カテゴリー「思い出」の記事

2024.07.29

N先生のこと

Hydrangea


 自分にとって「恩師」と呼ぶには表現が追いつかない、N先生が逝去された。

 何からどう書けばいいのかわからないところからはじまり、この文章はこの一ヶ月半、少しずつ書きながら、行きつ戻りつして書き進めている。でもずっと、私のこのブログをN先生は読んでくださっていたので、前に進むためにも、ここに文章を残していく。
 
 「恩師」と呼びにくいのは、私にはそう表現できる資格がないと思っているからである。「恩師」というと、勉強や学問を学び修めるために師事したという感覚があるのだが、私にとっては、そうしたあり方とは異なる関わり合いをさせてもらい、知的刺激に満ちた時間とともに、人生における「大きな学び」を、さまざまな機会を通して(そして、数え切れないほどのお茶とお菓子とともに)たくさん享受させていただいた。そして結局はそのお返しをちゃんとできないままだったという感覚がいま、すごく残っている。

 私にとってN先生は、「好奇心を大事にして、ものを考えて、文章を書く」ということについて、ただただ、大いなる存在であった。それは先生自身が、研究者としてたくさんの文章を書いていく立場でありつつも、「研究のための言葉」をできる限り避け、「読んでもらうための文章」を書き続けようとしていた姿を通して思い起こされる。私がずっとブログやその他の書き物を続けてきた、その視界のむこうにはいつもN先生からのリアクションがあるかもしれないという予感があり、そしてしばしば、実際にN先生からの感想がいただけたことは自分にとっての宝物となっている。

 そしてN先生の言葉を借りるなら「学際領域の“きわ”」を渡り歩いて多彩な学問領域から紡ぎ出された数々の著作は、どのような論題であっても、そのまなざしの底ではつねに「殺すな、生きよ」の信念に貫かれた「怒り」に類するような思索のもとでこの世界を、政治や歴史を、生活を捉えていた。しかし、そうして激しい熱情を抱えつつ冷徹に「届く言葉」を紡いで仕事を続けていったと同時に、N先生が異才の人だったのは、その朗らかで謙虚な人柄で、周囲の私たちにいつも温かく接してくださり、好奇心旺盛でチャーミングな方だったと誰からも記憶される、その「振り幅の大きさ」にあったと思う。

 目の前の人々や生活をまず大切にし、励まし、美を愉しみ、笑いを分かち合う。それと同時に、油断すると生活のなかで見えにくくさせられる「政治的なるもの」への徹底した批判精神を失わず、疑いや問いかけをやめず、探索と対話を粘り強く続け、「闘う人」としての矜持をたずさえること。そしてそのために「思索と言葉」を磨き上げて他者に届けること。そうした営みの両立は、私からすれば「パンク精神の体現」以外の何ものでもなかった(実際に本人にも一度だけそのことを伝えた気もするが、記憶に自信がない)。

 先生との出会いを振り返ると、それは大学一年生の頃で、共通教養科目としての「文学論」を受講したことにはじまる。N先生はそのころすでに、「近現代文学に描かれた住まい」というテーマで新聞連載を続けていて、その仕事をやがて書籍にまとめつつあった時期にあたる。当時、臨床心理学科というところにいて心理学を学び始めていた私は、自分のいた学科とは異なる文化人類学科に所属していたN先生が、どうしていろんな小説の「住まい」に注目した授業をしているのか、その真意がよくわかっておらず、その面白さに気づくのは本当にだいぶ後になってからだった。

 講義が進んでいき、この科目ではやがて、受講生それぞれがキャラクターを創作し、「集団創作によるひとつの物語」としてさまざまな居住空間をテーマにしたオムニバス小説を作るという展開になっていった。期末レポート課題では、その合作小説を読んだ感想を書くということになり、そのためには受講生が個々に書いた作品を学期末までにひとつにまとめる作業が必要になる。

 そこで講義も残りわずかとなったあたりで、N先生は受講生に向かって、誰かこの編集作業をやってみませんかと募った。

 手を挙げたのは、私だけだった。

 こうして数日後、私はN先生の研究室を訪れることになった。私の手には、ワープロ専用機の入った大きなキャリングケースがあった。このワープロ(カシオG-98)こそ、私が高校3年生のときに遊びで始めたフリーペーパーを作るために使い込んでいたもので、「編集作業をやってみないか」というN先生の呼びかけに私が反応したのは、この頃の自分にとっては新しい趣味の延長線上に「編集」があったからである。

 こうして私は使い慣れたワープロをN先生の研究室に持ち込んで、受講生の作品を冊子にまとめた。オムニバス小説ということもあり、各学生の作った話をつなぐ役割として私は「英国BBCのジャーナリスト」という(趣味まるだしの)設定のキャラを考案し、その記者の目を通してさまざまな日本の住まいを探訪するという構成の物語を無事に作り終えた。

 そして、この作業がきっかけとなり、N先生からはそのあともいろんな用事の手伝いを頼まれるようになっていった。やがて私は学部を卒業し、そのまま大学院に進んだりやめたり、別の大学院に行ったりするのだが、その間もずっと定期的にN先生の研究室で仕事を手伝わせてもらっていた。やがて母校でスタッフとして働くようになり、業務としても先生の仕事を支える立場にもなり、また先生が定年退職したあとも、ときおりご自宅にうかがい、パソコンのメンテナンスをさせてもらったりした。

 学部生の頃は、何度もN先生の研究室を訪れておきながらも、自分とは違う専攻の先生であるということで、そこに並んでいた本棚の本たちには特別な注意を払うこともなかった。しかしだんだんと、自分もそれなりに歳を重ねて学びを深めつつ、N先生とのたくさんのおしゃべりを経ていくなかで、N先生が何に問題意識を持ち、そして何と闘っているかというようなことが自分なりに少しずつ掴めるようになると、その「本棚の意味」が自分にさまざまなことを投げかけてくるように意識されていった。世界は自分が思っている以上に広く、そして考え続けるべきテーマはたくさんあることを、これ以上なく恵まれた環境のなかで学ばせてもらったといえる。私はやがて心理学から逸れて社会学を専攻するようになっていった。

