかけて、危ない電話と説く。そのココロは?」


「・・・オレオレ!?」「正解!」


もはやここまでくると「なぞかけ的思考」のコツがつかめてきたようで、嬉しくなった。

こうしてひとしきり盛り上がり、私の悪い癖というか、書き手としてのサガというか、「これはブログのネタになる」と思ってしまうと、ついこのおじさんにインタビューっぽく尋ねてしまうわけで(仕事に戻れよ)、どうしてなぞかけに興味を持つようになったのかを聞くと、「配達中のクルマのなかでいつも聴いてるラジオ番組でなぞかけのコーナーがあり、自分もよく投稿している」とのこと。

ラジオを聴きながらハンドルを握る手でパン! と膝を打ち「ハッハー! ウメぇこと言いやがるなぁぁぁ~!!」とか唸っているおじさんの姿が容易に想像できてしまう。

今思うと、あの日に出してくれた問題もおじさんの「自信作」だったかもしれない。そのことを聞きそびれていた。

しかしそれをあらためて訊く機会が今後はなさそうである。なぜなら、この日おじさんは帰り際にこう言ったのである。


「実は今日で私はこのエリアの担当を外れますので、
みなさま、ごきげんよう!!」


さんざん「なぞかけ」を出して、名前も知らないままのおじさんは我々の前から去っていった。

なんだかコメディ映画のワンシーンのようであった。
なぞかけ配達員さんに幸あれ。

251012nazokake

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2025.06.02

2025KYOTOGRAPHIE:印刷工場跡地で過ごした日々のこと

 京都国際写真祭・KYOTOGRAPHIE(以下KG)が終幕し、昨年と同様にさっそくの「ロス」を味わっている。この一ヶ月のあいだ、休日を中心に11回ボランティアスタッフとして参加し、空いた時間にも他の会場の展示を観に行ったり、今年から行われた「KG+アカデミー」という講座のひとつであった「9枚から始める写真史(講師:タカザワケンジ氏)」を受講してみたり、関連音楽イベントKYOTOPHONIEで来日したパティ・スミスのパフォーマンスを鑑賞したりなど、忘れがたい濃密な日々が怒濤のスピードで過ぎていった。

 鑑賞者の立場から思ったことは前回の記事で書いたが(こちら)、写真祭がもう終わってしまう!という感情に駆られて自分の印象をあのタイミングで記しておいたことは、それはそれでよかった気がする。別れを惜しむ間もなく、すべての作品たちは「現場」からすみやかに取り払われて、すっかり日々は元通りとなり、祭りは過去のことになった。

 ありがたいことに私は会期の最終日において、京都新聞ビル会場にボランティアの担当を割り当ててもらったので、あの大好きな印刷工場跡地における展示会場の最後の瞬間に立ち会うことができた。ただし感傷にふける間もなく、最後のお客さんを送り出した鉄のドアの閉まる音が響くやいなや、撤収の作業開始を待ち構えていた関係者は粛々と動き出す。場所を借りるというのはそういうことなのだ。この空間で長い時間を一緒に過ごした会場担当リーダーの方々へも、あらためてじっくりと謝意を伝えることもままならず、ボランティアとしての我々はその場からすみやかに立ち去るしかなかったわけだが、あのときの気持ちをずっと抱えたままだからこそ、いまこのブログ記事をじっくり丁寧に書きたい理由になっている(なので、はい、今回も長文です、あしからず)。

 私は全11日間のボランティア活動日のうち、5日間もこの京都新聞ビルで過ごすことができた。活動日のシフト希望を出すにあたっては柔軟に要望を聞いてくれるのをいいことに「可能なかぎりたくさん京都新聞ビルの会場にあててほしい」というリクエストをダメモトでさせてもらい、そんなワガママを十分に汲んでくださったKGボランティア担当マネージャーのMさんには感謝しかない。

 今年の京都新聞ビル会場を舞台に展示されたのはフランスの写真家JRの作品であった。例によって私は、今回の写真祭での展示が決まるまでJR氏のことやその活動については何も知らなかった。
 もちろん、そういったアート方面の知識が乏しくてもボランティアスタッフを務めることにはまったく問題ないのだが、ときどきお客さんから質問を受けたり、その場で感想を自分に向かって述べてくれることもあったりするので(よほど誰かに何かを語りたい気持ちがわいてきたのだろうと思うと嬉しく感じる)、せっかくならば担当する会場の作品やアーティストについては自分ができる範囲で理解を深めておきたい気持ちがある。

 で、たまたまJRについては今回の展示に連動して『顔たち、ところどころ』という2017年制作の映画がUPLINK京都で期間特別上映されていたので、すかさず観に行った。これは当時33歳のJRと、87歳の映画監督アニエス・ヴァルダがコンビを組んでフランスの地方を旅し、そこで出会った人々やコミュニティを題材に、独自の手法で大きな壁画作品を作っていく過程を追った映像記録である。<本作のすてきな予告編はこちら

 二人が乗り込むのはJRのつくった不思議なクルマで、内部はスタジオになっておりそこでポートレイトを撮影し、やたら大きな紙に印刷された写真が出てくるという楽しげな装置を備えている。
 そうして人々の大きな顔たちを、廃れつつある住宅地であったり、職場であったり、さまざまな屋外の壁や建造物に大きく貼り出す。その壮観な光景をみるにつけ、「でかい」というだけで、それらは動物的な本能に訴えかけてくるのか、なんだか特別な面白みが感じられてくる。そして作品の当事者たちも、その場所や人々との結びつきをあらためて確認しあい、できあがった作品やその風景そのものからエンパワメントされていくような感じがあった。

 つまり「技術によってサイズの大きい写真を作品としてつくる」ことと「いかに作品を展示する『場』の力を活用するか」ということが、JRの作品としての妙味でありツボであると思った。
(そのほかにも、この映画全編を通してJRとヴァルダの間に流れるチャーミングな空気感もとても印象的で、ほのぼのとさせる)

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 今回のKYOTOGRAPHIEにおいて、JRはJR京都駅の烏丸口の壁面スペースを使って「クロニクル」シリーズの京都編を制作した。約500人もの様々な人のポートレイトを撮影し、コラージュし、ひとつの絵巻物のように構成することで、京都という街のありようを捉える試みである。この巨大な作品を構成する一人一人の姿であったり過去に世界中で手がけたプロジェクトの紹介展示を京都新聞ビル会場で行うことにより、「場」のもつエネルギーを取り入れたJRの作品を、駅と新聞工場跡地の2つの空間で味わえるようになっていた。

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 京都新聞ビル会場ではまず最初の展示エリアでJRの過去の作品や今回の「クロニクル京都」をめぐる展示を自由に観てもらい、そこから15分ごとの完全入れ替え制でオープンするビデオルームに進み、JRのインタビューおよび本プロジェクトに関わるメイキング映画を観てもらう。

Zone1

 そしてここから目玉の展示ともいえる印刷工場跡地にお客さんは案内される。真っ暗な状況で、目隠しになっていたシャッターがお客さんの目の前で開かれるとこの巨大空間の全貌が現れ、そこにはクロニクルの被写体から選ばれた10人の巨大化されたポートレイトがそびえ立っており、その中を通っていくという流れとなる。

 スタッフとしてこの「巨人ゾーン」のスタート部分を担当するときは、暗闇のなかペンライトを使って、ビデオルームから出てくる来場者の集団を所定の場所に誘導する。やがて担当のサブ・リーダーさんが注意事項を説明する(でも、ずっと真っ暗なのでお互いの顔は見えない)。説明を終えたリーダーさんがアコーディオンカーテンのようなシャッターの中央部分に近づくので、自分もその動きに応じてシャッターのハンドルに手をかけておく。そこからタイミングを合わせて真ん中から左右に分かれてガラガラと音を響かせながら体重をかけて重たいシャッターを開けていく。それぞれの表情は暗闇の中で見えにくいものの、大きな工場跡地で薄暗がりのなかに並ぶ巨人たちを目にしたお客さんたちが「うわぁ~」と反応する様子をダイレクトに感じられるのが毎回楽しかった。

Zone2
【 ▲ この写真は、通常の展示のときには設定されない照明の明るさのときに撮ったので、いつもはもっと暗かった】

 シャッターが開いたら、自動化された照明が順番に巨人を照らし、収録された本人の語りが所定のタイミングで流れる。彼らのメッセージはもはや何十回と繰り返し聞いているので全部のセリフを暗唱できそうなぐらいであるが、特に広島の被爆体験から生きのびた方の語りは何度聞いても心を揺さぶる。たまたま自分も3月に広島に行ったばかりなので、夕刻に原爆ドームのまわりを歩いたときの情景がそのままつながってくる。

