N先生のこと
自分にとって「恩師」と呼ぶには表現が追いつかない、N先生が逝去された。
何からどう書けばいいのかわからないところからはじまり、この文章はこの一ヶ月半、少しずつ書きながら、行きつ戻りつして書き進めている。でもずっと、私のこのブログをN先生は読んでくださっていたので、前に進むためにも、ここに文章を残していく。
「恩師」と呼びにくいのは、私にはそう表現できる資格がないと思っているからである。「恩師」というと、勉強や学問を学び修めるために師事したという感覚があるのだが、私にとっては、そうしたあり方とは異なる関わり合いをさせてもらい、知的刺激に満ちた時間とともに、人生における「大きな学び」を、さまざまな機会を通して(そして、数え切れないほどのお茶とお菓子とともに)たくさん享受させていただいた。そして結局はそのお返しをちゃんとできないままだったという感覚がいま、すごく残っている。
私にとってN先生は、「好奇心を大事にして、ものを考えて、文章を書く」ということについて、ただただ、大いなる存在であった。それは先生自身が、研究者としてたくさんの文章を書いていく立場でありつつも、「研究のための言葉」をできる限り避け、「読んでもらうための文章」を書き続けようとしていた姿を通して思い起こされる。私がずっとブログやその他の書き物を続けてきた、その視界のむこうにはいつもN先生からのリアクションがあるかもしれないという予感があり、そしてしばしば、実際にN先生からの感想がいただけたことは自分にとっての宝物となっている。
そしてN先生の言葉を借りるなら「学際領域の“きわ”」を渡り歩いて多彩な学問領域から紡ぎ出された数々の著作は、どのような論題であっても、そのまなざしの底ではつねに「殺すな、生きよ」の信念に貫かれた「怒り」に類するような思索のもとでこの世界を、政治や歴史を、生活を捉えていた。しかし、そうして激しい熱情を抱えつつ冷徹に「届く言葉」を紡いで仕事を続けていったと同時に、N先生が異才の人だったのは、その朗らかで謙虚な人柄で、周囲の私たちにいつも温かく接してくださり、好奇心旺盛でチャーミングな方だったと誰からも記憶される、その「振り幅の大きさ」にあったと思う。
目の前の人々や生活をまず大切にし、励まし、美を愉しみ、笑いを分かち合う。それと同時に、油断すると生活のなかで見えにくくさせられる「政治的なるもの」への徹底した批判精神を失わず、疑いや問いかけをやめず、探索と対話を粘り強く続け、「闘う人」としての矜持をたずさえること。そしてそのために「思索と言葉」を磨き上げて他者に届けること。そうした営みの両立は、私からすれば「パンク精神の体現」以外の何ものでもなかった(実際に本人にも一度だけそのことを伝えた気もするが、記憶に自信がない)。
先生との出会いを振り返ると、それは大学一年生の頃で、共通教養科目としての「文学論」を受講したことにはじまる。N先生はそのころすでに、「近現代文学に描かれた住まい」というテーマで新聞連載を続けていて、その仕事をやがて書籍にまとめつつあった時期にあたる。当時、臨床心理学科というところにいて心理学を学び始めていた私は、自分のいた学科とは異なる文化人類学科に所属していたN先生が、どうしていろんな小説の「住まい」に注目した授業をしているのか、その真意がよくわかっておらず、その面白さに気づくのは本当にだいぶ後になってからだった。
講義が進んでいき、この科目ではやがて、受講生それぞれがキャラクターを創作し、「集団創作によるひとつの物語」としてさまざまな居住空間をテーマにしたオムニバス小説を作るという展開になっていった。期末レポート課題では、その合作小説を読んだ感想を書くということになり、そのためには受講生が個々に書いた作品を学期末までにひとつにまとめる作業が必要になる。
そこで講義も残りわずかとなったあたりで、N先生は受講生に向かって、誰かこの編集作業をやってみませんかと募った。
手を挙げたのは、私だけだった。