 そんな私にたいしてN先生からは「あなたは『書く人』なんだから、書き続けなさい」と励まされたことがあり、そして私が友人以外ではじめて自作のフリーペーパーを渡したのもN先生であり、そこからN先生の研究室の前に配布用のフリーペーパーを設置させてもらい、知らない人にも読んでもらえるものを作るきっかけを与えてくれたりした。こうしてN先生はずっと、私の書いた文章を読んでくださっていた。そのことがずっと自分にとっての絶対的な心の支えになっている。

 かつて先生は、困難な状況下におかれた時期に、ある人からのアドバイスで「手作りで、片手間に、優雅に」というスローガンで仲間たちと協働していったことについて語ってくれたことがあった。どんなに大変なときでも「自分の手で」「優雅」に至るその意志の持ちようが、N先生の独特の生き様と思想を育んできたのだろうかとも想像していた。そうしてその言葉は自分自身にとっても事あるごとに想起される「智慧」となり、できるかぎり自分も優雅でありたいと願いつつも、しかし今はただ、余裕のない日々のなかで見渡す限りの地平を眺めているような気持ちで、静かに言葉を並べている。自分は結局「何も」書けていないままであり、全力を尽くして書いたといえるような文章を、ついぞN先生には読んでもらうことが叶わなくなってしまい、その事実とともに、人生をいかに生きるかという宿題だけが、残された。

 ただ確かに言えることは、19歳のときの私がフリーペーパーづくりを趣味にしていたことで、あのときのN先生の呼びかけに応じることができたことは、本当に人生で大きな、幸運に満ちたターニングポイントだったのだ。この一ヶ月半にわたり、折に触れてこれらの文章を書いたり消したりしつづけてきた自分は、N先生が旅立っていった寂しさとともに、かつての自分が得ていた幸運の大きさをあらためて認識することとなった。この幸運を得た者の「宿題」として、そしてたくさんの時間を共に過ごしてくださったN先生への感謝を示し続けることとして、書き続けること、があるのかもしれない。手作りで、片手間に、優雅に。

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2024.06.07

新作ZINEをつくった(ある意味で)

ひきつづき、KYOTOGRAPHIEの話である。
(うん、『ロス』は続いている)

京都芸術センター会場ではジェームス・モリソンによる「子どもたちの眠る場所」という展示が行われていた。

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世界中のさまざまな境遇にある子どもたちを訪ね、写真家はすべての子どもたちの姿をできるだけ同じ条件でポートレート写真に収める(つまり、そこには「すべての子どもは平等である」という意味合いが込められているとのこと)。そして彼らの「寝室」を、これもできるだけ同じ角度から撮影し、そうしたプロジェクトから今回の展示においてセレクトされた世界の子どもたちの写真が並べて置かれている。

訪れた鑑賞者は、大量消費社会のなかで豊かに暮らす子どもの寝室の写真を目にしたかと思えば、その裏側に歩を進めると、過酷で悲惨な状況下で粗末な寝台をとらえた写真や、そこで毎日眠る彼らがどういう暮らしをして、どんな夢を持っているかといった説明文を読み、さまざまな社会背景や家族関係のありかたに直面し、その子どもたちの身の上を案じることになる。

写真家自身はただ淡々と、子どもたちの姿と寝室の写真を並べ、彼らの生活の様子を完結に書き添えて提示しているだけである。ただし、次々と並ぶ作品を観て歩く我々はそれらを淡々と受け止めるわけにはいかず、さまざまな感情が静かに沸き起こってくる、そういう展示だった(あえて導線を定めず、作品の間を自由に行ったり来たりできる設定にしているのも効果的だった)。

そして会場である京都芸術センターも、かつては小学校として使われており、そういう意味でも子どもに関する展示をここで行うことには意味があったと感じる。

その意義に呼応するように、この「子どもたちの眠る場所」とは別に、同じ敷地にある別の建物で「KG+」と銘打ったKYOTOGRAPHIEのサテライト・イベントの一環として、子ども写真コンクール展「しあわせのみなもと」の展示も行われていた。そこでは日本の子どもたちが応募した写真のなかから選ばれた作品を、和室の大広間で鑑賞することができた。

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私はボランティア・スタッフとしてこの京都芸術センター会場では一日だけ入らせてもらったのだが、その日に割り当てられたシフトのうち、最初のコマと最後のコマの計2回、この「しあわせのみなもと」の子ども写真展フロアを担当した。1コマが50分くらいで、スタッフの数の関係上、このエリアは1人きりで担当することになっていた。

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で、この子ども写真展の部屋の脇には、さまざまな紙や文房具類が置かれたスペースが用意されており、ちょっとした工作を楽しめるようになっていた。
スタッフはこの工作スペースのところに座りつつ、来場者が来たら畳の部屋の前で靴をぬいでもらうよう案内したり、人数をカウントしたりするのが主な仕事だった。
その傍らで、この工作スペースにもお客さんがやってきた場合はその応対もすることになっていて、ここでは「A4紙でミニブックをつくってみよう」という解説書が置いてあり、主にそういう趣旨で工作を楽しんでもらうようになっていた。

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そんなわけで、朝一番のシフトでこの場所を担当することになった私としては、この「ミニブックをつくってみよう」の解説書をみて、「お客さんが来た時に、このミニブックの作り方を教えられるようになっておかねば」と思い、さっそくA4用紙の束から1枚の紙を手に取ったのだが、このときすでに心の片隅で「自分も何か描くしかないよな、こうなると」という気持ちでいた。