 10人全員のメッセージが流れ終えたら、奥に控えるスタッフは鉄のドアを開けて、そこに屋外からの光が一気に差し込むことで出口があることを示し、それとなく退場をうながす。この「出口ドア担当」のときは、巨人のダイナミックな展示を見終えた直後のお客さんのひとりひとりの表情と出会えるのが楽しく、ここが新聞社の印刷工場跡地であることを認識していないお客さんになると、この異質な空間に圧倒されてやや興奮気味にこの場所について質問してきたりするので、こちらも嬉々として説明する。

 こうしてその場にいた来場者が全員退室したらまたシャッターも出口もすべて閉じて、暗闇のなかで10人の巨人とともに、次のビデオ上映が終了するタイミングを待ちつづける・・・という流れだ。まるで「お祭り」というものは最初から存在していなかったかのような、暗くて巨大な印刷工場跡地でたたずむ、あのひとときの静けさが忘れられない。外の世界は陽光まぶしい5月のゴールデンウィークだったりするが、鉄のドアをはさんで時間が止まったかのような暗い工場跡地で過ごすというのは、それ自体もある種のアート的な体験だった気がする。

Dark

 そんなわけで、この京都新聞ビル会場を担当するスタッフは一般的な写真展においてはなかなか求められないであろう心構えのもとで動いていた。ガチの工場跡地ゆえに出口の鉄製ドアはかなりチカラをこめてガツンと閉めないといけないし(でも出口に戻ってこようとするお客さんも稀にいたりするのですごく気をつけていた)、暗闇で迷ったりコケたり、仮設の手すりを越えて工場の地下ゾーンに落下する客がいないように気をつけるとか、ここは工事現場かよと思えるような注意喚起がシロウトの我々にもフツーに必要とされており、今年も期待通りに京都新聞ビル会場は本写真祭のなかでも屈指のデンジャラス・ゾーンと化し、毎日がスリリングな現場だったのは間違いない。

 それは同時に、お客さんの側にもある種の「負担」を強いる展示会場でもあったということだ。入り口で事前に注意事項を説明することを必須としていたので多少の緊張感を与えざるを得ないし、とくにビデオルームに入ってからは演出の都合上、決められた時間ごとに集団で一緒に動いてもらうという段取りになるので、そうした「定まった流れ」に乗りたくないと訴えるお客さんだって往々にして出てくるし、それは日本人だけでなく様々な国からの人々だったりもする。そういう来場者の事情やニーズとも柔軟に向かい合わねばならないのがこの会場特有の難しさであり、「見ず知らずの外国人からちょっと文句を言われる」というのは日頃の生活ではなかなか直面しないシチュエーションであるがゆえに、しまいには面白味すら感じていたので、やりがいのある部分でもあった。

Track

 そんななか、最後まで無事に展示をやりきれたのは、この京都新聞ビル会場を運営したリーダー陣の、(我々の伺いしれない部分もたくさんあったであろう)日々の奮闘あってのことだったと思う。現場監督としての「ベニュー・リーダー」と、その脇を固める「サブ・リーダー」は各会場ごとに設定されており、今年も私は多種多様なリーダーさんたちとの関わりに感じ入るものがあった。

 とくに今年の京都新聞ビル会場は、ベニュー・リーダーが2名体制となり、そのうちの一人であるSさんは昨年も同じ京都新聞ビルのリーダーを務めていたことが大きかった。そのことを知った当初は「おおっ!? 今年も京都新聞会場でリーダーやるんか!」となり、がぜん楽しみが増した。つまりは、そういう人なのである。私より2回りほども若い人であるが、特にモチベーターとしての才覚がバツグンで、下は中学生から上はご高齢の方々にいたる我々ボランティアスタッフの多種多様な面々とSさんは日々丁寧に向き合い、それぞれに参加意欲をかきたてて仲間意識をスムーズに構築し、「この人のもとで一緒に働けてうれしい」という気持ちにさせてくれる。つまりは「理想の上司像」を感じさせる人物であり、今年も相変わらず無尽蔵の愛嬌と野性的な瞬発力でもって、この特殊な京都新聞ビル会場をめぐる多様な局面の数々にも軽やかに立ち向かっていた。

 そしてもう一人のベニュー・リーダーがYくんであった。フランス人のお父さんを持ち関西弁と英語も話すマルチリンガルで、それゆえいろんな国からのお客さんが来場するにあたってはフル回転で対応し続けていた。いつも飄々としたムードで会場を歩き回り、そしてしばしば上手な言い回しで我々ボランティアスタッフにも「こういうふうにしてほしい」と要望を伝えることで写真展会場としてのクオリティを損なうことがないよう常に現場での心配りを怠らず、そうしてスタッフ間のつながりが緩慢な状態にならぬよう、ほどよい緊張感を保つうえでもYくんはキーパーソンであったように思う。ちなみに彼は子どもの頃からフランス屈指のサッカークラブ、オリンピック・マルセイユの熱狂的なサポーターだということが分かり、彼の深いサッカー愛が垣間見えたのも個人的にとてもうれしかった。

 そんなわけでこの2人のベニュー・リーダーの組み合わせはお互いの持ち味を活かし合えるような、とても良いコンビだった。あるとき、私は会場入り口のチケット確認係の担当としてそこにいて、たまたま客足が止まって落ち着いた時間がしばらく続き、Sさんはおもむろに入り口の軒先のほうにまで進み出て、何かを待って遠くを見ているかのように無言で一人じっと立っていた。そこへYくんも隣にやってきてSさんの肩をガシッと組み、まるで二人が担う大きな責任への役割を互いに労り合うような感じで、同じ方向を見たまま彼らはしばらく話し込んでいた。ビルの隙間から差しこむ太陽の光が遠くに立つ二人の後ろ姿を際だたせていて、それが実にクールで詩的だった。つい自分はスマホでその様子を撮影したくなったが、ここは控えておいて目に焼き付けておこうと決めた。あの場にいられたことに感謝したくなるような、今年のKGを思い返すうえで自分だけの宝物のようなシーンだった。

 そしてサブ・リーダーと呼ばれるスタッフさんたちも交代で毎日3~4人ぐらいのシフトで現場を担当し、必要に応じてほかの会場のサポートに入ったりすることもあったようだ。このサブ・リーダーさんたちもそれぞれに個性的な方々でじっくり話を聞いてみたかったのだが、何せこの現場で我々が共有していた最大の関心事は、「次々とやってくる来場者を人数制限の範囲内で適度なタイミングをはかりビデオルームに案内し続け、次のゾーンに送り出してシャッターを開けて巨人たちに『うわ~!』となって会ってもらい、工場跡地の暗いキャットウォークの足場をたどって出口の鉄トビラにたどり着いてもらったあとは、できれば建物の外に設置されている物販ブースのテントにも行ってもらうというオペレーションを円滑に回し続けること」にあったので、それ以外のテーマで雑談をしている余裕は少なかった。それでも別の日にKG主催のパーティーイベントで他のボランティア・スタッフさんらとともにお話をうかがい、あらためてそれぞれの興味深いキャリアの個人史やKGへの想いを聞かせていただけたのは貴重な時間だった。

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【 ▲ 毎回、閉館後にはSさんがサービス精神を発揮して「バックヤード・ツアー」を開いてくれて、ボランティア・スタッフに展示物やこの建物の裏側を紹介してくれた。特別な時間。】

 こうして「いろんな経歴を持った多様な人たちが集まって、長い人生のほんのひとときを一緒に働く」というこのKGの状況というのは、JRの「クロニクル京都」の作品が醸し出す雰囲気とどこかで通じ合う気がしてきた。この市井の人々の集合体が、まさに写真祭をつくっていく多くのスタッフ・関係者の姿に重なってくるように思えてきて、そして自分もまたその一人として作品のなかに紛れ込ませてもらっているような感覚だ。

 そのことは、京都新聞ビル会場でJR作品の被写体に囲まれて過ごした最後の最後の日になってようやく芽生えてきたところがあり、これは「KGという大きなイベントが始まって、終わっていく」という感慨をシンボリックに描いた、ある種の「記念写真」のようにも感じられ、私は最終日の業務の休憩時間に物販のテントブースに出向きこの「クロニクル京都」の特製トートバッグを思いきって買わせていただいた(現場では残り1つとなっていたこの貴重なバッグを快く私に売ってくれたサブ・リーダーのTさんに感謝。ちなみにボランティアスタッフとして規定の参加回数に達すると、特典としてグッズが割引で買えるのであった)。