こうして数日後、私はN先生の研究室を訪れることになった。私の手には、ワープロ専用機の入った大きなキャリングケースがあった。このワープロ(カシオG-98)こそ、私が高校3年生のときに遊びで始めたフリーペーパーを作るために使い込んでいたもので、「編集作業をやってみないか」というN先生の呼びかけに私が反応したのは、この頃の自分にとっては新しい趣味の延長線上に「編集」があったからである。
こうして私は使い慣れたワープロをN先生の研究室に持ち込んで、受講生の作品を冊子にまとめた。オムニバス小説ということもあり、各学生の作った話をつなぐ役割として私は「英国BBCのジャーナリスト」という(趣味まるだしの)設定のキャラを考案し、その記者の目を通してさまざまな日本の住まいを探訪するという構成の物語を無事に作り終えた。
そして、この作業がきっかけとなり、N先生からはそのあともいろんな用事の手伝いを頼まれるようになっていった。やがて私は学部を卒業し、そのまま大学院に進んだりやめたり、別の大学院に行ったりするのだが、その間もずっと定期的にN先生の研究室で仕事を手伝わせてもらっていた。やがて母校でスタッフとして働くようになり、業務としても先生の仕事を支える立場にもなり、また先生が定年退職したあとも、ときおりご自宅にうかがい、パソコンのメンテナンスをさせてもらったりした。
学部生の頃は、何度もN先生の研究室を訪れておきながらも、自分とは違う専攻の先生であるということで、そこに並んでいた本棚の本たちには特別な注意を払うこともなかった。しかしだんだんと、自分もそれなりに歳を重ねて学びを深めつつ、N先生とのたくさんのおしゃべりを経ていくなかで、N先生が何に問題意識を持ち、そして何と闘っているかというようなことが自分なりに少しずつ掴めるようになると、その「本棚の意味」が自分にさまざまなことを投げかけてくるように意識されていった。世界は自分が思っている以上に広く、そして考え続けるべきテーマはたくさんあることを、これ以上なく恵まれた環境のなかで学ばせてもらったといえる。私はやがて心理学から逸れて社会学を専攻するようになっていった。
そんな私にたいしてN先生からは「あなたは『書く人』なんだから、書き続けなさい」と励まされたことがあり、そして私が友人以外ではじめて自作のフリーペーパーを渡したのもN先生であり、そこからN先生の研究室の前に配布用のフリーペーパーを設置させてもらい、知らない人にも読んでもらえるものを作るきっかけを与えてくれたりした。こうしてN先生はずっと、私の書いた文章を読んでくださっていた。そのことがずっと自分にとっての絶対的な心の支えになっている。
かつて先生は、困難な状況下におかれた時期に、ある人からのアドバイスで「手作りで、片手間に、優雅に」というスローガンで仲間たちと協働していったことについて語ってくれたことがあった。どんなに大変なときでも「自分の手で」「優雅」に至るその意志の持ちようが、N先生の独特の生き様と思想を育んできたのだろうかとも想像していた。そうしてその言葉は自分自身にとっても事あるごとに想起される「智慧」となり、できるかぎり自分も優雅でありたいと願いつつも、しかし今はただ、余裕のない日々のなかで見渡す限りの地平を眺めているような気持ちで、静かに言葉を並べている。自分は結局「何も」書けていないままであり、全力を尽くして書いたといえるような文章を、ついぞN先生には読んでもらうことが叶わなくなってしまい、その事実とともに、人生をいかに生きるかという宿題だけが、残された。
ただ確かに言えることは、19歳のときの私がフリーペーパーづくりを趣味にしていたことで、あのときのN先生の呼びかけに応じることができたことは、本当に人生で大きな、幸運に満ちたターニングポイントだったのだ。この一ヶ月半にわたり、折に触れてこれらの文章を書いたり消したりしつづけてきた自分は、N先生が旅立っていった寂しさとともに、かつての自分が得ていた幸運の大きさをあらためて認識することとなった。この幸運を得た者の「宿題」として、そしてたくさんの時間を共に過ごしてくださったN先生への感謝を示し続けることとして、書き続けること、があるのかもしれない。手作りで、片手間に、優雅に。
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