もう、そりゃあね、
描かずにはいられませんよね、何か。
紙を折ってミニブックの形を作って、
空白のまま放置するなんて、
できませんよね。

ましてや朝一番の開場直後だったので、お客さんはそんなにやって来ない時間帯だった。
使える時間は50分ぐらいで、そのなかで紙を折り、ペンを取り、書き上げたのが以下である。









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「即興ZINE」を久しぶりに作ったわけで、ある意味で「新作」となった。
限定1部だけど。

ちなみに、すでにこの工作コーナーには、同様のミニブックの「サンプル」がいくつか置いてあった。いろんな色紙を切って貼り付けたり、何かの写真を切り取ってコラージュのように貼っていたりする作品などが置いてあり、私の「ZINE」もそのなかに混ぜて置いておいた。


こうして時間が過ぎていき、夕方の閉館前、最後のコマで再び私はこのフロアの担当となった。

どうせなら作りますよね、もうひとつ。
ええ、せっかくですし。

で、この時間帯になるとお客さんもわりと多く、隙を見て少しずつZINEを作るという状況だった。
そしてこの工作コーナーにも親子連れが留まり、2組ほど時間をかけて娘さんがミニブックを作り、それをお母さんが見守っていたり、一緒になって作ったりしてくれていた。

こういうとき、子どもにとってはスタッフのオッサンにずっと作業を見守られるのもウザいかと思うので、私も自分の作品づくりに勤しみつつ、ときおり他の来場者に対応しながら、工作を続ける子どもたちやお母さんにたまに声をかけたりした。お互いが黙々と各自の作業をして、ちょこちょこと会話するぐらいの、そういうスタンスがちょうどいいんじゃないかと思った。

こうして閉館時間がまもなくやってくるという緊張感もあったなか、私が描いたZINEがこれである。








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そしてこの作品ができあがる頃には、工作コーナーに残りつづけていた娘さんとお母さんとも、お互いの作品を見せ合うこととなる。さぞかし変なオッサンだと思われたことだろう。でも最後にお母さんは、娘さんと私が作品を手にして並ぶ写真を撮って帰った(笑)。

そういう思い出と共にこの日のボランティアが終了した。

最後にスタッフ全員で終礼のミーティングを行ったが、私が作った2つの作品のことは黙っていた。
でも数日後、あの会場の担当だったサブリーダーさんと別のところで再会したとき、私があのZINEの作者であることを認識してくれていて、そしてあの作品が「スタッフみんなのお気に入り」になっているということを教えてもらい、久しぶりに味わう種類の達成感があった。

あともう一つ印象的だったのが、写真祭が開幕した直後に誉田屋源平衛の会場――中国の2人組・Birdheadの展示が行われ、ここもなかなかの会場だった――でスタッフに入ったときに一緒だった高校生の男の子がいて、そのときはお互い半日だけの業務だったのもあり会話もあまりできないまま解散したのだが、会期の最終日に再び誉田屋でのシフトに入ったときにたまたまその高校生くんとも再会し、ボランティア同士の会話の鉄板ネタとして「このほかに、どこの会場のスタッフに入ったか」という話になったわけだが、彼は京都芸術センターの担当になったときに私の作ったZINEを目にし、すぐにその作者が「このまえ誉田屋で一緒にボランティアをしたあの人だ」ということを認識したとのこと。ほとんど会話していなかったこのオッサンのことを、あのZINEを手にしただけで思い至ってくれたということに、なんだかグッとくるものがあった。

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2024.05.20

KYOTOGRAPHIEのボランティアが終わってロスになっている、っていう話

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 まさか、こんなにも「ロス」な気分になるとは一ヶ月前には想像もしていなかった。そして私の暮らす街について、ちょっと違った気分で眺めていた日々でもあった。

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 4月中旬から開催されていた京都国際写真祭「KYOTOGRAPHIE」(以下KG)が先日閉幕し、私は主にゴールデンウィークを中心とした祝日・休日にボランティアスタッフとして携わったわけだが、この一ヶ月間は「イベントの合間に本業の仕事をこなす」という感覚だった。すまん本業。何せ京都市街のあちこちにある13会場(加えてそれらのメイン会場の他に、『KG+』という関連展示が数え切れないほど存在する)が舞台となっているわけで、すべての会場で事故なく滞りなく日々の会期が無事に過ぎていくことをボランティアの端くれである自分も祈るような気持ちでいたのである。



 つまり、楽しかったのだ。とっても。



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 結果的に私は13会場のうち6会場で、のべ8日間活動を行った。
 スタッフとして求められた役割はいたってシンプルで、入場の際のチケットチェックや、展示会場の監視、巡回、案内誘導である。それ以外のややこしい作業は、その会場ごとに配置されているリーダー役の有給スタッフが行っていた。

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 このリーダーさんたちの存在も興味深く、それぞれがいろいろなバックボーンを持ってこの役割に挑戦し、そしてキャリアの分岐点を迎えているのであろう若い人が多かった。とはいえ実際には、その日のスタートからあわただしくなるリーダーからゆっくり話を聞いたりする機会はそんなにはないので、ふとしたタイミングで交わす会話のなかで、その一端を伺い知る程度にはならざるを得ないのだが、自分が担当することになった会場に愛着を寄せつつ、よりよい展示空間を作っていこうとする真摯さには熱いものを感じた(なのでいつもの本業にも伝播していくような前向きなエネルギーをいただいた気がする。。。すぐに消えそうだけど)。

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 そうして私は今回はじめてボランティアスタッフとしてお客さんを迎え入れる側になったわけだが、この役割が長時間にわたってもまったく苦にはならず、いつもあっという間に時間が過ぎていく感覚があった。そしてこのことについてよく考えてみると、「一定の目的をもって集まった大勢の老若男女が、自分の目の前を次々と通り過ぎるのを見守る」というこの状況は、「市民マラソンでの沿道応援」の趣味と構造がまったく同じであることに気づき、そこは苦笑いするしかなかった。冬はマラソン大会でサッカーユニフォーム姿のランナーを探し続け、そこに加えて5月の連休は写真展の会場で無言のうちにいろいろな人々が通り過ぎゆくのを見守るというのが新たなルーティンになりそうな。