Tote

で、今回のこの「クロニクル京都」の展示についてどこかのメディア記事で取り上げられたときに「この作品に写っている約500人の中にあなたの知っている人が登場しているかも」といったことが書いてあったのを読んで、私は直感的に「さすがにそんなことはないだろうなー」と思っていたのだが、結果的に私も直接知っている人が被写体として入っていたのだった。

それはベニュー・リーダーのSさんだった。2回目に京都新聞ビル会場を担当したとき、たくさんの被写体が並べられている展示をあらためてじっくり見ていて「あれ、これってもしかして・・・?」と、ようやく気づいた次第である。本人に訊ねたら、気づくのが遅い!と言われてしまった。聞けばJR氏がこの作品制作のために京都で撮影をしていた時期にアシスタントとしても関わっていたとのこと。

一通り見ているつもりでも、なかなか気づかないものだなぁ~と、ぼんやり思っていた。

しかも、それだけに留まらなかった。

それは会期が終了する直前のことであった。
私がいない日に同僚のmizuix氏がこの京都新聞ビル会場を訪れて、その感想を送ってくれたのだが、「Sが写っていたのに気づいていたか?」ときた。

Sくんは、かつて我々とともにSUPERCARのコピーバンド「ワルシャワ・ドロップ&ロマンティック」を組んだ人物であった。

Warsaw
【 ▲ 当時つくった手作りバンドTシャツ。なつかしい】

しかもしかも、ビデオルームで上映されていたメイキング映画のエンドロールの部分で、彼がJRに撮影されている様子も映っていたことを(1回しかそれを観ていないはずの)mizuix氏はちゃんと認識していた。例によって私はこのビデオ上映だって、何回も何回も繰り返しエンドロールを観ているにもかかわらず・・・そこに自分のよく知っている人が映っていたことに、mizuix氏から言われるまで、まっっったく、ちぃぃぃっとも、気づいていなかった。

いったい自分はなにを見ていたのだろうか・・・とアタマを抱えるしかない。
「見ているようで、見えていない」
これは写真に限らず、日々の生活全般においても言えることかもしれない。
JRの作品は、最後の最後まで私を揺さぶってきたのであった。

そんなふうにしてこの一ヶ月が終わっていった。あの大きな印刷工場跡地に戻ってこられる日がくるのかは、今は分からない。そして京都新聞ビルだけでなく、ボランティアで携わったさまざまな展示会場で出会った人々と、同じ場所で同じように過ごすことはもうないのかもしれない。それでもまた来年、KGのそこかしこの会場で「ひさしぶりーー!?」と言えるような状況があればいいなと、それこそ「顔たち、ところどころ」というフレーズがかもしだす雰囲気を想いながら、その日を待ちわびている。

Building

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そして最後にお知らせとして・・・おなじみイリノイ州アーバナ・シャンペンで展開するコミュニティラジオ「Harukana Show」では、数週にわたってKGをめぐるあれこれについて取り上げていただき、自分もメールやトークで参加させていただいた。このブログに書ききれていないエピソードなども少し話しているので、よければぜひ。(ポッドキャストのページはこちら。No.735~No.740です)

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2025.05.06

京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」の印象をざっくりと。

京都国際写真祭KYOTOGRAPHIE(以下KG)もあとちょっとで閉幕! ゴールデンウィークの混雑のなか京都をウロウロしたくない人もまだ会期としては5月11日まで残っているので、観にいけるチャンスはまだある!
・・・ということで、今回の記事は、ボランティアスタッフとして立ち入ったり、スキマ時間でお客として訪れたりした範囲でタテーシが書けるレビューを、ダァーッと殴り書きのように記す。誰かにとって何かの参考になれば幸い。

八竹庵
ここについては前回の記事で取り上げているけれども、ひとつ書き忘れていたのは土田ヒロミによる「リトルボーイ」は今回の写真祭における最重要作品となり、終戦80年を経たことへの大切な、とっても大切なメッセージがこめられている。今回のメインテーマ「HUMANITY」はこの作品ですべて語り尽くしているのでは。
この展示だけはメディアに載る広報物でも非公開の設定になっており、実物はこの八竹庵会場の一番奥の倉で、暗がりのなか、静かにあなたを待っている。

京都市美術館別館

今回のKGで予想以上に自分に刺さったのがこのグラシエラ・イトゥルビデの展示。実際SNSで検索してもここは大絶賛の様子。KGは毎年、取り上げる写真家や展示内容のコンセプトのバランスを考慮して、一人の作家のこういうガッツリした展示を最低でも1箇所は設定しているように思われる。実際この会場がもっとも作品の展示点数が多いそうで、見応え度という意味でもダントツに推せるのがこのメキシコ出身の写真家の回顧展であった。

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▲この入り口のキーヴィジュアルの時点で、これはタダものではない作品たちが待ちかまえていることを示していた。

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▲イトゥルビデさんは鳥をモチーフにいくつかの写真を撮影してきたとのことだが、特にこの作品は、今年のKGのメイン会場で観たすべての写真のなかでも個人的ベストとして推したい。動物を被写体に入れる場合は、往々にして運を味方につける必要があるにせよ、「それにしても!」ですよ。ものすごくないですか、これ。

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▲Diorから依頼されたという作品も少し展示されていた。こういう依頼仕事でも写真家の強い個性がどうしたって滲み出るものがあるようで、写真というものが、その瞬間を永遠のなかに閉じこめる装置であるということを改めて思い至らせてくれるような「神秘的な静けさ」みたいなものが、張りつめた緊張感とともにプリントされているような感じが忘れられないのである。いったい何がどうしてこういうふうになるんでしょうねぇ、と。

Kyoubi-2

この他にもいくつか「うおぉああ~」と感じた写真があるのだが、ともかくこれらは現地でぜひ観てほしいと願う。

TIME’S
三条通り高瀬川ぞいに80年代からある安藤忠雄設計のTIME’Sがすっからかんになって久しいが、このKGの時期だけはあたかも以前からずっとそうであったかのように全部が写真館みたいになって、あちこち歩き回れる状態になっていて、それだけでもここに来る価値があり、そこへきてマーティン・パーの展示「Small World」だ。世界の観光客の行動を皮肉とユーモアで切り取った作品群で、ただひたすら笑える。そう、笑えるのだが、同時にそれは今まさに写真展に押し掛けている自分自身もある部分で観光客と同じようなもので、その笑いが直接自分自身へ返ってくることにも思い至る、という部分もある。

Times-1
▲このラマほんとに好き。

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▲ピサの斜塔にまだ行ったことがないが、自分もぜひこのような写真を撮りたいと固く決意した(笑)。

ちなみにパー氏はイギリス人(さすがMr.ビーンを生んだ国だけある)。そんなパー氏が春の桜咲き誇る京都に滞在し、いろいろな観光スポットで撮影した写真が延々リピートされる映像コーナーも、苦笑いをひとりこらえつつ楽しませてもらった。大混雑のなか、観光を楽しめているように思えないいくつもの疲弊した表情だったり、なんとか自分なりに観光を意味のあるものに奮闘すべく必死になっている姿だったり・・・ある種、そこを強調してチョイスしているんだろうけど、パー氏のブラックな皮肉を込めた視点を通して、「観光地に人が集まるってどういうことなんだろうか」と改めて問わずにはいられない。そして映像の後ろで流れるユルいBGMも、より哀愁を誘う。
(そして同会場では吉田多麻希「土を継ぐ」の展示があるのだが、私があまりにパー氏の作品に時間をかけすぎて、こちらのほうの開館時間を逃してしまい、観ていないのであった・・・)

嶋臺(しまだい)ギャラリー
 同じように「皮肉」っぽさが効果的に炸裂している展示として、リー・シェルマン&オマー・ヴィクター・ディオプの「Being There」がある。この展示は何の予備知識もないまま進んでいくと、古き良きアメリカのほのぼのとした写真がレトロな調度品やインテリアとともに次々と並んでいるという、ただそれだけの作品なのだけれど、展示の最後に流れている映像を観て、「そういうことだったの!?」と驚いてしまうという仕掛け(なので、もういちど前に戻って見返したくなるお客さんも多数)。