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 前回のこのブログ記事で書いたとおり、個人的にこのイベント最大の推し会場は「京都新聞社ビルの地下、印刷工場跡地」である。そして私はここで2回、スタッフとしてシフトを割り当てていただいた(最初は1回だけの予定だったが、無理やり都合をつけてもう1日追加で入らせてもらった)。そもそもKGのボランティアに申し込んだ動機が「この会場でスタッフ側として携われたら楽しいだろうな」という思いがあったからなのだが、その狙い通り、いや想像以上に、この会場はやはり特別な場所だった。

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 今年の京都新聞社会場の展示はヴィヴィアン・サッセンの回顧展ということで、現代の写真業界もファッション業界にも疎い私は彼女のことをそれまでまったく知らなかったのだが、色彩の強弱が印象的な写真作品が、この印刷工場の無機質でダークな空間のなかで放つ存在感のコントラストが見事だった(そしてアンビエント・テクノっぽいBGMが鳴り続け、それもまた雰囲気づくりとして最高に合っていた)。

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 およそ写真展の入り口とは思えない通用口(でもマンチェスターの伝説的クラブ、ハシエンダって結局こういうことだよな? と思った)を出入りし、足下にはかつて大量の新聞紙が運ばれたのであろうレールなどがそのまま残っており(穴が深すぎてスマホを落としたら二度と取れなさそう)、背の高い人がアタマをぶつけまくりそうなところに配管パイプが張り巡らされ、導線もはっきりしない会場の作り方ゆえに出口を求めてさまよい続けるお客さんなどの動きを常に注視して見守る必要があったのでスリリングなのである。

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 さらに最も気をつけていたのが、プロジェクションで作品が照らされた展示場所のさらに奥にも空間が続いていて、幻惑をもよおすシチュエーションゆえにか、プロジェクターが置いてある舞台を乗り越えてまでその暗黒の世界の果てへ進んでいこうとする客がたまにいるので、そんな彼らを現実世界へ呼び戻さないといけないことだった(私が体験した限りでは、不思議とそういう動きを見せるのはほとんどが女性客だった。そして私は決まりの悪そうなお客さんにむかって毎回『お気持ちは、よく分かります』と言い添えた)。

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 そして本会場ではサッセンがキュレーションに協力した、Diorが主催した若手作家支援の関連展示も併設されていた。工場跡地からその地点へ誘導し、見終わって戻ってきた客を出口へ案内するという業務もあった。で、このポジションではDiorの洗練されたクールな写真展示とともに「ふつうに京都新聞社で働いている社員さん」が導線のすぐ脇をウロウロしたり、新聞社の清掃担当のスタッフがふつうに我々の傍らで作業をするというリアリティかつ混沌とした状況もしばしば発生し、刺激的で飽きがこなかった。

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 また、閉館したあとにリーダーさんの計らいで、お客さんには通らせないバックヤードをスタッフみんなで歩かせてもらったことがあった。誰もいなくて真っ暗で、サッセンの展示だけが煌々と光り続けている空間をゆっくり味わっているとき、ふと、このメンバーでこの時間をともにすることはもう二度とないんだろうな、ということを思うと胸に迫るものがあった。

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 うん、他にも書きたいことがいろいろとある気がするのだが、ひとまずは会期のあと個人的・仕事的にもバタバタが続いているので、「終わった! ロスだ!! なんなんだこの感情は!!」という気持ちとともに、まずはこの書きっぱなしの文章のままでアップさせてもらう。自分と写真との向き合いかたもなんとなく変化していった感じもあって、アートを楽しむというシンプルな行為をたくさんのお客さんやスタッフさんたちと共有できたことのテンションの高ぶりに、いまはボーッとのぼせあがっている状況なのかもしれない。

 ということで、落ち着いたらまたこのことを書くかもしれない。

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2024.04.21

気がつけばこのブログを書きつづけて20年が経っていた

このブログをパソコンでご覧の方々は、記事の右側のメニューをずっと下にスクロールすると「ココログ」のアイコンがあり、その下に「2004/02/10」という数字を確認することができるはずだ。

それはこのブログを開設した日付であり、つまりこの「H O W E * G T R ブログ」は2月で20周年をひっそりと迎えていたのである。

そして作者はつい先日そのことにようやく気づいて、思わず一人で声を出して笑ってしまった。
「笑う」といってもそれは「苦笑い」に近いものがあり、そして「20年も経ってしまった」という事実に直面すると、自分のこれまでの歩みを短絡的に振り返ってしまうことで生じるなんともいえない情けなさとか後悔みたいな気持ちが圧倒的に上回り、「めでたいなー」っていう気分はあんまり、起こらない。

本来は、自分が作ったフリーペーパー「HOWE」の副読本みたいな形で始まった「HOWE*GTR」という別のペーパーがあり、それは完全に趣味オンリーの話を書き散らすためのものとして位置づけていたのであるが、2004年当時にブログサービスが開始されるにあたり、自分もその流れに乗っかって、フリーペーパー「HOWE*GTR」の延長線上のような気持ちで作ってみた・・・というきっかけでこのブログが始まっていった。

それがやがて30代になり40代になり、忙しさにかまけてフリーペーパーやZINEといった印刷物での表現をサボっていくようになり、ブログというのは気が向いたときに言いたいことや書きたいことを安価に手軽に表現する場として重宝し、そうしてこの2月で20年が経っていった。

最近ではブログをやるというと、すぐに「マネタイズがどうの」っていう話になってくるのだが、こちらはそういう時代の流れに乗っかっているわけではなく、せいぜいAmazonのアフィリエイトを置いたりしている程度だが、最近では自分自身がAmazonという会社そのものに嫌悪感を抱いているので積極的にアフィリエイトを設定する気にもならず、なおさら「何のためのブログなのか」と問われると、答えにくい(昔、Tシャツのシルクスクリーン印刷を解説した本ブログの記事がやたらGoogleの検索上位にあがっていた時期は、毎月数千円の収益が続いていたことがありました)。