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ちなみにこの会場ではもうひとつ無料の企画として、長年京都で発行されている英文雑誌『KYOTO JOURNAL』のこれまでの歩みを振り返る特別プログラムも併催されており、タイミングがあえば創始者のジョンさんが温和な笑顔で来場者を迎えてくれる。

京都文化博物館 別館
 KGは写真作品を展示する場所そのものの個性との相互作用を楽しむというコンセプトを志向しているけれども、この京都文化博物館の別館はまさにその強烈な存在感をもって来場者を迎え入れ、古くは日本銀行京都支店として人が行き交っていたであろう歴史ある格式高い空気感が今もそこかしこに漂い、そんな空間で作品が楽しめる。

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今回はインドのプシュパマラ・Nの展示ということで、森村泰昌のように自分自身をさまざまな役柄に変身させて、根強い因習やジェンダー規範などへの問題提起を試みた作品群が展示されている。2階では彼女のインタビュー映像作品が視聴でき、インドのカースト制や民族誌的な知識がないと難解な内容であるのは否めないが、ずっと撮影用のメイクをしてもらいながらしゃべり続けたり、被った冠の衣装が対話の途中でズレてくるのがどうしても気になってしまう様子だったりを観ているうちに、プシュパマラさんへの親しみがわいてきたりする。

ASPHODEL
 「自分自身の身体を作品にする」という意味では、こちらのレティシア・キイ「LOVE & JUSTICE」もストレートに迫ってくる。コートジボワールで生まれ育ち、髪の毛はまっすぐでなければならないという俗習にみまわれていたところを、かつての植民地以前のアフリカ人女性たちの髪型の多様性を知ることで「自然な私」を受け入れ、そこから表現活動を通して女性へのエンパワメントへとつながっていく。それにしても自分の髪でここまで作り込むか!?と驚かされる。
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そしてこの力強い展示が、祇園という特殊な場所のまっただ中を選んで設営されているということもポイントである。
(これとは別に、京都滞在時に撮影した作品たちが出町枡形商店街で展示されているのだが、私はまだ観ておらず)

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東本願寺 大玄関
京都に住んでいると、なかなか具体的な用事がない限り、こうした「ザ・名所」には立ち入らないわけで、今回のKGでこの場所が会場になったおかげで、おそらく初めてじゃないかと思う訪問となったのが東本願寺だ。

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このイーモン・ドイル「K」は、作者の急逝した兄、そして兄にあてて母親が書いた手紙がモチーフとなり、追悼としての作品が捧げられている。有料会場にしては展示の規模が小さく感じるのだが、この「大玄関」が普段は非公開となっている希少な場所ということで、そこでアイルランド由来の音楽とともに、その場を流れる風を味わってみたりした。

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両足院
逆に「ここは無料でいいの!?」となったのが建仁寺のなかにある両足院、エリック・ポワトヴァン。ここは庭園とともに日本家屋の佇まいにとけ込む絵画のような繊細な写真作品を堪能できる。襖絵のような大きなプリントが、余白の美とともに存在感を放っている。時間帯によって日の傾き具合で少しずつ色彩がうつろう世界。

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ちなみに庭園のなかをサンダルで歩いて茶室の窓からのぞく作品は、「だから何?」と思うかもしれないので、近くにいるスタッフに作品の意味を訊ねることをお勧めする(スタッフは自分からは話しかけないし、ましてやお寺の会場なので、静寂をできるだけ保とうとしている)。

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堀川御池ギャラリー

同じく無料会場でがっつり展示が楽しめる場所として紹介したい。これはメイン・プログラムではないが「KG+SELECT」という関連イベントとして、審査員から選ばれた国内外10組のアーティストの作品を集めて展示し、ここで審査のうえ選出された1組には、翌年のKGのメイン・プログラムとして開催権が与えられるというもの。

私がとくに見入ったのがウルグアイのフェデリコ・エストル。まず説明文でノックアウトされた。「ラパスやエル・アルト近郊には、毎日3000人の靴磨き職人が客を求めて街に繰り出している。彼らを特徴づけているのは、周囲に気づかれないようにつけているスキーマスクだ。近所では、彼らが靴磨きの仕事をしていることは誰も知らない。」とはじまり、「え!? どういうこと!?」となる。続きはこの以下の画像からぜひ読んでみてほしい。
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こういう社会があり、こういう人がいて、そしてそれをアートのチカラで変調させる可能性があるということを知らせてくれる展示であり、「うむ・・・ぜひ来年のKGのメインプログラムになってほしい・・・もっとこの人の作品について知りたいわ・・・」と思っていたら、よくよく調べるとすでに今年のKG+セレクトのアワードで受賞決定していたことを知る。おおっ、来年さっそく超楽しみな展示がこれで確定!!

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それともうひとつ、香港の何兆南(サウス・ホー・シウナム)による「Work naming has yet to succeed」も印象的だった。香港における2019年の民主化デモにおいて街のあちこちに書かれたメッセージが消去され、その「痕跡」を捉えた写真群が展示されている。「壁の言葉が消されたあと」の光景ではあるものの、実は消えきっていないという、その曖昧な領域が可視化されている。説明文を読まずにさっさと通過して「単なる街の風景写真」だと認識して去っていくカップルのお客さんがいて、「あぁっ、そうじゃないんです! 説明文を読んで!」となってしまった歯がゆさも思い出として残っている。

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で、その昨年のKG+で展示された作家のうち、アワードを獲得して今年のメインプログラム開催に至ったのが台湾の劉星佑(リュウ・セイユウ)の「父と母と私」という展示。昨年のKG+で観た、「父親にウェディングドレス、母親にスーツ」を着させて撮影した作品群がインパクト大で、その圧巻の「両親シリーズ」の発展系ともいえる内容が今回じっくりとメインプログラムとして鑑賞できるわけで「フシギなご両親との久しぶりの再会」のような感覚で展示会場を歩いた。

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性別役割の固定概念を問いかけるシリーズから、さらには父親が兵役をつとめた土地に赴いて制作した作品など、家族の歴史をたどっていくことでそのメッセージ性がより社会的なものへと昇華していく感じがあったが、それにしても映像で展示された、ご両親の「足踏みダンス」みたいなナゾの動きが延々と展開していく作品が絶妙にジワジワきて、目が離せなくなった。表現行為の原動力には作者にとってのシリアスで切実な想いがあるのだろうけれど、それをファニーなタッチで「作品」にしていくことで、観る者の心情にグッと入り込んで、不思議な角度から共感を呼び起こすような、そういう作品たちであった。

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・・・と、ここまで書いても、まだ「誉田屋」の石川真生「くろちく万蔵ビル」の甲斐啓二郎の展示について書ききれていない! そしてタテーシにとって最重要な「京都新聞ビル・印刷工場跡」のJRの展示についても、今回はあえて触れずにこの記事をアップしようと思う。なぜなら「京都新聞ビルはマストだから」。ここを行かずしてKGは始まらないし終わらない。すでにSNSではたくさん写真が拡散しているけれども、最後のネタバレについてはまだこのブログでは書きたくないので、そういうのも含めてぜひこれはマジで京都新聞ビルの展示「Printing the Chronicles of Kyoto」は多くの方々に味わってほしい。

本当ならもっと洗練された記事にしたかったけれども、もう連休も終わってしまうので、エイヤッとこの記事を公開させていただきます。

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▲JR京都駅の壁面にJRの「クロニクル京都」の壁画が会期終了後もしばらくは展示されているとのこと!