でもフリーペーパーやZINE作りにせよ、このブログにせよ、「終了しました」と宣言しなければ、今でも「続いている」という状態になるわけで、結果的にそれはそれでよかったかもしれない。解散宣言をしないまま長期活動停止状態のロックバンドと同じである。そういう気持ちでずっとブログを書いてきている。

なので、自分のパソコンのブラウザに残っている「ブックマーク」のリストをたどり、かつて自分が気に入ってアドレスを保存していたさまざまな個人ブログのお気に入りを訪れても、そのほとんどが閉鎖しているか、別のブログサービスに移っているか、移ったとしてもその先では更新が昔に止まったままだったりして、寂しさを感じさせる。や、そのままブログを放置しておいていいんじゃないか、閉じなくてもいいんじゃないか、気が向いたときに少しでも書いたらいいんじゃないか・・・「あ、いまだと別のSNSのほうが便利なのか、そうかそうか・・・」とかいうことを悶々と考えてしまう。

それはまるで、大きなロックフェスの会場で、ブログの登場とともに一人でずっと最前列で盛り上がっていたつもりが、ふと我に返って後ろを振り返るとお客さんがほとんどいない状態になっていたかのような、そういう心象風景を思わせる。

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そんなわけで、何に向かって書き続けているのかもよく分からず、こんな気まぐれなブログをずっと読んでくれている方々(の存在を信じている)にはひたすら感謝。ありがとうございます。

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2024.03.02

往復書簡「言葉になりそこねてからのZINE」

同じ大学でかつて学んだ人たちが自主的につながりをゆるく保ちつつ、学びや対話の場をバーチャルに設けていて、ときどきやりとりがあったりする。「井戸端人類学F2キッチン」と呼ばれているそのつながりにお声がけをいただき、ZINEについての往復書簡を書かせてもらうことになった。その第一回目の自分のテキストが公開されている→(こちら)。

「言葉になりそこねてからのZINE」というタイトルは、この企画を進めるにあたって最初に行われたオンラインでの打ち合わせの場で即興的に私が考えて提案し、文通相手となる「壺さん」も気に入ってくれたようなので、それに決まった。ZINEやフリーペーパーを作るうえでは、言いたいことが出てきても、それをすぐにはストレートに出し得ない、なんらかの停滞感だったりモヤモヤを抱え込み続けるプロセスを経て、ようやく文字にしていくようなプロセスがあるような気がしている。そしてそれとともに現在の私というのが、ZINE的なるものを作る欲動に欠けており、「つくりそこねている」ということへの自省みたいなものもあって、こんなタイトルが降ってきたのかもしれない。

そんなわけで、自分にとってはリハビリに近い感覚で、久しぶりにZINEについて考えて書いてみた。まだ第一回目なので今後どのような話になっていくかは分からないけれども、よければご一読を。

ちなみにこの初回の話題で取り上げた『Notes from Underground』という本について、装丁が初版本のほうがカッコ良かったというのは、こういうことなのであった。

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結果的に英語力がないのでこの本もロクに読み通していなかったが、この本の装丁が放つ雑多でパンクな雰囲気こそ、当時の自分にとってZINEという言葉が誘う世界への探求心をかきたてる要因のひとつであったのは間違いなかった。

で、数年後にこの本は「増補版」として再版されているのだが、そのときの装丁がこれである。








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いや、もう、いったいどうしちゃったんですかと言いたくなる。
著者は何も言わなかったのだろうか。これでゴーサイン出してよかったのか。
もし初版からこの装丁だったら、私はこんなにもZINEについて向き合っていなかったかもしれないとすら思う。

装丁って大事、ほんと。

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2023.10.23

学生時代に読んだ本のなかで(ある意味で)最もショックを受けた本のこと

勤めている大学の図書課の企画で、すべての事務部署の職員スタッフが一人一冊の本ないし映画をオススメしてポップを描くという試みが行われた。

学生さんに勧めたい本ということで考えると、いろいろ迷うところがあった。
しかし最終的には「まぁ、学生さんはそもそもこんなコーナーに注意を向けることもなかろう」と思えてきて、気楽なノリで「自分が学生時代に読んだ本のなかで何が最も衝撃的だったか」をふりかえり、こんなポップをザザザッと描いてみた。

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(ひさしぶりにちゃんとイラストらしきものを描いた気がする)


紹介した本は、これ。


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これは図書館に所蔵があったので、古い本だがそのまんまの状態で展示されている。

この本がどういう内容のものかを説明するのはとても難しいのだが、「マジメな心理学の学術研究論文集という化けの皮をかぶった、パロディお笑い本」である。
いかにもありそうな心理学の論文がつらつらとページを埋めているのだが、どれもこれも「それっぽい感じ」で、よく読むと完全にボケ倒したノリの、人をおちょくるパロディのオンパレード。

つまり、ある意味では危険な本でもある。「研究者のさじ加減ひとつで、どんなデタラメなことを書いても、研究論文にするとそれらしく思えてきて、パロディをパロディだとは認識されなくなるポイントがあるかもしれない」ということを警告するかのような内容でもあるからだ。

若い頃の私はわりと真剣に心理学の勉強をしていたもんだから、この本にはおおいに動揺させられた。心理学だけに限らず、広く「学術研究」というものになんとなく幻想を抱きがちな若い人にとっては、よい意味でカウンターパンチを喰らわしてくれるような、そういう意義がある本だと思っている。

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2023.08.14

国会図書館のデジタルアーカイブ検索で遊んでみたら、父親の卒業制作までたどり着いた話

国立国会図書館デジタルコレクションというページ(こちら)では、所蔵しているデジタルコンテンツを次々とテキスト化しているようで、それらを検索可能な状態で提供している。
基本的にはものすごく古い時代の書物あたりがメインになっているが、たとえば自分の祖父母とかご先祖の名前を入れてみると、いろいろと楽しめるはずである。