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2024.12.29

失われた12.28秒を求めて

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 旅行で初めての街を訪れると、私はできるだけまず最初にそのエリアで一番高い展望台などにあがって街を見渡すようにしている。そのあと地上を散策しているとき、しばしば目に入る展望台のてっぺんを見ては「さっきまで自分はあそこにいたんだよな~」という、ちょっとした感慨を覚えるのが好きである。

 そういうこともあって、今住んでいるマンションのベランダから京都タワーの姿が目に入ると、旅行のときの気分に近いものを感じる。
 そして最近では京都タワーを仰ぐたびに、今年亡くなったN先生のことを思い出すようになった。先生の書いた戦後占領期の京都の本では冒頭に京都タワーのことが言及され、本の装丁にも京都タワーの写真が出てくる。

 そんなわけで、あらためて京都タワーの展望室に行っておきたいなという気持ちがぼんやりとあった。
 私は今までの人生で記憶する限り2回ぐらいしかあの展望室に行ったことがないはずで、その2回はどちらも実家の奈良に住んでいた頃だった。京都で一人暮らしをするようになって15年近くになるが、そのあいだ京都タワーの展望室には行っていない。

 なので先日、天気も良かったので買い物のついでに京都タワーにちょっと上ってみたのである。

 展望室にきて、真っ先に自分の住んでいるエリアを探した。ほどなく、いつもベランダから見ている距離感そのままに、自分の住むマンションのベランダが小さく確認できた。設置されている双眼鏡を使ってさらにズームアップを試みて、誰もいないベランダを嬉々として眺め続けた。あらかじめベランダには目印になりそうなサッカーユニフォームとかを掲げておけばよかったと少し後悔した。

 そうして一定の満足感をもって周辺部分も眺めて、そのあと他の方角の景色も一通り見ておこうと移動したら、展望フロアの一角でちょっとしたイベントが実施されていた。
 3名ほどのスタッフのお姉さんたちが来場者に声をかけて、ストップウォッチを手渡している。

 それは「京都タワー開業60周年記念 ストップウォッチ大会」という催しだった。

 地階で展望室のチケットを購入するときにもそのイベントのお知らせがチラッと目に入っていたのだが、子供向けのイベントだろうと思っていた。ところが実際には大人でも参加できるようで、そこに掲示されている説明文を読むと、

「京都タワーの開業記念日である12月28日になぞらえて、12.28秒を狙ってストップウォッチを止める」

という趣旨が書かれていた。もちろんストップウォッチの文字表示は見てはいけない。12.28秒ピッタリに押すことができれば開業60周年記念品の豪華詰め合わせがもらえて、ニアピン賞にも景品がでるとのこと。

「ゼロコンマ28秒まで合わせていく」
という点が、私の闘争心に火をつけた。モータースポーツの現場でもないと出会うことのないような、非日常な領域の闘いではないか。
何を隠そう、私はこの「時計を見ずに自分の感覚だけで時間を正確にカウントする」という行為に、絶対的な自信を持っているのだった。その種目であれば中嶋悟やアイルトン・セナとだって互角に渡り合えると思っている。

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▲この2人にも勝てるかもしれない種目。

 ことの始まりは中学生の頃、バスケットボール部に所属していたことにまでさかのぼる。バスケの公式大会では、各校からそれぞれ4名ほどの部員が「審判の補助役」を担当する決まりになっていた。運動能力面ではチームにまったく貢献できていなかった私は、その補助役を率先して引き受けて、そのための講習会にも参加し、大会のたびに審判をサポートする役割を担当していた(ついでにいうと、公式戦で一度も勝てなかった私の学年のチームは、毎試合後に全員が集められて血の気の多い顧問の先生から長々と説教を喰らっていたわけだが、試合に負けた場合、補助役の4人だけはすぐ直後の試合の審判を補佐する必要があるので、先生からも「オマエらは早く行け」と言われてその場を早々に離れることができたのも、私がこの役割を好んでいた理由のひとつだった)。

 その補助役4名はそれぞれ異なる用務を担っており、私の担当は「30秒ルールを成立させるために、攻守が入れ替わるごとに時間を計測し、30秒が近くなったら小さい旗を振る役目」であった(現在はルールが変わって24秒ルールになっている)。
 つまり常にストップウォッチを片手にカチカチと時間を計り続け、場合に応じて旗を振るという、それはあたかも当時からハマっていたモータースポーツの世界に極めて親近感のあるアクションだったこともあり、私はこの役割を楽しんでいた。

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▲そんな中学2年生の脳内イメージ。

 こうして、ひたすらストップウォッチを操作し続けることとなったこの役割の副産物として、私は1秒1秒の進み具合のリズム感を身につけ、ストップウォッチの動作する様子を思い浮かべつつ正確な時間を心の中で刻むという技術を体得するに至ったのである。

 これが「特技だ」ということを自覚したのはその数年後、大学で所属していたゼミの先生が企画した、心理学のグループワークをいろいろ体験するという合宿に参加したときのことだ。10人ぐらいのチームに分かれて隣の人と手をつなぎ輪を作って床に座り、目を閉じて決められた秒数がきたと判断したら立ち上がり、どこまで正確に所定の時間に近いところで全員が立ち上がれるかというワークが行われた。
 ここで私は自分の感覚を信じていつも自信満々に立ち上がり、他のメンバーもそれにつられて立ち上がる感じになっていったのだが、様子を見守っていた先生が驚くほどに、そのタイミングはことごとくバッチリだったのである。これが上手だからといって何も褒められはしないものの、「バスケ部での経験」の影響があったからだろうということを、このときはじめて意識したわけである。

 さらに今でも、職場の業務の関係上、年に数回ほど「電波時計をひたすら見つめる」という作業がどうしても発生するのだが、このときに私はおのずと自分の体に刻まれている「秒数の進むリズム」をあらためて確認・調整している。つまりこの種目においては、今も私は現役選手であり続けているのだった。

 ということで、35年近く前の話から振り返って、ここまでの文字数を費やしてまで説明する意味があるのかどうかは分からないが、とにかく私は「ストップウォッチで正確な時間を当てる」ことについては、それなりにプライドを持っている。他にもっとマシなことで誇るべきものを持っていたいものであるが、それはまぁ、仕方ないことである。

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 そんなわけで、京都タワーの展望室で「ストップウォッチ大会」のルール説明が書かれたボードを凝視していた私のところにおもむろにスタッフのお姉さんが近づいてきて、黒いストップウォッチを差し出してくれたので、つい受け取ってしまった。
 そして操作方法を説明してくれて、ほどなく近くに立っていた客のおじさんと一緒のターンで私はこの大会に参加することになり、すかさず別のスタッフのお姉さんの「用意、スタート!」の合図とともにストップウォッチを作動させるに至ったのである。


 この、ちょっと慌ただしい流れが、いけなかった。


 ふと、途中で

 「ええと、12秒とコンマ28なんだよね?」

 と考えてしまったのも、いけなかった。


 で、カチッと私が押したストップウォッチの表示をみると、














「10秒そこら」

 で止まっていた。


 ああおあおあおあおあーー!!


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 地上100m近い展望室において、私は地の底に崩れ落ちそうな気分であった。

No9

 振り返るに、まず私は決定的に大きなミスを犯していた。
 スタートと同時に、つい「1」からカウントしてしまったのである。ゼロから始めないといけないのに・・・子どもでもそんな初歩的なミスはやらかさない。
 でも、それだったらせめて「11秒28」を押しておきたかった。なのに、10秒台って・・・

 スタッフのお姉さんたちに囲まれた状況で、私は正常ではなかったのだろう。いったん場を離れて、呼吸を整えてから、予行演習をするべきであった。ルール説明のボードを外国語を読むかのように凝視したまま突っ立っていたのがダメだった。

 そして地上100mという状況下では、気圧の問題もあったかもしれない。いつもより違う意識状態にあった可能性がある。

 ・・・と、さまざまな敗因(言い訳)が頭をかけめぐり、ヨロヨロとその場を離れ、引き続き眼下に広がる鮮やかな晴天の京都市街をダラダラと眺めていたのだが、頭の中ではさきほどのストップウォッチのことでいっぱいになってしまい、景色を堪能しているとは言い難かった。

円形の展望室をそのあともグルグルと行ったりきたりしつつ、

 「頼むからもう一度トライさせてほしい」

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という気持ちも募っていったが、さすがにそればかりはオトナとしてどうかと思ったので、グッとこらえるしかなかった。展望室の手すりに寄りかかり、一人そんな葛藤に苦しむ47歳。

あきらめて帰り道の順路にしたがい下のフロアに進むと、これまでの京都タワーの歴史を振り返る展示が行われていた。「おぉ、N先生! これは見ごたえのある資料ですよねぇ!?」という気持ちになり、じっくりとひとつひとつの展示を丁寧に確認していったつもりではあったが、心のどこかでずっとストップウォッチ大会のことを引きずっていたことを正直に記しておく。

Tower-2

 こうして翌日からも、私の自宅のベランダからはいつも通り京都タワーの姿がうかがえるわけで、そしてどうしてもストップウォッチの悔しさが胸に去来し続けることとなり、そんな年末を過ごしているわけである。


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さて今年もこのブログを読んでいただき、感謝です。

毎年の恒例として「今年の一曲」を紹介して締めくくっていますが今年はピクシーズ。今年に限らずここ数年ずっとピクシーズには支えられている感じがします。おっさんロックファンは最後はピクシーズにたどり着く、みたいなことをとあるYouTube動画で誰かが語っていて、苦笑いするしかない。

PIXIES「Caribou」

繊細なイントロから、絶叫のボーカルまでの振幅の広さとともに、やはりこの曲はサンティアゴ氏の奏でるリードギターの旋律が圧巻で、「人生においても、こういうギターの音がいつまでもどこかで流れ続けていてほしい」と思って聴いてます。

振幅のはげしい昨今かもしれませんが、皆様おだやかな年末年始を。どうか。

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2024.07.29

N先生のこと

Hydrangea


 自分にとって「恩師」と呼ぶには表現が追いつかない、N先生が逝去された。

 何からどう書けばいいのかわからないところからはじまり、この文章はこの一ヶ月半、少しずつ書きながら、行きつ戻りつして書き進めている。でもずっと、私のこのブログをN先生は読んでくださっていたので、前に進むためにも、ここに文章を残していく。
 
 「恩師」と呼びにくいのは、私にはそう表現できる資格がないと思っているからである。「恩師」というと、勉強や学問を学び修めるために師事したという感覚があるのだが、私にとっては、そうしたあり方とは異なる関わり合いをさせてもらい、知的刺激に満ちた時間とともに、人生における「大きな学び」を、さまざまな機会を通して(そして、数え切れないほどのお茶とお菓子とともに)たくさん享受させていただいた。そして結局はそのお返しをちゃんとできないままだったという感覚がいま、すごく残っている。

 私にとってN先生は、「好奇心を大事にして、ものを考えて、文章を書く」ということについて、ただただ、大いなる存在であった。それは先生自身が、研究者としてたくさんの文章を書いていく立場でありつつも、「研究のための言葉」をできる限り避け、「読んでもらうための文章」を書き続けようとしていた姿を通して思い起こされる。私がずっとブログやその他の書き物を続けてきた、その視界のむこうにはいつもN先生からのリアクションがあるかもしれないという予感があり、そしてしばしば、実際にN先生からの感想がいただけたことは自分にとっての宝物となっている。

 そしてN先生の言葉を借りるなら「学際領域の“きわ”」を渡り歩いて多彩な学問領域から紡ぎ出された数々の著作は、どのような論題であっても、そのまなざしの底ではつねに「殺すな、生きよ」の信念に貫かれた「怒り」に類するような思索のもとでこの世界を、政治や歴史を、生活を捉えていた。しかし、そうして激しい熱情を抱えつつ冷徹に「届く言葉」を紡いで仕事を続けていったと同時に、N先生が異才の人だったのは、その朗らかで謙虚な人柄で、周囲の私たちにいつも温かく接してくださり、好奇心旺盛でチャーミングな方だったと誰からも記憶される、その「振り幅の大きさ」にあったと思う。

 目の前の人々や生活をまず大切にし、励まし、美を愉しみ、笑いを分かち合う。それと同時に、油断すると生活のなかで見えにくくさせられる「政治的なるもの」への徹底した批判精神を失わず、疑いや問いかけをやめず、探索と対話を粘り強く続け、「闘う人」としての矜持をたずさえること。そしてそのために「思索と言葉」を磨き上げて他者に届けること。そうした営みの両立は、私からすれば「パンク精神の体現」以外の何ものでもなかった(実際に本人にも一度だけそのことを伝えた気もするが、記憶に自信がない)。

 先生との出会いを振り返ると、それは大学一年生の頃で、共通教養科目としての「文学論」を受講したことにはじまる。N先生はそのころすでに、「近現代文学に描かれた住まい」というテーマで新聞連載を続けていて、その仕事をやがて書籍にまとめつつあった時期にあたる。当時、臨床心理学科というところにいて心理学を学び始めていた私は、自分のいた学科とは異なる文化人類学科に所属していたN先生が、どうしていろんな小説の「住まい」に注目した授業をしているのか、その真意がよくわかっておらず、その面白さに気づくのは本当にだいぶ後になってからだった。

 講義が進んでいき、この科目ではやがて、受講生それぞれがキャラクターを創作し、「集団創作によるひとつの物語」としてさまざまな居住空間をテーマにしたオムニバス小説を作るという展開になっていった。期末レポート課題では、その合作小説を読んだ感想を書くということになり、そのためには受講生が個々に書いた作品を学期末までにひとつにまとめる作業が必要になる。

 そこで講義も残りわずかとなったあたりで、N先生は受講生に向かって、誰かこの編集作業をやってみませんかと募った。

 手を挙げたのは、私だけだった。

 こうして数日後、私はN先生の研究室を訪れることになった。私の手には、ワープロ専用機の入った大きなキャリングケースがあった。このワープロ(カシオG-98)こそ、私が高校3年生のときに遊びで始めたフリーペーパーを作るために使い込んでいたもので、「編集作業をやってみないか」というN先生の呼びかけに私が反応したのは、この頃の自分にとっては新しい趣味の延長線上に「編集」があったからである。

 こうして私は使い慣れたワープロをN先生の研究室に持ち込んで、受講生の作品を冊子にまとめた。オムニバス小説ということもあり、各学生の作った話をつなぐ役割として私は「英国BBCのジャーナリスト」という(趣味まるだしの)設定のキャラを考案し、その記者の目を通してさまざまな日本の住まいを探訪するという構成の物語を無事に作り終えた。

 そして、この作業がきっかけとなり、N先生からはそのあともいろんな用事の手伝いを頼まれるようになっていった。やがて私は学部を卒業し、そのまま大学院に進んだりやめたり、別の大学院に行ったりするのだが、その間もずっと定期的にN先生の研究室で仕事を手伝わせてもらっていた。やがて母校でスタッフとして働くようになり、業務としても先生の仕事を支える立場にもなり、また先生が定年退職したあとも、ときおりご自宅にうかがい、パソコンのメンテナンスをさせてもらったりした。

 学部生の頃は、何度もN先生の研究室を訪れておきながらも、自分とは違う専攻の先生であるということで、そこに並んでいた本棚の本たちには特別な注意を払うこともなかった。しかしだんだんと、自分もそれなりに歳を重ねて学びを深めつつ、N先生とのたくさんのおしゃべりを経ていくなかで、N先生が何に問題意識を持ち、そして何と闘っているかというようなことが自分なりに少しずつ掴めるようになると、その「本棚の意味」が自分にさまざまなことを投げかけてくるように意識されていった。世界は自分が思っている以上に広く、そして考え続けるべきテーマはたくさんあることを、これ以上なく恵まれた環境のなかで学ばせてもらったといえる。私はやがて心理学から逸れて社会学を専攻するようになっていった。

 そんな私にたいしてN先生からは「あなたは『書く人』なんだから、書き続けなさい」と励まされたことがあり、そして私が友人以外ではじめて自作のフリーペーパーを渡したのもN先生であり、そこからN先生の研究室の前に配布用のフリーペーパーを設置させてもらい、知らない人にも読んでもらえるものを作るきっかけを与えてくれたりした。こうしてN先生はずっと、私の書いた文章を読んでくださっていた。そのことがずっと自分にとっての絶対的な心の支えになっている。

 かつて先生は、困難な状況下におかれた時期に、ある人からのアドバイスで「手作りで、片手間に、優雅に」というスローガンで仲間たちと協働していったことについて語ってくれたことがあった。どんなに大変なときでも「自分の手で」「優雅」に至るその意志の持ちようが、N先生の独特の生き様と思想を育んできたのだろうかとも想像していた。そうしてその言葉は自分自身にとっても事あるごとに想起される「智慧」となり、できるかぎり自分も優雅でありたいと願いつつも、しかし今はただ、余裕のない日々のなかで見渡す限りの地平を眺めているような気持ちで、静かに言葉を並べている。自分は結局「何も」書けていないままであり、全力を尽くして書いたといえるような文章を、ついぞN先生には読んでもらうことが叶わなくなってしまい、その事実とともに、人生をいかに生きるかという宿題だけが、残された。

 ただ確かに言えることは、19歳のときの私がフリーペーパーづくりを趣味にしていたことで、あのときのN先生の呼びかけに応じることができたことは、本当に人生で大きな、幸運に満ちたターニングポイントだったのだ。この一ヶ月半にわたり、折に触れてこれらの文章を書いたり消したりしつづけてきた自分は、N先生が旅立っていった寂しさとともに、かつての自分が得ていた幸運の大きさをあらためて認識することとなった。この幸運を得た者の「宿題」として、そしてたくさんの時間を共に過ごしてくださったN先生への感謝を示し続けることとして、書き続けること、があるのかもしれない。手作りで、片手間に、優雅に。