私の場合、祖母の名前ではヒットしなかったが、祖父と思われる人物は数件ヒットしたのである(同じ漢字を途中まで含む、似た名前の別人もヒットするわけだが)。両方の祖父ともに特に有名人というわけではないのだが、長い人生においては、たとえば公的機関が出すような文書だったり、地域における公共性の高いちょっとした読み物みたいなものには、ときに名前ぐらいは載ったりすることもあるだろう。

そしてそういう非常に細かい情報たちが、こうしてネットで探し出せることに「すげぇぇぇ」となる。ここは世代的な問題だろうが、未だにインターネットにたいしては、そういう気持ちになってしまう。すげぇよ。

で、一般ユーザーの場合は、「この文書に、この検索キーワードがヒットした」というレベルまでしか分からないので、当該のページそのものをネットで閲覧することはできない。本当にデータが欲しい場合は別途、手続きが必要になる。

私の場合は「これは」と思う資料について古本サイトで検索すると、実物で入手できるものがあったので、ちょっとした記念に2つほど発注してみた。
ひとつは父方の祖父についてのもので、地域の郷土史家らしき人々が戦後に編纂した重厚な本だった。地元の産業界の詳細な紹介をしているコーナーに関係者の名前が細かく列挙されており、電力会社に勤めていた祖父の名前を見つけることができた。
もうひとつは母方の祖父についてのもので、実は某地方の旧制高校の出身だったようで(私の母もその認識はなかった)、その高校の同窓会が編纂した書物の中に主だった卒業生たちの進路先や活躍ぶりが分野ごとにずらっと紹介されており、絶対にこれは本人だと分かる内容で書き残されていた。

そんなわけで「恐るべし国会図書館」、思わぬタイムカプセルを見つけた感じであるが、さらに踏み込んで父親の名前を入力すると、似たような名前の検索結果がたくさん出てくるなかで、誠文堂新光社が発行している、広告関係やデザイン関連を扱った雑誌『アイデア』の1961年6月号に、父の名前がありそうだということが分かったのである。
私の父は多摩美術大学の図案科、つまり今でいうところのグラフィックデザイン学科で学んでいたのである。おそらくその関係ではないかと思われた。

すかさずこれも古本市場で調べたのだが、あいにく雑誌の現物を入手できそうなアテがなかった。
そこで次に調べたのは、国立情報学研究所のCiNiiによる全国の大学図書館の蔵書検索である(こちら)。そうすると『アイデア』の当該号を所蔵しているいくつかの大学のなかで、自宅に近い某大学図書館が学外一般者も資料閲覧やコピーが可能だということが分かったので、とある日の午後に訪れてみた。

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たまに「休みの日には何をしているか」と人から訊かれることがあり、いつも答えに苦しんで「いろいろやってます」と返すのだが、こういうことが「いろいろ」の中にあるんだろうなと、誰もいない静かな書庫を歩き回りながら思った。「父親の名前が載った古い雑誌をみるために、よく知らない大学図書館の書庫の中でウロウロする」という、ただそれだけの休日。

もちろん図書館なので、きっちり整理されている資料群から、目的のものを探し当てるのにまったく時間はかからなかった。

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(▲黒表紙に製本されて「アイデア」とだけ書かれて並んでいる状況がなんだかポップ感があって、よい。)

こうして1961年6月号の『アイデア』と対面することができた。

そこで分かったのは、この号では前年度の主な美術系大学のデザイン関係の卒業制作展のなかから、いくつかの作品を紹介するという趣旨の特集記事があり、そこに父の卒業制作が掲載されていたということであった。

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「え、ということは、他の美術大学も含めていくつもある卒業制作のなかからピックアップして選出されたということ!? すごいやん!?」と、素直に父親を褒め称えたい気持ちになった。
誰もいない書庫で。



そこで見つけたのがこれだった。










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タイトルは『日本の民謡』




Torres

お、おう・・・・。


たしかに味のある作品といえば味があるが、当時のこの美大生の試みがうまくいっているのかどうかはよく分からない。でもまぁ、こうして雑誌に選ばれているのだから、きっと良い作品なのだろうと自分に言い聞かせながら、この特集コーナーまるごとをコピー機にかけさせてもらい、あらためて実家に行って父親にこのコピーを手渡してみた。

なんとなくの予想通り、父の反応はたいして盛り上がるわけではなく薄いリアクションであった。
この卒業制作はレコードジャケットを作るという課題だったとのことで、たしかに他のページに掲載されている学生の作品も、そんな感じで正方形にオシャレなデザインを配置しており、当時はモダンジャズが流行っていたようで、ジャズのレコードっぽいのがたくさん掲載されていた。

そんななかであえて「日本の民謡」を押し出したあたり、さすが「ビートルズは嫌いだった」と言い張る偏屈な若者だった当時の父親の気概を匂わせる(正確にはビートルズは大学卒業後に流行っていたわけだが)。

私がこのコピーを持ってきたことで、父にとっては自分の作品のことよりも、あちこちのページに記載されている同級生の名前にひとつずつ懐かしさを覚えていたようで、それはそれでコピーしておいてよかったと思った。

父は卒業後に某家電メーカーの宣伝部に進むことになるのだが、この雑誌が出たのはまさに社会人一年目の慌ただしいときのことだったようで、こともあろうに私が今回見つけるまで「こんな雑誌に載っていたことは知らなかった」とのこと。つまりあれか、遠く山口県の故郷から芸大にまで通わせてくれた両親にも雑誌に載ったことなんて伝えてなかったのかこの息子は。