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2024.06.07

新作ZINEをつくった(ある意味で)

ひきつづき、KYOTOGRAPHIEの話である。
(うん、『ロス』は続いている)

京都芸術センター会場ではジェームス・モリソンによる「子どもたちの眠る場所」という展示が行われていた。

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世界中のさまざまな境遇にある子どもたちを訪ね、写真家はすべての子どもたちの姿をできるだけ同じ条件でポートレート写真に収める(つまり、そこには「すべての子どもは平等である」という意味合いが込められているとのこと)。そして彼らの「寝室」を、これもできるだけ同じ角度から撮影し、そうしたプロジェクトから今回の展示においてセレクトされた世界の子どもたちの写真が並べて置かれている。

訪れた鑑賞者は、大量消費社会のなかで豊かに暮らす子どもの寝室の写真を目にしたかと思えば、その裏側に歩を進めると、過酷で悲惨な状況下で粗末な寝台をとらえた写真や、そこで毎日眠る彼らがどういう暮らしをして、どんな夢を持っているかといった説明文を読み、さまざまな社会背景や家族関係のありかたに直面し、その子どもたちの身の上を案じることになる。

写真家自身はただ淡々と、子どもたちの姿と寝室の写真を並べ、彼らの生活の様子を完結に書き添えて提示しているだけである。ただし、次々と並ぶ作品を観て歩く我々はそれらを淡々と受け止めるわけにはいかず、さまざまな感情が静かに沸き起こってくる、そういう展示だった(あえて導線を定めず、作品の間を自由に行ったり来たりできる設定にしているのも効果的だった)。

そして会場である京都芸術センターも、かつては小学校として使われており、そういう意味でも子どもに関する展示をここで行うことには意味があったと感じる。

その意義に呼応するように、この「子どもたちの眠る場所」とは別に、同じ敷地にある別の建物で「KG+」と銘打ったKYOTOGRAPHIEのサテライト・イベントの一環として、子ども写真コンクール展「しあわせのみなもと」の展示も行われていた。そこでは日本の子どもたちが応募した写真のなかから選ばれた作品を、和室の大広間で鑑賞することができた。

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私はボランティア・スタッフとしてこの京都芸術センター会場では一日だけ入らせてもらったのだが、その日に割り当てられたシフトのうち、最初のコマと最後のコマの計2回、この「しあわせのみなもと」の子ども写真展フロアを担当した。1コマが50分くらいで、スタッフの数の関係上、このエリアは1人きりで担当することになっていた。

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で、この子ども写真展の部屋の脇には、さまざまな紙や文房具類が置かれたスペースが用意されており、ちょっとした工作を楽しめるようになっていた。
スタッフはこの工作スペースのところに座りつつ、来場者が来たら畳の部屋の前で靴をぬいでもらうよう案内したり、人数をカウントしたりするのが主な仕事だった。
その傍らで、この工作スペースにもお客さんがやってきた場合はその応対もすることになっていて、ここでは「A4紙でミニブックをつくってみよう」という解説書が置いてあり、主にそういう趣旨で工作を楽しんでもらうようになっていた。

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そんなわけで、朝一番のシフトでこの場所を担当することになった私としては、この「ミニブックをつくってみよう」の解説書をみて、「お客さんが来た時に、このミニブックの作り方を教えられるようになっておかねば」と思い、さっそくA4用紙の束から1枚の紙を手に取ったのだが、このときすでに心の片隅で「自分も何か描くしかないよな、こうなると」という気持ちでいた。

もう、そりゃあね、
描かずにはいられませんよね、何か。
紙を折ってミニブックの形を作って、
空白のまま放置するなんて、
できませんよね。

ましてや朝一番の開場直後だったので、お客さんはそんなにやって来ない時間帯だった。
使える時間は50分ぐらいで、そのなかで紙を折り、ペンを取り、書き上げたのが以下である。









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「即興ZINE」を久しぶりに作ったわけで、ある意味で「新作」となった。
限定1部だけど。

ちなみに、すでにこの工作コーナーには、同様のミニブックの「サンプル」がいくつか置いてあった。いろんな色紙を切って貼り付けたり、何かの写真を切り取ってコラージュのように貼っていたりする作品などが置いてあり、私の「ZINE」もそのなかに混ぜて置いておいた。


こうして時間が過ぎていき、夕方の閉館前、最後のコマで再び私はこのフロアの担当となった。

どうせなら作りますよね、もうひとつ。
ええ、せっかくですし。

で、この時間帯になるとお客さんもわりと多く、隙を見て少しずつZINEを作るという状況だった。
そしてこの工作コーナーにも親子連れが留まり、2組ほど時間をかけて娘さんがミニブックを作り、それをお母さんが見守っていたり、一緒になって作ったりしてくれていた。

こういうとき、子どもにとってはスタッフのオッサンにずっと作業を見守られるのもウザいかと思うので、私も自分の作品づくりに勤しみつつ、ときおり他の来場者に対応しながら、工作を続ける子どもたちやお母さんにたまに声をかけたりした。お互いが黙々と各自の作業をして、ちょこちょこと会話するぐらいの、そういうスタンスがちょうどいいんじゃないかと思った。

こうして閉館時間がまもなくやってくるという緊張感もあったなか、私が描いたZINEがこれである。








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そしてこの作品ができあがる頃には、工作コーナーに残りつづけていた娘さんとお母さんとも、お互いの作品を見せ合うこととなる。さぞかし変なオッサンだと思われたことだろう。でも最後にお母さんは、娘さんと私が作品を手にして並ぶ写真を撮って帰った(笑)。

そういう思い出と共にこの日のボランティアが終了した。

最後にスタッフ全員で終礼のミーティングを行ったが、私が作った2つの作品のことは黙っていた。
でも数日後、あの会場の担当だったサブリーダーさんと別のところで再会したとき、私があのZINEの作者であることを認識してくれていて、そしてあの作品が「スタッフみんなのお気に入り」になっているということを教えてもらい、久しぶりに味わう種類の達成感があった。

あともう一つ印象的だったのが、写真祭が開幕した直後に誉田屋源平衛の会場――中国の2人組・Birdheadの展示が行われ、ここもなかなかの会場だった――でスタッフに入ったときに一緒だった高校生の男の子がいて、そのときはお互い半日だけの業務だったのもあり会話もあまりできないまま解散したのだが、会期の最終日に再び誉田屋でのシフトに入ったときにたまたまその高校生くんとも再会し、ボランティア同士の会話の鉄板ネタとして「このほかに、どこの会場のスタッフに入ったか」という話になったわけだが、彼は京都芸術センターの担当になったときに私の作ったZINEを目にし、すぐにその作者が「このまえ誉田屋で一緒にボランティアをしたあの人だ」ということを認識したとのこと。ほとんど会話していなかったこのオッサンのことを、あのZINEを手にしただけで思い至ってくれたということに、なんだかグッとくるものがあった。

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2024.05.20

KYOTOGRAPHIEのボランティアが終わってロスになっている、っていう話

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 まさか、こんなにも「ロス」な気分になるとは一ヶ月前には想像もしていなかった。そして私の暮らす街について、ちょっと違った気分で眺めていた日々でもあった。

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 4月中旬から開催されていた京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」(以下KG)が先日閉幕し、私は主にゴールデンウィークを中心とした祝日・休日にボランティアスタッフとして携わったわけだが、この一ヶ月間は「イベントの合間に本業の仕事をこなす」という感覚だった。すまん本業。何せ京都市街のあちこちにある13会場(加えてそれらのメイン会場の他に、『KG+』という関連展示が数え切れないほど存在する)が舞台となっているわけで、すべての会場で事故なく滞りなく日々の会期が無事に過ぎていくことをボランティアの端くれである自分も祈るような気持ちでいたのである。



 つまり、楽しかったのだ。とっても。



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 結果的に私は13会場のうち6会場で、のべ8日間活動を行った。
 スタッフとして求められた役割はいたってシンプルで、入場の際のチケットチェックや、展示会場の監視、巡回、案内誘導である。それ以外のややこしい作業は、その会場ごとに配置されているリーダー役の有給スタッフが行っていた。

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 このリーダーさんたちの存在も興味深く、それぞれがいろいろなバックボーンを持ってこの役割に挑戦し、そしてキャリアの分岐点を迎えているのであろう若い人が多かった。とはいえ実際には、その日のスタートからあわただしくなるリーダーからゆっくり話を聞いたりする機会はそんなにはないので、ふとしたタイミングで交わす会話のなかで、その一端を伺い知る程度にはならざるを得ないのだが、自分が担当することになった会場に愛着を寄せつつ、よりよい展示空間を作っていこうとする真摯さには熱いものを感じた(なのでいつもの本業にも伝播していくような前向きなエネルギーをいただいた気がする。。。すぐに消えそうだけど)。

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 そうして私は今回はじめてボランティアスタッフとしてお客さんを迎え入れる側になったわけだが、この役割が長時間にわたってもまったく苦にはならず、いつもあっという間に時間が過ぎていく感覚があった。そしてこのことについてよく考えてみると、「一定の目的をもって集まった大勢の老若男女が、自分の目の前を次々と通り過ぎるのを見守る」というこの状況は、「市民マラソンでの沿道応援」の趣味と構造がまったく同じであることに気づき、そこは苦笑いするしかなかった。冬はマラソン大会でサッカーユニフォーム姿のランナーを探し続け、そこに加えて5月の連休は写真展の会場で無言のうちにいろいろな人々が通り過ぎゆくのを見守るというのが新たなルーティンになりそうな。

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 前回のこのブログ記事で書いたとおり、個人的にこのイベント最大の推し会場は「京都新聞社ビルの地下、印刷工場跡地」である。そして私はここで2回、スタッフとしてシフトを割り当てていただいた(最初は1回だけの予定だったが、無理やり都合をつけてもう1日追加で入らせてもらった)。そもそもKGのボランティアに申し込んだ動機が「この会場でスタッフ側として携われたら楽しいだろうな」という思いがあったからなのだが、その狙い通り、いや想像以上に、この会場はやはり特別な場所だった。

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 今年の京都新聞社会場の展示はヴィヴィアン・サッセンの回顧展ということで、現代の写真業界もファッション業界にも疎い私は彼女のことをそれまでまったく知らなかったのだが、色彩の強弱が印象的な写真作品が、この印刷工場の無機質でダークな空間のなかで放つ存在感のコントラストが見事だった(そしてアンビエント・テクノっぽいBGMが鳴り続け、それもまた雰囲気づくりとして最高に合っていた)。

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 およそ写真展の入り口とは思えない通用口(でもマンチェスターの伝説的クラブ、ハシエンダって結局こういうことだよな? と思った)を出入りし、足下にはかつて大量の新聞紙が運ばれたのであろうレールなどがそのまま残っており(穴が深すぎてスマホを落としたら二度と取れなさそう)、背の高い人がアタマをぶつけまくりそうなところに配管パイプが張り巡らされ、導線もはっきりしない会場の作り方ゆえに出口を求めてさまよい続けるお客さんなどの動きを常に注視して見守る必要があったのでスリリングなのである。

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 さらに最も気をつけていたのが、プロジェクションで作品が照らされた展示場所のさらに奥にも空間が続いていて、幻惑をもよおすシチュエーションゆえにか、プロジェクターが置いてある舞台を乗り越えてまでその暗黒の世界の果てへ進んでいこうとする客がたまにいるので、そんな彼らを現実世界へ呼び戻さないといけないことだった(私が体験した限りでは、不思議とそういう動きを見せるのはほとんどが女性客だった。そして私は決まりの悪そうなお客さんにむかって毎回『お気持ちは、よく分かります』と言い添えた)。

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 そして本会場ではサッセンがキュレーションに協力した、Diorが主催した若手作家支援の関連展示も併設されていた。工場跡地からその地点へ誘導し、見終わって戻ってきた客を出口へ案内するという業務もあった。で、このポジションではDiorの洗練されたクールな写真展示とともに「ふつうに京都新聞社で働いている社員さん」が導線のすぐ脇をウロウロしたり、新聞社の清掃担当のスタッフがふつうに我々の傍らで作業をするというリアリティかつ混沌とした状況もしばしば発生し、刺激的で飽きがこなかった。

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 また、閉館したあとにリーダーさんの計らいで、お客さんには通らせないバックヤードをスタッフみんなで歩かせてもらったことがあった。誰もいなくて真っ暗で、サッセンの展示だけが煌々と光り続けている空間をゆっくり味わっているとき、ふと、このメンバーでこの時間をともにすることはもう二度とないんだろうな、ということを思うと胸に迫るものがあった。

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 うん、他にも書きたいことがいろいろとある気がするのだが、ひとまずは会期のあと個人的・仕事的にもバタバタが続いているので、「終わった! ロスだ!! なんなんだこの感情は!!」という気持ちとともに、まずはこの書きっぱなしの文章のままでアップさせてもらう。自分と写真との向き合いかたもなんとなく変化していった感じもあって、アートを楽しむというシンプルな行為をたくさんのお客さんやスタッフさんたちと共有できたことのテンションの高ぶりに、いまはボーッとのぼせあがっている状況なのかもしれない。

 ということで、落ち着いたらまたこのことを書くかもしれない。

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2024.04.21

気がつけばこのブログを書きつづけて20年が経っていた

このブログをパソコンでご覧の方々は、記事の右側のメニューをずっと下にスクロールすると「ココログ」のアイコンがあり、その下に「2004/02/10」という数字を確認することができるはずだ。

それはこのブログを開設した日付であり、つまりこの「H O W E * G T R ブログ」は2月で20周年をひっそりと迎えていたのである。

そして作者はつい先日そのことにようやく気づいて、思わず一人で声を出して笑ってしまった。
「笑う」といってもそれは「苦笑い」に近いものがあり、そして「20年も経ってしまった」という事実に直面すると、自分のこれまでの歩みを短絡的に振り返ってしまうことで生じるなんともいえない情けなさとか後悔みたいな気持ちが圧倒的に上回り、「めでたいなー」っていう気分はあんまり、起こらない。

本来は、自分が作ったフリーペーパー「HOWE」の副読本みたいな形で始まった「HOWE*GTR」という別のペーパーがあり、それは完全に趣味オンリーの話を書き散らすためのものとして位置づけていたのであるが、2004年当時にブログサービスが開始されるにあたり、自分もその流れに乗っかって、フリーペーパー「HOWE*GTR」の延長線上のような気持ちで作ってみた・・・というきっかけでこのブログが始まっていった。

それがやがて30代になり40代になり、忙しさにかまけてフリーペーパーやZINEといった印刷物での表現をサボっていくようになり、ブログというのは気が向いたときに言いたいことや書きたいことを安価に手軽に表現する場として重宝し、そうしてこの2月で20年が経っていった。

最近ではブログをやるというと、すぐに「マネタイズがどうの」っていう話になってくるのだが、こちらはそういう時代の流れに乗っかっているわけではなく、せいぜいAmazonのアフィリエイトを置いたりしている程度だが、最近では自分自身がAmazonという会社そのものに嫌悪感を抱いているので積極的にアフィリエイトを設定する気にもならず、なおさら「何のためのブログなのか」と問われると、答えにくい(昔、Tシャツのシルクスクリーン印刷を解説した本ブログの記事がやたらGoogleの検索上位にあがっていた時期は、毎月数千円の収益が続いていたことがありました)。

でもフリーペーパーやZINE作りにせよ、このブログにせよ、「終了しました」と宣言しなければ、今でも「続いている」という状態になるわけで、結果的にそれはそれでよかったかもしれない。解散宣言をしないまま長期活動停止状態のロックバンドと同じである。そういう気持ちでずっとブログを書いてきている。

なので、自分のパソコンのブラウザに残っている「ブックマーク」のリストをたどり、かつて自分が気に入ってアドレスを保存していたさまざまな個人ブログのお気に入りを訪れても、そのほとんどが閉鎖しているか、別のブログサービスに移っているか、移ったとしてもその先では更新が昔に止まったままだったりして、寂しさを感じさせる。や、そのままブログを放置しておいていいんじゃないか、閉じなくてもいいんじゃないか、気が向いたときに少しでも書いたらいいんじゃないか・・・「あ、いまだと別のSNSのほうが便利なのか、そうかそうか・・・」とかいうことを悶々と考えてしまう。

それはまるで、大きなロックフェスの会場で、ブログの登場とともに一人でずっと最前列で盛り上がっていたつもりが、ふと我に返って後ろを振り返るとお客さんがほとんどいない状態になっていたかのような、そういう心象風景を思わせる。

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そんなわけで、何に向かって書き続けているのかもよく分からず、こんな気まぐれなブログをずっと読んでくれている方々(の存在を信じている)にはひたすら感謝。ありがとうございます。

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