あと、ついでに書くと、私自身もたしかにイラストや絵を描くのは得意なほうだが、子どものときから振り返るに、父から絵の描き方を具体的に教えてもらった記憶はない。
さらに、私はやがて仕事上のなりゆきで、自分でチラシ制作のためにデザインやグラフィックソフトを独学で習得して、趣味においても仕事においても我流でデザイン作業がそれなりにできる人になったのだが、よくよく考えたら父のほうは学生時代にみっちりデザインを専門に学んでいたというのに、そういう会話をほとんどしたことがなく、これは我々の間における「皮肉な謎」のひとつである。

例えば私などは「教えたがり」なので、もし子どもがいたら、良くも悪くもそれなりに自分の得意技能についてあれこれと言ってしまいたくなるだろうと思う。しかし私の父はそういう干渉をまったく行わなかったことになるので、人からみたら「それが最高の教育なんです」とか言うかもしれないが、本当に何もなかった側からすると、ちょっとぐらいは何か教えておいてくれてもよかったんじゃないかと思う部分もある(笑)

皮肉ついでにさらにいうと、この1961年に父が『デザイン』にその名を刻んだ55年後に、今度は私が同じ雑誌(2016年7月号)に載ることになったわけである。野中モモさんとばるぼらさんのZINEについての連載で、フリーペーパーを紹介していただいたのであった。

2016_vol7

そして、このページにたまたま挙げてもらっていた『HOWE』の第20号「ベルギー、フランス、ハイタッチ」の表紙絵は、父親に頼んで描いてもらったモン・サン=ミシェルを載せていたわけで、図らずも父親は2回、自分の作品を『アイデア』に載せたことになるのであった。

(そんなことよりも、いいかげんフリペの新作を作れよというツッコミはさておき)

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2023.04.19

(ネタバレにならない程度に)『街とその不確かな壁』の読後感について書く

よく考えたら村上春樹の新作を発売日に買うということも、あと何回できるか分からないんだよなと思った。
ちょうど私にとって、自分が生まれる前の1972年とか1973年あたりに、洋楽ロックの世界ではキラ星のごとき名作アルバムが信じられないぐらい次々とリリースされていったという歴史に憧れを覚えるのと似たような感じのノリで、先週の発売日に書店に寄って『街とその不確かな壁』を手に入れてみて、さっき読み終わった。

自分の率直な感想としては・・・いま、こうしてブログでさっそく記事を書きたくなる程に、つまり誰かと語り合いたいぐらいの気分で、今回は充実した読後感がある。

私は決して村上作品の熱心な読者だとは思っていなくて(どちらかというと氏のエッセイのほうが好きだ)、あまり私の感想もアテにはならないのだが、少なくとも前回の『騎士団長殺し』よりかは、よっぽど良い、と言ってもいいだろうと(笑)。

その理由を考えてみると、今回の作品で描かれたさまざまな出来事や、それをとりまく光景や心象などは、なんというか、読者それぞれの「生」にダイレクトにつながっていくような普遍的な感覚がずっとあったからかもしれない。
別れを惜しむかのようにこの小説の最後のページを読み終わったあと、ここから先の展開が、読み手である自分自身の内なる部分で続いていくかのような、そういう話だった。
(それを言ったら、『騎士団長殺し』でも他の作品でも同じようなものではないかと言われても、まぁ、そうかもしれませんが・・・とは思うのだけど、なんだか『騎士団長殺し』だけはタイトルのせいかもしれないが、なんだかしっくりこない感じがずっとつきまとった作品だった)

それと、読み進めながらずっと思っていたのは、2009年に村上春樹が行ったいわゆる「エルサレム・スピーチ」のことだった。ここで村上春樹は「壁=システム(政治だったり軍事だったりの統治制度など)」と「卵=個々人やその魂」を比喩として用いて「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」と述べたわけだが、今回の作品は表題にも「壁」という語があるように、そのままのメタファーが小説のなかで繰り返し重要なものとして登場している。

もっともこの作品は、デビュー直後の1980年に発表した作品の出来に満足がいっていないまま長らく気になっていて、それをコロナ禍の始まった2020年頃から書き直しを試み、そこから物語をさらに進めた末にできあがったとのことで、本書の「あとがき」では「要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。」と書いている。長らく自分のなかで沈殿しては浮かび上がってきたりする問題意識をつかんで離さないそのスタンスによって、「壁と卵」のメタファーが、その始まりから現在に至るまでずっと村上春樹のなかにあったのかもしれない。そう思うと、きわめてこの人は恐ろしいほど実直なんだろうと思う。

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2022.10.18

引っ越しをすることになった

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夏の終わりに、たまたまいい物件をネットでみつけたので賃貸の会社にいって、そのまま見学して即決となり、あわただしく2ヶ月後には引っ越しをすることとなった。同じ市内でちょっと場所を変えてみる感じである。
賃貸契約における「解約通知期限」(退去日の2ヶ月前の契約だった)というのがネックになるので、決めたとたんにドタバタしてしまうのが引っ越しの常なのだった。本当は年末にゆっくり引っ越したかったが、急きょ休みの日はダンボールとの闘いの日々となっていった。そして案の定、思っていたよりもペースはあがらず、ちょっと焦りが出てきているが、そういうときこそ珍しくこんなふうにブログを書いたりしてまったく関係ないアクションをしたくなるのも人間のサガというものか。

さて、向かった賃貸あっせん会社では、自分が見学を申し込んだ本命の物件にそのまま連れて行ってくれたらいいのに、こちらの条件を聞いたあと、頼んでもいないのにいろいろとデータベースから「こんな物件もありますよ」とプリントアウトを次々と渡してくる。まぁ、この業界のお決まりのパターンなのだろうけれども、次々と打ち出される物件情報を黙って受け取って一瞥するが、残念ながらほとんどの物件はすでに私にとっては調査済みのところばかりであり、「いかにこの物件が自分にはヒットしないか」をそれぞれ口頭試問ばりにスラスラと説明できるぐらいだった(それなりに候補となりうる物件はExcelですべて入力して比較していたのでマンション名まで覚え込んでしまっている)。どの提案もことごとく自分の好みには当てはまらず、私が見学を希望する物件には結局かなわないので、お店の人も最後には根負けしたかのように「よくこの物件を見つけましたねぇ」と、ホメてんだか呆れてんだか分からないリアクションをしていたのが心に残った。

そして、この本命物件は複数の賃貸情報サイトで同じ物件として掲載されていたのだが、なぜか部屋番号が同じなのにそれぞれのサイトで間取り図が左右反転となって食い違っていたり、かつフローリングの部屋が別のサイトでは畳の部屋として表示されていたりした。それもあって実際に見学を申し込んで事の真相を確かめたかったわけだが、担当者の人は、私の希望通りこの部屋はすべてフローリングだと断言した。それで実際に訪れてみると、なんと畳の部屋になっていて、苦笑いするしかないタテーシを横目にうろたえる担当者の人はすぐに管理部門に電話をかけて問いただし、その流れで家賃がその場でちょっと値引きされたのだった。それも決め手になり、じゃあなんとかウッドカーペットでも敷いて対応するかと腹をくくり、その場で契約を決意した次第であった。

(さらに言うと、この賃貸会社に出向く数日前に、この本命物件には仕事帰りのついでに立ち寄って、夕刻時の周辺の状況や駐輪場の雰囲気などを事前にチェックしておくのも、私のなかでは物件探しの基本ルーティンのひとつである。担当者の打ち出したプリントアウト1枚でなびくような決意でここには来ていないのであった)

そんなわけで、7年ぶりぐらいとなる引っ越しを、コロナ禍におけるある種の娯楽のような気持ちで楽しんでいる部分がある。古くて不要なものを見定めて一気に捨てまくり、あらゆる記憶もそのまま消えてしまいそうな勢いである。コロナ状況下での不毛でつらい日々が続いていたとしても、なんだかそういう気持ちも置いていって、新しい街での暮らしにのぞめるような感じがしている。

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2022.06.30

竹馬のブームが来ないだろうか

このあいだ、たまたま訪れた場所に、竹馬がたくさん保管されていた。

最後に竹馬をしたのを確実に覚えているのは小学校5年生ぐらいの頃の体育の授業で、当時から運動神経は鈍かったが、どういうわけか竹馬はわりとすぐ乗れて、楽しかった記憶があった。

なので私はそこにあった竹馬のなかでもっとも足場が低いものを選んで、ほんの少し乗ってみた。
35年ぶりぐらいだ。
最初はちょっと苦労したが、やがてすぐに歩いたり、しばらくバランスを取って静止できるようになった。
「おおっ! 乗れる、乗れている!」・・・単に長い棒をつかんで、狭い足場に体重をのせてバランスを取っているだけなのだが、人間から他の違う生き物になったかのような、大げさだけれども「非日常」な瞬間がとっても楽しかったのである。

そもそも我々が子どもの頃に、すでに竹馬で遊ぶという文化はなかったと思う(だから体育の授業ぐらいでしか味わうことはなかった)。
さっきネットで調べてみたら、まだ竹馬は売られているようで少しは安心したが、そもそも令和はもとより平成のほとんどの期間、街中で子どもが竹馬に乗って遊んでいる光景というのを私は見たことがない。

もったいない。

充電もWi-Fiもガソリンも電気も不要で楽しめるエコな遊びであり、それでいて自分以外の何かになれるメタモルフォーゼ感覚を気軽に味わえる装置としての竹馬。

さらにネットで調べたら、「体幹を鍛えるのに適している」という記事があり(こちら)、それならもっと各種スポーツの部活動のトレーニングとかで竹馬を導入してもいいはずだ。竹馬で鬼ごっことかやってみたら楽しいはず。

そういう調子で、つい自宅にもマイ竹馬を買ってしまいたくなるが、クルマやバイクと違って「ちょっと近所を竹馬でツーリングしてくる」なんてことはこの現代社会ではなかなか難しい気もしてきて、すんなりと「よし、買うぞ!」とはならない。
たとえば、せいぜいアウトドア趣味の流れで、キャンプ場で竹馬に乗ってみるとかはありえるだろう。でも残念ながら竹馬を持ち運んで遠出することは難しいし、「折りたたみ竹馬」があったとしても耐久性の面で商品化もされてなさそう(まして大人の体重がかかれば、なおさら危険だ)。

逆にそこにチャンスを見出して、「携帯できる竹馬」とかを開発してもいいのかもしれない。モンベルとか作らないかな。

これを書きながらさらに妄想は広がっていくのだが、たとえばたくさんの人が沿道に集まる何かのパレード行進を見にいくような時とか、ロックフェスの会場とかで、人混みのなかで高さのアドバンテージを得るべく竹馬で参加するのはどうなんだろう。周囲の人にとってはひたすらジャマな人なんだろうけど、そもそも竹馬を準備してこないほうが悪いので、私は竹馬に乗り、かつ持ち手の棒のところにカメラとかをマウントして有利な位置でベストショットを撮ることだってできる。「あぁ、竹馬があればこういうときに有利だ」となり、そのうちオシャレ竹馬とかが出てきて、多くの人が竹馬に乗りながら音楽に合わせて踊る光景がブームになっていったりしないだろうか。
まぁ、突然バランスを崩してコケる場合もあるからただひたすらに迷惑極まりないヒトなのであるが。
でも電動キックボードみたいなのが普及しつつある昨今の状況を思うと、竹馬ぐらい街中でフラフラ歩いていたっていいではないか。

本当なら東京五輪も公開競技制度を復活させて新たに「竹馬」をスポーツとしてプッシュすべきだったのだ。マラソンなみにハイスピードな竹馬の競争。もしくはスケボーのようなトリック・プレイを駆使する採点系の競技とか。沿道の観客も竹馬に乗って駆けつけてみたり。

うぅむ、書きながらどんどん妄想が膨らむ。
普通にどこかで気軽に竹馬に乗りたい。そういう場所ないかな。

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